僕が君を忘れるための、八月の泥棒。

 夏休みがやってくる。
 終業式は滞りなく進んで、無駄に長い校長の話にお尻が痛くなった。十一年目になっても、体育館の固い板の床には全く慣れない。
 通知表に赤の丸がなかったことだけが救いのような一日だった。おかげで天月との約束を、欠点者補修に奪われないで済む。

「二条さー、欠点何個あった?」

 終業式からの帰り道、国道沿いのコンビニに屯っていると、隣に立つ友崎が尋ねてきた。

「いや、まずないから、友崎は?」
「え、学年13位にあると思ってんの?」
「はいはい、ないない」

 適当な会話を続けつつ、安いソーダ味のアイスを食む。
 僕の分は、学年上位を取って気分のいい友崎の奢りだった。

「お前、夏休みどうすんだ?」

 茹だる夏の直射日光に項垂れていると、頭上から声が降ってくる。

「どうせ暇だろ? どっかいこーぜ」
「残念、ほとんど埋まってるよ」

 忘れん坊の泥棒を探すんだ、と言うと、友崎の怪訝な顔が見られた。

「忘れん坊の泥棒? お前が七不思議か」
「なんだよ」
「いや、珍しいなー、と思ってさ」

 行き交う車の流れを眺めながら、友崎がポツリと溢す。

「で、誰と?」
「んー、天月と」
「え、あいつ?」

 気だるく返した答えに、友崎の声音が沈む。
 アイスの僅かな残りが溢れて、アスファルトの上に黒いシミを描く。

「なあ、止めとけよ」
「なんで」
「なんでって……」

 零れ落ちた溜め息の中に、友崎の躊躇いが見えた。
 彼の躊躇は初めて見る。彼との付き合いはまだ二年目だけど、教室で過ごした時間で言えば、他の誰よりも長い。
 下手に会話をしない天月よりも、比較的何でも話せるのが友崎だった。

「知らねぇの? あいつ、殺害予告されてるって噂だぜ?」

 殺害予告。
 唐突に転び出た非日常的な単語の意味をなぞって、眺めて、またなぞる。

(天月が、殺される)

 いくら反芻しても、衝撃はない。現実味も、上手く仕事をしてくれない。

「それも七不思議?」
「ちっげーよ、マジなんだって。最近ホラ、連続強盗殺人だってあんじゃん!」

 友崎の振り回したソーダバーが飛び散って、剥き出しの太陽が威張る空に溶けていった。
 先端の丸い棒が現れて、そのアイスに隠れていた文字が、少しだけ顔を覗かせる。嫌な予感がした。

「なあ、巻き込まれるって、やめとけって。な?」

 心配そうに覗き込む友崎と目が合った。
 大丈夫だよ、と返して、一気にソーダバーを齧る。覗いた棒に、文字はない。

「それに、もしそれが本当なら、学校だって何かしらの反応するでしょ」

 行き交う車に反射する日光が煩わしい。
 こんな山田舎のどこにこれ程の車があるのかと、不思議に思う。

「してただろ、呼び出されてたじゃん、天月」
「それ、いつ?」
「一週間前、数学のテストが終わった後、すぐ。警察にも行ったらしいぜ」
「ふーん」

 期末テスト中日の数学は酷かった。解けた問題は半分しかなくて、そして正解していた問題は、それよりさらに少なかった。
 正直、天月どころではなかったのかもしれない。

「おい、二条」

 真っすぐな声音に、咎めるような色が混じった。

「お前さ、なんでそんな天月のこと避けんの?」
「避けてない」
「嘘だろ。全部」

 否定の声は、いよいよ大きくなった友崎の声にかき消される。
 結局友達も他人に過ぎないというのに、友崎の顔は悲しげに、悔しげに歪んでいた。

「お前、元カノのこと忘れたいから、全部上っ面だけで否定して、考えんの止めてんだろ。そうすりゃいつか、本当に嫌いになれるって信じて」
「うるさいな、お前に」

 何がわかるっていうんだ。
 激情のままに吐き出そうとした言葉が、胸に刺さった。
 誰も人の気持ちなんてわからない。それは僕も同じだった。
 天月の気持ちなんて、わかりっこない。

「……仮に天月の殺害予告が本当なら、僕はどうすればいいんだ」

 天月が殺害予告を出されて怯えている姿なんて、想像できない。
 少なくとも図書室で話した二日とも、彼女が怯えているようには見えなかった。

「話、聞いてやれよ。それができんの、二条だけじゃん」
「僕はそんな大層なもんじゃない」

 僕に何かできること。そんなことは端から無いに等しくて。でもそれが、悔しいことも確かで。
 僕はただ、アスファルトに引っ張られていくソーダバーを見下ろしている。半分溶けた塊が、落下と同時に崩れて溶けた。

「俺、もう止めねぇからな」

 食べ終わったアイスの棒を食んで、友崎がポツリと溢す。
 その言葉の真意を知りたかったけれど、黒く湿った棒に「あたり」と書いてあるのを見て、止めておいた。

「らっきー、あたりじゃん!」
「よかったね」
「ちょっと交換してくる!」

 一転、興奮した友崎が遠ざかる。
 友崎にはあって、僕にはないアイスの当り。僕にはあって、友崎にはない数Ⅱの赤点。

(交換してほしい……)

 ぼんやりと思いつつ、暑苦しく白んだ空を見上げた。
 青くて、白い、夏の空。
 蝉と太陽に飾られた空は無駄に明るくて、何もしていないのに罰を受けている気分になる。

「夏休み、かぁ……」

 明日から夏休みが始まる。
 皆が宿題の山と戦って、学校のアルバイト禁止令を破って、密かに小遣い稼ぎに奔走する、夏が。
 僕はこの夏、どこに行けるのだろう?
 天月と忘れん坊の泥棒を見付けて、彼女に送られた殺害予告を笑い飛ばせるようになるのだろうか。
 学校の宿題は、期限が過ぎても提出できる。
 けれどこの宿題は、この夏にしか見つけられない、大きな命題だった。

 *

 その日の夜は眠れなくて、意味もなく点けたテレビは、夜中になっても無機質なニュースを流していた。
 地域名産の桃が旬を迎えたとか、高速道路が予定より三年遅れで開通しただとか。
 そんな毒にも薬にもならない情報が、忙しなく画面を流れては、味気なく消えていく。
 けれど僕の頭の中では、天月の殺害予告がループしていて。
 誰かの幸せも不幸も、全く頭に入っては来なかった。
 天月への殺害予告の結末を、よく聞く話に当て嵌めるのなら。それはきっと、ただの一文で片付くのだろう。

《ストーカー被害女性、自宅で刺され死亡》

 そして翌日かその日の夕方、棒読みのニュースキャスターが言うんだ。

 ──人が死にました

 頭を振った。
 違う、そんなの、僕が望んだ結末じゃない。
 こんな意味のない妄想で徒に拒絶心を煽っても、泥棒の呪いに縛られ続けるだけだ。

『次のニュースです』

 僕の煩悶なんて気にも留めず、ニュースキャスターは原稿を進めていく。
 芸能人の結婚、不倫と離婚、株価の推移。そのどれもが薄い紙切れ一枚で冷たく語られる。

『今日未明、加賀美宮市の住宅街で、十代の女性が男に刃物で刺され死亡しました』

 そのニュースは、ほぼ呪いとも思えるタイミングで、僕の耳に穴をあけた。
 続報に耳を澄ます。
 事件が起こったのは、隣の市の外れ。
 被害者は天月じゃない。
 ホッと胸を撫で降ろす手が、鳩尾あたりで固まった。
 痛いほど握り締めた掌に、生きている証が叫びかける。

「最悪だ」

 誰かが理不尽に命を盗まれたと言うのに、僕はそれが天月じゃないと知って安心してしまった。
 誰かの不幸を「自分とは無関係」と切り捨ててしまった。

「こんな誰も救われないニュース……」

 こんな汚い感情、無くなってしまえばいい。
 嫌だ、要らない、と心底思った。

《無くなってしまえばいい》

 強く強く、胃がねじ切れそうなほど。それは丁度、十年前のあの日のように。
 僕が初めて抱いた拒絶心が、また僕の中で揺れ動く。

《おや、久しぶりだねぇ、坊っちゃん》

 泥棒の笑い声が、聞こえた気がした。
 明けて七月二十一日、夏休み初日。
 蝉は相変わらず盛り続けて、遠光台全体が蝉の海岸になったみたいに喧しい。
 夏休みの初日から「泥棒探し」を開始する僕たちは、JRの駅前に集合することになっていた。

『着?』

 ズボンのポケットに入れたスマホが震えた。

『着』

 簡素過ぎるメッセージを返して、白い空を見上げる。
 JRの駅前に設置された彫像が、夏空の下で茹っていた。
 駅前のこの彫像は、地元でもちょっとした待ち合わせスポットになっている。
 渋谷駅前のハチ公と同じだ。

『みーつけた』

 感嘆符のない、シンプルな文面。
 まるでどこかの物語に登場するサイコパスみたいだった。

「おはよーです、元カレ君」
「おはよう、天月」

 見上げた視線を、声のした方に下げる。
 久しぶりに見る天月の私服は、その白いブラウスが白い太陽に溶けているようだった。

「似あ──」

 似合ってるよ。
 その言葉は、喉に詰まって出てこなかった。
 恋人でも、恋人でなくても。その言葉を口にする事は、多分そんなに珍しいことじゃない。
 だとすれば、そう。これは単なる「気恥ずかしさ」だ。

「どうしました?」

 見つめる先で、天月が首を傾げる。
 そこで始めて「天月を見詰めている」と言うことに気付いて、慌てて目を逸らした。
 白い空も、茹る銅像も。何も頭に入ってこない。

「……いや、何もないよ」

 歯切れ悪く誤魔化して、日陰に足を踏み入れる。
 遅れて歩き出した天月が僕に並んだ。

「どこ行くんです?」
「とりあえず、駅に入ろう。暑くて溶けそうだ」
「さんせーです。泥棒より、クーラーが欲しいです」

 陰を縫うようにして駅の構内に入る。
 古びた田舎の駅には、湿気た空気が行き交う人波と一緒に舞っていて、お世辞にも涼しいとは言えない。
 
「元カレ君、何か当てないですか?」

 自販機のソーダを二人分買って、天月は僕に尋ねた。
 130円を渡そうとすると、自販機横のベンチに座った天月が「いらんです」とソーダを遠ざける。

「悪いよ」
「いえ、これは情報料ですよ」
「情報がなかったら?」
「私が二本飲みます」

 天月が器用にプルタブを起こす。
 ぷしゅっと炭酸の逃げる音。海の水泡みたいに弾ける、炭酸の飛沫。
 汗か炭酸か。一筋の雫が伝う、白く細い首筋。
 ふっくらとした胸の膨らみから腰の曲線を目線でなぞって、ハッと顔を上げる。
 天月が両手に缶を持って、首を傾げていた。

「情報、あります?」

 触れる距離に天月がいる。
 彼女の海みたいに綺麗な瞳には、僕だけが写っている。
 それだけで、心臓が狂ったように暴れだす。言葉が、喉につっかえる。

「あるには、ある。けど」
「けど?」
「あんまり役には立たなかったな」

 天月は無言になった。
 けれどその目の煌めきは、まるでほしいオモチャを見つけた子供みたいに、話の続きを急き促す。

「ノーベルだよ。その手の話は、ザハロフさんが詳しい」
「……アリョーナさんですか、あの人も悪趣味ですね」

 ザハロフ、或いはアリョーナと呼ばれる駄菓子屋は本名を明かさず、常に名乗る名前を人によって変える。
 ある時は世界大戦を引き起こした武器商人や、人肉を担保に金を貸した、強欲なユダヤの金貸し。
 またある時は、最新鋭の大砲で新興国を軍事大国に変えた大砲王。物語の序盤で主人公に殺される、高利貸のロシアの老婆。
 その全ては、人の人生を狂わす卑しい商人に関連していて、そのせいか彼女は、自分自身を「死の商人」と呼んでいる。

「あの人も、優しいと言えば優しいのでしょうね」
「君は優しいの範囲が広すぎるよ」

 天月が優しい世界を探すのは、たぶん言葉にするほど大それた事じゃない。
 きっとそれは、子供の頃に夢中になった「探検ごっこ」の延長に過ぎないのだろう。
 いつか僕らも大人になって、冒険心はどこかに置き去りにして。
 着実に進む時間の中で、周りの人達に合わせて歩き出す。それは丁度、この駅を行き交うスーツの群れみたいに。
 そんなことはきっと天月も知っていて、だからこそ泥棒を探すのだろう。
 それが彼女なりの、子供だった自分自身へのサヨナラの仕方なのかもしれない。

「やっぱり払うよ、130円」
「提案はしてもらったので、いいですよ」
「ザハロフさんの名前しか出してないよ」
「十分です」

 天月の反対を聞き流して、手渡されたサイダーに口をつける。
 強炭酸のはずのサイダーからは、もうすっかり炭酸も逃げ出していた。どれだけ振ったんだ、そしてなぜこっちを渡したんだ。

「じゃあ、これから僕がする質問への情報料、とでも思ってくれればいい」

 飲み口に口をつけたまま喋ると、中で反響した声が歪に歪んで聞こえた。
 それはまるで、僕が今から天月に投げる質問への、どうしようもない煩悶みたいだった。

「殺害予告されたって、本当?」

 改札の閉じる電子音が残響を引いて、僕たちの間に寝転がった。
 天月の顔には、無が印刷されていた。

「何で知ってるんです?」

 嘘だろ、と思った。
 これは質の悪いドッキリで、実は今も、友崎が柱の陰からカメラを回してるんじゃないか、としか思えなかった。
 だって、そうじゃないか。
 芸能人でもない、ただの女の子が、誰かの殺しの対象になるなんて信じられない。現実味が、ない。

「否定しないの?」
「ええ、だってほんとですもん」

 けれど天月は否定しなかった。
 大切な人の死を知らない僕にとって、死は余りにも遠い、蜃気楼みたいな存在。
 それを目の前の、ずっと近くにいた少女が一番死に近いかもしれないなんて、どうしても考えられない。

『話、聞いてやれよ。それができんの、二条だけじゃん』

 友崎の言葉を思い出す。
 言われた瞬間だって、一夜明けた今だって、僕が話を聞く意味は分からない。
 けれど、天月が僕の立場なら。きっと彼女は声をかけるのだろう。
 だから僕は、精一杯平静を装って声をかける。

「犯人に心当たりはないの?」
「ない、ですね」

 無表情に答えた天月は人形みたいで、まるで自分のことなんて興味がないようだった。

「最近何か変わったこととかは?」
「ないです」
「警察はなんて?」
「実害がないから人員は裂けない、って」

 警察も優しくないですねぇ、と缶に口付ける。
 天月の声音は、どこまでも他人事のような白々しさを滲ませていた。

「やっぱり、現実味、ないよ」
「わかってます」

 起伏のない表情を目の前の改札に向けて、天月は呟く。
 首肯しないその小さな頭からは、長い黒髪が滝のように流れ落ちている。

「でも、どうせ世界が優しくなったら、私はその世界にいられませんから」
「自殺でもするつもり?」
「あー、それもいいかもですね」

 内心の動揺を、隠すように発した冗談。
 けれどそれは、何の感情もない声に同意されてしまう。
 ふざけるな、と思った。それじゃあ初めから、天月は死ぬつもりなんじゃないか、と。

「勝手にしろよ」
「冗談ですよ」
「冗談でも、言っていいことと悪いことがあるよ」

 本当に言いたいこと。けれど、言えなかったこと。
 返す言葉が見つからないのなら、その全てはどうでもよくて。ただ居心地の悪い話を終わらせようと、僕は言葉を吐き捨てる。
 ベンチを立つと、止まっていた時間が動き出した気がした。
 人々は通勤通学に改札を抜け、蝉時雨はうるさいくらいに降り頻る。

「帰りますか?」

 まだベンチに座っていた天月が僕を見上げる。
 天窓から漏れた陽の光に反射して、薄い青の散った瞳は、水面のように煌めく。

「帰らないよ」

 天月が一度口をつけてから、ずっと振り続けていた缶が止まった。
 行き場を失って停滞した炭酸が、しゅわしゅわと弾けている。

「変わった人ですね。私みたいなのと一緒じゃ疲れるでしょ」
「一緒にいて疲れない人間なんていないよ」

 どうせ疲れるなら、退屈しない方がいいに決まってる。その分の徒労感も強いけれど、軽く心地よくすらある。
 友達と遊んだ日の夜みたいな、あの懐かしい徒労感と、少し似ているのかもしれない。

