春に桜の舞い散るように

- 神様、助けてよ -


 アキは毎週土曜日に、あの海に行くようになった。ノートとペンを持って行って、何かを書くようにもなっていた。ちらりと見てみたけど、絵じゃなくて言葉みたいだ。読んでみたかったけど、我慢した。幽霊で気付かれないからって、勝手に見るのは良くないと思って。
 ある日、いつものようにアキの隣で海を見ていると、後ろから懐かしい声に呼ばれた。

「あら、サクラじゃない?」

 振り返ると、階段の上で茶色の縞模様の猫さんが私を見ていた。

「きなこ! 会いたかったよぉ!」
「やっぱりサクラね。随分久しぶりな気がするわ。どうしてたの?」
「色々あったんだよ。ずっと話したかったの」

 階段の一番上に座って、きなこに全部話した。壁の中心点が変わったことも、電車に引きずられて苦労したことも、記憶が戻ったことも、彼との思い出も、想いを告げられなかった事も。

「そう、サクラにとって大切な人なのね。だから人バクレイになったのかしら」
「うん、たぶんそうなんだと思う」

 きなこと二人で、前に座るアキを見つめた。海も空も綺麗な青で爽やかな景色なのに、アキの周りだけ少し冷たい悲しげな風が漂っているように感じる。
 彼が私を想ってくれるのは嬉しい。すごく嬉しい。でも、私のせいで彼が苦しむなんて、そんなのはイヤだ。でも、彼に忘れられるのは、もっとイヤだ。どうすればいいんだろう。

「そういえばあなた、本当の名前はハルっていうのね。私が知ってる人間と同じ音だわ」
「そう! きなこが教えてくれた春ちゃんと同じだし、見た目もすごく似てるじゃん。びっくりしちゃったよ。私たちがそっくりだって、どうして教えてくれなかったの?」
「あら、そうなの。人間の顔なんて、どれも同じに見えちゃうわ。あなたも、あたしたち猫の違いなんて、見分けられないんじゃないかしら」
「う、確かに。そういうものなのか……」

 そんな会話をしていたら、遠くのスーパーの方から女の子が歩いてくるのが見えた。

「あ、春ちゃん……」
「あら、噂をすれば何とやら、ね」

 心に、いやな感情がザワザワと湧き上がってくる。
 彼女とアキを会わせたくない。きなこがここにいると、彼女がきなこを構うかもしれない。そうすれば、アキもさすがに気付いて振り向いてしまうかもしれない。

「……きなこ、ごめん。ホントはもっと話してたいけど、今日は帰ってもらってもいいかな」
「別に構わないけど、どうしたの?」
「うん、ちょっと……」

 言いにくそうにしている私を見て、きなこは立ち上がった。

「分かったわ。今日はさよならね。また会いましょう」
「うん……ごめんね」

 きなこは音を立てずに、民家のある方へ歩いて行った。ごめん、きなこ……。
 しばらくして、春ちゃんが階段の所まで来た。彼女はまた足を止めて、階段に座るアキを見つめている。私が地バクレイだった時は、彼女が毎日ここに座っているのを見ていたけど、最近もそうしてるのだろうか。ここにアキが座るようになって、何を思ってるかな。
 彼女はそーっと前に出て、階段の一段目に座る私の横で、アキの手元を覗こうとした。ノートが気になるのかもしれない。
 お願い、声をかけないで。このまま歩き去って行って。
 心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら様子を見ていたら、彼女はアキを気にしながらも、民家のある方へ歩いて行った。
 微かな安心と同時に、自己嫌悪を感じた。アキは、私だけを見ていて欲しい、私だけを想っていて欲しい、そんな独占欲を持つのは、私みたいな存在には許されないのかもしれない。アキを縛り付けて、苦しめているのは、私なのかもしれない。

   *

 崖の上で揺れる楓が、真っ赤に色付いた。
 アキが、毎週土曜日にこの海辺に来るようになってから、もう半年近くが経った。私は相変わらずアキに付いて行き、春ちゃんは毎回この道を通って、アキを気にしていった。日を重ねる毎に、彼女が足を止める時間が長くなっていってるような気がする。
 今日もアキと並んで海を見ていると、春ちゃんが後ろに来た。なんだか、いつもよりちょっとお洒落をしているみたいで、可愛い。アキの隣に座ってそちらを眺めていると、彼女は手を胸に当てて、少し深呼吸をした。
 そして、ゆっくりと、足音を立てずにこちらに歩いてくる。もしかして……。
 私は立ち上がって階段を数段上って、彼女に向かって両手を横に広げた。アキを守るように。アキを、独り占めするみたいに。

「待って、あなたがアキに会ったら、アキを驚かせちゃうよ。辛い思いをさせちゃうかもしれないの。だから、あなたはアキに会わないで。お願い」

 彼女は私の声を聞かず、私をすり抜けて、そのまま、アキのノートを覗きこんだ。私だって見てないのに。ずるいよ。心に不安と嫉妬が渦巻く。

「へえー、歌詞でも書いてるの?」
「うわぁ!」

 アキは大げさに驚いて、階段から転んで砂浜に落ちた。
 アキがこっちを見上げて、さらに驚いているのが分かった。胸がぎゅうって締め付けられるみたいに痛い。アキが見てるのは私じゃなくて、私の横にいる、私に似た、別の女の子。その子を見て驚いたのは、やっぱり、私にそっくりだから?
 涙が零れてきた。ついに、二人が出会ってしまった。
 二人はいくつか言葉を交わした後、春ちゃんが具合悪そうなアキの手を取って民家のある方へ連れて行った。少し距離を置いて私も付いて行くと、あの茶色の建物に入った。ずっと気になっていたこの建物は、喫茶店だったんだ。
 扉が閉まった後、私も目を閉じて、中に入る。扉に背中を預けて、二人を眺めた。白髪のおじいさんがコーヒーを持ってきて、アキが飲んでいる。春ちゃんがアキに何か話している。寂しい。寂しい。アキ、私から離れていかないで。
 春ちゃんが微笑んだのが見えた。何の話をしてるんだろう。

「秋くん。私は、君が好きです」

 ここからでも、彼女の言葉が鮮明に聞こえた。アキは驚いているのか固まってる。胸がさらに苦しくなる。
 アキを見つめる彼女を見て、何となくそうじゃないかと思っていたけど、こんなに早く言うなんて。何カ月も迷って、言いたくて言えなくて、結局死んじゃって言えなくなった私が、バカみたいだ。
 涙とため息しか出ない。心は雨が降り続けてるみたいに、悲しさでいっぱい。
 目を閉じて、お店の外に出た。今日は空には厚い雲がかかっているけど、ぼんやりと赤く染まっていて、夕焼けになっているのが分かる。扉の前の段差に座って空を眺めていたら、お店の中からピアノの音が聞こえてきた。澄んだハミングも聞こえる。春ちゃんが歌ってるのだろうか。優しくて、綺麗な旋律だ。少しだけ、心の雨が弱まるのを感じた。

 暫くしたら、アキと春ちゃんがお店から出てきて、カーブのある方に歩き出した。少し距離を置いて、とぼとぼと私も付いて行く。
 彼女は、楽しそうにアキに色々話している。アキは時々相槌を打ちながら静かに聞いている。二人は、付き合うんだろうか。私が言うのも変な感じだけど、春ちゃんは可愛いし、ずっと泣いてた彼女には、幸せになって欲しい。アキは優しいから、きっと彼女を幸せにしてあげるだろう。
 アキが、私を忘れたら、私の壁はなくなるだろうか。また、あのカーブの地バクレイに戻るんだろうか。こんなに辛いなら、その方がいいかな。それとも、私も、アキを忘れないと、ダメかな。
 地面にぽろぽろ零れて、跡も残さずに消える涙を見つめながら、そんなことを考えて歩いていたら、突然アキのどなり声が聞こえた。春ちゃんも何か言ってる。喧嘩?

「お前には分からない! お前に何が分かる!」
「分かるわけないじゃん! だから教えてよ!」

 駆けつけると、アキが頭を抱えながら叫んでいた。

「お前に何が分かる! ハルはここで死んだのに!!」

 私の全身が、凍りつくように感じた。
 春ちゃんが、泣きながら民家の方に走って行った。
 アキが地面にうずくまって、大声で泣き出した。

 私はここで死んだ。そのことが、大好きなアキも、アキを好きだという春ちゃんも、悲しませている。

 神様、助けてよ。このままじゃ誰も、幸せになれないよ。

- 君の名はライラック -


*** Mr. Autumn ***

 何時間泣いていたか分からない。一生こうしているわけにもいかないので、心が落ち着いてきた頃に、とぼとぼと駅へ歩いたが、辺境の駅はとっくに終電を終えており、僕は朝まで駅前のベンチで眠った。
 翌日、日曜日は、ボロボロの心と体でハルの絵に囲まれながら、天井を眺めて過ごした。涙は、硝子玉のように転がった。牢獄のような窓から見える空は、凍えるような自由と孤独を湛えていた。

  ライラック。君の名はライラック。
  僕たちは、思っていたよりもずっと、
            ずっと遠いね。


 月曜日、大学の講義中にスマホが震えた。LINEだ。


【Haru Miyazato】
この前は、何も知らずにひどいことをしてしまい、本当にごめんなさい。
あなたが海を見ていた理由、泣いていた理由が分かった気がして、胸が痛みました。
無理にとは言いませんが、もし、辛くなければ、また、あの海に来て下さい。
話すことで、楽になることもあると思います。
私はいつでも大丈夫です。
連絡待ってます。


