「ああ、えっと……妻にプレゼントを探していたんです。明日が結婚記念日で」
「わぁ、それは素敵ですね! よろしければぜひ店内も見ていってください。花束でしたら、奥様のイメージでおつくりしますよ」
「いえ、その……」
いくつか提案をしたものの、男性は何かを迷っているかのような、歯切れの悪い言葉を呟いた。
不都合でもあるのだろうか。
花屋には入りづらいと思う男性もいると聞くし、もしかしたら彼もそうだったのかもしれない。
そんなことを考えていると、突然、彼は意を決したように私を見つめ返した。
「……実は私の妻は、目が見えないんです」
それは私にとって、あまりにも予想外の言葉だった。
聞けば、半年前に病気で失明した彼の奥さんは、それからずっと塞ぎがちになってしまったらしい。
そこで、どうにか彼女を喜ばせてあげられるようなものを贈りたいと考えていたそうだ。
「妻は花が好きで、以前は毎年花束を贈っていたのです。けれどどんな美しい花ももう、妻の目には映りませんから、今年は別のものをと思ったのですが、なんだかどれもしっくりこなくて」
「そうだったんですね……」
「って、すみません、見ず知らずの方にこんな話を。ご迷惑でしたよね」
「いえ、そんなことないです!」
おそらく結婚記念日に贈る花束は、二人にとっての幸せの象徴だったのだろう。
きっと彼は今年も、奥さんに花を贈りたかったはずだ。
しかし以前と同じように花束をつくって渡したところで、二人を幸せにできるだろうか。
トロイメライは、人々を夢見心地にさせるお店だ。
こんな悲しい表情をさせたまま、お客様を帰すことなんてしたくない。
けれど目の見えない方に花を楽しんでいただくには、一体どうすればいいのだろう。
そう考えたとき、私にはひとつだけ思いつくものがあった。
「……あの、よければおひとつ、商品を見ていただけませんか?」
「えっ……?」
喜んでもらえるかは分からないけれど、彼に伝えたいことがある。
そう思って案内したのは、どの花の前でもなく、トロイメライの片隅にある雑貨コーナーだった。
その中に置いていたあのポプリを、私はひとつ手に取る。
「これは……?」
「ポプリというもので、ドライフラワーに香りづけがしてあるんです。上の蓋を取ってみてください」
「ああ、本当だ……! いい香りですね」
ガラスでできたポットの蓋を開けると、穏やかな香りが辺りに立ち込めた。
香りは少し弱めだが、これは普通のポプリよりもずっと長く香るようにつくってある。
それは私が、この商品に込めた意味を表すためだ。
「メインの花はセンニチコウといいます。色が褪せにくいために、花言葉も色褪せぬ愛、つまりは【変わらぬ愛情】と言うんですよ」
「変わらぬ、愛情……」
「はい。お客様にぴったりの花言葉だと思います」
彼の言葉の節々に見える、奥さんへの愛情。
その愛情がいつまでも続き、果てなく大きくなっていくように、彼の想いを後押ししたい。
「先ほどのお話、何も知らない私でも奥様への愛を感じました。何よりもその愛情を伝えてあげてほしいです。辛い状況だと思いますが、きっと勇気づけられるはずですから」
そんな願いを込めて、彼に差し出す。
緊張で手が震え、ガラスポットの中のセンニチコウがころりと揺れた。
「すみません、生意気なことを言ってしまって」
「……いえ、嬉しいです」
すると私の震える手から、彼はポプリを受け取ってくれた。
私も理人さんのように、人々を夢見心地にさせてみたい。
そう願いながら何度も想像した、ポプリがお客様の手に取られる瞬間を目の当たりにする。
「あなたの仰るとおりですね。物よりも何よりも、まず伝えなければならないのは私の気持ちだ」
慈しむようにポプリを眺める彼の瞳に、私は見覚えがあった。
その目は――愛しい人を想う目。
夢見心地とまではいかないかもしれないけれど、それに近い感情が、彼の中に見えた気がした。
「妻の支えになれるように、言葉を尽くそうと思います。……が、これならきっと妻も楽しめるはずだ。花言葉のお話も伝えたいので、おひとついただけますか?」