「結局は惰性で付き合える人が、僕は一番いいと思うよ」
「とんだひねくれやろーですね」

 笑いながら、天月が立ち上がる。
 「どこ行くの?」と聞くと、「秘密です」と返ってきた。

「せっかく駅に来てるんです、少し遠出しましょう」
「いいよ、行こうか」
「決まりです!」

 目を輝かせた彼女に促されるまま、改札を超えた。
 出張販売のたこ焼きやパン屋から漂う匂いに、行き交う人々のざわめきが混じる。
 急に遠出するのは気が引けるけど、止めたところで天月が素直に従うはずがない。
 女の子一人で遠くに行くのは、あまりにも危険だ。着いて行くしかない。

(殺害予告だって……)

 考えて、途中でやめた。
 そんな非現実的なこと、考えたって無駄だ。
 今は、泥棒探しに集中しよう。僕が探す女の子だって、まだ見つかっていないのだから。

 それから僕たちは、ローカル電車に飛び乗った。
 他愛もない会話でお茶を濁し、パーソナルスペースぎりぎりの距離で吊革を握る。
 発車と同時に揺れる電車に、跳ねる天月の体。
 時々触れる、肩と手の甲の滑らかな感触。

「クーラー、効いてないね」
「ね」

 触れ合えるほど近くて、けれどきっと、気持ちは届かないほど遠い。
 いっそ天月の事、嫌いだったら楽だったのに。そんなことを考えていると、前の席に座っていたサラリーマン達が降車していった。

「座りなよ」
「元カレ君は座らないんですか?」
「いいよ。僕はまだそんな歳じゃない」
「それ遠回しに私のこと「おばあさん」って言ってません?」

 いいから座ってください。
 天月の冷たい手が、僕の手を引いた。
 決して強くはないのに、けれどその手には逆らえなくて。引き寄せられるままに、天月の真横に腰を落とす。
 周囲の空気が揺れて、シャンプーが匂った。

「これで元カレ君もおじいさんですね」

 小さな顔が傾いて、長い髪が揺れて。僕の胸が、少し高鳴って。
 けれどそんなことは知らない夏の陽が、陽気に僕らを包み込む。

 ──ちょっと、近いよ

 遮光版に阻まれた陽光に、羞恥心と高揚感が燻し出される。
 窓外を流れる田園地帯と、抜けるように青い空。地元の協賛企業の宣伝音声が、計ったように一瞬止んだ。

「ちょっと、近い、ですかね……?」

 ヘヘヘ、と笑う天月の横顔が、赤く染まる。
 電車が路面の小さな凹凸に跳ねて、天月の小さな体も一緒に跳ねて。
 節電で灯りの落とされた車内で二人、触れる肩を強張らせる。

「離れ、ようか?」
「ううん」

 天月の小さな手が袖が引いて、僕を押し止めた。
 恐る恐る盗み見た横顔は伏せられいて、けれど黒髪から覗いたうなじすらも赤く染まりそうなほど、頬は紅潮している。

「このままが、いい、です……」

 天月の頭が、するりとしなだれかかる。
 鼓動が静かに、けれど大きく爆ぜた。天月を見ることも出来ず、体を動かすことも出来ず。
 ただ肩に乗った優しい重みを、抱えて潰さないよう、前だけを見続ける。

「天月……?」

 返事の代わりは、静かな寝息だった。
 触れ合う肩の温もりと、共鳴するちぐはぐな鼓動。小さな寝息が鼓膜を揺らして、心臓は馬鹿みたいに高鳴る。

「君が寝てしまったら、僕はどこで降りればいいんだ……」

 面映ゆい羞恥心を誤魔化して、そっと息をつく。
 この熱さは、きっと夏だけのせいじゃない。
 駅についた。
 陽気な太陽光と、調子外れのアナウンス。起きない天月の頭を軽くつついて、電車から駆け降りる。
 蒸れた夏の暑さに、汗が滲んだ。

「ここは……」

 見計らったように飛び起きた天月に、手を引かれて降りた駅。
 そこは各駅停車じゃないと止まらないような、小さく古びた駅だった。
 ホームのベンチも時刻表も、錆びたりくすんだりでよく読めない。
 ホーム前の三つしかない改札を抜ければ、そこはもう街道だった。

「加賀美宮、とーちゃくです」

 聞いた瞬間、胃が痛んだ。
 昨日の夜、握り締めた鳩尾が、ズキリと痛んだような気がした。

「加賀美宮って、昨日の」
「昨日? 何かあったんです?」
「何って、殺されたじゃないか、女の人が」
「いえ、知らないですけど……?」

 スマホを取り出して検索する。
 結果一覧に出てくるニュースはどれも似ていて。けれどあの夜に流れたニュースだけが、切り取られたみたいに消えていた。

「嘘だろ……」

 震える声は疑問符を忘れていた。
 忘れられない、ニュースが吐いた不協和音。キャスターが貼り付けた、無機質な表情。

『今日未明、加賀美宮の路上で、十代の女性が男に刃物で刺され死亡しました』

 薄っぺらな紙きれ一枚で片付けられる、理不尽な命の終わり。場違いな安堵。
 その全てを、僕は確かに覚えている。

「二条くん?」

 天月の声は、少し離れたところで聞こえた気がした。

《おや、久しぶりだねぇ、坊っちゃん》

 泥棒のしわがれた声を思い出した。
 あの声は幻聴じゃなくて、あの拒絶は現実で。
 なかったことになった殺人事件だけが、現実から盗まれていた。
 そして泥棒に呪われた僕は、「盗んだものが存在し続けた未来」を記憶する。

「大丈夫ですか?」
「ああ……、うん、何もなかったよ」

 咄嗟に誤魔化した。
 殺害予告だってあるんだ。天月が知らないのなら、不安を煽る必要はない。

「それで、何か当てがあるの?」
「はい、ちょっと忘れん坊の泥棒に盗まれたものを探そうかな~、と思いまして」

 誤魔化しに対する天月の言葉が、やけに引っかかった。
 その正体は探りを入れるほど難しいものでもなくて。彼女の言葉を聞けば、一瞬で見つけられた。

「天月、もしかして泥棒が盗んだものを覚えてるのか?」
「はい。覚えてなきゃ探せないでしょ?」

 シレッと事も無げに言い残して、天月は歩き出した。
 そういえば、彼女のイジメが止んだ日の昼。
 彼女は僕に自分がイジメられていたことを確認してきた。
 天月は「記憶持ち」なのだろうか?
 だとしたのなら、忘れん坊の泥棒は、何故僕を?

「行きますよ」
「ああ、うん」

 天月の声に思考は阻まれて、僕は顔を上げた。
 どこまでも続く青空と、休符を知らない蝉しぐれ。水につけたドライアイスみたいに、膨らんだ入道雲。
 古びたハイツ達の影が濡らすアスファルトに、僕は天月を追いかける。

「昔、この先で七夕竹が飾られていました」
「七夕竹?」 

 前を歩く天月が、振り返ることなく語る。
 七年前の七月七日。かつてこの街で盗まれた、小さな雨の事を。

「その日は七夕で、前日から気の早い子供たちが短冊を飾っていました」

 一車線しかない小道で、後ろから来た軽トラが僕らを追い抜いて行く。
 どこか呆けたような天月の顏は、七年も前の七夕を見つめていた。

「私は塾で行けなかったから、七夕本番の日に短冊を飾りに行くのが本当に楽しみで、その日は上の空だったことをよく覚えています」

 けれどその翌日、この街には雨が降った。織姫彦星の涙は短冊の文字を滲ませ、落ちた短冊は空き地の土に汚れてしまう。
 そうしてそれが当然だったかのように、その日その場所には誰も来なかった。
 天月、ただ一人を除いて。

「雨に濡れた短冊達の前で、空を見るのは私だけ。それが無性に悲しくて、帰ってお母さんに泣きついたんです」

 並んだ天月の顔はまっさらで、感情がなくて。
 右頬の泣きボクロだけが、小さな悲しみの思い出に泣いていた。
 大通りに出る。加賀美宮を縦断する加賀美街道には、車の音と蝉の合唱が雑多に混じって響いていた。

「でも、お母さんは覚えてませんでした。それどころか、雨も七夕のイベントも初めからなかったよ、って。次の日見に行ったら、短冊どころか竹もなくなっていました」

 街道を出てすぐの駐車場に入って、天月は足を止めた。

「ここです、ここに七夕の竹が飾られていました」

 コンビニに備わった駐車場に、かつて七夕竹が飾られていた名残はない。
 本当に青竹があって、けれど今はもう舗装されてしまったのが。それとも本当に竹なんてなかったのか。
 今はただ、黒いアスファルトだけが、その上に白線を乗せて横たわっている。

「ね、なにもないでしょ?」
「そうだね」
「本当に、あったんですよ」
「うん、わかってるよ」

 どれだけ頷いても、そこには何もない。
 天月と、泥棒だけが大事に仕舞った、分岐する未来の一部分。
 とっくの昔に盗まれ忘れられてしまったその苦しみを、僕はただ共感することしかできない。

「今は何もない、けど。泥棒を見付ければきっと返ってきます。だから、優しい世界が返ってきた時は」

 天月が、振り返る。
 深い海を映した瞳が、夏の陽を返して煌めく。僕を、覗き込む。

「──私と一緒に、短冊を飾りませんか?」

 それはきっと、ただの七夕の約束。
 けれど今、この瞬間だけは、何かもっと別の大切な意味を持つようなものに感じられた。

「……次の七夕、来年だぞ」
「鬼が笑っちゃいますか?」

 僕の顔を覗き込むと、天月は「がっはっは」と鬼の真似をして笑った。
 蝉の時雨も、往来の喧騒も。全部がどこか遠いもののように聞こえる、この一瞬。
 これが永遠に続けばいいと思う自分と、早く少女を探せと焦る自分。二人が鬩ぎ合う中で僕はそれでも笑っていた。

「珍しいですね、元カレ君がそんなに笑うとは」

 本当に珍しいものでも見るみたいに、天月が目を丸める。

「そりゃ僕だって笑うよ。感情は豊かな方だからね」
「相変わらず嘘つきヤローですね」

 また、がっはっはと笑う。
 通りすがりのサラリーマンが、驚いたように僕らを振り返った。

「それで、何かつかめた?」
「残念ながら、核心には」

 唸りながら、天月は頭を振った。
 当たり前だ。
 そんな簡単に泥棒の手掛かりが掴めるのなら、僕だってとっくに少女を見付けている。
 世界だって、とっくに優しくなってるはずだ。

「もう、思い出せる事はない?」
「うーん、どうでしょうか……」

 眉間に小さく寄せたシワをトントンと叩いて、天月は首を傾げる。
 七年前の記憶はまだ風化しなくても、細かな所はもう欠けてしまっているのかもしれない。
 けれどそれを思い出してもらわないと、この先の行動が起こしづらくなる。

「やっぱり、もう覚えてない?」
「いえ、一つだけ、思い出せそうなんですけどね……」

 竹が立っていた地面を見つめる天月の顔は、少し苦い。

「思い出しました。あの日書いて、でも飾れず仕舞いだった短冊」
「何て書いてあったの?」
「役に立ちますかね?」

 天月の顏は不安げで、何かに遠慮しているように見える。
 それでも心の中までは見えなくて。今のこの一瞬だけでも他人の心が読めたら、と思わずにはいられない。我ながら女々しいことだ。

「可能性は十分あるよ」

 不安げだった天月の顔がパッと綻ぶ。
 釣られて綻びそうになった頬を、奥歯で噛んで誤魔化した。

「あんまり意味なかったと思うんですけどね?」

 小さくはにかみながら、天月は語る。
 雨に七夕が流れた翌日に無くしてしまったと言う、短冊の願いを。

「『優しくなりますように』って、書いてあったんです」

 「意味ないでしょう?」と天月は恥ずかしそうに笑った。
 確かに彼女の振る舞いは優しくないけど、例え模倣でも彼女が誰かを助けるのは、彼女自身の本質的な優しさに違いない。
 だって彼女は、自分の保身では人を助けないのだから。

「……ほんとだ、意味ないや」

 そんな言葉、当然口に出せなくて。誤魔化しを求める口は、冷やかしを吐いていた。
 けれど心の中では、ひょっとして天月こそが優しいんじゃないのかな、と考え始めている。
 「優しい人ならこうする」と言う天月の行動理念は、他人からの評価を気にする偽善とは正反対。
 使命感と言う呪いで縛られた分、優しさの純度は誰よりも高い。

「私、優しくないですもんねぇ。ハッハハー!」

 反り返らんばかりに高笑う天月に、その自覚はない。
 いつか自覚してほしい、と空を見上げる。笑った分上がった体温に、夏の陽が追撃を掛けてくる。

「これから、どうしましょうか?」

 ひとしきり笑った後、天月は額の汗を拭って尋ねた。

「盗まれたものを全部巡ったらイベント発生、みたいになりませんかね?」
「どうだろう? 世界は優しくないからね」
「むむっ、それもそうでした」

 難しい顔で天月は唸る。
 実際、僕も半分はお手上げの状態だった。一人が二人に増えたぐらいじゃ、所謂都市伝説の存在を探すのは難しいままだ。
 僕達二人が揃って思春期症候群である、と考えた方がまだ納得もしやすい。

「やっぱり、ザハロフさんに聞いてみるのがいいのでしょうか?」

 確かに、駄菓子屋ザハロフは何でも知っている。多分、泥棒のことも。
 彼女に助言を受けることが一番の近道であることは、想像に難くない。

「もう必要ないよ。心配かけたくないんだろう? 他に当てもないしさ」
「じゃあ、どうするんです?」

 並んだ天月が首を傾げた。
 するりと落ちた黒髪から覗く彼女の首筋は、刺すような夏の陽に折れてしまいそうなほど白く、細い。

「明日からも歩こうか。天月の記憶を辿って」
「え、ちょ、ちょっと二条君?」

 軽く背を押そうと差し出した手を引っ込めて、僕は竹があった場所に背を向けた。
 慌てて天月がついてくる。

「いいんですか? 今年は猛暑ですよ?」
「ああ、らしいね」

 その予報はニュースで聞いた。
 なんでも近年にない猛暑に見舞われるようで、気象予報士は芝居がかった調子で注意を呼び掛けていた。
 けれど毎年のように繰り返される猛暑予報に、驚くことも忘れてしまったから、今年くらいは外に出てもいい。

「もう、知りませんからねー! 歩き疲れて倒れても、ポカリ買ってあげませんからっ!」

 むくれた頬の天月が横に並ぶ。
 楽しいけれど、やっぱりまだ半分はお手上げのままだ。一人が二人に増えたぐらいじゃ、都市伝説の存在には辿り着けない。
 けれど三人になったらどうだろうか。答えはもう、近くにあるのかも知れない。あとは暗号化されたその答えを解くだけ。
 きっとこの夏の記憶を辿る旅は、その鍵を拾って周る旅になるだろう。

(見付けられるといいな)

 出来るだけ無感情を装って、七年前に盗まれた竹を見つめる。
 今は無いはずの竹が、雨の中に佇んでいるように見えて、僕は目を瞑った。

 *

 茜に浮かぶ落日を、群青色が包み込む。
 置き去りにされた蝉時雨が、忘れられた公園のブランコみたいに、夏空に揺らめては消えていく。
 一日の予定をわずか一時間もせずに終えた僕らは、山上駅から離れた河川敷を歩いていた。
 肌を撫でる風が気持ちいい。
 クーラーの送風より、川辺を流れる風の方が柔らかくて、自然な感じがする。田舎なんていい所はないと思っているけれど、この山沿いの川だけは別だ。

「はぁ~風、気持ちいいですねー!」
「ほんとだ。クーラーなんていらないや」

 季節外れの木枯らしみたいな風に髪を取られながら、天月ははしゃいでいた。
 大きな川の下流に沈む斜陽が、光芒を引いて川面を朱に染め上げる。

「まさかあんなにも早く終わっちゃうとは」
「わかってたよね?」

 「わかってましたー」と振り返り笑う天月の後ろで、水面に光彩が反射した。
 ただの水と光と太陽。ありふれたもののはずなのに、こんなにも綺麗だと思うのは何故だろうか?
 こんなにも完成された世界の中から、泥棒は何故盗んでいってしまうのだろう?
 思い返せば、泥棒はいつだって自分の欲では盗まなかった。いつだって、誰かが拒絶したものを盗んでいった。

(泥棒は、周囲に求められて盗むのか……?)

