- 今は楽しくご飯を食べよう -


*** Miss Spring ***

 入口の扉に寄りかかりながら、私もおじいさんの話を聞いていた。
 春ちゃんが、お母さんを亡くしていたのは、なんとなく分かっていた。初めて会った時にお母さんを呼びながら、あの海辺の階段で泣きじゃくっていたから。ちょうど、あの頃だったのだろうか。
 おじいさんが謝りながらお店の外に出て行った。
 アキが、俯いている。おじいさんの言葉を聞いて、思い詰めているんだ。
 アキを縛る過去。それはやっぱり、私なんだろうか。
 アキには、前に歩きだして欲しい。幸せになって欲しいよ。
 私がその妨げになっているのなら、私の事なんて忘れて……
 そう考えたら、急に胸が痛くなった。
 アキが私を忘れる。それは、やっぱり、……いやだ。
 私の存在が、私の過去が、消えてしまいそうで、怖い。私が生きていたという事実が、地球上から消滅してしまうような、そんな恐怖が、じわじわと体を締め付ける。
 私を忘れないで。
 心の中に、ワスレナグサの青い花が浮かんだ。
 昔読んだお話で、こんなのがあった。水難事故で命を落とそうとしているルドルフは、最後の力で恋人のベルタにこの花を投げて、僕を忘れないでと叫んだ。残されたベルタはルドルフの墓前にその花を供えて、ルドルフの最後の言葉を、この青い花に名付けた。
 もし、ルドルフが私みたいに幽霊になって、自分を忘れずに哀しみ続けているベルタを見たら、どう思うだろう。今の私みたいに、どうしようもなくて、悩んで後悔して泣いただろうか。
 どうか、私を忘れないで。でも、私の過去に、縛られないで。
 こんなことを願う私は、わがままなのかな。



*** Mr. Autumn ***

 暫くして、春が両手でトレーを持って階段を降りてきた。オムライスだ。とてもいい匂いがする。

「お待たせー。ふふ、秋、寝ちゃってたね。……あれ、おじいちゃんは?」

 おじいさんからの伝言を伝えると、春は少しきょとんとしたが、すぐに納得してくれた。

「そっか。お店の材料でも切れてたのかな。言ってくれれば私が行くのに」

 そう言いながら、春はテーブルに料理を並べた。

「うちね、家庭用のキッチンは二階にあって、自分達が食べる料理はいつもそこで作ってるの。あ、そうだ、これ言ってなかった。私、料理結構得意なんだよ。食べたら秋、私に惚れちゃうかもなー」

「ははっ、そうか。そりゃ楽しみだな……」

 心の鉛を春に悟られないようにしたつもりだったが、春は気付いたのだろうか、手を止めて一秒、僕を見つめた。……が、何も言わずに作業を続けた。皿が並べ終わると、

「さ、食べよう。おじいちゃんには、後で温めなおして出しておくよ」

 春の料理はとても美味しかった。卵はふわふわで、味付けも丁度よく、どこか懐かしい味がした。サラダも、スープも、非の打ち所がない。でも、彼女の料理が得意な理由が、母親をなくしたことなのかもしれないと思うと、涙が出そうになる。

「美味いね……。こりゃ本当に惚れちゃうな」
「うーん、嬉しいけど……。それ、本心から言ってる?」
「本心だって。こんな可愛くて、料理が上手い女の子が彼女だったり、奥さんになってくれたら、幸せだろうなー」
「……ねえ、もしかして、おじいちゃんに何か言われた?」

 見透かされている。彼女の前では、僕の演技なんて何の意味も為さないようだ。

「ね、おじいちゃん何を言ったの? 秋に何かひどいこと言った?」
「いや、いや、そんなことはない。おじいさんは人格者だよ」
「私に親がいないことを言ったんだね?」

 ギクリとした。それが僕の表情にも現れたのだろう。春は見逃さなかった。

「やっぱり! もーう、あのおじいちゃん、基本はすごく紳士で優しいのに、私のことになると過保護すぎるっていうか、時々余計なお世話を焼くんだよ。あとで怒っておかなきゃ。ごめんね、秋。おじいちゃんが何か変なこと言ったなら、全然気にしなくていいからね」
「でも、おじいさんは春のことが大切で心配で仕方ないんだよ。その気持ちは、すごく分かる……」
「私はもう子供じゃないんだから、自分のことくらい自分で決められるよ。おじいちゃんはそれを分かってないの。いつまでも私を子供扱いして……」
「でも……」
「秋もさ、同情とか憐れみで私を好きになったりしたら、許さないからね。ちゃんと私という人間と向き合って、私を見て、秋の心で、好きになってほしい」
「うん……。それは、もちろんだ……」

 力なく言った僕を見て、春はしばらく考え込んでいたが、やがて大きく息を吐き出して、顔の前で手を叩いた。パン!

