- まるで涙でできた海 -
また、ここに来てしまった。
ここに来ても、何も救われないと分かっている。
握り潰される様な胸の痛みがなくなる事も、全身を覆う喪失感が晴れることもなく、永遠に続くような悲しみから、一歩も前に進めないことも、変わらない。
十月も終わろうとしている秋の海辺は、凍えるほど寒い。
世界の終わりみたいにどんよりとした空が、一層寒さを助長しているけど、悲しい曇り空よりも陰鬱なこの心と体は、震えることで体温を上げる気力さえ、残っていないようだ。
石造りの階段に腰を下ろし、ぼんやりと海を眺める。
この海辺に続く階段は、車道沿いにあるのだが、滅多に車は通らないので至って静かだ。
波は弱く、穏やかに、白い砂浜の上を行き来している。
まだ昼過ぎなのに海は暗く、黒い水に紺を落としたような色だ。今日の曇り空と、濁ったこの瞳のせいだろうか。
零れ落ちる涙の跡が、時折吹く北風に撫でられ、冷たく、痛い。
ひとり暮らしをしているアパートから、電車を乗り継いで二時間弱。往復で四千円を超す移動費は、バイトもしていない大学生には決して安くない。それでも、食費を最低限に切り詰めて、僕は毎週、土曜日には決まってこの海に来ていた。正直、健康になんて興味の無いこの身には、空腹を紛らわすだけの簡素な食事で十分だった。
駅からは、歩いて二十分。寂れた駅の周りには人影はまばらしかなかったが、力なく海に向かう僕は、すれ違う人には亡霊のように見えていたかもしれない。
十分ほど海を眺める。
やがて海から視線を落とし、傍らの鞄からノートとペンを取り出して、空白のページを開く。
半年ほど前から僕は、詩を書いていた。我ながら暗く女々しい行動だと思うが、心を埋め尽くす寂しさ、悲しさ、悔恨を、少しずつでも吐き出さないと、とても生きていられなかった。
それは詩とも呼べないような代物だった。ただ、心を絞り出して、紙の上に落としていた。拙くても、汚くても、何でもいい。とにかく、この心を表現することで、その先に何かを求めていた。
もしかしたらそれは、誰かに分かってもらいたいという願望か、悲しみに浸っていたいという陶酔か、忘れたくない想い出か、あるいは、世界に自分が生きていた証を残すという、微かな希望であったかもしれない。
まるで、涙でできた海。悲しみの海。
この心は海よりも深く沈んで、深く深く沈んで、
深海で言葉を探している。
手探りで、僕を救う言葉を。
あなたを救う言葉を。
北風に吹かれ、秋の枯葉が一枚、砂浜の上を引きずられている。
かつて、僕の一番好きだった季節が、彼女の名前と最も遠いことを思い出し、また、胸が締め付けられる。
* * *
ハル。
おばあちゃんみたいだからと嫌がっていた彼女の名前を、僕はとても好きだった。
柔らかく、暖かく、桜色の優しい季節の名前を、もっと誇りに思っていいのにと言ったこともあった。実際彼女は、春のような人だった。
彼女と言っても、付き合っていたわけではない。高校時代のクラスメイトで、同じ美術部員だったというだけだ。ただ、間違いなく僕は、彼女に深く恋をして、彼女もまた、僕を、慕ってくれていた。それは青春時代にありがちな勘違いなどではない。そこだけは胸を張って言いたい。僕たちは、焦がれるほど、想い合っていた。
憂鬱だった受験を終え、無事高校に入学した僕は、「なんかかっこよさそう」という仄かな憧れだけで、美術部に入部した。
当時の僕は、当然だが今のように鬱々としてはおらず、むしろ新鮮な希望とやる気に満ち溢れていた。何の知識も経験もなく入った美術部だったが、先生や先輩から教わりながら、水彩画も、油絵も、木炭デッサンも、下手ではありながらも真剣に挑戦し続けていった。実際、新しい環境で、暖かな空気に包まれて絵を描く時間は、輝かしくて、嬉しくて、楽しくてしかたなかった。
