土曜日、俺はほとんど自分の部屋から出ることなしに一日を終えた。究極の暇人の成せる技であることを否定しない。それくらいに、俺の肉体活動は最小限に抑えられていた。
しかし何も別に、これは珍しいことではなかった。左膝を怪我してからというもの、俺は基本的に安静にすることを義務づけられているのだ。昔から馬鹿の一つ覚えみたいにやっていたリフティングも、シュートやパスの練習も、ランニングさえももうできない。その上、特に勉学に興味もなければ、俺が取り立てて休みにすることなんて皆無と言っても過言ではなかった。
新しく通い始めた高校でできた友人は数人いるが、悲しきかな、今の彼らには俺と休日を謳歌している暇はないだろう。高校というコミュニティで新たな居場所を得るために、せっせと仮入部員として部活動に参加中だ。
思い返せば、中学の頃の俺もそうだった。平日も休日も関係なく、サッカーばかりやっていた。きっとあの頃は、サッカーボールが俺の生活を導いてくれていたのだろう。土で薄く汚れた白黒の玉を追いかけているだけで、何をするべきか全部わかったし、迷うことなんて考えられなかったのだ。
でも今、もう俺はそのボールを追うことができない。自慢だった人生の羅針盤を失ってしまって、日々の過ごし方がわからないままに生きている。
そんなわけで無為に過ごしてばかりいるからこそ、どうしても身体のエネルギーが行き場をなくして、余計なことばかり頭に浮かぶ。これは本当にどうしようもなく、至極当然と言ってよかった。
この日、俺がまったく身体を動かさない代わりに終日をかけて考えていたのは、二年前の都心駅のライブ、フードのギタリストによるストリートライブについてだった。
まあ、そりゃ、そうなのだ。
鳴海のギターを聴いてから、俺はほとんどずっと、そのことばかり考えている。つまるところ、俺はこの日、ひたすらに鳴海のことを考えていたのだ。
彼女の弾いていたあの曲を、なぜだか無性にもう一度聴きたい。彼女が当時のギタリスト本人なのかどうか知りたい。そして彼女に伴うわずかな違和感に、ほんの少しだけ、惹かれている。
ただ、それを解決する方法は初めから既にわかっていて、鳴海に直接聞けばよい。一見簡単なお話で、けれどなかなかどうして難しい。何とも歯がゆいことである。ついに週末になってしまったし、いよいよ気になるばかりでどうすることもできずに耐えるしかなく……そうして一日晴れぬ想いを抱えたまま、俺は悶々と土曜を過ごすしかなかった。
しかしてその反動か、日曜日には、俺は外出を試みた。収束しえぬ疑問に半日くらい体内時計をずらされて、夕方になってからずるずると自室を這い出した。
特に目的があったわけではない。ただの散歩のつもりだった。要するに気分転換だ。
けれど、それなのに俺の身体は思考から無自覚に指図を受け、陽が落ちた頃に気づいてみたら、都心の駅にたどり着いていた。
溜息とともに、やはりどうしても自分は、自分から逃げられないらしいと知る。何を隠そう、俺は現実逃避が苦手なのだ。
俺は潔く気分転換を諦めて、慣れた足取りで迷路のような地下街を出たあと、そのまま駅前の大通りへと向かった。
絶え間のない人や車の波。高くそびえ立つオフィスビル。見慣れてもなお視線を向けてしまうおかしな形のモニュメント。二年前からほとんど変わらない賑やかな街並みと往来が、そこにはある。俺の記憶に色濃く残る、ストリートライブの会場だ。
昔と違うのは、ここを走り抜ける力が俺にないこと。そしてライブの人集りが見られないこと。
俺の夢はもう潰えたし、夢を抱かせるあの音楽も、もう一切聴こえてはこない。
「……」
ああ、俺は本当に、いったいどうしてここへ来たのだろう。何をしにここへ来たのだろう。ここはもう、疑問の答えが見つかる場所でもなければ、思い出の光景を眺められる場所でもない。得られるものがないことは、初めからわかりきっていたはずなのに、いったいなぜ……。
