「私はいいことだと思うわ」

「え……?」

私が押し黙ったままでいると、暖花さんは穏やかな口調のままそう言った。

「雨音も理人も、相手のことばかり考えて自分の気持ちに蓋をするところがあるから。たまには遠慮せずに、ぶつかることがあっていいと思うの」

暖花さんの言葉にハッとして顔を上げると、反対に彼女の方が目を伏せた。
その目元が、やけに悲しそうに見える。

「私も昔は理人とよくケンカをしたわ。ケンカといっても、いつも私が一方的に怒ってるだけだったけど、理人が私に不満を持ってるってことは分かってた」

つらつらと語られた事実に、私の胸は嫌な音を立てた。

暖花さんは理人さん想いを知らずとも、なんとなく感じ取っていたのだろう。
彼女もまた辛い思いをしていたのだと、私はこのとき初めて知った。

「正直あの子の考えることは、今でもよく分からないところがあるの。言いたいことがあるなら言葉にしてほしいって、何度も思っていたわ。でも結局、私たちは分かり合えないまま成長してしまった」

暖花さんが私に向き合うように体の向きを変えた。
なんとなく彼女の目が見られず、彼女がつけている小さなピアスの方を見る。

「雨音も理人に何か言いたいことがあるんじゃないの?」

「…………」

「相手のことを思いやるのも大事なことよ。でも、そのことで雨音悩んでしまうのなら、きっとそれは理人の本意ではないはずだわ」

私の目からまた、じわりと涙が滲む。
私がこのままずっと思い煩っていたら、いつかそれすら、理人さんを悲しませてしまうことになるのだろうか。

「平気よ。理人だって立派な大人なんだから。雨音の思いだってきちんと受け止めてくれる」

暖花さんはそう言うけれど、この気持ちを打ち明ければ、彼を傷つけることは分かりきっている。
そんなこと、できるわけがない。

私、もうどうすればいいの。

「とにかく、今日は疲れたでしょう? 理人には私から連絡しておくから、雨音はもう休みなさい」

「……迷惑かけてごめんね」

「やだ、迷惑なんて思ってないわ。私は二人のお姉さんなんだから。なんでも頼っていいのよ」

暖花さんは詳しい話を聞くことなく、それからずっと私のそばにいてくれた。

彼女は優しい。
美人で、気が利いて、大人で、私にはない素敵なものをたくさん持っていて、理人さんが彼女を好きだった理由が痛いほどよく分かる。
たとえ私が理人さんの家族ではなかったとしても、私は彼と釣り合うような人にはなれなかっただろう。
暖花さんのような、そんな女性には。

勝手に卑屈になりながら横になり、借りたブランケットを頭まで被る。
今日はもう、何も考えたくなかった。
目を閉じて、疲れに身を任せながら眠りに就く。
うとうととした微睡みのなか、私を呼ぶ理人さんの声が聞こえたような気がした。



それから結局、私は暖花さんのところで二日もお世話になってしまっていた。
ずっとここにいていいと言ってくれた彼女の言葉に甘え、学校も同じだけ休み、マンションの中に籠っている。
しかしこのままいつまでも厄介になっているわけにもいかない。
三日目の朝。
意を決してトロイメライに戻ると伝えると、暖花さんは少し驚いた表情をしてから、ホッとしたように微笑んだ。

「よかった。実はね、理人の方も大変だったのよ」

「大変?」

「お客様から見えないところで、ため息ばっかり吐いてたの。あんなに打ちひしがれてる理人、初めて見た」

「よっぽど雨音に家出をされたのが堪えたのね」と.暖花さんはおかしそうに言った。
彼女はなんともなさそうにしてくれるけれど、やはり私は、二人にたくさんの心配をかけてしまったのだ。

そんな当たり前のことを今さらながらに悔やんでいると、ふいに暖花さんがぎゅっと抱きしめてくれた。
ふわりと香るシトラスノートに、ゆっくりと身を寄せる。
何度となく与えてもらった優しさにもう一度浸りながら、私はその華奢な体に縋った。

