- 記憶の桜 -
やがて彼は電車を降り、別の電車に乗り換え、またしばらくして電車を降りた。私はもう同じ目に逢わないよう、彼から離れないようにずっと近くにいた。彼は終始、寂しげな顔をしていた。
彼が改札にカードをかざし駅を出たのは、もう空が真っ暗になっている頃だった。彼は駅の横にあるコンビニに入って、ペットボトルのお茶とカップラーメンを買った。
「それ、夕ご飯にするつもり? もっと体にいいもの食べないとだめだよ」
忠告したけど聞こえるはずもない。頬を膨らませて、夜道を進む彼の後ろを歩いた。
それにしても、ここはどこだろう。彼が私にとって大事な人なら、私の知っている場所に来るかとも思ったけど、さっき降りた駅の名前も、この辺りの風景も記憶にない。ここも私の知らない場所なのだろうか。それとも本当に全部忘れてしまったのだろうか。
彼は、あるアパートの敷地に入り、階段を登った。廊下の片面にだけ部屋があるタイプの小さなアパートだ。廊下の手すりの向こうは、冷たい夜の空気が広がっている。空には三日月が鋭く浮かんでいた。
彼は「201」と書いてある扉を鍵で開けて、中に入った。少し躊躇ったけど、私もお邪魔させてもらうことにした。不法侵入かな。でも、幽霊なんだから、いいよね。
「おじゃましまーす……」
彼が電気のスイッチを付けると、天井の照明が瞬いて部屋が明るくなる。
少し散らかっている部屋を見渡して、私は息が止まった。
壁にいくつもの絵が飾ってある。
桜の揺れる風景の水彩画だ。
私は、これを知っている。
駆け寄って、その中の一枚を凝視した。
その瞬間、頭の中にいくつもの風景が広がった。
高校の校舎の裏、桜の木が一本だけ立つ、見晴らしの良い丘。彼が待つ、特別な場所。
いつも隣で絵を描いてた。初めて話せた春の終わり。
夏の夜に一緒に見た流れ星。秋の夕焼けの中、私を描く彼の真剣な表情。
そうか。そうか。そうだったのか。
私、どうして忘れていたんだろう。こんなに大切なこと。
どんどん思い出してくる。
私の名前、彼の名前。私の夢。彼との約束。
彼がくれた、桜のヘアピン。
涙がぼろぼろと零れてくる。
どうして忘れてたんだろう。こんなに想いが溢れていたのに。
お父さんが運転する車。助手席で楽しそうに笑うお母さん。あまり楽しめない私。
突然飛び出してきたトラック。
二人の悲鳴。鉄を引き裂くような音。海。砂浜――
「うっ……」
頭が痛い。胸が痛い。腕が痛い。足も、体も、心も、全部痛い。
「寒い、怖い、寂しい……ううぅ」
床にしゃがみ込むと、手を洗っていたらしい彼が部屋に戻ってきた。
振り向いて、彼の顔を見る。
私の大好きな、優しい人。
「あ……」
いつの間にか置いてきてしまった、大切な人。
「ア、アキ……」
名前を呼んでも、アキは灰のような無表情で、ヤカンに水を入れている。
彼はもう、私に微笑んでくれない。
お父さんも、お母さんも、死んじゃってた。
「アキ……、アキぃ……」
私の名前を呼んでよ。優しく笑ってよ。また一緒に絵を描こうよ。
涙が止まらない。ここにはきなこもいない。アキは私を見ようともしない。
「うぅ、あう……わああああぁ」
声をあげて泣いた。何時間も、何時間も、泣き続けた。
哀しみも、孤独も、愛しさも、後悔も、綺麗な思い出も、今の笑わないアキも、全部泣けた。
アキが、私の絵を飾っている意味も、海辺で泣いていた理由も、全部分かって、余計泣いた。
夜が明けて、外がうっすら明るくなってきた頃、ようやく落ち着いてきた。
布団で眠るアキを見ると、彼の頬を涙が伝っていた。
ねえ、どんな夢を見てるの? その涙は、私のためなの?
