春に桜の舞い散るように

- 分かります -


*** Mr. Autumn ***

 ハルが死んでから、僕の涙腺はどうかしてしまったんじゃないかと思うほどよく泣いていたが、それでも貯め込み続けていたのか、涙はなかなか尽きなかった。
 ハルの思い出が、彼女の言葉が、一つずつ心に浮かび、それらの全てが悲しく懐かしく、声を上げて泣いた。ハルの思い出が尽きた後は、春を泣かせたことの後悔と、彼女の優しさに泣いた。
 ようやく落ち着いたのは、太陽が傾いて真っ赤に燃える頃だった。泣き疲れた体と、涙で掠れる目で、ぼんやりと夕焼けを見ていた。春も、左隣で何も言わずにずっと付き合ってくれていた。心は、不思議なほど凪いでいた。ハルがいなくなってから、初めて感じた安息だった。

「寒くなってきたね。うち、行こ。一緒におじいちゃんのコーヒー飲もう」
「……うん」

 僕たちは、ゆっくりと歩いた。

「なあ、僕の目、腫れてないか?」
「うん、腫れてる」

 春が笑いながら答えた。

「うう、恥ずかしいなぁ。おじいさんにどう思われるだろう」
「おじいちゃんは人格者だから大丈夫! 全然気にしなくていいよ」

 彼女はそう言って、木造りの扉を押し開ける。

「おかえり、春。……君も、よく来たね。いらっしゃい」

 今日はおじいさんは店内にいた。細く優しい目で迎えてくれた。

「おじゃま……します」

 扉を閉めると、春がおじいさんに駆け寄って行った。耳元で何かを囁いている。
 今日もお客さんはいないようだ。大丈夫なんだろうかこのお店は。

「そうか、よかったね……」
「うん!」

 春が嬉しそうに笑う。おじいさんも優しく微笑む。何を話したんだろう。
 おじいさんが奥のキッチンに向かい、春はこちらに駆け戻って来た。

「何を話したんだ?」
「ふふっ、ヒミツだよ!」

 僕たちは、前回と同じ席についた。何だか、体中が疲れている。

「ねね。歌詞は考えてくれた?」
「あー……。考えてはいるんだけど、中々いいのが出来なくて。実は今日はそれを考えに海に来たんだけど、すっかり予定が狂ってしまった」
「え、それってもしかして私のせい?」
「そうかもな」
「えー、ひどーい。あんなに尽くしてあげたのに」
「冗談だよ。……ありがとう。今はすごく、心が軽い。体はクタクタだけど」
「そっか。よかった」

 春は少し俯きがちになり、続けた。

「歌詞は、急がなくても全然いいからね。心に留めておいてくれるだけで、それは、私を覚えててくれることに似ていて、私は、嬉しいから」

 空っぽになった心に、春が心地よく沁み渡っていく。
 慌てて頭を振った。危ない。危ない。僕はまだ、ハルを忘れるつもりはないし、この先も絶対に忘れない。心は落ち着いたが、それはずっと変わらない。
 春が少し不満げな顔をするのが視界に写った。

「あ、いや、違うんだ」
「なにがー?」
「約束は、忘れないからな」
「ふーん……」

 春はテーブルに肘を乗せ、両手で頬を包むようにして、僕を眺めている。
 ハルを忘れることも出来ないし、春の優しさに流されるわけにも行かない。僕は、どうしたらいいんだろう。誰か答えを知ってるなら、教えてくれ。

「お待たせ。ゆっくりして行きなさい」

 おじいさんがコーヒーを二つ持ってきた。香ばしく、穏やかな香りに包まれる。しばらく無言で、春と温かいコーヒーを飲んだ。おじいさんは、もう見えなくなっていた。

「なあ、あの曲……、また歌ってくれないか?」

 沈黙が辛かっただけでなく、本心からまた聴きたいと思っていたので、そう提案した。

「うん、いいよ」

 春は微笑んで、席を立つ。BGMを落とし、ピアノに向かい、鍵盤を優しく叩く。その、白く細い指から、薄桃色の花びらが零れるように感じた。
 目を閉じて、春の優しい旋律に聴き入る。この美しいメロディーに乗せる、美しい言葉を、考えよう。今日あれだけ泣いたのに、また暖かい涙が流れる。
 まぶたの裏には、綺麗な桜が舞う、モネの丘の景色が映った。

   春 に 桜 の 舞 い 散 る よ う に

 その言葉だけが、ふと、心に浮かんだ。


 気がつくと、テーブルの上の両手の中に埋もれていた。いつの間にか寝てしまったようだ。背中に毛布がかかっているのが分かる。春の音楽は止んでいた。
 顔を上げたら、向かいの席に春ではなくおじいさんが座っていた。

「うおっ」

 びっくりして、声を上げてしまった。失礼だったろうか。

「おはよう。疲れていたみたいだね」
「い、今、何時ですか?」

 おじいさんは壁にかかった時計を見上げた。

「十八時ちょうどだね」
「よかった、寝てたのは一時間くらいか。あ、でも、そろそろ帰らないと」

 腰を上げて春を探したけど、見当たらない。

「あれ、春はどこです?」
「春は、二階のキッチンで夕飯を作っているよ。是非食べていってあげてくれないか」
「え、でも……」

 僕が言い淀んでいるのを見ると、おじいさんは続けた。

「秋君、少しだけ、私の話を聞いてほしい」

 おじいさんの表情は相変わらず穏やかだったが、その声には微かに真剣さが感じられた。椅子に腰を下ろして、言葉を待った。

「他ならない、春のことだ」

 嫌な予感がした。胸がざわめく。

「……あの子は、三年前に病気で母親を亡くしていてね」
「えっ……」

 そうだったのか。祖父と二人暮らしをしていることから、何となく想像はしていたが、それでもその事実は衝撃だった。それに……三年前……。ハルがいなくなったのと、同じ年だ。

「父親は、春が生まれて間もなく癌で亡くなった。春の母親も……私の娘なんだが……、女手ひとつで春を懸命に育て、愛していたのに、三年前の秋に、同じく癌で倒れた……。私は、娘にも、春にも、何もしてやれなかったのが辛くてね……。何度も、何度も、自分を恨んだよ。あの時、ああしていれば、こうしていれば、とね。実際、私なんかの行動では、娘が病気になる運命を避けることも、病気を癒してやることも、出来るはずないんだがね。それでも娘や、春の、心の傷を、ひとつでも庇ってやるくらいは、出来たんじゃないかと……」

 おじいさんの白い眉毛が、哀しみに震えている。

「そうだったんですか……」
「私は春を守らなくてはならない。今度こそあの子を、幸せにしてあげなくてはならない」

 おじいさんの言いたい事が、何となく分かった気がした。少し、心が重くなる。

「春は最近、よく君の話をするよ。本当に君を好いているようだ。あの子は、病気で衰弱していく両親を見てきたからか、とても気がきく優しい子でね……。辛そうな君を、放っておけないようなんだ」

 僕は何も言えなかった。おじいさんがその先を言うことが、何だか怖い気がして、耳を塞いでしまいたかった。

「君の事情も、ある程度は春から聞いた。君も、何か辛い過去を引きずっているようだね……」

 確かにハルのことは、暗い過去から手を伸ばして僕の心を掴み続けているが、僕の両親は健在だし、今の環境も、幸福と言えるだろう。それに比べ、春は幼くして父を亡くし、二人分の愛をくれていた母とも、三年前に別れた。どれだけ辛いだろう。最も大切な人、両親の衰弱と喪失を、目の前で経験したこと。そんな春を、ひとつでも多くの傷から庇おうとして、何もできない自分を責め、今まで静かに見守ってきたおじいさん。
 世界には、同じような、いや、それ以上の苦しい思いをしている人が、沢山いるんだろう。自分の苦しみなんて、何でもないことのように思えてしまう……。
 いや、いや、違う。そんなことを考えれば、ハルがかわいそうだ。ハルは僕にとって世界よりも大事で、ハルを失ってこの心に空いた穴は、海よりも深く、闇よりも暗い……。

「君が、本当に春を大切に思い、大事にしてくれるなら、私は喜んで君を迎え、春を君に託したいと思っている。しかし、君が過去に縛られ続け、春を疎かにするというなら……、もう、春と会うのは、やめてやってくれないだろうか……」

 おじいさんは右手で顔を覆い、苦しそうな声で続けた。

「すまない……。すまない……。君たちのような若者の関係に、私のような老人が口を出すべきではないのかもしれない……。でも私は、あの子が辛い思いをするのを、もう見たくないんだ。もう、ひとつの傷も、付けさせたくないんだ……」

 泣いているのか、おじいさんの肩は小さく震えている。
 分かります。あなたの言いたいこと。春を大切に思うあなたの気持ち。僕は、鉛を付けられたような重い心で、ようやく声を絞り出すことができた。

「はい……。……分かります……」

 おじいさんは何度も僕に謝りながら、少し外の空気を吸いに行く、春には買い物に行ったと伝えてくれと言い残し、店を出た。
 心が、重い。僕を好いてくれる優しい春を、笑顔にしたい。でも、そう思うと、心の中の大切なハルが悲しい顔をする。ハルを想い続けていては、春を幸せにすることは出来ない。