 春と名乗ることも、僕を秋と呼ぶこともないそのメールは、土曜日に会った春からは想像できない余所余所しさを感じた。なぜ、君が謝るんだ。ひどいことをしたのは僕の方だ。
 もう会えないと思っていたから、このメッセージは少し嬉しかったが、喜んでしまう自分の弱さを、また嫌悪してしまう。春に会うのは、やめよう。その優しさに甘えても、きっと、誰も幸せにならない。
 春も、いずれ僕を、忘れるだろう。


 その週の土曜日は、海に行かなかった。
 大学の友達連中をカラオケに誘い、一日中歌い続けた。声が嗄れるほど叫んだ。
 どれだけ声を出しても、馬鹿みたいに笑っても、心の中の暗雲は、一向に晴れない。
 春のLINEに、返事は出していなかった。
 会うまいと決めたのに、胸がチクチクと、チクチクと痛んだ。


 日曜日はまた、ハルの絵を眺めて過ごした。
 ハルの桜の絵は、どこまでも綺麗で澄んでいるのに、僕の心を清々しくしてはくれない。ハルの目標だった、人を元気付ける絵。この絵には、きっとその力があるのに、僕の淀みきった心が、美しい景色を濁らせているのかもしれない。
 心の中のハルは、いつも寂しげな表情をしている。ここは、自分で選んできた道なのに、何かが間違っている気がして、でもそれが何なのか、僕には、分からない。
 手を伸ばして、その手を掴みたい。暗く冷たい水の底から、ハルを引き上げてあげたい。ハルを、救いたい。
 突然、机の上に置いていたスマホが振動し、静寂を打ち破った。驚いた。慌てて手に取る。LINEだ。


【Haru Miyazato】
おじいちゃんが、新作のメニューを作りました。
季節の栗とカボチャを使った和風のパフェだよ。
すごく美味しいから、よかったら食べにきてね。
甘いもの、好き?


 画像が添付されている。見てみると、本文で言っていたパフェと思われる写真だ。
 ……どうでもいい。スマホの電源を切り、布団に潜り込んで、果てなく遠い、ハルを想った。



*** Miss Spring ***

 あれから、アキは今までよりも笑わなくなった。学校で会う友達にも、少しぶっきら棒に接するようになった。
 それに、私を閉じ込める透明な壁の円周が、前よりも狭くなったような気がする。どうしてだろう。私の、アキへの執着、未練が強くなったのだろうか。それとも、アキの、私の魂を縛る何かが、強くなったのだろうか。
 アキには、私を忘れてほしくない。
 アキが私を忘れたら、私の思い出が、輝いてた短い青春が、なかったことになってしまいそうで、怖い。だけど、私の過去が、アキの中の私の存在が、アキを縛って苦しめているなら、解き放ってあげたい。でも、どうしたらアキを救えるのか、私には、分からない。
 アキが、部屋に飾った私の絵を眺めている。私もアキの傍に行き、自分の絵を眺めてみる。
 悩んでる人の心を慰めたり、清々しい気持ちにしたり、元気をくれたりする、そんな絵を描くことを目標にしていたけれど、私の絵には、何の力もないみたいだ。大好きな人も、自分自身の心でさえ、私の絵は救えない。
 私の夢は、もう叶わない。アキ、ごめんね。もう捨てていいんだよ、こんな絵。



*** Mr. Autumn ***

 月曜、火曜の授業をこなし、水曜日。
 休み時間に校舎を移動していると、友達に呼び止められた。スマートで長身で、眼鏡をかけた見た目はインテリだが、中身は体育会系な男、杉浦だ。

「おう。これ、俺の彼女。お前にも紹介しておこうと思ってさ」

 そう言って、杉浦は横にいる女性を自慢げに指差した。その人は少し恥ずかしそうに、僕に軽くお辞儀をした。確かに自慢できそうな美人ではあるが、ハルには遠く及ばないな。
 杉浦は僕の肩に腕を回し、彼女から少し遠ざかって小声で言う。

「おい、お前も彼女作れよ。いいもんだぞ。お前も見た目は悪くないんだから、ちょっと積極的になればすぐに出来るって。何なら、誰か紹介してやろうか?」
「余計なお世話だよ。放っといてくれ。そして耳元で囁くなよ気持ち悪い」
「ん~、なんだ? 好きな子でもいるのか? どこの誰だよ。俺の知ってる子?」

 僕の腹部を小突きながら嬉しそうに訊いてくる。入学当初に無理して作った友人だが、非常に鬱陶しい。

「僕なんかに構ってると、彼女が他の男に取られるぞ」

 振り返ると、知らない男が彼女に声をかけている所だった。

「おいマジかよ! ちょっとあんた、俺の女に何の用だ!」

 肩が解放された隙に、その場を立ち去った。
 恋人という存在に、憧れないことはない。ハルが、生きていれば……。同じ授業を受けて、同じサークルに入って隣で絵を描いて、図書館で一緒に勉強して、近所の公園を散歩して……。そんな考えは今までにも何度もした。
 ハルは死んだのに、僕は、僕を含む世界は、今も生き続けている。ハルだけを暗い所に残して、みんな、明るい世界で笑って生きている。心臓が、引き絞られるように痛い。
 学校でこの状態になると辛い。誰にも心配されたくないから、早足で人気の無い中庭に向かい、備え付けてあるテーブルに手を付き、息を整える。
 ポケットのスマホが鳴った。また、春からのLINEだ。


【Haru Miyazato】
授業中だったらごめんね。
私は音楽学校の休み時間です。
最近寒さが増してきたよね。体に気をつけてね。
学校の近くの公園に、綺麗なもみじがあるんだよ。
写真撮ったから送るね。


 メッセージの下に添えられた写真には、青い空を背景に、赤く染まった楓が輝いていた。しばらく眺めてからスマホをしまい、ふと見上げると、この中庭にも楓が赤く燃えていた。なぜか分からないけど、涙がひとつ零れた。胸の痛みはいつの間にか消えていた。


 土曜日。また僕は海に行かなかった。
 ハルの絵に囲まれていたが、時折、春の笑顔や、僕を驚かせた言葉や、夜の泣き顔が心に浮かんだ。
 謝りたかった。何もしてやれなかったハルにも、泣かせてしまった春にも。
 日曜日。LINEの受信音で目が覚めた。


【Haru Miyazato】
やっほー、元気かい?
歌詞を考えてくれるって約束、
よもや忘れてはおるまいな!
待ってるからね


 今までとは打って変って、明るい雰囲気だ。
 何でこの子は、こんな僕を構うんだろうか。暗いし、後ろ向きだし、ひどいことも言ってしまった。
 ひとつ、長い溜息を吐き出し、一度も聴いていなかったカセットテープを鞄から引っ張り出した。実家から持ってきていたコンポに挿入し、再生ボタンを押す。カセットを聞ける機器がうちにあってよかったな、春。
 少しノイズがかってはいたが、喫茶店で聞いた優しい春の歌声が部屋を満たす。あの時は堪えたが、今は部屋に僕一人。思う存分涙を流した。でも、不思議と悲しい涙ではなかった。頬を伝う跡も、温かかった。
 ほんの少しだけ、胸のつかえが取れた気がする。
 壁に飾ったハルの絵も、少し輝いて見えた。
 僕の心の混沌と、その中の笑わないハルと、それら全てを救う光が、その先にある気さえ、その瞬間は感じていた。


【Aki】
覚えてるよ
考えてみる


 簡素すぎるが、一応返事を出した。
 カセットを巻き戻し、また先頭から再生する。
 布団にもぐり直し、目を閉じて、美しい旋律に乗せる言葉を、思い浮かべた。
 今度、パソコンで録り直して、スマホに入れよう。


 その日の夜、夢を見た。
 大学に入学してからも、何度か見ていた、空を飛ぶ夢。
 灰色の工場地帯のような場所で、上空からハルを見つけ、彼女の前に降り立ったけど、目の前に佇む女の子が、ハルなのか、春なのか、分からなかった。
 彼女は僕を見つけると、ふわりと笑った。舞台は突然モネの丘に切り替わり、画面いっぱいに桜が咲き乱れた。
 胸の苦しさで目が覚めると、頬を流れていた涙が、過去に棚引く後悔なのか、未来に向かう切望なのか、僕には分からなかった。
 カーテンの間から差し込む月の光の中に、夢で見た桜の花が一つ浮かんでいるように見えて、手を伸ばしたけど、すぐに消えてしまった。寝ぼけていたんだろうか。

- 優しい太陽 -


*** Miss Spring ***

 アキのアパートの廊下の手すりに座って朝日を見ていたら、アキの部屋から、前に喫茶店の扉の前で聴いた、春ちゃんのピアノと澄んだハミングが微かに聞こえてきた。
 目を閉じてアキの部屋に入ると、アキがラジカセのような機器の前で涙を流していた。
 アキが泣いてる。でも、不思議と心は苦しくなかった。アキが穏やかな表情をしているからだろうか。
 アキの横に座って、私も彼女の音楽を聴いてみる。静かで優しくて、包み込んでくれるような、寄り添ってくれるような歌だ。自分は一人ではないんだと、教えてくれるような、そんな旋律。私が絵で描きたかった世界と似ているのかもしれない。
 私の、私たちの抱えている問題の答えが、この先にあるような、そんな気がする。
 歌は、爽やかなメロディーで締めくくられた。余韻に浸りながら、聴き逃してしまった前半からもう一回聴き直したいと思っていたら、スマホを操作していたアキがテープを巻き戻して、始めから再生してくれた。
 ふふ、私の思いが通じたかな。


