- 君の色 -
*** Miss Spring ***
アキ達の後ろに付いて、あの丘に向かう小道を歩いた。懐かしいな。毎日ドキドキしながら、ここに来てたな。先に来てカンバスを構えて、澄んだ景色に向かっているアキの後ろ姿が、好きだったな。
先頭のアキが最初に着いて、私たちの方を振り向いた。
「ここが、僕がモネの丘と呼んでた場所だよ……」
そうか、アキはここを「モネの丘」って呼んでたのか。そういえば入部当初のアキは、よく部室でモネの画集を見ていた気がする。
丘は、アキと過ごしたあの頃と変わらず、綺麗な景色と空気で溢れていた。立ちつくす三人の横で、私もしばらく風景に見とれた。
やがて春ちゃんに促され、アキがカンバスを設置した。春ちゃんがそれを見て、かつて私が立っていた場所で、絵の中の私と同じポーズで佇む。誰か別の人の目を通して、高校の部活時間の私たちを、見ているみたいだ。
愛しさと寂しさが、体中に溢れていたあの頃。目の前のアキに想いを伝えたくて、でも言えなかった。怖かったし、いずれ転校してしまう私は、言っちゃいけないのかもしれないとも、思っていた。
ゆっくりと歩いて、丘の上に佇む春ちゃんと同じ位置に立って、春ちゃんと同じ姿勢になって、アキを見つめる。
私のレイヤーは、生命体へのコンタクトは無効化される。きなこが前に聞かせてくれたことだ。目を閉じなくてもすり抜ける。今私は、春ちゃんとぴったりくっついている。こうしてみると、身長も、体型も、ホントに一緒なんだってことが分かる。髪の長さと、着ている服が違うくらいだ。
呼吸を合わせて、視線を合わせていると、心臓の鼓動が結び付いて、心や意思みたいなものが溶け合って、自分が鈴村ハルなのか、宮里春なのか、その境界がぼんやりとしてきて、今が高校の部活時間なのか、悲しい運命を経た未来なのか、それさえも、分からなくなりそう。
アキが、思い出の中と同じ真剣な表情で、私を描いてくれている。心が、懐かしさと切なさと愛しさで満たされる。
春ちゃんの、アキへの想いが、優しい体温を通して伝わってくる。あなたと、共に前に歩いて行きたい。大切な人を失ったあなたの痛みが、私は分かる。あなたを、幸せにしてあげたい。一緒に、幸せになっていきたい。
彼女の優しさと、二人分のアキへの想いが心に溢れて、涙がひとつ零れた。
ありがとう、春ちゃん。ありがとう。きっとあなたなら、アキと歩いて行けるよ。私の分も、幸せになってね。
彼女から離れて、校舎の壁に背中を預けている千夏の隣に立って、一緒に二人を見つめた。
「ね、千夏。あの二人、お似合いだよね。きっと、幸せになるよね」
そう言ったら、千夏は視線を二人に向けたまま、少しだけ微笑んだ。
*** Mr. Autumn ***
春が疲れたと言うので、休憩することにした。コンビニで買ったサンドイッチを取り出して、咀嚼する。何も知らずに連れて来られた藤岡に、春が自分の昼食を分け与えている。
「ところで、そろそろ教えてくれない? なんで、その絵を仕上げようとしているのか」
「ああごめん、そうだったな……」
僕と春は、ハルの夢だった展覧会を開こうとしていることを藤岡に教えた。ハルを知らない人にハルを紹介するため、僕の絵を完成させようとしていることも。春のおじいさんが経営する海辺の喫茶店で行うことも。歌手を目指している春の歌を披露することも。その歌を、僕が作詞したことも。
「それ、すごく素敵……。私も行く。絶対行く! 後で場所教えてね」
