- 神様、助けてよ -
アキは毎週土曜日に、あの海に行くようになった。ノートとペンを持って行って、何かを書くようにもなっていた。ちらりと見てみたけど、絵じゃなくて言葉みたいだ。読んでみたかったけど、我慢した。幽霊で気付かれないからって、勝手に見るのは良くないと思って。
ある日、いつものようにアキの隣で海を見ていると、後ろから懐かしい声に呼ばれた。
「あら、サクラじゃない?」
振り返ると、階段の上で茶色の縞模様の猫さんが私を見ていた。
「きなこ! 会いたかったよぉ!」
「やっぱりサクラね。随分久しぶりな気がするわ。どうしてたの?」
「色々あったんだよ。ずっと話したかったの」
階段の一番上に座って、きなこに全部話した。壁の中心点が変わったことも、電車に引きずられて苦労したことも、記憶が戻ったことも、彼との思い出も、想いを告げられなかった事も。
「そう、サクラにとって大切な人なのね。だから人バクレイになったのかしら」
「うん、たぶんそうなんだと思う」
きなこと二人で、前に座るアキを見つめた。海も空も綺麗な青で爽やかな景色なのに、アキの周りだけ少し冷たい悲しげな風が漂っているように感じる。
彼が私を想ってくれるのは嬉しい。すごく嬉しい。でも、私のせいで彼が苦しむなんて、そんなのはイヤだ。でも、彼に忘れられるのは、もっとイヤだ。どうすればいいんだろう。
「そういえばあなた、本当の名前はハルっていうのね。私が知ってる人間と同じ音だわ」
「そう! きなこが教えてくれた春ちゃんと同じだし、見た目もすごく似てるじゃん。びっくりしちゃったよ。私たちがそっくりだって、どうして教えてくれなかったの?」
「あら、そうなの。人間の顔なんて、どれも同じに見えちゃうわ。あなたも、あたしたち猫の違いなんて、見分けられないんじゃないかしら」
「う、確かに。そういうものなのか……」
そんな会話をしていたら、遠くのスーパーの方から女の子が歩いてくるのが見えた。
「あ、春ちゃん……」
「あら、噂をすれば何とやら、ね」
心に、いやな感情がザワザワと湧き上がってくる。
彼女とアキを会わせたくない。きなこがここにいると、彼女がきなこを構うかもしれない。そうすれば、アキもさすがに気付いて振り向いてしまうかもしれない。
「……きなこ、ごめん。ホントはもっと話してたいけど、今日は帰ってもらってもいいかな」
「別に構わないけど、どうしたの?」
「うん、ちょっと……」
言いにくそうにしている私を見て、きなこは立ち上がった。
「分かったわ。今日はさよならね。また会いましょう」
「うん……ごめんね」
きなこは音を立てずに、民家のある方へ歩いて行った。ごめん、きなこ……。
しばらくして、春ちゃんが階段の所まで来た。彼女はまた足を止めて、階段に座るアキを見つめている。私が地バクレイだった時は、彼女が毎日ここに座っているのを見ていたけど、最近もそうしてるのだろうか。ここにアキが座るようになって、何を思ってるかな。
彼女はそーっと前に出て、階段の一段目に座る私の横で、アキの手元を覗こうとした。ノートが気になるのかもしれない。
お願い、声をかけないで。このまま歩き去って行って。
心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら様子を見ていたら、彼女はアキを気にしながらも、民家のある方へ歩いて行った。
微かな安心と同時に、自己嫌悪を感じた。アキは、私だけを見ていて欲しい、私だけを想っていて欲しい、そんな独占欲を持つのは、私みたいな存在には許されないのかもしれない。アキを縛り付けて、苦しめているのは、私なのかもしれない。
*
崖の上で揺れる楓が、真っ赤に色付いた。
アキが、毎週土曜日にこの海辺に来るようになってから、もう半年近くが経った。私は相変わらずアキに付いて行き、春ちゃんは毎回この道を通って、アキを気にしていった。日を重ねる毎に、彼女が足を止める時間が長くなっていってるような気がする。
今日もアキと並んで海を見ていると、春ちゃんが後ろに来た。なんだか、いつもよりちょっとお洒落をしているみたいで、可愛い。アキの隣に座ってそちらを眺めていると、彼女は手を胸に当てて、少し深呼吸をした。
そして、ゆっくりと、足音を立てずにこちらに歩いてくる。もしかして……。
私は立ち上がって階段を数段上って、彼女に向かって両手を横に広げた。アキを守るように。アキを、独り占めするみたいに。
「待って、あなたがアキに会ったら、アキを驚かせちゃうよ。辛い思いをさせちゃうかもしれないの。だから、あなたはアキに会わないで。お願い」
彼女は私の声を聞かず、私をすり抜けて、そのまま、アキのノートを覗きこんだ。私だって見てないのに。ずるいよ。心に不安と嫉妬が渦巻く。
「へえー、歌詞でも書いてるの?」
「うわぁ!」
アキは大げさに驚いて、階段から転んで砂浜に落ちた。
アキがこっちを見上げて、さらに驚いているのが分かった。胸がぎゅうって締め付けられるみたいに痛い。アキが見てるのは私じゃなくて、私の横にいる、私に似た、別の女の子。その子を見て驚いたのは、やっぱり、私にそっくりだから?
