- 分かります -
*** Mr. Autumn ***
ハルが死んでから、僕の涙腺はどうかしてしまったんじゃないかと思うほどよく泣いていたが、それでも貯め込み続けていたのか、涙はなかなか尽きなかった。
ハルの思い出が、彼女の言葉が、一つずつ心に浮かび、それらの全てが悲しく懐かしく、声を上げて泣いた。ハルの思い出が尽きた後は、春を泣かせたことの後悔と、彼女の優しさに泣いた。
ようやく落ち着いたのは、太陽が傾いて真っ赤に燃える頃だった。泣き疲れた体と、涙で掠れる目で、ぼんやりと夕焼けを見ていた。春も、左隣で何も言わずにずっと付き合ってくれていた。心は、不思議なほど凪いでいた。ハルがいなくなってから、初めて感じた安息だった。
「寒くなってきたね。うち、行こ。一緒におじいちゃんのコーヒー飲もう」
「……うん」
僕たちは、ゆっくりと歩いた。
「なあ、僕の目、腫れてないか?」
「うん、腫れてる」
春が笑いながら答えた。
「うう、恥ずかしいなぁ。おじいさんにどう思われるだろう」
「おじいちゃんは人格者だから大丈夫! 全然気にしなくていいよ」
彼女はそう言って、木造りの扉を押し開ける。
「おかえり、春。……君も、よく来たね。いらっしゃい」
今日はおじいさんは店内にいた。細く優しい目で迎えてくれた。
「おじゃま……します」
扉を閉めると、春がおじいさんに駆け寄って行った。耳元で何かを囁いている。
今日もお客さんはいないようだ。大丈夫なんだろうかこのお店は。
「そうか、よかったね……」
「うん!」
春が嬉しそうに笑う。おじいさんも優しく微笑む。何を話したんだろう。
おじいさんが奥のキッチンに向かい、春はこちらに駆け戻って来た。
「何を話したんだ?」
「ふふっ、ヒミツだよ!」
僕たちは、前回と同じ席についた。何だか、体中が疲れている。
「ねね。歌詞は考えてくれた?」
「あー……。考えてはいるんだけど、中々いいのが出来なくて。実は今日はそれを考えに海に来たんだけど、すっかり予定が狂ってしまった」
「え、それってもしかして私のせい?」
「そうかもな」
「えー、ひどーい。あんなに尽くしてあげたのに」
「冗談だよ。……ありがとう。今はすごく、心が軽い。体はクタクタだけど」
「そっか。よかった」
春は少し俯きがちになり、続けた。
「歌詞は、急がなくても全然いいからね。心に留めておいてくれるだけで、それは、私を覚えててくれることに似ていて、私は、嬉しいから」
空っぽになった心に、春が心地よく沁み渡っていく。
慌てて頭を振った。危ない。危ない。僕はまだ、ハルを忘れるつもりはないし、この先も絶対に忘れない。心は落ち着いたが、それはずっと変わらない。
春が少し不満げな顔をするのが視界に写った。
「あ、いや、違うんだ」
「なにがー?」
「約束は、忘れないからな」
「ふーん……」
春はテーブルに肘を乗せ、両手で頬を包むようにして、僕を眺めている。
ハルを忘れることも出来ないし、春の優しさに流されるわけにも行かない。僕は、どうしたらいいんだろう。誰か答えを知ってるなら、教えてくれ。
「お待たせ。ゆっくりして行きなさい」
おじいさんがコーヒーを二つ持ってきた。香ばしく、穏やかな香りに包まれる。しばらく無言で、春と温かいコーヒーを飲んだ。おじいさんは、もう見えなくなっていた。
「なあ、あの曲……、また歌ってくれないか?」
沈黙が辛かっただけでなく、本心からまた聴きたいと思っていたので、そう提案した。
「うん、いいよ」
春は微笑んで、席を立つ。BGMを落とし、ピアノに向かい、鍵盤を優しく叩く。その、白く細い指から、薄桃色の花びらが零れるように感じた。
目を閉じて、春の優しい旋律に聴き入る。この美しいメロディーに乗せる、美しい言葉を、考えよう。今日あれだけ泣いたのに、また暖かい涙が流れる。
まぶたの裏には、綺麗な桜が舞う、モネの丘の景色が映った。
春 に 桜 の 舞 い 散 る よ う に
その言葉だけが、ふと、心に浮かんだ。
気がつくと、テーブルの上の両手の中に埋もれていた。いつの間にか寝てしまったようだ。背中に毛布がかかっているのが分かる。春の音楽は止んでいた。
顔を上げたら、向かいの席に春ではなくおじいさんが座っていた。
「うおっ」
びっくりして、声を上げてしまった。失礼だったろうか。
