懐かしむような口調で、理人さんはゆっくりと呟いた。
「でも、結局アタシが選ぶのは、姉さんに似た年上の人だったわ。そのうちそんな自分が滑稽に思えてきて、面白半分にこの口調で話すようになったら、蜘蛛の子を散らすように周りの女の子が去っていってくれたの」
「その代わり、今度はその手の男が寄ってきたこともあったわね」と、理人さんは冗談めかして言った。
きっかけはそんな始まりだったけれど、その口調は案外彼の性格に合っていたようで、いつの間にか癖になってしまっていたそうだ。
「それにしても、そんな昔の格好悪い話、雨音には知られたくなかったのに。……と言っても、今さらかしら。あなたには格好悪い姿ばかり見せてきてしまったもの」
自嘲するように言われて、私は一瞬、なんのことかと疑問に思った。
格好悪い姿とは、彼の涙を初めて見たときのような姿だろうか。
たしかに私は、暖花さんを想って傷つく理人さんの姿を見てきたけれど、そんな彼を格好悪いだなんて思ったことは一度もなかったのに。
「そんなことないよ。理人さんは今も昔も変わらない、私の憧れだよ」
だから思ったことを素直に告げただけだったのに。
理人さんは「お世辞が上手いのね」と言って、困ったように笑ってしまったのだった。
美幸さんが再びトロイメライを訪れてくれたのは、その次の週の日曜日のことだった。
清楚なワンピースに身を包んで現れた彼女は、今日は隣に長身の男性を連れている。
彼は紛れもない、写真で見せてもらった美幸さんの恋人だった。
「美幸さん! と、彼氏さん!」
「雨音ちゃん、久しぶり。今日はきちんとお客さんとして来たからね」
「またお会いできて嬉しいです」
「ふふ、こちらこそ」
店先で少しだけ談笑し、私は美幸さんから恋人の優児さんを紹介してもらった。
写真で見たとおりの長身である彼は、同じく長身である理人さんと同じか、それ以上に背が高い。
思ったとおり、おとぎ話に出てくる騎士のような人だ。
寄り添って並ぶ二人はとても幸せそうで、美幸さんの言っていた悩みが杞憂に思えてしまうくらいお似合いに見えた。
彼女曰く、今日は優児さんのお母さんの誕生日で、これから挨拶もかねてお会いしに行くらしい。
そこでプレゼントにお花を贈ろうと、二人でトロイメライに訪れてくれたそうだ。
「それなら気合いを入れて花束をつくらなくちゃね」
「よろしくね、理人くん」
意気込む美幸さんと理人さんは、さっそく切り花のコーナーへと向かった。
花束づくりは二人に任せ、男性にお花屋さんは少し居心地が悪いだろうと、優児さんを奥のカウンターへと案内する。
しかし優児さんは美幸さんから目を離さず、私がコーヒーの用意をしているあいだも、熱心に彼女を見つめていた。
その眼差しがあまりにも優しく、そしてどこか切なくて、私の心までじんとあたたかくなる。
「美幸さんのこと、大好きなんですね」
「えっ?」
そう言いながら優児さんの前にコーヒーを出すと、彼は驚きの声を上げた。
「ずっと見つめていらっしゃいますから」
「参ったな。そんなつもりはないんですけど……つい」
「ふふっ。あの、美幸さんのどんなところを好きになったんですか?」
好奇心にかられて聞いてみると、優児さんは耳まで赤くして俯いた。
彼は大人の男の人だけど、今はまるで恋を知ったばかりの少年のように見える。
「女性はそういう話がお好きですよね」
「はい。ぜひ聞きたいです」
「きっかけはありきたりですよ」
彼は顔を赤くしたまま、ぽつりぽつりと美幸さんのことを話してくれた。
「俺が新入社員のとき、何度も仕事のフォローをしてもらったんです。たくさん迷惑かけたのに、彼女はいつも笑顔で励ましてくれました」
「美幸さんらしいです」
「はい。それからです。大変なことも率先してやるところとか、明るいだけじゃなくて、すごく気遣い屋なところに気づいたのは」
「そういうところを好きになったんですね」
すると、優児さんは照れ笑いをしながら頷いた。
