きっと全部、おままごとの延長だった。
天月との泥棒探しも、恋愛も。
役割に合わせて踊る、ミュージカルみたい。
幕引きの後には、何も残らない。
ただ、なんとなく。それでもいいと思った。
否定することも拒絶することもなく、僕はこの奇妙な夏休みを、間違いなく楽しんでいたのだから。
天気予報じゃ今夜は新月らしい。
眠れなくて、夜明け前のベランダで開いたスマホは、降水確率と一緒に月の形まで表示していた。
「新月の夜に会えば、嫌いなものを盗んでもらえる……」
忘れん坊の泥棒と、それに纏わる噂話。
きっとその大半は根も葉もない噂で、高校生たちの暇潰しの産物だろう。
それでもいくつか本当のこともあるから、何を信じていいのか、本当の所はわからない。
何かにすがりたくて、背伸びして買ったタバコを咥えた。
マッチに灯した火は上手く火口に移らない。
それでも何度かマッチをダメにして、ようやく火が着いた。
煙が一束、歪な螺旋を描いて、暗い空に消えていく。
呼吸に合わせて光る火口は、一足早い朝日のよう。
その輝きすらも、煙が隠していく。
(あれ……?)
タバコって、こんなにも煙出るものだったっけ?
前に一度だけ、友崎のを一口もらったことがある。
その時はこんな風に、視界が真っ白になるなんてなかった。
「あ……」
視界がブレる。
声は意味を捨てて、音だけになっていた。
背中から地面に吸い込まれていきそうな、膝から削れていきそうな。そんな感覚。
ヤニクラか、いや違う。
──幻覚が、見える。
『詩乃、迎えにきたよ』
雨前の冷たい風の中。
天月の前には、一人の男が立っている。
男の手にはナイフ。綺麗な瞳から、涙が滲む。
一際強い風が吹いた。
不意に、男が天月に近付く。
『一緒になろ?』
天月のお腹に、ナイフが突き刺さった。
どす黒い赤が、天月の白い服を染め上げる。
波が砂浜を削るみたいに、少しずつ。
「あ、あぁ……っ?」
なんだ、これ。
声にならない。
手すりに寄りかかる。
ベランダの軋む音がして、少し揺れる。
天月が、死んだ?
違う、あれは雨の日の出来事だ。今日はまだ暗いけど、雲は見えない。
じゃあ、
「これが、泥棒の呪い……?」
時折思い出したように走る、遠くのトラックの音。
遠雷のようなそれが声を掻き消して、山間に光が差し込む。
朝がやって来た。
きっとその感情の名前は、絶望だった。
*
国道を一息に駆け降りると、海が見えた。
夏見浜。人口減少著しい田舎の、唯一の観光スポットだ。
目的の駅はそのずっと手前にある。
「元カレくん」
彫像の下で待っていた天月が、僕を見つけて駆け寄ってきた。
薄い空色の半袖カッターと、紺のワイドデニム。
よかった、あの幻覚とは違う服装だ。
(やっぱり、あれは……)
幻覚なのだろうか?
それとも、夢なのだろうか?
考えたけれど、答えは出なくて。
後味の悪さとおかしな危機感を押し殺して、「おはよう」の言葉を絞り出した。
夏休み二日目。
連日のように続く猛暑に真っ向から逆らって、僕たちはまた泥棒を探す。
「おっせーですよ、次からジュース奢りです!」
「ごめん、でも待ち合わせはまだのはずだよ」
「あっ」
「いつから待ってたの?」
「二十分くらい前ですかね?」
「早く着きすぎたよ」
この炎天下で、二十分ずっと立っていたのか。
熱中症にかかられたら堪らない。
「次からは、僕より遅く来てもいいから、もうちょっと遅く来て」
心配だったから、その言葉は思ったより固いままで口を出た。
「だって楽しみだったんですもん……」
「……楽しみでもだよ」
ふくれ面から目を反らす。
なぜだろう?