「おはよう。疲れていたみたいだね」
「い、今、何時ですか?」
おじいさんは壁にかかった時計を見上げた。
「十八時ちょうどだね」
「よかった、寝てたのは一時間くらいか。あ、でも、そろそろ帰らないと」
腰を上げて春を探したけど、見当たらない。
「あれ、春はどこです?」
「春は、二階のキッチンで夕飯を作っているよ。是非食べていってあげてくれないか」
「え、でも……」
僕が言い淀んでいるのを見ると、おじいさんは続けた。
「秋君、少しだけ、私の話を聞いてほしい」
おじいさんの表情は相変わらず穏やかだったが、その声には微かに真剣さが感じられた。椅子に腰を下ろして、言葉を待った。
「他ならない、春のことだ」
嫌な予感がした。胸がざわめく。
「……あの子は、三年前に病気で母親を亡くしていてね」
「えっ……」
そうだったのか。祖父と二人暮らしをしていることから、何となく想像はしていたが、それでもその事実は衝撃だった。それに……三年前……。ハルがいなくなったのと、同じ年だ。
「父親は、春が生まれて間もなく癌で亡くなった。春の母親も……私の娘なんだが……、女手ひとつで春を懸命に育て、愛していたのに、三年前の秋に、同じく癌で倒れた……。私は、娘にも、春にも、何もしてやれなかったのが辛くてね……。何度も、何度も、自分を恨んだよ。あの時、ああしていれば、こうしていれば、とね。実際、私なんかの行動では、娘が病気になる運命を避けることも、病気を癒してやることも、出来るはずないんだがね。それでも娘や、春の、心の傷を、ひとつでも庇ってやるくらいは、出来たんじゃないかと……」
おじいさんの白い眉毛が、哀しみに震えている。
「そうだったんですか……」
「私は春を守らなくてはならない。今度こそあの子を、幸せにしてあげなくてはならない」
おじいさんの言いたい事が、何となく分かった気がした。少し、心が重くなる。
「春は最近、よく君の話をするよ。本当に君を好いているようだ。あの子は、病気で衰弱していく両親を見てきたからか、とても気がきく優しい子でね……。辛そうな君を、放っておけないようなんだ」
僕は何も言えなかった。おじいさんがその先を言うことが、何だか怖い気がして、耳を塞いでしまいたかった。
「君の事情も、ある程度は春から聞いた。君も、何か辛い過去を引きずっているようだね……」
確かにハルのことは、暗い過去から手を伸ばして僕の心を掴み続けているが、僕の両親は健在だし、今の環境も、幸福と言えるだろう。それに比べ、春は幼くして父を亡くし、二人分の愛をくれていた母とも、三年前に別れた。どれだけ辛いだろう。最も大切な人、両親の衰弱と喪失を、目の前で経験したこと。そんな春を、ひとつでも多くの傷から庇おうとして、何もできない自分を責め、今まで静かに見守ってきたおじいさん。
世界には、同じような、いや、それ以上の苦しい思いをしている人が、沢山いるんだろう。自分の苦しみなんて、何でもないことのように思えてしまう……。
いや、いや、違う。そんなことを考えれば、ハルがかわいそうだ。ハルは僕にとって世界よりも大事で、ハルを失ってこの心に空いた穴は、海よりも深く、闇よりも暗い……。
「君が、本当に春を大切に思い、大事にしてくれるなら、私は喜んで君を迎え、春を君に託したいと思っている。しかし、君が過去に縛られ続け、春を疎かにするというなら……、もう、春と会うのは、やめてやってくれないだろうか……」
おじいさんは右手で顔を覆い、苦しそうな声で続けた。
「すまない……。すまない……。君たちのような若者の関係に、私のような老人が口を出すべきではないのかもしれない……。でも私は、あの子が辛い思いをするのを、もう見たくないんだ。もう、ひとつの傷も、付けさせたくないんだ……」
泣いているのか、おじいさんの肩は小さく震えている。
分かります。あなたの言いたいこと。春を大切に思うあなたの気持ち。僕は、鉛を付けられたような重い心で、ようやく声を絞り出すことができた。
「はい……。……分かります……」
おじいさんは何度も僕に謝りながら、少し外の空気を吸いに行く、春には買い物に行ったと伝えてくれと言い残し、店を出た。
心が、重い。僕を好いてくれる優しい春を、笑顔にしたい。でも、そう思うと、心の中の大切なハルが悲しい顔をする。ハルを想い続けていては、春を幸せにすることは出来ない。