ふと冷静になってそう思うと、途端に自分に嫌気がさした。目を細めて、せり上がってきた二つ目の溜息を無理矢理に飲み込む。
そうして、もう考えるのはやめようと、さっさと帰って寝てしまおうと踵を返したとき、偶然にも視界の端に映ったものに、俺の意識は強く吸い寄せられたのだった。
無機質なくすんだ景色の中、そこにあったのは、シックな黒い輝きを放つ一つのアコースティックギターだった。
瞬間、俺は跳ね上がるくらいに、ひどく驚く。
しかもよく見るとそのギターは、目立たない灰色のフード付きコートを着た人物の肩に提げられている。その人物は今まさに、俺が注目している目の前で、ゆっくりと構えて弾き出そうとしていたのだ。色白の指先によく馴染む白いピックが、黒のギターの上で踊り出す。
この広く騒がしい大通りで、ギターの音は余りに小さく、ただ雑踏に混じる喧噪の一つでしかない。しかし俺は、弦が弾かれ音楽が紡がれたその瞬間、確かな音色を耳にすることができた。
知らず知らずのうちに、足はもう前へと進んでいた。周りに歩いている人をかき分け、音のする方へと近づいてゆく。
近くで見れば見るほど、そのフードのギタリストは、俺の記憶の中の姿とぴったり綺麗に重なった。
全身を覆う控えめな服装。わずかに毛先だけ覗く金の髪。ピックを使って弾くギタースタイル。
間違いない。間違いなく本人だ。俺はそう確信し、高揚する気持ちを抑えながらも、周りが見えなくなっている自分に気づけないでいた。
夢中で歩み寄った俺は、勢いよくその人物の正面に出る。無理に動かすと痛む左膝を庇いながら急いだので、発汗して脳を巡る血流が増し、若干ボーッとした心地で口を開く。
「……鳴海」
すると、ぴたりと演奏が止み、目の前にあるフードの中から訝しげな視線が向けられた。
細身で長身のすらっとした姿。今日一日考えていたこともあってか、このときの俺には、眼前のギタリストが鳴海に思えて仕方がなかった。
「鳴海?」
けれども、帰ってきたのは疑問詞を伴っただけの同じワード。しかもそれを伝えるのが、思い描いていた穏やかでふわりとした優しげな声――俺の知る鳴海の声ではなく、儚げで細いガラスのように透き通ったものであることに、上気した俺の頭は冷やされた。声の調子から女性であることは間違いないが、あまりに鳴海のそれとはかけ離れている。
「あっ、いや……す、すみません!」
俺は咄嗟に正気を取り戻し、大変な居心地の悪さを感じて、慌ててその場を立ち去ろうとする。振り返って歩き出そうとしたところで、しかし意外にも、フードの彼女に呼び止められた。
「待って。鳴海って……鳴海玲奈のこと?」
「……え?」
思わぬことを尋ねられ、俺はきょとんとして彼女を見る。
彼女は深々と被った灰色のフードをおもむろに取り払った。
同時に俺は声を上げる。
「あっ……君は……」
そこにいたのは、先日学校の音楽準備室で見たあの女の子――透明で華奢な体躯をした編入生の少女だった。
今は前と違って制服ではなくコートを着ていて、黒いショートヘアの毛先だけが、うっすらと金色に染まっている。しかもなぜだか少し背丈が高い。
髪の方は、おそらく色のついた整髪料だろう。さらによく見ると足下は底の厚いウェッジソールで、その分だけ身長が伸びて見えるのだと、遅れて気づいた。
――唯花がいる。
俺はそう思った。外見がいくらかカジュアルになっており、さらにギターを提げているせいか、もうまるっきり本人にしか見えない。
直後には、脊髄反射でただ呟いていた。
「唯、花……」
質問にすらほど遠い俺のそんな言葉に対し、目の前の彼女は素っ気なく答える。
「……そうだよ。学校でも会ったね」
そうだよって……いや、マジかよ。
それって、今ここにいるこの子が、あの稀代の天才美少女ギタリストとして全国的に有名な唯花本人だと――学校で聞いた噂は本当に本当だったと、つまりはそういうことなのか?