- 今は楽しくご飯を食べよう -


*** Miss Spring ***

 入口の扉に寄りかかりながら、私もおじいさんの話を聞いていた。
 春ちゃんが、お母さんを亡くしていたのは、なんとなく分かっていた。初めて会った時にお母さんを呼びながら、あの海辺の階段で泣きじゃくっていたから。ちょうど、あの頃だったのだろうか。
 おじいさんが謝りながらお店の外に出て行った。
 アキが、俯いている。おじいさんの言葉を聞いて、思い詰めているんだ。
 アキを縛る過去。それはやっぱり、私なんだろうか。
 アキには、前に歩きだして欲しい。幸せになって欲しいよ。
 私がその妨げになっているのなら、私の事なんて忘れて……
 そう考えたら、急に胸が痛くなった。
 アキが私を忘れる。それは、やっぱり、……いやだ。
 私の存在が、私の過去が、消えてしまいそうで、怖い。私が生きていたという事実が、地球上から消滅してしまうような、そんな恐怖が、じわじわと体を締め付ける。
 私を忘れないで。
 心の中に、ワスレナグサの青い花が浮かんだ。
 昔読んだお話で、こんなのがあった。水難事故で命を落とそうとしているルドルフは、最後の力で恋人のベルタにこの花を投げて、僕を忘れないでと叫んだ。残されたベルタはルドルフの墓前にその花を供えて、ルドルフの最後の言葉を、この青い花に名付けた。
 もし、ルドルフが私みたいに幽霊になって、自分を忘れずに哀しみ続けているベルタを見たら、どう思うだろう。今の私みたいに、どうしようもなくて、悩んで後悔して泣いただろうか。
 どうか、私を忘れないで。でも、私の過去に、縛られないで。
 こんなことを願う私は、わがままなのかな。



*** Mr. Autumn ***

 暫くして、春が両手でトレーを持って階段を降りてきた。オムライスだ。とてもいい匂いがする。

「お待たせー。ふふ、秋、寝ちゃってたね。……あれ、おじいちゃんは?」

 おじいさんからの伝言を伝えると、春は少しきょとんとしたが、すぐに納得してくれた。

「そっか。お店の材料でも切れてたのかな。言ってくれれば私が行くのに」

 そう言いながら、春はテーブルに料理を並べた。

「うちね、家庭用のキッチンは二階にあって、自分達が食べる料理はいつもそこで作ってるの。あ、そうだ、これ言ってなかった。私、料理結構得意なんだよ。食べたら秋、私に惚れちゃうかもなー」

「ははっ、そうか。そりゃ楽しみだな……」

 心の鉛を春に悟られないようにしたつもりだったが、春は気付いたのだろうか、手を止めて一秒、僕を見つめた。……が、何も言わずに作業を続けた。皿が並べ終わると、

「さ、食べよう。おじいちゃんには、後で温めなおして出しておくよ」

 春の料理はとても美味しかった。卵はふわふわで、味付けも丁度よく、どこか懐かしい味がした。サラダも、スープも、非の打ち所がない。でも、彼女の料理が得意な理由が、母親をなくしたことなのかもしれないと思うと、涙が出そうになる。

「美味いね……。こりゃ本当に惚れちゃうな」
「うーん、嬉しいけど……。それ、本心から言ってる?」
「本心だって。こんな可愛くて、料理が上手い女の子が彼女だったり、奥さんになってくれたら、幸せだろうなー」
「……ねえ、もしかして、おじいちゃんに何か言われた?」

 見透かされている。彼女の前では、僕の演技なんて何の意味も為さないようだ。

「ね、おじいちゃん何を言ったの? 秋に何かひどいこと言った?」
「いや、いや、そんなことはない。おじいさんは人格者だよ」
「私に親がいないことを言ったんだね?」

 ギクリとした。それが僕の表情にも現れたのだろう。春は見逃さなかった。

「やっぱり! もーう、あのおじいちゃん、基本はすごく紳士で優しいのに、私のことになると過保護すぎるっていうか、時々余計なお世話を焼くんだよ。あとで怒っておかなきゃ。ごめんね、秋。おじいちゃんが何か変なこと言ったなら、全然気にしなくていいからね」
「でも、おじいさんは春のことが大切で心配で仕方ないんだよ。その気持ちは、すごく分かる……」
「私はもう子供じゃないんだから、自分のことくらい自分で決められるよ。おじいちゃんはそれを分かってないの。いつまでも私を子供扱いして……」
「でも……」
「秋もさ、同情とか憐れみで私を好きになったりしたら、許さないからね。ちゃんと私という人間と向き合って、私を見て、秋の心で、好きになってほしい」
「うん……。それは、もちろんだ……」

 力なく言った僕を見て、春はしばらく考え込んでいたが、やがて大きく息を吐き出して、顔の前で手を叩いた。パン!

「よし、この会話終了! 続きは、来週の海辺で行います!」
「え……、続き?」
「うん。というわけで、今は楽しくご飯を食べよう!」

 春は笑顔でそう言った。オレンジ色の店の照明が彼女を優しく照らして、春風に揺れるガーベラのように煌めいた。その綺麗さに、僕も釣られて笑顔になる。
 僕の心に空いた穴も、そこにいる笑わないハルも、春の秘めた傷も、おじいさんの哀願も、ひとまず隅に置いといて、美味しい食事を素直に楽しめる力を、春の笑顔は持っていた。
 彼女の学校の話や、近所のおしゃべりなおばさんの話、たまに店を訪れる野良猫の話などを聞き、僕は僕で、学校の友人や、面白い教授や、苦労したゼミなどを、とりとめもなく話した。春は僕の話の一つ一つに、笑い、驚き、関心していた。ころころ変わる表情は、見ているだけでも飽きなかった。


 楽しい食事を終えた後、春が駅まで送ってくれた。僕たちは並んでゆっくり歩いたが、途中、あのカーブ地点に差し掛かった時、また胸が痛み始めた。過去が手を伸ばし僕の足を掴む。歩けない。
 春はちらりとこちらを向いた後、小鹿のような軽やかな足取りで前に飛び出し、街灯の下でクルリと僕の方を振り向いて、僕の名を呼んだ。

「秋!」
「……なんだ?」
「今日はいろいろあって聞けなかったけど、来週また来てくれたら、今度は秋の過去の話を教えてね。少しずつでもいいから」
「あ、ああ……」
「私はここにいるからね。ずっと、いるから。何の心配もいらないよ!」

 ありがとう、春。過去が僕の足を掴む手を緩めた。僕はまた、歩き出すことができた。街灯の下で待つ春のもとへ。

   *

 春に桜の舞い散るように。

 春の歌を聴きながら、心に浮かんだその言葉を、僕は温めていた。
 大学の講義中も、部屋に帰ってハルの絵に囲まれている時も、そのフレーズから言葉を広げていくことばかりを考えていた。
 僕はハルを失った。悲しい、辛い。だけど。春は両親を失った。春のおじいさんは娘を失い、大切な孫を哀しませたと悔やんでいる。今は元気な僕の両親だって、いつかは死んでしまう。世界では、今も沢山の大切な人が死に、大切な人を失った沢山の人が、今も泣いているんだろう。世界はどうしようもなく、悲しみに満ち満ちている。
 でも、それだけではないはずだ。世界に悲しみしかないのなら、僕たちはとても生きてはいられない。悲しみを越える何かが、僕たちの心にはあるはずなんだ。それを、言葉にしたい。
 僕の心も、心の中のハルも、寄り添おうとしてくれる春も、優しいおじいさんの傷跡も。全てを救うような言葉を、僕は探さなくては。
 週末まで頭を悩ませ続けたが、二、三個のフレーズを捻り出せただけだった。僕の中のハルは、まだ笑ってはくれない。
 金曜日の夜、春からLINEが来た。


【Haru Miyazato】
明日のこと!
   
一週間お疲れ様!
ようやく週末だね。待ちわびたよ!
明日、海辺の階段で待ってるね。
色々話したいから、絶対来てね!
   
★注意★
なお、このLINEを読んだら三十秒以内に返事を出すこと。
三十秒を超過すると、自動的に爆発します。私が。


 思わず噴き出してしまった。春が爆発したら大変だ。急いで返事を出さなくては。


【Aki】
明日、必ず行きます!
だから爆発しないで!


【Haru Miyazato】
春の爆破装置は解除されました。
明日、待ってます! 楽しみ!