「よし、この会話終了! 続きは、来週の海辺で行います!」
「え……、続き?」
「うん。というわけで、今は楽しくご飯を食べよう!」

 春は笑顔でそう言った。オレンジ色の店の照明が彼女を優しく照らして、春風に揺れるガーベラのように煌めいた。その綺麗さに、僕も釣られて笑顔になる。
 僕の心に空いた穴も、そこにいる笑わないハルも、春の秘めた傷も、おじいさんの哀願も、ひとまず隅に置いといて、美味しい食事を素直に楽しめる力を、春の笑顔は持っていた。
 彼女の学校の話や、近所のおしゃべりなおばさんの話、たまに店を訪れる野良猫の話などを聞き、僕は僕で、学校の友人や、面白い教授や、苦労したゼミなどを、とりとめもなく話した。春は僕の話の一つ一つに、笑い、驚き、関心していた。ころころ変わる表情は、見ているだけでも飽きなかった。


 楽しい食事を終えた後、春が駅まで送ってくれた。僕たちは並んでゆっくり歩いたが、途中、あのカーブ地点に差し掛かった時、また胸が痛み始めた。過去が手を伸ばし僕の足を掴む。歩けない。
 春はちらりとこちらを向いた後、小鹿のような軽やかな足取りで前に飛び出し、街灯の下でクルリと僕の方を振り向いて、僕の名を呼んだ。

「秋!」
「……なんだ?」
「今日はいろいろあって聞けなかったけど、来週また来てくれたら、今度は秋の過去の話を教えてね。少しずつでもいいから」
「あ、ああ……」
「私はここにいるからね。ずっと、いるから。何の心配もいらないよ!」

 ありがとう、春。過去が僕の足を掴む手を緩めた。僕はまた、歩き出すことができた。街灯の下で待つ春のもとへ。

   *

 春に桜の舞い散るように。

 春の歌を聴きながら、心に浮かんだその言葉を、僕は温めていた。
 大学の講義中も、部屋に帰ってハルの絵に囲まれている時も、そのフレーズから言葉を広げていくことばかりを考えていた。
 僕はハルを失った。悲しい、辛い。だけど。春は両親を失った。春のおじいさんは娘を失い、大切な孫を哀しませたと悔やんでいる。今は元気な僕の両親だって、いつかは死んでしまう。世界では、今も沢山の大切な人が死に、大切な人を失った沢山の人が、今も泣いているんだろう。世界はどうしようもなく、悲しみに満ち満ちている。
 でも、それだけではないはずだ。世界に悲しみしかないのなら、僕たちはとても生きてはいられない。悲しみを越える何かが、僕たちの心にはあるはずなんだ。それを、言葉にしたい。
 僕の心も、心の中のハルも、寄り添おうとしてくれる春も、優しいおじいさんの傷跡も。全てを救うような言葉を、僕は探さなくては。
 週末まで頭を悩ませ続けたが、二、三個のフレーズを捻り出せただけだった。僕の中のハルは、まだ笑ってはくれない。
 金曜日の夜、春からLINEが来た。


【Haru Miyazato】
明日のこと!
   
一週間お疲れ様!
ようやく週末だね。待ちわびたよ!
明日、海辺の階段で待ってるね。
色々話したいから、絶対来てね!
   
★注意★
なお、このLINEを読んだら三十秒以内に返事を出すこと。
三十秒を超過すると、自動的に爆発します。私が。


 思わず噴き出してしまった。春が爆発したら大変だ。急いで返事を出さなくては。


【Aki】
明日、必ず行きます!
だから爆発しないで!


【Haru Miyazato】
春の爆破装置は解除されました。
明日、待ってます! 楽しみ!


 少しだけ、明るくなった気持ちで、金曜の夜は更けていった。