ま、まあ確かに、俺も半分くらいは信じ始めていたけれど……孝文の噂に、学校に漂う雰囲気に、彼女の容姿に飲まれて信じ始めていたけれど……でもいざ事実として固まると、また驚きも一味違う。そういえば、少し前から唯花の活動休止が騒がれていたっけ。それも一応、彼女がここにいることを否定させない要素の一つにはなる。
別世界の人間だと思っていた存在が、今まさに自分の眼前にいると知り、情けなくも俺の脳内処理は盛大にパンク。事実の認識を思いっきり投げ出して、正常な活動を怠り始めていた。
動揺から上手く声を出せないでいると、彼女が再び口を開く。
「ねぇ、それでさ。私も聞いてるんだけど、鳴海って鳴海玲奈のこと?」
「え……あ、ああ……そうだけど……」
俺は半分くらい無意識のまま反応し、結果として、しどろもどろになる。
可愛らしい外見をしている割に、彼女の言葉はかなりぶっきらぼうだった。その視線には、他人と初めて会話をするときに持ち得る負の感情――不安や警戒心といったものがいくらか見られる。俺という他人との間に、薄い壁を一枚と言わず二枚も三枚も作っている。彼女と話していることに対して妙に実感が持てない俺は、ふとそんな客観的認識を抱いていた。
「どうして君は、鳴海のことを知っているんだ?」
俺が尋ねると、彼女は少し迷うような仕草を見せたが、やがて俯きながら返答する。
「……昔、ここで一緒に……やってたから」
それが、自分の投げかけた疑問への答えであることに、俺はすぐに気づけなかった。少しだけ考えて、彼女の言葉に足りていない部分を想像で補う。
「やってたって……ひょっとして、ストリートライブをか?」
彼女はこちらを見据えたまま、こくんと頷いた。
こくんって……いや、マジかよ。って、あれ? おいこれ二回目だぞ。
しかし、二回目だろうと二十回目だろうと、これが驚かずにいられるだろうか。いやいや無理だ。大ニュースだ。唯花の正体に続き、またも衝撃の事実を明かされて、俺の鼓動はワンテンポ遅れながら徐々に早回しになっていく。あんまり日に何度も驚きすぎると、心臓が跳ねまくった挙げ句に血流過多でどうにかなってしまいそうだ。
さきほどから一向に落ち着かない頭の中で、俺は状況を理解しようと奔走する。脈拍を下げ、絡まり乱れる神経信号を丁寧に解きほぐし、事実を飲み込もうと努力する。
「じ、じゃあ……その黒いギターってやっぱり、ここでよく弾いてた二人組の……?」
「うん」
「ってことは、もう一人の白いギターを弾いてたのが、あの鳴海……?」
「うん」
心の奥底には、もしかしたら、なんて想いもあった。だがこれもまた、いざ事実として固まると一味違う驚愕である。
何せ、あの鳴海だ。あの淑やかで清楚な優等生であるところの鳴海玲奈が、まさか駅前でギターのストリートライブ……自分で想像しておきながら、これほどミスマッチな組み合わせもなかなかない。
ただ、目の前のこの子が嘘を言っているようにも見えないし、疑うよりは受け入れる方が、状況証拠からしても正しいような気がしてくる。
つまりこの子と鳴海がその昔――今から遡ると約二年前、この駅前でストリートライブをしていたギタリストの正体だということだ。
季節も天気も関係なくフード付きのコートで身を隠し、当時ここらではちょっとした有名人だった彼女たち。鮮やかな手捌きと白黒のギターで聴衆を魅了し、生き生きとした快活な、夢に満ち溢れた音楽を響かせていた彼女たち。まるで世界の秘密と希望を、そのまま映し出したかのようにすら見えた彼女たち――。
それは、俺がこれまで生きてきた中で最も幸せだったと思える頃――ひたすらサッカーにのめり込んでいた中学時代に形作られた記である。だから、どうしても彼女たちの音楽は、俺の中でサッカーに繋がっている。毎日自分の輝かしい未来を想い描きながら生きる幸福を、心の中に蘇らせてくれる。
しかしそんな彼女たちは、あるときを境にぱったりと、突然現れなくなってしまった。今思えば、あれはまるで予兆のようで、俺の方もそのあとすぐ、駅前に通うことはなくなったのだ。
驚きのさなか、そして回顧のさなかで俺が黙り込んでいると、彼女は小声でぼそっと呟く。
「もう……解散しちゃったけどね」
解散。
チームを解消したということ。
どこからともなく流れてきた風の噂で、そういう話を耳にしたことはあった。きっとそれが、あの頃何の前触れもなく、二人がここに現れなくなった理由なのだろう。
「……あれか? よく言う、音楽性の違いってやつ」
「音楽性? 何それ、違うよ。よくわかんないけど……たぶん、色々、あったんだよ」
色々……か。一度組んで、それなりに長く続いていたペアを解消するくらいだから、まあ事情は様々あるんだろうけれど……でも、目の前の彼女はあからさまに、放つ雰囲気でそれを聞くなと物語っている。
正直なところ知りたい気持ちは否めなかったが、俺が逡巡しているうちに、いつの間にか彼女はフードを被り直していた。質問から逃れるためなのか、あるいはまた別の理由か。
そしてふと周りを見渡すと、いくらかこちらを見ている人たちがいることに、俺は気づく。彼女の唯花としての容姿が、知らず知らずのうちに人目を集めていたのかもしれない。
「ちょっと、あのさ。さっきから私ばっかり質問されてる。ずるだよこれ。いいから早く、そっちはなんで玲奈のこと知ってるのか教えなよ。玲奈とはどういう関係なの」
彼女は浅めにフードを被ると、相変わらずの刺のあるトーンで俺に尋ねた。
「え、うーん……なんでって言われてもな……。鳴海は学校じゃあ有名人だ。超優等生だし、名前くらいはみんな知ってる。俺はクラスメイトだから、少し話したことがある程度かな」
「クラスメイト……? それだけ……?」
「それだけ、だけど」
彼女の両眼が鋭く俺を射抜く。
「……本当?」
「う、嘘ついてどうする」
「ふぅん……」
俺は思わず、気圧されて一歩後ずさった。
彼女はフードの影の中から異様に尖った視線を向けてくる。それはさきほどの、知らない人間に対してちょっと不信心を抱いている、なんて生易しいものではない。まるで割れたガラスの先でも突き立てるかのように、冷ややかな敵意を感じさせる。
何だ……? やたらとしつこく問い詰めてくると思ったら、突然思いっきり睨んできて……何かあるのか?