この学校は、丘の上に立っている。校舎の裏手に、芝生の生えるちょっとした空き地があり、そこからは僕の住む町や遠くの山や、山間に沈む夕日などが一望できた。風景画を描こうと探索していた時に見つけたそのスペースは、僕のお気に入りの場所となり、部活時間は決まってそこにイーゼルを構え、油絵を描くのが日課となりつつあった。
その場所には、小ぶりな桜の木も一本立っていた。満開の季節は過ぎてしまっていたが、残った僅かな花びらが、時折春の風に吹かれてヒラヒラと散る中で絵を描くことが、至上の幸福のように感じられ、一人でニヤニヤしてしまうこともあった。僕はその場所を、勝手に「モネの丘」と呼ぶ事にした。画集で見たモネの風景画には、到底及ばないのだが。
そんな中、美術部員となって一ヶ月ほど経った頃、絵を描いている時には決まって右隣に彼女がやってきて、イーゼルを並べるようになっていた。彼女の名前は鈴村ハル。クラスメイトで同じ美術部であることは知っていたが、直接会話を交わしたことはなかった。
美術部内では、僕は同級生の男友達もいたし、何より家系に女兄弟もおらず女子慣れしてない僕にとっては、気軽に声をかけるような度胸も話題もなかったのだ。もちろん、年頃の健全な男子高校生として、女の子への憧れや興味もあったのだが。
数日は、会話もないまま隣で絵を描いていたが、ある日彼女が提案した画材の貸し借りをきっかけに、僕らは次第に会話を交わすようになっていった。彼女の声は、優しく、穏やかで、春の風のように心地よかった。
*
モネの丘に立つ桜も、もうずいぶん前に散って、五月の爽やかな緑が、優しい風に揺れる季節だったが、彼女はよく満開の桜の絵を描いていた。
それはとても綺麗で、爽やかで、透明感のある風景画で、絵に関する知識も技術もない僕から見ても、素晴らしい作品だった。まるで、筆を持つ彼女の、細く綺麗な指から、桜の花びらが零れ落ちているようだった。
「桜、好きなの?」
「うん。私の一番好きな花」
「名前がハルだから?」
「うーん……。桜の咲く季節に生まれたからかな。私、自分の名前はあんまり好きじゃないの」
「どうして?」
「だって、何だかおばあちゃんみたいじゃない? ちょっと昔のさ。ハルおばあちゃん、みたいな」
「そうかなぁ」
「どうしてカタカナにしたのかなぁ。カタカナならせめてサクラとかにしてくれればよかったのに」
「『春』なんて綺麗な名前じゃないか。可愛くていいと思うよ」
彼女は少し照れ笑いをした後、僕の誕生月を聞いた。十月だと答えると、
「じゃあ、君はアキだね。私はハル。一番遠い季節だね」
そう言って、彼女は笑った。残春の陽光が、彼女のセミロングの黒い髪を透かして、きらきらと、栗色に輝いていた。彼女の桜色の笑顔の綺麗さに、僕はその時、眩暈すら感じていた。
それから、僕の名前に「アキ」という音が含まれるからか、彼女は僕を「アキ」と呼ぶようになった。彼女にその名で呼ばれる度に、僕は、僕が生まれた寂しげな季節を、少しずつ好きになっていくような気がした。便乗して僕も、彼女を「ハル」と呼ぶことにした。
「えー、私自分の名前好きじゃないって言ったじゃん」
「いいじゃんか、公平を期すためにもさ。僕はその名前、好きだよ」
「むう。じゃあ……いっか」
モネの丘で二人イーゼルを並べ、やわらかな風に吹かれて絵を描きながらこんな会話を交わすのは、穏やかで、暖かくて、くすぐったくて、とても幸福な時間だった。こんな時間が、いつまでも続けばいいのにと思えた。下校を促すチャイムが、少し恨めしいくらいに。
日を追う毎に、彼女が隣に座る度に、少しずつ、僕は彼女に惹かれていった。