「最初は告白しても、冗談だと思われていたんですけどね。俺は彼女よりも五つも年下だし、頼りないし、あっちから見たらどうしようもないガキですから」
優児さんの視線が再び美幸さんへと注がれる。
一生懸命に花を選ぶ彼女の姿に、彼の目が細められた。
「でも俺、頑張ります。いつか彼女に、俺を選んでよかったって思ってもらえるくらい、幸せにしたいんです」
その目は、私のよく知る目と同じ色をしていた。
それは、お客様が大切な人のためにお花を選んでいるときの目。
それは、暖花さんが旦那さんの話をしているときの目。
そしてそれは、理人さんが暖花さんを見つめているときの目。
――愛しい人を想う目だ。
トロイメライで過ごすうちに、私は人が人を想っているときの目を見抜けるようになっていた。
「あっ、美幸さんも気づいた」
「はは、本当だ」
優児さんの視線に気づいた美幸さんが、彼に向かって微笑みを返す。
その目もまた、彼への愛情で満ちていた。
「……すごいなぁ。」
好きな人に自分と同じくらい想ってもらえるというのは、どれくらい幸せなことなのだろう。
恋をしたことのない私には分からない。
けれどきっととてつもない、奇跡のようなことだと思う。
この二人のような幸せが、理人さんの元にも訪れてくれればいいのに。
そんなことを考えながら、優児さんとともに花束づくりの様子を眺めていると。
「ああもう、選べない……!」
数分後、美幸さんは困ったように声を上げた。
その声に驚き、優児さんとともに彼女の元に駆け寄れば、その腕にたくさんの花を抱えているのが見えた。
「どうしたんですか?」
「ああ、あのね。美幸ちゃんったら、使う花の種類で迷ってるの」
「だってここのお花、みんな素敵に見えるんだもの。全部贈りたくなっちゃって」
それを聞いて、もう一度美幸さんが抱えた花に目を落とす。
バラ、カーネーション、ガーベラ、カラー。
彼女の選んだ花はそれぞれに美しいが、色も形も様々だ。
このまま花束をつくるとなると、全体的なまとまりを出すことが難しくなってしまうのだろう。
「もう、しょうがないわねぇ。優児くん、お母様の好きな色は?」
「え? ……ええっと、黄色とかオレンジだったと思いますが」
「分かったわ。それなら、そうね……」
優児さんの言葉を聞いた理人さんは、大量の花の中から黄色とオレンジ色のものだけを抜き取り、少し思案した末に白いカスミソウを加えた。
それらを瞬く間に螺旋状に組み上げていく。
迷いのないその手つきは、鮮やかに手品を繰りだすマジシャンのようだ。
そんな彼の手によって出来上がったのは、元気な色をしたスパイラルブーケだった。
「さぁ、どうかしら?」
「すごい……。とっても綺麗……!」
ラッピングペーパーとリボンでまとめてから美幸さんに手渡すと、受け取った彼女は目を丸くしながら感嘆の声をもらした。
どうやら見事に夢見心地になってしまったらしく、花束から目を逸らせなくなっている。
「どうしてかしら。色んな花が合わさったのに、全然ごちゃごちゃしてない」
「うふふ。色味も統一したし、カスミソウを入れてバランスをとったもの」
「カスミソウって、最後に加えた白い花ですか?」
そう尋ねたのは、美幸さんではなく優児さんの方だった。
彼は花束そのものよりも、理人さんの加えたカスミソウが気になったらしい。
「ええ。カスミソウは周りの花を綺麗に引きたててくれるの。派手な花ではないけど、なんというか、奥ゆかしさがあって素敵でしょう?」
理人さんの言うとおり、カスミソウは小さく控えめに咲く花だ。
それそのものだけで作る花束も可憐だが、他の花を引き立てるため花束に入れられることが多い。
健気に周りを支える、真っ白な花。
花言葉は【清らかな心】、【無邪気】、【親切】、【幸福】などがある。
そんなカスミソウは、なんだか優児さんが好きになった美幸さんにとてもよく似ていると思った。
きっと、彼も私と同じように思ったのだろう。
「……はい。とっても素敵です」
愛おしげに花束を見つめながら、優児さんはゆっくりと頷いた。