 その日の夜は廊下に出ずに、布団で眠るアキの隣に座っていた。アキの寝息を聞きながら、カーテンの隙間から覗く月を見上げていたら、後ろから彼の声が聞こえた。

「はる……」

 ドキリとして振り返ると、アキがまた涙を流していた。夢を見ているのだろうか。私かな、春ちゃんかな。でも、どっちでもいい……かな。どうか、アキが幸せになる道を選んでね。
 触れないのは分かっているけど、少しかがんでアキに近付いて、頬を流れる涙を親指で拭おうとしたら、アキが目を開けて、視線がぶつかった。

「わっ……」

 アキに私は見えないと分かっているのに、驚いてしまう。
 少しドキドキしたけど、そのままアキを見つめていたら、アキが右手をゆっくり上げて私の顔に近づけてきた。

「えっ、アキ? 私が分かるの?」

 アキの右手の指が、私の髪を触った気がした。私も左手を上げて、アキの手に触れようとしたら、アキは反対にゆっくりと手をおろして、また目を閉じた。

「アキ……」

 アキは穏やかな寝息を立てている。左手で、アキが触れた髪を触ったら、アキがくれた桜のヘアピンが指に当たった。



*** Mr. Autumn ***

 一週間、大学の講義中や部屋の中で、言葉を捻り出そうとしてみたが、納得のいくものが出来なかった。歌詞を作るなんて、初めてのことだしな。


 次の土曜。僕は、あの海に向かっていた。
 耳に付けているイヤホンからは、テープから再録した春の歌が、リピートで流れていた。いつもの海辺の階段で、歌詞を考えてみようと思った。
 ハルを殺したカーブに着いて、階段に足を乗せると、いつも僕が座っている場所に女の子が座っているのが見えた。
 僕の足音に気付いたのか、女の子がはっと振り向く。春だ。
 春は一瞬、僕を見て悲愴な表情で一粒涙を零したが、すぐに手で拭い、笑顔を作った。その一連の仕草に、僕の胸は握りつぶされそうになる。

「やあ、やっと来たか! まあ座りたまえ!」

 春はそう冗談めかして言い、僕をいつもの階段に座らせた。
 その左隣に春が座る。

「いやー、いつもいる人がいないと、寂しい景色が余計寂れて見えるもんだねぇ」
「……もしかして、僕を待ってたのか?」
「うん。先週も、その前もね」

 春は軽い調子で言ったが、僕の胸にはズシンと響いた。思わず泣きそうになる。どうして、僕の心はこうも弱いのだろう。

「僕なんかの……何がいいんだよ。こんな暗い男の……」

 頭を抱えて、弱々しい声で呟いた。我ながら、格好悪過ぎる。

「うーん、暗いところかな」

 意味が分からない。

「……は?」

「私ね、明るくてチャラチャラした男って、信用ならないの。それに、影のある人って、何だか神秘的だし、それに放っておけないんだよ。私が何とかしてあげたい、みたいな」

 春と目が合った。彼女は、春の日の優しい太陽のように微笑んだ。

「だから、私は君が好きなの。私は、君を幸せにしてあげたいの」

 心臓が締め付けられる。優しい言葉のせいだけではない。春は僕を「秋」と呼ばなくなっていた。この前の夜の事を、気にしている。僕を責めもせずに。

「だからね、少しずつでもいいから、君の苦しさを、私に教えて」

 彼女の言葉が、春の日差しのように暖かく心に注ぐ。

「秋で……いいよ。この前は、ごめん……」

 そう言いながら、涙が溢れるのを止められなかった。

「うん……。分かった。ありがとう、秋」

 春は手を伸ばし、僕の頭を優しく撫でた。

「ううっ……、ごめん、ハル……、春、ごめん……!」

 涙も感情も、洪水のように溢れた。春に頭を撫でられながら、僕は暫く子供のように泣き続けた。



*** Miss Spring ***

 少し、胸が切ないけど、私は階段の一番上に座って、前の方で横に並んで座る二人を眺めていた。
 まるで、美術部で並んで絵を描いていた私たちを見ているみたいだ。私たちも、こんな風に見えてたのだろうか。あの頃アキの友達に、「付き合ってるの?」と訊かれたのも、当然な気がしてきた。それくらい、今の二人は恋人同士みたいに見える。もし、あの時、頷いていたら、どうなっていただろう。
 彼が言う「はる、ごめん」の「はる」に、私も含まれてることが、何となく分かった。
 私もアキの右隣りに座って、触れないけど、アキの頭を撫でた。
 謝らないで、アキ。むしろ謝るのは私の方。

「アキ……、ごめんね」

 春ちゃんと一緒にアキの頭を撫でながら、何度も謝った。

 死んじゃってごめんね。
 辛い思いをさせてごめんね。
 好きって言えなくて、ごめんね。
 展覧会の約束、果たせなくてごめんね。
 私を描いてくれてた絵、途中だったね、ごめんね。
 ヘアピンのお礼、色々考えてたんだけど、できなくてごめんね。

 謝りながら、アキと一緒に私も泣いた。
 アキと過ごした三つの季節が、きらきら光る想い出が、いくつも心に浮かんで消えた。
 お父さん、お母さん、二人の優しい思い出も、全てが煌めいて、何度も泣けた。
 涙が止まらないけど、アキの部屋で泣いた時みたいな、冷たく刺々した空気は感じなかった。秋の優しい日差しに包まれて、心の中に積もった寂しさとか悲しさが、涙と一緒に雪解けみたいに溶けて流れ出しているように感じた。綺麗な空と、海と、春ちゃんの力だろうか。


- 分かります -


*** Mr. Autumn ***

 ハルが死んでから、僕の涙腺はどうかしてしまったんじゃないかと思うほどよく泣いていたが、それでも貯め込み続けていたのか、涙はなかなか尽きなかった。
 ハルの思い出が、彼女の言葉が、一つずつ心に浮かび、それらの全てが悲しく懐かしく、声を上げて泣いた。ハルの思い出が尽きた後は、春を泣かせたことの後悔と、彼女の優しさに泣いた。
 ようやく落ち着いたのは、太陽が傾いて真っ赤に燃える頃だった。泣き疲れた体と、涙で掠れる目で、ぼんやりと夕焼けを見ていた。春も、左隣で何も言わずにずっと付き合ってくれていた。心は、不思議なほど凪いでいた。ハルがいなくなってから、初めて感じた安息だった。

「寒くなってきたね。うち、行こ。一緒におじいちゃんのコーヒー飲もう」
「……うん」

 僕たちは、ゆっくりと歩いた。

「なあ、僕の目、腫れてないか?」
「うん、腫れてる」

 春が笑いながら答えた。

「うう、恥ずかしいなぁ。おじいさんにどう思われるだろう」
「おじいちゃんは人格者だから大丈夫! 全然気にしなくていいよ」

 彼女はそう言って、木造りの扉を押し開ける。

「おかえり、春。……君も、よく来たね。いらっしゃい」

 今日はおじいさんは店内にいた。細く優しい目で迎えてくれた。

「おじゃま……します」

 扉を閉めると、春がおじいさんに駆け寄って行った。耳元で何かを囁いている。
 今日もお客さんはいないようだ。大丈夫なんだろうかこのお店は。

「そうか、よかったね……」
「うん!」

 春が嬉しそうに笑う。おじいさんも優しく微笑む。何を話したんだろう。
 おじいさんが奥のキッチンに向かい、春はこちらに駆け戻って来た。

「何を話したんだ?」
「ふふっ、ヒミツだよ!」

 僕たちは、前回と同じ席についた。何だか、体中が疲れている。

「ねね。歌詞は考えてくれた?」
「あー……。考えてはいるんだけど、中々いいのが出来なくて。実は今日はそれを考えに海に来たんだけど、すっかり予定が狂ってしまった」
「え、それってもしかして私のせい?」
「そうかもな」
「えー、ひどーい。あんなに尽くしてあげたのに」
「冗談だよ。……ありがとう。今はすごく、心が軽い。体はクタクタだけど」
「そっか。よかった」

 春は少し俯きがちになり、続けた。

「歌詞は、急がなくても全然いいからね。心に留めておいてくれるだけで、それは、私を覚えててくれることに似ていて、私は、嬉しいから」

 空っぽになった心に、春が心地よく沁み渡っていく。
 慌てて頭を振った。危ない。危ない。僕はまだ、ハルを忘れるつもりはないし、この先も絶対に忘れない。心は落ち着いたが、それはずっと変わらない。
 春が少し不満げな顔をするのが視界に写った。

「あ、いや、違うんだ」
「なにがー?」
「約束は、忘れないからな」
「ふーん……」

 春はテーブルに肘を乗せ、両手で頬を包むようにして、僕を眺めている。
 ハルを忘れることも出来ないし、春の優しさに流されるわけにも行かない。僕は、どうしたらいいんだろう。誰か答えを知ってるなら、教えてくれ。

