「うん、たしかにそうだっかも」
彼の言葉に、幼かった自分たちを思い出して懐かしくなる。
颯司くんと出会ったのは、私がトロイメライに来てすぐのことだった。
あのころの私は痩せて真っ白な顔をしていて、あまり笑うこともなかったように思う。
きっと生気のない、まさに人形のように見えただろう。
「でもここで暮らすうちに、明るくなって、よく笑うようにもなっただろ?」
「そうだね」
「な。変わらないことなんてないんだよ。雨音も――」
理人も、と颯司くんは続けた。
「雨音がここに来てから理人は変わった」
「え……?」
「と言うよりも、雨音が理人を変えたんだと俺は思う」
唐突に出された理人さんの名前に心臓が跳ねる。
私が理人さんを変えた……?
その逆なら、もちろん分かるけれど。
「そんなことあるはずないよ。理人さんは今も昔もずっと変わらないままだし」
「嘘じゃねーよ。これでもこの家とは付き合いが長いんだ」
そう言えば颯司くんの実家の運送会社は、真田家先代の花屋さんのころからの付き合いだと聞いている。
彼も物心がつく前からこの家に来ていたようだから、私と出会う前の理人さんのこともよく知っているだろうけれど、やはりにわかには信じられない。
「ここからは俺のひとり言だけど」
するとそんな前置きしてから、颯司くんは昔話をしてくれた。
「理人、学生のころはよく夜遊びしてた。理花子さんは笑って黙認してたけど、暖花はかなり心配してたんだ」
彼が語るのは、私が初めて耳にする話だった。
理人さんが夜遊びをしていたなんて、今の彼からは想像もできない。
けれどもしかしたら、暖花さんに恋をしている罪悪感で、家に帰りづらいときがあったのだろうか。
傍にいるだけで隠しきれないほどの苦しさを感じていたとしたなら、理人さんの行動も簡単に説明がつく。
「でも雨音がこの家に来てから、理人にも帰らなきゃいけない理由ができた」
「えっ、私が……?」
「それからは変に遊びに行くこともなくなったし、思いつめた顔をすることも少なくなった」
「ちょ、ちょっと待って」
情報が多すぎて、頭の中でうまく整理ができない。
しかし颯司くんは私の声を聞かずに、あくまでひとり言という体で話を進めていく。
そんな状況に困惑しながらも、彼の言わんとしていることはなんとなく分かるような気がした。
つまりは私の存在が、理人さんの中の何かを変えていたのだと、そう言ってくれているのだろう。
「はい、俺のひとり言は終わり」
わざとらしく伸びをした颯司くんは、そのまま芝生の上にごろんと横になった。
キルシェに似た猫のようなその仕草を、目を瞬かせながら見つめる。
私の存在が、理人さんの力になっていたのかもしれない。
秘密を知っても傍にいてくれたことが嬉しかったと、理人さんは少し前に言ってくれた。
私はそれを取るに足らない些細なことだと思っていたけれど、こんな私でも、きちんと彼の力になれていたのだろうか。
もしもそうだったのだとしたら、嬉しい。
「颯司くんは人をよく見てて、すごいね」
「そんなことねーよ。俺は結局、何も知らないからな」
なんて言いながら、本当はきっと、全部気づいているのだろう。
今は空を見上げているその目は、いつもいろんなことをよく見ている。
しかしあくまでシラを切る颯司くんの優しさに微笑みながら、私も彼と同じく空を見上げた。
「楽しみだな、暖花の結婚式」
「うん。ねぇ聞いて颯司くん。私、結婚式のウェルカムボードをつくることになったの」
「ウェルカムボードって何?」
「披露宴会場の入り口に置く案内板みたいなやつだよ。私はお花を使ってつくるんだ」
「雨音が? まぁ、頑張れよ」
初夏の晴れた青空が広がっている。
それからもぽつりぽつりと話をしながら、私たちは穏やかな午後を過ごした。
その日の夜。
お風呂から上がってリビングに向かうと、いつもキルシェとソファーにいるはずの理人さんの姿が、なぜかどこにも見当たらなかった。
トロイメライはとうに閉店しているというのに、まだ何か作業をしているのだろうか。
特に急ぎの仕事はなかったはずだけれど。
不思議に思い、閉めたはずのトロイメライへと足を運ぶと、やはり作業台の電気が灯っているのが見えた。
「理人さん。何してるの」
「雨音」
驚かせないように静かに声をかけると、理人さんは私に気づいてゆっくりと振り返った。