「辛かったら、またここに来なさい」

耳元で囁かれた言葉に頷き、顔を上げる。

「ありがとう、暖花さん」

感謝の気持ちを笑顔で表して、私はそのまま暖花さんの家を出た。
空には薄く雲の刷いた青が広がり、澄んだ空気が心地よく、朝日の眩しさに目を細める。

二日間、私はずっと理人さんのことを考えていた。
けれども、やはり私の意志は変わらなかった。

理人さんにこの想いを伝えることはない。
たとえ隠し通すことで彼を困らせてしまったとしても、絶対に伝えてはいけない。
そもそも彼を傷つけるだけだと分かりきっていることを、私にできるはずもないのだ。
願うのは、理人さんの幸せだけ。
それで、十分だ。

改めて自分の気持ちを確認しながら歩いていくと、すぐにトロイメライの前に着いた。
定休日のため、ドアにはcloseと書かれた掛け看板が下がっている。
中に人がいるような気配もない。
理人さんはもう起きているだろうか。
会ったら、まず何と言ったらいいだろう。
そんなことを考えながら家の玄関の方へと回ると、ドアの前で俯きながら寄りかかる理人さんの姿を見つけた。

「理人さん……」

どうしてそんなところにいるのだろう。
そんな驚きの混じった声で、彼の名前を呼んだ。
呼んだと言うより、呟いたと言った方が正しいくらいの声量だったかもしれない。
それでも理人さんは、私の声にパッと顔を上げてくれた。

「さっき姉さんから、雨音が帰ってくるって連絡があって。居ても立っても居られなかったから、ここで待ってたの」

自嘲するような笑みを浮かべた理人さんは、そう言って私の元に駆け寄った。
普段の彼ならばすることもない表情に、胸の痛みを覚える。
しかし、彼にそんな表情をさせてしまったのは、他でもない私なのだ。

「おかえりなさい」

「ただいま」

努めて冷静さを保つようにしながら、いつもどおりの挨拶を交わし、私たちはともに家の中へと入った。
理人さんの後ろ姿を追いながら、お互い何も言えずに廊下を進む。
彼もきっと、次の言葉に迷っているのだろう。

「……突然家を飛び出したりしてごめんなさい」

このまま黙ったままでいては、何事もなかったかのように話が流れてしまうかもしれない。
そう危惧した私は、リビングのドアを抜けるなり、先手を打って謝った。
迷惑をかけてしまったのだから、きちんと謝らなければならないと思ったのだ。
まっすぐ前を向いたままでいると、私の言葉を聞いた理人さんは、慌てた様子で振り向いた。
「アタシこそ、変なことを言ってごめんなさいね」

そう言って眉を下げる彼に首を振る。

「ううん、理人さんは何も悪くないよ。私が……ムキになっただけ」

慣れない恋愛の話に動揺して、逃げ出した。
私は今回のことに、そんな理由をつけて決着させようと考えていた。

へらりと笑って、理人さんの表情を窺う。
彼は呆気にとられたように目を開いたまま、言葉を失っているようだった。

「まだまだ子供だよね、私」

言い返されないうちに、話を終着させる言葉を吐く。
大丈夫、表情を変えずに上手く話せたはずだ。
私にしてみたら上出来だろう。

これでいい。
これで、終わり。

「勉強、二日もサボっちゃった。学校はこれから行くね」

仕度をするために、くるりと踵を返した。
そのまま早々にリビングを出て行こうと、右手をドアノブにかける。

「待って、雨音」

しかし理人さんに左の手首を掴まれ、私は足を止められた。
振り向けば、彼のしかめた顔が目に映る。
どうやら納得してくれていないらしい。

「もう少しきちんと話をしましょう?」

「話すことなんて何もないよ。急がないと二限に間に合わなくなっちゃう」

こうなってしまえばと、私は理人さんの良心につけこむ、ずるい手段をとった。
私が困ったように装えば、すぐに手を放してくれると思ったのだ。
私が否と言ったことを彼が無理強いしたことなんて、今まで一度もなかったのだから。