「は、はいっ……!」
あまりの喜びに声が裏返り、照れ笑いをする。
こんな私でも、お客様の幸せに寄り添うことができたのだろうか。
喜びを噛みしめながらカウンターの方へと振り向くと、私を見守ってくれていた理人さんと目が合った。
「よく頑張ったわね、雨音」
「うん! ありがとう、理人さん」
プレゼント用にラッピングしたポプリを渡してお客様をお見送りすると、理人さんはすぐさま私の頭をわしゃわしゃと撫で、褒めてくれた。
その行為に照れつつ、自分でも少しだけ誇らしく思う。
私がフラワーデザイナーを志したのは、花で人を魅了する理人さんに憧れたことのほかに、もうひとつ理由があった。
それは花を愛するようになって私が救われたように、今度は私が誰かを救いたいと思ったからだ。
私、やっぱりフラワーデザイナーになりたい。
この経験を通して、私の夢への思いはまたひとつ膨らんだような気がした。
「3年になって、初っ端から進路希望調査かよ……」
颯司くんの気だるい声を聞いて、私も苦笑いをしながら頷く。
――4月。
新学期になり、私と総司くんはついに高校生活最後の年を迎えていた。
去年に引き続き、今年もまた同じクラスになった私たちは、なんと席までも隣同士になり、お互いに腐れ縁だと嘆いている。
そんな中、新学期早々に渡された進路希望調査の紙を眺めながら、彼はずっと苦々しい顔をしていた。
「今までの考えに囚われずに書けって言われても、俺は実家を継ぐことしか頭にないし、第三希望までなんて埋められねーよ」
腕を組んだ颯司くんが、うーんと唸り声を上げる。
彼の夢は、実家の運送会社を継ぐことだ。
働くお父さんの後ろ姿を見て育った彼は、ずっとその大きな背中に憧れていて、ゆくゆくはそんなお父さんを越える人間になりたいのだと言う。
高校を卒業したら、跡継ぎとして本格的に働きたいそうだ。
「なぁ。雨音は第一志望、どこ書いた?」
「すぐそこの専門学校だよ」
就職組である彼に対し、私はトロイメライから通え、花について学べる学校への進学を希望している。
そこで第一希望に書いたのが、トロイメライからもほど近い場所にある、デザインの専門学校だった。
美術や被服の学科が有名な学校なのだが、数年前にフラワーデザインの学科も創設されたのだ。
元々、この近辺で花について学べる学校が、他には理人さんの母校である国立大学の園芸学部しかない。
しかしその学部は偏差値も倍率も高く、平凡な成績の私が目指すには、なかなか厳しいものがあった。
「じゃあ雨音も地元に残るのか」
「そのつもりなんだけど、先生たちからは県外の学校を薦められてるんだよね」
地元にこだわらず、広い視野を持って将来のことを考えろ。
それは、どの先生も口を揃えて言った言葉だった。
彼らの言うとおり、県外にも目を向ければ選択肢はかなり広がる。
「でも、興味ないんだ。私、トロイメライのお手伝いが好きだし。理人さんの傍でだって、学べることはたくさんあるから」
「そっか」
「まだ時間はあるから、もう少し考えてみるつもりだけどね」
けれど、この考えが変わる気配はなかった。
わざわざ見知らぬ遠いところまで行くことなんてない。
これまでと同じように、私は理人さんの隣で花を慈しんでいけたらいい。
この街で過ごす穏やかな日常こそが、きっと自分にとって一番の幸せなのだと、そのときの私は、まるで自分に言い聞かせるようにそう思っていた。
ここ、どこだろう……。
どこかぼんやりとした思考で、私は自分の所在を探っていた。
眼底に張り付いたような暗闇の中では、まるで何も分からない。
しばらくそうしていると、ふいに感じた光に目が眩んだ。
「……っ」
それは決して、優しい光ではなかった。
赤とオレンジと黄色と、黒。
蠢めくように立ち上るのは、間違いなく炎だ。
そんな光源を認めて、恐怖心に襲われる。
しかし熱い空気を吸い込んだ喉では、悲鳴を上げることさえできなかった。
火事だ……逃げなきゃ……。
でも、どこに?