近くに座って、手で涙の跡を拭おうとしたけれど、私の指はアキの頬をすり抜けるだけだ。
また、涙が止まらなくなりそうになったので、目を閉じてアキの部屋をすり抜け、廊下に出た。危ないけど、手すりをまたいで腰をかけて、そのまま、朝日がゆっくり昇るのをぼんやりと眺めていた。
*
アキは、大学生になっていた。学校はアパートから歩いて行ける距離みたいだ。平日は私も、アキと一緒に学校に行った。アキは友達といる時は元気に振舞っていたけど、一人になるといつも寂しそうな顔をしている。
お昼は学食でちゃんとしたものを食べてるみたいだけど、朝とか夜ご飯は、食べなかったり、質素なものばかりで、心配になる。
夜になってアキが眠ると、私はいつも廊下の手すりに座って朝を待った。前にきなこが羨ましがってたけど、眠くならないってのは案外辛い。特に夜は、色んな事を考えてしまう。移動できる範囲を散策したりもしてみたけど、話し相手になってくれるような猫さんは見つけられなかった。何も言えずにこっちに来てしまったけれど、きなこ、心配してないかな。
海辺にいたころは曜日の感覚がまったくなかったけど、アキといるとその感覚が戻ってくる。五日間学校に行って、土曜日になった。アキは朝起きて準備すると、駅に向かった。どこに行くのかと思っていたら、一週間前に乗ったのと同じ電車で、交通事故があったあの海辺のカーブまで来た。
またここに来たんだ。もしかしてこれも、私が死んじゃったせいなのかもと思うと、胸がズキンと痛んだ。
アキはまた、階段に座ってぼんやりと海を眺めた。私も右に座って、海を見る。
「そうだアキ、絵は、まだ描いてるの?」
「……」
「描いてない、よね。……楽しくなくなっちゃった?」
「……」
「約束、したじゃん……。大人になってもアキが絵を描いてたら、私の個展で飾ってあげるって……」
当然だけど、アキは何も言わない。隣に座っているのに、何だかすごく遠くに感じてしまう。
髪に付けてる桜のヘアピンを外して見てみる。アキが選んで、私に似合うって言ってくれた、大切な大切なプレゼント。また涙が出てきた。もらった時、あんなに嬉しかったのに。今は、見ても悲しくなるだけだ。
アキの方を見たら、彼も左手を額に当てて、静かに泣いていた。
大切な、大好きな人が泣いてる。何とかしてあげたいのに、私は何もできない。
神様、どうしたらいいの。このままじゃ、二人とも辛いだけだよ。
途方に暮れていると、後ろで人の気配がした。振り返ると、自分が立っていた。
「えっ!」
驚いた。立っているのは春ちゃんだ。自分がそこにいるのかと思った。魂である自分が抜けて、私の体が別の意思を持って動いているのかと……
そうか、最初に見かけた時、見たことある人だと思ってたら、いつも鏡で見ていた自分にそっくりだったのか。それにしても、怖くなるくらいに似ている。名前も、「ハル」と「春」で似てるし。
ほんの少し、いやな気持ちが心に湧き起こる。アキが、私にそっくりな春ちゃんを見たらどう思うだろう。私の事なんて忘れて、彼女を好きになってしまうんじゃないだろうか。そんなのイヤだ。心がズキズキと痛くなる。
アキを見ると、また気付いていないのか、気にしていないのか、後ろを振り返ろうともしない。少しほっとしてしまう自分が、またイヤになる。
彼女は、しばらく静かにアキを見つめた後、民家のある方へ歩いて行った。
その日は、きなこには会えなかった。夕方くらいにアキはアパートに帰った。
*
やがて彼は電車を降り、別の電車に乗り換え、またしばらくして電車を降りた。私はもう同じ目に逢わないよう、彼から離れないようにずっと近くにいた。彼は終始、寂しげな顔をしていた。
彼が改札にカードをかざし駅を出たのは、もう空が真っ暗になっている頃だった。彼は駅の横にあるコンビニに入って、ペットボトルのお茶とカップラーメンを買った。
「それ、夕ご飯にするつもり? もっと体にいいもの食べないとだめだよ」
忠告したけど聞こえるはずもない。頬を膨らませて、夜道を進む彼の後ろを歩いた。
それにしても、ここはどこだろう。彼が私にとって大事な人なら、私の知っている場所に来るかとも思ったけど、さっき降りた駅の名前も、この辺りの風景も記憶にない。ここも私の知らない場所なのだろうか。それとも本当に全部忘れてしまったのだろうか。
彼は、あるアパートの敷地に入り、階段を登った。廊下の片面にだけ部屋があるタイプの小さなアパートだ。廊下の手すりの向こうは、冷たい夜の空気が広がっている。空には三日月が鋭く浮かんでいた。
彼は「201」と書いてある扉を鍵で開けて、中に入った。少し躊躇ったけど、私もお邪魔させてもらうことにした。不法侵入かな。でも、幽霊なんだから、いいよね。
「おじゃましまーす……」
彼が電気のスイッチを付けると、天井の照明が瞬いて部屋が明るくなる。
少し散らかっている部屋を見渡して、私は息が止まった。
壁にいくつもの絵が飾ってある。
桜の揺れる風景の水彩画だ。
私は、これを知っている。
駆け寄って、その中の一枚を凝視した。
その瞬間、頭の中にいくつもの風景が広がった。
高校の校舎の裏、桜の木が一本だけ立つ、見晴らしの良い丘。彼が待つ、特別な場所。
いつも隣で絵を描いてた。初めて話せた春の終わり。
夏の夜に一緒に見た流れ星。秋の夕焼けの中、私を描く彼の真剣な表情。
そうか。そうか。そうだったのか。
私、どうして忘れていたんだろう。こんなに大切なこと。
どんどん思い出してくる。
私の名前、彼の名前。私の夢。彼との約束。
彼がくれた、桜のヘアピン。
涙がぼろぼろと零れてくる。
どうして忘れてたんだろう。こんなに想いが溢れていたのに。
お父さんが運転する車。助手席で楽しそうに笑うお母さん。あまり楽しめない私。
突然飛び出してきたトラック。
二人の悲鳴。鉄を引き裂くような音。海。砂浜――
「うっ……」
頭が痛い。胸が痛い。腕が痛い。足も、体も、心も、全部痛い。
「寒い、怖い、寂しい……ううぅ」
床にしゃがみ込むと、手を洗っていたらしい彼が部屋に戻ってきた。
振り向いて、彼の顔を見る。
私の大好きな、優しい人。
「あ……」
いつの間にか置いてきてしまった、大切な人。
「ア、アキ……」
名前を呼んでも、アキは灰のような無表情で、ヤカンに水を入れている。
彼はもう、私に微笑んでくれない。
お父さんも、お母さんも、死んじゃってた。
「アキ……、アキぃ……」
私の名前を呼んでよ。優しく笑ってよ。また一緒に絵を描こうよ。
涙が止まらない。ここにはきなこもいない。アキは私を見ようともしない。
「うぅ、あう……わああああぁ」
声をあげて泣いた。何時間も、何時間も、泣き続けた。
哀しみも、孤独も、愛しさも、後悔も、綺麗な思い出も、今の笑わないアキも、全部泣けた。
アキが、私の絵を飾っている意味も、海辺で泣いていた理由も、全部分かって、余計泣いた。
夜が明けて、外がうっすら明るくなってきた頃、ようやく落ち着いてきた。
布団で眠るアキを見ると、彼の頬を涙が伝っていた。
ねえ、どんな夢を見てるの? その涙は、私のためなの?