その手元には、細いワイヤーとハサミが見える。
「ちょうどよかった。あなたにも見てもらおうと思ってたの」
「ブーケ? 暖花さんの?」
「そうよ。一度組んでみたんだけど、どうかしら」
見れば、作業台の上のブーケスタンドには、見事な白いキャスケードブーケが出来上がっていた。
主役の花は胡蝶蘭で、数種類のバラとトルコキキョウ、それからニューサイランやスマイラックスなんかのグリーンが絶妙なバランスで配置されている。
形はとても凝っていて美しいのに、ブライディというブーケ用のフォームはすっかり隠されていて、理人さんの技巧の高さが一目で分かるブーケだ。
「すっごく綺麗。きっと暖花さんに似合うよ」
「まだまだ改良の余地はあるけどね。バラとグリーンの種類ももう少し吟味したいし、差し色を入れてもいいかなって」
「差し色かぁ。……このブーケなら、ピンクがいいな」
「あら奇遇ね。アタシもピンクが良いと思ってたの」
そんな会話を交わしていると、理人さんは思いついたように、切り花のスペースからピンクのバラを数本引き抜いた。
それらを器用にブーケへと差し込む。
白にほんのりと差された淡いピンクは、やはりちょうどいいアクセントとなった。
「アタシね、このブーケを持つ姉さんのことを考えると、とても幸せな気持ちになるの。ずっと罪悪感でいっぱいだったのにようやく吹っ切れたんだって、自分でも分かるわ」
姿を変えていくブーケをうっとりと眺めていると、理人さんはふいに、こちらがどきりとするようなことを言った。
おそるおそる視線を移せば、その言葉どおり、彼の晴れた顔が目に映る。
「……理人さんは、どうして暖花さんを好きになったの?」
ブーケのバランスを確認する彼の横顔を見つめながら、今まで触れたことのなかった話題を、私は思い切って口にしてみた。
彼が突然そんなことを言い出したのは、たぶん、話を聴いてもらいたいと思ったからなのだろう。
そしてそれは、私も知りたかったことだったから。
「アタシたちは姉弟だけど、お互いに存在を知らずに育ったでしょう? だから出会ってからも、自分の姉だっていう実感がわかなくて」
「うん」
「その感覚が身につかないまま、何も分からないアタシを守ってくれる優しい姉さんに、いつの間にか恋してたの」
ワイヤーをパチンと切りながら、理人さんが苦笑する。
お父さんが亡くなってから、言葉も通じない日本にやってきて、悲しみや不安でいっぱいの中、幼い理人さんを一番に支えてくれたのは暖花さんだったのだ。
そんな彼女を好きになったって、何もおかしい話ではない。
「男の初恋ってね、特別で、とてもやっかいなのよ。姉さんを超える魅力的な子なんて同世代にはいなかったし、新しい恋もできないまま、アタシはどんどん自分を拗らせちゃった」
彼の恋は、私の知る中できっと一番苦しい。
おとぎ話の恋のようなロマンチックさなんて、欠片も見当たらないのだ。
理人さんの想いを汲み取るには、私には経験も、何もかも足りなかった。
例えば何度も恋を重ねてきた人なら、彼を勇気づける言葉のひとつでもかけることができるのに。
「ねぇ、雨音は今、好きな子とかいないの?」
押し黙った私を思ってか、理人さんは話題を私のことへと移した。
「私はお花以外のことには疎いから」
「でも、いつかきっとあなたの前にも現れるわよ。運命の人が」
「そうかな?」
「そうよ。きっと」
私の、運命の人。
耳になじまないその言葉を考えながら、宙を仰ぐ。
私もいつか、彼のように恋をするのだろうか。
私の隣にいる人が、理人さんではない男の人になるなんて、今はまだ想像もつかない。
「雨音の恋は、穏やかなものであってほしいわ。なんて、ちょっと年寄りくさいかしら」
理人さんの言葉に耳を傾けつつ、訪れるかもしれない未来のことを考えていると、なぜだか胸が痛むような心地がした。
「このところ雨続きで嫌になるわねぇ」
「梅雨だからしょうがないですけど、少しは晴れてほしいですよね」
「ほんとにそうよ。お洗濯物が全然乾かなくって、嫌になっちゃう」
お客様の愚痴に相槌を打ちながら、私は窓の向こうの灰色の雲を見ていた。
――6月初週。
梅雨を迎えたばかりのこの時期は、毎日のように雨が街を濡らしている。