なぜだか、今の彼女をまっすぐ見ることが出来ない。
心臓が真空パックで圧縮されたみたいに、ひどく痛んだ。
「じゃ、行こうか」
少しだけ混乱しているから、吐き出す言葉は味気ない。
だから、なのかもしれない。
「待ってください」
不満げな声が、僕を呼び止めた。
「また今日も、時間が余りますよね?」
「まあ、そうだろうけど」
「じゃあ、遊びませんか?」
「いやそれって」
言いかけて、でも言えなくて。
どこまでも青い想像を持て余して、天月を見つめる。
空色のカッター、紺のワイドデニム。湿った肌。
珍しい青の眼もまた、僕を見つめていた。
「いいじゃないですか、デートでも」
「本気でいってる? それ」
「本気じゃなきゃ、言いませんよ」
ああ、そうだ。
この子はどこまでも優しくて、誠実であろうと足掻いて。その度に傷付いて。
きっと彼女は、誰よりも誠実なんだ。
「いいよ、じゃあデートしてくれる?」
「はいっ」
そこまで言うと、天月は初めて笑った。
「今日はお墓を探しにいきます」
「お墓?」
改札を潜りながら訪ね返す。
改札を通ると、間抜けた電子音と一緒に通学定期が排出された。
「はい。十年前、忘れん坊の泥棒に盗まれた、野良犬の墓標です」
十年前。
天月の通学路に一匹の子犬が死んでいた。
車に轢かれたのだろう。すぐそばの国道には、何台もの車が行き交っていた。
「周りには何人も人間が行き交ってるのに、その子犬は親すらいなくて。ただ独りぼっちで」
それが悲しくて、彼女は子犬を国道脇の土に埋めた。
──のらいぬのおはか
手頃な石にマジックでそう書いた墓は、次の日上級生に割られていた。
「涙は出ませんでした」
そのお墓は二日後、完全な姿で元に戻っていたから。
滑り込んできた電車に乗って、天月は頬をかく。
その姿が、どこか混乱しているように見えて、僕も少し混乱する。
天月詩乃の混乱は、彼女へのイジメがなくなった日以降見ていなかったから。
「だから、もう一度見てみたいんです。それで、今度はちゃんとお供え物もしてあげたい」
「優しい人なら、そうすると思うから?」
きっとその言葉は余計だった。
それでも彼女は怒ることもなく、ただまっすぐに僕を見つめて頷いた。
「そうです」
「それを世間じゃ優しいって言うんだよ」
「こんな利己的な感情が優しさなら、私は優しくなくていいです」
まっすぐな眼だった。
まっすぐに深海を覗いているような、けれどどこか透明な眼だった。
(やっぱり、天月は天月のままだ)
変わらない拘りや生き様を、きっと高潔と言う。
その綺麗で不器用な生き様に、恋愛感情とは無関係なところで。僕は天月に惚れ込んでいる。
安心したところで、駅についた。
天月の住む街、頼光台だ。
目的の墓は、国道を逸れた雑草に埋もれていた。
「これがそう?」
「はい」
頷く天月の表情は固い。
それはトラウマを見つめると言うよりは、舞台に上がる直前の新人役者に近い緊張だった。
「割れてないよ、石」
「はい、泥棒が盗んだんです」
天月が埋葬した子犬の墓石は苔むして、雑草の中に埋もれていた。
説明されなければ、それが墓であるかわからないほど、自然の一部として機能しているように見える。
けれど、疑問が残る。
「天月は墓石が割られた時、嫌だと思った?」
壊された墓標が盗まれたと言うのなら、それを拒絶した誰かがいるはずだ。
泥棒に頼って、代償として呪われた僕のように。きっと誰かがこの墓石の「ヒビ」を拒絶した。
「どういう意味ですか?」
「悲しいとか、止めてほしいとか。そう言う拒絶する気持ちのことだよ」
天月は少し考え込む。
思い詰めたような氷の顔を俯けて、その眼は深海を見つめているようだった。
「わかりません」
少しして、天月はその冷たい眼を僕を向けた。
「子供の頃はその時の事を、感情に至るまで事細かく覚えてました。でも今となっては、それがあったのかすらもあやふやになってくるんです」
大人はそれを、脳の御作動だなんて野暮な言葉で片付ける。
きっとその消失は、友達と別れた夕暮れ時のように悲しいはずなのに。悲しさから眼を逸らしてしまう。
「君はきっと、忘れるのが怖いんだよ」
もちろん、僕も含めて。
「そうなのかもしれませんね。そしてきっと、それが優しさなのかもしれません」
カバンから取り出したビーフジャーキーを供えて、手を合わせる。
その眼を閉じた天月の横顔が、余りにも綺麗で、一瞬見惚れる。
眼を逸らしても、その横顔は焼き付いていた。
「さあ、これで今日の泥棒探しは終わりですね」
「まだ手を合わせただけだよ?」
「いいんです、今日は。なんとなく、このお墓を手懸かりとして、道具として扱いたくないんです」
ズルい。
唇を噛み締める。
こんな優しい言葉を何の抵抗もなく口に出せるなんて。
天月が優しくないのなら、一体誰が優しいって言うんだ。
「やっぱり、天月は優しいよ。君の感情がどうかじゃない。その優しさに触れる誰かは、きっと「優しい」と思うから」