「美幸さんも優児さんも幸せそうでしたね」
「ええ、本当に。順調そうでよかったわ」
手をつなぎながら帰っていった二人を見送ってからも、私と理人さんはしばらく彼らの話を続けていた。
「ああいう姿を見てると、やっぱり恋人がほしくなっちゃうわよねぇ」
「理人さんなら、きっとすぐにできるのに」
「それがそうもないのよ。真面目なお付き合いなんてほとんどしたことがないし、ありがたいことに仕事も忙しいしね」
どうしようかしらとため息を吐きながら、理人さんがカウンターの上で頬杖をつく。
彼はそんなふうに言うけれど、私はなんとなく想像がつくような気がした。
理人さんの横に並んで笑う、女の人が。
どんな人かは分からないけれど、きっと美しい大人の女の人なのだろう。
遠くない将来、彼は新しい恋をする。
私の知らない、誰かと。
そう考えたら、なんだか少し息苦しくなるような心地がした。
暖花さんに恋人ができたときも寂しかったけれど、理人さんにも恋人ができたら、私の寂しさは計りしれないものになるのかもしれない。
いつの間にかとんだブラコンになってしまったと思いつつ、きりきりと痛む胸を押さえる。
いまだ頬杖をついたままの理人さんを見つめながら、私は思い浮かんだ未来を心の奥に押しこめた。
――8月。
夏休みも半ばを迎え、今は暑さの盛り。
そんななか私と颯司くんは、とある理由で登校を余儀なくされていた。
「……就職組だからって、なまけてた罰だな」
「あはは、おつかれさま」
互いに用事を済ませた私たちは、炎天下の帰り道を並んで歩いていた。
蝉の声は騒がしく、あまりの暑さのせいか、遠くのアスファルトの上には逃げ水が見える。
颯司くんは今日、夏休みの補習を受けに登校していたそうだ。
どうやら期末テストの結果がどの科目も悲惨で、「このままでは卒業できないぞ」と言われていたらしい。
曰く、あとは出された課題をこなせば、留年の危機は免れるようだが。
いつも以上に気だるげな表情をした彼は、課題である分厚い紙の束で自分を扇ぎながら、心底うんざりしたように息を吐いた。
「そう言えば、雨音はどうだったんだよ、進路面談」
「うん。まぁ、なんとか」
私はというと、今日は担任の先生との進路面談のために学校へ来ていた。
クラス全員の面談はひと月前に終わっていたが、進路に迷っていた私は、とうとう第一志望が決まらないまま夏休みに突入してしまい、休み中にもう一度行うことになっていたのだ。
「先生とたくさん話して、第一志望も変えてきたよ」
「やっぱり東京か?」
「うん。私立の大学」
私が改めて決めた志望校は、都内にキャンパスのある大学だった。
偏差値も倍率もそこまで高くはなく、今の成績なら、これからの勉強次第で十分合格できるレベルらしい。
「……それで、どういう心境の変化があったわけ?」
私が語ったわずかな話だけで、颯司くんはほとんどすべてのことを悟った様子だったけれど、あえてそう尋ねてくれた。
ずっと溜め込んでいたこの思いを。聞いてくれようとしているのだろう。
横目で静かにこちらを見た彼の視線を、私も自分の瞳で受け止め、息を吸い込む。
「颯司くん、最近の理人さんの作品、見た?」
「理人の……?」
私が聞くと、颯司くんは特段迷った様子もなく、「最近だと、あれだろ?」と答えた。
「コンベンションセンターがオープンしたときに飾られてたやつ。たしか赤い花のオブジェみたいな感じの」
「そう、それ」
相槌を打ちながら、私もそんな理人さんの作品を思い出していた。
あれは、今年の5月のことだ。
県が新しく建設した複合施設のオープニングイベントに、理人さんの作品を飾りたいという依頼がきたのだ。
基本的にトロイメライのお仕事優先で、あまり外仕事を受けない理人さんも、「地域貢献になれば」と快く承諾していた。
イベントは先月の末に執り行われ、予定通り、理人さんの新作もホールの中央という目立つ場所でお披露目された。
「すごかったよな、あれ。俺みたいな素人が見ても圧倒されたし」
「うん。本当に」