 あまりにも現実離れしていて、けれど今までの経験からすると、不思議とその仮説が一番しっくりくる。

「なあ、天月。雨で流れた七夕の日のこと、どう思った?」
「え? 七夕の日、ですか?」

 天月が目を丸くする。
 海を映した瞳は、逆光の中で深い記憶の底を見つめていた。

「さあ、あまり覚えてませんけど……」
「何でもいいよ。そこも手掛かりになるかもしれない」

 「さり気なくハードル上げないでくださいよ~」なんてぼやきつつ、天月はこめかみを抑えて悩み込む。
 風切り音と、蝉時雨。遠くを往く車のざわめきが、遠雷みたいに虚ろに悲し気に響いていた。

「雨がなかったらあったのかなぁ~、とかですかね?」

 よく思い出せないのか、天月は誤魔化すように笑って髪を撫でた。
 砂漠の小さな砂が崖を滑るように、天月の黒髪はサラサラと彼女の手を零れていく。

「そう、やっぱり……」

 やっぱり泥棒は、私利私欲のためには盗まない。
 誰かがいらないと願ったものを、代わりに盗んでいくんだ。
 忘れん坊の泥棒と言う大きすぎる存在の真実にたどり着くには、足りないピースはまだ山とあるのかもしれない。
 けれど初日の戦果としては上々、と考えていいと思う。

「明日は、どこ行こうか」

 隣に並んだ天月にそっと尋ねる。
 まだまだ距離は遠い。あの日小さなキスをした帰り道よりも、ずっと。

「そうですね。また、考えておきます」

 そっと囁くような声が鼓膜を揺すった。
 小さく揺れる綺麗な声を「鈴の音のよう」と言ったのは、一体誰なのだろうか。
 それほどの語彙力があったなら、きっと僕が探すこの感情の名前も簡単に見つけられるのだろう。
 終わった恋が付けた、霜焼けのような心の痛みの名も。恋人でもなく親友でもない、この宙ぶらりんな関係の名前も。

「ねえ、天月」
「はい、なんでしょう?」

 天月の顏は、もう見ることが出来ない。
 水面に溶けていく夕陽の名残が、眩しくて、切なくて。視界を埋め尽くす緋色に、僕はそっと目を閉じる。

「忘れん坊の泥棒が見つかって、僕らの探し物が見つかったらさ」

 そこから先の言葉は、何も出なかった。
 もしかしたら、それが答えだったのかもしれない。初めから答えなんてなかったみたいに欠落した言葉を、それでも僕は続けよう。

「──今度は、海に行こうか」

 きっとそれも、間違いではないのかもしれない。けれど間違ってないだけで、決して正解ではない。
 そんなことは、僕も天月も知っていて。それでも天月の声は、笑っていた。

「はいっ、喜んで」

 微笑み合った僕らの間を、夕陽の光華が邪魔をする。
 二人の影法師は、合わさることなく木陰の中に消えていた。

 *

 家に帰っても忘れん坊の泥棒の事を考えていた。
 初日で分かったことは一つ。
 忘れん坊の泥棒は誰かが要らないと心から願ったものを盗んでいく、と言うことだ。
 けれどそれだけでは疑問が残る。
 本当に忘れん坊の泥棒が、天月の為に七夕を盗んだとして。なぜ雨だけを盗まず、七夕の催しそのものを盗んでしまったのか? あるいは、なぜ七夕の催しはなくなってしまったのか?
 答えは未だ謎の中。むしろ辻褄が合わない分、謎は深まっている。

「うーん……」

 初日に発見があったことを喜ぶべきか、深まった謎に頭を抱えるべきか。
 まだ泥棒に遠い僕は、シワのいったベッドに倒れ込んだ。

『あの人も、優しいと言えば優しいのでしょうね』

 午前中に天月が使った言葉を思い出す。
 「優しさ」を模索する天月は、優しさの範囲が広すぎる。
 あの不気味な道化師が優しいのなら、きっとどんな悪魔だって天使になれる。
 悪魔は時に聖書を口ずさみ、天使の顔をしてやって来ると言う。
 きっとどんな悪人だって、一欠片でも優しさがあれば、それは天月にとっては「優しい人」になるのだろう。

(危ないな)

 ベッドに沈み込んだ意識の中で、少しだけ天月のことを心配した。
 僕は優しくない。
 きっと全部、おままごとの延長だった。
 天月との泥棒探しも、恋愛も。
 役割に合わせて踊る、ミュージカルみたい。
 幕引きの後には、何も残らない。
 ただ、なんとなく。それでもいいと思った。
 否定することも拒絶することもなく、僕はこの奇妙な夏休みを、間違いなく楽しんでいたのだから。


 天気予報じゃ今夜は新月らしい。
 眠れなくて、夜明け前のベランダで開いたスマホは、降水確率と一緒に月の形まで表示していた。

「新月の夜に会えば、嫌いなものを盗んでもらえる……」

 忘れん坊の泥棒と、それに纏わる噂話。
 きっとその大半は根も葉もない噂で、高校生たちの暇潰しの産物だろう。
 それでもいくつか本当のこともあるから、何を信じていいのか、本当の所はわからない。
 何かにすがりたくて、背伸びして買ったタバコを咥えた。
 マッチに灯した火は上手く火口に移らない。
 それでも何度かマッチをダメにして、ようやく火が着いた。

 煙が一束、歪な螺旋を描いて、暗い空に消えていく。
 呼吸に合わせて光る火口は、一足早い朝日のよう。
 その輝きすらも、煙が隠していく。

(あれ……?)

 タバコって、こんなにも煙出るものだったっけ?
 前に一度だけ、友崎のを一口もらったことがある。
 その時はこんな風に、視界が真っ白になるなんてなかった。

「あ……」

 視界がブレる。
 声は意味を捨てて、音だけになっていた。
 背中から地面に吸い込まれていきそうな、膝から削れていきそうな。そんな感覚。
 ヤニクラか、いや違う。
 ──幻覚が、見える。

『詩乃、迎えにきたよ』

 雨前の冷たい風の中。
 天月の前には、一人の男が立っている。
 男の手にはナイフ。綺麗な瞳から、涙が滲む。
 一際強い風が吹いた。
 不意に、男が天月に近付く。

『一緒になろ?』

 天月のお腹に、ナイフが突き刺さった。
 どす黒い赤が、天月の白い服を染め上げる。
 波が砂浜を削るみたいに、少しずつ。

「あ、あぁ……っ?」

 なんだ、これ。
 声にならない。
 手すりに寄りかかる。
 ベランダの軋む音がして、少し揺れる。

 天月が、死んだ?
 違う、あれは雨の日の出来事だ。今日はまだ暗いけど、雲は見えない。
 じゃあ、

「これが、泥棒の呪い……?」

 時折思い出したように走る、遠くのトラックの音。
 遠雷のようなそれが声を掻き消して、山間に光が差し込む。
 朝がやって来た。
 きっとその感情の名前は、絶望だった。

 *

 国道を一息に駆け降りると、海が見えた。
 夏見浜。人口減少著しい田舎の、唯一の観光スポットだ。
 目的の駅はそのずっと手前にある。

「元カレくん」

 彫像の下で待っていた天月が、僕を見つけて駆け寄ってきた。
 薄い空色の半袖カッターと、紺のワイドデニム。
 よかった、あの幻覚とは違う服装だ。

(やっぱり、あれは……)

 幻覚なのだろうか?
 それとも、夢なのだろうか?
 考えたけれど、答えは出なくて。
 後味の悪さとおかしな危機感を押し殺して、「おはよう」の言葉を絞り出した。

 夏休み二日目。
 連日のように続く猛暑に真っ向から逆らって、僕たちはまた泥棒を探す。

「おっせーですよ、次からジュース奢りです!」
「ごめん、でも待ち合わせはまだのはずだよ」
「あっ」
「いつから待ってたの?」
「二十分くらい前ですかね?」
「早く着きすぎたよ」

 この炎天下で、二十分ずっと立っていたのか。
 熱中症にかかられたら堪らない。

「次からは、僕より遅く来てもいいから、もうちょっと遅く来て」

 心配だったから、その言葉は思ったより固いままで口を出た。

「だって楽しみだったんですもん……」
「……楽しみでもだよ」

 ふくれ面から目を反らす。
 なぜだろう?
 なぜだか、今の彼女をまっすぐ見ることが出来ない。
 心臓が真空パックで圧縮されたみたいに、ひどく痛んだ。

「じゃ、行こうか」

 少しだけ混乱しているから、吐き出す言葉は味気ない。
 だから、なのかもしれない。

「待ってください」

 不満げな声が、僕を呼び止めた。

「また今日も、時間が余りますよね?」
「まあ、そうだろうけど」
「じゃあ、遊びませんか?」
「いやそれって」

 言いかけて、でも言えなくて。
 どこまでも青い想像を持て余して、天月を見つめる。
 空色のカッター、紺のワイドデニム。湿った肌。
 珍しい青の眼もまた、僕を見つめていた。

「いいじゃないですか、デートでも」
「本気でいってる? それ」
「本気じゃなきゃ、言いませんよ」

 ああ、そうだ。
 この子はどこまでも優しくて、誠実であろうと足掻いて。その度に傷付いて。
 きっと彼女は、誰よりも誠実なんだ。

「いいよ、じゃあデートしてくれる?」
「はいっ」

 そこまで言うと、天月は初めて笑った。

「今日はお墓を探しにいきます」
「お墓?」

 改札を潜りながら訪ね返す。
 改札を通ると、間抜けた電子音と一緒に通学定期が排出された。

「はい。十年前、忘れん坊の泥棒に盗まれた、野良犬の墓標です」

 十年前。
 天月の通学路に一匹の子犬が死んでいた。
 車に轢かれたのだろう。すぐそばの国道には、何台もの車が行き交っていた。

「周りには何人も人間が行き交ってるのに、その子犬は親すらいなくて。ただ独りぼっちで」

 それが悲しくて、彼女は子犬を国道脇の土に埋めた。

 ──のらいぬのおはか

 手頃な石にマジックでそう書いた墓は、次の日上級生に割られていた。

「涙は出ませんでした」

 そのお墓は二日後、完全な姿で元に戻っていたから。
 滑り込んできた電車に乗って、天月は頬をかく。
 その姿が、どこか混乱しているように見えて、僕も少し混乱する。
 天月詩乃の混乱は、彼女へのイジメがなくなった日以降見ていなかったから。

「だから、もう一度見てみたいんです。それで、今度はちゃんとお供え物もしてあげたい」
「優しい人なら、そうすると思うから?」

 きっとその言葉は余計だった。
 それでも彼女は怒ることもなく、ただまっすぐに僕を見つめて頷いた。

「そうです」
「それを世間じゃ優しいって言うんだよ」
「こんな利己的な感情が優しさなら、私は優しくなくていいです」

 まっすぐな眼だった。
 まっすぐに深海を覗いているような、けれどどこか透明な眼だった。

(やっぱり、天月は天月のままだ)

 変わらない拘りや生き様を、きっと高潔と言う。
 その綺麗で不器用な生き様に、恋愛感情とは無関係なところで。僕は天月に惚れ込んでいる。
 安心したところで、駅についた。
 天月の住む街、頼光台だ。
 目的の墓は、国道を逸れた雑草に埋もれていた。

「これがそう?」
「はい」

 頷く天月の表情は固い。
 それはトラウマを見つめると言うよりは、舞台に上がる直前の新人役者に近い緊張だった。

「割れてないよ、石」
「はい、泥棒が盗んだんです」

 天月が埋葬した子犬の墓石は苔むして、雑草の中に埋もれていた。
 説明されなければ、それが墓であるかわからないほど、自然の一部として機能しているように見える。
 けれど、疑問が残る。

「天月は墓石が割られた時、嫌だと思った?」

 壊された墓標が盗まれたと言うのなら、それを拒絶した誰かがいるはずだ。
 泥棒に頼って、代償として呪われた僕のように。きっと誰かがこの墓石の「ヒビ」を拒絶した。

「どういう意味ですか?」
「悲しいとか、止めてほしいとか。そう言う拒絶する気持ちのことだよ」

 天月は少し考え込む。
 思い詰めたような氷の顔を俯けて、その眼は深海を見つめているようだった。

「わかりません」

 少しして、天月はその冷たい眼を僕を向けた。
 
「子供の頃はその時の事を、感情に至るまで事細かく覚えてました。でも今となっては、それがあったのかすらもあやふやになってくるんです」

 大人はそれを、脳の御作動だなんて野暮な言葉で片付ける。
 きっとその消失は、友達と別れた夕暮れ時のように悲しいはずなのに。悲しさから眼を逸らしてしまう。

「君はきっと、忘れるのが怖いんだよ」

 もちろん、僕も含めて。

「そうなのかもしれませんね。そしてきっと、それが優しさなのかもしれません」

 カバンから取り出したビーフジャーキーを供えて、手を合わせる。
 その眼を閉じた天月の横顔が、余りにも綺麗で、一瞬見惚れる。
 眼を逸らしても、その横顔は焼き付いていた。

「さあ、これで今日の泥棒探しは終わりですね」
「まだ手を合わせただけだよ?」
「いいんです、今日は。なんとなく、このお墓を手懸かりとして、道具として扱いたくないんです」

 ズルい。
 唇を噛み締める。
 こんな優しい言葉を何の抵抗もなく口に出せるなんて。
 天月が優しくないのなら、一体誰が優しいって言うんだ。

「やっぱり、天月は優しいよ。君の感情がどうかじゃない。その優しさに触れる誰かは、きっと「優しい」と思うから」
「買い被りすぎです。それでも私は、優しさを形だけで終わらしたくなんてないです」

 天月は綺麗だった。
 どこまでも綺麗で、優しくて。
 けれどどれだけ言葉を重ねても、それを認めてはくれないから。
 歯噛みするこの感情の名前は、悔しさになるんだ。

「……君はもしかして、優しくないままが一番優しいのかもしれないね」
「間違ってますよ、そんなものが許される世界なんて」

 それでも、と思う。
 天月が持つ違和感は、間違いなく誰よりも綺麗で、そして脆い。
 それでも、僕は彼女の違和感に賛同することはできない。

「何かを否定したいなら、一度はそれを認めなきゃ。じゃなきゃまた同じ目に遭うし、今度はそれに気付けない」

 それじゃただの負け犬なんだ。
 否定批判を繰り返すのは、可能性を潰す害悪だ。

「どれだけ正解を夢想しても、人は正解を不正解にするし、不正解を正解にする。誰かの正解は、違う誰かの不正解になるんだよ」

 だからコミュニティに頼る人間は、他人と折り合いをつけるために折衷案を設ける。
 本当の正解を貫くことができるのは、眼を閉じて耳を塞いだ、孤独な世界の人間だけなのかもしれない。
 僕の言葉を聞いて、天月は空を見上げた。

「うーん、ままなりませんね……」

 あんまりにもその横顔が綺麗だったから。
 天月の悩みに気づくのに、少し時間がかかった。
 あまりにも綺麗なその理想を抱いて、天月は傷付いていく。流した分だけ、世界が優しくなると信じて。
 けれど、とも思う。

(誰かの苦しみの上になりたつ世界なんて、今の世界と何が変わるって言うんだ)

 けれどそれを、口にすることはできなくて。

「気分転換、しようか」

 下らない言葉でお茶を濁した。
 何の解決にもならないことなんて、わかってる。
 けれど、たまには。

「デート、行こう」

 息抜きだって、必要だ。

「はい!」

 半年前みたいな、天月の笑顔。
 傾けた鞄の中に見えた手紙。
 沸き起こる拒絶。
 やっぱりこれは、おままごとなのかもしれない。

 それから四両編成のローカル線に乗って、JRの駅に着いた。
 デートはここから始まる。
 そう考えるだけで、心臓が

「どこ行く?」
「どこでもいいですよ」
「どこでもいいって……」

 考える。
 彫像につけた背中はヤケドしそうなほど熱いのに、指先は緊張で冷たくなっていく。
 まずい、何も思い浮かばない。

「じゃあ、歩く?」
「自転車あるのに?」
「じゃあ、都会出る?」
「まどろっこしいですよ」

 天月が指を指す。
 指の先には、僕が乗ってきた自転車が停めてある。

「あれに乗りましょう」
「え、でもあれ、一台しかないし」
「もー鈍ちんですね!」

 力の抜けきった手が僕を叩いた。

「したことなかったでしょう? ニケツ」

 本当に、ズルい。
 僕も、天月も。
 こうなることはわかってた。
 心のどこかでは、それを望んだりもした。
 でも僕らは、もう別れてしまったから。
 「本当の」デートみたいに触れ合うには、勇気がいる。僕にはもう、そんな勇気はなかった。