しかし彼は放すどころか、私の手首を掴む力をさらに強めた。
痛みはないものの、このままでは彼から離れられない。

ねぇ、気づいて。
このままでは私は、あなたを傷つけてしまう。

「理人さん……」

諌めるように名前を呼んだが、彼はまるで反応をしてくれない。
代わりに力強く腕を引いても、男性の理人さんに適うわけがなく、私たちはしばらく押したり引いたりという応酬を繰り返した。

気づいて、理人さん。
でも、私の想いには気づかないでいて。
そんな相反する想いが頭の中で交錯して、どうにかなってしまいそうだ。

「……早く行かなきゃだから」

「少しでいいの」

「理人さん」

「お願いだから待って」

「理人さん! 放して……!」

互いに混乱が高まってきたころ。
言うことを聞かない私に、ついに痺れを切らした理人さんは、一際強く私の腕を引いた。
そのあまりの強さに体がつんのめり、彼の方へと倒れ込む。
そのまま、私は彼の腕の中に閉じこめられた。

「放さない……!」

吐いた言葉を体現するように、きつく抱きしめられる。
思わず感じてしまった体温に、文字どおり息が止まった。
どうして。
どうして分かってくれないの。
どうしてこんなことをするの。

理人さんの腕の中で、私はどうしようもできない思いに駆られていた。
好きな人に抱きしめられているというのに、甘さなんてひとかけらも感じられない。
徐々に浮かんでくる涙を必死になって堪えた。
ここで泣いてしまっては、きっと取り返しがつかなくなる。

「アタシが今こうしていることが、あなたを追いつめることだって分かってる。でも、やめてあげられない」

身長差のせいで意図せず耳元で囁かれ、私はびくりと肩を揺らした。
これでは意識していることが丸分かりだが、だからと言ってどうすることもできない。
きつく抱きしめてくる胸に手を当てて押し返しても、宣言されたとおり、びくともしないどころか、余計に力を加えられてしまった。