「お待たせ。ゆっくりして行きなさい」

 おじいさんがコーヒーを二つ持ってきた。香ばしく、穏やかな香りに包まれる。しばらく無言で、春と温かいコーヒーを飲んだ。おじいさんは、もう見えなくなっていた。

「なあ、あの曲……、また歌ってくれないか?」

 沈黙が辛かっただけでなく、本心からまた聴きたいと思っていたので、そう提案した。

「うん、いいよ」

 春は微笑んで、席を立つ。BGMを落とし、ピアノに向かい、鍵盤を優しく叩く。その、白く細い指から、薄桃色の花びらが零れるように感じた。
 目を閉じて、春の優しい旋律に聴き入る。この美しいメロディーに乗せる、美しい言葉を、考えよう。今日あれだけ泣いたのに、また暖かい涙が流れる。
 まぶたの裏には、綺麗な桜が舞う、モネの丘の景色が映った。

   春 に 桜 の 舞 い 散 る よ う に

 その言葉だけが、ふと、心に浮かんだ。


 気がつくと、テーブルの上の両手の中に埋もれていた。いつの間にか寝てしまったようだ。背中に毛布がかかっているのが分かる。春の音楽は止んでいた。
 顔を上げたら、向かいの席に春ではなくおじいさんが座っていた。

「うおっ」

 びっくりして、声を上げてしまった。失礼だったろうか。

「おはよう。疲れていたみたいだね」
「い、今、何時ですか?」

 おじいさんは壁にかかった時計を見上げた。

「十八時ちょうどだね」
「よかった、寝てたのは一時間くらいか。あ、でも、そろそろ帰らないと」

 腰を上げて春を探したけど、見当たらない。

「あれ、春はどこです?」
「春は、二階のキッチンで夕飯を作っているよ。是非食べていってあげてくれないか」
「え、でも……」

 僕が言い淀んでいるのを見ると、おじいさんは続けた。

「秋君、少しだけ、私の話を聞いてほしい」

 おじいさんの表情は相変わらず穏やかだったが、その声には微かに真剣さが感じられた。椅子に腰を下ろして、言葉を待った。

「他ならない、春のことだ」

 嫌な予感がした。胸がざわめく。

「……あの子は、三年前に病気で母親を亡くしていてね」
「えっ……」

 そうだったのか。祖父と二人暮らしをしていることから、何となく想像はしていたが、それでもその事実は衝撃だった。それに……三年前……。ハルがいなくなったのと、同じ年だ。

「父親は、春が生まれて間もなく癌で亡くなった。春の母親も……私の娘なんだが……、女手ひとつで春を懸命に育て、愛していたのに、三年前の秋に、同じく癌で倒れた……。私は、娘にも、春にも、何もしてやれなかったのが辛くてね……。何度も、何度も、自分を恨んだよ。あの時、ああしていれば、こうしていれば、とね。実際、私なんかの行動では、娘が病気になる運命を避けることも、病気を癒してやることも、出来るはずないんだがね。それでも娘や、春の、心の傷を、ひとつでも庇ってやるくらいは、出来たんじゃないかと……」

 おじいさんの白い眉毛が、哀しみに震えている。

「そうだったんですか……」
「私は春を守らなくてはならない。今度こそあの子を、幸せにしてあげなくてはならない」

 おじいさんの言いたい事が、何となく分かった気がした。少し、心が重くなる。

「春は最近、よく君の話をするよ。本当に君を好いているようだ。あの子は、病気で衰弱していく両親を見てきたからか、とても気がきく優しい子でね……。辛そうな君を、放っておけないようなんだ」

 僕は何も言えなかった。おじいさんがその先を言うことが、何だか怖い気がして、耳を塞いでしまいたかった。

「君の事情も、ある程度は春から聞いた。君も、何か辛い過去を引きずっているようだね……」

 確かにハルのことは、暗い過去から手を伸ばして僕の心を掴み続けているが、僕の両親は健在だし、今の環境も、幸福と言えるだろう。それに比べ、春は幼くして父を亡くし、二人分の愛をくれていた母とも、三年前に別れた。どれだけ辛いだろう。最も大切な人、両親の衰弱と喪失を、目の前で経験したこと。そんな春を、ひとつでも多くの傷から庇おうとして、何もできない自分を責め、今まで静かに見守ってきたおじいさん。
 世界には、同じような、いや、それ以上の苦しい思いをしている人が、沢山いるんだろう。自分の苦しみなんて、何でもないことのように思えてしまう……。
 いや、いや、違う。そんなことを考えれば、ハルがかわいそうだ。ハルは僕にとって世界よりも大事で、ハルを失ってこの心に空いた穴は、海よりも深く、闇よりも暗い……。

「君が、本当に春を大切に思い、大事にしてくれるなら、私は喜んで君を迎え、春を君に託したいと思っている。しかし、君が過去に縛られ続け、春を疎かにするというなら……、もう、春と会うのは、やめてやってくれないだろうか……」

 おじいさんは右手で顔を覆い、苦しそうな声で続けた。

「すまない……。すまない……。君たちのような若者の関係に、私のような老人が口を出すべきではないのかもしれない……。でも私は、あの子が辛い思いをするのを、もう見たくないんだ。もう、ひとつの傷も、付けさせたくないんだ……」

 泣いているのか、おじいさんの肩は小さく震えている。
 分かります。あなたの言いたいこと。春を大切に思うあなたの気持ち。僕は、鉛を付けられたような重い心で、ようやく声を絞り出すことができた。

「はい……。……分かります……」

 おじいさんは何度も僕に謝りながら、少し外の空気を吸いに行く、春には買い物に行ったと伝えてくれと言い残し、店を出た。
 心が、重い。僕を好いてくれる優しい春を、笑顔にしたい。でも、そう思うと、心の中の大切なハルが悲しい顔をする。ハルを想い続けていては、春を幸せにすることは出来ない。

- 今は楽しくご飯を食べよう -


*** Miss Spring ***

 入口の扉に寄りかかりながら、私もおじいさんの話を聞いていた。
 春ちゃんが、お母さんを亡くしていたのは、なんとなく分かっていた。初めて会った時にお母さんを呼びながら、あの海辺の階段で泣きじゃくっていたから。ちょうど、あの頃だったのだろうか。
 おじいさんが謝りながらお店の外に出て行った。
 アキが、俯いている。おじいさんの言葉を聞いて、思い詰めているんだ。
 アキを縛る過去。それはやっぱり、私なんだろうか。
 アキには、前に歩きだして欲しい。幸せになって欲しいよ。
 私がその妨げになっているのなら、私の事なんて忘れて……
 そう考えたら、急に胸が痛くなった。
 アキが私を忘れる。それは、やっぱり、……いやだ。
 私の存在が、私の過去が、消えてしまいそうで、怖い。私が生きていたという事実が、地球上から消滅してしまうような、そんな恐怖が、じわじわと体を締め付ける。
 私を忘れないで。
 心の中に、ワスレナグサの青い花が浮かんだ。
 昔読んだお話で、こんなのがあった。水難事故で命を落とそうとしているルドルフは、最後の力で恋人のベルタにこの花を投げて、僕を忘れないでと叫んだ。残されたベルタはルドルフの墓前にその花を供えて、ルドルフの最後の言葉を、この青い花に名付けた。
 もし、ルドルフが私みたいに幽霊になって、自分を忘れずに哀しみ続けているベルタを見たら、どう思うだろう。今の私みたいに、どうしようもなくて、悩んで後悔して泣いただろうか。
 どうか、私を忘れないで。でも、私の過去に、縛られないで。
 こんなことを願う私は、わがままなのかな。



*** Mr. Autumn ***

 暫くして、春が両手でトレーを持って階段を降りてきた。オムライスだ。とてもいい匂いがする。

「お待たせー。ふふ、秋、寝ちゃってたね。……あれ、おじいちゃんは?」

 おじいさんからの伝言を伝えると、春は少しきょとんとしたが、すぐに納得してくれた。

「そっか。お店の材料でも切れてたのかな。言ってくれれば私が行くのに」

 そう言いながら、春はテーブルに料理を並べた。

「うちね、家庭用のキッチンは二階にあって、自分達が食べる料理はいつもそこで作ってるの。あ、そうだ、これ言ってなかった。私、料理結構得意なんだよ。食べたら秋、私に惚れちゃうかもなー」

「ははっ、そうか。そりゃ楽しみだな……」

 心の鉛を春に悟られないようにしたつもりだったが、春は気付いたのだろうか、手を止めて一秒、僕を見つめた。……が、何も言わずに作業を続けた。皿が並べ終わると、

「さ、食べよう。おじいちゃんには、後で温めなおして出しておくよ」

 春の料理はとても美味しかった。卵はふわふわで、味付けも丁度よく、どこか懐かしい味がした。サラダも、スープも、非の打ち所がない。でも、彼女の料理が得意な理由が、母親をなくしたことなのかもしれないと思うと、涙が出そうになる。

「美味いね……。こりゃ本当に惚れちゃうな」
「うーん、嬉しいけど……。それ、本心から言ってる?」
「本心だって。こんな可愛くて、料理が上手い女の子が彼女だったり、奥さんになってくれたら、幸せだろうなー」
「……ねえ、もしかして、おじいちゃんに何か言われた?」

 見透かされている。彼女の前では、僕の演技なんて何の意味も為さないようだ。

「ね、おじいちゃん何を言ったの? 秋に何かひどいこと言った?」
「いや、いや、そんなことはない。おじいさんは人格者だよ」
「私に親がいないことを言ったんだね?」

 ギクリとした。それが僕の表情にも現れたのだろう。春は見逃さなかった。

「やっぱり! もーう、あのおじいちゃん、基本はすごく紳士で優しいのに、私のことになると過保護すぎるっていうか、時々余計なお世話を焼くんだよ。あとで怒っておかなきゃ。ごめんね、秋。おじいちゃんが何か変なこと言ったなら、全然気にしなくていいからね」
「でも、おじいさんは春のことが大切で心配で仕方ないんだよ。その気持ちは、すごく分かる……」
「私はもう子供じゃないんだから、自分のことくらい自分で決められるよ。おじいちゃんはそれを分かってないの。いつまでも私を子供扱いして……」
「でも……」
「秋もさ、同情とか憐れみで私を好きになったりしたら、許さないからね。ちゃんと私という人間と向き合って、私を見て、秋の心で、好きになってほしい」
「うん……。それは、もちろんだ……」

 力なく言った僕を見て、春はしばらく考え込んでいたが、やがて大きく息を吐き出して、顔の前で手を叩いた。パン!