「クラスメイト、ね……」
彼女はもう一度、単語の意味を確かめるように低く、そして深く独りごちた。それを最後に口を閉ざし、やがてくるりと回って俺に背を向ける。慣れた動作でギターを外し、足下にあったケースにしまい込む。
「あ、あの……」
俺が言葉に迷っていると、彼女は大きなギターケースを背負って言った。
「今日は……もういいや。私、そろそろ帰るよ」
彼女が歩き去ろうとするのを見て、俺は今更のように慌て出す。何か……何か言わないといけない気がする。
そうだ。よく考えたら、俺は今ここでやっと、最近ずっと自分を悩ませ続けていた疑問の答えに出会ったんじゃないか。もう今更、何も得るものはないと、既に過去の場所でしかないと思っていたこの駅前で、彼女たちのライブの会場だった、この場所で――。
しかもその答えは、明かされた事実は、俺の想像を具現化したものに極めて近い。自分すら半信半疑だった俺の理想に、まるで現実の方が吸い寄せられたようにさえ感じるくらいに。
ああ、だったら俺は、もっとその先に手を伸ばしたい。彼女たち二人の演奏を、俺の大好きだったサッカーと繋がるあの曲を、もう一度聴いてみたい。強く、心の底から強く、俺はそう思う。
「あっ……あのさっ!」
思いの外張ってしまい裏返る寸前だった俺の声に、彼女はゆっくりと立ち止まった。しかし振り返ることはない。こちらに背中を、向けたまま。
「その、俺……昔ここで聴いた曲、すごく好きだったんだ。い、いや、今でも好きなんだ。一番よく弾いてた曲だよ。だから……よかったら、是非もう一度聴かせてくれないか」
「……だめ」
「え……ど、どうして」
「一人じゃ、弾けないから」
彼女の言葉が、一連の音となって頭の中で反芻される。その短い音階から意図を見極めようと、俺は草の根を分ける想いで神経を巡らせる。
「あの曲は、二人じゃないと弾けない。玲奈とじゃないと、弾けないんだよ」
二人じゃないと……ああ、そういうことか。例えば、ピアノで言う連弾みたいな……いや、少し違うか。けどまあ、とにかく、譜面上二人の奏者が必要であるということは考えられる。そりゃあそうか。もともと二人で弾いていたんだもんな。
「じゃあさ、鳴海にも頼んでみるから。そしたら……」
俺は咄嗟に提案をし、何とか食い下がろうとする。
けれども彼女は、抑揚のない細い声で、あっさりとそれを切り捨てた。
「玲奈はやってくれないよ」
一言だけ言うと、しばらくしてまたゆっくりと彼女は歩き出す。もはや口から吐き出す言葉を持たない俺を置き去って、ここから離れていってしまう。
そうして雑踏に紛れる寸前、まるで溶け消える刹那の雪のように淡い声色で、儚く零す。
「……玲奈は、もう私とは一緒に弾いてくれない」
本来なら、俺がそれを耳にできるはずはなかっただろう。周りは依然、溢れる人のざわめきで満たされている。
けれども、このとき俺は、彼女の言葉を確かに聞くことができたのだ。彼女の背に、声に、まとう空気に、聞き過ごすことなどできない何かを感じたのだ。
その何かを、俺は一人残されたあとになって、ようやくぼんやりと理解する。
俺が彼女の言葉に感じたのは、その胸に滲む、冷たい悲愴の切れ端だったのだと。
しかし何も別に、これは珍しいことではなかった。左膝を怪我してからというもの、俺は基本的に安静にすることを義務づけられているのだ。昔から馬鹿の一つ覚えみたいにやっていたリフティングも、シュートやパスの練習も、ランニングさえももうできない。その上、特に勉学に興味もなければ、俺が取り立てて休みにすることなんて皆無と言っても過言ではなかった。