「買い被りすぎです。それでも私は、優しさを形だけで終わらしたくなんてないです」
天月は綺麗だった。
どこまでも綺麗で、優しくて。
けれどどれだけ言葉を重ねても、それを認めてはくれないから。
歯噛みするこの感情の名前は、悔しさになるんだ。
「……君はもしかして、優しくないままが一番優しいのかもしれないね」
「間違ってますよ、そんなものが許される世界なんて」
それでも、と思う。
天月が持つ違和感は、間違いなく誰よりも綺麗で、そして脆い。
それでも、僕は彼女の違和感に賛同することはできない。
「何かを否定したいなら、一度はそれを認めなきゃ。じゃなきゃまた同じ目に遭うし、今度はそれに気付けない」
それじゃただの負け犬なんだ。
否定批判を繰り返すのは、可能性を潰す害悪だ。
「どれだけ正解を夢想しても、人は正解を不正解にするし、不正解を正解にする。誰かの正解は、違う誰かの不正解になるんだよ」
だからコミュニティに頼る人間は、他人と折り合いをつけるために折衷案を設ける。
本当の正解を貫くことができるのは、眼を閉じて耳を塞いだ、孤独な世界の人間だけなのかもしれない。
僕の言葉を聞いて、天月は空を見上げた。
「うーん、ままなりませんね……」
あんまりにもその横顔が綺麗だったから。
天月の悩みに気づくのに、少し時間がかかった。
あまりにも綺麗なその理想を抱いて、天月は傷付いていく。流した分だけ、世界が優しくなると信じて。
けれど、とも思う。
(誰かの苦しみの上になりたつ世界なんて、今の世界と何が変わるって言うんだ)
けれどそれを、口にすることはできなくて。
「気分転換、しようか」
下らない言葉でお茶を濁した。
何の解決にもならないことなんて、わかってる。
けれど、たまには。
「デート、行こう」
息抜きだって、必要だ。
「はい!」
半年前みたいな、天月の笑顔。
傾けた鞄の中に見えた手紙。
沸き起こる拒絶。
やっぱりこれは、おままごとなのかもしれない。
それから四両編成のローカル線に乗って、JRの駅に着いた。
デートはここから始まる。
そう考えるだけで、心臓が
「どこ行く?」
「どこでもいいですよ」
「どこでもいいって……」
考える。
彫像につけた背中はヤケドしそうなほど熱いのに、指先は緊張で冷たくなっていく。
まずい、何も思い浮かばない。
「じゃあ、歩く?」
「自転車あるのに?」
「じゃあ、都会出る?」
「まどろっこしいですよ」
天月が指を指す。
指の先には、僕が乗ってきた自転車が停めてある。
「あれに乗りましょう」
「え、でもあれ、一台しかないし」
「もー鈍ちんですね!」
力の抜けきった手が僕を叩いた。
「したことなかったでしょう? ニケツ」
本当に、ズルい。
僕も、天月も。
こうなることはわかってた。
心のどこかでは、それを望んだりもした。
でも僕らは、もう別れてしまったから。
「本当の」デートみたいに触れ合うには、勇気がいる。僕にはもう、そんな勇気はなかった。
「天月が、嫌じゃないのなら……」
「嫌なら言いませんよ」
熱い。
押し付けた背中が、焼けた地面が。
股がったサドルが、頬が。熱かった。
「失礼します」
固い声で背中に触れた天月の手だけが、少し冷たかった。
もしかしたら、天月は本当に違う世界からきたのかと知れないと、のぼせた頭で思った。
「しっかり、掴まってて」
「はい」
自転車を走らせる。
行く宛はない。
ただ気の赴くまま、火照った体が冷めるまで、僕たちは走り続けた。
「なんかワクワクしますね!」
「落としそうで怖いんだけど」
「落としたら化けて出ます」
火照りはいつまでも冷めない。
それならいっそ、冷めないままで。
また半年前までのように、このデートを続けていたい。
「どうか今だけは、もう少し、このままで……」
背中の天月に聞こえないように、大嫌いな神様に祈ってみる。
それは泥棒を探すこの夏と、少し似ていたのかもしれない。
天月との泥棒探しも、恋愛も。
役割に合わせて踊る、ミュージカルみたい。
幕引きの後には、何も残らない。
ただ、なんとなく。それでもいいと思った。
否定することも拒絶することもなく、僕はこの奇妙な夏休みを、間違いなく楽しんでいたのだから。
天気予報じゃ今夜は新月らしい。
眠れなくて、夜明け前のベランダで開いたスマホは、降水確率と一緒に月の形まで表示していた。
「新月の夜に会えば、嫌いなものを盗んでもらえる……」
忘れん坊の泥棒と、それに纏わる噂話。
きっとその大半は根も葉もない噂で、高校生たちの暇潰しの産物だろう。
それでもいくつか本当のこともあるから、何を信じていいのか、本当の所はわからない。
何かにすがりたくて、背伸びして買ったタバコを咥えた。
マッチに灯した火は上手く火口に移らない。
それでも何度かマッチをダメにして、ようやく火が着いた。
煙が一束、歪な螺旋を描いて、暗い空に消えていく。
呼吸に合わせて光る火口は、一足早い朝日のよう。
その輝きすらも、煙が隠していく。
(あれ……?)