「よし、この会話終了! 続きは、来週の海辺で行います!」
「え……、続き?」
「うん。というわけで、今は楽しくご飯を食べよう!」

 春は笑顔でそう言った。オレンジ色の店の照明が彼女を優しく照らして、春風に揺れるガーベラのように煌めいた。その綺麗さに、僕も釣られて笑顔になる。
 僕の心に空いた穴も、そこにいる笑わないハルも、春の秘めた傷も、おじいさんの哀願も、ひとまず隅に置いといて、美味しい食事を素直に楽しめる力を、春の笑顔は持っていた。
 彼女の学校の話や、近所のおしゃべりなおばさんの話、たまに店を訪れる野良猫の話などを聞き、僕は僕で、学校の友人や、面白い教授や、苦労したゼミなどを、とりとめもなく話した。春は僕の話の一つ一つに、笑い、驚き、関心していた。ころころ変わる表情は、見ているだけでも飽きなかった。


 楽しい食事を終えた後、春が駅まで送ってくれた。僕たちは並んでゆっくり歩いたが、途中、あのカーブ地点に差し掛かった時、また胸が痛み始めた。過去が手を伸ばし僕の足を掴む。歩けない。
 春はちらりとこちらを向いた後、小鹿のような軽やかな足取りで前に飛び出し、街灯の下でクルリと僕の方を振り向いて、僕の名を呼んだ。

「秋!」
「……なんだ?」
「今日はいろいろあって聞けなかったけど、来週また来てくれたら、今度は秋の過去の話を教えてね。少しずつでもいいから」
「あ、ああ……」
「私はここにいるからね。ずっと、いるから。何の心配もいらないよ!」

 ありがとう、春。過去が僕の足を掴む手を緩めた。僕はまた、歩き出すことができた。街灯の下で待つ春のもとへ。

   *

 春に桜の舞い散るように。

 春の歌を聴きながら、心に浮かんだその言葉を、僕は温めていた。
 大学の講義中も、部屋に帰ってハルの絵に囲まれている時も、そのフレーズから言葉を広げていくことばかりを考えていた。
 僕はハルを失った。悲しい、辛い。だけど。春は両親を失った。春のおじいさんは娘を失い、大切な孫を哀しませたと悔やんでいる。今は元気な僕の両親だって、いつかは死んでしまう。世界では、今も沢山の大切な人が死に、大切な人を失った沢山の人が、今も泣いているんだろう。世界はどうしようもなく、悲しみに満ち満ちている。
 でも、それだけではないはずだ。世界に悲しみしかないのなら、僕たちはとても生きてはいられない。悲しみを越える何かが、僕たちの心にはあるはずなんだ。それを、言葉にしたい。
 僕の心も、心の中のハルも、寄り添おうとしてくれる春も、優しいおじいさんの傷跡も。全てを救うような言葉を、僕は探さなくては。
 週末まで頭を悩ませ続けたが、二、三個のフレーズを捻り出せただけだった。僕の中のハルは、まだ笑ってはくれない。
 金曜日の夜、春からLINEが来た。


【Haru Miyazato】
明日のこと!
   
一週間お疲れ様!
ようやく週末だね。待ちわびたよ!
明日、海辺の階段で待ってるね。
色々話したいから、絶対来てね!
   
★注意★
なお、このLINEを読んだら三十秒以内に返事を出すこと。
三十秒を超過すると、自動的に爆発します。私が。


 思わず噴き出してしまった。春が爆発したら大変だ。急いで返事を出さなくては。


【Aki】
明日、必ず行きます!
だから爆発しないで!


【Haru Miyazato】
春の爆破装置は解除されました。
明日、待ってます! 楽しみ!


 少しだけ、明るくなった気持ちで、金曜の夜は更けていった。

- 私たちで -


*** Mr. Autumn ***

 土曜日。
 いつもの階段に向かうと、春がもう座っていた。春は僕を見つけて、雪解けのヒナギクのように笑う。

「よく来たね! まあ座りたまえ!」

 春が僕を座らせ、僕の左に春が座る。十一月ももう終盤だというのに、今日は真っ青な空が輝いて、小春日和のような暖かさだ。

「今日は天気もいいしあったかいねー。思わずお洒落にも気合が入っちゃったよ。ふふっ」

 そう言って春は、僕との距離をつめるように座りなおした。肩が当たりそうなほど近くに彼女を感じる。
 今日の春は、全身に女の子らしい格好をしていた。襟元にレースのついたジャケットに、真っ白なセーター。膝上丈のスカートに、意匠の凝ったウェスタンブーツを履いていた。香水を付けているのか、時折桜の甘い香りがする。
 正直、眩暈がするほど可愛い。今が秋であることを忘れるくらい、春の回りには、春陽の優しい空気が流れていた。

「いい香りだね、桜の香水?」
「そうだよ。よく分かったね」
「桜……、好きなの?」
「うん! 私の一番好きな花。だって私、春だもん」

 そう言って僕に笑顔を見せた。心がまた満たされそうになり、慌てて心の中のハルに目を向ける。ハルを忘れるのはダメだ。僕だけでも、ハルを覚え続けていなくては。そうしなければ、ハルが世界に生きていた証が、消えてしまう。
 ハルを思い浮かべていると、先週のおじいさんの話も思い出された。死んだハルを思い続けるか、ハルを忘れて、春と共に生きるか。……ハルを忘れることなんて、生涯できそうにない。こんな僕では、春を幸せにすることは出来ないし、むしろ傷つけてしまうだろう。
 僕は、おじいさんの言う通り、もう春に会うべきでないのかもしれない。心が俄かに曇り出した。あんなに綺麗だった青空まで、濁ってきたような気がする。自分の心の不安定さが、心底嫌になる。
 心の暗雲が僕の表情まで曇らせていたのだろうか、春は笑顔をやめ、しばらく僕を眺めた後、口を開いた。

「さて、今日はね、先週聞けなかった秋の苦しみを話してもらうからね。辛いこと、抱え込んでいること、何でも言って。私に、分かち合わせて。きっと、全部吐き出せば、少しは楽になると思うんだ。言いたくなければ、無理強いはしないけどさ」

 春だって、両親を失って辛いだろうに、どうしてこれ以上僕の重荷を背負おうとするんだろう。僕には、君の優しさに見合うような価値はないのに。
 重い口を開いて、春に伝えた。

「……その前に、言っておきたいことがあるんだ」
「うん……。なに?」
「僕は、ハルを……、昔好きだった女の子を、三年前に亡くなった彼女を、たぶんずっと、忘れる事は出来ない。僕は、忘れちゃいけないんだ。だから春の……君の、君の期待には、答えられないと思う……」

 言ってしまった。言ってから激しい後悔に襲われた。でも、仕方ない。もうこれで、春との関係は終わるだろう。優しい春……。僕を好きだと言ってくれる春……。約束していた歌詞は、完成したらメールで送ろう。

「忘れちゃいけないと思うのは、どうして? 何か理由があるの?」

 落ち着いた声で僕に聞いた。春は意外と冷静だった。泣き出してしまうかと思っていたけど、それは僕の思い上がりだったようだ。

「理由……」

 僕がハルを忘れちゃいけない理由。簡単には、説明できない。それに、簡単な説明で分かってほしくもない。
 どれだけ、ハルと過ごした季節が輝いていたか。ハルを失くした痛みが、どれだけ重かったか。

「彼女は美術部で、絵を描いていたんだけど、自分の絵で個展を出すのが夢だったんだ……」

 ハルの桜色の笑顔を思い出しながら話した。

 僕の隣でいつも桜の絵を描いていたこと。
 彼女の目標、夢。
 絵に託した願い。
 将来の約束。
 夏の夜の流れ星と、後から知った転校の話。
 静かな秋の夕焼けの中、ハルの絵を描いたこと。

 ハルの訃報を聞いた日の衝撃。
 それからの灰色の日々。
 空を飛ぶ夢。
 事故現場を探して、この海に辿りついたこと。
 アパートでは、ハルの絵に囲まれていること。
 心の中のハルが、笑ってくれないこと。

 話しながら、心がヒリヒリと痛むのを感じた。
 春は、時折涙を流しながら、静かに聞いてくれていた。

「うん……。だいたい分かった。話してくれてありがとう」

 全て話し終わると、春は頬の涙を拭って微笑んだ。
 結局、全部話してしまった。両親の死という辛い記憶を秘めた春の優しい心に、必要のない重荷を背負わせてしまった。おじいさんは許してくれないだろう。

「秋の話は全部聞きました。ここで、私からの意見を述べます」

 春は姿勢を少し正した。

「秋は、ハルちゃんを解放してあげないといけません」
「え……?」

 意味が分からない。僕が、ハルを解放だって?