数ヶ月の試行錯誤を経てつくり上げられたのは、無数に咲く赤い花が印象的な、全長2メートルほどの大きな作品だった。
珍しく和の雰囲気も取り入れられており、彼の新たな一面がうかがえるアレンジだ。
搬入の際にお手伝いに行った私も、仕事そっちのけで目を奪われるくらい、それはすばらしい出来だった。
理人さんの作品を見慣れた私でさえ息をのむほどなのだ。
イベントに参加されたお客様からの反響は、予想をはるかに上回るものだったらしい。
「最近ますます腕が上がってるみたいなんだ、理人さん」
暖花さんへの想いに区切りをつけ、一皮むけた理人さんは、今まで以上に真摯に花と向き合えるようになれたようだった。
元々、彼は天才肌な上に努力家なのだ。
学生時代から、ダブルスクールとして大学以外の学校にも通っていたらしい。
夢だった花屋を開いてからも、年に数回、国内外の色々な場所に足を運んでは、その感性を磨いている。
たくさんのことを学び、経験して、彼はこの先もっと花開いていくのだろう。
きっといつか理花子さんのように、世界に名を轟かす人になる。
「私ね、このままずっと変わらずにいたら、いつまでたっても理人さんに追いつけないって思ったんだ」
拳を握りながら吐きだした言葉は、悔しさのような、もどかしさのような、そんな響きをまとっていた。
時間はかかるかもしれないけれど、私はいつか、理人さんと肩を並べられるような人になりたい。
ううん、同じ職業を目指すからには、彼の技術や表現力を越えたいとさえ思う。
それを叶えるためには、相応の努力や経験がいるのだろう。
代わり映えのない、落ち着いた日々の中にいては得ることのできないものが、きっとこの先、私には必要になる。
そのことを、私は理人さんを見ていて気づかされた。
そう思い、やっと進路を確定させたはずなのに。
「でもね……」
私にはまだ、迷いが残っていた。
「でも?」
「……ううん。勉強、頑張らないとなって」
そう言って不自然に話を切り上げた私に、けれども颯司くんがそれ以上の追求することはなかった。
何かを察したのであろう彼の心遣いに感謝しつつ、静かに息を吐く。
この迷いは、誰かに相談をしてもどうにもならないことなのだ。
これは以前、理花子さんに指摘されたとおり、私が自分自信と向き合って解決しなければならない問題だから。
「じゃあ、また何かあったら言えよ。話くらいなら聞けるから」
「うん。ありがとう、颯司くん。またね」
それから、颯司くんとはトロイメライの前で分かれた。
中でお茶を飲んでいかないかと誘ったのだが、彼はこのあと、すぐに自動車学校に向かうらしい。
夏休み中に運転免許を取り、春の就職に備えるそうだ。
自由気ままに見える彼も、きちんと前を見据えている。
私も彼を見習って、一歩ずつ踏み出していかなければならない。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま」
家に帰ると、リビングには休憩中の理人さんの姿があった。
室内には緩くクラシックがかかっている。
この曲はキルシェの好きなドビュッシーだ。
ソファーの上で丸くなっていた彼女は、流れている音楽を楽しむように、小さな声で鳴いていた。
「面談はどうだった?」
「うん。やっぱり私、東京の学校を受験しようと思う」
「そう。あなたが考えて決めたことなら、アタシは応援するわ」
穏やかにそう言った理人さんは、グラスにアイスティーを注ぎ、私にくれた。
それをひと口だけ飲んで、彼の真向かいの椅子に座る。
「トロイメライは? 今日は忙しいの?」
「お店の方はそんなによ。でも来週はお盆だから、予約が多くて」
理人さんの言葉に、私は壁にかけたカレンダーを見てから、「そっか」と相槌を打った。
お盆は花屋の繁忙期のうちのひとつだ。
お供え用のお花を求めて、毎年多くのお客様が来店し、予約の数も普段よりずっと増える。
皆、トロイメライで生まれる美しい花を、亡き人に贈りたいと思ってくれているのだろう。