涙が零れてきた。ついに、二人が出会ってしまった。
二人はいくつか言葉を交わした後、春ちゃんが具合悪そうなアキの手を取って民家のある方へ連れて行った。少し距離を置いて私も付いて行くと、あの茶色の建物に入った。ずっと気になっていたこの建物は、喫茶店だったんだ。
扉が閉まった後、私も目を閉じて、中に入る。扉に背中を預けて、二人を眺めた。白髪のおじいさんがコーヒーを持ってきて、アキが飲んでいる。春ちゃんがアキに何か話している。寂しい。寂しい。アキ、私から離れていかないで。
春ちゃんが微笑んだのが見えた。何の話をしてるんだろう。
「秋くん。私は、君が好きです」
ここからでも、彼女の言葉が鮮明に聞こえた。アキは驚いているのか固まってる。胸がさらに苦しくなる。
アキを見つめる彼女を見て、何となくそうじゃないかと思っていたけど、こんなに早く言うなんて。何カ月も迷って、言いたくて言えなくて、結局死んじゃって言えなくなった私が、バカみたいだ。
涙とため息しか出ない。心は雨が降り続けてるみたいに、悲しさでいっぱい。
目を閉じて、お店の外に出た。今日は空には厚い雲がかかっているけど、ぼんやりと赤く染まっていて、夕焼けになっているのが分かる。扉の前の段差に座って空を眺めていたら、お店の中からピアノの音が聞こえてきた。澄んだハミングも聞こえる。春ちゃんが歌ってるのだろうか。優しくて、綺麗な旋律だ。少しだけ、心の雨が弱まるのを感じた。
暫くしたら、アキと春ちゃんがお店から出てきて、カーブのある方に歩き出した。少し距離を置いて、とぼとぼと私も付いて行く。
彼女は、楽しそうにアキに色々話している。アキは時々相槌を打ちながら静かに聞いている。二人は、付き合うんだろうか。私が言うのも変な感じだけど、春ちゃんは可愛いし、ずっと泣いてた彼女には、幸せになって欲しい。アキは優しいから、きっと彼女を幸せにしてあげるだろう。
アキが、私を忘れたら、私の壁はなくなるだろうか。また、あのカーブの地バクレイに戻るんだろうか。こんなに辛いなら、その方がいいかな。それとも、私も、アキを忘れないと、ダメかな。
地面にぽろぽろ零れて、跡も残さずに消える涙を見つめながら、そんなことを考えて歩いていたら、突然アキのどなり声が聞こえた。春ちゃんも何か言ってる。喧嘩?
