「美味しかったね。ジョルノ、作業は進んでる?」
リアンの言う作業とは、家の修繕の事である。
約二年。ジョルノ一人で作業しているが、まだまだ終わりそうにないのだ。
皆は知らない事だが、ジョルジョバは家を買う時に、至る所に修繕が必要なこの家を選んだ。それは偏に、元大工のジョルノに、仕事を用意する為である。
「お坊ちゃん、お時間です」
二人が楽しげに話していると、声が聞こえた。ジョルノはどう見ても、お坊ちゃんと呼ばれる程、若作りをしていない。このお坊ちゃんはリアンに向けられているのだ。
そして、この家でリアンの事をお坊ちゃんと呼ぶのは、一人しかいない。
くるりと声がした方へと顔を向けたリアンの先には、やはりショルスキが立っていた。
「うん、行ってくるね」
リアンはいたずらをして叱られた子供のように、ぺろっと舌を出すと、二人に手を挙げ、玄関へと急いだ。
いつもそうだが、ジョルノと話す時は時間を忘れてしまう。機関銃のような、ジョルノの矢継ぎ早に繰り出すお喋りも原因なのだが、年齢こそ大きくかけ離れいるものの、リアンはジョルノを親友だと思っているのだ。
親友とのお喋りは、時間を忘れがちになるもの。リアンにも、それが当てはまるのだろう。
そして、親友だと思っているのはリアンだけではない。ジョルノもそう思っている。
この二年という月日の中で、二人はより親密になったのだ。
玄関のドアを開けると、目の前に一台の黒い車が停まっていた。光沢があり、傷一つ付いていないところから見て、大事に乗られている事が分かる。
助手席のドアを開けたリアンは、挨拶をしながら、車に乗り込んだ。
「おはよう」
「おはよう、今日はゆっくりなんだな」
ハンドルから手を離し、左腕へと視線を落としたスワリは、嵌めている黒い腕時計を眺めた。
「ジョルノとお喋りしちゃった」
てへっと言いそうな顔をしたリアンは、いつも通りシートベルトを嵌めた。
「ジョルノとお喋りか、いつも通りだな」
スワリは鍵穴に差し込んでいる鍵を右手で摘まむと、右方向へと回した。
毎日、スワリの手により整備されている車。軽やかな音を立て、エンジンが掛かった。
「よし、行くか」
ハンドルを握りフロントガラスへと視線を向けたスワリは、彼の仕事を全う為べく、車を走らせる。
スワリは運転手として、ジョルジョバに雇われている。
この家からリアンが通う学校までは、徒歩で行くには距離がある。スワリが送り迎えをしているのだ。
ジョルノ、ビスコ、スワリ、ショルスキ。
雇っているとはいえ、リアンとジョルジョバは昔と変わらず、皆と共に生活している。それは偏に、ジョルジョバが世界的に有名なピアニストだから出来ている事だ。
仲間と暮らせる事を、リアンは幸せに思っていた。
その幸せな日々の中、リアンは毎日欠かさずにピアノを弾き続けている。
そんなある日、いつものようにリアンのピアノ演奏を聴き終えたジョルジョバが、リアンにある事を告げた。
「リアン、コンクールにエントリーしといたからな」
「え?僕が出るの?」
突然の告白に、リアンは驚いている様子だ。
「あぁ、そうじゃ。みんなにリアンのピアノを聴いてもらってこい」
既に誰かと競わせるレベルではない事は、ジョルジョバは分かっている。だからこそ、そんな言葉が出たのかもしれない。
コンクールを目指し、リアンは今までピアノを弾いてきた訳ではない。
心がピアノを求めている。指先が鍵盤に触れたがっている。リアンはそんな理由でピアノを毎日弾いてきた。しかしそんな理由でも、目指していたものがある。それがプロのピアニストだ。
リアンはコンクールよりも先にある、プロのピアニストになる事を見据え、元気良く返事をした。
「うん!」
そして月日は流れ、リアンが演奏するコンクール当日となった。
「リアン!皆にお前のピアノを聴かせてくるんだぞ!」
玄関から身を乗り出し、ジョルノは大袈裟に手を振り、車に乗り込むリアンに声援を送る。
「うん!行ってくるね!」
元気良く返事をしたリアンは、高鳴る胸を抱えながら、車の助手席に乗り込んだ。
勿論、その車の運転席にはスワリが座っている。
「スワリ、よろしくね!」
「あぁ、教授は一緒に行かないのか?」
一緒に行かないとは聞いているが、スワリは確認の為に、聞いているようだ。
「うん!後から来るんだって!」
元気良く答えたリアンは、少し興奮している様子だ。
「そうか、じゃあ行くか」
