春に桜の舞い散るように

- 見えない壁 -


 砂浜に降りて、スーパーの方の壁に来ると、きなこは今度は落ちていた木の枝をくわえて、また私を歩かせた。砂浜に線を引いているみたいだ。あ、そうか。

「壁の位置を書いてるんだね?」
「そうよ。これで、サクラの壁が直線じゃないことが分かったわ。次はまた、反対側ね」

 きなこは頼もしい。冷静で、賢くて、何だか上品さも感じる。
 民家のある方の砂浜の壁沿いを歩いて、きなこがまた線を引いた。

「ふう。一部だから推測でしかないんだけど、やっぱり壁は円周状になってるみたいね。ドーム型なのか円柱型なのかは分からないけれど」

 きなこは振り向いて、スーパーの方から続く砂浜に付いた足跡を見つめた。きなこの小さい可愛い足跡は点々と続いているけど、私の足跡はどこを探してもなかった。不思議だな、砂を踏んでいるような感覚はあるのに。さっきのコンクリートの壁と同じなんだろうか。

「感覚的に、円の直径は約百二十メートルといったところかしら」
「きなこすごいね。そんなことまで分かるんだ」
「円だとしたら中心もだいたい分かるけど、行ってみる?」
「うん!」

 きなこの後に付いて、階段を上って左に曲がる。

「この辺りね」
「あ、ここは……」

 きなこが立ち止った場所は、私が最初に気がついた場所だった。ガードレールの傍。

「何か思い当たるのかしら?」
「ううん。最初に気がついた時、ここに立ってたって事、くらいかな」
「そう。サクラの心が、この場所に何かしらの未練や執着を残しているのか、この場所が、サクラの魂を縛っているのか……。どちらにせよ、時間をかけた割に大した収穫はなかったわね。ごめんなさいね」
「謝らないでよ、きなこはすごく頑張ってくれて嬉しかったし、色々分かったよ。私一人じゃ何も出来なかったから、すごく助かる!」
「そう。それは良かったわ」

 可愛い猫さんが私のために頑張ってくれたことの喜びは、感謝の言葉だけじゃ足りないから、しゃがんできなこの喉を撫でてあげ――ようとしたけど、やっぱりすり抜けてしまう。

「あ、そうか……」
「あら、撫でようとしてくれたの? うふふ、ありがとう。気持ちだけでも嬉しいわ」
「うう、ごめんね。私、なにもしてあげられない」
「いいのよ。あたしも色々考えられて楽しかったわ」

 きなこは私の方を向いて目を細めたあと、大きく伸びをした。

「じゃあ、今日はそろそろ行くわ。また来るからね、サクラ」
「えっ、もう行っちゃうの?」

 急に心細くなる。もちろん、ずっと傍にいてもらう訳にもいかないのは分かるけど、唯一の話し相手で理解者のきなこがいなくなるのは、寂しいし、不安だ。

「きなこがいないと、私、どうしたらいいか分からないよ……」
「大丈夫よ。あなたの時間は世界が滅びるまで有るんだから、のんびり気長に、楽しくやりなさい」
「うん……。でもあの、眠る時とか、その、トイレとか、どうしたらいいかな」
「あなたは精神的存在だから、必要ないはずよ。眠くなることもないんじゃないかしら。その点はあたしには羨ましいわ。実はさっきから眠くてしょうがないのよ」

 きなこはそう言って、大きくあくびをした。可愛い。

「そっか。じゃあ無理は言えないね。私一人でも、色々試したり考えたりしてみるよ」
「そうね。でも、難しく考え込んだらだめよ」
「うん。ありがとうきなこ。今日は話しかけてくれて、すごく嬉しかったよ」

 きなこは初めて口を開けて、「んにゃー」と一声鳴いた後、民家がある方にゆっくりと歩いて行った。私は、きなこが見えなくなるまで見送った。

「さてと」

 きなこが遠くの茂みに入っていくのを見届けてから、教えてもらった円の中心点に帰ってきた。
 私の未練、執着。それとも、私の魂を縛る場所。
 よく見ると、この辺りのガードレールだけ新しいのか、他の場所よりも白くて綺麗。
 何なんだろう。私はここで死んだんだろうか。この場所なら、やっぱり交通事故?
 そっか、そういえば私、死んでるのか。もうこれから、成長したり、学校に行ったり、友達と遊んだり、お母さんに甘えたり、好きな人に会ったり、できないんだな。
 きなこに、気楽にやりなさいと言われたけど、やっぱり考えてしまう。寂しい。悲しい。
 一人になって俯いていると、視界の上から赤いものがヒラヒラと落ちてきた。私の足元でハラリと止まる。
 モミジの葉っぱだ。崖の上から落ちたんだろう。しゃがんで、近くで見る。綺麗だな。
 指でつまんで拾い上げようとしたけど、やっぱりだめだった。地面に触る感触はあるのに、モミジの葉っぱはホログラムみたいに指をすり抜ける。確かにここにあるのに、でも存在していないみたいな、不思議な感じ。きなこの言ってた、レイヤーの違い、というやつだろうか。
 今は何月なんだろう。モミジは真っ赤に染まってる。
 綺麗だけど、でも何か、悲しいような寂しいような、すごく愛おしいような、複雑な感情が胸に溢れてくる。
 私にとって、何か大切なこと?
 モミジ。楓。落ち葉。紅葉。赤。枯れ葉。秋。
 分からない。
 髪に付けている桜のヘアピンを外して、見てみる。
 これもすごく、すごく大切なもの。
 ヘアピン。桜。白。ピンク。花。春。
 涙が溢れてくる。心がズキズキと痛い。
 だめだ。何も思い出せないくせに、涙ばかりが溢れてきてしまう。
 立ち上がって、ヘアピンをまた付けて、階段の方に歩いて、半分下りた所に座る。
 もう太陽は傾いて、綺麗な夕焼けになっている。
 夕焼け。胸が切なくなって、涙が零れる。
 はあ、何を見ても辛いよ。こんなだから私、幽霊になっちゃったんだろうな。
 よし、何か違うこと考えよう。そうだ、今日のきなことのやりとりを思い返してみよう。
 きなこ、可愛い声だったな。ふわふわな毛並み、撫でたいなぁ。

 目を閉じてきなこの事を考えてたいら、夜になっていた。
 きなこの言う通り眠くならないし、お腹も空かないし、寒さも感じないし、トイレにも、行かなくていいみたいだ。
 それにしても、幽霊ってヒマなんだな。他の幽霊たちは何をして過ごしてるんだろうか。幽霊同士は会話とか出来るのかな。会えたら、仲良くなれるかな。
 空には、たくさんの星が光っている。綺麗。

「北極星、カシオペア、ベガ、デネブ、アルタイル」

 思い出は、全然残ってないのに、こういう知識はなんで覚えてるんだろう。

「あっ」

 空に白い線が流れて消えた。流れ星だ。

 なんだか、思い出の片鱗が見えそうで見えない。波の音。流れ星。寂しい。切ない。離れたくない。理由は分からないまま、そんな思いばかりが胸に募ってくる。また泣けてしまう。
 だめだめ、じっとしてると色々考えちゃってだめだ。立ち上がって階段を駆け下りて、砂浜に立つ。目を閉じて両手を広げ、宙に浮かぶイメージを心に描く。

「私に重さはない! 私は飛べるはず。飛べるはず!」

 うっすらと目を開けてみたけれど、足はしっかり地面を踏みしめていた。
 まだ、きなこの言ってた世界感は使いこなせない。
 その日の夜は、ずっと空を飛ぶ練習をして過ごした。

   *
- どうして -


 それから私は、ずーっと、ずーっと、透明な壁に仕切られたこの空間で過ごしている。結局、空は飛べてないけど、目を閉じていればコンクリートの崖をすり抜けられることは分かった。中に入ってる時は怖くて目を開けたことがないけれど。
 壁に囲まれたこの空間は、狭いし、寂しいし、退屈だけど、たまにきなこがやってきて、私にも季節の花を届けてくれたり、話し相手になってくれたり、友達の猫さんを紹介してくれたりもした。
 お母さんとか、お父さんとか、どんな人か覚えてないけど、元気だろうか。私には兄弟とか姉妹とかいるのだろうか。もう、季節は三回くらい巡ったけど、私の知っている人は誰も来てくれていない。

 冬は、ここは雪国ではないみたいで、雪がたまにちらほらと降る程度だった。寒さは感じないし雪は綺麗だけど、灰色の空とか、暗い海とかを見てると寂しくなる。冬は好きじゃないな。

 春は大好き。いつも寂しいこの道も、人通りが多くなる。賑やかになる。みんなどこに向かうのか初めは不思議だったけれど、人の流れを目で追っていくと、民家のある方の奥、崖になっている所の上に、大きな桜の木を見つけた。遠くてよくは見えないけれど、きなこがいない時は透明な壁の所まで行って、ずっと桜を見ていた。夜になるとオレンジ色の優しい光りが桜を照らして、星もきらきら光って、すごく綺麗だ。ずっと見ていても飽きない。
 花見に来たほとんどの人が、最初の日に女の子が帰っていった茶色の建物に入っていくのが分かった。何かのお店だろうか。行ってみたいな。