トロイメライに見えるお客様も、晴れ間が見えず憂鬱になりがちだと口々に言っていた。
たしかにこのどんよりとした空気が続けば、人は参ってしまうものなのかもしれない。
けれど私は特別、雨が嫌いではなかった。
それは自分の名前に雨の文字が入っているからなのだろうか。
雨が降るときの、あの懐かしいような切ない匂いも、サーサーと立つ雨粒の音も、なんだか心地よく感じるのだ。
この時期に咲く紫陽花や花菖蒲なんかは、雨雫の滴る姿が花の美しさを一層引き立てたりして、梅雨の楽しみのひとつにもなっている。
だから雨は嫌いではないのだけれど、私はここ一週間、晴れろ晴れろと何度も空に祈っていた。
理由は今週末の土曜日にある。
その日、ついに暖花さんの結婚式が執り行われるのだ。
挙式後にフラワーシャワーの演出も予定しているし、快晴とはいかないまでも、せめて雨は降らないでほしい。
都合のいい願いだということは分かっているけれど、やはり祈らずにはいられなかった。
けれど、そんな私の祈りが神様に通じたのだろうか。
結婚式当日、久しぶりに雨の上がった空は、薄く雲が刷き、穏やかな晴れ間を見せていたのだが。
「お仕事っ?」
「ええ、懇意にさせてもらってる方から急な依頼が入って」
事件が起こったのは、早朝のことだった。
依頼が入った理人さんは、急遽一人で仕事に向かうことになってしまったのだ。
「姉さんにはもう伝えてあるし、式には間に合うようにするから。雨音は先に式場に行っててちょうだい」
「大丈夫なの……?」
「平気よ。アタシを誰だと思ってるの? 任せなさい」
そう言い残して、理人さんは瞬く間にトロイメライを出て行く。
こんな大切な日に、なんてことだろう。
小さくなっていく彼の後ろ姿を見送りながら、私は波乱の幕開けを感じていた。
挙式の時間まであと1時間半と迫っている。
理人さんの仕事はまだ終わらないらしい。
式場の控え室で、私は何度も時計を確認しながら彼のことを待っていた。
「ああもう、やっぱり緊張しちゃうわ……!」
私が時計とにらめっこをしていると、突然ウエディングドレスをまとった暖花さんの声が、控え室の中に響いた。
挙式の時刻が近づくにつれ落ち着かない気分になっている彼女は、どうやら大きな声を出すことによって緊張を紛らわそうとしているようだった。
そわそわとするかわいい暖花さんに、思わず微笑んでしまう。
「大丈夫だよ、暖花さん! リラックスリラックス!」
「そうよね。緊張しても仕方ないものね」
深呼吸を繰り返す暖花さんの姿を見て、私も理人さんのことで焦ってはいけないと、彼女の真似をして深く息をする。
それから意識を時計から逸らそうと、私は着慣れない自分の衣装に視線を落とした。
私が身を包んでいるのは、淡いピンクのワンピースだ。
当初は制服で出席するつもりだったのだが、「妹にもとびきりのオシャレをしてもらいたい」という暖花さんの希望で、私までかわいい洋服を買ってもらったのだ。
加えて今日はワンピースに合わせたヘアメイクまで施してもらっている。
普段はトロイメライを慌ただしく走り回り、洒落っ気のない私だけれど、今日くらいは落ち着いて、花嫁の妹にふさわしい振る舞いをしなくては。
そんな意気込みとともに背筋を伸ばしていると、暖花さんが何かを思い出したように小さく笑った。
「なあに? 暖花さん」
「ううん。今の雨音の仕草、なんだか私に似てたなぁって思って」
目を細める暖花さんに、私は首を傾げた。
今の仕草とは背筋を伸ばす動きだろうか。
言われてみれば、暖花さんもトロイメライのカウンターにいるときによくやっているような気がする。
もしかしたら知らないうちに彼女の癖が移っていたのかもしれないと、少し照れくさく思っていると。
「私ね、雨音は理人に似てると思ってたけど、最近は私にも似てるんじゃないかと思っていたの」
「そうなの?」
「ええ。でも雨音が私の家族になって、もうすぐ10年目だもの。似てくるのも当たり前のことよね」
そうだ、もう10年。
それは理人さんのセンスや、あるいは暖花さんの癖が私に移るくらいの時間。
決して短くない月日を、私たちは一緒に過ごしてきたのだ。
「私たち家族ってちょっと変わってるけど、やっぱりきちんと“家族”だったんだなって。雨音を見てたら改めて思っちゃった」
感慨深そうに言った暖花さんの言葉に、私は嬉しくなって頷いた。