「お前には分からない! お前に何が分かる!」
「分かるわけないじゃん! だから教えてよ!」
駆けつけると、アキが頭を抱えながら叫んでいた。
「お前に何が分かる! ハルはここで死んだのに!!」
私の全身が、凍りつくように感じた。
春ちゃんが、泣きながら民家の方に走って行った。
アキが地面にうずくまって、大声で泣き出した。
私はここで死んだ。そのことが、大好きなアキも、アキを好きだという春ちゃんも、悲しませている。
神様、助けてよ。このままじゃ誰も、幸せになれないよ。
アキは毎週土曜日に、あの海に行くようになった。ノートとペンを持って行って、何かを書くようにもなっていた。ちらりと見てみたけど、絵じゃなくて言葉みたいだ。読んでみたかったけど、我慢した。幽霊で気付かれないからって、勝手に見るのは良くないと思って。
ある日、いつものようにアキの隣で海を見ていると、後ろから懐かしい声に呼ばれた。
「あら、サクラじゃない?」
振り返ると、階段の上で茶色の縞模様の猫さんが私を見ていた。
「きなこ! 会いたかったよぉ!」
「やっぱりサクラね。随分久しぶりな気がするわ。どうしてたの?」
「色々あったんだよ。ずっと話したかったの」
階段の一番上に座って、きなこに全部話した。壁の中心点が変わったことも、電車に引きずられて苦労したことも、記憶が戻ったことも、彼との思い出も、想いを告げられなかった事も。
「そう、サクラにとって大切な人なのね。だから人バクレイになったのかしら」
「うん、たぶんそうなんだと思う」
きなこと二人で、前に座るアキを見つめた。海も空も綺麗な青で爽やかな景色なのに、アキの周りだけ少し冷たい悲しげな風が漂っているように感じる。
彼が私を想ってくれるのは嬉しい。すごく嬉しい。でも、私のせいで彼が苦しむなんて、そんなのはイヤだ。でも、彼に忘れられるのは、もっとイヤだ。どうすればいいんだろう。
「そういえばあなた、本当の名前はハルっていうのね。私が知ってる人間と同じ音だわ」
「そう! きなこが教えてくれた春ちゃんと同じだし、見た目もすごく似てるじゃん。びっくりしちゃったよ。私たちがそっくりだって、どうして教えてくれなかったの?」
「あら、そうなの。人間の顔なんて、どれも同じに見えちゃうわ。あなたも、あたしたち猫の違いなんて、見分けられないんじゃないかしら」
「う、確かに。そういうものなのか……」
そんな会話をしていたら、遠くのスーパーの方から女の子が歩いてくるのが見えた。
「あ、春ちゃん……」
「あら、噂をすれば何とやら、ね」
心に、いやな感情がザワザワと湧き上がってくる。
彼女とアキを会わせたくない。きなこがここにいると、彼女がきなこを構うかもしれない。そうすれば、アキもさすがに気付いて振り向いてしまうかもしれない。
「……きなこ、ごめん。ホントはもっと話してたいけど、今日は帰ってもらってもいいかな」
「別に構わないけど、どうしたの?」
「うん、ちょっと……」
言いにくそうにしている私を見て、きなこは立ち上がった。
「分かったわ。今日はさよならね。また会いましょう」
「うん……ごめんね」
きなこは音を立てずに、民家のある方へ歩いて行った。ごめん、きなこ……。
しばらくして、春ちゃんが階段の所まで来た。彼女はまた足を止めて、階段に座るアキを見つめている。私が地バクレイだった時は、彼女が毎日ここに座っているのを見ていたけど、最近もそうしてるのだろうか。ここにアキが座るようになって、何を思ってるかな。
彼女はそーっと前に出て、階段の一段目に座る私の横で、アキの手元を覗こうとした。ノートが気になるのかもしれない。
お願い、声をかけないで。このまま歩き去って行って。
心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら様子を見ていたら、彼女はアキを気にしながらも、民家のある方へ歩いて行った。
微かな安心と同時に、自己嫌悪を感じた。アキは、私だけを見ていて欲しい、私だけを想っていて欲しい、そんな独占欲を持つのは、私みたいな存在には許されないのかもしれない。アキを縛り付けて、苦しめているのは、私なのかもしれない。
*
崖の上で揺れる楓が、真っ赤に色付いた。
アキが、毎週土曜日にこの海辺に来るようになってから、もう半年近くが経った。私は相変わらずアキに付いて行き、春ちゃんは毎回この道を通って、アキを気にしていった。日を重ねる毎に、彼女が足を止める時間が長くなっていってるような気がする。
今日もアキと並んで海を見ていると、春ちゃんが後ろに来た。なんだか、いつもよりちょっとお洒落をしているみたいで、可愛い。アキの隣に座ってそちらを眺めていると、彼女は手を胸に当てて、少し深呼吸をした。
そして、ゆっくりと、足音を立てずにこちらに歩いてくる。もしかして……。
私は立ち上がって階段を数段上って、彼女に向かって両手を横に広げた。アキを守るように。アキを、独り占めするみたいに。
「待って、あなたがアキに会ったら、アキを驚かせちゃうよ。辛い思いをさせちゃうかもしれないの。だから、あなたはアキに会わないで。お願い」
彼女は私の声を聞かず、私をすり抜けて、そのまま、アキのノートを覗きこんだ。私だって見てないのに。ずるいよ。心に不安と嫉妬が渦巻く。
「へえー、歌詞でも書いてるの?」
「うわぁ!」
アキは大げさに驚いて、階段から転んで砂浜に落ちた。
アキがこっちを見上げて、さらに驚いているのが分かった。胸がぎゅうって締め付けられるみたいに痛い。アキが見てるのは私じゃなくて、私の横にいる、私に似た、別の女の子。その子を見て驚いたのは、やっぱり、私にそっくりだから?
