彼は(かわ)誰時(たれどき)濃霧(のうむ)の中を歩いていた。

細かい(きり)が息を吸うたび、
雨の匂いを口に(ふく)ませる。

いつから歩いているのか、
いつから自分がここに存在(そんざい)するのか、
何も思い出せない。

何もわからないが本能に(さそ)われるように、
ただただその濃霧(のうむ)の中を歩き進んでいた。

ただ夢浮橋(ゆめうきはし)(夢の中のあやうい通い路)の中を
さ迷っている(よう)な、奇妙(きみょう)浮遊感(ふゆうかん)に包まれていた。

そんななか唐突(とうとつ)に、
遠い昔どこかで聞いた童歌(わらべうた)()こえてきた。

(かご)の中の鳥を(もてあそぶ)童歌(わらべうた)が。

「か~ご~め か~ご~め」

「か~ご~の な~か~の と~りぃ~わ~」

「い~つ い~つ でやぁ~う」

「夜明けの(ばん)に、
 つ~ると か~めが す~べった
 うしろのしょうめん だぁ~れ 」

連綿(れんめん)()がれる童歌(わらべうた)は、
どこか不思議で(なつ)かしく、もの悲しかった。

そして不可解(ふかかい)不気味(ぶきみ)だった。

童歌(わらべうた)とは言葉だけで伝承(でんしょう)され、
原文が存在しない。

存在しないからこそ、その意味は広い。

そして古来には、
現代では(うしな)われた発音があった。


例え(たと)えば歌詞(かし)のいついつの部分のい。

古来にはゐと言う発音があり、
現代とは明確(めいかく)に発音が違っていた。

ゐは、いで習う古語だが、
厳密(げんみつ)には(い)ではない。

ゐ=うぃである。

同じように(ゆぇ)と言う発音などがあるが、
現代化と共にこうした統一された言葉は多い。

(やしろ)元々(もともと)は、うぃやしろであり、
屋代(やしろ)とは明確(めいかく)に発音が違う。

こうした言語の統一は、それまで
別の発音だった言葉の多くを混合させ、
日常会話を混乱させる要因(よういん)になった。

(たと)えばかんしょうと言う言葉を例にすると。

感傷、干渉、鑑賞、観賞、完勝、環礁、感賞などがある。

まだあるがそういった同じ発音も、
昔は別々(ここ)の発音で話されていた。

そういった意味でこのかごめ唄を聞くとき、
その意味の(はば)は広がる。

いついつでやぁうは、
うぃつ、うぃつでやぁうかも知れない。

もしこう歌っていたとしても現代の子供は、
いついつに置き換えるだろう。

なぜなら、
ウィと言う発音を習ってないからだ。

(かり)手主(てっしゅ)と言う言葉があるとして、
それを聞いたとしても、
ティッシュと混合(こんごう)する事は無いだろう。

だがある日、日本政府が、
ティをてに統一すると決めたとする。

途端(とたん)にティッシュはテッシュになり、
手主(てっしゅ)と言う言葉と区別出来なくなる。

現に古来日本では、
てぃと言う発音もあったような痕跡(こんせき)があるが
現代の日本語からは削除されている。

そう言った事を考慮(こうりょ)すれば、
いついつであうは、何時(いつ)かも知れないし、
うぃつかも知れない。

そう言った意味でこのかごめ(うた)を考える時、
何か歌詞(かし)()められた、
メッセージのようなものを感じる。

例えばかごめのかごだけでも、
いくつかの意味が考えられる。

籠?
加護?
過後?
加護女(かごめ)

籠女(かごめ)

籠目(かごめ)(★六つ目()み)?

六芒星(ろくぼうせい)


そんな事を考えながら歩いていると、
前方から(ふたた)び、かごめ(うた)が聴こえてきた。