たしかに私たちの家族としての在り方は、世間一般から見たら変わっているかもしれない。
私にいたってはみんなとの血の繋がりすらないけれど、今では家族の一員だって胸を張って言える。
それは彼女たちに暖かく迎えられ、受け入れてもらったおかげなのだ。
私の方こそ、感謝してもしきれないくらい、みんなと家族になれたことが幸せだった。
「それでも薄情よね。変わってるとはいえ、結婚式にまでみんなが揃わないなんて」
そんなことを考えながら心を和ませていると、突然表情を一変させた暖花さんは、ドレス姿だというのに腕組みをしながら口を尖らせた。
しかし、それももっともなことだと思う。
もうすぐ挙式が始まるというのに、理花子さんと理人さんが姿を現していないのだから。
理花子さんは最初から期待していなかったと暖花さんは言うけれど、きっと寂しがっているに違いない。
式までには間に合うようにすると言っていた理人さんも、この調子では仕事が長引いているのだろう。
けれど理人さんに限ってはこれでよかったのかもしれないと私は思っていた。
元々彼は今日、暖花さんと一緒にバージンロードを歩く予定だったのだ。
しかしいくら口で“吹っ切れた”と言っていても、ずっと想い続けていた人を別の男の人に引き渡すなんて、きっと酷なことだろう。
実のところ、私はそんなことを彼にさせたくはなかったのだ。
だから、これでよかった。
暖花さんのウエディングベールがかすかに揺れるのを、瞬きもせずに見つめる。
こんなことを考えている私が、暖花さんにとって一番薄情な家族なのかもしれないと思いながら。
「遅くなってごめんなさいね」
そんなことを考えていると、突然ドアが開かれる音とともに、明るい声が響いた。
「理花子さん……!」
私と暖花さんの沈黙を破るように現れたのは、黒の華やかなドレスをまとった理花子さんだった。
手紙で来ると聞いていたとはいえ、暖花さんの言うとおり、理花子さんの気性では来ないこともあり得ると思っていたのだが。
驚いて暖花さんの方を見ると、彼女もまたその大きな目を丸くしていた。
「二人とも元気にしてた?」
「はい! 理花子さんもお元気そうでよかった」
「まさか本当に来るだなんて思わなかったわ」
「来るに決まってるじゃない。可愛い娘の結婚式よ?」
久しぶりに会う理花子さんは、以前と変わらない快活な顔で笑った。
彼女のトレードマークの紅い唇も健在で、今日の黒い衣装に映えてより鮮やかに見える。
「ここに来る前に、先に旦那と会ってきたわ。なかなかの好青年じゃない。あなたは私を反面教師にしてきたみたいだけど、私に似て男を見る眼があるのね」
「なにそれ。よく言うわ」
「ふふっ、これでも嬉しいのよ。私はいい母親じゃなかったけど、娘の幸せを喜ばないほど落ちぶれていないの」
「本当かしら」
理花子さんにつられるようにして、暖花さんも笑みをこぼす。
二人は元々の雰囲気が似ているけれど、笑ったときが一番似ているかもしれない。
「ねぇ。せっかく来てくれたなら、ベールダウンしていってくれない?」
二人の様子を微笑ましく見守っていると、暖花さんは理花子さんにそんな提案をした。
「あら、私がやってもいいの?」
「今日くらい母親っぽいことをしてもらってもいいでしょう?」
「まあ、あなたがそう言ってくれるなら」
ベールダウンとは文字どおり、花嫁のウエディングベールを下ろすことだ。
花嫁を邪悪なものから守り、送り出す意味合いのあるその行為は、大抵は母親が娘の幸せを願って行うものらしい。
珍しく可愛らしいおねだりをした暖花さんに理花子さんも応え、腕をゆるりと伸ばしてベールを優しく摘む。
そのまま柔らかく前へと下ろすと、照れて伏し目がちになりながらも、暖花さんは理花子さんを真っ直ぐに見つめていた。
「暖花、とっても綺麗よ。本当におめでとう」
「よかったね、暖花さん!」
「あ……ありがとう」
耳まで赤くした暖花さんを、すぐとなりで眺める。
すると幸せを分けてもらっているみたいに、私まで心があたたかくなるのが分かった。
もしもお母さんと妹が生きていたら、私もいつかこんなふうに祝福をしてもらえたのだろうか。
幸せそうな暖花さんの姿に自分を重ねて、そんな想像をしてみる。