「ねぇ、雨音。あなたはアタシの大切な子よ。だから自分が傷つくことより、あなたが傷つくことの方がよほど辛いの」

「私、傷ついてなんか……」

「それ、アタシの目を見て言える?」

すると理人さんは私の顎をすくい、至近距離で瞳を覗きこんだ。

どうしよう。
きっと今だって、私は愛しい人を想う目をしているはずなのに。

目を瞑ることもそらすことも、否定も肯定もできず、曖昧に瞳を揺らす。
どうか気づかないでいてと、強く祈りながら。

「あなたを傷つけているのはアタシなんでしょう? だとしたら、それはアタシにとって何よりも辛いことだわ」

理人さんの持つ色素の薄い目が、私の理性を溶かそうとする。
その色を振り切るように拳をつくり、彼の胸を叩いた。

「ごめん、言えない」

「雨音……」

「私も理人さんと同じだから。今思ってることを言ったら、絶対に理人さんを傷つける。だから言えない」

俯いて、やっと彼と距離を取る。
握っていた拳が、だらりと開いていた。

結局、私は上手く立ち回れないままだ。
そんな自分が嫌になる。

今、理人さんはどんなことを考えているのだろう。
どんな表情をしているのだろう。
怖くて、彼の顔を見ることができない。

「……雨音は、アタシが嫌い?」

「っ、どうしてそうなるの」

すると突然、理人さんは全く予想外なことを言った。
その言葉に驚き、つい顔を上げると、彼は落ち着いた微笑みをたたえながら私を見下ろしていた。

どうして今、そんなことを聞くのだろう。
ふざけているようには見えないけれど。

「アタシが雨音に傷つけられるとしたら、それはあなたに嫌われたときくらいよ。ねぇ、アタシのこと、もう嫌いになっちゃった?」

「……私が理人さんを嫌いになることなんて、あるはずないでしょう」

「本当に?」

「当たり前だよ……」

「そう、よかった」

これではまるで、母親に嫌われたくない子供みたいではないか。
なんだか間の抜けたやりとりに、肩の力まで抜ける。
私に傷つけられるとしたら、それは私に嫌われたときだなんて、この気持ちを知らないからこそ言える綺麗事だ。
この熟れすぎた果実のようなどろどろとした想いをぶつけられたら、きっと困ってしまうくせに。
心の中で悪態を吐きながら、もう立ち去ってしまおうと考えていると、ふいに彼の右手が近づいてきた。

「じゃあ、アタシのことが嫌いじゃないなら――」

そのまま、その大きな手のひらが、私の左の頬を包む。

「――……それなら、好き?」

たった一瞬。
好きと形づくった彼の唇の動きが、やけにくっきりと目に映って、私の視界は真っ黒に染まった気がした。

気づかれている。

いつ、どこで、どうして。
どうして、どうして、どうして。
分からない……分からない、でも、理人さんは私の気持ちに気づいている。
それを知った瞬間、私の体はわなわなと震えだした。

「正直に言うとね、そうなんじゃないかって思うときがあったの。アタシも大人だもの。そんな真っ直ぐな目で見つめられて、その想いに気がつけないほど鈍感でいられない」

「……ごめんなさい」

「謝らないでよ。……ううん。謝らせているのはアタシだものね。雨音はアタシが傷つかないように、秘密にしてくれていたんでしょう?」

そうか、お子さまな私の考えや我慢なんて、彼にはお見通しだったのだ。
つまり私は、一人で無駄に悩んだり空回ったりしていただけだったのだろう。
自分の浅はかさに、ほとほと嫌気が差す。

「雨音。アタシ嬉しいわよ、あなたの想いが」

「……嘘」

「嘘なんかじゃないわ。そのことで傷ついたりもしない。だって世界で一番大切な子が、アタシのことをこんなにも想ってくれているんだもの。嬉しくないわけがない」

真剣に告げられた言葉に、ついに私は顔を歪ませてしまった。

「だから、アタシの正直な気持ちも聞いてほしいの」

理人さんの切実な声が響く。
その声に、私はぎこちなく頷いた。



お互いに気持ちを落ち着かせるため、私たちはダイニングテーブルに向かい合って座った。
しかし私はなおも理人さんの顔を見れず、ぐすりと鼻を鳴らしながら、視線を横に逸らしている。
そう言えば、この時分はリビングにいるはずのキルシェの姿がどこにも見えない。
彼女のことだから、私たちの空気を敏感に感じ取って席を外したのだろうか。

「アタシたちは家族だし、アタシは雨音よりひと回りも年上でしょう? 普通に考えて、アタシなんかよりも雨音にふさわしい人はたくさんいるわ」

するとついに、理人さんが重たそうな口を開いた。

いつもよりもゆっくりとした話し方なのは、私を傷つけまいと、言葉を選んでくれているからなのだろう。
きっと今、彼は優しく私を振ってくれている。

「だからこのまま、あなたの想いに気づかないふりをしていれば、雨音もそのうち諦めて、別の素敵な人を見つけてくるだろうって思ってたの。そうするのが、あなたにとって一番いいって」

慎重に紡がれる言葉を聞きながら、私は無意識に唇を噛んでいた。
想いが報われないことが悲しいわけではない。
初めから叶わない恋だと分かっていたのだから。
私はただ、わざわざ理人さんにこんなことを言わせたくはなかったのだ。
彼だって、私の気持ちに気づきたくなどなかっただろう。

「雨音」

悔やむ気持ちでいっぱいになっていると、理人さんが強い声で私の名前を呼んだ。

顔を上げてほしいということだろうか。
悲しいし怖いけれど、おそるおそる視線を上げれば、今度は辛そうに顔を歪ませた彼の表情が目に映った。
その表情を、心苦しく思いながら見つめていると。

「でもね。このあいだ、あなたが颯司に抱きしめられているところを見てしまったでしょう」

「うん……」

「あのときアタシ、嫌だと思ったのよ」

ふいに、話の流れが変わったことに気づいた。

「え……?」

私が颯司くん抱きしめられているところを見たとき、理人さんは嫌だと思った……?