新しく通い始めた高校でできた友人は数人いるが、悲しきかな、今の彼らには俺と休日を謳歌している暇はないだろう。高校というコミュニティで新たな居場所を得るために、せっせと仮入部員として部活動に参加中だ。
思い返せば、中学の頃の俺もそうだった。平日も休日も関係なく、サッカーばかりやっていた。きっとあの頃は、サッカーボールが俺の生活を導いてくれていたのだろう。土で薄く汚れた白黒の玉を追いかけているだけで、何をするべきか全部わかったし、迷うことなんて考えられなかったのだ。
でも今、もう俺はそのボールを追うことができない。自慢だった人生の羅針盤を失ってしまって、日々の過ごし方がわからないままに生きている。
そんなわけで無為に過ごしてばかりいるからこそ、どうしても身体のエネルギーが行き場をなくして、余計なことばかり頭に浮かぶ。これは本当にどうしようもなく、至極当然と言ってよかった。
この日、俺がまったく身体を動かさない代わりに終日をかけて考えていたのは、二年前の都心駅のライブ、フードのギタリストによるストリートライブについてだった。
まあ、そりゃ、そうなのだ。
鳴海のギターを聴いてから、俺はほとんどずっと、そのことばかり考えている。つまるところ、俺はこの日、ひたすらに鳴海のことを考えていたのだ。
彼女の弾いていたあの曲を、なぜだか無性にもう一度聴きたい。彼女が当時のギタリスト本人なのかどうか知りたい。そして彼女に伴うわずかな違和感に、ほんの少しだけ、惹かれている。
ただ、それを解決する方法は初めから既にわかっていて、鳴海に直接聞けばよい。一見簡単なお話で、けれどなかなかどうして難しい。何とも歯がゆいことである。ついに週末になってしまったし、いよいよ気になるばかりでどうすることもできずに耐えるしかなく……そうして一日晴れぬ想いを抱えたまま、俺は悶々と土曜を過ごすしかなかった。
しかしてその反動か、日曜日には、俺は外出を試みた。収束しえぬ疑問に半日くらい体内時計をずらされて、夕方になってからずるずると自室を這い出した。
特に目的があったわけではない。ただの散歩のつもりだった。要するに気分転換だ。
けれど、それなのに俺の身体は思考から無自覚に指図を受け、陽が落ちた頃に気づいてみたら、都心の駅にたどり着いていた。
溜息とともに、やはりどうしても自分は、自分から逃げられないらしいと知る。何を隠そう、俺は現実逃避が苦手なのだ。
俺は潔く気分転換を諦めて、慣れた足取りで迷路のような地下街を出たあと、そのまま駅前の大通りへと向かった。
絶え間のない人や車の波。高くそびえ立つオフィスビル。見慣れてもなお視線を向けてしまうおかしな形のモニュメント。二年前からほとんど変わらない賑やかな街並みと往来が、そこにはある。俺の記憶に色濃く残る、ストリートライブの会場だ。
昔と違うのは、ここを走り抜ける力が俺にないこと。そしてライブの人集りが見られないこと。
俺の夢はもう潰えたし、夢を抱かせるあの音楽も、もう一切聴こえてはこない。
「……」
ああ、俺は本当に、いったいどうしてここへ来たのだろう。何をしにここへ来たのだろう。ここはもう、疑問の答えが見つかる場所でもなければ、思い出の光景を眺められる場所でもない。得られるものがないことは、初めからわかりきっていたはずなのに、いったいなぜ……。
ふと冷静になってそう思うと、途端に自分に嫌気がさした。目を細めて、せり上がってきた二つ目の溜息を無理矢理に飲み込む。
そうして、もう考えるのはやめようと、さっさと帰って寝てしまおうと踵を返したとき、偶然にも視界の端に映ったものに、俺の意識は強く吸い寄せられたのだった。