 夏は、海水浴に来る人で混雑するかと思っていたけれど、そうでもなかった。ヨットみたいなのに乗る人が何人か来るくらい。砂浜も海も綺麗だけど、どうしてだろう。もしかしたら、海の中は遊泳に向かないような場所なのかもしれない。
 夏の綺麗な空とか雲とか、きらきら輝く海を眺めるのは楽しい。暑さを感じないから、ずっと太陽の下にいても平気だし。
 靴を脱いで、海に足まで入ったこともあった。入っている時は、水に浸かっているような感覚はあるのに、出るとまったく濡れてない。レイヤーの違いは何となく理解はしていたけど、やっぱり不思議に感じてしまう。

 秋も、好き。コンクリートの崖の上のモミジが綺麗だし、空気が澄んでいるのを感じる。きなこが持ってきてくれるコスモスも可愛くて綺麗。夕焼けは、四季の中で秋が一番綺麗に感じる。あと、星空も。
 この季節になると名前を知らない鳥がよく浜辺を歩くから、声をかけてみたことがあったけれど、意思の疎通は出来なかった。きなこは犬も鳥も喋るって言ってたけど、今の所言葉がわかるのは猫さんだけだ。

 最初の日に見た、泣いていた女の子は、毎日のようにここの道を通っていた。近所に住んでるみたいだから、当然か。そうxそう、いつだったか忘れたけど、きなこがあの女の子の名前を教えてくれた。春ちゃんというらしい。優しくて可愛い名前だ。
 春ちゃんは、一人の時は寂しそうな顔をしていた。いつも階段に座って、三十分くらい海を眺めていった。海を見ながら、彼女はたまに涙を零していた。
 白髪の綺麗な、姿勢の良いおじいさんと歩いていることもあった。春ちゃんのおじいさんだろうか、カッコイイな。
 彼女はまた、同い年くらいに見える女の子と歩いている時もあった。誰かと一緒にいる時は、彼女はとても明るく元気で、きらきらと笑う。でも一人の時はすごく悲しそう。無理してるのだろうか。
 春ちゃんは高校生っぽい制服を着ていることが多かったけれど、三回目の桜の季節が来たら、私服で歩くようになっていた。高校を卒業して、大学にでも入学したのだろうか。彼女は今でも、ここの階段に座って静かに泣くことがある。私はいつも隣に座るけど、何もしてあげられないのがもどかしい。

   *

 私がバクレイになってから三回目の桜が散って、初夏の緑色の風が漂い始めた。
 いつものように階段に座って海を眺めていたら、スーパーのある方の道から、一人の男の人が歩いて来るのに気付いた。初めて通る人だ。高校生か、大学生くらいに見える。
 立ち上がり、階段を上って、よく見てみる。この人も、悲しそうな表情をしている。私の壁を越えて、私の空間に入ってきて、カーブ地点で足を止めた。
 心臓がドクンと動くのを感じた。
 あれ、私、この人を知ってる?
 秋のそよ風のような涼しげな横顔。優しい瞳。静かな口元。黒くまっすぐな髪。
 何だろう。胸が痛い。心臓の鼓動が苦しい。
 来てくれたのだろうか。ずっと待ってた人が。でも、思い出せない。
 男の人はしばらく道路の真ん中で立ち止ったままだったけれど、やがてゆっくり歩いてガードレールの上に腰かけ、辺りの景色をぼんやりと見回し始めた。何か、探しているのだろうか。
 傍に行って顔をよく見ていたら、ゆっくりと視線を動かしてきた男の人と、目があった。胸の鼓動が高鳴る。男の人はぼんやりと私を見ている。え、私が、見えてるの?

「あなた、誰?」

 声を出して聞いてみたけど、男の人は何の反応もしない。よく見ると、この人の視線は私をすり抜けて、その奥に向かっていた。振り向いて見てみたら、崖の上の楓が、緑色の葉っぱをそよそよと風に揺らしていた。

「楓?」

 後ろで男の人が立ち上がる気配がした。慌てて振り返る。まだ何も分かってない。まだ帰らないで……
 男の人は、またゆっくり歩いて階段を下り、中ほどで腰を下ろした。私も付いて行って、彼の右隣りに座る。何だか、すごく懐かしい気がする。胸がぎゅう、と痛くなってくる。

「ねえ、あなたは、ここに何をしに来たの?」
「……」
「もしかして、私の知り合い?」
「……」

 彼は何も言わずに、ぼんやりと海を見つめている。
 はあ、今きなこがいてくれたらな。何とかして私の存在を伝えてもらえるかもしれないのに。そう思ってちょっと想像してみたけれど、やっぱり無理か。きなこは生きてる人には言葉を伝えられないみたいだし、傍でにゃーにゃー鳴いてもらっても、分かってくれないだろうな。
 仕方ないので、彼と一緒に海を眺めていた。彼はなかなか帰らなかった。時折、深くため息をついたり、手で頭を抱えたり、涙を一粒零したりもしていた。その度に、私の胸は締め付けられていた。ねえ、あなたに、何があったの。私に、教えて。

 太陽が傾いて、夕日に変わり始めてきた。やがて、彼は小さく口を開いてぽつりと呟いた。

「ハル……」
「えっ?」

 心臓がまた、ドクンと動いた。
 鼓動が、水の波紋みたいに、私の空間に広がったような気がした。
 春って言ったの?
 春。ハル。はる。
 「貼る」とか「張る」の発音じゃないから、やっぱり季節の春だろうか。もしかして、人の名前?
 後ろで微かに足音がした。振り返ると、階段の上の道路に春ちゃんが立っていた。彼女は不思議そうにこっちを見ている。私は見えないはずだから、彼を見ているのだろうか。彼に視線を戻すと、気付いていないのか、気にしていないのか、ずっと海を見ている。
 もしかして、あなたが言った「春」って、春ちゃんのこと?
 そう考えたら、胸がちくちくと痛くなってきた。どうしてだろう。すごくいやな気持ちだ。
 男の人は彼女の知り合いかとも思ったけれど、春ちゃんは声もかけずにじっと見ているだけだから、違うようだ。やがて彼女は、心配そうな目を彼に向けながら、民家のある方に歩いて行った。
 春ちゃんが見えなくなった頃、彼がゆっくり立ち上がった。階段を上り、スーパーの方の道をゆっくり歩いて行く。帰っちゃうのか。結局、何も分からなかったな。
 私も階段を上り、彼を見送る。ねえ、どこに帰るの。名前は何ていうの。今日は何を思っていたの。
 よく分からないけれど、すごく大切な人のような気がする。思い出はないけれど、体と心が彼を覚えているような、そんな感じ。また、来てくれるかな。彼の後ろ姿が小さくなってきた。

「あ――」

 急に寂しさが押し寄せる。待って。行かないで。私を置いて行かないで。涙が溢れてきた。どうして、何も思い出せないのに、こんなに辛いの。どうして。
- 電車 -


 彼の姿が見えなくなりそうになったその時、私の背中に何かが当たった。それと同時に、世界が後ろに流れる。

「わっ!」

 下を見ると、足を動かしていないのに、道路が私の後ろの方に滑って行く。――違う、背中の何かに押されて、私が前に進んでいるんだ。

「な、なにこれ!」

 背中を押す何かを確かめようと後ろに手を伸ばそうとしたら、肘が先に当たった。大きい。次に手が当たった。ひんやりして、さらさらしている。

「壁だ!」

 振り向いても、何も見えない。でも確かに壁がある。私を閉じ込め続けていた、あの透明な壁。

「何で? どうなってるの?」

 壁はどんどん私を押していく。スーパーのある道の方へ。私の靴は何の抵抗もなく滑って行く。
 もうすぐ、スーパー側の壁の所だ。このまま行くとどうなってしまうのか。壁に挟まれて潰されてしまうのだろうか。イヤだ、そんなの、イヤだ!

「誰かっ――きなこ、助けて! やだ、いやあああ!」

 目を閉じて両腕で顔を覆った。恐怖で心臓がバクバクしている。


 そろそろかと思ったけれど、何ともない。
 背中の壁の感触はまだある。心臓はまだドキドキしている。恐る恐る目を開けてみたら、スーパー側の壁際の見なれた景色が、私の後ろに見えた。

「……あれ?」

 振り返ると、いつものカーブやガードレールが少し遠くに見える。今まで見たことない距離だ。
 前を向くと、いつもよりスーパーが近くに見える。こっちの透明な壁、なくなったんだろうか。私、外に出られたのかな。
 前の方に、さっきの男の人の後姿が見えた。背中の壁に気付いた時から距離が変わってないように感じる。あれ、これって、もしかして……
 近くにきなこがいないか探してみた。声を出して呼んでもみた。

「きなこ! きなこ! いないの?」

 何の反応もない。きなこの意見を聞きたいのに。
 今も背中の壁は私を押し続けている。遠くの彼と一定の距離を保って。
 これって、もしかして、壁の中心点が変わった?
 スーパーが隣に見えてきた。ちょっと古い感じのする、寂しいお店だ。照明も心なしか暗い気がする。
 とにかく、このまま押され続けていてもしょうがない。私も進んでみようか。
 見えない壁があるかもしれないので、手を前に出して歩き出す。背中に当たっていた壁が離れたのが分かる。