思わず、訳が分からないという視線を理人さんに送る。
彼は私からの視線を受け止めたまま、一瞬だけ思いつめたような顔をすると、すぐに諦めの感情が混ざった笑みを浮かべた。

「颯司に雨音を取られるのが嫌だって思ったの。親心じゃなく男として。アタシ、颯司に嫉妬したのよ」

息を吐き出し、呟かれた言葉。
それは私にとって、あまりにも思いがけないものだった。

曇っていた思考が、さらにかき回される。
理人さんは一体何を言っているんのだろう。

「それで気づいたの。アタシ、あなたを妹としてじゃない。一人の女の子として見てるんだわ」

「本気で言ってるの……?」

「こんなときに嘘なんか言わないわよ」

眉を下げたまま、それでも私から目を逸らさない理人さんは、とても誠実な瞳をしていた。
きっと彼の言うとおり、嘘でも冗談でもフォローでもないのだろう。

けれど、いきなりそんなことを言われても信じられない。
私が理人さんに向ける感情と同じものを、彼が私に抱いてくれているかもしれないなんて。
まさか、そんなこと。

「アタシ、間違ってた。家族を好きになる辛さなら誰よりも分かっているはずなのに。あなたのことを考えていたつもりで、あなたをずっと傷つけていたのよね」

理人さんの声を聞きながら、私はのどの奥からこみ上げてくるものを感じていた。
ずっと堪えていた涙がじわりと溢れ、ぼたぼたと流れ落ちていく。

違う、理人さんは悪くない。
そう伝えたいのに、もう何も声にできなくて、ひたすらに首を振った。

「女の子をこんなに泣かせて。アタシったら本当に情けないわ」

理人さんはそう言うと、静かにイスから立ち、私の元まで来てくれた。
そのまま、私が夢に魘されたときと同じ優しさを持って、もう一度抱きしめられる。
嬉しいのか信じられないのか、今でもまだ怖いのか。
よく分からない、たくさんの感情がこもった涙は、留まることを知らない。

「アタシはこんな男よ? それでも雨音は、アタシを選んでくれるのね?」

柔らかい声で、核心をつかれる。
私はいまだに下がったままの自分の両腕を思い出しながら、その問いに躊躇いを見せていた。
理人さんの声に頷き、その背に手を回すのは容易いことだろう。
けれどそれをするのが私で、本当にいいのだろうか。
彼に似合う人は、もっと他にいるはずなのに。
彼の幸せを願えば、そう思わずにはいられない。

けれどもう、好きで、好きで、どうしようもないくらい苦しくて。
こんな想いを彼が受け入れてくれるのならば、身を任せてしまいたいと考えてしまう。
すると、揺らぐ気持ちに追い打ちをかけるように、私を抱きしめる力が強くなった。

「雨音。何度も言うけど、あなたはアタシの世界で一番大切な子よ」

「うん」

「いろんな思いを含めて、あなたを愛してる」

「うん」

「だから今すぐに、あなたを恋人としては見られないかもしれないけれど」

ああ、もう――

「この先も、アタシと未来を歩んでくれる?」

――理人さんが、それを望んでくれるなら。

心を決めた私は、秘めていた想いを打ち明けるように、ようやく彼に抱きついた。

ひと口に幸せだと、手放しでは喜べない。
理人さんの言ったとおり、私たちは家族で、年の差だってある。
私だって、彼の隣に並んでいられる自信なんてない。
けれど現実は、おとぎ話のように大団円で終わることなんてめったにないのだ。
それは私が今まで歩んできた道のりが証明している。