無機質なくすんだ景色の中、そこにあったのは、シックな黒い輝きを放つ一つのアコースティックギターだった。
瞬間、俺は跳ね上がるくらいに、ひどく驚く。
しかもよく見るとそのギターは、目立たない灰色のフード付きコートを着た人物の肩に提げられている。その人物は今まさに、俺が注目している目の前で、ゆっくりと構えて弾き出そうとしていたのだ。色白の指先によく馴染む白いピックが、黒のギターの上で踊り出す。
この広く騒がしい大通りで、ギターの音は余りに小さく、ただ雑踏に混じる喧噪の一つでしかない。しかし俺は、弦が弾かれ音楽が紡がれたその瞬間、確かな音色を耳にすることができた。
知らず知らずのうちに、足はもう前へと進んでいた。周りに歩いている人をかき分け、音のする方へと近づいてゆく。
近くで見れば見るほど、そのフードのギタリストは、俺の記憶の中の姿とぴったり綺麗に重なった。
全身を覆う控えめな服装。わずかに毛先だけ覗く金の髪。ピックを使って弾くギタースタイル。
間違いない。間違いなく本人だ。俺はそう確信し、高揚する気持ちを抑えながらも、周りが見えなくなっている自分に気づけないでいた。
夢中で歩み寄った俺は、勢いよくその人物の正面に出る。無理に動かすと痛む左膝を庇いながら急いだので、発汗して脳を巡る血流が増し、若干ボーッとした心地で口を開く。
「……鳴海」
すると、ぴたりと演奏が止み、目の前にあるフードの中から訝しげな視線が向けられた。
細身で長身のすらっとした姿。今日一日考えていたこともあってか、このときの俺には、眼前のギタリストが鳴海に思えて仕方がなかった。
「鳴海?」
けれども、帰ってきたのは疑問詞を伴っただけの同じワード。しかもそれを伝えるのが、思い描いていた穏やかでふわりとした優しげな声――俺の知る鳴海の声ではなく、儚げで細いガラスのように透き通ったものであることに、上気した俺の頭は冷やされた。声の調子から女性であることは間違いないが、あまりに鳴海のそれとはかけ離れている。
「あっ、いや……す、すみません!」
俺は咄嗟に正気を取り戻し、大変な居心地の悪さを感じて、慌ててその場を立ち去ろうとする。振り返って歩き出そうとしたところで、しかし意外にも、フードの彼女に呼び止められた。
「待って。鳴海って……鳴海玲奈のこと?」
「……え?」
思わぬことを尋ねられ、俺はきょとんとして彼女を見る。
彼女は深々と被った灰色のフードをおもむろに取り払った。
同時に俺は声を上げる。
「あっ……君は……」
そこにいたのは、先日学校の音楽準備室で見たあの女の子――透明で華奢な体躯をした編入生の少女だった。
今は前と違って制服ではなくコートを着ていて、黒いショートヘアの毛先だけが、うっすらと金色に染まっている。しかもなぜだか少し背丈が高い。
髪の方は、おそらく色のついた整髪料だろう。さらによく見ると足下は底の厚いウェッジソールで、その分だけ身長が伸びて見えるのだと、遅れて気づいた。
――唯花がいる。
俺はそう思った。外見がいくらかカジュアルになっており、さらにギターを提げているせいか、もうまるっきり本人にしか見えない。
直後には、脊髄反射でただ呟いていた。
「唯、花……」
質問にすらほど遠い俺のそんな言葉に対し、目の前の彼女は素っ気なく答える。
「……そうだよ。学校でも会ったね」
そうだよって……いや、マジかよ。
それって、今ここにいるこの子が、あの稀代の天才美少女ギタリストとして全国的に有名な唯花本人だと――学校で聞いた噂は本当に本当だったと、つまりはそういうことなのか?