 そのまましばらく歩いてみたけれど、前に付き出した手が見えない壁に当たることはなかった。

「うん、たぶん大丈夫」

 そういうことにして、手をおろした。きっと、私の壁の中心点は、どうしてか分からないけど、まだ随分前を歩く彼になってしまったんだろう。
 きなこの言葉を思い出すと、地バクレイは、その場所に未練や執着がある、もしくは、その場所が魂を縛っている、だったか。それに当てはめて考えると、私が、彼に未練や執着がある、もしくは、彼が――私の魂を、縛っている。
 彼はやっぱり、私にとってとても大事な人なのだろう。私を、地バクレイから人バクレイに変えてしまうほどの、大きな存在。誰なんだろう。お父さんっていう年齢には見えないし、お兄ちゃんかな、友達かな、それとも、恋人、なのかな。さっき壁に押された時とは違う、あったかいドキドキが胸に満ちてきた。
 ちょっと小走りになって、彼との距離を縮め、彼の横に並んでみた。頬の辺りが熱くなってくるのを感じる。少し緊張しながら、左を歩く彼の顔を覗いてみた。
 ――彼は眉を寄せて、赤い目をして、世界の終わりみたいに悲しい顔をしていた。
 心臓を強く掴まれたみたいに、胸の辺りが苦しくなる。足が止まってしまう。
 彼が、私の大切な人、例えば、恋人とかであったなら、彼にとっても私は大切な存在だったのだろうか。私が、死んじゃって、悲しい思いをさせているのだろうか。
 涙が出てきた。胸が苦しくて、心臓の辺りの服を掴んだ。

「ごめん。ごめんね……」

 でも、まだ分からない。私の思い込みかもしれないし、彼は偶然、あのカーブに来ただけなのかもしれない。でもそれなら、私はどうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこの人が私の空間の中心点になったんだろう。付いて行けば、分かるだろうか。どの道、この人を中心に壁が移動するなら、付いて行くしかない。

 彼とは少し距離が空いてしまったけれど、今度は同じ速度で後ろを付いて行った。
 しばらくして、小さな駅が見えてきた。彼はポケットからカードを出し、改札にかざして駅の中に入っていった。電車で帰るのか。私も、切符買わなきゃ。あ、でもお金とかないし、どうしたらいいんだろう。幽霊だから、タダで乗っちゃってもいいのかな。
 改札の前でまごまごしていたら、彼の待つホームに電車が到着して、彼が中に乗り込んだ。
 もう、行くしかない。

「ごめんなさい!」

 一応駅員さんに頭を下げてから、目を瞑って、改札のゲートをすり抜けた。目を開けると、電車のドアが閉まり始めている所だった。

「あっ、待って! 乗ります!」

 ホームまで走ったけど、間に合わなかった。二両しかない電車はもう走り始めてしまった。

「え、うそ……。これ、どうなるの?」

 しばらく茫然と電車を見送っていたら、突然後ろから何かに叩き飛ばされた。

「きゃあっ」

 壁が来ちゃったんだ。バランスを崩して、ホームの上に四つん這いになった。すぐにまた、後ろから衝撃が来た。

「わあああっ」

 壁はどんどんスピードを上げて、ホームの上の私を押し進む。目の前に、ホームの終端に立っている柵が近付いてきた。

「待って、待って!」

 ぐっと目を瞑る。すると今度は突然足元の地面がなくなったのを感じた。目を開けると、二メートルくらいの高さに浮いていた。駅のホームの足場が終わったんだ。重力にひっぱられて落ちていく。
 下を向いていたら、視界の上のほうから電信柱が高速でこちらに向かってきた。

「きゃあ!」

 ギリギリのところで目を閉じた。電信柱はすごい音をたてながら、私を通り過ぎて行った。
 もうこれは、ずっと目を閉じていたほうがいいかもしれない。

「私は幽霊。私に重さはない。私は幽霊。私はなんでもすり抜ける!」

 何度もそう叫びながら、目をぎゅっと瞑って、両手で耳を塞いで、全身を透明な壁に預けた。
 前を走る電車の音と、時折何かが高速で通り過ぎる音と、吹きつける風を感じながら必死で耐えた。心臓は破裂しそうなほどドキドキしている。私は死んでいるのに、どうしてこんなに心臓が動くんだろう。三年間も平穏だったのに、もう、何なのよ、今日は。


 やがて電車の音がゆっくりになって、風が穏やかになり、私を押し続けていた壁の圧力がなくなったのを感じた。

「はあ、はあ……、着いたの?」

 耳を塞いだ手を離し、ゆっくりと目を開ける。
 さっきとは違う駅のホームが見えた。私の体は宙に浮いていた。

「きゃ!」

 気付いた瞬間、重力が私を引っ張る。幸い一メートルくらいの高度だったので、大した衝撃はなく着地できた。
 茫然としていると、電車の発車を知らせる音楽が流れ始めた。

「えっ、ちょっと待って!」

 急いでホームを見渡し、彼が降りていないことを確認してから、電車に飛び乗った。
 私が乗った車両には彼はいなかった。乗ってる人が少ないから探しやすい。隣の車両に移動したら――いた、彼だ。
 空いている右隣の座席に座り、大きく息を吐き出した。

「はあ、怖かったよう……」

 疲れない体のはずなのに、全身がクタクタになっているように感じる。もう電車に乗る時に躊躇するのはやめよう。

- 記憶の桜 -


 やがて彼は電車を降り、別の電車に乗り換え、またしばらくして電車を降りた。私はもう同じ目に逢わないよう、彼から離れないようにずっと近くにいた。彼は終始、寂しげな顔をしていた。
 彼が改札にカードをかざし駅を出たのは、もう空が真っ暗になっている頃だった。彼は駅の横にあるコンビニに入って、ペットボトルのお茶とカップラーメンを買った。

「それ、夕ご飯にするつもり? もっと体にいいもの食べないとだめだよ」

 忠告したけど聞こえるはずもない。頬を膨らませて、夜道を進む彼の後ろを歩いた。
 それにしても、ここはどこだろう。彼が私にとって大事な人なら、私の知っている場所に来るかとも思ったけど、さっき降りた駅の名前も、この辺りの風景も記憶にない。ここも私の知らない場所なのだろうか。それとも本当に全部忘れてしまったのだろうか。
 彼は、あるアパートの敷地に入り、階段を登った。廊下の片面にだけ部屋があるタイプの小さなアパートだ。廊下の手すりの向こうは、冷たい夜の空気が広がっている。空には三日月が鋭く浮かんでいた。
 彼は「201」と書いてある扉を鍵で開けて、中に入った。少し躊躇ったけど、私もお邪魔させてもらうことにした。不法侵入かな。でも、幽霊なんだから、いいよね。

「おじゃましまーす……」

 彼が電気のスイッチを付けると、天井の照明が瞬いて部屋が明るくなる。
 少し散らかっている部屋を見渡して、私は息が止まった。

 壁にいくつもの絵が飾ってある。
 桜の揺れる風景の水彩画だ。
 私は、これを知っている。

 駆け寄って、その中の一枚を凝視した。
 その瞬間、頭の中にいくつもの風景が広がった。
 高校の校舎の裏、桜の木が一本だけ立つ、見晴らしの良い丘。彼が待つ、特別な場所。
 いつも隣で絵を描いてた。初めて話せた春の終わり。
 夏の夜に一緒に見た流れ星。秋の夕焼けの中、私を描く彼の真剣な表情。
 そうか。そうか。そうだったのか。
 私、どうして忘れていたんだろう。こんなに大切なこと。
 どんどん思い出してくる。
 私の名前、彼の名前。私の夢。彼との約束。
 彼がくれた、桜のヘアピン。
 涙がぼろぼろと零れてくる。
 どうして忘れてたんだろう。こんなに想いが溢れていたのに。
 お父さんが運転する車。助手席で楽しそうに笑うお母さん。あまり楽しめない私。
 突然飛び出してきたトラック。
 二人の悲鳴。鉄を引き裂くような音。海。砂浜――

「うっ……」

 頭が痛い。胸が痛い。腕が痛い。足も、体も、心も、全部痛い。

「寒い、怖い、寂しい……ううぅ」

 床にしゃがみ込むと、手を洗っていたらしい彼が部屋に戻ってきた。
 振り向いて、彼の顔を見る。
 私の大好きな、優しい人。

「あ……」

 いつの間にか置いてきてしまった、大切な人。

「ア、アキ……」

 名前を呼んでも、アキは灰のような無表情で、ヤカンに水を入れている。
 彼はもう、私に微笑んでくれない。
 お父さんも、お母さんも、死んじゃってた。

「アキ……、アキぃ……」

 私の名前を呼んでよ。優しく笑ってよ。また一緒に絵を描こうよ。
 涙が止まらない。ここにはきなこもいない。アキは私を見ようともしない。

「うぅ、あう……わああああぁ」

 声をあげて泣いた。何時間も、何時間も、泣き続けた。
 哀しみも、孤独も、愛しさも、後悔も、綺麗な思い出も、今の笑わないアキも、全部泣けた。
 アキが、私の絵を飾っている意味も、海辺で泣いていた理由も、全部分かって、余計泣いた。