 少しだけ、明るくなった気持ちで、金曜の夜は更けていった。

- 私たちで -


*** Mr. Autumn ***

 土曜日。
 いつもの階段に向かうと、春がもう座っていた。春は僕を見つけて、雪解けのヒナギクのように笑う。

「よく来たね! まあ座りたまえ!」

 春が僕を座らせ、僕の左に春が座る。十一月ももう終盤だというのに、今日は真っ青な空が輝いて、小春日和のような暖かさだ。

「今日は天気もいいしあったかいねー。思わずお洒落にも気合が入っちゃったよ。ふふっ」

 そう言って春は、僕との距離をつめるように座りなおした。肩が当たりそうなほど近くに彼女を感じる。
 今日の春は、全身に女の子らしい格好をしていた。襟元にレースのついたジャケットに、真っ白なセーター。膝上丈のスカートに、意匠の凝ったウェスタンブーツを履いていた。香水を付けているのか、時折桜の甘い香りがする。
 正直、眩暈がするほど可愛い。今が秋であることを忘れるくらい、春の回りには、春陽の優しい空気が流れていた。

「いい香りだね、桜の香水?」
「そうだよ。よく分かったね」
「桜……、好きなの?」
「うん! 私の一番好きな花。だって私、春だもん」

 そう言って僕に笑顔を見せた。心がまた満たされそうになり、慌てて心の中のハルに目を向ける。ハルを忘れるのはダメだ。僕だけでも、ハルを覚え続けていなくては。そうしなければ、ハルが世界に生きていた証が、消えてしまう。
 ハルを思い浮かべていると、先週のおじいさんの話も思い出された。死んだハルを思い続けるか、ハルを忘れて、春と共に生きるか。……ハルを忘れることなんて、生涯できそうにない。こんな僕では、春を幸せにすることは出来ないし、むしろ傷つけてしまうだろう。
 僕は、おじいさんの言う通り、もう春に会うべきでないのかもしれない。心が俄かに曇り出した。あんなに綺麗だった青空まで、濁ってきたような気がする。自分の心の不安定さが、心底嫌になる。
 心の暗雲が僕の表情まで曇らせていたのだろうか、春は笑顔をやめ、しばらく僕を眺めた後、口を開いた。

「さて、今日はね、先週聞けなかった秋の苦しみを話してもらうからね。辛いこと、抱え込んでいること、何でも言って。私に、分かち合わせて。きっと、全部吐き出せば、少しは楽になると思うんだ。言いたくなければ、無理強いはしないけどさ」

 春だって、両親を失って辛いだろうに、どうしてこれ以上僕の重荷を背負おうとするんだろう。僕には、君の優しさに見合うような価値はないのに。
 重い口を開いて、春に伝えた。

「……その前に、言っておきたいことがあるんだ」
「うん……。なに?」
「僕は、ハルを……、昔好きだった女の子を、三年前に亡くなった彼女を、たぶんずっと、忘れる事は出来ない。僕は、忘れちゃいけないんだ。だから春の……君の、君の期待には、答えられないと思う……」

 言ってしまった。言ってから激しい後悔に襲われた。でも、仕方ない。もうこれで、春との関係は終わるだろう。優しい春……。僕を好きだと言ってくれる春……。約束していた歌詞は、完成したらメールで送ろう。

「忘れちゃいけないと思うのは、どうして? 何か理由があるの?」

 落ち着いた声で僕に聞いた。春は意外と冷静だった。泣き出してしまうかと思っていたけど、それは僕の思い上がりだったようだ。

「理由……」

 僕がハルを忘れちゃいけない理由。簡単には、説明できない。それに、簡単な説明で分かってほしくもない。
 どれだけ、ハルと過ごした季節が輝いていたか。ハルを失くした痛みが、どれだけ重かったか。

「彼女は美術部で、絵を描いていたんだけど、自分の絵で個展を出すのが夢だったんだ……」

 ハルの桜色の笑顔を思い出しながら話した。

 僕の隣でいつも桜の絵を描いていたこと。
 彼女の目標、夢。
 絵に託した願い。
 将来の約束。
 夏の夜の流れ星と、後から知った転校の話。
 静かな秋の夕焼けの中、ハルの絵を描いたこと。

 ハルの訃報を聞いた日の衝撃。
 それからの灰色の日々。
 空を飛ぶ夢。
 事故現場を探して、この海に辿りついたこと。
 アパートでは、ハルの絵に囲まれていること。
 心の中のハルが、笑ってくれないこと。

 話しながら、心がヒリヒリと痛むのを感じた。
 春は、時折涙を流しながら、静かに聞いてくれていた。

「うん……。だいたい分かった。話してくれてありがとう」

 全て話し終わると、春は頬の涙を拭って微笑んだ。
 結局、全部話してしまった。両親の死という辛い記憶を秘めた春の優しい心に、必要のない重荷を背負わせてしまった。おじいさんは許してくれないだろう。

「秋の話は全部聞きました。ここで、私からの意見を述べます」

 春は姿勢を少し正した。

「秋は、ハルちゃんを解放してあげないといけません」
「え……?」

 意味が分からない。僕が、ハルを解放だって?

「秋は、秋の心の中にハルちゃんを閉じ込めています。ハルはかわいそうな女の子だ、ハルは僕だけが覚えていなきゃならない、ハルは僕だけのものだ……ってね。まるで牢獄に監禁しているみたい。だから、秋はずっと苦しいし、秋の中のハルちゃんは笑ってくれないんだよ。このままじゃハルちゃんが、ホントにかわいそうだよ」

 少し、イラついた。心に小さな炎が揺れたのを感じた。

「じゃあ、ハルを忘れろって言うのかよ……。ハルの願いは、ハルが生きた証はどうなるんだ!」
「ううん。違うよ。ハルちゃんを忘れる必要なんてないよ」

 春は優しい声のまま続けた。視線はまっすぐ前を、静かな青い海を見据えて。

「ただ、閉じ込めていないで、解放してあげるの。秋だけじゃなく、みんなに、ハルちゃんを覚えていてもらうんだよ」

 ハッとした。視界が急に開けた気がした。炎は燃え上がる暇もなく消えた。
 みんなに、ハルを覚えていてもらう……。

「でも……、そんなの、どうやって……」
「ハルちゃんは絵を描いていた……。ハルちゃんは個展を開くのが夢だった……。ハルちゃんの絵は、ぜんぶ秋の部屋で眠ってる……」

 そう言って、春は僕の方を向く。少し悪戯っぽく微笑んでいる。

「これはもう、やるしかないでしょ」
「やる……? 何を?」

 春はパッと階段を立ち上がり、一段飛ばしで駆け下りると、砂浜の上でクルリと振り向いて、両手をいっぱいに広げた。その両手から、桜の花びらが一面に舞い上がった気がした。春は、満面の笑みで叫ぶ。


「私たちで、ハルちゃんの展覧会を開くんだよ!」


 春を抱く空はどこまでも青く澄んで、爽やかな風が彼女を優しく撫でていた。
 秋の海は穏やかに波を立て、彼女の足元で春を祝福しているようだった。
 どこまでも続く青い空と綺麗な海と、その中で微笑む春。
 その時僕は確かに、輝く永遠と、無限の可能性を感じていた。
 僕の目には知らないうちに、温かい涙が溢れていた。

- 作戦会議 -


*** Miss Spring ***

 私はまた、階段の一番上に座って、二人を眺めていた。
 アキの話を、涙を流しながら聞いていた。アキの中の、私との、思い出。アキの心の中の、笑わない私。それは、私の中のアキとの思い出と、アパートで見る笑わないアキと、一致するような気がした。
 私が人バクレイになった理由は、私がアキに未練や執着を持っていることと、彼が私の魂を縛っていることの、両方なのかもしれない。お互いに縛りあって、いつの間にか複雑に絡み合って、辛くても抜け出せなくなっているのかもしれない。

 アキの話を聞きながら、春ちゃんも泣いてくれていた。
 春ちゃんは優しい子だ。きっと自分も辛いのに、アキの悲しみを分かち合おうとしてくれている。最初の頃、彼女に嫉妬して、アキに近付かせないようにしていた自分が恥ずかしい。私はもう死んじゃってるから、アキを救えるはずないのに、アキは私だけのものだって独占しようとしていた。それが、彼の苦しみを解き放つのを遠ざけているとも気付かずに。

「じゃあ、ハルを忘れろって言うのかよ……。ハルの願いは、ハルが生きた証はどうなるんだ!」

 アキが声を荒げた。私の願い、私が生きた証……
 かつて、高校の裏のあの丘でアキに話した言葉が、その時の風景と一緒に、鮮明に心に浮かんだ。初夏の夕日が天使の梯子になって、私たちの世界に差し込む綺麗な時間だった。

(それにさ、自分の生み出した作品が人の目に触れて、世に残るって、とっても素敵なことだと思うんだ。私がこの時代、この場所に、確かに生きていたんだっていう、証明になるみたいな感じ。誰かがこの絵を観てくれて、私という存在を認識して、覚えててくれる……。ね、素敵だと思わない? だからさ、アキも、ね)

 アキは、私のこの言葉を、ずっと覚えていてくれたんだ。そしてこの言葉が、アキをずっと、縛り続けていたんだ。
 また、涙がぽろぽろと零れてきた。ごめんね、アキ。
 私を忘れないで。その願いが、私の大切な人を苦しめ続けていた。

「これはもう、やるしかないでしょ」
「やる……? 何を?」

 春ちゃんが階段を駆け下りて、砂浜の上で両手を広げた。

「私たちで、ハルちゃんの展覧会を開くんだよ!」

 心臓がドクンと動いた。
 アキに名前を呼ばれた時みたいに、私の鼓動が波紋になって、空間に広がった。
 理解するのに、少し時間がかかった。胸のドキドキが、だんだん早くなってきた。
 私の……展覧会。
 私の夢。
 それを、アキと春ちゃんが開いてくれる。
 それって、それって……なんて素敵!