私を取り囲むように燃え盛る炎せいで、逃げ道なんて見えない。
そんな絶望の淵で、ふと感じたのは肩への鈍い痛みだった。
「ごめんね雨音……ごめんね……」
「お母さん……?」
輪郭がぼやけて表情は曖昧だが、この声は私のお母さんのものだ。
震える手も、涙声も、遠い昔に覚えがある。
ああ、そうか。
これは、あの日の炎だ……――。
「雨音! しっかりして、雨音!」
大きな声が鼓膜を震わせ、ハッと覚醒した。
薄く開いた目で日の光の眩しさを感じ、そのままゆっくりとまぶたを開ける。
するとすぐそこに、心配そうに私を見つめる理人さんの姿が見えた。
「勝手に部屋に入ってごめんなさい。魘されて苦しそうな声が聞こえたから、起こさなくちゃと思って」
「……ううん。ありがとう、理人さん」
感謝の言葉を呟いた喉は、なぜか痛むほどに渇いていた。
まるで煙を吸い込んだかのように咳がもれる。
どうやら私は、家族を失ったあの日の夢を見ていたらしい。
寝起きの冴えない頭の中で夢の内容を思い出し、小さく身震いをする。
家族を失った日、私はまだ9歳だった。
けれどあれから何年も経った今でさえ、こうしてたまに夢に見るのだ。
あの日の恐怖は、たとえ薄れることがあっても消えることはないのだろう。
まぶたの裏に残った炎の色が、胸の奥の不安をどうしようもなく煽る。
そんな夢の名残を振り払うためにベッドから起き上がると、ぐらりと世界が回るような目眩がした。
「うう……」
「雨音っ」
均衡を失った私の体を、理人さんが咄嗟に支えてくれる。
そのまま、まるで子供を寝かしつけるように、背中を優しくさすられた。
されるがままに彼の腕に包まれていると、徐々に体温が上がっていくのを感じて、私はやっとそこで自分の体が冷えていたことに気がついた。
「大丈夫よ。怖いことなんてないわ。だから大丈夫」
「うん……」
今よりももっと幼かったころ、私は今日のような夢を頻繁に見ては、心を不安定にしていた。
そのたびに理人さんに抱きしめられ、なだめてもらったことを思い出す。
そんな昔に戻ってしまったみたいで気恥ずかしいけれど。
「雨音。無理しなくていいのよ。辛いときはいつでもアタシを頼ってね」
頭上から降る優しい言葉に、おとなしく身を委ねる。
彼の言葉は、まるで魔法だ。
耳を傾けているだけで、不思議と心が楽になる。
膨らみすぎた風船の空気を適度に抜くみたいに、私を私でいさせてくれるのだ。
理人さんの胸に耳を寄せ、彼の規則正しい心臓の動きを感じる。
一定のリズムを刻む鼓動の音を聴いていると、だんだんと私の心も落ち着いていった。
「アタシが傍にいるわ。だから大丈夫」
その声に頷きだけで返事をして、私を抱きしめてくれる理人さんの背中に腕を回す。
彼の温かさに、もう少しだけ縋っていたい。
涙が一筋だけ落ちたけれど、それはけして恐ろしさではない、安堵の涙だった。
「今日、学校はお休みにしましょう」
起床後、理人さんが淹れてくれた紅茶を飲んでいると、彼は突然そんな提案した。
「でも私、具合が悪いわけじゃないし……」
「雨音はいつも真面目に登校しているし、こんなときくらいいいじゃない。テスト期間でもないでしょう?」
「そうだけど」
あの日の夢を見て魘されるのは久しぶりだった。
高校生になってからは、ほとんどなかったことなのだ。
そんな私を、理人さんは心配してくれているのだろう。
「……うん。分かった、そうするね」
彼に心配をかけながら、わざわざ学校に行くこともない。
そう考えた私は、理人さんの言うとおり、大人しく学校を休むことにした。
「暇だね、キルシェ」
テーブルの上で微睡むキルシェに問いかける。
すると私の声に応えるように、彼女はうなぁと大きな欠伸をした。
繁忙期である母の日が終わったばかりのため、トロイメライはさほど忙しくはない。
暇を持て余した私は、キルシェと一緒にのんびりとしながら、届いたばかりの配達物の開封をしていた。
しかし手紙を種類ごとに振り分けていくというのは、実に眠気を誘う単純作業だ。
キルシェにつられるようにして欠伸をもらしていると、ふいに大量の配達物の中から赤と青で縁取られた封筒を見つけた。