*** Mr. Autumn ***
ハルが死んでから、僕の涙腺はどうかしてしまったんじゃないかと思うほどよく泣いていたが、それでも貯め込み続けていたのか、涙はなかなか尽きなかった。
ハルの思い出が、彼女の言葉が、一つずつ心に浮かび、それらの全てが悲しく懐かしく、声を上げて泣いた。ハルの思い出が尽きた後は、春を泣かせたことの後悔と、彼女の優しさに泣いた。
ようやく落ち着いたのは、太陽が傾いて真っ赤に燃える頃だった。泣き疲れた体と、涙で掠れる目で、ぼんやりと夕焼けを見ていた。春も、左隣で何も言わずにずっと付き合ってくれていた。心は、不思議なほど凪いでいた。ハルがいなくなってから、初めて感じた安息だった。
「寒くなってきたね。うち、行こ。一緒におじいちゃんのコーヒー飲もう」
「……うん」
僕たちは、ゆっくりと歩いた。
「なあ、僕の目、腫れてないか?」
「うん、腫れてる」
春が笑いながら答えた。
「うう、恥ずかしいなぁ。おじいさんにどう思われるだろう」
「おじいちゃんは人格者だから大丈夫! 全然気にしなくていいよ」
彼女はそう言って、木造りの扉を押し開ける。
「おかえり、春。……君も、よく来たね。いらっしゃい」
今日はおじいさんは店内にいた。細く優しい目で迎えてくれた。
「おじゃま……します」
扉を閉めると、春がおじいさんに駆け寄って行った。耳元で何かを囁いている。
今日もお客さんはいないようだ。大丈夫なんだろうかこのお店は。
「そうか、よかったね……」
「うん!」
春が嬉しそうに笑う。おじいさんも優しく微笑む。何を話したんだろう。
おじいさんが奥のキッチンに向かい、春はこちらに駆け戻って来た。
「何を話したんだ?」
「ふふっ、ヒミツだよ!」
僕たちは、前回と同じ席についた。何だか、体中が疲れている。
「ねね。歌詞は考えてくれた?」
「あー……。考えてはいるんだけど、中々いいのが出来なくて。実は今日はそれを考えに海に来たんだけど、すっかり予定が狂ってしまった」
「え、それってもしかして私のせい?」
「そうかもな」
「えー、ひどーい。あんなに尽くしてあげたのに」
「冗談だよ。……ありがとう。今はすごく、心が軽い。体はクタクタだけど」
「そっか。よかった」
春は少し俯きがちになり、続けた。
「歌詞は、急がなくても全然いいからね。心に留めておいてくれるだけで、それは、私を覚えててくれることに似ていて、私は、嬉しいから」
空っぽになった心に、春が心地よく沁み渡っていく。
慌てて頭を振った。危ない。危ない。僕はまだ、ハルを忘れるつもりはないし、この先も絶対に忘れない。心は落ち着いたが、それはずっと変わらない。
春が少し不満げな顔をするのが視界に写った。
「あ、いや、違うんだ」
「なにがー?」
「約束は、忘れないからな」
「ふーん……」
春はテーブルに肘を乗せ、両手で頬を包むようにして、僕を眺めている。
ハルを忘れることも出来ないし、春の優しさに流されるわけにも行かない。僕は、どうしたらいいんだろう。誰か答えを知ってるなら、教えてくれ。
「お待たせ。ゆっくりして行きなさい」
おじいさんがコーヒーを二つ持ってきた。香ばしく、穏やかな香りに包まれる。しばらく無言で、春と温かいコーヒーを飲んだ。おじいさんは、もう見えなくなっていた。
「なあ、あの曲……、また歌ってくれないか?」
沈黙が辛かっただけでなく、本心からまた聴きたいと思っていたので、そう提案した。
「うん、いいよ」
春は微笑んで、席を立つ。BGMを落とし、ピアノに向かい、鍵盤を優しく叩く。その、白く細い指から、薄桃色の花びらが零れるように感じた。
目を閉じて、春の優しい旋律に聴き入る。この美しいメロディーに乗せる、美しい言葉を、考えよう。今日あれだけ泣いたのに、また暖かい涙が流れる。
まぶたの裏には、綺麗な桜が舞う、モネの丘の景色が映った。
春 に 桜 の 舞 い 散 る よ う に
その言葉だけが、ふと、心に浮かんだ。
気がつくと、テーブルの上の両手の中に埋もれていた。いつの間にか寝てしまったようだ。背中に毛布がかかっているのが分かる。春の音楽は止んでいた。
顔を上げたら、向かいの席に春ではなくおじいさんが座っていた。
「うおっ」
びっくりして、声を上げてしまった。失礼だったろうか。
「おはよう。疲れていたみたいだね」