「天月が、嫌じゃないのなら……」
「嫌なら言いませんよ」

 熱い。
 押し付けた背中が、焼けた地面が。
 股がったサドルが、頬が。熱かった。

「失礼します」

 固い声で背中に触れた天月の手だけが、少し冷たかった。
 もしかしたら、天月は本当に違う世界からきたのかと知れないと、のぼせた頭で思った。

「しっかり、掴まってて」
「はい」

 自転車を走らせる。
 行く宛はない。
 ただ気の赴くまま、火照った体が冷めるまで、僕たちは走り続けた。

「なんかワクワクしますね!」
「落としそうで怖いんだけど」
「落としたら化けて出ます」

 火照りはいつまでも冷めない。
 それならいっそ、冷めないままで。
 また半年前までのように、このデートを続けていたい。

「どうか今だけは、もう少し、このままで……」

 背中の天月に聞こえないように、大嫌いな神様に祈ってみる。
 それは泥棒を探すこの夏と、少し似ていたのかもしれない。
 八月中日の夏空を、入道雲が泳ぐ。
 気晴らしに、雲の形に名前を付けようとした。
 鯨も、ライオンも、バナナも、スニーカーも。思い浮かぶそのどれもがしっくり来ない。
 僕は雲を「雲」以外の何かに例えることが、出来なくなっていた。

「それで、今日はどこに行くの?」

 集合場所の、彫像前。
 夏空から目を離して、隣に並ぶ天月に問いかける。
 ボーダーのトップスに、薄手のデニムジャケット。ベージュのスカートの清楚な装い。
 彼女が手にするサイダーは、集合時刻に遅刻した僕の奢りだ。

「うぺっ……すみません」

 げっぷを飲み込んで、天月が顔を伏せる。

「うーん、今のところ手掛かりも掴めてませんからねぇ」

 唸りながら、天月はクルクルと毛先を弄ぶ。
 八月に入ってしばらく経った。天月との泥棒探しは、まだ続いている。
 彼女の言う通り、未だに忘れん坊の泥棒の手掛かりは掴めていない。
 七夕竹、消えたオムライスのピーマン、壊された野良犬の墓標。
 どれを探しても、何も見つからなかった。
 七夕竹は消えて失せ、オムライスのピーマンは探す事もなく。
 かつて天月が埋葬し、次の日上級生に割られた野良犬の墓石は、未だ割れずに雑草に埋もれていた。
 けれどそのどれにも、泥棒の痕跡は見付からない。
 きっと中には、時間が経って曖昧になった記憶も混ざっているのだろう。

「じゃあ、今日一日は元カレ君くんが私を連れ回してください」
「連れ回すったって……」

 何故か輝きを増した天月の目に、引き気味の僕が映る。
 連れ回すと言っても、目的地がなかなか思い浮かばない。

「テキトーな所でいいですよ」
「えっ、いや、でもそれじゃまるで」

 ──まるでデートみたいじゃないか。
 喉を駆け上がる言葉を噛み殺して、口をつぐむ。
 天月と恋人だった時間よりも、天月を嫌いになろうとした時間の方が長い。
 それでも彼女を嫌いになれず、忘れられも出来なかった。
 つまり僕は、まだ天月の事が好きなのだろう。
 けれどそれが「純粋な好意」であるかは、わからない。
 僕は天月本人にではなく、天月の持つ冷たい優しさに恋をしていたのだから。

「……じゃあ、農園に行こうか」

 一つだけ思い浮かぶ所があった。
 僕が初めて忘れん坊の泥棒を頼った、あの芋掘り農園だ。季節毎に旬の果物や野菜を収穫できるらしい。

「農園?」
「ああ、今の時期は桃とかスイカとかが採れるんだ」

 首をかしげる天月に説明する。
 僕が幼い頃にそこで盗まれた、芋掘りの喧嘩は伏せておいた。
 忘れん坊の泥棒に盗まれた思い出は、軽いトラウマだったから。

「桃いいですね、行きましょう!」

 天月が笑って、僕の袖を掴む。
 そのまま歩き出した天月に、僕の体は吸い寄せられた。
 改札を潜る。通学定期が間抜けな音と共に排出された。

 天月への気持ちは好意には違いないけれど、それが恋であるかはわからない。
 僕は彼女の白すぎる優しさに、恋をしていたのだから。
 これはきっと、朱に染めた黒。朱色の恋に見せかけた、黒い劣等感。

 ──朱染めの黒は恋なのか?

 それはきっと、いや確実に、今の僕ではわからない。
 けれど、だからと言って初めから諦めたくなかった。

 *

 いつもとは逆の方向に行く電車に乗って、数年振りに思い出の農園に着いた。
 最後に来たのは、僕だけで泥棒を探した三年前の夏休み。それ以来は一切来ていない。

「いらっしゃー、い、ま……マジか」

 出迎えてくれたのは記憶にあるお爺さんではなくて、見覚えのある顔だった。

「おいおい、確かにどっかいこーぜっつったけどよぉ」

 「今仕事中だからさ、な……?」なんてセリフを吐いて、友崎がイタズラっぽく笑う。
 それは、仕事中にきた彼女からの電話への対応みたいにいじらしくて、甘酸っぱくて。そして少し、イラっとした。

「別に友崎目当てじゃないから、農場に遊びに来ただけ」

 言い捨てて、周囲を見渡した。
 久しぶりに来た農園は、昔よりも少し狭く見える。きっと背が伸びたのだろう。
 成長に連れて、世界はどんどん狭く苦しくなっていくのだから。

「ひどいわ二条クン、私の事は遊びだったのね!?」
「すまない、君とはおままごとだと思っていたよ」

 適当に合わせて、二人分の金額を支払う。
 財布を出そうとした天月の手は、僕の見栄が抑えていた。

「嘘つき弱虫のサイテー元カレ君やろー、ですね」
「天月もなんで信じてるのさ」

 学生特有の意味もない話に花を咲かせながら、様々な果実が鈴生る畑を通っていく。
 すもも、なし、スイカに、ブドウ。目的の桃畑に着くまでに、友崎は雑談を切り上げて説明してくれた。
 やけに慣れてるなと思ったら、どうやらこの農園の経営者が友崎の叔父らしい。
 だから長期休暇の間は、ここでアルバイトをしているそうだ。
 バイト禁止の校則も、身内の手伝いと言う名目ならすり抜けられる。なるほどどうして、理想的な環境だった。

「こんな人、私たちクラスにいたんですね」

 はえー、と天月は感嘆の声を漏らす。

「え、知らなかったの?」
「ひどくない……?」

 素直に驚く僕と、本当に傷付いた様子の友崎。
 ちぐはぐの反応に、天月はキョトンと首を傾げる。

「? すみません、接点のない人を覚えるのは苦手で」

 当たり前のことのように言った天月を見て、僕はようやく思い出す。
 天月は決して一個人に優しい訳じゃない。「優しい人間ならばどうするか」と言う想像のもとに他人に優しくし、用が済めば見向きもしない。
 冷たくて残酷で、不器用な優しさに、彼女は縛られていたんだ。

「諦めろよ友崎、接点がないなら仕方ない」
「えぇ、めっちゃショック……」

 わかりやすく肩を落として、友崎は嘆息した。
 自分が覚えてるのに相手は覚えていない。クラス全員の顔を覚えている友崎にとってそれは、悲しい事なのだろう。
 
「後でコーラ奢るよ。だから桃狩りの説明お願い」
「おうよっ」

 桃狩りの説明を促すと友崎の顏に元の明度が戻った。
 切り替えの早さは流石アルバイターと言うところだったけど、たぶん半分はコーラのお陰なのだろう。

「よーし、パパ頑張って説明しちゃうぞー」
「16歳で、子供が……?」
「天月、今のは無視」

 難しい顔をする天月を諭して、上機嫌な友崎の説明を聞いた。
 一時間は桃取り放題。けれど収穫は一つずつ、食べ終わってから次の桃を収穫すること。
 持ち帰り用の桃はグラム売り。休憩スペースにて計量、販売。
 桃を収穫する際は日当たりのいい所に生った実を掌に乗せ、弾力があるものから採ると完熟していておいしい。

「ま、こんな所か」

 一息に、けれどわかりやすく説明して、友崎は僕らに皿とナイフを手渡した。
 背を押されるままに畑を見渡すと、ずらりと並んだ低い木が影を落としている。先にいた他のお客たちは、美味しそうに桃を食べていた。

「実を優しく包んで引くと採れるから、後はお好きにどうぞー」
「ありがとう」
「有難う御座います」

 礼を言って、僕たちは桃狩りを開始した。
 教えられた通りに桃をもぎ、ナイフで皮を剥いて口に運ぶ。

「甘っ……」

 口に入れた瞬間、果汁が口内に溢れた。
 甘くて濃厚で、けれどしつこくない。ジュースのようで、けれどジュースのように作り物くさくない。
 爽やかで上品な、自然そのものの味わい。
 柔らかな果肉は歯を使わなくても簡単につぶれて、ジューシーな果汁がまた溢れ出してくる。

「おいしいです!」
「うん、すごい甘いのに、後味もすっきりしてる」

 隣で天月が目を輝かせた。口の周りにはやっぱりと言うかなんというか、桃の甘い蜜が煌めいていた。

「口、汁ついてるよ」

 ポケットティッシュを差し出す。
 僕が拭いてやるなんて、そんな大胆なことはできない。それなのに。

「私、両手塞がってます」

 それなのに天月は、両手に持った皿と桃を主張して、僕を見つめる。
 僕に拭けとでも言いたそうに、真っ直ぐに澄んだ瞳で、僕を見つめてくる。

「元カレ君が拭いてください」

 ああ、こんな。こんな意地悪な笑い方もできたのか。
 知らなかった天月の一面に、僕の心臓はどうしようもなく暴れた。
 汗の滲む手でティッシュを取って、天月の口元に寄せる。
 直前で、振り返る。

「……あっ。冷えた飲み物も売ってますよー、全然ウチの果物使ってないから、なんか癪ですけどー!」

 友崎が他の客にジョークを飛ばした。若々しい少年の働く姿に、お客たちからは微笑まし気な空気が漏れ出す。
 問題は、直前まで確実に目が合っていたということだ。

「早く拭いてくださいよー」

 急かす天月の声に振り返る。
 僕が手にしたティッシュに、天月がその薄桃の唇を近づけていた。
 鼓動はますます僕を蝕む。
 焦る胸の鼓動が、天月に聞こえてしまうんじゃないかって、不安になる。
 いや、これは不安とは少し違う。これはきっと──恥ずかしさ、だ。

「……わかったよ」

 なるようになれ。
 覚悟を決めた。
 ここまでの時間はそう長くなかったのだろう。けれど僕にとっては、あまりにも長く感じられた。

「じゃあ顎、上げて」
「はい」

 天月が、目を瞑って顎を上げた。
 心臓の鼓動は、もう周囲のざわめきすらもかき消す。
 少し尖らせた唇が、チョンとティッシュに触れた。
 透けるほど薄いティッシュ越しに、唇のぬくもりが伝わる。

 ──柔らかい

 一瞬止まった手を動かして、口の周りの果汁を拭き取った。
 薄いティッシュは桃の水分を孕んで、柔らかな唇の感触が、天月の唇を直接触っているような気分になる。
 出来るだけ目を背けようとするのに、目線はどうしても天月の口元に釘付けになった。
 
「ありがとー御座いますっ」

 自制心がティッシュを引き離すと、天月は屈託のない笑顔を向けてきた。
 どういたしまして、と返して目線を引きはがす。桃の木も、遠くのお客も、何を見ても天月の顔がちらついた。

「さあ、気を取り直して食べますよ~」
「おなか壊さないでね」

 張り切る天月から少し距離を取る。
 次また天月の口を拭くことになったら身が持たない。

「どうした二条、ジュースか?」

 僕を見付けた友崎が話しかけてくる。

「いや、桃よりいいジュースはないよ」
「そっか。楽しんでくれてんのなら、俺もなんか嬉しいわ」

 照れくさそうに笑う友崎は、まさに好青年と言ったやつなのかもしれない。
 浮ついた噂もないのは、映画好きが高じて悪役に憧れてしまったせいか。
 真顔で「世界征服したい」なんて言うのだから、僕としては既視感を覚えずにはいられない。

「お前、天月と一緒に居なくていいの?」
「うん、ちょっと疲れたから」
「確かに、他人の目がある所であれは恥ずいよなぁ」
「うっさい黙れ」

 ニヤつく友崎を小突いて、天月に目を向ける。
 少し遠くへ行った天月は、黙々と桃を食べていた。蝉の声はうるさく暑苦しいけれど、木陰から出ることが少ないから安心だ。

「で? 泥棒探しは順調か?」

 木陰にしゃがんで、友崎が桃をかじった。

「順調なら、今日ここには来てないよ」
「ははっ、順調じゃなくてよかったな。うまいもん逃すとこだった」
「それは確かに」

 素直に頷いて、僕も一つ桃をもいだ。
 今度の桃は、身も皮も白っぽい。注意して見ると、桃の品種の違いがよく判った。
 店先に並ぶ桃の品種なんて考えたこともなかったけれど、違いが判ると面白い。

「ま、俺からも何か探っとくわ」
「ありがとう、無理はしないでね」
「おう、その代わり俺とも遊んでくれ」
「わかった、またメールする」

 短く話して、二人して小さな桃に齧り付いた。
 これも甘いけれど、さっき食べた桃よりも身質が繊細で酸味が少ない。

「これもおいしいな」
「ああ、高級品種だからな」
「へえ、そんなものも取り放題なんだ」

 一時間千五百円と言うのは少し高い気もしたけれど、高級品種が味わえるのなら十分安い。
 月並みなようだけど、思い出に値段はつけられないのだから。

「天月はなんて言ってたんだ?」
「何に対して?」

 友崎の質問に質問を返す。

「殺害予告、聞いたんだろ?」
「ああ、それか。友崎はいつも話が急すぎるんだよ」

 いつだって友崎の質問は突発的だ。ある程度慣れた今でも苦労する。

「それで、まさか聞いてないってことないよな?」
「聞いたよ」

 確かに聞いた。天月に向けられた殺害予告の真偽と、それを受けた天月自身の反応も。
 全部聞いたことだからこそ、あまり思い出したくはなかった。

「そっか。じゃ、いいや」

 あっけらかんと言って、友崎は桃の種をビニール袋に入れた。

「聞かないの?」
「別にー。だってもう何も言わんって言ったしな」

 「相談なら乗ってやるけどな」と言って、友崎は立ち上がった。
 純粋に「かっこいい」と思った。
 そしてそれに甘えてしまう僕自身を、僕は恥ずかしく思う。

「ありがとう」
「やめーや気持ち悪ぃ、こう言う時は黙っとけよ」

 笑って言うと、ちょうど真夏みたいに明るい笑顔が返ってきた。
 いい友達を持ったと、つくづく痛感させられる。
 天月が好きだとか、好きじゃないとか。
 自殺すると言うのは本気だとか、冗談だとか。
 そんなものはどうでもいい。嫌なら嫌と言って、死んで欲しくないなら死なせなければいい。

『勝手にしろよ』

 それよりも今は、自分が投げた匙をもう一度拾わなければならない。
 僕は天月との対話から、もう逃げるわけにはいかないんだ。

「もうちょっと、天月と話してみる」
「おっとちょい待ち」

 離れてしまった天月へ駆け出す。
 立ち上がったその足を、友崎が引き留めた。

「お前ら忘れん坊の泥棒探すんだろ?」

 頷くと、「ほらよ」と言って小さな紙袋が飛んでくる。
 ギリギリでキャッチする。中からは何も音が聞こえなかった。

「それ、やるよ。いつか必要になったら使ってくれ」
「紙ゴミの日に捨てろってこと?」
「ちげーよ! 中入ってっから、帰ったら見ろよっ」

 振り向かされ、背中を押された。
 体が前にのめる。倒れないように踏み出した一歩が、次の一歩を生む。
 自然と、走っていた。


「天月」
「はい?」

 次第に迫る天月に声をかけた。
 振り返った天月に一瞬遅れて、長い黒髪が夏空に煌めいた。

「なんです? 口の汁拭いてほしいんですか?」
「僕には付いてないよ」
「え、現在進行形で付いてますよ?」
「あホントだ」

 口元に触れると、僕にも桃の果汁が付いていた。
 でも違う、それじゃない。

「ちょっと、話したいことがあって」

 勢いに任せて口走る。
 けれど、そこから先の言葉は何も思いつかない。

「それよりまず口です」

 氷みたいな表情を全く変えず、天月はティッシュを取り出した。

「いや、僕は自分でやれるから」
「動かないでください」

 釘を刺すような天月の言葉に咎められて、僕はおとなしく動きを止める。
 天月の手が僕の口元に迫ってくる。視線は斜め上の桃の実を意識したけれど、頭では別の事を考えていた。
 また激しくなった鼓動を天月に聞かれていないか、とか。
 吐息が天月に掛からないだろうか、とか。
 そんな取り留めもないことを考えている内に、柔らかい指が唇に触れた。