「理花子さんからだ……!」
それはRikako Sanadaの差出名で届いていた、一通のエアメールだった。
理花子さんは数年前から活動の拠点を海外に移し、各地を飛び回っている。
そんな彼女がオランダから送ってくれたらしい手紙を発見して、私はいそいそと封を開けた。
入っていたのはキューケンホフ公園という場所で撮られたという、風車とチューリップの写真。
それと小さなメッセージカードだった。
――結婚式、楽しみにしているわね。
「あら。母さんから?」
「うわっ!」
理花子さんからのメッセージに目を奪われていると、突然後ろから声をかけられ、私は驚きに声を上げた。
振り返れば、少し離れた作業台にいたはずの理人さんが、いつの間にか私の手元を覗き込んでいる。
その横顔の近さに、なぜかどきりと心臓が高鳴った。
「うん。オランダから送ってくれたみたい。暖花さんの結婚式にも出られるって」
「忙しそうだから無理かと思っていたんだけど。自由なあの人も、さすがに娘の晴れ姿は見ておきたいのかしら」
理人さんはくすくすと笑いながら、同封されていた写真に目を落としている。
その表情を、私はおそるおそる慎重に眺めた。
近所の女の子たちに“お花屋さんの王子様”とあだ名されているくらい、彼は美しい容姿をしている。
性格だって穏やかで優しく紳士的で、特徴的な言葉遣いさえ除けば、たしかに童話に出てくる王子様そのものだ。
それなのに、どうして彼はこんなにも苦しい恋をしているのだろう。
「でも、家族そろって姉さんを祝うことができるみたいで、よかったわよね」
優しい響きをまとって呟かれた言葉に、私は緩く頷いた。
気がつけば、暖花さんの結婚式はもう来月に迫っている。
理人さんの口からは聞けないけれど、彼はきっと、最後まで自分の気持ちを隠し通すつもりだろう。
弟としての信頼を奪い、暖花さんを悩ませてしまうような行為を、理人さんは絶対にしない。
だから、彼の恋が叶うことは永遠にないのだ。
おとぎ話の中の王子様は、いつだって恋した女の子と幸せになれるのに。
そんな普遍的な結末が、どうして彼には訪れてくれないのだろう。
「姉さーん! 母さんから連絡来たわよ! 式には出席できるって」
「はあ!?」
私が悔しさにも似た感情を覚えていると、店先にいた暖花さんの声が大きく響いた。
「今ごろ返事をくれたって遅いわよ! 式まであと三週間切ってるのに」
「まあまあ。そんなこと言って、席は一応確保しておいたんだから。無駄にならなくてよかったじゃない」
「どうかしら。あの人は気分屋だし、本当に来るのかも信用できないわ」
仲良く談笑する二人の姿を見つめていると、やはり胸が苦しくなるような心地がしてくる。
左胸を押さえながら二人から目を離す私を、キルシェが心配そうに見ているのが分かった。
午後、私は理人さんに頼まれて、裏庭のガーデニング用にマリーゴールドの種蒔きをすることになった。
種蒔きなら暇つぶしにもなるし、それに店の中にいる二人を見ずにいられる。
今日やるにはちょうどよかったと、私はほっと息をついていた。
種蒔きの作業は簡単だ。
小さなポットをたくさん用意して、マリーゴールドの種を蒔いていくだけ。
二か月もすればこの種は芽を出し、やがて蕾をつけるだろう。
私と理人さんはそのころを見計らって、ハンギングバスケットと呼ばれる壁掛け用の鉢に植え替える。
マリーゴールドは黄色やオレンジの花を咲かせるから、色別に植えて飾れば、綺麗な暖色のグラデーションができるのだ。
毎年のように行うその手順を思い返して、それから私はため息を吐いた。
マリーゴールド。
ビタミンカラーで明るく元気なイメージなのに、この花には【悲しみ】や【絶望】なんて花言葉がついている。
黄色系統の花にはマイナスな意味の言葉がつきやすいから、それはしょうがないことなのだけれど。
何も知らない振りをして心の中で苦しさを感じている、まるで今の私のような花だと思ってしまったのだ。
「まーたため息吐いてんのかよ、雨音は」
「え……?」
