- 故郷へ -
*** Mr. Autumn ***
次の週は、作詞活動に明け暮れた。ハルの夢だった展覧会で、春の夢の第一歩となる歌に乗せる大切な、大切な言葉を紡いだ。
僕はハルを忘れない。みんな、失った大切な人を忘れない。忘れないけど、過去に縛られるんじゃなく、後悔に飲み込まれるのでもなく、共に、前に歩いて行く。
想い出は、時に甘く苦しく輝いて、過去から心を掴むけど、前を向くというのは、たぶん、切り捨てることではないんだ。過去も、後悔も、思い出も、苦しくて、胸が痛くて、涙が零れるけど、何度も撫でて反芻して、愛しいものにすればいい。それが出来た時、僕は、僕たちは、力強く前に向かう一歩を、踏み出せるのだろう。
世界を覆う悲しみは、涙で出来た海は、とても深く、暗いけど、その底にはいつも、小さく輝くマイナスがあるんだ。辛くても、目を凝らして、瞬くそれを見逃さないようにして、そっと掴み取ろう。そうすれば、悲しみの海から抜け出した時、そのマイナスは、無限のプラスに変換できる。そんな力を、きっと僕たちは持っている。
土曜日、僕はまたあの海辺に向かった。完成した歌詞を書いた紙を持って、イヤホンには春の美しいハミングを流しながら。
春は、また僕より先に階段に座っていた。歌詞が完成したことを告げ、読んでもらうと、彼女はしばらく真剣に紙に目を通し、何度もうなずきながら涙を流してくれた。
「うん……。うん……。すごくいいよ……」
読み終わり、紙を僕に返した後、彼女は両手で顔を覆った。
「うう……、お父さん……。お母さぁん……!」
春も、ずっと胸に哀しみを抱えていたんだろう。前に僕がしたように、しばらく声をあげて泣いていた。僕は、前に彼女がしてくれたように、静かに傍に、寄り添っていた。
『cafe cerisier』には、今日もコーヒーのいい香りが漂っていた。
春が落ち着いた後、僕たちはまたおじいさんの喫茶店に移動し、作戦会議を開いていた。春は僕のノートを占拠して、店のレイアウト案を描き込んでいた。
「よし、店内のレイアウトはこんなもんかなー。ところで秋、肝心のハルちゃんの絵は何枚あるの?」
「先週数えてみたら、二十七枚だったよ。だから、予定通り店の壁に飾るので足りそうだな」
「そうだね。……うん、だんだん見えてきたじゃないか。ハルちゃんの夢だった展覧会が」
「うん……。見えてきたな」
「そうそう、この前思ったんだけどさ、みんなにハルちゃんを覚えてもらうなら、ハルちゃんの顔とか、見た目も分かるものがあるといいと思うんだ。秋、写真とか持ってない?」
ハルの顔、見た目……。僕は今でも鮮明に思い出せるが、面識のない人には確かにそれは効果的……いや、必須の情報だ。でも……
「写真は……持ってない」
「そっか……。残念」
「いや、でも……あれがある。でもあれは……」
「ん? あれってなあに?」
「僕が描いてた、ハルの絵だ……」
「そういえば、言ってたね。秋の日に、描いた絵。それいいじゃん! すごく素敵!」
「でも未完成だし……。上手くもないし……」
「未完成なら、完成させればいいよ! ハルちゃんとの約束だったんでしょ」
(じゃあさ、私が個展を開いて、その時までアキが絵を描いていたら、アキの絵も飾ってあげるよ)
(絵はね、腕じゃないんだよ。心だよ!)