そう、今は亡き大切な人に。
「ねぇ、理人さん」
「ん?」
「……私のお母さんたちのお墓も、どこかにあるの?」
唐突な私の問いに、理人さんは一瞬だけ、その瞳を大きく揺らした。
表情にこそ出ていないが、きっと驚いているのだろう。
数度まばたきをした彼の目が、ゆっくりと私に向く。
「……どうしたの? そんなに突然」
「突然じゃないよ。ずっと、考えてはいたことなの」
私にも、今は亡き大切な人がいる。
その二人がどこにいるのかを、私はずっと知らないままだった。
聞くための勇気や覚悟を持つことができなかったのだ。
けれど。
「前に進むつもりなら、きちんと昔のこととも向き合わなくちゃと思って」
そう打ち明けると、理人さんは今度こそ顔を強張らせた。
彼が驚くのも無理はない。
私が亡くした家族について言及するなど、今までなかったことなのだ。
悲惨なかたちで家族を亡くしてから、私は自分の心の安寧を保つために、そのことを心の奥に押し込めてきた。
いつしか起こってしまったことを受け止め、前を向けるようになったけれど、それは過去に蓋をしただけにすぎない。
事実、私は今でもを二人のことを懐かしむことができなかった。
二人の姿を思い出せば、否が応でも、あの日の炎まで蘇ってしまうから。
それでも理人さんや周りの人たちの支えがあったから、ここまでやってこられたのだ。
ふいにあの日を思い出したときだって、私を助けてくれる人がたくさんいた。
しかし、これからはどうだろう。
東京の学校へ進学することになったら、私は一人暮らしをすることになる。
すなわち、心が不安定になったり、夢に魘されたりしても、自分でどうにかしなければならないのだ。
それに、一人というものは、家族を失ったあのときの寂しさや心細さを思い起こさせるような気がして、どうにも恐ろしく思えてしまっていた。
だからと言って、このまま進むことを諦めたくはない。
「私、もっと強くなりたいの。それに、大好きだった家族を、いつまでも不幸な記憶と一緒に閉じこめておきたくないから」
私たち家族にだって、幸せな記憶はたしかにあったのだ。
お母さんと一緒に花を植えたことや、妹と一緒に遊んだこと。
そんな大切な思い出までも、心の奥底に追いやったまま、押しつぶしてしまいたくなんかなかった。
「二人に、会いにいきたい」
過去と向き合うために。
二人を忘れないために。
そう告げると、理人さんは手を組み、そのまま押し黙ってしまった。
彼は私のためにどんな判断をすべきか、たくさん考えてくれているのだろう。
その様子を、目を逸らさずに見つめる。
すると、やがて根負けしたかのように、理人さんが口を開いた。
「二人のお骨は、納骨堂というところに安置させてもらってるの。アタシも姉さんも母さんも、折りに触れてお参りにいってるわ」
「私も連れていってくれる?」
「ええ。でも約束して?」
組んでいた手を解いた理人さんは、そのまま私の両手を握った。
その手は私のものより、ずっと大きく、熱い。
「無理はしないこと。辛くなったら、絶対に我慢しないでアタシに言うこと。それが守れるなら」
「うん。絶対。約束する」
強く頷くと、理人さんは少し悲しげに笑った。
きっと彼は、とても不安に思っているのだろう。
二人と向き合うことで、私の中の何かが変わる確証はない。
それどころか、余計にトラウマを深めてしまう可能性だってあるのだから。
けれど、理人さんはそこには触れず、私の意思を受け入れてくれた。
それは私を信じてくれているということの表れのようで、なんだかとても心強く思えた。
「お花とお布施は持ったわね」
「うん」
「じゃあ、行きましょうか」
理人さんと約束を交わしてから2週間後。
繁忙期であるお盆も過ぎ、ついに私は二人の眠る場所へと連れていってもらうことになった。
理人さんの言う納骨堂は、トロイメライから車で1時間ほどの距離にあるらしい。
お供え用のお花も特別につくってもらい、私はそれを抱えながら、助手席に乗りこんだ。