 ──指も柔らかいのか

 どこに触れても柔らかい。
 純粋な感動がまた鼓動を早め、そして自分の気持ち悪さに幻滅する。
 不純だ。本当に好きかもわからないような相手に、そんな事を考えるなんて。

「感謝してます」

 自己嫌悪で少し落ち着くと、天月がぽつりと呟いた。
 口元をなぞる指のせいで声は出せず、目線を下げて声に聞き入る。

「一度別れたのに、まだ私を見捨てないでいてくれて」

 違う、と否定したくて。僕は君を捨てたんだ、と叫びたくて。
 けれど天月の指先がそれを言わせてくれない。

「二条君といると、いっぱい『優しい』ってことをわかっていくんです」

 不思議だった。
 目の前の少女は、こんなにも僕に感謝してくれている。
 けれどその顔に、一切の表情はない。氷みたいに冷たい「無」が張り付いた顔に、僕は違和感を覚える。
 普段の天月の鉄面皮とは、少し違う気がしたから。

「これが、きっと」

 ほんの一瞬、瞳孔が揺れた。
 それだけでわかった。天月の表情への違和感も、彼女が何を言おうとしているかも。
 わかってしまった、その表情の正体は「覚悟」。人が何か大切なことをする時、心臓を掴む悪魔の名前だ。

「──ダメだ」

 咄嗟に天月の手首を掴む。
 天月の驚いた顔が視界を埋め尽くす。

「それ以上は、まだダメだ」

 天月が何を言おうとしていたのか。
 その答えはもうわかっている。けれどそれを理解することは、僕の中に引き籠る僕が拒絶していた。

《まだ早い、まだわかりたくない!》

 そんな幼稚な叫びが、天月の手を掴んでいた。

「……そうでしたね。すみません、忘れてください」

 諦めたような微笑を残して、天月が手を降ろした。
 真夏の日差しの中に、冷たい鼓動が浮かび上がる。
 こんな事が解決に繋がるとも思っていない。まして「答え合わせ」の日なんて、遠のくばかりだ。
 それでも僕は、朱染めの黒を恋と言うことは出来ない。

 ──随分酷いことをするんだねぇ、まるでいじめっ子みたいだ

 あの日、可哀想な少女を盗んだ時の泥棒の声を思い出す。
 そうだ、僕は天月ともう一度話し合うために声をかけたんだ。
 それなのに彼女の言葉を無視して、強引に終わらせてしまうなんて、いじめっ子と変わらない。
 話すんだ、天月と。聞きたいことも、伝えたいこともあるのだから。

「天月」
「はい」

 初めて天月と会った時のように、醜い人間と、同じにはなりたくない。
 彼女がいじめられていた日の感情を思い出せば、伝えたい言葉は簡単に口を飛び出した。

「天月は、死なないよ」
「え?」

 天月が目を丸くする。
 驚きと言うよりは、理解が出来ていない表情だ。

「答え合わせとか、忘れん坊の泥棒とかそんなのは関係ない」

 昼下がり。厳しさを増しつつも、麗らかな夏の陽の中。
 僕は天月と向き合って、あの日伝えるはずだった言葉を投げ掛ける。

「天月に死んで欲しくないんだ。だから──」

 海を写したような暗い瞳が、僕を見つめる。
 いつもは目を逸らす、真っ直ぐすぎて刺すような瞳を、それでも今日の僕は逸らさない。

「だから、天月を危ない目には遇わせない。僕が責任を持って家に返すから」

 天月が殺されるとは、まだ考えられない。
 けれど、そんなことは関係ない。
 恋人であろうと、なかろうと。男でも女でも、目の前で誰かが傷付くのは見たくない。

「仮に世界が優しくなっても、君が死ぬことは僕が許さない」

 天月が言った「自殺」は、その場任せに吐いた出任せだったのかもしれない。
 それでも天月なら、本当にやりかねない、と思った。
 だからこそ、釘を刺した。

「そう、ですね」

 短く呟いて、天月は顔を伏せる。

「私も、二条くんと答え合わせをするまでは死ねません」

 滝みたいに流れ落ちる黒髪から、無を刻印した顔が覗いた。
 端整に冷たく、けれどその目は揺れている。
 きっとそれは、覚悟なんかじゃない。

「ねえ、二条君」
「どうかしたの?」

 天月の声が震えた。
 項垂れた顔が少し僕を向いて、暗い瞳が僕を見上げる。
 表情だけは冷たいまま。いや、冷たい顔を装って、感情を殺す。

「この後、空いてますか?」
「空いてるよ」

 「なんで?」とは、聞かなかった。
 天月が何を言おうとしているのかはわからない。ただ単純に、天月の見せるマイナスの感情が珍しかったから。僕は一も二もなく頷いた。

「私の家、来てくれませんか?」 

 長い夏の昼下がり。
 消え入りそうな声で呟いた天月の懇願に、僕は苦虫を噛みつぶす。
 彼女の声音に年相応の青さはなくて、ただ弱さと恐怖だけが滲む。
 世の中全く甘くない。甘いのは桃やお菓子ぐらいのもの。二十年も生きないうちからそんなことを悟ってしまうほど、世界はどこまでも残酷だ。

「……いいよ、行こうか」
「有難う御座います」

 未だに硬いままの顔を上げて、天月はへたくそに笑って見せた。
 どこまでもチラつく泥棒の影への苛立ちを押し殺して、桃に齧り付く。
 面倒くさがって低い所から採った桃は、今日食べた桃の中で一番苦かった。
 長いような短いような。
 そんな曖昧な形容詞が一番似合う、一時間の桃狩りを終えた。
 やっぱりと言うかなんと言うか、泥棒の痕跡なんて見つからなかった。
 収穫になりそうなものと言えば、友崎にもらった紙袋くらいだ。

「またくるよ」
「おう、来年はバイトでもいいぜ」
「桃が食べれらるならね。今日は有り難う」
「有り難う御座いました」
「おうおう、んじゃまた明後日の学校でなー」

 僕たちは友崎にお礼を言って、帰途に就く。
 明後日の休暇中登校まで、このメンバーが揃うことはない。
 空はまだ明るい。けれどこれから待つ時間のことを考えると、どうも気分まで明るくはなれなかった。

「桃、美味しかったですね」
「ああ、また行こう」
「はい。来年も、また来たいです」
「そうだね」
「それまでに、忘れん坊の泥棒見つけましょうね」
「うん」

 話はそこで途切れた。
 共有できる話題も、もうない。代わりに響いたアナウンスに従って、黄色い線の内側まで下がる。電子音が鳴りやむ前に、電車が滑りこむ。
 きっと、言うべきことはもっと他にあって。そんなことは、僕もわかっていて。
 けれど何となく、今は何も喋ってはいけないような気がした。

「これに乗りますね」
「うん」

 電車に乗って、席につく。
 終わってしまった話の糸口は、まだ見つからない。
 別に、それでもよかった。このまま天月の家に着くまで無言でも、中途半端に話を膨らませるよりは黙っていた方がずっといい。
 けれどそれが僕自身の本心なのかは、わからなくて。隣に座る天月を、どうしようもなく気にかけてしまっているのは確かで。
 理想と現実の狭間に、僕は動けなくなっている。

 理想を求める僕は天月との以心伝心を望んでいて、現実の僕は読めない彼女の心に焦っている。
 きっとそれは一言で片付けられるほど単純で、青くて、恥ずかしい種類の感情だと思う。

(それでも、名前がわからないから、難しい)

 僕は、その感情から逃げ続けるのだろうか?
 泥棒探しを隠れ蓑にして、見たくないものに蓋をして、気になってまた少し覗いてみる。
 結局はその繰り返しで、いつかは疲れて見向きもしなくなる。
 「若かった」なんて安い言葉で額に飾って、褪せていくその感情と一緒に枯れていく。

 ──なら、僕の若さって何のためにあるんだろう?

 自分が臆病だからできなかったことに、中途半端なタイトルを付けて、額縁に飾って。腐らせて。
 若い時には何もせず、歳を取ってから後悔し、縛られる。
 ただ子供でいられなくなったから、仕方なく大人になる。
 そんな亡命者みたいな大人になるのなら、僕が今若者である必要はあるのだろうか?
 今天月の家に向かう僕は、何ができるのだろう?

『まもなく、頼光台、頼光台。お出口は、右側です。ドアから手を離してお待ち下さい』

 そんな動けなくなった心を抱えていると、駅にはすぐに着いた。
 黙っていても勝手に思考が膨らんで、代わりに答えのない問題を突き付けられた。
 案外僕は、誰かと喋るのが好きなのかもしれない。

「降りましょう」
「うん」

 天月に促されて電車を降りる。
 ホームに立つと、寂れた喧騒と夕暮れ前の熱気が肌にまとわり着いた。

「ねぇ、会話の糸口、欲しくないですか」

 改札を出てすぐ、不意に天月が僕を振り替える。
 僕は何も考えずに頷いた。

「驚いた、丁度僕もそう思ってたんだ」

 一般的な住宅街が建ち並び、陽炎が踊るアスファルトを歩き出す。
 僕が本当に驚いて言うと、天月は微笑んで見せた。
 無理矢理に造った、強い笑い方だった。

「今、うち誰もいないんですよ」
「……へえ、なんで?」

 聞いたことがある台詞を、そのどの場面にも似合わない顔で天月は吐き捨てる。
 それは例えようのない、嫌悪感のようなものだった。

「ちょっと、警察に」
「殺害予告のこと?」
「はい」

 今まで朧気だった推察に、よくやく確信を持てた。
 やっぱり天月は、殺害予告を見せるために僕を家に呼んだんだ。

「でも、家に女の子一人って危なくない?」

 天月の殺害予告の件で警察に出向くと言うのに、天月本人を一人置き去りにするのはどうなのだろう。
 天月はそれを「目の前のことしか見えてないんですよ」と切り捨てる。

「うちの親、もちろん悪い人たちじゃないんですけど、焦ると周りが見えなくなるんです」

 夏なのに凍てついたままの天月の瞳。
 ふとした時に見せるその冷たさの正体を、僕は何も知らない。知りたいとも、あまり思わない。

「ほとんどの人はそうじゃないの?」
「そうですね、度を越してなければ」

 悲嘆も怒りもなく、天月はただ感情を削ぎ落としたような顔で嘆息する。
 あんまりにも感情がないから、その嘆息はただの吐息にさえ見えた。

「あの母親は、私を『狙われてる娘』としか見てません」
「親の心子知らずってのは?」
「子の心親知らず、と言うのもありますよ」

 平然と返す天月の屁理屈に、子供らしい頑固さを見た気がして少し安心する。
 本来抱くべきじゃない感想かもしれないけれど、天月も人間だと思った。
 普段の明るさは、内面の冷たさに被せたオブラートかもしれないと思っていたから。

「でも私は、ただの『天月詩乃』として見てほしいんです」

 呟くように溢す天月に頷きながら、僕らはまだ青い空の下を歩く。
 どこまでも感情のない天月の声音と、機械的にすら聞こえる蝉時雨が重なる。

「『狙われてる娘』として見るから、私を置き去りに周りだけで騒いでいられるんです」
「親も子もお互い他人なんだから、それぞれの気持ちが交差しても仕方ないよ」

 つまり、折り合いを付けるしかない。
 どこまで行っても他人は他人で、自分以外の人間の心なんて分からないのだから。
 平和の対極に位置するのは、きっと《個人の幸せ》なのだと思う。

「珍しいですね、二条くんがそんな冷たいこと言うなんて」

 ずっと後ろに流れるアスファルトを見つめていた天月が、顔を上げた。
 丸まった目が、今度は僕を見つめる。

「僕なにか変なこと言ったかな」
「親が他人って言いましたよ」
「ああ、字面通りに考えると、自分以外の人間は全部他人でしょ」

 てっきり、天月も同じような考えだと思っていた。
 けれど天月は頷かず、また地面に目線を向ける。

「他人か他人かじゃないなんて、気持ち次第ですよ」
「気持ち?」
「信頼出来る人がいたなら、その人はもう他人じゃありません」
「へえ」

 君にしては楽観的だね。
 そこまで言いかけて、言葉を呑み込む。
 天月は元から自分以外の全てに楽観的だ。
 思えば天月が抱いた「優しい世界」の理想も、希望的観測の一つ。「そうであってほしい」と言う一種の逃避から生まれた理想郷に過ぎない。
 
「確かに、そうだったら僕も嬉しいよ。うん、周りと信頼し合えるのは、きっと気分がいい」

 僕が深く頷くと、天月は「でしょう?」と無感情に口だけを動かした。
 機械のような天月と、楽しい時の無邪気な表情。
 それは氷と水の二相系を保つ、小さく儚いつららみたいだった。

「でもその信頼も、度が過ぎると人を傷付けます」
「本当は、親に心配かけたくなかった?」

 天月が首を振る。

「本当は、騒いでほしくなかったんです。騒ぐと、少し怖いから」

 隣を歩く天月の目が、ほんの少しだけ細まった気がした。
 冗談で終わらせたかったのに、でも周りの信頼がそれを許してくれなくて。
 無視していれば、きっと嫌な冗談程度で済んだことが、大事になっていく。
 いつしか、自分の在り方も歪められていく。

「どんなに時でも、私は私でありたい」

 もし僕が、天月への殺害予告を彼女の親より早く知っていたら。
 僕はどうしただろうか?
 そんなことは分かりきってる。きっと信じないにしても憤り、学校や警察に通報するだろう。
 冗談で済ませるには、センスが悪い。

「天月らしいね」

 僕がそう言うと、何がおかしかったのか、天月は桃狩り以来初めて嬉しそうに笑った。
 僕が天月の飾れない冷たさに惹かれていたとして、笑顔だけは造ってほしくない。
 悔しいけれど、やっぱり女の子には自然な笑顔が似合う。

「着きましたよ、どうぞ」

 急に止まった天月に、一歩遅れて足を止める。
 初めて来る天月の家に、心臓は不本意に高鳴った。家は一般的な二階建てだった。
 とてももうすぐ殺されるかもしれない女の子が住む家には見えない。
 門扉を通って、天月の開けた玄関扉に招かれる。

「お邪魔します」
「いらっしゃい。こっちですよ」

 改まって靴を揃える僕に笑いつつ、天月が二階に上がっていく。
 住民不在で締め切られた家は、茹だりそうなほど蒸し暑い。僕も天月も、首筋に汗が流れていた。

「ここが私の部屋です」

 天月の部屋は、階段を上がってすぐ目の前にあった。
 異性の部屋に入るのは初めてだけど、きっとこの鼓動の早さはそんな純粋じゃない。
 この先に待ち受ける、天月への殺害予告。その存在を思うと、どうしても心臓がズキリと痛んだ。

「失礼します」

 予想以上に重い声で改まる僕に、天月は「面接じゃないんですから」と笑う。
 差し出された座布団に座ると、透明なプリントファイルが僕たちの間に置かれた。
 中には手紙が何枚も入っていて、それだけでファイルの厚みを作り出している。

「これです。殺害予告書は、両親が持っていってます」

 笑っていた天月の口調が、また冷たくなる。
 苦い思いと苛立ちを噛み締めて、手紙を一枚取り出す。

「予め言っておくと、僕らはまだ子供だ」
「わかってます」
「だから、この迷惑な手紙の解決には役立たないと思う」
「それでいいんです」

 冷たくも、強い言葉。
 僕と天月の間に転がった沈黙を、今度はもう拾わない。
 代わりに開けた封筒の中から、ルーズリーフの切れ端を取り出す。

 そこには、地獄が広がっていた。
 地獄と言うものがあるのなら。
 きっとこの手紙がそうだ、と僕は思う。
 マイナスの感情の全てを安直に混ぜた、最も想像しやすい地獄だ。