ハルの言葉と、当時の風景がフラッシュバックした。
初夏の夕焼け。ハルとの約束。溢れるほど、彼女に向かっていた想い。
いつの間にか悲しい顔をしていたんだろうか、春が心配そうな顔で謝った。
「あ……、ごめん、つらかった……?」
あの時は、もう戻らない。もう戻らないけど、後ろを向いてばかりもいられない。ようやくそれに気付けたんだ。今は、前を向け。慌てて両手で頬を叩く。
「いや、大丈夫だ。いいアイディアだな。ハルとの約束も果たせる」
「うん……。でも、無理はしないでね」
「大丈夫だって。それにしても、また僕の宿題が増えたな」
その日は、春は歌の練習、僕は絵の制作に取り掛かるため、早めに切り上げた。外はもう、冬の気配を漂わせていた。
その後も、土曜日はおじいさんの喫茶店に集まり、作戦会議を開いた。会議と言っても、大枠は決まっていたため、くだらない雑談で一日が終わったりすることもあった。宣伝用のチラシを作ったり、春の歌の練習を聞きながら、スピーチの文面を考えたりもしていた。
大学は、短かった冬休みが終わり、年度末試験を無事に完了し、長い長い春休みに入っていた。驚くことに、僕の大学は二月の初めから三月の終わりまで春季休暇だった。ありがたいことだが、やる気がないんだろうか。
第一回作戦会議からもう二か月近く経つのに、未完成のハルの絵は、まだ描き上げられていなかった。一人、部屋で絵と向き合い、ハルを思い浮かべていると、どうしようもなく涙が零れ、筆を動かせなかった。心では、乗り越えられたつもりでいたのに、まだ僕は、こんなにも弱かったのかと、驚いてもいた。
桜の季節まで、あと二か月くらいだろうか。さすがに焦った。ダメもとで、春にLINEを送ってみた。
【Aki】
一人じゃ、ハルの絵が描けない
僕と一緒に、モネの丘に行ってくれないか
臨時モデルになってほしい
きっと断られるだろうな。前好きだった女の子の絵のモデルに、他の女の子を起用するなんて、失礼千万だと自分でも思う。断られたら全力で謝ろう。
【Haru Miyazato】
え、それって新手のプロポーズ?
って冗談は置いておいて、楽しそう!
私でよければ行きたいな!
詳細プリーズ!
春はいつも、僕の予想を軽々と越えていく。
*
一週間後の土曜日、僕は早朝の電車の中にいた。春と共に、僕の故郷に向かう電車に。
「えへへっ、なんか旅行みたいだね。いや、旅行かこれは。あの海以外で秋と会うの初めてだから、なんだか新鮮だよー」
「ほんっと、ごめん。こんなことに付き合わせちゃって。何か必ずお礼はするよ」
「いいんだって、楽しいんだから。秋の故郷を見てみたいし。まあ、どうしてもお礼をしたいって言うなら、受け取ってやらんこともないがね。ふふっ」
春の明るさにはいつも救われる。後で何か素敵なお礼を考えよう。
「モネの丘って、高校の中にあるんでしょ。駅からはどれくらいかかるの?」
「歩いて二十分てところだな。行きは上り坂だから疲れるかもしれないけど、すまんが頑張ってくれ」
「うん、それはいいんだけど、私たちが敷地に入っても大丈夫なの? 関係者以外立ち入り禁止で、警備員さんとかに捕まらないかな」
「一応僕はOBだし、関係者と言えるだろう。恩師に挨拶に来たとでも言えばいいさ」
「うーん、じゃあその時の対応は任せるよ」
春と待ち合わせて電車に乗ってから、到着まで約一時間かかった。僕にとってはいつもの海よりも近いが、春は余計遠いので、春を無事に帰すのに余裕を持って三時間半……。泊まりなんて有り得ないので、タイムリミットはだいたい十八時。あまり悠長にはしていられないな。
駅を出ると、僕は折り畳みのイスとイーゼル、未完成の絵を担いで、春を連れて高校への道を歩いた。実は正月にも実家には帰っていないから、地元に来るのはほぼ一年ぶりだ。懐かしい……。が、今は懐かしんでいる時間はない。
「ねえねえ、お昼ご飯はどうする?」
「うーん、あまり時間がないから、コンビニでサンドイッチでも買って、描きながら食べる……でもいいか?」
「えー、ちょっと寂しいけど、仕方ないかぁ」
うう、ごめん春……。今度別の機会にご馳走します。