 春ちゃんが、作戦会議を開こうと言って、アキを民家の方に連れて歩き出した。私も立ち上がって、二人の後から付いて行こうとしたら、後ろから呼び止められた。

「サクラじゃない。また、久しぶりね」
「きなこ! この前はごめんね、私間違ってたよ」
「あら、あなた、また泣いてるのね。何かあったの?」
「うん、うん、色々あったんだけど、でも今は、すごく嬉しいの」
「嬉しいのに、泣いてるの? やっぱり人間って面白いわ」
「うん、そうかも、えへへっ」

 また、きなこに全部話した。アキと春ちゃんが、私の絵の展覧会を開いてくれることも。

「そう、良かったわね。あなたの夢が叶うのね」
「そうなの! ……あ、そろそろ壁がくるかも」

 おじいさんの喫茶店に向かう二人の姿が、小さくなってきた。壁に押されることを覚悟して身構えていたけど、しばらくしても壁は来ない。

「あれ……、変だな。この距離だと壁に押されていてもおかしくないのに」
「もしかしたら、壁の範囲が広がったんじゃないかしら」
「そ、そうなのかな。そういえば前は、狭くなったこともあったんだよ」
「サクラ自身の心と、サクラの魂を縛るアキって子の心の変化に、壁が影響を受けるのかもしれないわね。今のあなた、なんだか晴々とした表情をしているわよ」
「そうかな。今私、すごくウキウキドキドキしてるの。嬉しくて、楽しくて、走り出したいくらいなの。これからね、二人がおじいさんの喫茶店で、展覧会の作戦会議を開いてくれるんだって。きなこも一緒に聞きにいかない?」
「あたしは当日を楽しみにしておくことにさせてもらうわ。これからお昼寝の予定なの」
「そっか。じゃあ、日付が決まったら教えるね」

 きなこはあくびをして階段の上に丸まった。それを見届けてから、私も喫茶店へ走る。



*** Mr. Autumn ***

 海を後にして、僕たちは『cafe cerisier』に向かっていた。
 ハルの展覧会を開くことに向けた作戦会議を行うためだ。春はそれを、「ハルちゃん解放大作戦」と名付けた。安直過ぎる名前だったが、今の僕の心は驚くほど軽かったので、笑って賛同した。春が作戦隊長となり、僕は参謀に任命された。春は終始ご機嫌だった。
 おじいさんと顔を合わせることに、少なからぬ躊躇を感じたが、その事を春に伝えると、

「前言ってたことを気にしてるんだね。それなら大丈夫。おじいちゃんには私から厳しく言っておいたから。私の決めたことに陰で口出ししないで! って」
「でもそれじゃ、おじいさんがちょっとかわいそうだな」
「おじいちゃんは人格者だから大丈夫! ……それにさ、今決める必要なんて、全然ないんだよ。秋が、私を選ぶかどうかなんて。この作戦が成功して、秋も、ハルちゃんも、全部救われたら、その時に考えてくれればいいよ」
「うん……。わかった」

 春の気遣いに、胸が締め付けられる。出来る事なら、僕の手で、君を幸せにしてあげたい。いつか心の中のハルが許してくれたら、この気持ちを伝えよう。
 春が木の扉を押し開けると、おじいさんはいつもの優しい表情で迎えてくれた。

「おかえり、春。秋君も、いらっしゃい」
「おじゃまします」

 軽くお辞儀をし、扉を閉めると、春が駆けだして行っておじいさんに抱きついた。

「おじいちゃん! 私たちね、すごいこと思いついたんだよ。今、ドキドキして、ワクワクしてしょうがないの!」
「ほう、それは良かったね」

 おじいさんは限りなく優しく微笑んで、春の頭を撫でた。それから僕の方を見て、

「秋君、この前は、本当にすまなかった。春に叱られてしまったよ。私は、結論を急ぎすぎたようだね……」
「いえ、そんな……」
「できれば、これからも遊びに来てくれ。その方が、春も喜ぶから」
「はい、もちろんです」

 昼食を作ると言って、おじいさんは二階に上がっていった。そういえばもうお昼を大分過ぎていた。急に空腹が襲いかかる。何か美味しいものを沢山食べたい。自分の中に、今までにないエネルギーを感じる。春が言っていたように、今は僕も、ドキドキして、ワクワクしてしょうがなかった。未来に輝く希望を感じて、今すぐにでも走り出したかった。

 僕たちはいつもの席に座り、春がひとつ咳払いをした後、切り出した。

「それでは、『ハルちゃん解放大作戦』の第一回作戦会議を始める」

 春が真面目な顔で変な作戦名を言うので、吹き出してしまった。

「えー、何で笑うのさー!」
「いや、何でもないよ。続けてくれ、隊長」
「うむ。じゃあまずはー、作戦の概要を整理してみよっか」

 鞄からノートとペンを取り出し、書いてみる。

   ハルの桜の絵の展覧会を開く!
   なるべく沢山の人に観てもらい、ハルを覚えてもらう。

「うーん、まとめてみるとこれだけなんだね」
「そうだな。何かちょっと寂しいし、普通だよな」
「もうちょっと、スパイスを加えられないかな。観てくれた人に、もっと強い印象を残すような……。何かないかね、作戦参謀よ」

 腕を組んで考える。ハルの夢だった、桜の絵の展覧会。ただの個展では終わらせたくない。
 特殊な場所……?

「見晴らしの良い場所……。東京タワーの展望台を借りるとか」
「え、あそこって個人で借りられるの? 借りられるとしても、そんなお金ある?」
「ありません」

 素敵なBGM……?

「うーん、BGMと言っても、感動する程のものなんて思いつかないよね。それに、全然関係ない音楽が絵に勝っちゃったらダメじゃない?」
「たしかに」

 特別ゲスト……?

「秋、有名な知り合いでもいるの?」
「いません」

 だめだ。いい案が浮かばない。空腹のせいだろうか。
 このままでは参謀失格かと思われたその時、おじいさんがトレーを持って階段から降りてきた。部屋に漂う良い匂いが、空腹をより刺激する。

「待たせたね。簡単で悪いけど、昼食にしよう」
「わーい!」

 春が大げさに喜んだ。心の中では、僕もおじいさんに万歳を捧げていた。
 フェットチーネのカルボナーラだ。さすが喫茶店、お洒落な昼食が出る。
 ん? 喫茶店、お洒落な食事。奥で佇むピアノ。僕の中で何かが閃いた。

「そうだ! おじいさん、このお店を貸してくれませんか!」
- まだ、解けない -


*** Mr. Autumn ***

「え! ここでやる気?」
「……?」

 春が驚いた。おじいさんは状況を理解できていないようだ。

「ここなら、お金もかからないし……あ、いや、必要でしたら、払えるだけ払います! ここなら、料理とか、デザートとか、コーヒーとかも出せるだろ。海辺の、木造りの喫茶店。風情があるじゃないか。それに、ピアノもある。春の歌を、展覧会のお客さんに聞かせてあげようよ」
「えーっ、無理だよ! 私の歌なんか……ハルちゃんの絵を台無しにしちゃうよ」
「ははっ。初めてここに来た日は、僕が同じようなことを言ってたな。春はそんな僕に、泣きそうな顔で作詞を頼んだじゃないか。頼むよ」
「ううー、それとこれとは、話が違うような……。それに歌詞もまだ、出来てないんでしょ?」
「それは僕が頑張るよ。必ず完成させる。だから、お願いします」

 春とおじいさんに向けて頭を下げた。ここでなら、皆が幸せになれるような、そんな展覧会が、出来るような気がした。

「ふむ。あまり話が見えてこないが……。とりあえず、料理が冷めないうちに食べましょう。食べながら、私にも詳しい話を教えてくれないか」
「それがいい! 私お腹すいちゃったよ!」

 それは僕も同意だ。興奮する心を落ち着かせて、僕はおじいさんのパスタに手を伸ばした。


「なるほど。亡くなった方の絵の展覧を……。それは素敵だね。うちでよければ、喜んで貸し出すよ。料理の提供についても、私に任せてくれ」
「ありがとうございます!」

 おじいさんのカルボナーラは、感動的に美味しかった。これで店にお客さんが一人もいないのが不思議なくらいだ。

「うちはね、平日のランチタイムとかは結構混むんだよ。秋はいつも土曜日に来てるから、分からないんだね。まあ、私も平日は学校行っちゃってるから、バイトのくせに全然手伝えてないんだけど……」

 春が説明してくれた。そういうことか。

「あとね、これは前にも話したけど、近くに桜の名所があって、満開の時期には手が回らないくらい繁盛するんだよ。外に行列が出来るくらい!」
「そうだね。その時は、春の手伝いがすごく助かっているよ。そうだ、多くの人に観てもらいたいなら、展覧会は桜の季節にするといい」
「なるほど。人も集まるし、ハルの絵もほとんどが桜だし。ちょうどいいですね」
「ほう、桜の絵か。それは奇遇だね。この店の名前『cerisier』は、フランス語で『桜』という意味なんだよ」

 桜の名を持つ喫茶店で、桜の咲く季節に、ハルの桜の絵の展覧会を開く……。少し、出来すぎな気もしたが、逆に言えば運命のようなものすら感じた。

「よーし、じゃあ、場所と開催時期は決定だね」
「そうだな。書いておこう」

 ノートに追記する。

   場所:おじいさんの喫茶店
   時期:桜の咲く季節
   内容:ハルの絵、おじいさんの料理、春の歌

「で、私の歌なんだけど……ほんとにやるの?」
「もちろんだ。歌手を目指してるんだろ?」
「うーん、そうだけど……。やっぱりハルちゃんの絵が主役でしょ。私の歌が雰囲気壊しちゃったら、ハルちゃんに申し訳ないよぅ。これはその、歌が絵に勝っちゃうって意味じゃ決してなくてね」
「それは大丈夫だ。ちょうど、考えていた歌詞は春がテーマなんだ」
「え……、私? ハルちゃん?」
「いや、季節の春な」
「ああ、そういうことか。今更ながら、この名前紛らわしいよね」

 春は小さく笑った。今日、海辺で春の提案を聞いて、ようやく歌詞のメインテーマが定まった。今なら、心が曇ることなく書けそうな気がする。

「うーん、だいたい決まってきたけど、これを見ると秋、当日はなんにもしないね」
「うっ……。当日僕に出来ることなんて無いだろ? ウェイターくらいならやるけど……」
「そんなことないよ。ちょっと貸して」

 春は僕のペンを奪い、ノートに何か書き足した。

   内容:ハルの絵、おじいさんの料理、春の歌、秋のスピーチ

「おいおい、展覧会にスピーチって何だよ……」
「何も言わずにお客さんを入れて絵を見せたって、ハルちゃんの印象は残らないよ。導入に、秋が紹介とかして、ある程度説明してあげないと」
「うーん、確かに、そうか……」
「よし、決まりね! 感動的なのを頼むよ、参謀くん!」

 春がノートにさらに追記した。

   内容:ハルの絵、おじいさんの料理、春の歌、秋のスピーチ
                       (感動的なやつ!)