『好きだよ、愛してる。君が僕を見付けてくれた日をずっと忘れない。昂った自分を押さえるのに必死だ僕を見つめる黒い瞳、白い肌。僕が守らなきゃ折れてしまう肢体。今もあの日の君の眼を思い出して自分を慰めているよ。
 君に何かあったら、僕は真っ先に飛んでいくよ。子供は二人欲しいね。君との愛の結晶を二人で育んでいこう。
 いつか君を迎えに行くよ。君を殺して、僕も死んで。天国で二人一緒になるんだ、待っててね』

 子供が書いたみたいな鏡文字。
 抑揚と、前後の脈絡の欠けた文章。ミスマッチなほど馴れ馴れしく、身勝手な内容。
 便箋の裏に隙間なく貼られた82円切手。当然送り主の名前はなく、どの切手にも消印はない。
 つまり──直接投函されている。

(サイコパスか、気持ち悪……っ)

 腹のそこから込み上げる嫌悪感と、得体の知れない物への恐怖。
 存在そのものが支離滅裂になった紙切れに、吐き気すら覚える。

「天月」
「はい?」

 そっと封筒に手紙を戻して、天月に目を向ける。

「あの、人の家に来といて悪いけど、お茶もらってもいいかな」
「あ、はい。二条くん、大丈夫ですか?」
「何が?」
「顔、青いです」

 当たり前だ。
 自分の意思で天月の家に上がり込んで、手紙を見たとして。
 一枚目からこんな不気味な手紙を見て、気分が悪くならない方がおかしい。

「大丈夫だよ」

 それでも、天月を不安にさせる訳にはいかなくて。
 何も出来ない僕には、ただ「大丈夫」と言う事しか出来なくて。
 込み上げるぬるい何かを堪えながら、嘘を吐く。

「無理しないでくださいね」

 一言だけ残して、天月は部屋を出ていった。
 軽い足音が、くぐもった蝉の時雨に消えていく。

「こんな手紙があと何枚も……」

 雲行きが怪しい。
 これが最初の一本目なら、天月に送られてくる殺害予告は、きっと限りなく本物に近い。
 これを見て取り乱さない親がいるのなら、それはきっと親じゃないだろう。

「これは……?」

 窓際の勉強机に目をやる。
 強い日差しが遮光カーテンに遮られた先で、薄く照らす一枚の茶封筒。
 一枚の82円切手で丁寧に宛てられた天月詩乃への封筒から、一枚のレシートが飛び出していた。

「ノーベル。ザハロフさんか」

 悪いと思いつつ、レシートを確認する。
 普通の、駄菓子のレシート。
 けれどおかしい。ザハロフさんは、基本的にレシートを渡してくれない。
 そんな彼女からレシートが、しかも郵送されてくるなんて。

(裏には何が?)

 気になって、裏をめくる。
 そこには綺麗な文字で一文だけがしたためられていた。

『君宛の憎悪が盗まれた、気を付けろ』

 意味はわからない。けれどこれが、決していいものではないことはわかる。
 そしてその正体が、何かの手がかりになることとも。

「元カレ君、麦茶でいいですかー?」

 とたとたと軽い、天月の足音。
 くぐもった声が足音と共に近付いてきて、僕を現実に引き戻した。
 慌てて手にしたレシートをポケットに入れ、座布団に座る。

「大丈夫だよ」

 少し大きな声で答えると同時に、天月が部屋に入ってきた。

「無理はダメですよ」
「ありがとう」

 白い指から麦茶を受け取って、一口飲む。
 緊張でからからにカラカラに乾いていた喉を、冷たい麦茶が通っていく。
 家毎で味の違いがある麦茶。天月家の麦茶は、少しだけ鼻に残るような甘い風味があった。

「落ち着いたよ、ありがとう」
「いえ、それならよかったです」

 微笑みをくれた天月を見ると、ぶつけようのない苛立ちが湧いた。
 もちろん天月に向けてじゃない。天月に気味の悪い手紙を出した、気持ちの悪いストーカーに対してだ。

「……君はこれ、全部見た?」

 怒りを抑えて天月に尋ねる。首肯が返ってきた。

「はい、見ました」
「どう思った?」
「ストーカーだと思うんですけど、心当たりはないです」

 直接投函されていると言うことは、基本的に天月の情報はほとんど知られているはず。
 けれど天月に心当たりがない限り、警察は動きづらそうだ。

「違うよ天月」

 でも、違う。僕が聞きたいのは、素直な彼女の本心だ。

「怖いとか、気持ち悪いとか、そう言う感情の話だよ」

 天月の目を見据えて問いかける。
 少しの沈黙。困惑する天月の表情。
 細くしなやかな指が、ベージュのスカートに深いシワを寄せる。

「……少し、怖いです」

 ようやく発した言葉。その目は揺れて、とてもじゃないけど「少し」だけ怖いようには見えない。

「少しだけ?」
「ええ、はい」
「少し、しか怖がってるようには見えないよ」

 問い詰めるのは、ストレスになるかもしれない。
 目を背けていた恐怖に向き合わせるのは、残酷かもしれない。
 けれどそれも、天月がこの「優しくない世界」から逃げ出すための手段になるのなら。僕はいつだって鬼になる。

「本当は、もっと怖いんじゃないかな」
「大丈夫です」
「我慢するのは、優しさなの?」

 そこまで言うと、天月は俯いた。
 さすがの天月も、優しさがそんな優秀なものではないと知っているんだろう。
 一般に「優しい」と呼ばれる行為も、行為そのものが優しいだけ。
 「優しい」と言う言葉自体に、言い訳に使える程の優しさはない。

「難しいですよ、そんなの」

 俯いた顔のまま、天月が立ち上がる。

「どうしたら、いいんでしょうね」

 心臓が冷えた。下から覗いた天月の右頬の泣きぼくろが一瞬、本物の涙に見えた気がしたから。

「寝て起きたら、全部解決しませんかね……」

 崩れるようにベッドに沈んで、天月は力なく溢す。
 天月だって怖くないわけがない。ただ怖がることが解決に繋がらないと知っていて、本心を抑え込んでいるだけだった。

「神様は残酷だね」
「そんな神様、いないですよ。きっと」
 
 気休めを吐く。不安を紛らわすためのジョーク。
 返ってきた声は、悲しげだった。

「この世界にもしも神様がいるのなら、きっと世界を治めたりなんかはしなくて。
 ただ世界の記憶を共感して、全部記憶するだけだと思うんです。
 誰かが笑った記憶も、誰かが悲しみに狂った記憶も」

 深い海の目が、僕を見つめている。
 一言一言を噛みしめるように、悲しみに寄り添うように。
 澱みなく丁寧に話して、終わり際。天月は嘆息した。

「だから神様は、この世で一番幸せで、一番かわいそうなんです」

 言葉が出なかった。
 そんなこと、考えたこともなかったから。ただぼんやりと、理不尽とほんの少しの憧憬を溶かして、万能とされるその存在に救いを求めていた。
 それはきっと、行き過ぎた嫉妬なのかもしれない。

 けれど天月は考えていた。僕の考えないことも、考える機会すらないことも。
 きっと彼女が優しくないのは、考えすぎるからなのかもしれない。
 とにかく僕は、彼女の言葉に反応できなかった。
 それほどまでに彼女の言葉が、的を射たもののように思えてしまったから。

「本当に神様がいて、万能だったとしたら。私もきっと、素直に怖がれたんでしょうね」
「そうだな。きっと、そうだ」

 それは限りなく本心に近い、天月なりの強がりだった。
 本当は怖くて、でも伝えることが解決にならないことは知っていて。
 だから強がりの中に、本心の恐怖を溶かした。

(今のところは、それが分かればいいか)

 内心の安堵に、はたと思い出す。
 殺害予告なんてどうでもよかった。
 それどころか、本当だとも思わなかった。
 どうせ多感な年頃の高校生が、あることないこと盛り上げて、面白おかしく噂してるんだろう。そう思っていた。
 けれどあんな手紙を見た後、僕の頭は自然とストーカーへの対策を練り上げていた。

「怖がったら、全部解決しませんかね」
「君が猫被って怖がったら、皆動いてくれるかも」
「そんなことしなくても、元カレ君は動いてくれるでしょ?」
「悔しいな、今回はその通りだよ」
「やっぱり元カレ君は優しいです」

 僕のことを「元カレ君」と呼ぶ時、天月は僕に試すような目線を向けてくる。

「ねえ、元カレ君」

 それはある種挑発的と言うか、なにか悪戯を企んでいるような瞳だった。
 けれどその目が揺れているのを、僕は見逃さない。

「親、今日帰ってこれないみたいです」

 確認していたスマホを投げて、天月はそう言った。

「へえ、なんで?」
「親戚中に助けてくれる人を募ってるみたいです」
「お父さんは?」
「父は母を諌めてるらしいですが、ああなった母は聞きませんよ」

 田舎特有の親戚の近さを利用して、天月のお母さんは親戚中に相談しているらしい。
 もっとも近いと言えど密集している訳じゃない。県を跨ぐから、帰りは明日になるそうだ。

「お父さんも大変だね」
「まあ、傷心の母の隙を突いて時出来たカップルですから、仕方ないです」

 天月のお母さんは、若い頃に妹さんを亡くしてから、ずっと心配性だと聞いた。
 多分ここまで慌てるのは、過去のトラウマにも関係するのだろう。
 それにしても、随分天月の口調が冷たい。

「お父さん嫌いなの?」
「嫌いでは、ないですよ」

 言いつつ、枕に顔を埋める天月。
 続きの言葉を待つ僕に、彼女のスマホが差し出された。
 着信中の画面。「父」の表記。
 嫌な予感が、実態を帯びて迫り来る。

「これを?」
「出てください」
「出て?」
「父から話があるそうです」
「話が、誰に?」
「二条くんしかいないじゃないですか……」

 それだけ言うと、天月の顔はまた枕に埋もれていった。
 既に着信中だ、受け取るしかない。早く出ないと切れてしまう。
 感情を殺して、画面をスワイプした。

「はいもしもし。お電話、天月詩乃さんに代わって出ています、二条です」
『……ああ私だ、変わらないな君は』

 ゆっくりした重みのある声。
 記憶にある天月の父親、修治さんの声だ。

「お久し振りです」
『久し振りだな、君は今うちに居るようだが?』

 早速話を切り込まれる。
 修治さんにその気はなくとも、話している側には威圧感がある。正直、あまり得意じゃない。

「はい、勝手にお邪魔してすみません」
『いいさ。どうせまた詩乃の無茶ぶりだろう』
「はい……あ、いえ」
『やっぱり君は嘘が下手だな。俺とよく似てる』

 電話越しで小さく修治さんが笑ったような気がした。
 「絶対に似てない」と思いつつ、逸れた話を切り返す。

「あの、話って」
『ああ、そこに詩乃はいるか?』
「はい」

 チラリと天月を見る。
 僕にスマホを渡したきり、枕に顔を埋めたままだ。白い足だけがパタパタと揺れている。

『じゃあすまないが、少し部屋を出てほしい』
「わかりました」

 嫌な予感。
 それは間違いなく何か大事な話で、天月に聞かれると不味いことなのだろう。

「ちょっと外で話してくるよ」
「はい~」

 くぐもった声と、ひらひらと振られる手に送られて部屋を出る。
 ぬるい熱気が頬を撫でた。外の無人の喧騒が、耳を蝕む。

「出ました」
『ありがとう。では手短に聞こう』

 空気が変わった。
 固い空気に、さらに重みが増したような感覚。プレッシャーとも言えるその空気に、胃が小さく鳴った。

『君は詩乃が死ぬと思うか?』

 その質問は、大きな振り子みたいに、少し遅れて僕の胸を殴った。
 昨日までは即答できていた答え。ただ一言「いいえ」と言えば済んだ話。
 けれどそれも、手紙の束を見て勝手が変わってしまった。

「正直、信じてませんでした」
『うん』
「でも手紙を見せてもらって、考えが変わりました」

 信じていなかった現実。信じたくなかった現実。
 その二つはとても似ていて、けれど正反対に立っている。
 一度でも信じてしまえば、現実への拒絶反応はなかなか無くならない。
 それは、僕が天月に抱く感情と似ている。

『詩乃が殺されるって?』
「はい」
『そうか』

 今ここに修治さんがいたら、殴られるんじゃないかと思った。
 それほどまでに彼の口調は静かで、重い。嵐の前の静けさ、と言う言葉がよく似合った。

『娘が初めて殺害予告を受けたのは三ヶ月前だ』
「三ヶ月……」

 反芻した言葉を呑み込んでも、まだ実感は湧かない。
 気の遠くなる時間だ。そんな長い時間を、天月はずっと独りで抱え込もうとしていたのか。

『最初は妄想を拗らせた告白文だったが、徐々に脅迫めいて過激になっていった』

 電話口に嘆息が溢れた。
 それはどちらのものだったか。とにかく長く、怒気を含んだ嘆息だった。

『その時バカな私は迷っていた。娘と男の痴情のもつれに手を出すべきなのか、と。しつこい男をストーカーと考えもせずに』

 他人に表情を読ませない天月から引き出せる情報は、あまりにも断片的だ。
 周囲の人間が気付けないのも無理はない。

『娘がストーカーの被害にあって二ヶ月目。ようやく私が気付いた時には、ストーカーは過激になっていた。私は鈍すぎたんだよ』

 それは憔悴しきった声だった。
 直接顔を合わさなくてもわかる。娘の助けになれない情けなさが、父親の心を蝕んでいた。

「天月、さんはわかりません。何もかも、他の誰より繊細で、誰よりも頑固です」
『私もさ。未だに、詩乃をどう扱っていいかわからない』

 腸の底から響くような、深いため息だった。

『普通の優しい女の子として扱うべきなのか、ストーカーに狙われる哀れな少女として扱うべきなのか。あの子なら間違いなく前者を選ぶだろう。だがそれがあの子の寿命を縮めてしまいそうで、私は怖いんだ。妻は生きてさえいればいい、と思っているようだがね』

 確かにそれは、天月が望んでいることだった。
 ただ一人の「天月詩乃」として見て欲しい。それが異常に優しさに執着する天月の、深い根の部分だった。

『あの子にとっての本当の幸せが、今を自由に生きることなのか。それとも束縛の中に小さな幸せを拾って、安全に生きることなのか。親としてできる限りの事はしてやりたいが、本当は出来るだけ危ない目に遭って欲しくないんだ』

 ままならない、と思った。
 見上げた天井に影が這って、一筋の斜陽がその影を割っている。もう夕暮れ時だった。

『君の意見を聞かせてくれないか』
「僕、は」

 即答するだけの勢いはなかった。
 大きく息を吸い込んで、肺に空気を詰め込む。

「僕はあの手紙を見てから、天月さんが心配になりました。でもそれは天月さんの命だけで、それを動かす「心」には気をかけてないのかもしれません」

 乾いた笑いが、スマホの向こうで弾けた。

『私もだよ。人間の存在にタグをつけるのは、いつだって外見や、環境と言った外的要因に過ぎない』

 違う、と言いたくて。でも言えなくて。
 背にした扉にもたれかかる。

「心が死ねば、命も死ぬと思います。人間は脆過ぎます」
「親としては、生きてさえいてくれれば嬉しいんだよ。命っていうのは、そんなに難しいもんじゃないんだ」

 心の死は、命の死と同じ。
 かつて一人の狂った医者は、人の魂の重さを21グラムだと言った。
 なんの科学的根拠もない俗説でも、一定数の人々がそれを信じたのは、誰かの死に負う傷を少しでも小さくしたかったからかもしれない。