「もちろんだよ! 藤岡さんは、ハルちゃんの友達だったんでしょ。ハルちゃんも喜ぶと思う!」
「うん、うん。そうだ、私の他の友達にも声かけてみるよ。同窓生で連絡取り合ってる子が何人かいるの」
女子二人は、スマホを取り出してお互いの連絡先を交換していた。思わぬ所で営業が出来たな。
一息ついた後、絵を再開した。
冬の終わりの澄んだ空気の中、透明な空を背景に静かに佇む春の美しさに、心が震える。いつか、春を主役にして絵を描きたいと、思った。
集中して描いていると、後ろで様子を見ていた藤岡が僕の横にしゃがんで、小さな声で話した。
「宮里さんて、すごくいい子だね。あの子になら、アキくんを任せてもいいかな、なんて思えるよ」
「……お前はいつ僕の保護者になったんだ?」
「ふふふっ。アキくんも、そんな冗談が言えるくらい、前に歩き出せているみたいで、安心したよ」
「なんだ、心配していたみたいな口ぶりだな」
「そりゃあ心配してたよぉ。ずっと休んでたアキくんが登校するようになったと思ったら、別人みたいに暗く鋭くなっちゃったんだから。クラスの皆も心配してたんだよ」
「……あの頃は、一番辛かったから」
「うん……。だから今は、私もなんだか嬉しいよ。アキくんが笑ってたほうが、ハルちゃんも嬉しいと思うから」
僕が笑っていた方が、ハルも嬉しい……。かつての保健室でも同じようなことを、彼女に言われた気がする。実際は、残された者たちの願望でしかないんだろうが、結局、全てはそこに帰結するんだろうか。春が言った「解放する」ということも、そういうことなんだろう。僕の隣で春を眺めて微笑む同窓生には、初めから分かっていたのかもしれない。
「藤岡……、そこにいる春とも、友達になってやってくれないか」
「もちろん、そのつもりだよ」
ずっと同じ姿勢でこちらを伺っていた春が、口を尖らせて不満そうな顔をした。
「さっきから私に内緒で何を話しているのさー。妬いちゃうぞー」
「ふふふっ、宮里さんに、アキくんを任せるって話だよ」
「えっ? お、おお、任せておけ!」
藤岡はぴょんと立ち上がると、大きく伸びをしてから言った。
「じゃあ、私はそろそろ行くね。展覧会、楽しみにしてるからね。絶対連絡してね」
「えぇ、もう行っちゃうの?」
「うん、今日は宮里さんに会えて良かったよ。アキくんも、元気でね」
「ああ、なんか無理に連れてきて悪かったね」
「いいのいいの。すごく有意義な時間だったよ」
僕と春は、藤岡を校門まで送ると、再びモネの丘に戻った。
「二人きりになっちゃった。なんだか緊張するね」
春はそう言って笑うと、ゆっくりと桜の木に向かい、遠くの景色を眺めたまま幹に軽く片手を触れた。秋の日の、寂しげなハルと同じ姿勢で。このシーンは話していないのに、どうして一致するんだろう。ハルが触れた桜の木に揺れる、僕の心に映った満開の花が思い出される。
「この木……、秋の絵にも描いてあるけど、桜だよね」
「そうだよ」
「満開だったら綺麗なんだろうねぇ。ここは景色もいいし」
「……僕もそう思うんだけど、まだそいつが満開になった所を見たことがないんだ」
「え、そうなの?」
「この場所を見つけた時はもうピークを過ぎていたし、その年にハルが死んでから……、ここには一切来なくなったし」
「そっか……」
春は少し寂しげな声を出し、暫くの沈黙が流れた。春は何を思っているんだろう。
「秋にこんなに想われてるハルちゃんは……、幸せ者だね」
ハルが、幸せ?