私はこれからも後悔を残したり、不安を抱えたりしながら生きていくのだろう。
それでも、どんな困難が待ち受けていようとも、彼の存在が私を強くしてくれる。
だからきっと、大丈夫。

「……私、理人さんを好きでいてもいいの?」

あたたかい温度に身を委ねながら、まるで夢を見ているかのような気分で尋ねる。
すると、理人さんは思いがけないといった様子で、くすりと笑った。

「本当はずっと、あなたの純粋な想いに触れるたびに、心地いいって思ってた」



翌朝学校へ行くと、私の机の前には仁王立ちした颯司くんが待ちかまえていた。
その表情は笑顔だが、明らかに怒りをにじませているのが分かる。

「俺の言いたいこと分かる?」

「心配かけたよね……ごめん」

「本当だよ。三日も学校休んで何してたわけ? 受験生のくせに」

「返す言葉もありません……」

厳しい母親のような顔つきの颯司くんを見て、友人想いの彼にも心配をかけてしまったと反省する。

学校に来ない私を見舞うため、颯司くんはマリーゴールドの種を蒔いたあの日のように、わざわざトロイメライまでやってきてくれていたらしい。
しかしそこに私は居らず、代わりに落ち込む理人さんを目撃し、暖花さんには「今はそっとしておいて」と言われたそうだ。
今さら颯司くんに隠すことなど何もなく、私はすぐに事の顛末を彼に打ち明け、そして心配をかけたことを重ねて謝った。

「それならそうと、俺に連絡ぐらいしてくれればいいのに」

「何も持たずに家出しちゃって」

「雨音らしいな」

颯司くんが呆れた様子で目を細めるのを見て、私は苦笑いをするしかなかった。

「理人とのこと、暖花にも言ったのか?」

「うん。迷惑をかけた訳も説明しなきゃいけなかったし、暖花さんに隠していたくもなくて」
理人さんと恋仲になったことは、昨日の夜、きちんと暖花さんにも伝えていた。
驚かれたり、反対されるかもしれないと思っていたのだが、しかし彼女はそのどちらもすることはなかった。
代わりに、「理人と雨音の関係性が変わっても、二人が私の弟と妹ということに変わりはないもの」と言ってくれたのだった。
その落ち着きぶりは、告白した私たちの方が拍子抜けするほどで、彼女はこうなることを予期していたのではないかとさえ思った。

「理花子さんも反対しないだろうしな。これで一件落着ってわけか」

「そうだといいんだけど」

「でも、これで余計にトロイメライから離れがたくなったんじゃないか?」

颯司くんが意地悪に笑う。

せっかく想いが通じたのに、私は春から理人さんと離ればなれになってしまうのだ。
それなのに寂しくはないのかと、彼なりの言葉で気遣ってくれているのだろう。

「フラワーデザイナーを目指すってことは、理人さんともライバルになるってことだもん。寂しいとか離れたくないなんて言っていられない」

私がそう言うと、颯司くんは面を食らったような顔をしてから、安心したように微笑んだ。

「そっか。それならもう、雨音は大丈夫だな」

久しぶりに見た彼のそんな表情に、私も勇気づけられる。

うん、大丈夫。
思い煩うことなんて、もう何もない。

「ありがとう、颯司くん」

「別に。俺は何もしてないし」

照れ臭そうにそっぽを向いた彼に、くすくすと笑い声をもらす。
なんだかとても清々しい気分だった。



それからまた、私の日常は勉強漬けの日々へと戻っていった。
学校から帰ってきてはひたすら机に向かっているおかげか、成績は順調に上がっているが、やはり苦手な英語が今ひとつ伸び悩んでいる。
けれど私には、心強い救世主がいるのだ。