「それでもせめて、諦めたくはないじゃないですか……」

 絞り出すように落ちた声が自分の声だと気付くまで、少し時間がかかった。

『だから君たちは「泥棒探し」を続けるのか』

 少しの沈黙を置いて、電話口の声が尋問口調になる。 

「それは……」

 知られていてほしくはなかった、泥棒探し。
 けれどそれもとっくにバレていて、逃げ道はどんどんと狭くなっていく。それでも、逃げる訳には行かなかった。

「多分、そうだと思います」

 泥棒を探すこと。そして、受け入れること。
 それは世界を優しくするためなんかじゃなくて、もっと簡単なことのため。

「大人になるために、僕らは忘れん坊の泥棒を探します」

 歳や周りに流されてじゃない。
 答えのない問題に頭を抱えて、それでも諦めず何かを探し続けられる。
 停滞しない大人になるためだ。

『じゃあ、続けるんだね?』
「はい、修治さんの意見に真っ向から反対する形になってすみません」
『ハハッ、いいさ』

 そこで初めて修治さんは笑った。

『止めても詩乃は聞かんからな』
「はい、本当に強い女性です」

 なんとなく、僕らの想像する天月詩乃のイメージが一致した気がして、僕らは笑った。
 いつも仏頂面のイメージがある修治さんも、こんな風に笑うんだ、と思った。

『どうかな。最近のあの子が本心で笑うのは、きっと君の前でだけだ』
「そうですかね。僕には普通に見えますけど」

 学校での天月は、無駄口を効くことはない。
 けれど話しかられればきちんと応えるし、誰かを助ける時も笑っている。
 ただ普段の表情や、常識がないだけだ。

『いや、全く違う。そもそもあの子は家族以外を家に上げたことがないんだ』
「……そこまでの友達がいないだけですよ、多分」

 ぞくりとした、嬉しかった。そして少し、恥ずかしくもあった。
 減らず口を叩いても、むず痒いような、暑いような感覚が収まらない。
 
「だから、聞いたんだ。『二条君はお前にとってなんだ?』と」
「それは」

 直球過ぎる、聞きたくない。
 叫びそうになる心を抑えて、唾液で喉を潤した。
 答えは、拍子抜けだった。

「『憧れの男の子です』だそうだ」
「憧れ」

 天月の言葉を想像して反芻する。
 彼女がどんな感情でその言葉を口にしたのかは、何となく想像できる。
 でもそれを天月自身が「本心で」口にする場面は想像できなかった。

『あの子がそんなことを言うのは信じがたいが、今日君に話を聞いてはっきりしたよ』

 電話口の声が静かに笑う。
 笑った時の息遣いは、天月とそっくりなんだ、と気付いた。

『あの子の言葉に、嘘はない。あの子が「普通の女の子」としての姿を見せ、年相応に「好き」を言葉にするのなら。それはきっと君に向けてだろう』

 ヤバイ。
 こんな感情も、こんな短絡的な感想も僕の中にはもうないはずなのに。
 「ヤバイ、嬉しい」の言葉が、頭の中を駆け回る。
 ニヤニヤが、止まらない。
 こんな気持ちの悪い自分を、諌める自制心はどこかへ行っていた。
 天月にとっての僕が、何か特別な存在になれているのかもしれない。
 確証はなくたって、天月への好意が恋でなかったとして。誰か第三者からそんな事を教えられたら、嬉しいに決まってる。

『ストーカーが絡む以上、危険な事だ。だから、君が危なくない範囲だけでいい。これからもあの子のわがままに、少しだけ付き合ってやってほしい』

 頼む。
 威厳も体裁も、何もかもかなぐり捨てて。僕みたいな子供に、一人娘を託した「大人」の気持ちを、僕は一生考え続けるだろう。

「わかりました」

 事態が忘れん棒の泥棒とは関係なくたって、僕の感情がどうなっていたって。
 そんなことは関係ない。
 ただ守りたい、と思った。
 人が何か大切な一歩を踏み出す時。深い理由はいらないのだと、その日僕は初めて知った。
「何話してたんですか?」

 部屋に戻っても、天月は枕に顔を埋めたままだった。
 くぐもった声で差し出された手に携帯を返す。

「別に何でも。三ヶ月もストーカー被害を黙ってたんだってね」
「何でもあるじゃないですか、うぇ~……」

 消え入りそうな声で唸って、天月は足をバタつかせる。駄々っ子みたいだ。

「怒ってます?」

 枕の隙間から、チラリと天月の眼が覗く。
 潤んだ瞳。けれど目元は赤くないから、泣いてはいないだろう。

「怒ってないよ」
「じゃあ、こう言ったら怒りますか……?」

 揺れる。天月の瞳が、細い声が。
 どこにも行けなくなった動揺の代わりに、僕に向けられる。

「『今日は泊まっていって下さい』って」

 不安に瞳を揺らしながら、まっすぐに僕を見つめる天月の顔。
 その表情に、間違いなく揺らぐ僕がいる。
 散々「変わってる」と思っていた少女の、今さらになって垣間見る「普通」の顔。

 ──あの子が「普通の女の子」としての姿を見せ、年相応に「好き」を言葉にするのなら。それはきっと君に向けてだろう

 修治さんの言葉を思い出して、目を瞑った。
 僕は天月を「普通の女の子」とは思えない。普通と言い切るには、彼女は僕にとって近くに居すぎたから。
 天月が普通の女の子だとしたら、僕らの「答え合わせの日」は、存在する必要がなくなるから。
 僕は頭を振る。

「怒らないよ」

 修治さんと約束したから。天月がきっと、怯えているから。
 誰かの弱味を言い訳に、自分の欲望を満たすのは、卑怯なのだろう。
 わからなくなった答えを先延ばしにするのは。本当はわかっている答えから目を逸らすのは、臆病なのだろう。

「本当に、本当ですか?」
「うん、親に伝えてくるよ」

 もう一度部屋を出る。
 後ろ手で扉を閉めると、膝が崩れた。

「……っ」

 わかってる。
 わかってるんだ、自分が卑怯な臆病者だってことぐらい。
 でも臆病だからこそ、卑怯だからこそ。誰かに寄り添うことが出来るんだ。

「いつまでも、悩み続けてやる」

 独白を一つ。スマホを取り出して、電話をかける。
 ツーコールで出た母親に、一方的に用件を伝える。

「今日友達ん家に泊まる。晩御飯は要らないけど、余ったら明日帰って食べる」
『えっ? 何、突然。パンツは?』
「帰ってから履き替える」
『ばっちー。……向こうさんのお家に迷惑かけちゃ駄目よ』
「わかってる、じゃ」

 放任主義で助かった、と通話を切る。
 夕暮れに鳴くセミに混じる、ヒグラシの淡い声。
 随分と目立つようになってきたその淡さに、なぜか焦りが沸いてくる。

「大丈夫だったよ、今日は泊まらせてもらうね」

 また部屋に戻る。
 電気の着いていない部屋は、ほんのりと夕焼け色に染まっていた。

「すみません、ワガママ言って」
「いいよ。ちょうど暇だった」

 そこから僕らは、夕飯の買い出しに向かった。
 とは言ってもバイトもしていない僕らにお金なんてなくて。買えるものと言ったら、コンビニの弁当くらい。
 後はスナック菓子やコーラ。そこに数本のチューハイを買い物かごに入れ、天月はレジに向かった。

「天月、何歳だっけ?」
「元カノの歳も忘れるなんて元カレ君ったら薄情ヤローですね」
「じゃあ余計ダメじゃん」
「大丈夫ですよ、タバコは嫌いですから」
「そう言う問題じゃないんだよなぁ」

 溜め息を吐いても、天月は止まらない。
 「どのみち年齢確認で止められるだろう」と思っていたレジも、即座にパネルをタッチして回避。レジ店員も細かく確認しようとはしない。
 学生アルバイトの怠惰を利用すると言う、なんとも姑息な方法だった。

「ふふん、行きますよ二条君」

 天月が自慢気に笑いかけてくる。
 鈍い僕は、その時になってようやく気が付いた。

「そのための化粧だったか」
「いぐざくとり~です」

 商品を積めてもらった袋を手に、天月は得意気に笑う。
 おかしいとは思っていた。家を出る前に脱衣室に籠るし、出てきたら出てきたで化粧をしているし。
 初めて見たその化粧姿に、不覚にもドキッとしたし。

「にしても、割り勘だなんて水くさいですよ」
「僕が奢るって言ったのに、君が拒否ったんじゃないか」
「私が全部出す予定だったんですよ」
「いいじゃん、折衷案だよ」

 ブンブンと袋を振りながら歩く。
 中にはコーラやチューハイも入っているのに、随分と迷いがない。
 一方の僕は、家に着くまでずっとストーカーを警戒して、落ち着かなかった。

「パーリー会場到着です」

 何事もなく家に着く。
 何も入っていないポストに安堵して、玄関に靴を揃えて天月の部屋へ。
 クーラーの効いていない部屋は、ほぼ蒸し風呂状態だった。

「さあ、レッツ・パーリーです!」

 戸締まりを終えた頃には、陽も山向こうに沈みかけていた。
 部屋は昏い。天月の取り出した偶数のチューハイを見て、嫌な予感を覚える。

「ちょっと待って」
「はい?」
「それ、僕のもあるの?」
「もちろん、元カレ君を仲間外れにはしませんとも」

 嬉しくない、そんな平等。
 第一僕らは未成年。自称進学校特有の厳しい校則に照らし合わせれば、飲酒は停学だ。
 誰も守らない校則を律儀に守ろうとも思わないけれど、無理に破ろうとも思わない。

「ダメ、それは全部修治さん用にしな」
「父は下戸ですよ」
「じゃあお母さんに」
「下戸」
「じゃ僕の両親に。お金は払う」
「なんでそんな堅いんですかー!」

 当たり前だ。
 幾ら修治さんと約束したからと言っても、天月を悪い方向に行かせていい訳じゃない。

「逆になんでそんな飲みたいの?」

 瞬間、天月の瞳孔が色を手放した。
 無理に作った微笑みが、空回りする。

「怖いからですよ」

 足元から這い上がってくるような、冷たい声だった。
 取るべき反応も、行動も。何もかもを奪い去っていく。

「嫌なことがあるから、飲んで忘れたいんです。カッコつけたいとか、そんなんじゃないですよ」

 身勝手な理由でストーキングされ、独りぼっちにされ。それでも彼女が明るく振る舞うには、酒は必要なのだろう。
 本当はダメなことなのに、それでも今の僕には、それを諭す語彙も理屈もなかった。

「……付き合うよ」

 チューハイを取る。
 天月が心配そうな目でこちらを見ていた。

「無理しなくていいですよ?」
「してない。ただ、今日飲んだら二十歳までは我慢してほしい」
「嫌なことがあっても?」
「ああ、その度に僕が聞くのはダメ?」
「ダメじゃないです、けど……」

 プルタブを起こす。景気のいい音がして、炭酸が弾ける。

「けど?」

 口を付ける寸前で止めて、視線を天月に送る。
 天月の顔がうつむく。仄かに紅の乗った唇で口ごもり、慎重に言葉を溢す。

「いいんですか?」
「……」

 その問いには答えなかった。
 代わりに、チューハイに口を付けた。
 鼻を抜けるレモンの風味と、舌に残る渋味とも苦味とも言える刺激。
 その冷たさが喉を下った一拍後に、顔が暑くなる。
 初めて飲んだ酒の雰囲気に、少し面食らった。

「飲みなよ、これが十代最後のお酒さ」
「いただきます」

 勧められるがままに、天月もプルタブを起こして口を付けた。
 小さな喉がコクリコクリと音を鳴らして、透明なアルコールを飲み込んでいく。
 少し、ペースが早いようにも思える。

「ぷはっ」

 湿った唇から息を吐いて、天月は缶を差し出した。

「なに?」
「乾杯です。やらなかったじゃないですか」
「ああ」

 そう言えばそうだった。応じるように、缶を出す。

「「乾杯」」

 缶をぶつけた。
 中の酒が波打って、小さな泡が飛ぶ。気にせずまた煽る。
 チェイサーも入れず、時々思い出したように、床に置かれたスナック菓子を摘まむ。
 一杯目を開ける頃には、部屋は真っ暗になっていた。いつのまにか点けていたベッドのライトが、僕らを淡く包んでいる。

「フフッ……」

 何かが小さく弾けたように。例えば小さな蕾が、春を迎えて一斉に咲いたように。
 天月は静かに笑った。

「これでオトナ、ですか?」

 心臓が跳ねた。
 その台詞は、僕らが初めて口づけを交わした日の言葉だったから。
 わざと言っているのか、本当にただの天然なのか。どっちにしても、意地が悪い。

「……さあ。どうだろうね?」

 そしてその言葉にかつての恋愛を重ねてしまう僕も、意地が悪いのだろう。

「じゃあ、元カレ君の思うオトナになってみます?」
「あー、キスの上ってこと?」
「そうなりますねー」

 もう随分と回らなくなった頭は、やけに欲望に忠実で。けれど中途半端に残された理性の欠片が、それを半端に諌めている。
 きっと人間の「たが」なんて、缶チューハイ一本で外れるような欠陥品だ。

「そんなの、恋人同士でやるもんでしょ」
「愛のない行為って、なんか『あだるてぃー』じゃらいです?」
「ダーティーだよ。酔ってるな」
「やーん、元カレ君に襲われちゃいますねー」

 暗い中でもはっきりわかる程紅潮した頬を撫でて、天月は「あだるてぃー」と連呼する。

「がおー」

 興が乗って、僕も彼女を襲うジェスチャーを模した。

「おー、あ……?」

 バランスを崩す。
 ふわふわと足が消えたような感覚がして、立ち上がったはずの体が何かに受け止められる。
 柔らかい感触。雰囲気に染まった毛布。お腹を抱えて笑う、横になった天月。
 僕はどうやら、天月のベッドに倒れ込んだらしい。

「こりゃ僕も酔ってるな」
「口調だけシラフとか、元カレ君ったらアンドロイドー!」

 ムッとして、天月の手を引いた。
 指を差して笑うその声が、あんまりにもうるさかったから。
 火照った掌からも感じる、天月の手の熱さ。酔って潤んだ瞳、垂れた眦。

「おっとと……」

 引かれた手に続いて、彼女の体も落ちてきた。
 軋むベッド。弾む天月の体。夜に揺れる瞳、重なった手。
 触れそうな程近い、天月の顔。
 シングルのベッドに二人。見つめあって、その距離感に心を揺らす。

「……っ」

 酒臭い息を嗅がれたくなかったから、呼吸を止めた。
 息ができなくて、苦しくて。そうしていつか、心臓までも止まればいいと思った。
 胸の鼓動を聞かれるなんて、恥ずかしかったから。

「私、酔ってます」

 僕の空いた手を、天月の指が絡め取った。
 潤んだ瞳は近いまま。酒臭く、けれどどこか甘い吐息が僕の脳裏を揺さぶる。

「だから、せめて今日だけは」

 絡め取られた僕の掌に、天月の唇が触れた。
 次いで、自分の唇につけた指を、僕の唇に這わせる。
 アルコールに頭をやられた僕は、ただそれを見ていた。キスにはする場所によって異なる意味があったけど、そんなことはもう思い出せない。
 言葉を発するのも億劫な中で、僕はただ一言だけを引きずり出す。

「答え合わせ……」
「わかってます。見付けてから、ですよね?」
「そう、見つけてから、ね」

 何を、とは言わなかった。
 思い返せば今日一日、僕と天月の間には「忘れん坊の泥棒」がいなかった。
 普通に遊びにいって、彼女の家に泊まるだけ。忘れん坊の泥棒なんて、頭のどこかに追いやって。ただ過ぎていく無為な時間に、幸せを感じていた。
 けれど、それが本当の幸せかなんてわからないから、僕は決めた。

「だから、早く見つけよう」
「そー、ですね……はふぁ」

 天月の声が歪んだ。
 間抜けたあくびに、薄く涙の乗った眦は眠たげに垂れて、僕を見つめる瞳は焦点が合わない。

「眠い?」
「はい……」
「そっか、じゃ」

 立ち上がろうとして、立てなくて。いつかキスを受けた右手が、握られていることに気付く。
 これじゃベッドから退けない。

「天月。手、退けて」
「むー、りぃ……」

 ほとんど寝息と同化したその言葉に、僕は迷った。
 頭は上手く働かなかった。
 ベッドを降りて、もたれ掛かればいい。床だって空いている。
 天月だけをベッドに眠らせたければ、僕が無理に手を抜けばいい。

「じゃあ、半分もらうからね」
「はいー……」

 それでも僕は、酔っていたから。
 静かに眠る天月に、小さく断って、天月の隣に体を横たえた。
 一人用のベッドが、少しの身動ぎに軋む。

 その夜。僕たちの間には、何もなかった。
 僕たちはどこまでも青くて潔白で。
 だからこそ、僕らは許されない。
 そしてこれが、僕らの会話から忘れん坊の泥棒が消えた、最後の夜だった。