「秋は、秋の心の中にハルちゃんを閉じ込めています。ハルはかわいそうな女の子だ、ハルは僕だけが覚えていなきゃならない、ハルは僕だけのものだ……ってね。まるで牢獄に監禁しているみたい。だから、秋はずっと苦しいし、秋の中のハルちゃんは笑ってくれないんだよ。このままじゃハルちゃんが、ホントにかわいそうだよ」

 少し、イラついた。心に小さな炎が揺れたのを感じた。

「じゃあ、ハルを忘れろって言うのかよ……。ハルの願いは、ハルが生きた証はどうなるんだ!」
「ううん。違うよ。ハルちゃんを忘れる必要なんてないよ」

 春は優しい声のまま続けた。視線はまっすぐ前を、静かな青い海を見据えて。

「ただ、閉じ込めていないで、解放してあげるの。秋だけじゃなく、みんなに、ハルちゃんを覚えていてもらうんだよ」

 ハッとした。視界が急に開けた気がした。炎は燃え上がる暇もなく消えた。
 みんなに、ハルを覚えていてもらう……。

「でも……、そんなの、どうやって……」
「ハルちゃんは絵を描いていた……。ハルちゃんは個展を開くのが夢だった……。ハルちゃんの絵は、ぜんぶ秋の部屋で眠ってる……」

 そう言って、春は僕の方を向く。少し悪戯っぽく微笑んでいる。

「これはもう、やるしかないでしょ」
「やる……? 何を?」

 春はパッと階段を立ち上がり、一段飛ばしで駆け下りると、砂浜の上でクルリと振り向いて、両手をいっぱいに広げた。その両手から、桜の花びらが一面に舞い上がった気がした。春は、満面の笑みで叫ぶ。


「私たちで、ハルちゃんの展覧会を開くんだよ!」


 春を抱く空はどこまでも青く澄んで、爽やかな風が彼女を優しく撫でていた。
 秋の海は穏やかに波を立て、彼女の足元で春を祝福しているようだった。
 どこまでも続く青い空と綺麗な海と、その中で微笑む春。
 その時僕は確かに、輝く永遠と、無限の可能性を感じていた。
 僕の目には知らないうちに、温かい涙が溢れていた。

- 作戦会議 -


*** Miss Spring ***

 私はまた、階段の一番上に座って、二人を眺めていた。
 アキの話を、涙を流しながら聞いていた。アキの中の、私との、思い出。アキの心の中の、笑わない私。それは、私の中のアキとの思い出と、アパートで見る笑わないアキと、一致するような気がした。
 私が人バクレイになった理由は、私がアキに未練や執着を持っていることと、彼が私の魂を縛っていることの、両方なのかもしれない。お互いに縛りあって、いつの間にか複雑に絡み合って、辛くても抜け出せなくなっているのかもしれない。

 アキの話を聞きながら、春ちゃんも泣いてくれていた。
 春ちゃんは優しい子だ。きっと自分も辛いのに、アキの悲しみを分かち合おうとしてくれている。最初の頃、彼女に嫉妬して、アキに近付かせないようにしていた自分が恥ずかしい。私はもう死んじゃってるから、アキを救えるはずないのに、アキは私だけのものだって独占しようとしていた。それが、彼の苦しみを解き放つのを遠ざけているとも気付かずに。

「じゃあ、ハルを忘れろって言うのかよ……。ハルの願いは、ハルが生きた証はどうなるんだ!」

 アキが声を荒げた。私の願い、私が生きた証……
 かつて、高校の裏のあの丘でアキに話した言葉が、その時の風景と一緒に、鮮明に心に浮かんだ。初夏の夕日が天使の梯子になって、私たちの世界に差し込む綺麗な時間だった。

(それにさ、自分の生み出した作品が人の目に触れて、世に残るって、とっても素敵なことだと思うんだ。私がこの時代、この場所に、確かに生きていたんだっていう、証明になるみたいな感じ。誰かがこの絵を観てくれて、私という存在を認識して、覚えててくれる……。ね、素敵だと思わない? だからさ、アキも、ね)

 アキは、私のこの言葉を、ずっと覚えていてくれたんだ。そしてこの言葉が、アキをずっと、縛り続けていたんだ。
 また、涙がぽろぽろと零れてきた。ごめんね、アキ。
 私を忘れないで。その願いが、私の大切な人を苦しめ続けていた。

「これはもう、やるしかないでしょ」
「やる……? 何を?」

 春ちゃんが階段を駆け下りて、砂浜の上で両手を広げた。

「私たちで、ハルちゃんの展覧会を開くんだよ!」

 心臓がドクンと動いた。
 アキに名前を呼ばれた時みたいに、私の鼓動が波紋になって、空間に広がった。
 理解するのに、少し時間がかかった。胸のドキドキが、だんだん早くなってきた。
 私の……展覧会。
 私の夢。
 それを、アキと春ちゃんが開いてくれる。
 それって、それって……なんて素敵!

 春ちゃんが、作戦会議を開こうと言って、アキを民家の方に連れて歩き出した。私も立ち上がって、二人の後から付いて行こうとしたら、後ろから呼び止められた。

「サクラじゃない。また、久しぶりね」
「きなこ! この前はごめんね、私間違ってたよ」
「あら、あなた、また泣いてるのね。何かあったの?」
「うん、うん、色々あったんだけど、でも今は、すごく嬉しいの」
「嬉しいのに、泣いてるの? やっぱり人間って面白いわ」
「うん、そうかも、えへへっ」

 また、きなこに全部話した。アキと春ちゃんが、私の絵の展覧会を開いてくれることも。

「そう、良かったわね。あなたの夢が叶うのね」
「そうなの! ……あ、そろそろ壁がくるかも」

 おじいさんの喫茶店に向かう二人の姿が、小さくなってきた。壁に押されることを覚悟して身構えていたけど、しばらくしても壁は来ない。

「あれ……、変だな。この距離だと壁に押されていてもおかしくないのに」
「もしかしたら、壁の範囲が広がったんじゃないかしら」
「そ、そうなのかな。そういえば前は、狭くなったこともあったんだよ」
「サクラ自身の心と、サクラの魂を縛るアキって子の心の変化に、壁が影響を受けるのかもしれないわね。今のあなた、なんだか晴々とした表情をしているわよ」
「そうかな。今私、すごくウキウキドキドキしてるの。嬉しくて、楽しくて、走り出したいくらいなの。これからね、二人がおじいさんの喫茶店で、展覧会の作戦会議を開いてくれるんだって。きなこも一緒に聞きにいかない?」
「あたしは当日を楽しみにしておくことにさせてもらうわ。これからお昼寝の予定なの」
「そっか。じゃあ、日付が決まったら教えるね」

 きなこはあくびをして階段の上に丸まった。それを見届けてから、私も喫茶店へ走る。



*** Mr. Autumn ***

 海を後にして、僕たちは『cafe cerisier』に向かっていた。
 ハルの展覧会を開くことに向けた作戦会議を行うためだ。春はそれを、「ハルちゃん解放大作戦」と名付けた。安直過ぎる名前だったが、今の僕の心は驚くほど軽かったので、笑って賛同した。春が作戦隊長となり、僕は参謀に任命された。春は終始ご機嫌だった。
 おじいさんと顔を合わせることに、少なからぬ躊躇を感じたが、その事を春に伝えると、

「前言ってたことを気にしてるんだね。それなら大丈夫。おじいちゃんには私から厳しく言っておいたから。私の決めたことに陰で口出ししないで! って」
「でもそれじゃ、おじいさんがちょっとかわいそうだな」
「おじいちゃんは人格者だから大丈夫! ……それにさ、今決める必要なんて、全然ないんだよ。秋が、私を選ぶかどうかなんて。この作戦が成功して、秋も、ハルちゃんも、全部救われたら、その時に考えてくれればいいよ」
「うん……。わかった」

 春の気遣いに、胸が締め付けられる。出来る事なら、僕の手で、君を幸せにしてあげたい。いつか心の中のハルが許してくれたら、この気持ちを伝えよう。
 春が木の扉を押し開けると、おじいさんはいつもの優しい表情で迎えてくれた。

「おかえり、春。秋君も、いらっしゃい」
「おじゃまします」

 軽くお辞儀をし、扉を閉めると、春が駆けだして行っておじいさんに抱きついた。

「おじいちゃん! 私たちね、すごいこと思いついたんだよ。今、ドキドキして、ワクワクしてしょうがないの!」
「ほう、それは良かったね」

 おじいさんは限りなく優しく微笑んで、春の頭を撫でた。それから僕の方を見て、

「秋君、この前は、本当にすまなかった。春に叱られてしまったよ。私は、結論を急ぎすぎたようだね……」
「いえ、そんな……」
「できれば、これからも遊びに来てくれ。その方が、春も喜ぶから」
「はい、もちろんです」

 昼食を作ると言って、おじいさんは二階に上がっていった。そういえばもうお昼を大分過ぎていた。急に空腹が襲いかかる。何か美味しいものを沢山食べたい。自分の中に、今までにないエネルギーを感じる。春が言っていたように、今は僕も、ドキドキして、ワクワクしてしょうがなかった。未来に輝く希望を感じて、今すぐにでも走り出したかった。

 僕たちはいつもの席に座り、春がひとつ咳払いをした後、切り出した。

「それでは、『ハルちゃん解放大作戦』の第一回作戦会議を始める」

 春が真面目な顔で変な作戦名を言うので、吹き出してしまった。

「えー、何で笑うのさー!」
「いや、何でもないよ。続けてくれ、隊長」
「うむ。じゃあまずはー、作戦の概要を整理してみよっか」

 鞄からノートとペンを取り出し、書いてみる。

   ハルの桜の絵の展覧会を開く!
   なるべく沢山の人に観てもらい、ハルを覚えてもらう。

「うーん、まとめてみるとこれだけなんだね」
「そうだな。何かちょっと寂しいし、普通だよな」
「もうちょっと、スパイスを加えられないかな。観てくれた人に、もっと強い印象を残すような……。何かないかね、作戦参謀よ」

 腕を組んで考える。ハルの夢だった、桜の絵の展覧会。ただの個展では終わらせたくない。
 特殊な場所……?