 夜が明けて、外がうっすら明るくなってきた頃、ようやく落ち着いてきた。
 布団で眠るアキを見ると、彼の頬を涙が伝っていた。
 ねえ、どんな夢を見てるの? その涙は、私のためなの?
 近くに座って、手で涙の跡を拭おうとしたけれど、私の指はアキの頬をすり抜けるだけだ。
 また、涙が止まらなくなりそうになったので、目を閉じてアキの部屋をすり抜け、廊下に出た。危ないけど、手すりをまたいで腰をかけて、そのまま、朝日がゆっくり昇るのをぼんやりと眺めていた。

   *

 アキは、大学生になっていた。学校はアパートから歩いて行ける距離みたいだ。平日は私も、アキと一緒に学校に行った。アキは友達といる時は元気に振舞っていたけど、一人になるといつも寂しそうな顔をしている。
 お昼は学食でちゃんとしたものを食べてるみたいだけど、朝とか夜ご飯は、食べなかったり、質素なものばかりで、心配になる。
 夜になってアキが眠ると、私はいつも廊下の手すりに座って朝を待った。前にきなこが羨ましがってたけど、眠くならないってのは案外辛い。特に夜は、色んな事を考えてしまう。移動できる範囲を散策したりもしてみたけど、話し相手になってくれるような猫さんは見つけられなかった。何も言えずにこっちに来てしまったけれど、きなこ、心配してないかな。

 海辺にいたころは曜日の感覚がまったくなかったけど、アキといるとその感覚が戻ってくる。五日間学校に行って、土曜日になった。アキは朝起きて準備すると、駅に向かった。どこに行くのかと思っていたら、一週間前に乗ったのと同じ電車で、交通事故があったあの海辺のカーブまで来た。
 またここに来たんだ。もしかしてこれも、私が死んじゃったせいなのかもと思うと、胸がズキンと痛んだ。
 アキはまた、階段に座ってぼんやりと海を眺めた。私も右に座って、海を見る。

「そうだアキ、絵は、まだ描いてるの?」
「……」
「描いてない、よね。……楽しくなくなっちゃった?」
「……」
「約束、したじゃん……。大人になってもアキが絵を描いてたら、私の個展で飾ってあげるって……」

 当然だけど、アキは何も言わない。隣に座っているのに、何だかすごく遠くに感じてしまう。
 髪に付けてる桜のヘアピンを外して見てみる。アキが選んで、私に似合うって言ってくれた、大切な大切なプレゼント。また涙が出てきた。もらった時、あんなに嬉しかったのに。今は、見ても悲しくなるだけだ。
 アキの方を見たら、彼も左手を額に当てて、静かに泣いていた。
 大切な、大好きな人が泣いてる。何とかしてあげたいのに、私は何もできない。
 神様、どうしたらいいの。このままじゃ、二人とも辛いだけだよ。

 途方に暮れていると、後ろで人の気配がした。振り返ると、自分が立っていた。

「えっ!」

 驚いた。立っているのは春ちゃんだ。自分がそこにいるのかと思った。魂である自分が抜けて、私の体が別の意思を持って動いているのかと……
 そうか、最初に見かけた時、見たことある人だと思ってたら、いつも鏡で見ていた自分にそっくりだったのか。それにしても、怖くなるくらいに似ている。名前も、「ハル」と「春」で似てるし。
 ほんの少し、いやな気持ちが心に湧き起こる。アキが、私にそっくりな春ちゃんを見たらどう思うだろう。私の事なんて忘れて、彼女を好きになってしまうんじゃないだろうか。そんなのイヤだ。心がズキズキと痛くなる。
 アキを見ると、また気付いていないのか、気にしていないのか、後ろを振り返ろうともしない。少しほっとしてしまう自分が、またイヤになる。
 彼女は、しばらく静かにアキを見つめた後、民家のある方へ歩いて行った。
 その日は、きなこには会えなかった。夕方くらいにアキはアパートに帰った。

   *
- 神様、助けてよ -


 アキは毎週土曜日に、あの海に行くようになった。ノートとペンを持って行って、何かを書くようにもなっていた。ちらりと見てみたけど、絵じゃなくて言葉みたいだ。読んでみたかったけど、我慢した。幽霊で気付かれないからって、勝手に見るのは良くないと思って。
 ある日、いつものようにアキの隣で海を見ていると、後ろから懐かしい声に呼ばれた。

「あら、サクラじゃない?」

 振り返ると、階段の上で茶色の縞模様の猫さんが私を見ていた。

「きなこ! 会いたかったよぉ!」
「やっぱりサクラね。随分久しぶりな気がするわ。どうしてたの?」
「色々あったんだよ。ずっと話したかったの」

 階段の一番上に座って、きなこに全部話した。壁の中心点が変わったことも、電車に引きずられて苦労したことも、記憶が戻ったことも、彼との思い出も、想いを告げられなかった事も。

「そう、サクラにとって大切な人なのね。だから人バクレイになったのかしら」
「うん、たぶんそうなんだと思う」

 きなこと二人で、前に座るアキを見つめた。海も空も綺麗な青で爽やかな景色なのに、アキの周りだけ少し冷たい悲しげな風が漂っているように感じる。
 彼が私を想ってくれるのは嬉しい。すごく嬉しい。でも、私のせいで彼が苦しむなんて、そんなのはイヤだ。でも、彼に忘れられるのは、もっとイヤだ。どうすればいいんだろう。

「そういえばあなた、本当の名前はハルっていうのね。私が知ってる人間と同じ音だわ」
「そう! きなこが教えてくれた春ちゃんと同じだし、見た目もすごく似てるじゃん。びっくりしちゃったよ。私たちがそっくりだって、どうして教えてくれなかったの?」
「あら、そうなの。人間の顔なんて、どれも同じに見えちゃうわ。あなたも、あたしたち猫の違いなんて、見分けられないんじゃないかしら」
「う、確かに。そういうものなのか……」

 そんな会話をしていたら、遠くのスーパーの方から女の子が歩いてくるのが見えた。

「あ、春ちゃん……」
「あら、噂をすれば何とやら、ね」

 心に、いやな感情がザワザワと湧き上がってくる。
 彼女とアキを会わせたくない。きなこがここにいると、彼女がきなこを構うかもしれない。そうすれば、アキもさすがに気付いて振り向いてしまうかもしれない。

「……きなこ、ごめん。ホントはもっと話してたいけど、今日は帰ってもらってもいいかな」
「別に構わないけど、どうしたの?」
「うん、ちょっと……」

 言いにくそうにしている私を見て、きなこは立ち上がった。

「分かったわ。今日はさよならね。また会いましょう」
「うん……ごめんね」

 きなこは音を立てずに、民家のある方へ歩いて行った。ごめん、きなこ……。
 しばらくして、春ちゃんが階段の所まで来た。彼女はまた足を止めて、階段に座るアキを見つめている。私が地バクレイだった時は、彼女が毎日ここに座っているのを見ていたけど、最近もそうしてるのだろうか。ここにアキが座るようになって、何を思ってるかな。
 彼女はそーっと前に出て、階段の一段目に座る私の横で、アキの手元を覗こうとした。ノートが気になるのかもしれない。
 お願い、声をかけないで。このまま歩き去って行って。
 心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら様子を見ていたら、彼女はアキを気にしながらも、民家のある方へ歩いて行った。
 微かな安心と同時に、自己嫌悪を感じた。アキは、私だけを見ていて欲しい、私だけを想っていて欲しい、そんな独占欲を持つのは、私みたいな存在には許されないのかもしれない。アキを縛り付けて、苦しめているのは、私なのかもしれない。

   *

 崖の上で揺れる楓が、真っ赤に色付いた。
 アキが、毎週土曜日にこの海辺に来るようになってから、もう半年近くが経った。私は相変わらずアキに付いて行き、春ちゃんは毎回この道を通って、アキを気にしていった。日を重ねる毎に、彼女が足を止める時間が長くなっていってるような気がする。
 今日もアキと並んで海を見ていると、春ちゃんが後ろに来た。なんだか、いつもよりちょっとお洒落をしているみたいで、可愛い。アキの隣に座ってそちらを眺めていると、彼女は手を胸に当てて、少し深呼吸をした。
 そして、ゆっくりと、足音を立てずにこちらに歩いてくる。もしかして……。
 私は立ち上がって階段を数段上って、彼女に向かって両手を横に広げた。アキを守るように。アキを、独り占めするみたいに。

「待って、あなたがアキに会ったら、アキを驚かせちゃうよ。辛い思いをさせちゃうかもしれないの。だから、あなたはアキに会わないで。お願い」

 彼女は私の声を聞かず、私をすり抜けて、そのまま、アキのノートを覗きこんだ。私だって見てないのに。ずるいよ。心に不安と嫉妬が渦巻く。

「へえー、歌詞でも書いてるの?」
「うわぁ!」

 アキは大げさに驚いて、階段から転んで砂浜に落ちた。
 アキがこっちを見上げて、さらに驚いているのが分かった。胸がぎゅうって締め付けられるみたいに痛い。アキが見てるのは私じゃなくて、私の横にいる、私に似た、別の女の子。その子を見て驚いたのは、やっぱり、私にそっくりだから?
 涙が零れてきた。ついに、二人が出会ってしまった。
 二人はいくつか言葉を交わした後、春ちゃんが具合悪そうなアキの手を取って民家のある方へ連れて行った。少し距離を置いて私も付いて行くと、あの茶色の建物に入った。ずっと気になっていたこの建物は、喫茶店だったんだ。
 扉が閉まった後、私も目を閉じて、中に入る。扉に背中を預けて、二人を眺めた。白髪のおじいさんがコーヒーを持ってきて、アキが飲んでいる。春ちゃんがアキに何か話している。寂しい。寂しい。アキ、私から離れていかないで。
 春ちゃんが微笑んだのが見えた。何の話をしてるんだろう。