 余計なことを……。宿題が増えてしまった。


 その日は、おじいさんが淹れた美味しいコーヒーを飲みながら、当日の店内のレイアウト等を話し合って暗くなるまで盛り上がった。
 帰り途、春が駅まで送ってくれた。二人で並んでゆっくり歩いた。
 途中、ハルを殺したカーブに差し掛かった。もう胸は痛まなかったが、足を止めて、暗い海に目を向けてみる。今までは、夜の海には計り知れない恐怖を感じていたが、今日は波音も穏やかで、静かな優しさのようなものすら感じた。
 ハル……。もう少しだけ、待っていてくれ。もう少しで、君の夢が叶いそうなんだ。

「秋……、大丈夫?」

 春が心配そうに、僕のコートの袖を掴んだ。

「うん、大丈夫。今は未来に希望さえ感じる。春のおかげだよ。ありがとう」

 本気で感謝していたので、しっかりと春の目を見て言った。春は驚いたような表情を見せ、やがてぽろりと涙を零した。雫は頼りない街灯に照らされ、琥珀のように煌めいた。

「えっ、なんで泣くんだ?」
「だって、嬉しくて……。もしかしたら今日、秋に、もう会わないって言われるかと思って……本当は先週からずっと怖かったから……。よかったよぉ……」

 ひたすらに前向きで明るい子かと思っていたけど、そんな風に考えてくれていたのか。不安な思いをさせてしまった。そういえば、ハルとそっくりなせいか忘れがちだけど、春と会うのはまだこれで三回目なんだ……。もっと春の事を知りたい。君の強い心も、弱い部分も、全て知って、受け止めたい。
 思わず抱きしめそうになったけど、今はまだ、春の優しさに流されてはダメだ。きっと後悔する。ぐっとこらえて、春の頭を撫でるだけに留めた。

「ごめん……。もう大丈夫だから、一緒に、作戦を成功させよう」
「うん……。私、隊長だもんね……。がんばるよ」

 春は静かな声でそう言ったが、この雰囲気に似つかわしくない「作戦」や「隊長」という言葉が妙に可笑しく、また噴き出してしまった。

「ぶはっ」
「もー、だから何で笑うのさー!」

 春は軽く僕を叩いたが、その顔も笑っていた。



*** Miss Spring ***

 アキと春ちゃんが開く私の絵の展覧会は、桜が咲く頃に開催することが決まった。私の生まれた、暖かくて優しい、一番好きな季節。嬉しいな。
 それに、アキが私を紹介するスピーチをして、アキが作詞した歌を春ちゃんが歌ってくれるみたい。私の絵だけじゃなくて、みんなの展覧会だ。すごく素敵!
 バクレイとして目覚めてから今までずっと続いていた、どんよりとした気分が嘘みたいに、今は全てがきらきら輝いて見える。体も軽い。今なら空も飛べちゃいそう。彼女の一言でこんなに変われるなんて、春ちゃんはすごいな。
 夜になって駅に向かう二人の後ろをうきうきしながら歩いていたら、いつものカーブ地点でアキが足を止めて、海の方を眺めた。アキ、大丈夫だろうか。
 春ちゃんが心配そうにアキの袖を掴んだ。アキがお礼を言ったら、春ちゃんが泣き出した。彼女も、不安とか心配を抱えていたのかもしれない。アキが彼女の頭を撫でるのを、少し遠くから眺めていたら、また少し胸が苦しくなった。
 春ちゃんは優しいし、明るくて元気だし、可愛いし、きっとアキと一緒に幸せになれる。それは嬉しい。でも、そこにいるのが、アキに撫でられてるのが、自分みたいだけど自分じゃないと思うと……苦しい。
 展覧会はすごく嬉しくて、心が晴れたけど、でも。
 私の中の、アキへの執着が、まだ、解けない。

- 故郷へ -


*** Mr. Autumn ***

 次の週は、作詞活動に明け暮れた。ハルの夢だった展覧会で、春の夢の第一歩となる歌に乗せる大切な、大切な言葉を紡いだ。
 僕はハルを忘れない。みんな、失った大切な人を忘れない。忘れないけど、過去に縛られるんじゃなく、後悔に飲み込まれるのでもなく、共に、前に歩いて行く。
 想い出は、時に甘く苦しく輝いて、過去から心を掴むけど、前を向くというのは、たぶん、切り捨てることではないんだ。過去も、後悔も、思い出も、苦しくて、胸が痛くて、涙が零れるけど、何度も撫でて反芻して、愛しいものにすればいい。それが出来た時、僕は、僕たちは、力強く前に向かう一歩を、踏み出せるのだろう。
 世界を覆う悲しみは、涙で出来た海は、とても深く、暗いけど、その底にはいつも、小さく輝くマイナスがあるんだ。辛くても、目を凝らして、瞬くそれを見逃さないようにして、そっと掴み取ろう。そうすれば、悲しみの海から抜け出した時、そのマイナスは、無限のプラスに変換できる。そんな力を、きっと僕たちは持っている。


 土曜日、僕はまたあの海辺に向かった。完成した歌詞を書いた紙を持って、イヤホンには春の美しいハミングを流しながら。
 春は、また僕より先に階段に座っていた。歌詞が完成したことを告げ、読んでもらうと、彼女はしばらく真剣に紙に目を通し、何度もうなずきながら涙を流してくれた。

「うん……。うん……。すごくいいよ……」

 読み終わり、紙を僕に返した後、彼女は両手で顔を覆った。

「うう……、お父さん……。お母さぁん……!」

 春も、ずっと胸に哀しみを抱えていたんだろう。前に僕がしたように、しばらく声をあげて泣いていた。僕は、前に彼女がしてくれたように、静かに傍に、寄り添っていた。


 『cafe cerisier』には、今日もコーヒーのいい香りが漂っていた。
 春が落ち着いた後、僕たちはまたおじいさんの喫茶店に移動し、作戦会議を開いていた。春は僕のノートを占拠して、店のレイアウト案を描き込んでいた。

「よし、店内のレイアウトはこんなもんかなー。ところで秋、肝心のハルちゃんの絵は何枚あるの?」
「先週数えてみたら、二十七枚だったよ。だから、予定通り店の壁に飾るので足りそうだな」
「そうだね。……うん、だんだん見えてきたじゃないか。ハルちゃんの夢だった展覧会が」
「うん……。見えてきたな」
「そうそう、この前思ったんだけどさ、みんなにハルちゃんを覚えてもらうなら、ハルちゃんの顔とか、見た目も分かるものがあるといいと思うんだ。秋、写真とか持ってない?」

 ハルの顔、見た目……。僕は今でも鮮明に思い出せるが、面識のない人には確かにそれは効果的……いや、必須の情報だ。でも……

「写真は……持ってない」
「そっか……。残念」
「いや、でも……あれがある。でもあれは……」
「ん? あれってなあに?」
「僕が描いてた、ハルの絵だ……」
「そういえば、言ってたね。秋の日に、描いた絵。それいいじゃん! すごく素敵!」
「でも未完成だし……。上手くもないし……」
「未完成なら、完成させればいいよ! ハルちゃんとの約束だったんでしょ」

(じゃあさ、私が個展を開いて、その時までアキが絵を描いていたら、アキの絵も飾ってあげるよ)
(絵はね、腕じゃないんだよ。心だよ!)