近くに座って、手で涙の跡を拭おうとしたけれど、私の指はアキの頬をすり抜けるだけだ。
また、涙が止まらなくなりそうになったので、目を閉じてアキの部屋をすり抜け、廊下に出た。危ないけど、手すりをまたいで腰をかけて、そのまま、朝日がゆっくり昇るのをぼんやりと眺めていた。
*
アキは、大学生になっていた。学校はアパートから歩いて行ける距離みたいだ。平日は私も、アキと一緒に学校に行った。アキは友達といる時は元気に振舞っていたけど、一人になるといつも寂しそうな顔をしている。
お昼は学食でちゃんとしたものを食べてるみたいだけど、朝とか夜ご飯は、食べなかったり、質素なものばかりで、心配になる。
夜になってアキが眠ると、私はいつも廊下の手すりに座って朝を待った。前にきなこが羨ましがってたけど、眠くならないってのは案外辛い。特に夜は、色んな事を考えてしまう。移動できる範囲を散策したりもしてみたけど、話し相手になってくれるような猫さんは見つけられなかった。何も言えずにこっちに来てしまったけれど、きなこ、心配してないかな。
海辺にいたころは曜日の感覚がまったくなかったけど、アキといるとその感覚が戻ってくる。五日間学校に行って、土曜日になった。アキは朝起きて準備すると、駅に向かった。どこに行くのかと思っていたら、一週間前に乗ったのと同じ電車で、交通事故があったあの海辺のカーブまで来た。
またここに来たんだ。もしかしてこれも、私が死んじゃったせいなのかもと思うと、胸がズキンと痛んだ。
アキはまた、階段に座ってぼんやりと海を眺めた。私も右に座って、海を見る。
「そうだアキ、絵は、まだ描いてるの?」
「……」
「描いてない、よね。……楽しくなくなっちゃった?」
「……」
「約束、したじゃん……。大人になってもアキが絵を描いてたら、私の個展で飾ってあげるって……」
当然だけど、アキは何も言わない。隣に座っているのに、何だかすごく遠くに感じてしまう。
髪に付けてる桜のヘアピンを外して見てみる。アキが選んで、私に似合うって言ってくれた、大切な大切なプレゼント。また涙が出てきた。もらった時、あんなに嬉しかったのに。今は、見ても悲しくなるだけだ。
アキの方を見たら、彼も左手を額に当てて、静かに泣いていた。
大切な、大好きな人が泣いてる。何とかしてあげたいのに、私は何もできない。
神様、どうしたらいいの。このままじゃ、二人とも辛いだけだよ。
途方に暮れていると、後ろで人の気配がした。振り返ると、自分が立っていた。
「えっ!」
驚いた。立っているのは春ちゃんだ。自分がそこにいるのかと思った。魂である自分が抜けて、私の体が別の意思を持って動いているのかと……
そうか、最初に見かけた時、見たことある人だと思ってたら、いつも鏡で見ていた自分にそっくりだったのか。それにしても、怖くなるくらいに似ている。名前も、「ハル」と「春」で似てるし。
ほんの少し、いやな気持ちが心に湧き起こる。アキが、私にそっくりな春ちゃんを見たらどう思うだろう。私の事なんて忘れて、彼女を好きになってしまうんじゃないだろうか。そんなのイヤだ。心がズキズキと痛くなる。
アキを見ると、また気付いていないのか、気にしていないのか、後ろを振り返ろうともしない。少しほっとしてしまう自分が、またイヤになる。
彼女は、しばらく静かにアキを見つめた後、民家のある方へ歩いて行った。
その日は、きなこには会えなかった。夕方くらいにアキはアパートに帰った。
*