「秋くん。私は、君が好きです」

 ここからでも、彼女の言葉が鮮明に聞こえた。アキは驚いているのか固まってる。胸がさらに苦しくなる。
 アキを見つめる彼女を見て、何となくそうじゃないかと思っていたけど、こんなに早く言うなんて。何カ月も迷って、言いたくて言えなくて、結局死んじゃって言えなくなった私が、バカみたいだ。
 涙とため息しか出ない。心は雨が降り続けてるみたいに、悲しさでいっぱい。
 目を閉じて、お店の外に出た。今日は空には厚い雲がかかっているけど、ぼんやりと赤く染まっていて、夕焼けになっているのが分かる。扉の前の段差に座って空を眺めていたら、お店の中からピアノの音が聞こえてきた。澄んだハミングも聞こえる。春ちゃんが歌ってるのだろうか。優しくて、綺麗な旋律だ。少しだけ、心の雨が弱まるのを感じた。

 暫くしたら、アキと春ちゃんがお店から出てきて、カーブのある方に歩き出した。少し距離を置いて、とぼとぼと私も付いて行く。
 彼女は、楽しそうにアキに色々話している。アキは時々相槌を打ちながら静かに聞いている。二人は、付き合うんだろうか。私が言うのも変な感じだけど、春ちゃんは可愛いし、ずっと泣いてた彼女には、幸せになって欲しい。アキは優しいから、きっと彼女を幸せにしてあげるだろう。
 アキが、私を忘れたら、私の壁はなくなるだろうか。また、あのカーブの地バクレイに戻るんだろうか。こんなに辛いなら、その方がいいかな。それとも、私も、アキを忘れないと、ダメかな。
 地面にぽろぽろ零れて、跡も残さずに消える涙を見つめながら、そんなことを考えて歩いていたら、突然アキのどなり声が聞こえた。春ちゃんも何か言ってる。喧嘩?

「お前には分からない! お前に何が分かる!」
「分かるわけないじゃん! だから教えてよ!」

 駆けつけると、アキが頭を抱えながら叫んでいた。

「お前に何が分かる! ハルはここで死んだのに!!」

 私の全身が、凍りつくように感じた。
 春ちゃんが、泣きながら民家の方に走って行った。
 アキが地面にうずくまって、大声で泣き出した。

 私はここで死んだ。そのことが、大好きなアキも、アキを好きだという春ちゃんも、悲しませている。

 神様、助けてよ。このままじゃ誰も、幸せになれないよ。

- 君の名はライラック -


*** Mr. Autumn ***

 何時間泣いていたか分からない。一生こうしているわけにもいかないので、心が落ち着いてきた頃に、とぼとぼと駅へ歩いたが、辺境の駅はとっくに終電を終えており、僕は朝まで駅前のベンチで眠った。
 翌日、日曜日は、ボロボロの心と体でハルの絵に囲まれながら、天井を眺めて過ごした。涙は、硝子玉のように転がった。牢獄のような窓から見える空は、凍えるような自由と孤独を湛えていた。

  ライラック。君の名はライラック。
  僕たちは、思っていたよりもずっと、
            ずっと遠いね。


 月曜日、大学の講義中にスマホが震えた。LINEだ。


【Haru Miyazato】
この前は、何も知らずにひどいことをしてしまい、本当にごめんなさい。
あなたが海を見ていた理由、泣いていた理由が分かった気がして、胸が痛みました。
無理にとは言いませんが、もし、辛くなければ、また、あの海に来て下さい。
話すことで、楽になることもあると思います。
私はいつでも大丈夫です。
連絡待ってます。


 春と名乗ることも、僕を秋と呼ぶこともないそのメールは、土曜日に会った春からは想像できない余所余所しさを感じた。なぜ、君が謝るんだ。ひどいことをしたのは僕の方だ。
 もう会えないと思っていたから、このメッセージは少し嬉しかったが、喜んでしまう自分の弱さを、また嫌悪してしまう。春に会うのは、やめよう。その優しさに甘えても、きっと、誰も幸せにならない。
 春も、いずれ僕を、忘れるだろう。


 その週の土曜日は、海に行かなかった。
 大学の友達連中をカラオケに誘い、一日中歌い続けた。声が嗄れるほど叫んだ。
 どれだけ声を出しても、馬鹿みたいに笑っても、心の中の暗雲は、一向に晴れない。
 春のLINEに、返事は出していなかった。
 会うまいと決めたのに、胸がチクチクと、チクチクと痛んだ。


 日曜日はまた、ハルの絵を眺めて過ごした。
 ハルの桜の絵は、どこまでも綺麗で澄んでいるのに、僕の心を清々しくしてはくれない。ハルの目標だった、人を元気付ける絵。この絵には、きっとその力があるのに、僕の淀みきった心が、美しい景色を濁らせているのかもしれない。
 心の中のハルは、いつも寂しげな表情をしている。ここは、自分で選んできた道なのに、何かが間違っている気がして、でもそれが何なのか、僕には、分からない。
 手を伸ばして、その手を掴みたい。暗く冷たい水の底から、ハルを引き上げてあげたい。ハルを、救いたい。
 突然、机の上に置いていたスマホが振動し、静寂を打ち破った。驚いた。慌てて手に取る。LINEだ。


【Haru Miyazato】
おじいちゃんが、新作のメニューを作りました。
季節の栗とカボチャを使った和風のパフェだよ。
すごく美味しいから、よかったら食べにきてね。
甘いもの、好き?


 画像が添付されている。見てみると、本文で言っていたパフェと思われる写真だ。
 ……どうでもいい。スマホの電源を切り、布団に潜り込んで、果てなく遠い、ハルを想った。



*** Miss Spring ***

 あれから、アキは今までよりも笑わなくなった。学校で会う友達にも、少しぶっきら棒に接するようになった。
 それに、私を閉じ込める透明な壁の円周が、前よりも狭くなったような気がする。どうしてだろう。私の、アキへの執着、未練が強くなったのだろうか。それとも、アキの、私の魂を縛る何かが、強くなったのだろうか。
 アキには、私を忘れてほしくない。
 アキが私を忘れたら、私の思い出が、輝いてた短い青春が、なかったことになってしまいそうで、怖い。だけど、私の過去が、アキの中の私の存在が、アキを縛って苦しめているなら、解き放ってあげたい。でも、どうしたらアキを救えるのか、私には、分からない。
 アキが、部屋に飾った私の絵を眺めている。私もアキの傍に行き、自分の絵を眺めてみる。
 悩んでる人の心を慰めたり、清々しい気持ちにしたり、元気をくれたりする、そんな絵を描くことを目標にしていたけれど、私の絵には、何の力もないみたいだ。大好きな人も、自分自身の心でさえ、私の絵は救えない。
 私の夢は、もう叶わない。アキ、ごめんね。もう捨てていいんだよ、こんな絵。



*** Mr. Autumn ***

 月曜、火曜の授業をこなし、水曜日。
 休み時間に校舎を移動していると、友達に呼び止められた。スマートで長身で、眼鏡をかけた見た目はインテリだが、中身は体育会系な男、杉浦だ。

「おう。これ、俺の彼女。お前にも紹介しておこうと思ってさ」

 そう言って、杉浦は横にいる女性を自慢げに指差した。その人は少し恥ずかしそうに、僕に軽くお辞儀をした。確かに自慢できそうな美人ではあるが、ハルには遠く及ばないな。
 杉浦は僕の肩に腕を回し、彼女から少し遠ざかって小声で言う。

「おい、お前も彼女作れよ。いいもんだぞ。お前も見た目は悪くないんだから、ちょっと積極的になればすぐに出来るって。何なら、誰か紹介してやろうか?」
「余計なお世話だよ。放っといてくれ。そして耳元で囁くなよ気持ち悪い」
「ん~、なんだ? 好きな子でもいるのか? どこの誰だよ。俺の知ってる子?」

 僕の腹部を小突きながら嬉しそうに訊いてくる。入学当初に無理して作った友人だが、非常に鬱陶しい。

「僕なんかに構ってると、彼女が他の男に取られるぞ」

 振り返ると、知らない男が彼女に声をかけている所だった。

「おいマジかよ! ちょっとあんた、俺の女に何の用だ!」

 肩が解放された隙に、その場を立ち去った。
 恋人という存在に、憧れないことはない。ハルが、生きていれば……。同じ授業を受けて、同じサークルに入って隣で絵を描いて、図書館で一緒に勉強して、近所の公園を散歩して……。そんな考えは今までにも何度もした。
 ハルは死んだのに、僕は、僕を含む世界は、今も生き続けている。ハルだけを暗い所に残して、みんな、明るい世界で笑って生きている。心臓が、引き絞られるように痛い。
 学校でこの状態になると辛い。誰にも心配されたくないから、早足で人気の無い中庭に向かい、備え付けてあるテーブルに手を付き、息を整える。
 ポケットのスマホが鳴った。また、春からのLINEだ。