 ハルの言葉と、当時の風景がフラッシュバックした。
 初夏の夕焼け。ハルとの約束。溢れるほど、彼女に向かっていた想い。
 いつの間にか悲しい顔をしていたんだろうか、春が心配そうな顔で謝った。

「あ……、ごめん、つらかった……?」

 あの時は、もう戻らない。もう戻らないけど、後ろを向いてばかりもいられない。ようやくそれに気付けたんだ。今は、前を向け。慌てて両手で頬を叩く。

「いや、大丈夫だ。いいアイディアだな。ハルとの約束も果たせる」
「うん……。でも、無理はしないでね」
「大丈夫だって。それにしても、また僕の宿題が増えたな」

 その日は、春は歌の練習、僕は絵の制作に取り掛かるため、早めに切り上げた。外はもう、冬の気配を漂わせていた。


 その後も、土曜日はおじいさんの喫茶店に集まり、作戦会議を開いた。会議と言っても、大枠は決まっていたため、くだらない雑談で一日が終わったりすることもあった。宣伝用のチラシを作ったり、春の歌の練習を聞きながら、スピーチの文面を考えたりもしていた。
 大学は、短かった冬休みが終わり、年度末試験を無事に完了し、長い長い春休みに入っていた。驚くことに、僕の大学は二月の初めから三月の終わりまで春季休暇だった。ありがたいことだが、やる気がないんだろうか。
 第一回作戦会議からもう二か月近く経つのに、未完成のハルの絵は、まだ描き上げられていなかった。一人、部屋で絵と向き合い、ハルを思い浮かべていると、どうしようもなく涙が零れ、筆を動かせなかった。心では、乗り越えられたつもりでいたのに、まだ僕は、こんなにも弱かったのかと、驚いてもいた。

 桜の季節まで、あと二か月くらいだろうか。さすがに焦った。ダメもとで、春にLINEを送ってみた。


【Aki】
一人じゃ、ハルの絵が描けない
僕と一緒に、モネの丘に行ってくれないか
臨時モデルになってほしい


 きっと断られるだろうな。前好きだった女の子の絵のモデルに、他の女の子を起用するなんて、失礼千万だと自分でも思う。断られたら全力で謝ろう。


【Haru Miyazato】
え、それって新手のプロポーズ?
   
って冗談は置いておいて、楽しそう!
私でよければ行きたいな!
詳細プリーズ!


 春はいつも、僕の予想を軽々と越えていく。

   *

 一週間後の土曜日、僕は早朝の電車の中にいた。春と共に、僕の故郷に向かう電車に。

「えへへっ、なんか旅行みたいだね。いや、旅行かこれは。あの海以外で秋と会うの初めてだから、なんだか新鮮だよー」
「ほんっと、ごめん。こんなことに付き合わせちゃって。何か必ずお礼はするよ」
「いいんだって、楽しいんだから。秋の故郷を見てみたいし。まあ、どうしてもお礼をしたいって言うなら、受け取ってやらんこともないがね。ふふっ」

 春の明るさにはいつも救われる。後で何か素敵なお礼を考えよう。

「モネの丘って、高校の中にあるんでしょ。駅からはどれくらいかかるの?」
「歩いて二十分てところだな。行きは上り坂だから疲れるかもしれないけど、すまんが頑張ってくれ」
「うん、それはいいんだけど、私たちが敷地に入っても大丈夫なの? 関係者以外立ち入り禁止で、警備員さんとかに捕まらないかな」
「一応僕はOBだし、関係者と言えるだろう。恩師に挨拶に来たとでも言えばいいさ」
「うーん、じゃあその時の対応は任せるよ」

 春と待ち合わせて電車に乗ってから、到着まで約一時間かかった。僕にとってはいつもの海よりも近いが、春は余計遠いので、春を無事に帰すのに余裕を持って三時間半……。泊まりなんて有り得ないので、タイムリミットはだいたい十八時。あまり悠長にはしていられないな。
 駅を出ると、僕は折り畳みのイスとイーゼル、未完成の絵を担いで、春を連れて高校への道を歩いた。実は正月にも実家には帰っていないから、地元に来るのはほぼ一年ぶりだ。懐かしい……。が、今は懐かしんでいる時間はない。

「ねえねえ、お昼ご飯はどうする?」
「うーん、あまり時間がないから、コンビニでサンドイッチでも買って、描きながら食べる……でもいいか?」
「えー、ちょっと寂しいけど、仕方ないかぁ」

 うう、ごめん春……。今度別の機会にご馳走します。

「秋の実家には、挨拶に行かなくていいの?」
「そんな暇はないな」
「まったくー、男の子は薄情だなぁ。あ、ところでさぁ……」
「なんだ?」
「秋の地元ってことは、ハルちゃんの地元でもあるんだよね。ハルちゃんを知ってる人が私を見たら、びっくりさせちゃわないかなぁ」

 思わず足を止めてしまった。迂闊だった。まったくもってその通りだ。
 付き合っていた……と勘違いされていた彼女が死んで、卒業まで廃人のようになっていた男が、三年後にその彼女と瓜二つな女の子を連れて歩いている……。それは、僕を知っている人から見たら、どう映るだろう。幸いここまでは誰とも会わずに済んだが、これからも幸運が続くとは限らない。
 そんな事を考えていると――

「あれっ、もしかしてアキくん?」

 背後から、女性の声がした。
- モネの丘 -


*** Mr. Autumn ***

 まさか、本当に顔見知りに会うとは……
 無視しようかとも思ったが、このまま歩き出してはあまりにも不自然だ。渋々振り返ると、銀縁の眼鏡をかけた大人っぽい雰囲気の女性が、驚きと喜びを同時に表情で表わしていた。……が、見覚えがない。

「やっぱり! 久しぶりだねえ!」
「えーと……、どちら様です?」
「ひどーい、忘れちゃった? 高校の同級生の藤岡だよ」

 フジオカ……。そうか、思い出した。ハルの友達だった、あの保健委員の子だ。全校生徒でハルに黙祷を捧げたあの日、保健室でハルのために泣いてくれた子。それにしても女の子というのは一年で見違えるほど変わるものだ。高校時代はあまり特徴の無い子だったが、何というか、美人になっていた。

「ああ、ごめん、覚えてるよ……。随分見違えたから、気付かなかった」
「あら、それって誉めてるの? ふふっ。そちらの方は……、あれ、え……、何で……」

 彼女の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。面倒なことになった。荷物を持っていない左手で頭を抱える。

「えへっ、早速見つかっちゃったね、秋」
「どうして……ハルちゃんがいるの……?」
「あー、これはその……、話すと長くなるんだけど……」

 話すと本当に長くなる。適当に誤魔化せるような状況でもない。でも僕にもそんなに時間はない。……仕方ない、連行しよう。

「とりあえず藤岡、……今ヒマ?」
「忙しくはないけど……、どういうことなの? 説明してよ!」
「説明するから、高校まで付き合ってくれないか……」
「え……?」



*** Miss Spring ***

 アキと春ちゃんと一緒に、電車に揺られた。私の故郷に向かう電車に。
 展覧会に向けて、アキが描いてくれてた私の絵を完成させるためみたい。何週間か前に、アキが押し入れにしまっていた絵を取り出して筆を構えた時はドキドキしたけど、アキは手を動かさずに静かに涙を流すばかりだった。アキ、ごめんね。まだ、あなたを縛る私の願いが、解けていないんだね。
 絵のモデルを春ちゃんに依頼したのを知った時は、複雑な気持ちだった。この絵は、私にとっての特別なもの。私を忘れないように、アキにかけたおまじない。それを、別の人に取られてしまうような、そんな気分。
 でも、もうアキを苦しめたくはない。アキには幸せになって欲しい。でも、やっぱり忘れて欲しくない。でも、でも……。そんな考えが、頭をグルグルと巡っていた。


 一時間ほどで電車は駅に着いて、改札を出る二人に付いて行った。懐かしいなぁ。三年ぶりくらいかな。変わらない景色を眺めながら二人の後ろをしばらく歩くと、見覚えのある一人の女の子が近付いてきた。

「あ、千夏……」

 藤岡千夏ちゃん。私の一番の友達だ。最後に見た時から、千夏は少し大人っぽくなってる気がした。三年以上経ってるわけだから、当然かな。
 久しぶりだよ。アキの話とかいっぱい聞いてもらってたな。またお話ししたいな。色々あったんだよ。私、幽霊になって、きなこって名前の猫さんと友達になって、私にそっくりな春ちゃんにも会って、アキとまた会えて……
 いけない、また涙が出てきてしまう。昔から涙もろかったけど、バクレイになってから私、余計に泣くようになったな。

「そちらの方は……、あれ、え……、何で……」

 千夏が春ちゃんを見て、びっくりしてる。アキが頭を抱えてる。春ちゃんが笑ってる。それを見てる幽霊の私……。ふふっ、何だか面白いな。昔からずっと仲のよかった友達が集まったみたいだ。
 私もこの輪に入れたら、みんなと一緒に話したり、笑ったりできたら、どんなに幸せだろう。



*** Mr. Autumn ***

 僕は、二人を引き連れて高校に続く坂道を登っていた。怯える藤岡に、今までの経緯を掻い摘んで説明しながら。時折春もフォローを入れてくれた。

「俄かには信じがたいけど……、でも本人が目の前にいるんだから、信じるしかないみたいね……。でも、あの……、ハルちゃんが、事故で記憶喪失になってるってことはないの?」
「あははっ、それはないよ。私にはちゃんと子供の頃からの記憶もあるし」
「そっか……、そうよね。ごめんなさい」
「謝ることないよ。それにしても、ホントに似てるみたいだねぇ。ハルちゃんが生きてた頃に、会ってみたかったよ」
「世界にはそっくりな人が三人はいるっていうからな……。まさか実在するとは、僕も思ってなかったけど」
「そうね、驚いたわ。……ところで、高校に何か用があるの?」