不思議と心は落ち着いている。
それは、あまり現実味を感じていないせいなのかもしれない。
窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、私は静かに時を待った。
「さぁ、着いたわ」
そうこうしているうちに、車はお寺によく似た建物の前に辿りついた。
ここが納骨堂というところなのだろうか。
見れば庭石や屋根瓦に、比較的新しい印象を受ける。
どうやら、それほど古い施設ではないらしい。
今日が平日ということや、お盆が過ぎたというのもあるのか、私たち以外の人の気配はなかった。
「こっちよ、雨音」
車を下りた私たちは、そのまますぐに建物の中へと入った。
室内は穏やかに照らされており、空調も管理されていて、中にはたくさんの仏壇が整然と並んでいる。
納骨堂とは、これらの仏壇を遺骨の安置場所として貸し出すところなのだそうだ。
通路を迷いなく進む理人さんの背を追いながら、辺りを見回す。
私にはどの仏壇も区別がつかないけれど、ひとつひとつに別の人が供養されているのだから、なんだか不思議な感覚だ。
「ここよ」
やがて、理人さんはひとつの仏壇の前で足を止めた。
ここが二人のための場所らしい。
金や黒で装飾されたそれは、綺麗に掃除をされていて、やはり他のものと大差はないように見える。
そのためか、ここに眠っているなんて、にわかには信じられなかった。
「花瓶はこれよ。花はあなたが飾ってあげてちょうだい」
「うん……」
理人さんに教えられながら、私は持ってきていた花を生けた。
白と薄紫の菊をメインにしたアレンジは、見ているだけで心が優しくなれるような色合いだ。
理人さんが二人と、そして私のためを思ってつくってくれたそんな花を、花瓶の中で丁寧に整える。
ここまで来ても、心は不自然なほどに凪いでいた。
花瓶を飾り終え、それからおそるおそる手を合わせる。
静かな空気の中、自分の息づかいの音だけがよく聞こえた。
「……ずっと来れなくて、ごめんね」
静寂を裂くように呟いたのは、この場所に来たら言おうと決めていた言葉だった。
声は思ったよりもお堂の中に響いたが、どうせ私たちのほかには誰もいない。
「私ね、高校3年生になったよ。お母さんが憧れてた、お花でいっぱいのお庭がある家に住んでるの。私もお世話のお手伝いをしてて、とっても綺麗なんだ。二人にも見てもらいたいくらい」
目の前に二人の姿を思い浮かべながら、私は伝えたかったことをひとつずつ言葉にした。
不思議なもので、そこに二人がいるのだと思って話せば、言葉は次々にあふれ出ていく。
先ほどまで、ここに供養されているということすら疑っていたというのに。
そんなことを考えながら、仏壇の前で長い時間をかけて、私はゆっくりと色んなことを語った。
新しく家族になってくれた人たちのこと。
周りにいる友達や、よく来てくださるお客様のこと。
それから――大好きなお花の話。
「私ね、将来はフラワーデザイナーになりたいんだ。だから高校を卒業したら、お花を学べる学校に行きたいって思ってる、の」
けれど、絶え間なく続いていた声は、将来のことを呟いた瞬間に止まってしまった。
「……それから、……それからね……」
突然、錆びついたかのように動かせなくなった唇に、私自身が驚いていた。
伝えたいことはまだまだあったはずなのに。
けれども私の思いはどれも言葉にならず、声が吐息となって消えていく。
感情が大きく揺れていることが分かって、あまりのことに、私は唇を噛んで下を向いた。
「雨音……?」
頭上から、私を心配する理人さんの声がする。
それでも俯くのはやめられない。
だってこれはきっと、とても残酷なことだと思ったのだ。
二人に訪れなかった未来のことを語るなんて。
「……ごめん」
伝えたかった言葉の代わりに、決して言いたくなかった言葉がこぼれる。
本来ならば二人も、私と同じ分の時間を過ごしていたはずだったのだ。
家の花壇で季節の花を育てて。
お母さんが料理をつくるのを、私と妹で手伝ったりして。