【Haru Miyazato】
授業中だったらごめんね。
私は音楽学校の休み時間です。
最近寒さが増してきたよね。体に気をつけてね。
学校の近くの公園に、綺麗なもみじがあるんだよ。
写真撮ったから送るね。


 メッセージの下に添えられた写真には、青い空を背景に、赤く染まった楓が輝いていた。しばらく眺めてからスマホをしまい、ふと見上げると、この中庭にも楓が赤く燃えていた。なぜか分からないけど、涙がひとつ零れた。胸の痛みはいつの間にか消えていた。


 土曜日。また僕は海に行かなかった。
 ハルの絵に囲まれていたが、時折、春の笑顔や、僕を驚かせた言葉や、夜の泣き顔が心に浮かんだ。
 謝りたかった。何もしてやれなかったハルにも、泣かせてしまった春にも。
 日曜日。LINEの受信音で目が覚めた。


【Haru Miyazato】
やっほー、元気かい?
歌詞を考えてくれるって約束、
よもや忘れてはおるまいな!
待ってるからね


 今までとは打って変って、明るい雰囲気だ。
 何でこの子は、こんな僕を構うんだろうか。暗いし、後ろ向きだし、ひどいことも言ってしまった。
 ひとつ、長い溜息を吐き出し、一度も聴いていなかったカセットテープを鞄から引っ張り出した。実家から持ってきていたコンポに挿入し、再生ボタンを押す。カセットを聞ける機器がうちにあってよかったな、春。
 少しノイズがかってはいたが、喫茶店で聞いた優しい春の歌声が部屋を満たす。あの時は堪えたが、今は部屋に僕一人。思う存分涙を流した。でも、不思議と悲しい涙ではなかった。頬を伝う跡も、温かかった。
 ほんの少しだけ、胸のつかえが取れた気がする。
 壁に飾ったハルの絵も、少し輝いて見えた。
 僕の心の混沌と、その中の笑わないハルと、それら全てを救う光が、その先にある気さえ、その瞬間は感じていた。


【Aki】
覚えてるよ
考えてみる


 簡素すぎるが、一応返事を出した。
 カセットを巻き戻し、また先頭から再生する。
 布団にもぐり直し、目を閉じて、美しい旋律に乗せる言葉を、思い浮かべた。
 今度、パソコンで録り直して、スマホに入れよう。


 その日の夜、夢を見た。
 大学に入学してからも、何度か見ていた、空を飛ぶ夢。
 灰色の工場地帯のような場所で、上空からハルを見つけ、彼女の前に降り立ったけど、目の前に佇む女の子が、ハルなのか、春なのか、分からなかった。
 彼女は僕を見つけると、ふわりと笑った。舞台は突然モネの丘に切り替わり、画面いっぱいに桜が咲き乱れた。
 胸の苦しさで目が覚めると、頬を流れていた涙が、過去に棚引く後悔なのか、未来に向かう切望なのか、僕には分からなかった。
 カーテンの間から差し込む月の光の中に、夢で見た桜の花が一つ浮かんでいるように見えて、手を伸ばしたけど、すぐに消えてしまった。寝ぼけていたんだろうか。

- 優しい太陽 -


*** Miss Spring ***

 アキのアパートの廊下の手すりに座って朝日を見ていたら、アキの部屋から、前に喫茶店の扉の前で聴いた、春ちゃんのピアノと澄んだハミングが微かに聞こえてきた。
 目を閉じてアキの部屋に入ると、アキがラジカセのような機器の前で涙を流していた。
 アキが泣いてる。でも、不思議と心は苦しくなかった。アキが穏やかな表情をしているからだろうか。
 アキの横に座って、私も彼女の音楽を聴いてみる。静かで優しくて、包み込んでくれるような、寄り添ってくれるような歌だ。自分は一人ではないんだと、教えてくれるような、そんな旋律。私が絵で描きたかった世界と似ているのかもしれない。
 私の、私たちの抱えている問題の答えが、この先にあるような、そんな気がする。
 歌は、爽やかなメロディーで締めくくられた。余韻に浸りながら、聴き逃してしまった前半からもう一回聴き直したいと思っていたら、スマホを操作していたアキがテープを巻き戻して、始めから再生してくれた。
 ふふ、私の思いが通じたかな。


 その日の夜は廊下に出ずに、布団で眠るアキの隣に座っていた。アキの寝息を聞きながら、カーテンの隙間から覗く月を見上げていたら、後ろから彼の声が聞こえた。

「はる……」

 ドキリとして振り返ると、アキがまた涙を流していた。夢を見ているのだろうか。私かな、春ちゃんかな。でも、どっちでもいい……かな。どうか、アキが幸せになる道を選んでね。
 触れないのは分かっているけど、少しかがんでアキに近付いて、頬を流れる涙を親指で拭おうとしたら、アキが目を開けて、視線がぶつかった。

「わっ……」

 アキに私は見えないと分かっているのに、驚いてしまう。
 少しドキドキしたけど、そのままアキを見つめていたら、アキが右手をゆっくり上げて私の顔に近づけてきた。

「えっ、アキ? 私が分かるの?」

 アキの右手の指が、私の髪を触った気がした。私も左手を上げて、アキの手に触れようとしたら、アキは反対にゆっくりと手をおろして、また目を閉じた。

「アキ……」

 アキは穏やかな寝息を立てている。左手で、アキが触れた髪を触ったら、アキがくれた桜のヘアピンが指に当たった。



*** Mr. Autumn ***

 一週間、大学の講義中や部屋の中で、言葉を捻り出そうとしてみたが、納得のいくものが出来なかった。歌詞を作るなんて、初めてのことだしな。


 次の土曜。僕は、あの海に向かっていた。
 耳に付けているイヤホンからは、テープから再録した春の歌が、リピートで流れていた。いつもの海辺の階段で、歌詞を考えてみようと思った。
 ハルを殺したカーブに着いて、階段に足を乗せると、いつも僕が座っている場所に女の子が座っているのが見えた。
 僕の足音に気付いたのか、女の子がはっと振り向く。春だ。
 春は一瞬、僕を見て悲愴な表情で一粒涙を零したが、すぐに手で拭い、笑顔を作った。その一連の仕草に、僕の胸は握りつぶされそうになる。

「やあ、やっと来たか! まあ座りたまえ!」

 春はそう冗談めかして言い、僕をいつもの階段に座らせた。
 その左隣に春が座る。

「いやー、いつもいる人がいないと、寂しい景色が余計寂れて見えるもんだねぇ」
「……もしかして、僕を待ってたのか?」
「うん。先週も、その前もね」

 春は軽い調子で言ったが、僕の胸にはズシンと響いた。思わず泣きそうになる。どうして、僕の心はこうも弱いのだろう。

「僕なんかの……何がいいんだよ。こんな暗い男の……」

 頭を抱えて、弱々しい声で呟いた。我ながら、格好悪過ぎる。

「うーん、暗いところかな」

 意味が分からない。

「……は?」

「私ね、明るくてチャラチャラした男って、信用ならないの。それに、影のある人って、何だか神秘的だし、それに放っておけないんだよ。私が何とかしてあげたい、みたいな」

 春と目が合った。彼女は、春の日の優しい太陽のように微笑んだ。

「だから、私は君が好きなの。私は、君を幸せにしてあげたいの」

 心臓が締め付けられる。優しい言葉のせいだけではない。春は僕を「秋」と呼ばなくなっていた。この前の夜の事を、気にしている。僕を責めもせずに。

「だからね、少しずつでもいいから、君の苦しさを、私に教えて」

 彼女の言葉が、春の日差しのように暖かく心に注ぐ。

「秋で……いいよ。この前は、ごめん……」

 そう言いながら、涙が溢れるのを止められなかった。

「うん……。分かった。ありがとう、秋」

 春は手を伸ばし、僕の頭を優しく撫でた。

「ううっ……、ごめん、ハル……、春、ごめん……!」

 涙も感情も、洪水のように溢れた。春に頭を撫でられながら、僕は暫く子供のように泣き続けた。



*** Miss Spring ***

 少し、胸が切ないけど、私は階段の一番上に座って、前の方で横に並んで座る二人を眺めていた。
 まるで、美術部で並んで絵を描いていた私たちを見ているみたいだ。私たちも、こんな風に見えてたのだろうか。あの頃アキの友達に、「付き合ってるの?」と訊かれたのも、当然な気がしてきた。それくらい、今の二人は恋人同士みたいに見える。もし、あの時、頷いていたら、どうなっていただろう。
 彼が言う「はる、ごめん」の「はる」に、私も含まれてることが、何となく分かった。
 私もアキの右隣りに座って、触れないけど、アキの頭を撫でた。
 謝らないで、アキ。むしろ謝るのは私の方。