タバコって、こんなにも煙出るものだったっけ?
前に一度だけ、友崎のを一口もらったことがある。
その時はこんな風に、視界が真っ白になるなんてなかった。
「あ……」
視界がブレる。
声は意味を捨てて、音だけになっていた。
背中から地面に吸い込まれていきそうな、膝から削れていきそうな。そんな感覚。
ヤニクラか、いや違う。
──幻覚が、見える。
『詩乃、迎えにきたよ』
雨前の冷たい風の中。
天月の前には、一人の男が立っている。
男の手にはナイフ。綺麗な瞳から、涙が滲む。
一際強い風が吹いた。
不意に、男が天月に近付く。
『一緒になろ?』
天月のお腹に、ナイフが突き刺さった。
どす黒い赤が、天月の白い服を染め上げる。
波が砂浜を削るみたいに、少しずつ。
「あ、あぁ……っ?」
なんだ、これ。
声にならない。
手すりに寄りかかる。
ベランダの軋む音がして、少し揺れる。
天月が、死んだ?
違う、あれは雨の日の出来事だ。今日はまだ暗いけど、雲は見えない。
じゃあ、
「これが、泥棒の呪い……?」
時折思い出したように走る、遠くのトラックの音。
遠雷のようなそれが声を掻き消して、山間に光が差し込む。
朝がやって来た。
きっとその感情の名前は、絶望だった。
*
国道を一息に駆け降りると、海が見えた。
夏見浜。人口減少著しい田舎の、唯一の観光スポットだ。
目的の駅はそのずっと手前にある。
「元カレくん」
彫像の下で待っていた天月が、僕を見つけて駆け寄ってきた。
薄い空色の半袖カッターと、紺のワイドデニム。
よかった、あの幻覚とは違う服装だ。
(やっぱり、あれは……)
幻覚なのだろうか?
それとも、夢なのだろうか?
考えたけれど、答えは出なくて。
後味の悪さとおかしな危機感を押し殺して、「おはよう」の言葉を絞り出した。
夏休み二日目。
連日のように続く猛暑に真っ向から逆らって、僕たちはまた泥棒を探す。
「おっせーですよ、次からジュース奢りです!」
「ごめん、でも待ち合わせはまだのはずだよ」
「あっ」
「いつから待ってたの?」
「二十分くらい前ですかね?」
「早く着きすぎたよ」
この炎天下で、二十分ずっと立っていたのか。
熱中症にかかられたら堪らない。
「次からは、僕より遅く来てもいいから、もうちょっと遅く来て」
心配だったから、その言葉は思ったより固いままで口を出た。
「だって楽しみだったんですもん……」
「……楽しみでもだよ」
ふくれ面から目を反らす。
なぜだろう?