また、ここに来てしまった。
ここに来ても、何も救われないと分かっている。
握り潰される様な胸の痛みがなくなる事も、全身を覆う喪失感が晴れることもなく、永遠に続くような悲しみから、一歩も前に進めないことも、変わらない。
十月も終わろうとしている秋の海辺は、凍えるほど寒い。
世界の終わりみたいにどんよりとした空が、一層寒さを助長しているけど、悲しい曇り空よりも陰鬱なこの心と体は、震えることで体温を上げる気力さえ、残っていないようだ。
石造りの階段に腰を下ろし、ぼんやりと海を眺める。
この海辺に続く階段は、車道沿いにあるのだが、滅多に車は通らないので至って静かだ。
波は弱く、穏やかに、白い砂浜の上を行き来している。
まだ昼過ぎなのに海は暗く、黒い水に紺を落としたような色だ。今日の曇り空と、濁ったこの瞳のせいだろうか。
零れ落ちる涙の跡が、時折吹く北風に撫でられ、冷たく、痛い。
ひとり暮らしをしているアパートから、電車を乗り継いで二時間弱。往復で四千円を超す移動費は、バイトもしていない大学生には決して安くない。それでも、食費を最低限に切り詰めて、僕は毎週、土曜日には決まってこの海に来ていた。正直、健康になんて興味の無いこの身には、空腹を紛らわすだけの簡素な食事で十分だった。
駅からは、歩いて二十分。寂れた駅の周りには人影はまばらしかなかったが、力なく海に向かう僕は、すれ違う人には亡霊のように見えていたかもしれない。
十分ほど海を眺める。
やがて海から視線を落とし、傍らの鞄からノートとペンを取り出して、空白のページを開く。
半年ほど前から僕は、詩を書いていた。我ながら暗く女々しい行動だと思うが、心を埋め尽くす寂しさ、悲しさ、悔恨を、少しずつでも吐き出さないと、とても生きていられなかった。
それは詩とも呼べないような代物だった。ただ、心を絞り出して、紙の上に落としていた。拙くても、汚くても、何でもいい。とにかく、この心を表現することで、その先に何かを求めていた。
もしかしたらそれは、誰かに分かってもらいたいという願望か、悲しみに浸っていたいという陶酔か、忘れたくない想い出か、あるいは、世界に自分が生きていた証を残すという、微かな希望であったかもしれない。
まるで、涙でできた海。悲しみの海。
この心は海よりも深く沈んで、深く深く沈んで、
深海で言葉を探している。
手探りで、僕を救う言葉を。
あなたを救う言葉を。
北風に吹かれ、秋の枯葉が一枚、砂浜の上を引きずられている。
かつて、僕の一番好きだった季節が、彼女の名前と最も遠いことを思い出し、また、胸が締め付けられる。
* * *
ハル。
おばあちゃんみたいだからと嫌がっていた彼女の名前を、僕はとても好きだった。
柔らかく、暖かく、桜色の優しい季節の名前を、もっと誇りに思っていいのにと言ったこともあった。実際彼女は、春のような人だった。
彼女と言っても、付き合っていたわけではない。高校時代のクラスメイトで、同じ美術部員だったというだけだ。ただ、間違いなく僕は、彼女に深く恋をして、彼女もまた、僕を、慕ってくれていた。それは青春時代にありがちな勘違いなどではない。そこだけは胸を張って言いたい。僕たちは、焦がれるほど、想い合っていた。
憂鬱だった受験を終え、無事高校に入学した僕は、「なんかかっこよさそう」という仄かな憧れだけで、美術部に入部した。
当時の僕は、当然だが今のように鬱々としてはおらず、むしろ新鮮な希望とやる気に満ち溢れていた。何の知識も経験もなく入った美術部だったが、先生や先輩から教わりながら、水彩画も、油絵も、木炭デッサンも、下手ではありながらも真剣に挑戦し続けていった。実際、新しい環境で、暖かな空気に包まれて絵を描く時間は、輝かしくて、嬉しくて、楽しくてしかたなかった。