「秋の実家には、挨拶に行かなくていいの?」
「そんな暇はないな」
「まったくー、男の子は薄情だなぁ。あ、ところでさぁ……」
「なんだ?」
「秋の地元ってことは、ハルちゃんの地元でもあるんだよね。ハルちゃんを知ってる人が私を見たら、びっくりさせちゃわないかなぁ」
思わず足を止めてしまった。迂闊だった。まったくもってその通りだ。
付き合っていた……と勘違いされていた彼女が死んで、卒業まで廃人のようになっていた男が、三年後にその彼女と瓜二つな女の子を連れて歩いている……。それは、僕を知っている人から見たら、どう映るだろう。幸いここまでは誰とも会わずに済んだが、これからも幸運が続くとは限らない。
そんな事を考えていると――
「あれっ、もしかしてアキくん?」
背後から、女性の声がした。
*** Mr. Autumn ***
次の週は、作詞活動に明け暮れた。ハルの夢だった展覧会で、春の夢の第一歩となる歌に乗せる大切な、大切な言葉を紡いだ。
僕はハルを忘れない。みんな、失った大切な人を忘れない。忘れないけど、過去に縛られるんじゃなく、後悔に飲み込まれるのでもなく、共に、前に歩いて行く。
想い出は、時に甘く苦しく輝いて、過去から心を掴むけど、前を向くというのは、たぶん、切り捨てることではないんだ。過去も、後悔も、思い出も、苦しくて、胸が痛くて、涙が零れるけど、何度も撫でて反芻して、愛しいものにすればいい。それが出来た時、僕は、僕たちは、力強く前に向かう一歩を、踏み出せるのだろう。
世界を覆う悲しみは、涙で出来た海は、とても深く、暗いけど、その底にはいつも、小さく輝くマイナスがあるんだ。辛くても、目を凝らして、瞬くそれを見逃さないようにして、そっと掴み取ろう。そうすれば、悲しみの海から抜け出した時、そのマイナスは、無限のプラスに変換できる。そんな力を、きっと僕たちは持っている。
土曜日、僕はまたあの海辺に向かった。完成した歌詞を書いた紙を持って、イヤホンには春の美しいハミングを流しながら。
春は、また僕より先に階段に座っていた。歌詞が完成したことを告げ、読んでもらうと、彼女はしばらく真剣に紙に目を通し、何度もうなずきながら涙を流してくれた。
「うん……。うん……。すごくいいよ……」
読み終わり、紙を僕に返した後、彼女は両手で顔を覆った。
「うう……、お父さん……。お母さぁん……!」
春も、ずっと胸に哀しみを抱えていたんだろう。前に僕がしたように、しばらく声をあげて泣いていた。僕は、前に彼女がしてくれたように、静かに傍に、寄り添っていた。
『cafe cerisier』には、今日もコーヒーのいい香りが漂っていた。
春が落ち着いた後、僕たちはまたおじいさんの喫茶店に移動し、作戦会議を開いていた。春は僕のノートを占拠して、店のレイアウト案を描き込んでいた。
「よし、店内のレイアウトはこんなもんかなー。ところで秋、肝心のハルちゃんの絵は何枚あるの?」
「先週数えてみたら、二十七枚だったよ。だから、予定通り店の壁に飾るので足りそうだな」
「そうだね。……うん、だんだん見えてきたじゃないか。ハルちゃんの夢だった展覧会が」
「うん……。見えてきたな」
「そうそう、この前思ったんだけどさ、みんなにハルちゃんを覚えてもらうなら、ハルちゃんの顔とか、見た目も分かるものがあるといいと思うんだ。秋、写真とか持ってない?」
ハルの顔、見た目……。僕は今でも鮮明に思い出せるが、面識のない人には確かにそれは効果的……いや、必須の情報だ。でも……
「写真は……持ってない」
「そっか……。残念」
「いや、でも……あれがある。でもあれは……」
「ん? あれってなあに?」
「僕が描いてた、ハルの絵だ……」
「そういえば、言ってたね。秋の日に、描いた絵。それいいじゃん! すごく素敵!」
「でも未完成だし……。上手くもないし……」
「未完成なら、完成させればいいよ! ハルちゃんとの約束だったんでしょ」
(じゃあさ、私が個展を開いて、その時までアキが絵を描いていたら、アキの絵も飾ってあげるよ)
(絵はね、腕じゃないんだよ。心だよ!)