お母さんは昔と変わらず、優しく笑ってくれていただろう。
妹は中学生になっているはずだから、背の低い私は今ごろ、彼女に身長を追い抜かれていたかもしれない。
きっとそんな二人と、慎ましやかだけどあたたかい時間を過ごしていたはずなのに。
「一緒にいけなくて、ごめんね……」
来ることのなかった未来を思い描けば、私の中に眠っている後悔と罪悪感が顔を出した。
震えた声で呟いた言葉が、その場に重たく落ちる。
案の定、私の目からは涙がぼたぼたと流れた。
頬が濡れ、熱くなり、けれども私が泣く資格なんかないと、両手で無理やりに拭う。
そのまま荒い呼吸で何度もごめんねを繰り返していると、突然、隣に立っていた理人さんが私の肩を強く抱いた。
「雨音は優しい女の子に育ちました。だから心配しなくて大丈夫です。また、これまでと同じように見守っていてあげてくださいね」
私の声に被せるように、理人さんは強く、けれども穏やかにそう言った。
思考が追いつかない私は、そんな彼の言葉の意味を数秒遅れて理解する。
「見守って、くれていたの……?」
「当たり前じゃない。雨音がこれまで大きな病気もせずに元気でいられたのが、何よりの証拠でしょう?」
見えない二人に情けない涙声で問えば、代わりに理人さんが答えてくれた。
私のつむじに、彼の額がこつりと当たる感触がする。
「雨音が生きることに罪悪感を覚えたように、二人だって、雨音一人を置いていったことを辛く思ったはずよ。だからあなたが泣いていたら、ますます二人を悲しませてしまうわ」
すぐそばから紡がれる言葉に、再び涙がこぼれていく。
けれどもそんな息苦しいほどの感情を抑えながら、私は心の中で理人さんの言葉を反芻した。
これまで幾度となく私を救ってくれた、彼の言葉。
私はそんな彼の言葉に、たくさん勇気づけられてきた。
「ね。笑って、雨音」
見上げると、理人さんは私の肩を抱いていた手で、今度は頭をなでてくれた。
その微笑みに、頷きで応える。
それから私は、もう一度仏壇を見据えた。
「……私ね、幸せだよ。優しい人たちと、大好きなものに囲まれて、すごく幸せ。そう思ってもいいんだって、理人さんに教えてもらったんだ」
涙のせいで掠れた声は、酷いものだ。
二人が心配しないようにとつくった笑顔も、とても不器用なものだっただろう。
それでも私は、すべての思いを大切に大切に言葉にした。
「だから――私は、大丈夫」
また、ふいにあの日の炎を思い出すことがあるかもしれない。
その度に不安や恐怖に襲われることもあるだろう。
けれど二人が見守ってくれているのだと思えば、たとえ一人でだって乗り越えられる。
そのことを信じて、私は笑顔でいよう。
天国の二人が私を思って、悲しむことがないように。
「じゃあ、また来るね」
最後にそう伝えて、私と理人さんは納骨堂を出た。
お堂の外の空は澄み渡るような青い色をしていて、今日はこんなにも晴れていたのかと、私はこのとき初めて知った。
「……いつかこの場所を教えないといけないって思ってたわ。でも、アタシは嫌だったのよ」
車に乗り込むと、理人さんはすぐには発車せず、出てきたばかりのお堂に視線を向けたままそう言った。
思いもよらなかったその言葉にどきりとしながら、彼の長いまつげが密かに下りるのを食い入るように見つめる。
「本当はね、何も知らないまま、いつか忘れてくれたらいいと思ってた。無理して受け入れる必要なんてない。だって、そうしなければ心が壊れてしまうくらい、辛いことだったと思うもの」
「……うん」
「でも、あなたはアタシが思うより、ずっと強くなっていたのね」
理人さんが視線をこちらに向けたと同時に、私は首を横に振った。
私が強くなれたのだとしたら、それは理人さんのおかげなのだ。
彼がずっと、私の心を守ってくれたから。
そう伝えると、理人さんは照れた様子で「そんな大層なことなんてしてないわ」と笑った。
「わ、すごい……!」
「でしょう? ここ、県で一番大きなひまわり畑なんですって」