なぜだか、今の彼女をまっすぐ見ることが出来ない。
心臓が真空パックで圧縮されたみたいに、ひどく痛んだ。
「じゃ、行こうか」
少しだけ混乱しているから、吐き出す言葉は味気ない。
だから、なのかもしれない。
「待ってください」
不満げな声が、僕を呼び止めた。
「また今日も、時間が余りますよね?」
「まあ、そうだろうけど」
「じゃあ、遊びませんか?」
「いやそれって」
言いかけて、でも言えなくて。
どこまでも青い想像を持て余して、天月を見つめる。
空色のカッター、紺のワイドデニム。湿った肌。
珍しい青の眼もまた、僕を見つめていた。
「いいじゃないですか、デートでも」
「本気でいってる? それ」
「本気じゃなきゃ、言いませんよ」
ああ、そうだ。
この子はどこまでも優しくて、誠実であろうと足掻いて。その度に傷付いて。
きっと彼女は、誰よりも誠実なんだ。
「いいよ、じゃあデートしてくれる?」
「はいっ」
そこまで言うと、天月は初めて笑った。
「今日はお墓を探しにいきます」
「お墓?」
改札を潜りながら訪ね返す。
改札を通ると、間抜けた電子音と一緒に通学定期が排出された。
「はい。十年前、忘れん坊の泥棒に盗まれた、野良犬の墓標です」
十年前。
天月の通学路に一匹の子犬が死んでいた。
車に轢かれたのだろう。すぐそばの国道には、何台もの車が行き交っていた。
「周りには何人も人間が行き交ってるのに、その子犬は親すらいなくて。ただ独りぼっちで」
それが悲しくて、彼女は子犬を国道脇の土に埋めた。
──のらいぬのおはか
手頃な石にマジックでそう書いた墓は、次の日上級生に割られていた。
「涙は出ませんでした」
そのお墓は二日後、完全な姿で元に戻っていたから。
滑り込んできた電車に乗って、天月は頬をかく。
その姿が、どこか混乱しているように見えて、僕も少し混乱する。
天月詩乃の混乱は、彼女へのイジメがなくなった日以降見ていなかったから。
「だから、もう一度見てみたいんです。それで、今度はちゃんとお供え物もしてあげたい」
「優しい人なら、そうすると思うから?」
きっとその言葉は余計だった。
それでも彼女は怒ることもなく、ただまっすぐに僕を見つめて頷いた。
「そうです」
「それを世間じゃ優しいって言うんだよ」
「こんな利己的な感情が優しさなら、私は優しくなくていいです」
まっすぐな眼だった。
まっすぐに深海を覗いているような、けれどどこか透明な眼だった。
(やっぱり、天月は天月のままだ)
変わらない拘りや生き様を、きっと高潔と言う。
その綺麗で不器用な生き様に、恋愛感情とは無関係なところで。僕は天月に惚れ込んでいる。
安心したところで、駅についた。
天月の住む街、頼光台だ。
目的の墓は、国道を逸れた雑草に埋もれていた。
「これがそう?」
「はい」
頷く天月の表情は固い。
それはトラウマを見つめると言うよりは、舞台に上がる直前の新人役者に近い緊張だった。
「割れてないよ、石」
「はい、泥棒が盗んだんです」
天月が埋葬した子犬の墓石は苔むして、雑草の中に埋もれていた。
説明されなければ、それが墓であるかわからないほど、自然の一部として機能しているように見える。
けれど、疑問が残る。
「天月は墓石が割られた時、嫌だと思った?」
壊された墓標が盗まれたと言うのなら、それを拒絶した誰かがいるはずだ。
泥棒に頼って、代償として呪われた僕のように。きっと誰かがこの墓石の「ヒビ」を拒絶した。
「どういう意味ですか?」
「悲しいとか、止めてほしいとか。そう言う拒絶する気持ちのことだよ」
天月は少し考え込む。
思い詰めたような氷の顔を俯けて、その眼は深海を見つめているようだった。
「わかりません」
少しして、天月はその冷たい眼を僕を向けた。
「子供の頃はその時の事を、感情に至るまで事細かく覚えてました。でも今となっては、それがあったのかすらもあやふやになってくるんです」
大人はそれを、脳の御作動だなんて野暮な言葉で片付ける。
きっとその消失は、友達と別れた夕暮れ時のように悲しいはずなのに。悲しさから眼を逸らしてしまう。
「君はきっと、忘れるのが怖いんだよ」
もちろん、僕も含めて。
「そうなのかもしれませんね。そしてきっと、それが優しさなのかもしれません」
カバンから取り出したビーフジャーキーを供えて、手を合わせる。
その眼を閉じた天月の横顔が、余りにも綺麗で、一瞬見惚れる。