ハルの言葉と、当時の風景がフラッシュバックした。
初夏の夕焼け。ハルとの約束。溢れるほど、彼女に向かっていた想い。
いつの間にか悲しい顔をしていたんだろうか、春が心配そうな顔で謝った。
「あ……、ごめん、つらかった……?」
あの時は、もう戻らない。もう戻らないけど、後ろを向いてばかりもいられない。ようやくそれに気付けたんだ。今は、前を向け。慌てて両手で頬を叩く。
「いや、大丈夫だ。いいアイディアだな。ハルとの約束も果たせる」
「うん……。でも、無理はしないでね」
「大丈夫だって。それにしても、また僕の宿題が増えたな」
その日は、春は歌の練習、僕は絵の制作に取り掛かるため、早めに切り上げた。外はもう、冬の気配を漂わせていた。
その後も、土曜日はおじいさんの喫茶店に集まり、作戦会議を開いた。会議と言っても、大枠は決まっていたため、くだらない雑談で一日が終わったりすることもあった。宣伝用のチラシを作ったり、春の歌の練習を聞きながら、スピーチの文面を考えたりもしていた。
大学は、短かった冬休みが終わり、年度末試験を無事に完了し、長い長い春休みに入っていた。驚くことに、僕の大学は二月の初めから三月の終わりまで春季休暇だった。ありがたいことだが、やる気がないんだろうか。
第一回作戦会議からもう二か月近く経つのに、未完成のハルの絵は、まだ描き上げられていなかった。一人、部屋で絵と向き合い、ハルを思い浮かべていると、どうしようもなく涙が零れ、筆を動かせなかった。心では、乗り越えられたつもりでいたのに、まだ僕は、こんなにも弱かったのかと、驚いてもいた。
桜の季節まで、あと二か月くらいだろうか。さすがに焦った。ダメもとで、春にLINEを送ってみた。
【Aki】
一人じゃ、ハルの絵が描けない
僕と一緒に、モネの丘に行ってくれないか
臨時モデルになってほしい
きっと断られるだろうな。前好きだった女の子の絵のモデルに、他の女の子を起用するなんて、失礼千万だと自分でも思う。断られたら全力で謝ろう。
【Haru Miyazato】
え、それって新手のプロポーズ?
って冗談は置いておいて、楽しそう!
私でよければ行きたいな!
詳細プリーズ!
春はいつも、僕の予想を軽々と越えていく。
*
一週間後の土曜日、僕は早朝の電車の中にいた。春と共に、僕の故郷に向かう電車に。
「えへへっ、なんか旅行みたいだね。いや、旅行かこれは。あの海以外で秋と会うの初めてだから、なんだか新鮮だよー」
「ほんっと、ごめん。こんなことに付き合わせちゃって。何か必ずお礼はするよ」
「いいんだって、楽しいんだから。秋の故郷を見てみたいし。まあ、どうしてもお礼をしたいって言うなら、受け取ってやらんこともないがね。ふふっ」
春の明るさにはいつも救われる。後で何か素敵なお礼を考えよう。
「モネの丘って、高校の中にあるんでしょ。駅からはどれくらいかかるの?」
「歩いて二十分てところだな。行きは上り坂だから疲れるかもしれないけど、すまんが頑張ってくれ」
「うん、それはいいんだけど、私たちが敷地に入っても大丈夫なの? 関係者以外立ち入り禁止で、警備員さんとかに捕まらないかな」
「一応僕はOBだし、関係者と言えるだろう。恩師に挨拶に来たとでも言えばいいさ」
「うーん、じゃあその時の対応は任せるよ」
春と待ち合わせて電車に乗ってから、到着まで約一時間かかった。僕にとってはいつもの海よりも近いが、春は余計遠いので、春を無事に帰すのに余裕を持って三時間半……。泊まりなんて有り得ないので、タイムリミットはだいたい十八時。あまり悠長にはしていられないな。
駅を出ると、僕は折り畳みのイスとイーゼル、未完成の絵を担いで、春を連れて高校への道を歩いた。実は正月にも実家には帰っていないから、地元に来るのはほぼ一年ぶりだ。懐かしい……。が、今は懐かしんでいる時間はない。
「ねえねえ、お昼ご飯はどうする?」
「うーん、あまり時間がないから、コンビニでサンドイッチでも買って、描きながら食べる……でもいいか?」
「えー、ちょっと寂しいけど、仕方ないかぁ」
うう、ごめん春……。今度別の機会にご馳走します。
「秋の実家には、挨拶に行かなくていいの?」
「そんな暇はないな」
「まったくー、男の子は薄情だなぁ。あ、ところでさぁ……」
「なんだ?」
「秋の地元ってことは、ハルちゃんの地元でもあるんだよね。ハルちゃんを知ってる人が私を見たら、びっくりさせちゃわないかなぁ」
思わず足を止めてしまった。迂闊だった。まったくもってその通りだ。
付き合っていた……と勘違いされていた彼女が死んで、卒業まで廃人のようになっていた男が、三年後にその彼女と瓜二つな女の子を連れて歩いている……。それは、僕を知っている人から見たら、どう映るだろう。幸いここまでは誰とも会わずに済んだが、これからも幸運が続くとは限らない。
そんな事を考えていると――
「あれっ、もしかしてアキくん?」
背後から、女性の声がした。