 次の日、天月はベッドにいなかった。
 僕が起きるずいぶん前に立ったのか、彼女が寝ていた場所は冷たくなっていた。

『風呂イング・ナウ。朝刊お願いします』

 寝惚けた字を這わせた紙だけが床に置かれていた。
 念のため、窓から玄関を見下ろす。車はまだなく、また人もいない。
 一階に降りて玄関扉を開け、朝刊を取る。
 何の気なしに目を通した折り込みチラシに、明らかに書き足されたであろう文を見付けた。

『うはきもの』

 最初は、意味が解らなかった。
 でもその筆跡に、既視感があった。
 だから、気付く。気付いて、しまった。

「……ッ!」

 心臓が水浸しのスポンジを握りしめた時みたいに、全身に大量の血を送った。
 自然とつんのめった体で玄関に飛び込む。
 鍵を閉め、チェーンを掛ける。
 家中を走って施錠を確認し、すべてのカーテンを閉める。
 部屋に置いていたスマホを握り締め、玄関に座り込む。
 怖かったし、何より腹が立ったから。震えたまま、行き場のない怒りを抱えて座った。

「二条くん? どうしたんです?」

 気付けば、髪を濡らした天月が僕の肩を揺らしていた。

「震えてるじゃないですか、汗も酷いですよ」
「大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫」

 うわ言のように繰り返した言葉は嘘に塗れていた。
 上がり框に放置された朝刊。その中の折り込みチラシに書かれた『うはきもの』の文字。
 不自然な文字の羅列が、歴史的仮名遣いに当て嵌めた現代文だとしたら。
 それを現代仮名遣いに直すと、そこに現れる文字は意味をなしてしまう。なして、しまった。

『うわきもの』

 浮気者。
 一方的に天月との相思相愛を夢想する、頭のおかしいストーカー。
 奴から見れば僕は間男で、天月は浮気者。狂ったストーカーの脳みそは、そんな僕らを許さない。
 許すも何も、そもそもストーカーにそんな裁量なんてありはしないのに。

「本当にどうしたんですか?」

 視界の端で天月が首を傾げる。肩から落ちた濡れ髪が、滝のようだった。

「……何ともない。修治さんたちが戻るまで、あとどれくらい?」
「さっき連絡があって『遠光台駅に着いた』って言ってました」
「じゃあ後30分くらい?」
「ですかね。ねぇ、ほんとにどうしたんですか?」

 しつこい天月を無視して、二回の彼女の部屋に上がる。
 後ろについてくる足跡を感じつつ、握り締めたチラシを、また強く握り締めた。

「それ、ですよね?」

 部屋に入って、また誰が言うとなく向き合って座る。
 天月の問いに、答えるべきかはまだ悩んでいた。

「そうだよ」

 迷って、伝えた。
 言っても言わなくても厄介事に違いはない。
 それなら天月を少しでも信じた方が、なんとなくいい気がした。隠し事を続けると言うのは、あまりにもしんどい事だから。

「浮気者、だってさ。ストーカーさん怒ってるよ」
「私と、二条くんが?」
「らしいね、笑えるよ」

 本当に、笑えてくる。
 ストーカーにも、女の子の手掛かりすら見付けられない僕自身にも。

「ほんとですよー。後から入ってきた癖に図々しい」
「毒舌だね」
「だって私、優しくないですもん」
「大丈夫。優しい人だって、嫌いな人には優しくしないよ」

 僕らの間に置いたチラシを見下ろして、天月は笑った。
 そのあんまりにも無味乾燥な反応に、少なからず面喰らう。
 なんだ、この程度だったのか。一人の怖さを二人で分け合えば、それはきっと笑い飛ばすことも可能で、きっと人はそれを「救われた」と言うのだろう。
 天月への感謝の中で、僕も笑っていた。

 *

 例のチラシは、その後帰ってきた修治さんたちに見せた。
 修治さんに謝られ、母親の小春さんにも謝られ。流れで謝ってきた半笑いの天月の前で、昨日の飲酒を告発して。
 小春さんに怒られている彼女を尻目に、僕は修治さんに連れられて帰路に着いた。
 家まで送ってくれるらしい。

「じゃあ、今日は何もなしで」
「あ、はい、明日の学校で……」

 肩を落とす天月を置いて、僕と修治さんは家を出た。エンジンがかかったままの車に乗って、公道に走り出す。
 ストーカーを警戒してくれているのか、修治さんが走る道は教えた道を迂回してくれた。

「本当に、すまない」

 一つ目の信号待ちで、修治さんは僕に頭を下げてきた。
 見据えた瞳は、澄んだ深海の色。天月の目と同じなんだ、と改めて思った。

「謝らないで下さい、僕が好き好んでやってることなので」
「けどね、せめてご両親に説明を」
「僕からします」

 説明なんてしない。
 僕の親は放任主義だ。一々反応なんてしないだろう。

「心配だな」
「大丈夫ですよ」

 車が動き出す。すぐに修治さんが重い息を溢す。

「警察が動いてくれることになった」
「よかった、犯人がわかったんですか?」
「いや、まだわからないから、周辺のパトロールを強化するそうだ」
「それって」

 言いかけた言葉に、修治さんが頷く。

「ああ。とりあえず不審者として捜査する、と言うことだろう」

 それから修治さんは、僕を励ますように明るい声で続けた。

「なに、見つかって接近禁止命令が出たらストーカーも止む。止まなかったら、奴さんは即逮捕さ」

 そこから先の言葉は、上手く出てこなかった。
 相手がわからなければ、警察も動きようがない。接近禁止命令だって、相手がわからなければ出しようがない。

(結局、何の解決にもなってないんじゃないか)

 修治さんも僕の言いたいことを察してか、家に着くまで何も言わなかった。
 家に着いたのは昼過ぎ。一軒家の前に車を停めて、修治さんはもう一度僕を見据える。

「何かあったら、順番は最後でもいい。俺にも連絡してきなさい」
「はい、送ってもらって有り難う御座います」
「巻き込んだんだ、これくらい。じゃあ、また」

 車が遠ざかる。お辞儀で見送って、家に入る。
 夏休みなんてない社会人たちは、まだ職場にいる時間。当然家には誰もいない。
 鍵を閉めてからショルダーバッグの中身を整理していると、友崎からもらった紙袋が出てきた。

『ちょっとでも危なくなったら使え by.たつま』

 中から出てきたのは、電話番号の書かれたメモだった。
 いかにも友崎らしい、と笑う。
 心配性と言うか、友達思いと言うか。自分の名前さえも面倒臭がって平仮名で書くのも、相変わらずだ。

「危なくなったら、使う……」

 どこに通じる電話番号かはわからない。
 けれど今回の友崎がふざけるとは考えられないし、何か力になってくれる所なのかもしれない。どこかの法人とか。
 現状、ストーカーを刺激した僕らは、端から見たら危険なのだろう。
 今は僕だけの問題じゃないし、渋るべきではない。
 僕は意を決して電話をかけた。
 それはセミものぼせるような、暑い日の昼下がり。

『やあ、ビンゴだ。久しぶりだねぇ、半分の泥棒サン?』

 数コールの後に出たのは、駄菓子屋バジル・ザハロフの艶声だった。
 月が空に映える頃。
 蝉時雨の止んだ夜空には、キリギリスの音色が溶けていた。
 夜になって尚も残熱を放つアスファルトは、まるで夏の呪いにでもかかったよう。
 まとわりついた熱気を振り払うように、僕は夜の町を歩いた。

『やあ、ビンゴだ。久しぶりだね、半分の泥棒サン?』

 昼下がりの電話に出たのは、駄菓子屋ノーベルの店主ザハロフさんだった。
 混乱は未だに解けない。

『今夜、店の裏から入ってくるといい。チョコを用意して待っているよ』

 なぜ友崎がノーベルとザハロフさんを?
 なぜザハロフさんは何も聞いてこないんだ?
 頭が答えを探す一方で、体はすでに動き出していた。

「コンビニ行ってくる」
「パンスト買ってきて」
「コンビニだよ」
「売ってる売ってる」
「やだよ」

 母さんには、嘘を残して家を出た。
 駄菓子代と、往復分の小銭をポケットに突っ込んで、電車に飛び乗る。

『遠光台、遠光台~。お出口は~、左側、です。開くドアにご注意ください』

 間抜けたアナウンスに送られて、改札を出た。
 ノーベルの最寄り駅は、遠光台高校の建つ小山の麓にある。少し歩いて高校の山を越え、「jude kiss」の看板の掛かった裏口に着いたのは、コオロギの唄う夜九時頃だった。

「ごめん下さい」
「やあ半人前の泥棒君、待っていたよ」

 仄かに明かりの漏れる店内に足を踏み入れると、店の奥から声が歩いてきた。

「改めてここの店主、バジル・ザハロフだ。よろしく頼むよ」

 薄ら褪せた丈長のカーディガンを羽織って、見知った女性が顔を覗かせた。

「お久し振りです。なんです、ここ?」
「入り口に書いてあったろう?」

 裸電球の淡い光。隙間風に揺れる彼女の影が、指にシケモクを弄ぶ。

「ジュード・キス。《ユダの接吻》さ」

 どこか虚ろな瞳を揺らして、ザハロフさんは随分と短くなった煙草をくわえた。
 火灯りも、紫煙も出ない。
 前に嗅いだバニラの香りはもうくすんで、今はただ苦い残り香だけを漂わせていた。

「そうじゃなくて」

 言葉を探す脳が、考えるのを止めた。
 シケモクをくわえるザハロフさんの目が、深い海底のように暗かったから。

「ここは、何を売る店ですか?」
「なんでもさ。在庫があれば、武器だって淡い恋心だって、なんだって売るよ」

 訳がわからない。
 いつものザハロフさんの戯れ言か、それとも誇大表現か。どっちにしても、少し引っ掛かった。
 いつもニヒルに笑うザハロフさんが、今日に限っては笑いもしない。
 泥棒にだけは真剣な友崎の紹介もあってか、疑問は募るばかりだ。

「……友崎達馬もここに来たんですか?」
「おや、ザキ君の紹介だったか」

 カーディガンのポケットから五円玉のチョコレートを取り出して、僕に渡してくる。
 ポケットの小銭を出そうとすると、首を振られた。どうやら好意らしい。
 「有り難う御座います」と言って、口に含む。何故だか、苦い。

「彼の母親が常連だったのさ。彼はその付き添いで、よく来ていたよ」

 懐かしそうに語るその瞳は、けれど深い黒に沈んでいて。虚ろだったそれはどんどん剣呑になっていく。

「さあ、最初の質問に答えようか」

 ささくれだった瞳が、僕を見据えた。
 足がすくむ。息がつまる。光のない瞳に、視線が吸い込まれる。目眩がした。

「ここは、負け犬共の避難所。忘れん坊の泥棒が盗んだ「要らないもの」を売りさばく、卑しい盗品窟さ」

 さて、何がお望みだい?
 ザハロフさんの声が歪む。耳に膜が掛かったように、脳内で言葉が反響する。
 忘れん坊の泥棒?
 盗んだもの?
 盗品窟?
 なぜザハロフさんがそんな店を?
 何度キーワードを繰り返しても、答えなんて出やしない。

「本当に、何でもあるんですか?」
「ああ、もちろんだとも。何なら明日、泥棒が盗んだ七夕竹でも返しておこうか?」
「やれるものなら」

 混乱する頭で、なんとか言葉を絞り出す。
 ザハロフさんが喋る度、頭がこんがらがっていく気がした。
 夏休みの始め。天月と探した七夕竹は、僕たち二人しか知らない最初の泥棒探し。
 それを的確に言い当てられたのだから、僕の頭はますます混乱していく。

「あの……それと」
「強欲なお客さんだ、まだ何か?」

 疑問符でごった返す思考が、何かにすがろうとする。
 射抜くようなザハロフさんの冷たい瞳も気にせず、ただ答えだけを求めて、口を開く。

「イジメられていた女の子、いませんか?」

 それはきっと、あの日のかくれんぼ。消えてしまった、消させてしまった女の子の記憶。
 泥棒を頼った僕に背負わされた、罪と罰への懺悔なのかもしれない。

「会ってどうする?」

 胡乱な視線が僕を試す。侮蔑と諦念を混ぜた、黒の瞳孔。
 考えなしに言葉を吐く僕に、その瞳はいやに小さく映った。
 立ったままの足に流れ落ちていく血液が、やけに熱くて居心地が悪い。

「謝ります。僕のせいで、彼女の人生を変えてしまったから」
「独善的だね。それで思い出したくない傷を抉るのかい?」

 ぎりり、と歯が鳴った。
 僕じゃない、ザハロフさんだ。一緒に噛み締めたシケモクが、歯と歯の間で潰される。

「そりゃ独善だよ、独善。君は謝ってある程度スッキリするだろうが、生乾きの傷を抉られた少女はどうなる? また血を流すぜ」

 苦虫を噛み潰した。僕も、ザハロフさんも。
 初対面の人間に助けを求めるくらい傷付いた少女から、僕は家族を奪ってしまった。
 そして今度は、時間が癒しかけた傷を抉ろうとしている。何も、言い返せない。

「結局の所、君は虚飾と利己主義の塊さ。人間臭いったらありゃしない」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「知らんよ」

 詰め寄る僕に、ザハロフさんは吐き捨てる。

「それより君は、何かマズいことになったからここに来たんだろう?」

 言われて初めて、自分がストーカー被害に巻き込まれつつあることを思い出す。

「何もかもお見通しって訳ですか」
「そうでもないさ」

 すくめた肩から、長い髪が滑り落ちる。
 この盗品窟にいると、ザハロフさんの機嫌はどんどん悪くなっていくような気がした。

「この件について、君はあくまでついでだよ」
「天月詩乃の、ですか?」
「そ。ストーカーの件だろう?」

 細く形のいい眉が、片方上がる。

「やっぱり知ってたんですね」
「当たり前さ。君が知るずっと前から、私は知っていたとも」

 予想通りだ。ザハロフさんは天月のストーカーを知っていた。
 でなければ普段くれないレシートを、わざわざ郵送する必要がない。

「君がストーカーに恨まれてるってのは、何も昨日始まった訳じゃないぜ」

 それはそうだ。ストーカーが天月に病的な恋心を抱いたのなら、その元恋人である僕はマークされる。
 しかもその元カレが未だに天月と仲がいいとなると、その憎悪が僕に向くのはある種の必然だ。

「もとから、薄々考えてはいましたよ」
「可哀想に。どうやら君には、危機感が足りないらしい」

 褪せたカーディガンの胸元で、華が散った。
 透けた蒼が押し上げる夕暮れ色の火。仄かに鼻を突くガスの香り。
 マッチの安い火が、湿気たタバコに灯りを点す。
 噎せ返るほどに重くて、少し据えたバニラの臭い。前に嗅いだタバコとは、何もかもが違った。

「あの、臭いんですけど」

 苛立つ感情が声に乗る。
 それでも道化師は、全く気にしなかった。

「いいじゃないか、楽しみなよ。最高のアドリブさ」

 死んだ目の道化が、死んだ煙を吐き出して。窓辺の月がそれを嗤う。
 あまりにも冷たい光景。楽しむなんて、とてもじゃないけどできない。

「泥棒がね、一度詩乃ちゃん宛の殺害予告を盗んできたんだ」

 埃を被った棚から一通の封筒を出す。
 チラリとザハロフさんの手から覗いたそれは、隙間なく貼られた切手に彩られている。

「それ、ストーカーの」
「そうとも。これが奴から届いた、最初の一通さ」

 シケモクが照らすストーカーの手紙。
 二日連続で触れるその存在に、胃がねじ切れそうになる。

「こないだ教えた「泥棒の呪い」は覚えてるかい?」

 様々な角度で封筒を眺めながら、ザハロフさんが尋ねてくる。

「無意識に盗みを行う、半人前の泥棒になる」
「そう、その通りさ。後は?」
「盗んだものを忘れられなくなる」
「上等。だがそれを応用すれば、こんなこともできる」

 今から君にお見せしよう。
 短くなったシケモクの煙を、ザハロフさんがそっと吐き出す。
 温い夜に溶けるはずの紫煙は、けれど消えず。灰の煙を夜に広げて、僕らを包んだ。

「なんです、これ……?」

 噎せるような煙たさもなく、匂いもなく。
 ただ僕らを包む煙は、まるで生き物のようだった。

「まあ、見てなよ」

 ザハロフさんの瞳が哀しげに細まった。
 同時に、煙の中に映像が浮かび上がる。

(天月……?)

 煙の中に、天月詩乃がいた。