今となってはもう叶わない未来だと、少しの苦さを感じて、私はその思考を切り替えるように頭を左右に振った。
「披露宴会場の前のウェルカムボード。あれをつくったの、雨音でしょう?」
それからすぐに、暖花さんは挙式のリハーサルへと向かった。
その様子を理花子さんとともに見送っていると、彼女は突然、私にそんな指摘をした。
「よく分かったね」
披露宴会場の前に置かれた、プリザーブドフラワーを使ったウェルカムボード。
それをつくったのはたしかに私だけれど、自分の名前は入れていなかったはずなのに、どうして理花子さんは気づいたのだろう。
「花の色遣いがね、理人に似ていたの。けれど理人の作品とは決定的に違っていたから」
「そっか。下手、だった?」
「いいえ。むしろとても好ましいと思ったわ。あのウェルカムボードからは、暖花たちへの愛情がひしひしと感じられた」
その言葉を聞いて、私はホッとした。
暖花さんのために何かをしたいとウェルカムボードの作製を買って出たけれど、実は少し自信がなかったのだ。
しかし、どうやら心を込めてつくったことだけは伝わるらしい。
「なぜ理人の作品でないと分かったかというとね、作り手の我が見えなかったからなのよ」
「我?」
「本来なら、個性とでも言うべきなのかしらね」
“我”、“個性”と聞いて、私は理花子さんと理人さんの作品を思い返していた。
理花子さんの作品は「都会的で洗練されている」「しかしどこかカジュアルな雰囲気」と評されることが多い。
対して理人さんはというと「繊細でロマンチック」「そして技巧的」な感じだろうか。
どちらがつくる作品も、ひと目で彼らのものだと分かる仕上がりになる。
「私はね、作品づくりには負の要素だって必要だと思うの。たとえば私の気が強くて自己中心的な性格とか、理人の臆病なくせにプライドが高いところとか」
「つまり私の作品には、負の要素が足りないってこと……?」
「ええ。雨音の奥ゆかしい性格は美徳だと思うわよ。けれどそれはアーティストとしたら致命的な弱点だとも思うの」
そう言った理花子さんの強い目力に、私は圧倒された。
たとえば理人さんが暖花さんのためにつくったウエディングブーケ。
あのブーケがあんなにも素晴らしい出来なのは、彼の狂おしいくらいの感情が反映されているというのも大きいのだろうか。
「心に鎧をまとったままでは、真に人の心を動かす作品はつくれない。あなたがフラワーデザイナーとして高みを目指すなら、これからもっと自分と向き合って、そして自分をさらけ出す必要が出てくるわ」
痛いところを突かれ、私はそれ以上何も言うことができなかった。
理花子さんの言うとおり、私は自分に自信がなく、自分の思うことを心に押し込める癖がある。
フラワーデザイナーとして二人と肩を並べたいと思うなら、そんな弱い自分すらも認めて、作品に還元しなければならないのだ。
それはなんて厳しく果てしないことなのだろう。
「それができたら、あなたは私とも理人とも違うフラワーデザイナーになれる。厳しいことを言うようだけれど、雨音には期待しているのよ」
「うん……ありがとう、理花子さん」
「ふふ、将来が楽しみね。ほんの偶然だったけれど、あの日あなたに出会えて、本当によかった」
そう言うと、理花子さんは私の頬を優しくなでてくれた。
本当は少し怖いとも思う。
大それた夢を叶えるには、相応の努力と覚悟がいることを知ってしまったから。
「雨音。私の家族になってくれてありがとう」
「私も、みんなの家族になれて幸せだよ」
けれど私には家族がいる。
私を愛し支えてくれる、とびきり素敵な家族がいるのだ。
そんな家族のみんなに、私は愛を返すことができているだろうか。
「やっぱり……来られないみたいね」
リハーサルも終わり、本番が刻一刻と迫るなか、控え室に戻ってきた暖花さんは時計を見つめながらため息を吐いた。
暖花さんがそうこぼすのは、もちろん理人さんのことだ。
挙式の開始はもう間もなくだというのに、彼はまだ姿を現していない。
「……お仕事があったなら、しょうがないよ」
「そうよね。ワガママ言っちゃいけないけど、あの子がつくってくれたブーケだから、見てもらいたかったな」
理人さんのつくったブーケを寂しげに見つめる暖花さんに、私は胸が痛んだ。
主役である花嫁に、そんな顔は似合わない。