「アキ……、ごめんね」

 春ちゃんと一緒にアキの頭を撫でながら、何度も謝った。

 死んじゃってごめんね。
 辛い思いをさせてごめんね。
 好きって言えなくて、ごめんね。
 展覧会の約束、果たせなくてごめんね。
 私を描いてくれてた絵、途中だったね、ごめんね。
 ヘアピンのお礼、色々考えてたんだけど、できなくてごめんね。

 謝りながら、アキと一緒に私も泣いた。
 アキと過ごした三つの季節が、きらきら光る想い出が、いくつも心に浮かんで消えた。
 お父さん、お母さん、二人の優しい思い出も、全てが煌めいて、何度も泣けた。
 涙が止まらないけど、アキの部屋で泣いた時みたいな、冷たく刺々した空気は感じなかった。秋の優しい日差しに包まれて、心の中に積もった寂しさとか悲しさが、涙と一緒に雪解けみたいに溶けて流れ出しているように感じた。綺麗な空と、海と、春ちゃんの力だろうか。


- 分かります -


*** Mr. Autumn ***

 ハルが死んでから、僕の涙腺はどうかしてしまったんじゃないかと思うほどよく泣いていたが、それでも貯め込み続けていたのか、涙はなかなか尽きなかった。
 ハルの思い出が、彼女の言葉が、一つずつ心に浮かび、それらの全てが悲しく懐かしく、声を上げて泣いた。ハルの思い出が尽きた後は、春を泣かせたことの後悔と、彼女の優しさに泣いた。
 ようやく落ち着いたのは、太陽が傾いて真っ赤に燃える頃だった。泣き疲れた体と、涙で掠れる目で、ぼんやりと夕焼けを見ていた。春も、左隣で何も言わずにずっと付き合ってくれていた。心は、不思議なほど凪いでいた。ハルがいなくなってから、初めて感じた安息だった。

「寒くなってきたね。うち、行こ。一緒におじいちゃんのコーヒー飲もう」
「……うん」

 僕たちは、ゆっくりと歩いた。

「なあ、僕の目、腫れてないか?」
「うん、腫れてる」

 春が笑いながら答えた。

「うう、恥ずかしいなぁ。おじいさんにどう思われるだろう」
「おじいちゃんは人格者だから大丈夫! 全然気にしなくていいよ」

 彼女はそう言って、木造りの扉を押し開ける。

「おかえり、春。……君も、よく来たね。いらっしゃい」

 今日はおじいさんは店内にいた。細く優しい目で迎えてくれた。

「おじゃま……します」

 扉を閉めると、春がおじいさんに駆け寄って行った。耳元で何かを囁いている。
 今日もお客さんはいないようだ。大丈夫なんだろうかこのお店は。

「そうか、よかったね……」
「うん!」

 春が嬉しそうに笑う。おじいさんも優しく微笑む。何を話したんだろう。
 おじいさんが奥のキッチンに向かい、春はこちらに駆け戻って来た。

「何を話したんだ?」
「ふふっ、ヒミツだよ!」

 僕たちは、前回と同じ席についた。何だか、体中が疲れている。

「ねね。歌詞は考えてくれた?」
「あー……。考えてはいるんだけど、中々いいのが出来なくて。実は今日はそれを考えに海に来たんだけど、すっかり予定が狂ってしまった」
「え、それってもしかして私のせい?」
「そうかもな」
「えー、ひどーい。あんなに尽くしてあげたのに」
「冗談だよ。……ありがとう。今はすごく、心が軽い。体はクタクタだけど」
「そっか。よかった」

 春は少し俯きがちになり、続けた。

「歌詞は、急がなくても全然いいからね。心に留めておいてくれるだけで、それは、私を覚えててくれることに似ていて、私は、嬉しいから」

 空っぽになった心に、春が心地よく沁み渡っていく。
 慌てて頭を振った。危ない。危ない。僕はまだ、ハルを忘れるつもりはないし、この先も絶対に忘れない。心は落ち着いたが、それはずっと変わらない。
 春が少し不満げな顔をするのが視界に写った。

「あ、いや、違うんだ」
「なにがー?」
「約束は、忘れないからな」
「ふーん……」

 春はテーブルに肘を乗せ、両手で頬を包むようにして、僕を眺めている。
 ハルを忘れることも出来ないし、春の優しさに流されるわけにも行かない。僕は、どうしたらいいんだろう。誰か答えを知ってるなら、教えてくれ。

「お待たせ。ゆっくりして行きなさい」

 おじいさんがコーヒーを二つ持ってきた。香ばしく、穏やかな香りに包まれる。しばらく無言で、春と温かいコーヒーを飲んだ。おじいさんは、もう見えなくなっていた。

「なあ、あの曲……、また歌ってくれないか?」

 沈黙が辛かっただけでなく、本心からまた聴きたいと思っていたので、そう提案した。

「うん、いいよ」

 春は微笑んで、席を立つ。BGMを落とし、ピアノに向かい、鍵盤を優しく叩く。その、白く細い指から、薄桃色の花びらが零れるように感じた。
 目を閉じて、春の優しい旋律に聴き入る。この美しいメロディーに乗せる、美しい言葉を、考えよう。今日あれだけ泣いたのに、また暖かい涙が流れる。
 まぶたの裏には、綺麗な桜が舞う、モネの丘の景色が映った。

   春 に 桜 の 舞 い 散 る よ う に

 その言葉だけが、ふと、心に浮かんだ。


 気がつくと、テーブルの上の両手の中に埋もれていた。いつの間にか寝てしまったようだ。背中に毛布がかかっているのが分かる。春の音楽は止んでいた。
 顔を上げたら、向かいの席に春ではなくおじいさんが座っていた。

「うおっ」

 びっくりして、声を上げてしまった。失礼だったろうか。

「おはよう。疲れていたみたいだね」
「い、今、何時ですか?」

 おじいさんは壁にかかった時計を見上げた。

「十八時ちょうどだね」
「よかった、寝てたのは一時間くらいか。あ、でも、そろそろ帰らないと」

 腰を上げて春を探したけど、見当たらない。

「あれ、春はどこです?」
「春は、二階のキッチンで夕飯を作っているよ。是非食べていってあげてくれないか」
「え、でも……」

 僕が言い淀んでいるのを見ると、おじいさんは続けた。

「秋君、少しだけ、私の話を聞いてほしい」

 おじいさんの表情は相変わらず穏やかだったが、その声には微かに真剣さが感じられた。椅子に腰を下ろして、言葉を待った。

「他ならない、春のことだ」

 嫌な予感がした。胸がざわめく。

「……あの子は、三年前に病気で母親を亡くしていてね」
「えっ……」

 そうだったのか。祖父と二人暮らしをしていることから、何となく想像はしていたが、それでもその事実は衝撃だった。それに……三年前……。ハルがいなくなったのと、同じ年だ。

「父親は、春が生まれて間もなく癌で亡くなった。春の母親も……私の娘なんだが……、女手ひとつで春を懸命に育て、愛していたのに、三年前の秋に、同じく癌で倒れた……。私は、娘にも、春にも、何もしてやれなかったのが辛くてね……。何度も、何度も、自分を恨んだよ。あの時、ああしていれば、こうしていれば、とね。実際、私なんかの行動では、娘が病気になる運命を避けることも、病気を癒してやることも、出来るはずないんだがね。それでも娘や、春の、心の傷を、ひとつでも庇ってやるくらいは、出来たんじゃないかと……」

 おじいさんの白い眉毛が、哀しみに震えている。

「そうだったんですか……」
「私は春を守らなくてはならない。今度こそあの子を、幸せにしてあげなくてはならない」

 おじいさんの言いたい事が、何となく分かった気がした。少し、心が重くなる。

「春は最近、よく君の話をするよ。本当に君を好いているようだ。あの子は、病気で衰弱していく両親を見てきたからか、とても気がきく優しい子でね……。辛そうな君を、放っておけないようなんだ」

 僕は何も言えなかった。おじいさんがその先を言うことが、何だか怖い気がして、耳を塞いでしまいたかった。

「君の事情も、ある程度は春から聞いた。君も、何か辛い過去を引きずっているようだね……」

 確かにハルのことは、暗い過去から手を伸ばして僕の心を掴み続けているが、僕の両親は健在だし、今の環境も、幸福と言えるだろう。それに比べ、春は幼くして父を亡くし、二人分の愛をくれていた母とも、三年前に別れた。どれだけ辛いだろう。最も大切な人、両親の衰弱と喪失を、目の前で経験したこと。そんな春を、ひとつでも多くの傷から庇おうとして、何もできない自分を責め、今まで静かに見守ってきたおじいさん。
 世界には、同じような、いや、それ以上の苦しい思いをしている人が、沢山いるんだろう。自分の苦しみなんて、何でもないことのように思えてしまう……。
 いや、いや、違う。そんなことを考えれば、ハルがかわいそうだ。ハルは僕にとって世界よりも大事で、ハルを失ってこの心に空いた穴は、海よりも深く、闇よりも暗い……。

「君が、本当に春を大切に思い、大事にしてくれるなら、私は喜んで君を迎え、春を君に託したいと思っている。しかし、君が過去に縛られ続け、春を疎かにするというなら……、もう、春と会うのは、やめてやってくれないだろうか……」

 おじいさんは右手で顔を覆い、苦しそうな声で続けた。

「すまない……。すまない……。君たちのような若者の関係に、私のような老人が口を出すべきではないのかもしれない……。でも私は、あの子が辛い思いをするのを、もう見たくないんだ。もう、ひとつの傷も、付けさせたくないんだ……」