ま、まあ確かに、俺も半分くらいは信じ始めていたけれど……孝文の噂に、学校に漂う雰囲気に、彼女の容姿に飲まれて信じ始めていたけれど……でもいざ事実として固まると、また驚きも一味違う。そういえば、少し前から唯花の活動休止が騒がれていたっけ。それも一応、彼女がここにいることを否定させない要素の一つにはなる。
別世界の人間だと思っていた存在が、今まさに自分の眼前にいると知り、情けなくも俺の脳内処理は盛大にパンク。事実の認識を思いっきり投げ出して、正常な活動を怠り始めていた。
動揺から上手く声を出せないでいると、彼女が再び口を開く。
「ねぇ、それでさ。私も聞いてるんだけど、鳴海って鳴海玲奈のこと?」
「え……あ、ああ……そうだけど……」
俺は半分くらい無意識のまま反応し、結果として、しどろもどろになる。
可愛らしい外見をしている割に、彼女の言葉はかなりぶっきらぼうだった。その視線には、他人と初めて会話をするときに持ち得る負の感情――不安や警戒心といったものがいくらか見られる。俺という他人との間に、薄い壁を一枚と言わず二枚も三枚も作っている。彼女と話していることに対して妙に実感が持てない俺は、ふとそんな客観的認識を抱いていた。
「どうして君は、鳴海のことを知っているんだ?」
俺が尋ねると、彼女は少し迷うような仕草を見せたが、やがて俯きながら返答する。
「……昔、ここで一緒に……やってたから」
それが、自分の投げかけた疑問への答えであることに、俺はすぐに気づけなかった。少しだけ考えて、彼女の言葉に足りていない部分を想像で補う。
「やってたって……ひょっとして、ストリートライブをか?」
彼女はこちらを見据えたまま、こくんと頷いた。
こくんって……いや、マジかよ。って、あれ? おいこれ二回目だぞ。
しかし、二回目だろうと二十回目だろうと、これが驚かずにいられるだろうか。いやいや無理だ。大ニュースだ。唯花の正体に続き、またも衝撃の事実を明かされて、俺の鼓動はワンテンポ遅れながら徐々に早回しになっていく。あんまり日に何度も驚きすぎると、心臓が跳ねまくった挙げ句に血流過多でどうにかなってしまいそうだ。
さきほどから一向に落ち着かない頭の中で、俺は状況を理解しようと奔走する。脈拍を下げ、絡まり乱れる神経信号を丁寧に解きほぐし、事実を飲み込もうと努力する。
「じ、じゃあ……その黒いギターってやっぱり、ここでよく弾いてた二人組の……?」
「うん」
「ってことは、もう一人の白いギターを弾いてたのが、あの鳴海……?」
「うん」
心の奥底には、もしかしたら、なんて想いもあった。だがこれもまた、いざ事実として固まると一味違う驚愕である。
何せ、あの鳴海だ。あの淑やかで清楚な優等生であるところの鳴海玲奈が、まさか駅前でギターのストリートライブ……自分で想像しておきながら、これほどミスマッチな組み合わせもなかなかない。
ただ、目の前のこの子が嘘を言っているようにも見えないし、疑うよりは受け入れる方が、状況証拠からしても正しいような気がしてくる。
つまりこの子と鳴海がその昔――今から遡ると約二年前、この駅前でストリートライブをしていたギタリストの正体だということだ。
季節も天気も関係なくフード付きのコートで身を隠し、当時ここらではちょっとした有名人だった彼女たち。鮮やかな手捌きと白黒のギターで聴衆を魅了し、生き生きとした快活な、夢に満ち溢れた音楽を響かせていた彼女たち。まるで世界の秘密と希望を、そのまま映し出したかのようにすら見えた彼女たち――。
それは、俺がこれまで生きてきた中で最も幸せだったと思える頃――ひたすらサッカーにのめり込んでいた中学時代に形作られた記である。だから、どうしても彼女たちの音楽は、俺の中でサッカーに繋がっている。毎日自分の輝かしい未来を想い描きながら生きる幸福を、心の中に蘇らせてくれる。
しかしそんな彼女たちは、あるときを境にぱったりと、突然現れなくなってしまった。今思えば、あれはまるで予兆のようで、俺の方もそのあとすぐ、駅前に通うことはなくなったのだ。
驚きのさなか、そして回顧のさなかで俺が黙り込んでいると、彼女は小声でぼそっと呟く。
「もう……解散しちゃったけどね」
解散。
チームを解消したということ。
どこからともなく流れてきた風の噂で、そういう話を耳にしたことはあった。きっとそれが、あの頃何の前触れもなく、二人がここに現れなくなった理由なのだろう。
「……あれか? よく言う、音楽性の違いってやつ」
「音楽性? 何それ、違うよ。よくわかんないけど……たぶん、色々、あったんだよ」
色々……か。一度組んで、それなりに長く続いていたペアを解消するくらいだから、まあ事情は様々あるんだろうけれど……でも、目の前の彼女はあからさまに、放つ雰囲気でそれを聞くなと物語っている。
正直なところ知りたい気持ちは否めなかったが、俺が逡巡しているうちに、いつの間にか彼女はフードを被り直していた。質問から逃れるためなのか、あるいはまた別の理由か。
そしてふと周りを見渡すと、いくらかこちらを見ている人たちがいることに、俺は気づく。彼女の唯花としての容姿が、知らず知らずのうちに人目を集めていたのかもしれない。
「ちょっと、あのさ。さっきから私ばっかり質問されてる。ずるだよこれ。いいから早く、そっちはなんで玲奈のこと知ってるのか教えなよ。玲奈とはどういう関係なの」
彼女は浅めにフードを被ると、相変わらずの刺のあるトーンで俺に尋ねた。
「え、うーん……なんでって言われてもな……。鳴海は学校じゃあ有名人だ。超優等生だし、名前くらいはみんな知ってる。俺はクラスメイトだから、少し話したことがある程度かな」
「クラスメイト……? それだけ……?」
「それだけ、だけど」
彼女の両眼が鋭く俺を射抜く。
「……本当?」
「う、嘘ついてどうする」
「ふぅん……」
俺は思わず、気圧されて一歩後ずさった。
彼女はフードの影の中から異様に尖った視線を向けてくる。それはさきほどの、知らない人間に対してちょっと不信心を抱いている、なんて生易しいものではない。まるで割れたガラスの先でも突き立てるかのように、冷ややかな敵意を感じさせる。
何だ……? やたらとしつこく問い詰めてくると思ったら、突然思いっきり睨んできて……何かあるのか?