 ちょうど、校門の前に辿りついた所だった。休日だが、部活動をする人たちの為か、門は開いたままだ。その割には、運動部の騒がしい声は聞こえない。

「……未完成だったハルの絵を、完成させるためだ」
「え、それって……。でも、どうして今更……?」
「その説明も聞きたければ、中まで付いて来てよ。これも、話すと長くなるんだ」
「うぅ、ここまで来たら付き合うわよ」
「なんだかドキドキするね! 知らない高校に潜入するなんて!」
「なるべく自然な感じで行くぞ。僕たちは不審者じゃない、関係者だ!」

 校門を通り、校舎には入らずに外縁をぐるりと回り、細い道を突き進む。あれから三年以上経っているのに、校舎もこの細い道も、何も変わっていない気がする。懐かしいあの場所に近づくにつれ、動悸が早くなっていくのを感じた。
 校舎の壁が尽きると共に、急に視界が開ける。広く青い空が、目に飛び込んでくる。先に来ていたハルが、僕に気付いて振り向くビジョンが、一瞬だけ浮かんで消えた。

「ここが、僕がモネの丘と呼んでた場所だよ……」
「わあ、綺麗!」
「ここが……ハルちゃんの言ってた……」

 モネの丘は、三年前の秋の日に、ハルを描いていた時と何も変わっていなかった。丘からの景色は、建物の増減のせいか僅かに変化を感じたが、丘に佇む一本の桜も、遠くに見える山々も、記憶の中の風景と一致した。もちろん、季節の違いはあるのだが。桜は枯れているし、遠くの山には雪がかかっているのか白くなっていた。
 春も、僕も、藤岡も、暫く無言で景色に見とれた。静寂の中、二月の冷たい風だけがそよそよと流れ、まるで世界が停止しているかのような錯覚を感じた。

「ね、秋の絵、見せてよ」

 春の提案で、僕たちの時間はまた動き出した。

「先に言っておくが……、途中だし決して上手くはないからな」

 そう言うと、思い出と同じ位置にイーゼルと折り畳みイスを設置し、カンバスを袋から出した。

「おお、ほんとだ、ここの景色だ!」
「そりゃそうだよ。ここで描いたんだから」

 未完成のカンバスには、夕焼けと、一部欠けている秋の景色と、それらに包まれるハルの制服姿が半分ほど描かれている。ハルはあの頃、色んな表情を見せていたので、絵の中のハルには顔がなかった。最後の仕上げに描こうと思っていたからだ。

「ふむふむ……。こんな感じかな?」

 春は暫く絵を眺めた後、絵の中のハルと同じ姿勢で、景色の中に立った。
 記憶の中で鮮明に輝く景色と、目の前の風景が、ぴたりと一致する。
 涙が溢れそうになったが、ぐっと堪えた。今は藤岡もいるんだ。
 そう思って、先ほどから何も言わない藤岡をちらりと見たら、ハンカチで目元を拭いていた。藤岡……君はきっと、ハルの一番の親友だったんだろうな。


 パレットに絵具を出し、筆を構える。
 始める前に、ずっと気にしていたことを、春に聞いてみた。

「今更だけど……、本当にいいのか? 僕は、ハルを……君に重ねようとしているのに……」
「うん、気にしないで。秋が私に、昔の恋人の面影を重ねるだろうなってのは、最初から覚悟してたよ」
「え……、そうなのか?」
「そう。初めて秋と話した日からね」

 女の子は鋭いというのはよく聞くが、本当なんだな。

「ねえ、二人は、その……付き合ってるの?」

 藤岡が久しぶりに口を開いた。春が首を振る。

「ううん。残念ながらまだだよ」
「そう……」

 そうだよな、ハルの友達で、色んな相談事を聞いていた藤岡にとっては、僕がハルとそっくりな女の子と付き合っていたら、気に入らないかもしれない。本当に全員が納得できるような答えは、一体どこにあるんだろうか。

「じゃあ、始めるよ……」
「うん」

 目が合うと、春は小さく微笑んだ。
 静かな世界の中で、春を描いた。制服はないので記憶を頼りにして、体の形や姿勢、手や足の比率、表情や髪の光沢などの細かい部分は、春を参考にした。夕焼けの秋の景色はここには存在しないけど、使えるものは使って、あとは想像と記憶で補うしかない。
 遠いハルの思い出と、目の前の春の優しさに、胸は切なく痛み続けたけど、一人で向き合っていた時のような涙は流れなかった。その代わり、僕に微笑む春の目から、一粒の涙が流れたのが見えた。高校の夏合宿でハルと見た、一筋の流れ星のようだった。

「え……、なんで泣くんだ? やっぱり、嫌だったか?」
「あれっ……ホントだ。何でだろう。全然悲しくないし、心はすごーく静かで落ち着いてるのに、急に涙が出ちゃった。へへ、おかしいね」

 そう言って春は、手で涙を拭う。

「きっと目にゴミが入ったとかだよ。大丈夫だから、続けて」
「わかった……」

 少し気にしながらも、僕は春を描き続けた。

- 君の色 -


*** Miss Spring ***

 アキ達の後ろに付いて、あの丘に向かう小道を歩いた。懐かしいな。毎日ドキドキしながら、ここに来てたな。先に来てカンバスを構えて、澄んだ景色に向かっているアキの後ろ姿が、好きだったな。
 先頭のアキが最初に着いて、私たちの方を振り向いた。

「ここが、僕がモネの丘と呼んでた場所だよ……」

 そうか、アキはここを「モネの丘」って呼んでたのか。そういえば入部当初のアキは、よく部室でモネの画集を見ていた気がする。
 丘は、アキと過ごしたあの頃と変わらず、綺麗な景色と空気で溢れていた。立ちつくす三人の横で、私もしばらく風景に見とれた。

 やがて春ちゃんに促され、アキがカンバスを設置した。春ちゃんがそれを見て、かつて私が立っていた場所で、絵の中の私と同じポーズで佇む。誰か別の人の目を通して、高校の部活時間の私たちを、見ているみたいだ。
 愛しさと寂しさが、体中に溢れていたあの頃。目の前のアキに想いを伝えたくて、でも言えなかった。怖かったし、いずれ転校してしまう私は、言っちゃいけないのかもしれないとも、思っていた。
 ゆっくりと歩いて、丘の上に佇む春ちゃんと同じ位置に立って、春ちゃんと同じ姿勢になって、アキを見つめる。
 私のレイヤーは、生命体へのコンタクトは無効化される。きなこが前に聞かせてくれたことだ。目を閉じなくてもすり抜ける。今私は、春ちゃんとぴったりくっついている。こうしてみると、身長も、体型も、ホントに一緒なんだってことが分かる。髪の長さと、着ている服が違うくらいだ。
 呼吸を合わせて、視線を合わせていると、心臓の鼓動が結び付いて、心や意思みたいなものが溶け合って、自分が鈴村ハルなのか、宮里春なのか、その境界がぼんやりとしてきて、今が高校の部活時間なのか、悲しい運命を経た未来なのか、それさえも、分からなくなりそう。
 アキが、思い出の中と同じ真剣な表情で、私を描いてくれている。心が、懐かしさと切なさと愛しさで満たされる。
 春ちゃんの、アキへの想いが、優しい体温を通して伝わってくる。あなたと、共に前に歩いて行きたい。大切な人を失ったあなたの痛みが、私は分かる。あなたを、幸せにしてあげたい。一緒に、幸せになっていきたい。
 彼女の優しさと、二人分のアキへの想いが心に溢れて、涙がひとつ零れた。
 ありがとう、春ちゃん。ありがとう。きっとあなたなら、アキと歩いて行けるよ。私の分も、幸せになってね。
 彼女から離れて、校舎の壁に背中を預けている千夏の隣に立って、一緒に二人を見つめた。

「ね、千夏。あの二人、お似合いだよね。きっと、幸せになるよね」

 そう言ったら、千夏は視線を二人に向けたまま、少しだけ微笑んだ。



*** Mr. Autumn ***

 春が疲れたと言うので、休憩することにした。コンビニで買ったサンドイッチを取り出して、咀嚼する。何も知らずに連れて来られた藤岡に、春が自分の昼食を分け与えている。

「ところで、そろそろ教えてくれない? なんで、その絵を仕上げようとしているのか」
「ああごめん、そうだったな……」

 僕と春は、ハルの夢だった展覧会を開こうとしていることを藤岡に教えた。ハルを知らない人にハルを紹介するため、僕の絵を完成させようとしていることも。春のおじいさんが経営する海辺の喫茶店で行うことも。歌手を目指している春の歌を披露することも。その歌を、僕が作詞したことも。

「それ、すごく素敵……。私も行く。絶対行く! 後で場所教えてね」
「もちろんだよ! 藤岡さんは、ハルちゃんの友達だったんでしょ。ハルちゃんも喜ぶと思う!」
「うん、うん。そうだ、私の他の友達にも声かけてみるよ。同窓生で連絡取り合ってる子が何人かいるの」

 女子二人は、スマホを取り出してお互いの連絡先を交換していた。思わぬ所で営業が出来たな。


 一息ついた後、絵を再開した。
 冬の終わりの澄んだ空気の中、透明な空を背景に静かに佇む春の美しさに、心が震える。いつか、春を主役にして絵を描きたいと、思った。
 集中して描いていると、後ろで様子を見ていた藤岡が僕の横にしゃがんで、小さな声で話した。