そんな物思いにふけっていると、突然、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。
「颯司くん……!?」
振り返ると、そこには学校に行っているはずの颯司くんの姿があった。
いつもの飄々とした表情で腕を組んだ彼は、いつの間に現れたのか、観察するように私を見下ろしている。
しかし、時刻はまだ午後の1時だ。
本来ならば午後の授業に差しかかる時間なのに、どうして彼がこんなところにいるのだろう。
「臨時の職員会議で、午後は休校だって。暇だから遊びに来てやった」
「そうだったの」
私の疑問に簡潔な言葉で答えた颯司くんは、種を蒔いたばかりのポットを興味なさげに手に取った。
横柄を装っているけれど、たぶん彼は、急に学校を休んだ私を心配してトロイメライまで来てくれたのだろう。
そんな颯司くんの不器用な優しさが分かるくらいには、彼と親しくしてきた自負がある。
「で、今度は何に悩んでんの」
そして私が彼を理解しているのと同じだけ、彼も私を理解しているらしい。
心の中の闇を鋭く言い当てられ、私は小さく苦笑いをもらした。
「悩んでるわけじゃないよ。ちょっと落ち込んじゃってただけ」
「へーえ」
棒読みの返事をされ、これは信じていないなと悟る。
颯司くんの真っ黒な瞳には、いつでも真実を見通そうとする強い意思があった。
その真っ直ぐで裏表のない性格ゆえか、たまに恐ろしささえ感じるくらい、彼は真摯に物事を捉えようとするのだ。
「……今朝、久しぶりに夢を見たの。火事の夢」
だから、つい溢してしまった。
そんな私のひと言に、颯司くんの顔色が変わるのを見て、慌てて言葉をつけ足す。
「でも大丈夫だよ。これは自分の中で折り合いがついてることなの」
手についていた土を軽く払いながら、私は笑みを浮かべた。
たしかに家族を失ってから、私は一人だけ生き残った罪悪感でいっぱいだった。
今でも後悔や心残りが全くないかと問われれば、決してはいとは言えないだろう。
けれど時間が経過するのとともに、幼かった自分にはどうすることもできなかったのだと、気持ちに折り合いをつけることができていたのだ。
理人さんや周りの人たちの支えもあり、今ではきちんと前を向いていられる。
「じゃあ、なんで落ち込んでるんだよ」
私の言葉に、颯司くんはバツの悪そうな顔をしながらも、至極当たり前なことを問うた。
そう、心に巣食う闇は、火事のトラウマではない。
ただ。
「考えてみたら、私はあのころから全然変わってないんだなって思っちゃって」
爪に入り込んだ土を眺めながら、私は投げやりな気持ちで呟いた。
幼くて、無力で、守ってもらうばかりだった9歳のころから、まるで変わっていない。
力をくれた人のために恩返しがしたいのに、私はいまだに何も持たないままなのだ。
特に理人さんに対しては、それを強く感じてしまう。
彼と出会って、私は救われた。
彼のおかげで、私は私でいられた。
だからこそ彼にも幸せになってほしいと思うのに、私には何もできない。
もうお荷物なだけでいるのは嫌なのに。
そう考えたら、とても落ち込んでしまったのだ。
声が震えそうになるのを抑えながら、正直に颯司くんに伝える。
すると彼は言葉を選ぶように黙り込みながら、どこか遠くの方を眺めた。
「……言い方悪いけどさ。初めて雨音に会ったとき、人形みたいなやつだと思った」
選んだ末の言葉がそれかと、実に彼らしくて笑ってしまう。
「うん、たしかにそうだっかも」
彼の言葉に、幼かった自分たちを思い出して懐かしくなる。
颯司くんと出会ったのは、私がトロイメライに来てすぐのことだった。
あのころの私は痩せて真っ白な顔をしていて、あまり笑うこともなかったように思う。
きっと生気のない、まさに人形のように見えただろう。
「でもここで暮らすうちに、明るくなって、よく笑うようにもなっただろ?」
「そうだね」
「な。変わらないことなんてないんだよ。雨音も――」
理人も、と颯司くんは続けた。
「雨音がここに来てから理人は変わった」
「え……?」
「と言うよりも、雨音が理人を変えたんだと俺は思う」
唐突に出された理人さんの名前に心臓が跳ねる。
私が理人さんを変えた……?