ハルが死んでから、かわいそうとか、申し訳ないという気持ちばかりがハルと関連付いていたけど、ハルは……幸せなんだろうか。
「ねえ、秋。ここで、ハルちゃんとどんな話をしたの?」
「え、それ……聞きたいか?」
「うーん、やっぱりやめとく」
春は笑いながら振り向いた。
「じゃ、続ける?」
「そうだな」
短く深呼吸をして、描きかけのハルの絵の上に、春の色を重ねた。
*** Miss Spring ***
アキ達の後ろに付いて、あの丘に向かう小道を歩いた。懐かしいな。毎日ドキドキしながら、ここに来てたな。先に来てカンバスを構えて、澄んだ景色に向かっているアキの後ろ姿が、好きだったな。
先頭のアキが最初に着いて、私たちの方を振り向いた。
「ここが、僕がモネの丘と呼んでた場所だよ……」
そうか、アキはここを「モネの丘」って呼んでたのか。そういえば入部当初のアキは、よく部室でモネの画集を見ていた気がする。
丘は、アキと過ごしたあの頃と変わらず、綺麗な景色と空気で溢れていた。立ちつくす三人の横で、私もしばらく風景に見とれた。
やがて春ちゃんに促され、アキがカンバスを設置した。春ちゃんがそれを見て、かつて私が立っていた場所で、絵の中の私と同じポーズで佇む。誰か別の人の目を通して、高校の部活時間の私たちを、見ているみたいだ。
愛しさと寂しさが、体中に溢れていたあの頃。目の前のアキに想いを伝えたくて、でも言えなかった。怖かったし、いずれ転校してしまう私は、言っちゃいけないのかもしれないとも、思っていた。
ゆっくりと歩いて、丘の上に佇む春ちゃんと同じ位置に立って、春ちゃんと同じ姿勢になって、アキを見つめる。
私のレイヤーは、生命体へのコンタクトは無効化される。きなこが前に聞かせてくれたことだ。目を閉じなくてもすり抜ける。今私は、春ちゃんとぴったりくっついている。こうしてみると、身長も、体型も、ホントに一緒なんだってことが分かる。髪の長さと、着ている服が違うくらいだ。
呼吸を合わせて、視線を合わせていると、心臓の鼓動が結び付いて、心や意思みたいなものが溶け合って、自分が鈴村ハルなのか、宮里春なのか、その境界がぼんやりとしてきて、今が高校の部活時間なのか、悲しい運命を経た未来なのか、それさえも、分からなくなりそう。
アキが、思い出の中と同じ真剣な表情で、私を描いてくれている。心が、懐かしさと切なさと愛しさで満たされる。
春ちゃんの、アキへの想いが、優しい体温を通して伝わってくる。あなたと、共に前に歩いて行きたい。大切な人を失ったあなたの痛みが、私は分かる。あなたを、幸せにしてあげたい。一緒に、幸せになっていきたい。
彼女の優しさと、二人分のアキへの想いが心に溢れて、涙がひとつ零れた。
ありがとう、春ちゃん。ありがとう。きっとあなたなら、アキと歩いて行けるよ。私の分も、幸せになってね。
彼女から離れて、校舎の壁に背中を預けている千夏の隣に立って、一緒に二人を見つめた。
「ね、千夏。あの二人、お似合いだよね。きっと、幸せになるよね」
そう言ったら、千夏は視線を二人に向けたまま、少しだけ微笑んだ。
*** Mr. Autumn ***
春が疲れたと言うので、休憩することにした。コンビニで買ったサンドイッチを取り出して、咀嚼する。何も知らずに連れて来られた藤岡に、春が自分の昼食を分け与えている。
「ところで、そろそろ教えてくれない? なんで、その絵を仕上げようとしているのか」
「ああごめん、そうだったな……」
僕と春は、ハルの夢だった展覧会を開こうとしていることを藤岡に教えた。ハルを知らない人にハルを紹介するため、僕の絵を完成させようとしていることも。春のおじいさんが経営する海辺の喫茶店で行うことも。歌手を目指している春の歌を披露することも。その歌を、僕が作詞したことも。
「それ、すごく素敵……。私も行く。絶対行く! 後で場所教えてね」
