- 私たちで -


*** Mr. Autumn ***

 土曜日。
 いつもの階段に向かうと、春がもう座っていた。春は僕を見つけて、雪解けのヒナギクのように笑う。

「よく来たね! まあ座りたまえ!」

 春が僕を座らせ、僕の左に春が座る。十一月ももう終盤だというのに、今日は真っ青な空が輝いて、小春日和のような暖かさだ。

「今日は天気もいいしあったかいねー。思わずお洒落にも気合が入っちゃったよ。ふふっ」

 そう言って春は、僕との距離をつめるように座りなおした。肩が当たりそうなほど近くに彼女を感じる。
 今日の春は、全身に女の子らしい格好をしていた。襟元にレースのついたジャケットに、真っ白なセーター。膝上丈のスカートに、意匠の凝ったウェスタンブーツを履いていた。香水を付けているのか、時折桜の甘い香りがする。
 正直、眩暈がするほど可愛い。今が秋であることを忘れるくらい、春の回りには、春陽の優しい空気が流れていた。

「いい香りだね、桜の香水?」
「そうだよ。よく分かったね」
「桜……、好きなの?」
「うん! 私の一番好きな花。だって私、春だもん」

 そう言って僕に笑顔を見せた。心がまた満たされそうになり、慌てて心の中のハルに目を向ける。ハルを忘れるのはダメだ。僕だけでも、ハルを覚え続けていなくては。そうしなければ、ハルが世界に生きていた証が、消えてしまう。
 ハルを思い浮かべていると、先週のおじいさんの話も思い出された。死んだハルを思い続けるか、ハルを忘れて、春と共に生きるか。……ハルを忘れることなんて、生涯できそうにない。こんな僕では、春を幸せにすることは出来ないし、むしろ傷つけてしまうだろう。
 僕は、おじいさんの言う通り、もう春に会うべきでないのかもしれない。心が俄かに曇り出した。あんなに綺麗だった青空まで、濁ってきたような気がする。自分の心の不安定さが、心底嫌になる。
 心の暗雲が僕の表情まで曇らせていたのだろうか、春は笑顔をやめ、しばらく僕を眺めた後、口を開いた。

「さて、今日はね、先週聞けなかった秋の苦しみを話してもらうからね。辛いこと、抱え込んでいること、何でも言って。私に、分かち合わせて。きっと、全部吐き出せば、少しは楽になると思うんだ。言いたくなければ、無理強いはしないけどさ」

 春だって、両親を失って辛いだろうに、どうしてこれ以上僕の重荷を背負おうとするんだろう。僕には、君の優しさに見合うような価値はないのに。
 重い口を開いて、春に伝えた。

「……その前に、言っておきたいことがあるんだ」
「うん……。なに?」
「僕は、ハルを……、昔好きだった女の子を、三年前に亡くなった彼女を、たぶんずっと、忘れる事は出来ない。僕は、忘れちゃいけないんだ。だから春の……君の、君の期待には、答えられないと思う……」

 言ってしまった。言ってから激しい後悔に襲われた。でも、仕方ない。もうこれで、春との関係は終わるだろう。優しい春……。僕を好きだと言ってくれる春……。約束していた歌詞は、完成したらメールで送ろう。

「忘れちゃいけないと思うのは、どうして? 何か理由があるの?」

 落ち着いた声で僕に聞いた。春は意外と冷静だった。泣き出してしまうかと思っていたけど、それは僕の思い上がりだったようだ。

「理由……」

 僕がハルを忘れちゃいけない理由。簡単には、説明できない。それに、簡単な説明で分かってほしくもない。
 どれだけ、ハルと過ごした季節が輝いていたか。ハルを失くした痛みが、どれだけ重かったか。

「彼女は美術部で、絵を描いていたんだけど、自分の絵で個展を出すのが夢だったんだ……」

 ハルの桜色の笑顔を思い出しながら話した。

 僕の隣でいつも桜の絵を描いていたこと。
 彼女の目標、夢。
 絵に託した願い。
 将来の約束。
 夏の夜の流れ星と、後から知った転校の話。
 静かな秋の夕焼けの中、ハルの絵を描いたこと。

 ハルの訃報を聞いた日の衝撃。
 それからの灰色の日々。
 空を飛ぶ夢。
 事故現場を探して、この海に辿りついたこと。
 アパートでは、ハルの絵に囲まれていること。
 心の中のハルが、笑ってくれないこと。

 話しながら、心がヒリヒリと痛むのを感じた。
 春は、時折涙を流しながら、静かに聞いてくれていた。

「うん……。だいたい分かった。話してくれてありがとう」

 全て話し終わると、春は頬の涙を拭って微笑んだ。
 結局、全部話してしまった。両親の死という辛い記憶を秘めた春の優しい心に、必要のない重荷を背負わせてしまった。おじいさんは許してくれないだろう。

「秋の話は全部聞きました。ここで、私からの意見を述べます」

 春は姿勢を少し正した。

「秋は、ハルちゃんを解放してあげないといけません」
「え……?」

 意味が分からない。僕が、ハルを解放だって?

「秋は、秋の心の中にハルちゃんを閉じ込めています。ハルはかわいそうな女の子だ、ハルは僕だけが覚えていなきゃならない、ハルは僕だけのものだ……ってね。まるで牢獄に監禁しているみたい。だから、秋はずっと苦しいし、秋の中のハルちゃんは笑ってくれないんだよ。このままじゃハルちゃんが、ホントにかわいそうだよ」

 少し、イラついた。心に小さな炎が揺れたのを感じた。

「じゃあ、ハルを忘れろって言うのかよ……。ハルの願いは、ハルが生きた証はどうなるんだ!」
「ううん。違うよ。ハルちゃんを忘れる必要なんてないよ」

 春は優しい声のまま続けた。視線はまっすぐ前を、静かな青い海を見据えて。

「ただ、閉じ込めていないで、解放してあげるの。秋だけじゃなく、みんなに、ハルちゃんを覚えていてもらうんだよ」

 ハッとした。視界が急に開けた気がした。炎は燃え上がる暇もなく消えた。
 みんなに、ハルを覚えていてもらう……。

「でも……、そんなの、どうやって……」
「ハルちゃんは絵を描いていた……。ハルちゃんは個展を開くのが夢だった……。ハルちゃんの絵は、ぜんぶ秋の部屋で眠ってる……」

 そう言って、春は僕の方を向く。少し悪戯っぽく微笑んでいる。

「これはもう、やるしかないでしょ」
「やる……? 何を?」

 春はパッと階段を立ち上がり、一段飛ばしで駆け下りると、砂浜の上でクルリと振り向いて、両手をいっぱいに広げた。その両手から、桜の花びらが一面に舞い上がった気がした。春は、満面の笑みで叫ぶ。


「私たちで、ハルちゃんの展覧会を開くんだよ!」


 春を抱く空はどこまでも青く澄んで、爽やかな風が彼女を優しく撫でていた。
 秋の海は穏やかに波を立て、彼女の足元で春を祝福しているようだった。
 どこまでも続く青い空と綺麗な海と、その中で微笑む春。
 その時僕は確かに、輝く永遠と、無限の可能性を感じていた。
 僕の目には知らないうちに、温かい涙が溢れていた。