その逆なら、もちろん分かるけれど。
「そんなことあるはずないよ。理人さんは今も昔もずっと変わらないままだし」
「嘘じゃねーよ。これでもこの家とは付き合いが長いんだ」
そう言えば颯司くんの実家の運送会社は、真田家先代の花屋さんのころからの付き合いだと聞いている。
彼も物心がつく前からこの家に来ていたようだから、私と出会う前の理人さんのこともよく知っているだろうけれど、やはりにわかには信じられない。
「ここからは俺のひとり言だけど」
するとそんな前置きしてから、颯司くんは昔話をしてくれた。
「理人、学生のころはよく夜遊びしてた。理花子さんは笑って黙認してたけど、暖花はかなり心配してたんだ」
彼が語るのは、私が初めて耳にする話だった。
理人さんが夜遊びをしていたなんて、今の彼からは想像もできない。
けれどもしかしたら、暖花さんに恋をしている罪悪感で、家に帰りづらいときがあったのだろうか。
傍にいるだけで隠しきれないほどの苦しさを感じていたとしたなら、理人さんの行動も簡単に説明がつく。
「でも雨音がこの家に来てから、理人にも帰らなきゃいけない理由ができた」
「えっ、私が……?」
「それからは変に遊びに行くこともなくなったし、思いつめた顔をすることも少なくなった」
「ちょ、ちょっと待って」
情報が多すぎて、頭の中でうまく整理ができない。
しかし颯司くんは私の声を聞かずに、あくまでひとり言という体で話を進めていく。
そんな状況に困惑しながらも、彼の言わんとしていることはなんとなく分かるような気がした。
つまりは私の存在が、理人さんの中の何かを変えていたのだと、そう言ってくれているのだろう。
「はい、俺のひとり言は終わり」
わざとらしく伸びをした颯司くんは、そのまま芝生の上にごろんと横になった。
キルシェに似た猫のようなその仕草を、目を瞬かせながら見つめる。
私の存在が、理人さんの力になっていたのかもしれない。
秘密を知っても傍にいてくれたことが嬉しかったと、理人さんは少し前に言ってくれた。
私はそれを取るに足らない些細なことだと思っていたけれど、こんな私でも、きちんと彼の力になれていたのだろうか。
もしもそうだったのだとしたら、嬉しい。
「颯司くんは人をよく見てて、すごいね」
「そんなことねーよ。俺は結局、何も知らないからな」
なんて言いながら、本当はきっと、全部気づいているのだろう。
今は空を見上げているその目は、いつもいろんなことをよく見ている。
しかしあくまでシラを切る颯司くんの優しさに微笑みながら、私も彼と同じく空を見上げた。
「楽しみだな、暖花の結婚式」
「うん。ねぇ聞いて颯司くん。私、結婚式のウェルカムボードをつくることになったの」
「ウェルカムボードって何?」
「披露宴会場の入り口に置く案内板みたいなやつだよ。私はお花を使ってつくるんだ」
「雨音が? まぁ、頑張れよ」
初夏の晴れた青空が広がっている。
それからもぽつりぽつりと話をしながら、私たちは穏やかな午後を過ごした。
その日の夜。
お風呂から上がってリビングに向かうと、いつもキルシェとソファーにいるはずの理人さんの姿が、なぜかどこにも見当たらなかった。
トロイメライはとうに閉店しているというのに、まだ何か作業をしているのだろうか。
特に急ぎの仕事はなかったはずだけれど。
不思議に思い、閉めたはずのトロイメライへと足を運ぶと、やはり作業台の電気が灯っているのが見えた。
「理人さん。何してるの」
「雨音」
驚かせないように静かに声をかけると、理人さんは私に気づいてゆっくりと振り返った。
その手元には、細いワイヤーとハサミが見える。
「ちょうどよかった。あなたにも見てもらおうと思ってたの」
「ブーケ? 暖花さんの?」
「そうよ。一度組んでみたんだけど、どうかしら」
見れば、作業台の上のブーケスタンドには、見事な白いキャスケードブーケが出来上がっていた。
主役の花は胡蝶蘭で、数種類のバラとトルコキキョウ、それからニューサイランやスマイラックスなんかのグリーンが絶妙なバランスで配置されている。
形はとても凝っていて美しいのに、ブライディというブーケ用のフォームはすっかり隠されていて、理人さんの技巧の高さが一目で分かるブーケだ。
「すっごく綺麗。きっと暖花さんに似合うよ」
「まだまだ改良の余地はあるけどね。バラとグリーンの種類ももう少し吟味したいし、差し色を入れてもいいかなって」
「差し色かぁ。……このブーケなら、ピンクがいいな」
「あら奇遇ね。アタシもピンクが良いと思ってたの」
そんな会話を交わしていると、理人さんは思いついたように、切り花のスペースからピンクのバラを数本引き抜いた。
それらを器用にブーケへと差し込む。
白にほんのりと差された淡いピンクは、やはりちょうどいいアクセントとなった。
「アタシね、このブーケを持つ姉さんのことを考えると、とても幸せな気持ちになるの。ずっと罪悪感でいっぱいだったのにようやく吹っ切れたんだって、自分でも分かるわ」
姿を変えていくブーケをうっとりと眺めていると、理人さんはふいに、こちらがどきりとするようなことを言った。
おそるおそる視線を移せば、その言葉どおり、彼の晴れた顔が目に映る。