 泣いているのか、おじいさんの肩は小さく震えている。
 分かります。あなたの言いたいこと。春を大切に思うあなたの気持ち。僕は、鉛を付けられたような重い心で、ようやく声を絞り出すことができた。

「はい……。……分かります……」

 おじいさんは何度も僕に謝りながら、少し外の空気を吸いに行く、春には買い物に行ったと伝えてくれと言い残し、店を出た。
 心が、重い。僕を好いてくれる優しい春を、笑顔にしたい。でも、そう思うと、心の中の大切なハルが悲しい顔をする。ハルを想い続けていては、春を幸せにすることは出来ない。

- 今は楽しくご飯を食べよう -


*** Miss Spring ***

 入口の扉に寄りかかりながら、私もおじいさんの話を聞いていた。
 春ちゃんが、お母さんを亡くしていたのは、なんとなく分かっていた。初めて会った時にお母さんを呼びながら、あの海辺の階段で泣きじゃくっていたから。ちょうど、あの頃だったのだろうか。
 おじいさんが謝りながらお店の外に出て行った。
 アキが、俯いている。おじいさんの言葉を聞いて、思い詰めているんだ。
 アキを縛る過去。それはやっぱり、私なんだろうか。
 アキには、前に歩きだして欲しい。幸せになって欲しいよ。
 私がその妨げになっているのなら、私の事なんて忘れて……
 そう考えたら、急に胸が痛くなった。
 アキが私を忘れる。それは、やっぱり、……いやだ。
 私の存在が、私の過去が、消えてしまいそうで、怖い。私が生きていたという事実が、地球上から消滅してしまうような、そんな恐怖が、じわじわと体を締め付ける。
 私を忘れないで。
 心の中に、ワスレナグサの青い花が浮かんだ。
 昔読んだお話で、こんなのがあった。水難事故で命を落とそうとしているルドルフは、最後の力で恋人のベルタにこの花を投げて、僕を忘れないでと叫んだ。残されたベルタはルドルフの墓前にその花を供えて、ルドルフの最後の言葉を、この青い花に名付けた。
 もし、ルドルフが私みたいに幽霊になって、自分を忘れずに哀しみ続けているベルタを見たら、どう思うだろう。今の私みたいに、どうしようもなくて、悩んで後悔して泣いただろうか。
 どうか、私を忘れないで。でも、私の過去に、縛られないで。
 こんなことを願う私は、わがままなのかな。



*** Mr. Autumn ***

 暫くして、春が両手でトレーを持って階段を降りてきた。オムライスだ。とてもいい匂いがする。

「お待たせー。ふふ、秋、寝ちゃってたね。……あれ、おじいちゃんは?」

 おじいさんからの伝言を伝えると、春は少しきょとんとしたが、すぐに納得してくれた。

「そっか。お店の材料でも切れてたのかな。言ってくれれば私が行くのに」

 そう言いながら、春はテーブルに料理を並べた。

「うちね、家庭用のキッチンは二階にあって、自分達が食べる料理はいつもそこで作ってるの。あ、そうだ、これ言ってなかった。私、料理結構得意なんだよ。食べたら秋、私に惚れちゃうかもなー」

「ははっ、そうか。そりゃ楽しみだな……」

 心の鉛を春に悟られないようにしたつもりだったが、春は気付いたのだろうか、手を止めて一秒、僕を見つめた。……が、何も言わずに作業を続けた。皿が並べ終わると、

「さ、食べよう。おじいちゃんには、後で温めなおして出しておくよ」

 春の料理はとても美味しかった。卵はふわふわで、味付けも丁度よく、どこか懐かしい味がした。サラダも、スープも、非の打ち所がない。でも、彼女の料理が得意な理由が、母親をなくしたことなのかもしれないと思うと、涙が出そうになる。

「美味いね……。こりゃ本当に惚れちゃうな」
「うーん、嬉しいけど……。それ、本心から言ってる?」
「本心だって。こんな可愛くて、料理が上手い女の子が彼女だったり、奥さんになってくれたら、幸せだろうなー」
「……ねえ、もしかして、おじいちゃんに何か言われた?」

 見透かされている。彼女の前では、僕の演技なんて何の意味も為さないようだ。

「ね、おじいちゃん何を言ったの? 秋に何かひどいこと言った?」
「いや、いや、そんなことはない。おじいさんは人格者だよ」
「私に親がいないことを言ったんだね?」

 ギクリとした。それが僕の表情にも現れたのだろう。春は見逃さなかった。

「やっぱり! もーう、あのおじいちゃん、基本はすごく紳士で優しいのに、私のことになると過保護すぎるっていうか、時々余計なお世話を焼くんだよ。あとで怒っておかなきゃ。ごめんね、秋。おじいちゃんが何か変なこと言ったなら、全然気にしなくていいからね」
「でも、おじいさんは春のことが大切で心配で仕方ないんだよ。その気持ちは、すごく分かる……」
「私はもう子供じゃないんだから、自分のことくらい自分で決められるよ。おじいちゃんはそれを分かってないの。いつまでも私を子供扱いして……」
「でも……」
「秋もさ、同情とか憐れみで私を好きになったりしたら、許さないからね。ちゃんと私という人間と向き合って、私を見て、秋の心で、好きになってほしい」
「うん……。それは、もちろんだ……」

 力なく言った僕を見て、春はしばらく考え込んでいたが、やがて大きく息を吐き出して、顔の前で手を叩いた。パン!

「よし、この会話終了! 続きは、来週の海辺で行います!」
「え……、続き?」
「うん。というわけで、今は楽しくご飯を食べよう!」

 春は笑顔でそう言った。オレンジ色の店の照明が彼女を優しく照らして、春風に揺れるガーベラのように煌めいた。その綺麗さに、僕も釣られて笑顔になる。
 僕の心に空いた穴も、そこにいる笑わないハルも、春の秘めた傷も、おじいさんの哀願も、ひとまず隅に置いといて、美味しい食事を素直に楽しめる力を、春の笑顔は持っていた。
 彼女の学校の話や、近所のおしゃべりなおばさんの話、たまに店を訪れる野良猫の話などを聞き、僕は僕で、学校の友人や、面白い教授や、苦労したゼミなどを、とりとめもなく話した。春は僕の話の一つ一つに、笑い、驚き、関心していた。ころころ変わる表情は、見ているだけでも飽きなかった。


 楽しい食事を終えた後、春が駅まで送ってくれた。僕たちは並んでゆっくり歩いたが、途中、あのカーブ地点に差し掛かった時、また胸が痛み始めた。過去が手を伸ばし僕の足を掴む。歩けない。
 春はちらりとこちらを向いた後、小鹿のような軽やかな足取りで前に飛び出し、街灯の下でクルリと僕の方を振り向いて、僕の名を呼んだ。

「秋!」
「……なんだ?」
「今日はいろいろあって聞けなかったけど、来週また来てくれたら、今度は秋の過去の話を教えてね。少しずつでもいいから」
「あ、ああ……」
「私はここにいるからね。ずっと、いるから。何の心配もいらないよ!」

 ありがとう、春。過去が僕の足を掴む手を緩めた。僕はまた、歩き出すことができた。街灯の下で待つ春のもとへ。

   *

 春に桜の舞い散るように。

 春の歌を聴きながら、心に浮かんだその言葉を、僕は温めていた。
 大学の講義中も、部屋に帰ってハルの絵に囲まれている時も、そのフレーズから言葉を広げていくことばかりを考えていた。
 僕はハルを失った。悲しい、辛い。だけど。春は両親を失った。春のおじいさんは娘を失い、大切な孫を哀しませたと悔やんでいる。今は元気な僕の両親だって、いつかは死んでしまう。世界では、今も沢山の大切な人が死に、大切な人を失った沢山の人が、今も泣いているんだろう。世界はどうしようもなく、悲しみに満ち満ちている。
 でも、それだけではないはずだ。世界に悲しみしかないのなら、僕たちはとても生きてはいられない。悲しみを越える何かが、僕たちの心にはあるはずなんだ。それを、言葉にしたい。
 僕の心も、心の中のハルも、寄り添おうとしてくれる春も、優しいおじいさんの傷跡も。全てを救うような言葉を、僕は探さなくては。
 週末まで頭を悩ませ続けたが、二、三個のフレーズを捻り出せただけだった。僕の中のハルは、まだ笑ってはくれない。
 金曜日の夜、春からLINEが来た。


【Haru Miyazato】
明日のこと!
   
一週間お疲れ様!
ようやく週末だね。待ちわびたよ!
明日、海辺の階段で待ってるね。
色々話したいから、絶対来てね!
   
★注意★
なお、このLINEを読んだら三十秒以内に返事を出すこと。
三十秒を超過すると、自動的に爆発します。私が。


 思わず噴き出してしまった。春が爆発したら大変だ。急いで返事を出さなくては。


【Aki】
明日、必ず行きます!
だから爆発しないで!


【Haru Miyazato】
春の爆破装置は解除されました。
明日、待ってます! 楽しみ!


 少しだけ、明るくなった気持ちで、金曜の夜は更けていった。