「クラスメイト、ね……」
彼女はもう一度、単語の意味を確かめるように低く、そして深く独りごちた。それを最後に口を閉ざし、やがてくるりと回って俺に背を向ける。慣れた動作でギターを外し、足下にあったケースにしまい込む。
「あ、あの……」
俺が言葉に迷っていると、彼女は大きなギターケースを背負って言った。
「今日は……もういいや。私、そろそろ帰るよ」
彼女が歩き去ろうとするのを見て、俺は今更のように慌て出す。何か……何か言わないといけない気がする。
そうだ。よく考えたら、俺は今ここでやっと、最近ずっと自分を悩ませ続けていた疑問の答えに出会ったんじゃないか。もう今更、何も得るものはないと、既に過去の場所でしかないと思っていたこの駅前で、彼女たちのライブの会場だった、この場所で――。
しかもその答えは、明かされた事実は、俺の想像を具現化したものに極めて近い。自分すら半信半疑だった俺の理想に、まるで現実の方が吸い寄せられたようにさえ感じるくらいに。
ああ、だったら俺は、もっとその先に手を伸ばしたい。彼女たち二人の演奏を、俺の大好きだったサッカーと繋がるあの曲を、もう一度聴いてみたい。強く、心の底から強く、俺はそう思う。
「あっ……あのさっ!」
思いの外張ってしまい裏返る寸前だった俺の声に、彼女はゆっくりと立ち止まった。しかし振り返ることはない。こちらに背中を、向けたまま。
「その、俺……昔ここで聴いた曲、すごく好きだったんだ。い、いや、今でも好きなんだ。一番よく弾いてた曲だよ。だから……よかったら、是非もう一度聴かせてくれないか」
「……だめ」
「え……ど、どうして」
「一人じゃ、弾けないから」
彼女の言葉が、一連の音となって頭の中で反芻される。その短い音階から意図を見極めようと、俺は草の根を分ける想いで神経を巡らせる。
「あの曲は、二人じゃないと弾けない。玲奈とじゃないと、弾けないんだよ」
二人じゃないと……ああ、そういうことか。例えば、ピアノで言う連弾みたいな……いや、少し違うか。けどまあ、とにかく、譜面上二人の奏者が必要であるということは考えられる。そりゃあそうか。もともと二人で弾いていたんだもんな。
「じゃあさ、鳴海にも頼んでみるから。そしたら……」
俺は咄嗟に提案をし、何とか食い下がろうとする。
けれども彼女は、抑揚のない細い声で、あっさりとそれを切り捨てた。
「玲奈はやってくれないよ」
一言だけ言うと、しばらくしてまたゆっくりと彼女は歩き出す。もはや口から吐き出す言葉を持たない俺を置き去って、ここから離れていってしまう。
そうして雑踏に紛れる寸前、まるで溶け消える刹那の雪のように淡い声色で、儚く零す。
「……玲奈は、もう私とは一緒に弾いてくれない」
本来なら、俺がそれを耳にできるはずはなかっただろう。周りは依然、溢れる人のざわめきで満たされている。
けれども、このとき俺は、彼女の言葉を確かに聞くことができたのだ。彼女の背に、声に、まとう空気に、聞き過ごすことなどできない何かを感じたのだ。
その何かを、俺は一人残されたあとになって、ようやくぼんやりと理解する。
俺が彼女の言葉に感じたのは、その胸に滲む、冷たい悲愴の切れ端だったのだと。