- 優しい太陽 -


*** Miss Spring ***

 アキのアパートの廊下の手すりに座って朝日を見ていたら、アキの部屋から、前に喫茶店の扉の前で聴いた、春ちゃんのピアノと澄んだハミングが微かに聞こえてきた。
 目を閉じてアキの部屋に入ると、アキがラジカセのような機器の前で涙を流していた。
 アキが泣いてる。でも、不思議と心は苦しくなかった。アキが穏やかな表情をしているからだろうか。
 アキの横に座って、私も彼女の音楽を聴いてみる。静かで優しくて、包み込んでくれるような、寄り添ってくれるような歌だ。自分は一人ではないんだと、教えてくれるような、そんな旋律。私が絵で描きたかった世界と似ているのかもしれない。
 私の、私たちの抱えている問題の答えが、この先にあるような、そんな気がする。
 歌は、爽やかなメロディーで締めくくられた。余韻に浸りながら、聴き逃してしまった前半からもう一回聴き直したいと思っていたら、スマホを操作していたアキがテープを巻き戻して、始めから再生してくれた。
 ふふ、私の思いが通じたかな。


 その日の夜は廊下に出ずに、布団で眠るアキの隣に座っていた。アキの寝息を聞きながら、カーテンの隙間から覗く月を見上げていたら、後ろから彼の声が聞こえた。

「はる……」

 ドキリとして振り返ると、アキがまた涙を流していた。夢を見ているのだろうか。私かな、春ちゃんかな。でも、どっちでもいい……かな。どうか、アキが幸せになる道を選んでね。
 触れないのは分かっているけど、少しかがんでアキに近付いて、頬を流れる涙を親指で拭おうとしたら、アキが目を開けて、視線がぶつかった。

「わっ……」

 アキに私は見えないと分かっているのに、驚いてしまう。
 少しドキドキしたけど、そのままアキを見つめていたら、アキが右手をゆっくり上げて私の顔に近づけてきた。

「えっ、アキ? 私が分かるの?」

 アキの右手の指が、私の髪を触った気がした。私も左手を上げて、アキの手に触れようとしたら、アキは反対にゆっくりと手をおろして、また目を閉じた。

「アキ……」

 アキは穏やかな寝息を立てている。左手で、アキが触れた髪を触ったら、アキがくれた桜のヘアピンが指に当たった。



*** Mr. Autumn ***

 一週間、大学の講義中や部屋の中で、言葉を捻り出そうとしてみたが、納得のいくものが出来なかった。歌詞を作るなんて、初めてのことだしな。


 次の土曜。僕は、あの海に向かっていた。
 耳に付けているイヤホンからは、テープから再録した春の歌が、リピートで流れていた。いつもの海辺の階段で、歌詞を考えてみようと思った。
 ハルを殺したカーブに着いて、階段に足を乗せると、いつも僕が座っている場所に女の子が座っているのが見えた。
 僕の足音に気付いたのか、女の子がはっと振り向く。春だ。
 春は一瞬、僕を見て悲愴な表情で一粒涙を零したが、すぐに手で拭い、笑顔を作った。その一連の仕草に、僕の胸は握りつぶされそうになる。

「やあ、やっと来たか! まあ座りたまえ!」

 春はそう冗談めかして言い、僕をいつもの階段に座らせた。
 その左隣に春が座る。

「いやー、いつもいる人がいないと、寂しい景色が余計寂れて見えるもんだねぇ」
「……もしかして、僕を待ってたのか?」
「うん。先週も、その前もね」

 春は軽い調子で言ったが、僕の胸にはズシンと響いた。思わず泣きそうになる。どうして、僕の心はこうも弱いのだろう。

「僕なんかの……何がいいんだよ。こんな暗い男の……」

 頭を抱えて、弱々しい声で呟いた。我ながら、格好悪過ぎる。

「うーん、暗いところかな」

 意味が分からない。

「……は?」

「私ね、明るくてチャラチャラした男って、信用ならないの。それに、影のある人って、何だか神秘的だし、それに放っておけないんだよ。私が何とかしてあげたい、みたいな」

 春と目が合った。彼女は、春の日の優しい太陽のように微笑んだ。

「だから、私は君が好きなの。私は、君を幸せにしてあげたいの」

 心臓が締め付けられる。優しい言葉のせいだけではない。春は僕を「秋」と呼ばなくなっていた。この前の夜の事を、気にしている。僕を責めもせずに。

「だからね、少しずつでもいいから、君の苦しさを、私に教えて」

 彼女の言葉が、春の日差しのように暖かく心に注ぐ。

「秋で……いいよ。この前は、ごめん……」

 そう言いながら、涙が溢れるのを止められなかった。

「うん……。分かった。ありがとう、秋」

 春は手を伸ばし、僕の頭を優しく撫でた。

「ううっ……、ごめん、ハル……、春、ごめん……!」

 涙も感情も、洪水のように溢れた。春に頭を撫でられながら、僕は暫く子供のように泣き続けた。



*** Miss Spring ***

 少し、胸が切ないけど、私は階段の一番上に座って、前の方で横に並んで座る二人を眺めていた。
 まるで、美術部で並んで絵を描いていた私たちを見ているみたいだ。私たちも、こんな風に見えてたのだろうか。あの頃アキの友達に、「付き合ってるの?」と訊かれたのも、当然な気がしてきた。それくらい、今の二人は恋人同士みたいに見える。もし、あの時、頷いていたら、どうなっていただろう。
 彼が言う「はる、ごめん」の「はる」に、私も含まれてることが、何となく分かった。
 私もアキの右隣りに座って、触れないけど、アキの頭を撫でた。
 謝らないで、アキ。むしろ謝るのは私の方。

「アキ……、ごめんね」

 春ちゃんと一緒にアキの頭を撫でながら、何度も謝った。

 死んじゃってごめんね。
 辛い思いをさせてごめんね。
 好きって言えなくて、ごめんね。
 展覧会の約束、果たせなくてごめんね。
 私を描いてくれてた絵、途中だったね、ごめんね。
 ヘアピンのお礼、色々考えてたんだけど、できなくてごめんね。

 謝りながら、アキと一緒に私も泣いた。
 アキと過ごした三つの季節が、きらきら光る想い出が、いくつも心に浮かんで消えた。
 お父さん、お母さん、二人の優しい思い出も、全てが煌めいて、何度も泣けた。
 涙が止まらないけど、アキの部屋で泣いた時みたいな、冷たく刺々した空気は感じなかった。秋の優しい日差しに包まれて、心の中に積もった寂しさとか悲しさが、涙と一緒に雪解けみたいに溶けて流れ出しているように感じた。綺麗な空と、海と、春ちゃんの力だろうか。