- レイヤー -


 そう言われて、きなこの視線の先を触ってみると、髪留めが付いている。外してみると、ホントだ、控えめだけど上品な印象の、小さな桜の花のモチーフが付いたヘアピンだ。

「そうだね。死んじゃった時に付けてたのかな。あっ、そうか!」

 ふと思い立って、立ち上がって全身を触ってみる。他に何か持ってないか。私が誰なのか、分かるような何か。
 着ているものは、白いワンピースの上に紺のジャケット。白いレースの付いた黒のパンプス。ジャケットのポケットを全て探ってみたけど、何も入っていなかった。
 座り直して、桜のヘアピンを眺める。結局、これだけか。でも、とても大切なもののように感じる。心がきゅんとして、あったかくなる。しばらく眺めてから、また髪に付けた。

「あなたの名前、サクラって呼ぶことにするわ」
「うん……。それ、いいね。すごく可愛い」

 私が笑うと、きなこは目を細めた。表情は変わってないのに、私にはきなこが笑ってることが分かった。どうしてだろう。これも、私がバクレイというものだからだろうか。
 猫さんと友達になれた。嬉しい。嬉しい。
 私はいつの間にか死んじゃってて、幽霊になっちゃったみたいだけど、悪い事だけじゃないかもしれない。

「さて、自己紹介も済んだし、サクラも少し元気になったみたいだし、少しこの町を案内してあげようかしら」
「え。うーん、すごく嬉しいけど、私、この周辺から出られないみたいなの。透明な壁があって先に進めなくなっちゃうんだ」
「あら、そうなの。じゃああなた、地バクレイなのかしら」
「そうなのかなぁ」

 その割には、この場所、この景色に、何も思い当たらない。
 知っているような気もしない。忘れているだけかもしれないけれど。

「どの辺りまで動けるの?」

 きなこが聞くので、実際に壁の場所まで一緒に行ってみることにした。まずは、民家のある方。

「ここだ。ここに壁があるの。ひんやりしてて、サラサラな手触りなんだよ」
「ふうん。不思議ね。あたし達猫には、あなたみたいな精神的な存在は見えるんだけど、その壁ってやつは見えないわ」

 きなこはそう言うと、私が触っている壁の方向に鼻を近づけて、クンクンしている。可愛い。
 さっきまでは、怖くて不安で寂しくて、心が張り裂けそうだったけれど、きなこがいてくれるから安心できる。

「もしかしたらその壁は、世界に共通して存在するんじゃなくて、サクラの心にだけ存在するのかもしれないわね」
「え、私の心に壁が?」
「うーん、何て言うのかしら。あたしやサクラや、みんなが共有する世界には存在しないんだけど、サクラが個別に保持する世界にだけ存在する――。レイヤーが違うと言ったら分かり易いかしら?」
「えーと、ごめん、分かりません」
「あたしとサクラは、今この世界に確かに同時に存在しているけれど、存在するレイヤー――層が違うから、サクラはあたしの世界を観測はできるけど、物理的な干渉はできない状態、といった所かしら。サクラのレイヤーに存在するその壁は、サクラだけが干渉でき、サクラだけに影響を及ぼす。反対に、サクラはあたしがいる世界の物理的存在の束縛を受けないはずよ」
「え、え、どういうこと?」
「例えば、そうね」

 きなこは、道路の向こうにある灰色のコンクリートの崖を見つめた。

「そこのコンクリートの壁あるでしょ。サクラなら、壁をすり抜けられるはずよ」
「えっ! そうなの?」

 灰色の崖に駆け寄って、そっと手を伸ばしてみたけれど、手は普通にコンクリートに阻まれた。

「だめみたい」
「そう。きっとあなたの中の常識が邪魔をしてるのね。いえ、サクラの中の世界感が正常に機能していると、前向きに捉えた方がいいかしら」
「えーっと?」

 よく分かっていない私の方を向いて、きなこは口を動かさずに説明してくれた。

「あなたが、物体は重力に引っ張られる、人間は地面の上に立つ、壁は物を通さない、という確固たる認識を持っているから、今そうして道路の上に立ったり、階段に座ることが出来るのよ。物質的な存在ではないあなたが、その常識を持っていなかったら……今どうなっているか想像も出来ないわね。もしかしたら、あなたの精神はバクレイとして形を成すこともなく、散り散りにこの辺に漂っていたかもしれないわ」
「そうなんだ……なんだか怖いね」
「でも、その世界感をうまく発展させてあげれば、あなたは空だって飛ぶことが出来るのよ」
「ホント? すごい!」
「ホントよ、ヒマがあれば、訓練してみるといいわ。自分に重さはない、自分は飛べるはずだって考えるの」
「うん!」

 すごい、すごい。鳥みたいに空を飛べるなんて、バクレイって素敵かも。

「……あ、でも、不思議。このコンクリートは触れるけど、さっきそこの階段に座ってた女の子は触れなかったの」
「あなたがその壁を触っているのだって、実際に触っているんじゃなくて、自分は壁を触っているという感覚を持っているだけなのよ。試しに、目を閉じて壁を触ってごらんなさい」

 言われた通りに目を閉じて、ゆっくり右手を伸ばすと……手応えが無い。
 不思議に思って目を開けると、手が壁を貫通していた。

「きゃあ!」

 驚いて手を抜くと、すんなりと取れた。もう一度、目を開けたまま手を伸ばすと、やっぱり壁に触れる。頭が混乱してくるけれど、きなこが言っている事が何となく理解できた気がする。

「視覚というものは精神の大半を支配しているから、異なるレイヤーの物質だとしても、見えていれば精神的存在であるあなたは影響を受けやすいみたいね」
「何となく分かったよ。でも、女の子を触れなかった時は、ちゃんと目で見ていたし、自分が幽霊だって分かってなかったから当然触れると思ってたのに」
「そうねぇ。もしかしたら、サクラのレイヤーでは自分の意識とは関係なく、こちら側の生命体へのコンタクトは無効化されるのかもしれないわね」
「うーん?」
「ま、全てはあたしの憶測でしかないから、これ以上考えてもしょうがないわね。サクラも、難しいことは気にしなくていいのよ。そのうち慣れるわ」

 きなこは猫なのに色々知っててすごいな。いや、猫なのにっていう考えが、もう人間の思い上がりなのかもしれない。反省しなくては。

「じゃ、反対側も行ってみましょう」
「うん。こっちだよ」

 スーパーがある方の壁にきなこを案内した。

「あうっ。ぶつかっちゃった。ここだよ」

 きなこは少し目を凝らしたあと、さっきみたいに鼻をクンクンさせた。

「やっぱりこっちも、あたしには何も感知できないわ」
「そっか……」
「ふむ。そうね、ちょっと検証してみようかしら」

 きなこはガードレールの方に歩き、道の端に生えてる雑草を数本くわえて引き抜いた。

「え、何をするの?」
「サクラは壁に手を付けたまま、こっちのガードレールから、あっちの道路の端まで歩いてちょうだい」
「うん。分かった」

 言われた通りにガードレールの所まで来て、右手を壁に当てて、ゆっくりとコンクリートの崖まで歩いた。きなこは、くわえた草を少しずつ落としながら私の後を付いてきた。

「何か分かるの?」
「これだけじゃ何とも言えないわね。砂浜には降りられるのかしら?」
「うん。さっき試したけど、やっぱりこの辺りで壁に当たるんだ」
「じゃあ、その場所まで行きましょう」
「うん」