「見晴らしの良い場所……。東京タワーの展望台を借りるとか」
「え、あそこって個人で借りられるの? 借りられるとしても、そんなお金ある?」
「ありません」

 素敵なBGM……?

「うーん、BGMと言っても、感動する程のものなんて思いつかないよね。それに、全然関係ない音楽が絵に勝っちゃったらダメじゃない?」
「たしかに」

 特別ゲスト……?

「秋、有名な知り合いでもいるの?」
「いません」

 だめだ。いい案が浮かばない。空腹のせいだろうか。
 このままでは参謀失格かと思われたその時、おじいさんがトレーを持って階段から降りてきた。部屋に漂う良い匂いが、空腹をより刺激する。

「待たせたね。簡単で悪いけど、昼食にしよう」
「わーい!」

 春が大げさに喜んだ。心の中では、僕もおじいさんに万歳を捧げていた。
 フェットチーネのカルボナーラだ。さすが喫茶店、お洒落な昼食が出る。
 ん? 喫茶店、お洒落な食事。奥で佇むピアノ。僕の中で何かが閃いた。

「そうだ! おじいさん、このお店を貸してくれませんか!」
- まだ、解けない -


*** Mr. Autumn ***

「え! ここでやる気?」
「……?」

 春が驚いた。おじいさんは状況を理解できていないようだ。

「ここなら、お金もかからないし……あ、いや、必要でしたら、払えるだけ払います! ここなら、料理とか、デザートとか、コーヒーとかも出せるだろ。海辺の、木造りの喫茶店。風情があるじゃないか。それに、ピアノもある。春の歌を、展覧会のお客さんに聞かせてあげようよ」
「えーっ、無理だよ! 私の歌なんか……ハルちゃんの絵を台無しにしちゃうよ」
「ははっ。初めてここに来た日は、僕が同じようなことを言ってたな。春はそんな僕に、泣きそうな顔で作詞を頼んだじゃないか。頼むよ」
「ううー、それとこれとは、話が違うような……。それに歌詞もまだ、出来てないんでしょ?」
「それは僕が頑張るよ。必ず完成させる。だから、お願いします」

 春とおじいさんに向けて頭を下げた。ここでなら、皆が幸せになれるような、そんな展覧会が、出来るような気がした。

「ふむ。あまり話が見えてこないが……。とりあえず、料理が冷めないうちに食べましょう。食べながら、私にも詳しい話を教えてくれないか」
「それがいい! 私お腹すいちゃったよ!」

 それは僕も同意だ。興奮する心を落ち着かせて、僕はおじいさんのパスタに手を伸ばした。


「なるほど。亡くなった方の絵の展覧を……。それは素敵だね。うちでよければ、喜んで貸し出すよ。料理の提供についても、私に任せてくれ」
「ありがとうございます!」

 おじいさんのカルボナーラは、感動的に美味しかった。これで店にお客さんが一人もいないのが不思議なくらいだ。

「うちはね、平日のランチタイムとかは結構混むんだよ。秋はいつも土曜日に来てるから、分からないんだね。まあ、私も平日は学校行っちゃってるから、バイトのくせに全然手伝えてないんだけど……」

 春が説明してくれた。そういうことか。

「あとね、これは前にも話したけど、近くに桜の名所があって、満開の時期には手が回らないくらい繁盛するんだよ。外に行列が出来るくらい!」
「そうだね。その時は、春の手伝いがすごく助かっているよ。そうだ、多くの人に観てもらいたいなら、展覧会は桜の季節にするといい」
「なるほど。人も集まるし、ハルの絵もほとんどが桜だし。ちょうどいいですね」
「ほう、桜の絵か。それは奇遇だね。この店の名前『cerisier』は、フランス語で『桜』という意味なんだよ」

 桜の名を持つ喫茶店で、桜の咲く季節に、ハルの桜の絵の展覧会を開く……。少し、出来すぎな気もしたが、逆に言えば運命のようなものすら感じた。

「よーし、じゃあ、場所と開催時期は決定だね」
「そうだな。書いておこう」

 ノートに追記する。

   場所:おじいさんの喫茶店
   時期:桜の咲く季節
   内容:ハルの絵、おじいさんの料理、春の歌

「で、私の歌なんだけど……ほんとにやるの?」
「もちろんだ。歌手を目指してるんだろ?」
「うーん、そうだけど……。やっぱりハルちゃんの絵が主役でしょ。私の歌が雰囲気壊しちゃったら、ハルちゃんに申し訳ないよぅ。これはその、歌が絵に勝っちゃうって意味じゃ決してなくてね」
「それは大丈夫だ。ちょうど、考えていた歌詞は春がテーマなんだ」
「え……、私? ハルちゃん?」
「いや、季節の春な」
「ああ、そういうことか。今更ながら、この名前紛らわしいよね」

 春は小さく笑った。今日、海辺で春の提案を聞いて、ようやく歌詞のメインテーマが定まった。今なら、心が曇ることなく書けそうな気がする。

「うーん、だいたい決まってきたけど、これを見ると秋、当日はなんにもしないね」
「うっ……。当日僕に出来ることなんて無いだろ? ウェイターくらいならやるけど……」
「そんなことないよ。ちょっと貸して」

 春は僕のペンを奪い、ノートに何か書き足した。

   内容:ハルの絵、おじいさんの料理、春の歌、秋のスピーチ

「おいおい、展覧会にスピーチって何だよ……」
「何も言わずにお客さんを入れて絵を見せたって、ハルちゃんの印象は残らないよ。導入に、秋が紹介とかして、ある程度説明してあげないと」
「うーん、確かに、そうか……」
「よし、決まりね! 感動的なのを頼むよ、参謀くん!」

 春がノートにさらに追記した。

   内容:ハルの絵、おじいさんの料理、春の歌、秋のスピーチ
                       (感動的なやつ!)

 余計なことを……。宿題が増えてしまった。


 その日は、おじいさんが淹れた美味しいコーヒーを飲みながら、当日の店内のレイアウト等を話し合って暗くなるまで盛り上がった。
 帰り途、春が駅まで送ってくれた。二人で並んでゆっくり歩いた。
 途中、ハルを殺したカーブに差し掛かった。もう胸は痛まなかったが、足を止めて、暗い海に目を向けてみる。今までは、夜の海には計り知れない恐怖を感じていたが、今日は波音も穏やかで、静かな優しさのようなものすら感じた。
 ハル……。もう少しだけ、待っていてくれ。もう少しで、君の夢が叶いそうなんだ。

「秋……、大丈夫?」

 春が心配そうに、僕のコートの袖を掴んだ。

「うん、大丈夫。今は未来に希望さえ感じる。春のおかげだよ。ありがとう」

 本気で感謝していたので、しっかりと春の目を見て言った。春は驚いたような表情を見せ、やがてぽろりと涙を零した。雫は頼りない街灯に照らされ、琥珀のように煌めいた。

「えっ、なんで泣くんだ?」
「だって、嬉しくて……。もしかしたら今日、秋に、もう会わないって言われるかと思って……本当は先週からずっと怖かったから……。よかったよぉ……」

 ひたすらに前向きで明るい子かと思っていたけど、そんな風に考えてくれていたのか。不安な思いをさせてしまった。そういえば、ハルとそっくりなせいか忘れがちだけど、春と会うのはまだこれで三回目なんだ……。もっと春の事を知りたい。君の強い心も、弱い部分も、全て知って、受け止めたい。
 思わず抱きしめそうになったけど、今はまだ、春の優しさに流されてはダメだ。きっと後悔する。ぐっとこらえて、春の頭を撫でるだけに留めた。

「ごめん……。もう大丈夫だから、一緒に、作戦を成功させよう」
「うん……。私、隊長だもんね……。がんばるよ」

 春は静かな声でそう言ったが、この雰囲気に似つかわしくない「作戦」や「隊長」という言葉が妙に可笑しく、また噴き出してしまった。

「ぶはっ」
「もー、だから何で笑うのさー!」

 春は軽く僕を叩いたが、その顔も笑っていた。



*** Miss Spring ***

 アキと春ちゃんが開く私の絵の展覧会は、桜が咲く頃に開催することが決まった。私の生まれた、暖かくて優しい、一番好きな季節。嬉しいな。
 それに、アキが私を紹介するスピーチをして、アキが作詞した歌を春ちゃんが歌ってくれるみたい。私の絵だけじゃなくて、みんなの展覧会だ。すごく素敵!
 バクレイとして目覚めてから今までずっと続いていた、どんよりとした気分が嘘みたいに、今は全てがきらきら輝いて見える。体も軽い。今なら空も飛べちゃいそう。彼女の一言でこんなに変われるなんて、春ちゃんはすごいな。
 夜になって駅に向かう二人の後ろをうきうきしながら歩いていたら、いつものカーブ地点でアキが足を止めて、海の方を眺めた。アキ、大丈夫だろうか。
 春ちゃんが心配そうにアキの袖を掴んだ。アキがお礼を言ったら、春ちゃんが泣き出した。彼女も、不安とか心配を抱えていたのかもしれない。アキが彼女の頭を撫でるのを、少し遠くから眺めていたら、また少し胸が苦しくなった。
 春ちゃんは優しいし、明るくて元気だし、可愛いし、きっとアキと一緒に幸せになれる。それは嬉しい。でも、そこにいるのが、アキに撫でられてるのが、自分みたいだけど自分じゃないと思うと……苦しい。
 展覧会はすごく嬉しくて、心が晴れたけど、でも。
 私の中の、アキへの執着が、まだ、解けない。