「イディオムはかなり頭に入ってきたわね。それと、雨音はやっぱり比較の構文が苦手だから、もう少しさらっておくべきよ」

模試の結果を見ながら的確なアドバイスをくれる救世主――もとい理人さんは、日本語とドイツ語と英語の三カ国語を操れる、いわゆるトリリンガルだ。

最近はトロイメライの営業後、彼に分からないところを聞くことが私の日課になっている。
今日もリビングのソファーに並んで座りながら、弱点を見極めてもらっていた。

「長文問題の正答率も上がってきてる。いい調子じゃないの」

「教えてくれる先生の腕がいいからね」

「あら。嬉しいこと言ってくれるわ」

そう言うと、理人さんは腕を回し、左隣に座っていた私の頭を抱き寄せるようにして撫でた。
そのせいで自然と彼との距離が近くなる。
見上げれば、あの夏の日と同じように彼の瞳に映った自分の恋する姿が見えて、私は恥ずかしさに押し黙ってしまった。

鼓動が早くなっていくのが分かる。
顔に熱が昇って、ひどく暑い。

「もう。どこでそんな顔を覚えてきたのよ」

すると理人さんは困ったような、けれどもどこか色のある声で囁いた。
その声に、胸が苦しいくらい締めつけられる。

「……理人さんが、させるの」

この瞳も、熱も、全部あなたのせいだ。
そんな気持ちを素直に伝えれば、理人さんは眉根を寄せ、なんだか難しい表情をした。
しかしそういう顔さえも美しいのだから本当にやっかいだと思う。
今の私は、彼は些細な表情の変化にすら心を乱してしまって、どうしようもない。

恋する自分に半ば呆れるような心地でいると、突然彼が私の顎を掬った。

「っ…………」

間近で見つめられ、思わず目を見開く。
眼前に迫る彼の顔立ちの美しさに、私は改めて驚かされた。

まるで丁寧につくられた砂糖菓子のように、均整のとれた甘い顔。
自分がこんなに綺麗な人に愛されているなんて、今でも信じられない。
本当に夢を見ているみたいだ。

熱のせいでぼんやりとしてしまった思考の中、理人さんのつくり出す影が、ゆっくりと私に重なっていく。
こんな状況でキスを期待しない女はいないだろう。
そのまま、私は微睡むように目を閉じた。

「……?」

しかしそれからいつまで経っても、私たちの唇が重なることはなかった。
不思議に思って目を開ければ、そこには強ばった顔の理人さんがいる。
目が合うと、彼は私の腕を掴んで押しのけ、自分との距離を取らせた。

「ちょっと待って……!」

「理人さん……?」

「こういうのは雨音が高校を卒業してからよね! いっ、いいえ! 最低でも20歳になってからよ!」

矢継ぎ早にまくし立てた理人さんに、拍子抜けする。

キスは20歳になってからなんて、そんな清純すぎること、今どき小学生でも言わないはずだ。
そう思って唇を尖らせる私を見て、彼は慰めるように微笑む。

「分かってちょうだい。大事にしたいのよ、あなたのこと」

理人さんはきっと、私のことを思って自制してくれているのだろう。
それは分かっている。
けれど、子供に言い聞かせるような声音に、私の不満はますます募っていった。

私は一秒でも早く理人さんに釣り合うような大人になりたいのに、当の彼が私を子供扱いするなんて。
それに簡単に自制ができてしまうくらい、私には魅力がないのだろうか。
そんな些細なことに腹を立ててしまうところが、私がまだ子供だという何よりの証拠なのだと分かってはいるのだが。

「自分は昔、年上のお姉さんと遊んでたくせに」

「ぐっ……。それを言われちゃうと何も言い返せないわね」

「でしょう? それに私だって、もう守られてばかりいたくないよ」

後悔を滲ませながら唇を噛む理人さんに、私は思いきって抱きついた。
ほんの少し前まで、この想いは一生心に秘めておこうと誓っていたはずなのに、いざ報われたら、もっと先をと望んでしまう。
自分がこんなに現金で欲深い人間だったなんて知らなかった。

それでも、彼に愛してもらいたいという思いは尽きない。
ここを離れてしまう前に、ひとつでも多く思い出がほしい。

「……聞き分けの悪い子ね」

「わっ」

トロイメライ

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