涙が零れてきた。ついに、二人が出会ってしまった。
二人はいくつか言葉を交わした後、春ちゃんが具合悪そうなアキの手を取って民家のある方へ連れて行った。少し距離を置いて私も付いて行くと、あの茶色の建物に入った。ずっと気になっていたこの建物は、喫茶店だったんだ。
扉が閉まった後、私も目を閉じて、中に入る。扉に背中を預けて、二人を眺めた。白髪のおじいさんがコーヒーを持ってきて、アキが飲んでいる。春ちゃんがアキに何か話している。寂しい。寂しい。アキ、私から離れていかないで。
春ちゃんが微笑んだのが見えた。何の話をしてるんだろう。
「秋くん。私は、君が好きです」
ここからでも、彼女の言葉が鮮明に聞こえた。アキは驚いているのか固まってる。胸がさらに苦しくなる。
アキを見つめる彼女を見て、何となくそうじゃないかと思っていたけど、こんなに早く言うなんて。何カ月も迷って、言いたくて言えなくて、結局死んじゃって言えなくなった私が、バカみたいだ。
涙とため息しか出ない。心は雨が降り続けてるみたいに、悲しさでいっぱい。
目を閉じて、お店の外に出た。今日は空には厚い雲がかかっているけど、ぼんやりと赤く染まっていて、夕焼けになっているのが分かる。扉の前の段差に座って空を眺めていたら、お店の中からピアノの音が聞こえてきた。澄んだハミングも聞こえる。春ちゃんが歌ってるのだろうか。優しくて、綺麗な旋律だ。少しだけ、心の雨が弱まるのを感じた。
暫くしたら、アキと春ちゃんがお店から出てきて、カーブのある方に歩き出した。少し距離を置いて、とぼとぼと私も付いて行く。
彼女は、楽しそうにアキに色々話している。アキは時々相槌を打ちながら静かに聞いている。二人は、付き合うんだろうか。私が言うのも変な感じだけど、春ちゃんは可愛いし、ずっと泣いてた彼女には、幸せになって欲しい。アキは優しいから、きっと彼女を幸せにしてあげるだろう。
アキが、私を忘れたら、私の壁はなくなるだろうか。また、あのカーブの地バクレイに戻るんだろうか。こんなに辛いなら、その方がいいかな。それとも、私も、アキを忘れないと、ダメかな。
地面にぽろぽろ零れて、跡も残さずに消える涙を見つめながら、そんなことを考えて歩いていたら、突然アキのどなり声が聞こえた。春ちゃんも何か言ってる。喧嘩?
「お前には分からない! お前に何が分かる!」
「分かるわけないじゃん! だから教えてよ!」
駆けつけると、アキが頭を抱えながら叫んでいた。
「お前に何が分かる! ハルはここで死んだのに!!」
私の全身が、凍りつくように感じた。
春ちゃんが、泣きながら民家の方に走って行った。
アキが地面にうずくまって、大声で泣き出した。
私はここで死んだ。そのことが、大好きなアキも、アキを好きだという春ちゃんも、悲しませている。
神様、助けてよ。このままじゃ誰も、幸せになれないよ。