眼を逸らしても、その横顔は焼き付いていた。
「さあ、これで今日の泥棒探しは終わりですね」
「まだ手を合わせただけだよ?」
「いいんです、今日は。なんとなく、このお墓を手懸かりとして、道具として扱いたくないんです」
ズルい。
唇を噛み締める。
こんな優しい言葉を何の抵抗もなく口に出せるなんて。
天月が優しくないのなら、一体誰が優しいって言うんだ。
「やっぱり、天月は優しいよ。君の感情がどうかじゃない。その優しさに触れる誰かは、きっと「優しい」と思うから」
「買い被りすぎです。それでも私は、優しさを形だけで終わらしたくなんてないです」
天月は綺麗だった。
どこまでも綺麗で、優しくて。
けれどどれだけ言葉を重ねても、それを認めてはくれないから。
歯噛みするこの感情の名前は、悔しさになるんだ。
「……君はもしかして、優しくないままが一番優しいのかもしれないね」
「間違ってますよ、そんなものが許される世界なんて」
それでも、と思う。
天月が持つ違和感は、間違いなく誰よりも綺麗で、そして脆い。
それでも、僕は彼女の違和感に賛同することはできない。
「何かを否定したいなら、一度はそれを認めなきゃ。じゃなきゃまた同じ目に遭うし、今度はそれに気付けない」
それじゃただの負け犬なんだ。
否定批判を繰り返すのは、可能性を潰す害悪だ。
「どれだけ正解を夢想しても、人は正解を不正解にするし、不正解を正解にする。誰かの正解は、違う誰かの不正解になるんだよ」
だからコミュニティに頼る人間は、他人と折り合いをつけるために折衷案を設ける。
本当の正解を貫くことができるのは、眼を閉じて耳を塞いだ、孤独な世界の人間だけなのかもしれない。
僕の言葉を聞いて、天月は空を見上げた。
「うーん、ままなりませんね……」
あんまりにもその横顔が綺麗だったから。
天月の悩みに気づくのに、少し時間がかかった。
あまりにも綺麗なその理想を抱いて、天月は傷付いていく。流した分だけ、世界が優しくなると信じて。
けれど、とも思う。
(誰かの苦しみの上になりたつ世界なんて、今の世界と何が変わるって言うんだ)
けれどそれを、口にすることはできなくて。
「気分転換、しようか」
下らない言葉でお茶を濁した。
何の解決にもならないことなんて、わかってる。
けれど、たまには。
「デート、行こう」
息抜きだって、必要だ。
「はい!」
半年前みたいな、天月の笑顔。
傾けた鞄の中に見えた手紙。
沸き起こる拒絶。
やっぱりこれは、おままごとなのかもしれない。
それから四両編成のローカル線に乗って、JRの駅に着いた。
デートはここから始まる。
そう考えるだけで、心臓が
「どこ行く?」
「どこでもいいですよ」
「どこでもいいって……」
考える。
彫像につけた背中はヤケドしそうなほど熱いのに、指先は緊張で冷たくなっていく。
まずい、何も思い浮かばない。
「じゃあ、歩く?」
「自転車あるのに?」
「じゃあ、都会出る?」
「まどろっこしいですよ」
天月が指を指す。
指の先には、僕が乗ってきた自転車が停めてある。
「あれに乗りましょう」
「え、でもあれ、一台しかないし」
「もー鈍ちんですね!」
力の抜けきった手が僕を叩いた。
「したことなかったでしょう? ニケツ」
本当に、ズルい。
僕も、天月も。
こうなることはわかってた。
心のどこかでは、それを望んだりもした。
でも僕らは、もう別れてしまったから。
「本当の」デートみたいに触れ合うには、勇気がいる。僕にはもう、そんな勇気はなかった。
「天月が、嫌じゃないのなら……」
「嫌なら言いませんよ」
熱い。
押し付けた背中が、焼けた地面が。
股がったサドルが、頬が。熱かった。
「失礼します」
固い声で背中に触れた天月の手だけが、少し冷たかった。
もしかしたら、天月は本当に違う世界からきたのかと知れないと、のぼせた頭で思った。
「しっかり、掴まってて」
「はい」
自転車を走らせる。
行く宛はない。
ただ気の赴くまま、火照った体が冷めるまで、僕たちは走り続けた。
「なんかワクワクしますね!」
「落としそうで怖いんだけど」
「落としたら化けて出ます」
火照りはいつまでも冷めない。
それならいっそ、冷めないままで。
また半年前までのように、このデートを続けていたい。
「どうか今だけは、もう少し、このままで……」
背中の天月に聞こえないように、大嫌いな神様に祈ってみる。
それは泥棒を探すこの夏と、少し似ていたのかもしれない。