今日は誰よりも暖花さんが幸せにならなければならない日なのに。
暖花さんのために、理人さんにも来てもらいたい。
けれど理人さんのためを考えるなら、彼に来てほしくはない。
そんな相反する思いの狭間で、何もできない自分を恨んでしまう。
「……行こっか」
「ええ」
とうとうスタッフの方に移動を願う声をかけられ、私たちは席を立った。
暖花さんが歩きやすいようにとドレスの長い裾を持ちながら、彼女の後ろで、見つからないように歯を食いしばる。
私の頭の中で、これまでの月日が走馬灯のように巡っていた。
彼の恋が、終わる。
初めから叶わない恋だった。
誰に言われずとも、きっと彼が一番分かっていた。
それでも長い間、想いを失うことはできなかったのだ。
だからこそ、きっと神様がこうさせたのだと思う。
これはしょうがないことなのだと。
心の中で自分に言い聞かせるように唱えながらも、私は息苦しさを感じることを止められなかった。
本当にこれでよかったのかな。
たとえばもっと、私にできることはなかったのかな。
二人のことを思って、じわっと涙が浮かぶのを必死で我慢する。
どうすればいいか分からない。
分からない、もう――。
「ちょっと待った……!」
それは控え室の扉を抜けた瞬間だった。
大きな声が響いたのを暖花さんの後ろで聞き、私は耳を疑ったのだ。
この声は。
「理人!?」
次いで暖花さんの声が響く。
そうだ、この声は間違いなく理人さんのものだ。
暖花さんの影から抜け出し、彼女の視線の先を見る。
するとやはり、ダークスーツに身を包んだ理人さんがそこにはいた。
「仕事、早めに切り上げさせてもらったの。間に合ってよかったわ」
「大切な仕事でしょう? そこまでしなくても――」
「そこまでするわよ。今日は何よりも特別な日だもの」
暖花さんに駆け寄った理人さんは、急いで来たのか、少し息が上がって辛そうにしているが、それでも爽やかな笑みをたたえていた。
そんな彼の姿を見て、自分の考えが間違っていたことに気づく。
理人さんは誰より暖花さんの幸せを願っているのだ。
そんな彼が、暖花さんを悲しませることをするわけがない。
けれど理人さんの心の内を考えると、彼が来たことを手放しで喜べなかった。
向かい合う二人を見つめながら、張り詰める気持ちをなんとか押し殺す。
「ねぇ、ブーケ似合ってる?」
「ええ。アタシの自信作だもの。似合わないわけがないわ」
「私には可愛すぎない?」
「そんなことないわよ。姉さんは可愛いんだから」
「……ありがとう、理人。本当に嬉しい」
「もう。今泣いたら、せっかくのメイクが台無しよ」
涙ぐむ暖花さんを、理人さんが親愛の情を持って抱きしめる。
その光景を呆然と眺めていると、理人さんの視線が突然、私へと向いた。
きっと戸惑ったような顔をしているだろう私とは対照的に、彼はとても楽しそうにウインクをする。
その表情にたまらない気持ちになって、私は力なく俯いた。
今なら泣いても良いだろうか。
おそらく今日なら、誰もが私の涙を嬉し涙だと勘違いしてくれるはず。
だから、大丈夫。
そんなことをごちゃごちゃと考えているあいだにも、堪えきれなかった涙が頬を伝った。
「行ってくるわ。見ててね、雨音」
「うん……!」
涙ながらに返事をして、並んだ二人の背中を目に焼きつける。
嗚呼、どうか、
二人が幸せになれますように。
12時を報せる鐘の音とともに、私は心の中で、彼らの幸せを強く祈った。
挙式は無事に執り行われた。
旦那さんの隣で幸せそうに微笑む暖花さんに、招待客は皆一様に見とれ、手に持った美しいブーケを褒めそやしている。
その光景を見ていると、なぜだか私まで誇らしく思えた。
「なぁ。俺まで家族席に座らせてもらって、本当によかったのか?」
「大丈夫だよ。颯司くんももう真田家の一員みたいなものだし」
「そう言ってもらえるならありがたいけどな」
挙式が終わると、休憩を挟んでから次は披露宴だ。
会場へと移動する最中、私は出席してくれていた颯司くんとたわいもない話を交わしていた。
親戚に借りたというスーツを着た彼は、いつもの制服や作業着姿とは違い、とても大人っぽく見える。
「暖花、綺麗だったな」
「うん、とっても」
「理人も珍しくかっこよかったよ」
「それ、本人に言ってあげればいいのに」
「嫌だよ、調子に乗るから」