- 故郷へ -


*** Mr. Autumn ***

 次の週は、作詞活動に明け暮れた。ハルの夢だった展覧会で、春の夢の第一歩となる歌に乗せる大切な、大切な言葉を紡いだ。
 僕はハルを忘れない。みんな、失った大切な人を忘れない。忘れないけど、過去に縛られるんじゃなく、後悔に飲み込まれるのでもなく、共に、前に歩いて行く。
 想い出は、時に甘く苦しく輝いて、過去から心を掴むけど、前を向くというのは、たぶん、切り捨てることではないんだ。過去も、後悔も、思い出も、苦しくて、胸が痛くて、涙が零れるけど、何度も撫でて反芻して、愛しいものにすればいい。それが出来た時、僕は、僕たちは、力強く前に向かう一歩を、踏み出せるのだろう。
 世界を覆う悲しみは、涙で出来た海は、とても深く、暗いけど、その底にはいつも、小さく輝くマイナスがあるんだ。辛くても、目を凝らして、瞬くそれを見逃さないようにして、そっと掴み取ろう。そうすれば、悲しみの海から抜け出した時、そのマイナスは、無限のプラスに変換できる。そんな力を、きっと僕たちは持っている。


 土曜日、僕はまたあの海辺に向かった。完成した歌詞を書いた紙を持って、イヤホンには春の美しいハミングを流しながら。
 春は、また僕より先に階段に座っていた。歌詞が完成したことを告げ、読んでもらうと、彼女はしばらく真剣に紙に目を通し、何度もうなずきながら涙を流してくれた。

「うん……。うん……。すごくいいよ……」

 読み終わり、紙を僕に返した後、彼女は両手で顔を覆った。

「うう……、お父さん……。お母さぁん……!」

 春も、ずっと胸に哀しみを抱えていたんだろう。前に僕がしたように、しばらく声をあげて泣いていた。僕は、前に彼女がしてくれたように、静かに傍に、寄り添っていた。


 『cafe cerisier』には、今日もコーヒーのいい香りが漂っていた。
 春が落ち着いた後、僕たちはまたおじいさんの喫茶店に移動し、作戦会議を開いていた。春は僕のノートを占拠して、店のレイアウト案を描き込んでいた。

「よし、店内のレイアウトはこんなもんかなー。ところで秋、肝心のハルちゃんの絵は何枚あるの?」
「先週数えてみたら、二十七枚だったよ。だから、予定通り店の壁に飾るので足りそうだな」
「そうだね。……うん、だんだん見えてきたじゃないか。ハルちゃんの夢だった展覧会が」
「うん……。見えてきたな」
「そうそう、この前思ったんだけどさ、みんなにハルちゃんを覚えてもらうなら、ハルちゃんの顔とか、見た目も分かるものがあるといいと思うんだ。秋、写真とか持ってない?」

 ハルの顔、見た目……。僕は今でも鮮明に思い出せるが、面識のない人には確かにそれは効果的……いや、必須の情報だ。でも……

「写真は……持ってない」
「そっか……。残念」
「いや、でも……あれがある。でもあれは……」
「ん? あれってなあに?」
「僕が描いてた、ハルの絵だ……」
「そういえば、言ってたね。秋の日に、描いた絵。それいいじゃん! すごく素敵!」
「でも未完成だし……。上手くもないし……」
「未完成なら、完成させればいいよ! ハルちゃんとの約束だったんでしょ」

(じゃあさ、私が個展を開いて、その時までアキが絵を描いていたら、アキの絵も飾ってあげるよ)
(絵はね、腕じゃないんだよ。心だよ!)

 ハルの言葉と、当時の風景がフラッシュバックした。
 初夏の夕焼け。ハルとの約束。溢れるほど、彼女に向かっていた想い。
 いつの間にか悲しい顔をしていたんだろうか、春が心配そうな顔で謝った。

「あ……、ごめん、つらかった……?」

 あの時は、もう戻らない。もう戻らないけど、後ろを向いてばかりもいられない。ようやくそれに気付けたんだ。今は、前を向け。慌てて両手で頬を叩く。

「いや、大丈夫だ。いいアイディアだな。ハルとの約束も果たせる」
「うん……。でも、無理はしないでね」
「大丈夫だって。それにしても、また僕の宿題が増えたな」

 その日は、春は歌の練習、僕は絵の制作に取り掛かるため、早めに切り上げた。外はもう、冬の気配を漂わせていた。


 その後も、土曜日はおじいさんの喫茶店に集まり、作戦会議を開いた。会議と言っても、大枠は決まっていたため、くだらない雑談で一日が終わったりすることもあった。宣伝用のチラシを作ったり、春の歌の練習を聞きながら、スピーチの文面を考えたりもしていた。
 大学は、短かった冬休みが終わり、年度末試験を無事に完了し、長い長い春休みに入っていた。驚くことに、僕の大学は二月の初めから三月の終わりまで春季休暇だった。ありがたいことだが、やる気がないんだろうか。
 第一回作戦会議からもう二か月近く経つのに、未完成のハルの絵は、まだ描き上げられていなかった。一人、部屋で絵と向き合い、ハルを思い浮かべていると、どうしようもなく涙が零れ、筆を動かせなかった。心では、乗り越えられたつもりでいたのに、まだ僕は、こんなにも弱かったのかと、驚いてもいた。

 桜の季節まで、あと二か月くらいだろうか。さすがに焦った。ダメもとで、春にLINEを送ってみた。


【Aki】
一人じゃ、ハルの絵が描けない
僕と一緒に、モネの丘に行ってくれないか
臨時モデルになってほしい


 きっと断られるだろうな。前好きだった女の子の絵のモデルに、他の女の子を起用するなんて、失礼千万だと自分でも思う。断られたら全力で謝ろう。


【Haru Miyazato】
え、それって新手のプロポーズ?
   
って冗談は置いておいて、楽しそう!
私でよければ行きたいな!
詳細プリーズ!


 春はいつも、僕の予想を軽々と越えていく。

   *

 一週間後の土曜日、僕は早朝の電車の中にいた。春と共に、僕の故郷に向かう電車に。

「えへへっ、なんか旅行みたいだね。いや、旅行かこれは。あの海以外で秋と会うの初めてだから、なんだか新鮮だよー」
「ほんっと、ごめん。こんなことに付き合わせちゃって。何か必ずお礼はするよ」
「いいんだって、楽しいんだから。秋の故郷を見てみたいし。まあ、どうしてもお礼をしたいって言うなら、受け取ってやらんこともないがね。ふふっ」

 春の明るさにはいつも救われる。後で何か素敵なお礼を考えよう。

「モネの丘って、高校の中にあるんでしょ。駅からはどれくらいかかるの?」
「歩いて二十分てところだな。行きは上り坂だから疲れるかもしれないけど、すまんが頑張ってくれ」
「うん、それはいいんだけど、私たちが敷地に入っても大丈夫なの? 関係者以外立ち入り禁止で、警備員さんとかに捕まらないかな」
「一応僕はOBだし、関係者と言えるだろう。恩師に挨拶に来たとでも言えばいいさ」
「うーん、じゃあその時の対応は任せるよ」

 春と待ち合わせて電車に乗ってから、到着まで約一時間かかった。僕にとってはいつもの海よりも近いが、春は余計遠いので、春を無事に帰すのに余裕を持って三時間半……。泊まりなんて有り得ないので、タイムリミットはだいたい十八時。あまり悠長にはしていられないな。
 駅を出ると、僕は折り畳みのイスとイーゼル、未完成の絵を担いで、春を連れて高校への道を歩いた。実は正月にも実家には帰っていないから、地元に来るのはほぼ一年ぶりだ。懐かしい……。が、今は懐かしんでいる時間はない。

「ねえねえ、お昼ご飯はどうする?」
「うーん、あまり時間がないから、コンビニでサンドイッチでも買って、描きながら食べる……でもいいか?」
「えー、ちょっと寂しいけど、仕方ないかぁ」

 うう、ごめん春……。今度別の機会にご馳走します。

「秋の実家には、挨拶に行かなくていいの?」
「そんな暇はないな」
「まったくー、男の子は薄情だなぁ。あ、ところでさぁ……」
「なんだ?」
「秋の地元ってことは、ハルちゃんの地元でもあるんだよね。ハルちゃんを知ってる人が私を見たら、びっくりさせちゃわないかなぁ」

 思わず足を止めてしまった。迂闊だった。まったくもってその通りだ。
 付き合っていた……と勘違いされていた彼女が死んで、卒業まで廃人のようになっていた男が、三年後にその彼女と瓜二つな女の子を連れて歩いている……。それは、僕を知っている人から見たら、どう映るだろう。幸いここまでは誰とも会わずに済んだが、これからも幸運が続くとは限らない。
 そんな事を考えていると――

「あれっ、もしかしてアキくん?」

 背後から、女性の声がした。