ハンドルを握り、アクセルが踏まれた車は、ゆっくりと玄関の前から離れて行く。そして公道へと出た車は、真っ直ぐに続く道を走り続ける。それから約二十分後、二人を乗せた車は目的地に着いた。
スワリにとっては、通い慣れた会場。リアンにとっても、お馴染みの会場だ。
車を降りたリアンは、会場を見上げた。
この場所は、尊敬する父であり、憧れるピアニストでもあるジョルジョバが、定期的にコンサートを開いている会場である。
そんな憧れの場所を見上げているリアンの目には、大きく聳え立つ山のように写っているかもしれない。
「リアン、頑張れよ。俺も後でもう一度来るからな」
会場前のスペースに車を停めているスワリは、運転席の窓からリアンの背中に向け手を上げた。
「…うん、送ってくれてありがとう」
会場から目が離せないリアンは、目をキラキラと輝かせながら、スワリに背を向けたままお礼を口にした。
背後から、車が遠離る音がする。スワリが帰って行ったのだろう。リアンはようやく会場から目を離すと、振り返った。やはりそこには、乗ってきた車の影はない。
今まで歩んで来た人生が、走馬灯のようにリアンの頭を一瞬にして駆け巡る。
悲しみも喜びも、様々な感情を経験してきた人生。
人生を語るには、まだ若すぎるが、リアンの周りにはいつもピアノがあった。
リアンは未来を見据える為に、会場へと視線を戻した。その会場前には、人集りができている。その人集りの中には、コンクールの出場者もいるかもしれない。
リアンは襟を正し、真っ直ぐに頭を下げた。そして心の中で、憧れのこの会場でピアノを弾ける感謝を、誰に言うでもなく呟いた。
頭を上げたリアンは、喜びを噛み締める。そして会場へと向け、第一歩を踏み出した。
踏み出せば、踏み出す度、思い出が頭を駆け巡る。初めてピアノに触れた、幼き日の自分。そこには父が居た。
初めて聴いたピアノの音も、初めて覚えたピアノの曲も、弾いていたのは全て父親のフェルドだった。
フェルドと暮らした幼き日の記憶。そして、愛するフェルドが死んでしまった時の、悲しみの記憶。その記憶の側らには、ピアノがあった。
ジャンと暮らすようになってからもそうだ。
リアンは日々の生活の中で、毎日ピアノを弾いていた。それはマドルスと暮らすようになってからも、何ら変わる事はなかった。しかし、共に暮らした愛する者達は、今はもういない。
その者達に、今日のピアノを聴かせたい。
そう強く願った時に、会場内の受付と書かれた看板の前で、リアンは立ち止まった。
受付の机の前には、二人の男が立っている。
「…参加者の方ですか?」
眼鏡を掛けた方の男がリアンに気付き、そう尋ねた。
「はい」
少し緊張している様子で、リアンは答えた。
「…お名前よろしいでしょうか?」
「リアン.フィレンチです」
ジョルジョバと同じフィレンチの姓を告げたリアンは、すっかりその名前に慣れ親しんでいるようだ。
「…か、確認できました。あちらの矢印に従い、控え室にお進みください」
名簿の中からリアンの名を見付けた眼鏡の男は、興奮した様子で顔を上げると、壁に貼られている控え室と書かれた紙に向け、手を差し向けた。
その紙には、道順を表す矢印も書かれている。
「こちらをどうぞ」
眼鏡の男の隣の寝癖が目立つ男が、時間進行の書かれた紙をリアンに手渡した。
お礼を言ったリアンは、矢印に従い控え室に向け歩き出した。
その遠離るリアンの背中を、興奮気味に眼鏡の男が見詰めている。
リアンの背中が視界から消えた。そして、眼鏡の男が呟いた。
「…なぁ」
「ん?どうした?」
「あの子、ジョルジョバの息子だぞ」
「ジョルジョバ?…ジョルジョバ.フィレンチか?」
寝癖の男は、少し興奮気味に尋ねた。
「他に誰がいるんだよ。ジョルジョバって言ったら、ジョルジョバ.フィレンチしかいないだろう」
「まじか!」
そう言った寝癖の男は、目をキラキラと輝かせ驚いている。
寝癖の男が驚いているのも、無理はないだろう。彼は大が付く程、ジョルジョバのファンなのだ。
そんな憧れの大ファンの息子と知り、寝癖の男の興奮は、収まる事を知らなかった。
その彼より驚きを隠せずに興奮しているのは、何を隠そう眼鏡の男である。眼鏡の男は、寝癖の男を凌ぐ程の、ジョルジョバのファンなのだ。人は彼の事を、ジョルジョバの熱狂的ファンと呼んでいる。そして、眼鏡の男はジョルジョバ以外にもう一人、熱烈に応援しているピアニストがいる。
その名は、マドルス.ソーヤー。
今は亡き、リアンの実の祖父である。