「もちろんだよ! 藤岡さんは、ハルちゃんの友達だったんでしょ。ハルちゃんも喜ぶと思う!」
「うん、うん。そうだ、私の他の友達にも声かけてみるよ。同窓生で連絡取り合ってる子が何人かいるの」
女子二人は、スマホを取り出してお互いの連絡先を交換していた。思わぬ所で営業が出来たな。
一息ついた後、絵を再開した。
冬の終わりの澄んだ空気の中、透明な空を背景に静かに佇む春の美しさに、心が震える。いつか、春を主役にして絵を描きたいと、思った。
集中して描いていると、後ろで様子を見ていた藤岡が僕の横にしゃがんで、小さな声で話した。
「宮里さんて、すごくいい子だね。あの子になら、アキくんを任せてもいいかな、なんて思えるよ」
「……お前はいつ僕の保護者になったんだ?」
「ふふふっ。アキくんも、そんな冗談が言えるくらい、前に歩き出せているみたいで、安心したよ」
「なんだ、心配していたみたいな口ぶりだな」
「そりゃあ心配してたよぉ。ずっと休んでたアキくんが登校するようになったと思ったら、別人みたいに暗く鋭くなっちゃったんだから。クラスの皆も心配してたんだよ」
「……あの頃は、一番辛かったから」
「うん……。だから今は、私もなんだか嬉しいよ。アキくんが笑ってたほうが、ハルちゃんも嬉しいと思うから」
僕が笑っていた方が、ハルも嬉しい……。かつての保健室でも同じようなことを、彼女に言われた気がする。実際は、残された者たちの願望でしかないんだろうが、結局、全てはそこに帰結するんだろうか。春が言った「解放する」ということも、そういうことなんだろう。僕の隣で春を眺めて微笑む同窓生には、初めから分かっていたのかもしれない。
「藤岡……、そこにいる春とも、友達になってやってくれないか」
「もちろん、そのつもりだよ」
ずっと同じ姿勢でこちらを伺っていた春が、口を尖らせて不満そうな顔をした。
「さっきから私に内緒で何を話しているのさー。妬いちゃうぞー」
「ふふふっ、宮里さんに、アキくんを任せるって話だよ」
「えっ? お、おお、任せておけ!」
藤岡はぴょんと立ち上がると、大きく伸びをしてから言った。
「じゃあ、私はそろそろ行くね。展覧会、楽しみにしてるからね。絶対連絡してね」
「えぇ、もう行っちゃうの?」
「うん、今日は宮里さんに会えて良かったよ。アキくんも、元気でね」
「ああ、なんか無理に連れてきて悪かったね」
「いいのいいの。すごく有意義な時間だったよ」
僕と春は、藤岡を校門まで送ると、再びモネの丘に戻った。
「二人きりになっちゃった。なんだか緊張するね」
春はそう言って笑うと、ゆっくりと桜の木に向かい、遠くの景色を眺めたまま幹に軽く片手を触れた。秋の日の、寂しげなハルと同じ姿勢で。このシーンは話していないのに、どうして一致するんだろう。ハルが触れた桜の木に揺れる、僕の心に映った満開の花が思い出される。
「この木……、秋の絵にも描いてあるけど、桜だよね」
「そうだよ」
「満開だったら綺麗なんだろうねぇ。ここは景色もいいし」
「……僕もそう思うんだけど、まだそいつが満開になった所を見たことがないんだ」
「え、そうなの?」
「この場所を見つけた時はもうピークを過ぎていたし、その年にハルが死んでから……、ここには一切来なくなったし」
「そっか……」
春は少し寂しげな声を出し、暫くの沈黙が流れた。春は何を思っているんだろう。
「秋にこんなに想われてるハルちゃんは……、幸せ者だね」
ハルが、幸せ?
ハルが死んでから、かわいそうとか、申し訳ないという気持ちばかりがハルと関連付いていたけど、ハルは……幸せなんだろうか。
「ねえ、秋。ここで、ハルちゃんとどんな話をしたの?」
「え、それ……聞きたいか?」
「うーん、やっぱりやめとく」
春は笑いながら振り向いた。
「じゃ、続ける?」
「そうだな」
短く深呼吸をして、描きかけのハルの絵の上に、春の色を重ねた。