「宮里さんて、すごくいい子だね。あの子になら、アキくんを任せてもいいかな、なんて思えるよ」
「……お前はいつ僕の保護者になったんだ?」
「ふふふっ。アキくんも、そんな冗談が言えるくらい、前に歩き出せているみたいで、安心したよ」
「なんだ、心配していたみたいな口ぶりだな」
「そりゃあ心配してたよぉ。ずっと休んでたアキくんが登校するようになったと思ったら、別人みたいに暗く鋭くなっちゃったんだから。クラスの皆も心配してたんだよ」
「……あの頃は、一番辛かったから」
「うん……。だから今は、私もなんだか嬉しいよ。アキくんが笑ってたほうが、ハルちゃんも嬉しいと思うから」

 僕が笑っていた方が、ハルも嬉しい……。かつての保健室でも同じようなことを、彼女に言われた気がする。実際は、残された者たちの願望でしかないんだろうが、結局、全てはそこに帰結するんだろうか。春が言った「解放する」ということも、そういうことなんだろう。僕の隣で春を眺めて微笑む同窓生には、初めから分かっていたのかもしれない。

「藤岡……、そこにいる春とも、友達になってやってくれないか」
「もちろん、そのつもりだよ」

 ずっと同じ姿勢でこちらを伺っていた春が、口を尖らせて不満そうな顔をした。

「さっきから私に内緒で何を話しているのさー。妬いちゃうぞー」
「ふふふっ、宮里さんに、アキくんを任せるって話だよ」
「えっ? お、おお、任せておけ!」

 藤岡はぴょんと立ち上がると、大きく伸びをしてから言った。

「じゃあ、私はそろそろ行くね。展覧会、楽しみにしてるからね。絶対連絡してね」
「えぇ、もう行っちゃうの?」
「うん、今日は宮里さんに会えて良かったよ。アキくんも、元気でね」
「ああ、なんか無理に連れてきて悪かったね」
「いいのいいの。すごく有意義な時間だったよ」

 僕と春は、藤岡を校門まで送ると、再びモネの丘に戻った。

「二人きりになっちゃった。なんだか緊張するね」

 春はそう言って笑うと、ゆっくりと桜の木に向かい、遠くの景色を眺めたまま幹に軽く片手を触れた。秋の日の、寂しげなハルと同じ姿勢で。このシーンは話していないのに、どうして一致するんだろう。ハルが触れた桜の木に揺れる、僕の心に映った満開の花が思い出される。

「この木……、秋の絵にも描いてあるけど、桜だよね」
「そうだよ」
「満開だったら綺麗なんだろうねぇ。ここは景色もいいし」
「……僕もそう思うんだけど、まだそいつが満開になった所を見たことがないんだ」
「え、そうなの?」
「この場所を見つけた時はもうピークを過ぎていたし、その年にハルが死んでから……、ここには一切来なくなったし」
「そっか……」

 春は少し寂しげな声を出し、暫くの沈黙が流れた。春は何を思っているんだろう。

「秋にこんなに想われてるハルちゃんは……、幸せ者だね」

 ハルが、幸せ?

 ハルが死んでから、かわいそうとか、申し訳ないという気持ちばかりがハルと関連付いていたけど、ハルは……幸せなんだろうか。

「ねえ、秋。ここで、ハルちゃんとどんな話をしたの?」
「え、それ……聞きたいか?」
「うーん、やっぱりやめとく」

 春は笑いながら振り向いた。

「じゃ、続ける?」
「そうだな」

 短く深呼吸をして、描きかけのハルの絵の上に、春の色を重ねた。

- 私は、私のこの人生を -


*** Miss Spring ***

 千夏も、春ちゃんを気に入ってくれたみたいだ。千夏は幸せそうな顔をして、校舎から続く坂道を下りて行った。彼女が見えなくなるまで見送った後、先に戻っていたアキ達を追って、私も丘に戻った。
 春ちゃんが、桜の木に手を付けて、遠くの景色を眺めている。アキはイスに座って、春ちゃんを見つめている。

「秋にこんなに想われてるハルちゃんは……、幸せ者だね」

 春ちゃんがそう言った。私が、幸せ?
 私……幸せなのかな。事故に遭って、家族全員死んじゃって、幽霊になってアキを苦しめて、泣いてばかりいたけど……。
 それでも、私をこんなに想ってくれて、私の死をこんなに悲しんでくれる人がいるのは、幸せなのかもしれない。
 生きていた時は気付けなかった、アキの深い愛を知ることが出来たし、猫さんと友達になるという夢みたいな出来事も体験できたし、優しくて暖かい春ちゃんにも会えた。生きていた時は、お父さんもお母さんも優しくしてくれたし、千夏は親友になってくれたし、短かったけど、アキとの素敵な青春を過ごすこともできた。
 それに、死んじゃった後も、神様が私をバクレイにしてくれて、綺麗な景色をたくさん見ることができた。
 世界は、とても綺麗。夕焼けも、朝日も、星空も。海も、空も、花も木も草も。雲も、風も、人の笑顔も、きなこの黒い瞳も、春ちゃんの奏でる音楽も、みんな、すごく綺麗。
 いつの間にか、涙が流れていた。

「私、幸せだ……。幸せだよぉ……」

 アキ、春ちゃん、千夏、お父さん、お母さん、きなこ、ありがとう。
 忘れてたよ。私、幸せだったんだ。



*** Mr. Autumn ***

「よし、こんなところか」
「ふー、やっと終わったよー」
「ありがとう、春。お疲れ様」

 何度か休憩を挟んだが、春のおかげで、無事に絵は完成した。腕時計を見ると、夕方の四時半だ。もう空は茜色に染まり始めている。

「おおっ、結構上手いじゃん。ふーむ……これがハルちゃんかぁ」
「ハルであり、春でもあるな」
「ふふっ、なんか複雑だね」

 瓜二つな二人なので、実際絵の中のハルにも春の面影があるのだが、髪の長さなどは記憶の中のハルのものだ。
 油絵はまだ乾かないので、慎重にケースに入れて、イーゼルとイスを片付ける。
 まだタイムリミットには若干余裕があるが、藤岡のような予想外のイベントに出くわさないとも限らない。早めに動くに越したことはない。

「さて、帰るか」
「えー、もう帰るのー?」
「あんまり遅くなると、電車がなくなるぞ」
「泊っちゃえばいいじゃん。私、秋のおうち見てみたい!」
「だめだ。泊りなんて、僕がおじいさんに殺される」
「大丈夫だって。秋のお父さんとお母さんを見てみたいよー」

 春の家庭の事情を知る僕には、彼女の気持ちが少し重く響いた。

「……それは、また今度な」
「え、ホント?」
「ああ、そのうちな」

 実際、そう思っていた。そのうち、春を本気で両親に紹介するのも、悪くないかな、と。もちろん、この作戦が成功して、僕が心から前に歩き出すことが出来た後に、春との関係をはっきりさせてからだけど。

「そういう訳で、今日は帰るぞ。僕の故郷なんて、いつでも来れるしな。もたもたしてると警備員に見つかるかもしれない」
「わかったよぅ」

 渋る春を連れて、僕は高校を後にし、坂道を下った。高校時代は三年間通い続けた坂道だ。ハルがいた頃は、僕はこの坂を下るのが好きだった。学校が終わり、後は自由が約束された時間。夕焼けの綺麗な光が差し込む中、道を彩る木々を眺めてのんびりと歩いていた。ある時は部活時間でハルと交わした会話を思い出しながら、ある時はハルと並んで歩いたこともあった。ハルの思い出は、この地の至る所に染み込んでいる。
 それらの輝く思い出が、心を苦しめるのではなく、ただ懐かしく、愛おしいものに、今の僕には思えた。
 ハル、ごめん。ハルを過去に縛り付けて、世界から置き去りにしていたのは、僕自身だったようだ。

 幸い、帰り道は顔見知りに会う事はなかった。駅で二人分のチケットを買い、他愛無い話をしながら、春と帰った。これで、展覧会に向けた宿題はひとまず無くなったな。



*** Miss Spring ***

 絵を描き終えた二人が、学校を後にして、坂道を下っていく。その少し後ろを、私も歩いた。
 私は、この坂道を歩くのが好きだった。春は桜が満開になるし、桜が散っても緑の葉っぱが風に吹かれてサラサラと揺れるのが大好きだった。夏の暑い日も、この坂道は涼しいように感じた。
 千夏や他の友達と歩いた事もあったし、アキと一緒に帰った事もあった。
 高校生活は、ホントに短かったけど、……楽しかったな。
 友達と笑って、好きな人と絵を描いて、お喋りして、ドキドキして。
 幸せだったな……。
 あの、楽しかった時間は、キラキラ輝いていた時間は、もう戻らない。もう、戻らないけど、でも、今はその運命を受け入れられる。それは諦めとかじゃなくて、何だろう……、大切なような、愛おしいような、そんな気持ち。

 私は、私のこの人生を、運命を、愛せる。今なら、そう思える。

 その日は、アキと春ちゃんと一緒に電車に乗り、海辺の駅まで春ちゃんを送ったあと、アキのアパートに帰った。


 それから、優しい時が流れて、暖かな空気が溢れ、道端の花が咲き、鳥たちが元気に囀り、そして、アキの、私たちの住む町にも───