もし、眼鏡の男がその事実を知ったならば、彼は興奮のあまり、気絶してしまうのではなかろうか。いや、もしではなく、気絶してしまうだろう。
眼鏡の男は、ジョルジョバの息子のリアンがコンクールに出場するというだけで、これ程に興奮しているのだ。
何故、眼鏡の男が、リアンとジョルジョバの関係を知っているのか不思議に思う者もいるだろう。
それは、この男がジョルジョバの熱狂的ファンだから知り得た情報なのだ。
眼鏡の男こと、ミッシランは、ジョルジョバが開くコンサートに欠かさずに行っている。そして、ジョルジョバが帰りの車に乗り込むまで見送る事をルーティンとしている彼は、運転手のスワリと話すようになったのだ。
しかしスワリもお喋りな性格ではない。普段あまり喋らない、寡黙な男だ。そしてジョルジョバを見送るのは、ミッシランだけではない。多くの者が、車が会場から離れて行くのを見送っている。しかし、ミッシランだけが、大雨の日だろうが強風の日だろうが、毎回欠かさず車の近くでジョルジョバを見送っていた。
その姿を目の当たりにし、スワリから話し掛け始めたのだ。
「たまに見掛ける、あの子は誰なんですか?」
その日ミッシランは、昨日ジョルジョバと一緒に車に乗り込んだリアンの事を、スワリに尋ねた。
「あの子?」
仕事を始めてから吸い出した煙草の煙を吐き出しながら、スワリは尋ね返した。
「昨日、ジョルジョバさんと一緒に帰って行った、男の子ですよ」
「あぁ、リアンだよ。教授の息子さ」
「やっぱり!リアンさんは、ピアノを弾かれるのですか?」
「あぁ、もの凄い上手いよ」
「や、や、やっぱり!聴いてみたいな、リアンさんのピアノ!」
こうしてミッシランは、リアンがジョルジョバの息子だという事実を知ったのだ。しかしこのミッシラン、未だジョルジョバと話した事がない。勿論、リアンとも先程までは話した事がなかった。
ミッシランは、いつも車から数十メートル離れた場所から見送っている。
それは、崇拝するジョルジョバとは同じ場所に立ってはいけないという、彼なりの敬意であった。
矢印に従い進んでいると、リアンは控え室と書かれた紙がドアに貼られている部屋に辿り着いた。
ドアの前には、黒いスーツを着た男が一人立っている。
「参加者の方ですか?」
リアンに気付いたスーツの男が、柔やかな笑顔を浮かべている。
「はい」
「では、こちらでお待ちください」
スーツの男はそう言うと、リアンの為にドアを開けてくれた。
「ありがとうございます」
お礼を言ったリアンは頭を下げると、部屋に入った。
部屋の中は、その小さなドアからは想像できぬ程に広い。部屋の広さは、バスケットコート二面分は優にあるだろう。その部屋の中には、二十人程の人が居る。恐らく、全員がコンクールの参加者なのだろう。
部屋の中には、椅子やテーブルが壁際や中央にいくつも置かれている。そのテーブルの上に、各々荷物を載せているようだ。
リアンは誰もいない壁際のテーブルを見付けると、そこに手荷物を置き、近くの椅子に腰掛けた。そして気持ちを落ち着かせるように、目の前の真っ白い壁を見詰める。
部屋の中はリアンと同世代の者しかいない。
はしゃぐような幼子がいない部屋の中からは、騒がしい声など聞こえてはこない。
白は癒しの効果があるのだろう、リアンの心は直ぐに落ち着いた。そして徐に立ち上がると、くるりと振り返った。
遠慮無しに、ライバル達に視線を注ぐ者。
緊張の余り、体をガタガタと震わせている者。
部屋の中の者達は、様々な性格なようだ。
ライバルを意識するというよりも、リアンはどんな者達がこの憧れの会場でピアノを弾くのか気になり、周りの者達へ遠慮気味に視線を送っている。
そのリアンの視線が、一人の少女とぶつかった。
何年も会っていなかったが、お互いが直ぐに分かった。
「…リアン!」
自分を見詰めている少女が、叫びながら駆け寄って来た。
「…ジュリエ!」
共に暮らした時間はそれ程長くはないが、リアンの記憶に残る、従妹の少女と重なった。
「リアン!」
ずっと心配してきたリアンが、目の前に現れたジュリエは、思わず抱き付いてしまった。
音といえば、静かな話し声しか聞こえていなかった部屋の中。大きな声を出せば、誰もが気付く。
まだ若い男女が抱き合う姿を、目を丸くして皆が見ている。
「…元気だった?」
リアンから体を離したジュリエは、目に涙を浮かべそう言うと、リアンの目を見詰めた。
「元気だったよ…ジュリエこそ元気だった?」