「い、今、何時ですか?」
おじいさんは壁にかかった時計を見上げた。
「十八時ちょうどだね」
「よかった、寝てたのは一時間くらいか。あ、でも、そろそろ帰らないと」
腰を上げて春を探したけど、見当たらない。
「あれ、春はどこです?」
「春は、二階のキッチンで夕飯を作っているよ。是非食べていってあげてくれないか」
「え、でも……」
僕が言い淀んでいるのを見ると、おじいさんは続けた。
「秋君、少しだけ、私の話を聞いてほしい」
おじいさんの表情は相変わらず穏やかだったが、その声には微かに真剣さが感じられた。椅子に腰を下ろして、言葉を待った。
「他ならない、春のことだ」
嫌な予感がした。胸がざわめく。
「……あの子は、三年前に病気で母親を亡くしていてね」
「えっ……」
そうだったのか。祖父と二人暮らしをしていることから、何となく想像はしていたが、それでもその事実は衝撃だった。それに……三年前……。ハルがいなくなったのと、同じ年だ。
「父親は、春が生まれて間もなく癌で亡くなった。春の母親も……私の娘なんだが……、女手ひとつで春を懸命に育て、愛していたのに、三年前の秋に、同じく癌で倒れた……。私は、娘にも、春にも、何もしてやれなかったのが辛くてね……。何度も、何度も、自分を恨んだよ。あの時、ああしていれば、こうしていれば、とね。実際、私なんかの行動では、娘が病気になる運命を避けることも、病気を癒してやることも、出来るはずないんだがね。それでも娘や、春の、心の傷を、ひとつでも庇ってやるくらいは、出来たんじゃないかと……」
おじいさんの白い眉毛が、哀しみに震えている。
「そうだったんですか……」
「私は春を守らなくてはならない。今度こそあの子を、幸せにしてあげなくてはならない」
おじいさんの言いたい事が、何となく分かった気がした。少し、心が重くなる。
「春は最近、よく君の話をするよ。本当に君を好いているようだ。あの子は、病気で衰弱していく両親を見てきたからか、とても気がきく優しい子でね……。辛そうな君を、放っておけないようなんだ」
僕は何も言えなかった。おじいさんがその先を言うことが、何だか怖い気がして、耳を塞いでしまいたかった。
「君の事情も、ある程度は春から聞いた。君も、何か辛い過去を引きずっているようだね……」
確かにハルのことは、暗い過去から手を伸ばして僕の心を掴み続けているが、僕の両親は健在だし、今の環境も、幸福と言えるだろう。それに比べ、春は幼くして父を亡くし、二人分の愛をくれていた母とも、三年前に別れた。どれだけ辛いだろう。最も大切な人、両親の衰弱と喪失を、目の前で経験したこと。そんな春を、ひとつでも多くの傷から庇おうとして、何もできない自分を責め、今まで静かに見守ってきたおじいさん。
世界には、同じような、いや、それ以上の苦しい思いをしている人が、沢山いるんだろう。自分の苦しみなんて、何でもないことのように思えてしまう……。
いや、いや、違う。そんなことを考えれば、ハルがかわいそうだ。ハルは僕にとって世界よりも大事で、ハルを失ってこの心に空いた穴は、海よりも深く、闇よりも暗い……。
「君が、本当に春を大切に思い、大事にしてくれるなら、私は喜んで君を迎え、春を君に託したいと思っている。しかし、君が過去に縛られ続け、春を疎かにするというなら……、もう、春と会うのは、やめてやってくれないだろうか……」
おじいさんは右手で顔を覆い、苦しそうな声で続けた。
「すまない……。すまない……。君たちのような若者の関係に、私のような老人が口を出すべきではないのかもしれない……。でも私は、あの子が辛い思いをするのを、もう見たくないんだ。もう、ひとつの傷も、付けさせたくないんだ……」
泣いているのか、おじいさんの肩は小さく震えている。
分かります。あなたの言いたいこと。春を大切に思うあなたの気持ち。僕は、鉛を付けられたような重い心で、ようやく声を絞り出すことができた。
「はい……。……分かります……」
おじいさんは何度も僕に謝りながら、少し外の空気を吸いに行く、春には買い物に行ったと伝えてくれと言い残し、店を出た。
心が、重い。僕を好いてくれる優しい春を、笑顔にしたい。でも、そう思うと、心の中の大切なハルが悲しい顔をする。ハルを想い続けていては、春を幸せにすることは出来ない。