この学校は、丘の上に立っている。校舎の裏手に、芝生の生えるちょっとした空き地があり、そこからは僕の住む町や遠くの山や、山間に沈む夕日などが一望できた。風景画を描こうと探索していた時に見つけたそのスペースは、僕のお気に入りの場所となり、部活時間は決まってそこにイーゼルを構え、油絵を描くのが日課となりつつあった。
その場所には、小ぶりな桜の木も一本立っていた。満開の季節は過ぎてしまっていたが、残った僅かな花びらが、時折春の風に吹かれてヒラヒラと散る中で絵を描くことが、至上の幸福のように感じられ、一人でニヤニヤしてしまうこともあった。僕はその場所を、勝手に「モネの丘」と呼ぶ事にした。画集で見たモネの風景画には、到底及ばないのだが。
そんな中、美術部員となって一ヶ月ほど経った頃、絵を描いている時には決まって右隣に彼女がやってきて、イーゼルを並べるようになっていた。彼女の名前は鈴村ハル。クラスメイトで同じ美術部であることは知っていたが、直接会話を交わしたことはなかった。
美術部内では、僕は同級生の男友達もいたし、何より家系に女兄弟もおらず女子慣れしてない僕にとっては、気軽に声をかけるような度胸も話題もなかったのだ。もちろん、年頃の健全な男子高校生として、女の子への憧れや興味もあったのだが。
数日は、会話もないまま隣で絵を描いていたが、ある日彼女が提案した画材の貸し借りをきっかけに、僕らは次第に会話を交わすようになっていった。彼女の声は、優しく、穏やかで、春の風のように心地よかった。
*
モネの丘に立つ桜も、もうずいぶん前に散って、五月の爽やかな緑が、優しい風に揺れる季節だったが、彼女はよく満開の桜の絵を描いていた。
それはとても綺麗で、爽やかで、透明感のある風景画で、絵に関する知識も技術もない僕から見ても、素晴らしい作品だった。まるで、筆を持つ彼女の、細く綺麗な指から、桜の花びらが零れ落ちているようだった。
「桜、好きなの?」
「うん。私の一番好きな花」
「名前がハルだから?」
「うーん……。桜の咲く季節に生まれたからかな。私、自分の名前はあんまり好きじゃないの」
「どうして?」
「だって、何だかおばあちゃんみたいじゃない? ちょっと昔のさ。ハルおばあちゃん、みたいな」
「そうかなぁ」
「どうしてカタカナにしたのかなぁ。カタカナならせめてサクラとかにしてくれればよかったのに」
「『春』なんて綺麗な名前じゃないか。可愛くていいと思うよ」
彼女は少し照れ笑いをした後、僕の誕生月を聞いた。十月だと答えると、
「じゃあ、君はアキだね。私はハル。一番遠い季節だね」
そう言って、彼女は笑った。残春の陽光が、彼女のセミロングの黒い髪を透かして、きらきらと、栗色に輝いていた。彼女の桜色の笑顔の綺麗さに、僕はその時、眩暈すら感じていた。
それから、僕の名前に「アキ」という音が含まれるからか、彼女は僕を「アキ」と呼ぶようになった。彼女にその名で呼ばれる度に、僕は、僕が生まれた寂しげな季節を、少しずつ好きになっていくような気がした。便乗して僕も、彼女を「ハル」と呼ぶことにした。
「えー、私自分の名前好きじゃないって言ったじゃん」
「いいじゃんか、公平を期すためにもさ。僕はその名前、好きだよ」
「むう。じゃあ……いっか」
モネの丘で二人イーゼルを並べ、やわらかな風に吹かれて絵を描きながらこんな会話を交わすのは、穏やかで、暖かくて、くすぐったくて、とても幸福な時間だった。こんな時間が、いつまでも続けばいいのにと思えた。下校を促すチャイムが、少し恨めしいくらいに。
日を追う毎に、彼女が隣に座る度に、少しずつ、僕は彼女に惹かれていった。