ゆっくりと瞼を持ち上げる。すると、茶色い机と外の景色が目に入った。
窓の向こう、すぐ近くには桜の木々が何本か植えられている。満開の時期は少し前に過ぎ去ったようで、今はもうほとんどが葉桜だ。育った緑が梢の先まで薄く広がり、散った花びらは地面に薄紅色の絨毯を作っている。
今年は桜の散り時が早い。四月の二週目にして既にこんな調子。どこぞのやんちゃな鳥たちがここら一帯の桜の花弁を落として回ったのではないかと思うほど。それくらいに目に見えて、駆け足で季節は移ろうとしている。
卒業、別れ、高校受験、そして入学。大きな節目は早々と過去の出来事となり、順応性の高い人間から、段々と新しい生活にも慣れていく。
そんな中、俺の生活も、まあぼちぼちだ。息を詰まらせながら身を切る想いでサッカーと決別し、くしくも地元の公立高校に入学した俺は、一年生として新しく振り分けられた教室の机で惰眠を貪る。
サッカーの朝練が日課だったせいで、どうしても朝早く目覚める癖が残っている。そのため遅刻とは無縁なほどの早朝に、余裕の登校を済ませる日々。しかしそんなに早く学校へ来たところですることもなく、結局は自席で寝るしか選択肢を持たない。昔とは違って虚無感から夜の寝付きが悪くなったこともあり、どうにも無為な時間潰しをしているのだ。
そうしてしばらく誰もいない教室で寝ていると、次第に人が集まりだして話し声も増え、ホームルームが始まったところで俺はいつも目を覚ます。
たまに嫌な夢を見るので、決してこういうルーチンを好んでいるわけではないのだが、如何せん変えようにも身体がなかなかついてこないのだ。
ホームルームでは、眠りはしないが机に寄りかかりつつ、ただただボーッとして終わるのを待つ。最後列の席ゆえに先生の注意も受けにくい。出席をとるに際して、未だに覚えきれないクラスメイトの名前が呼ばれていくのを何となしに聞き流していると、いつの間にか先生からの連絡事項へと移っていた。
なにぶん意識が半覚醒なため、内容が記憶に残ることはほとんどない。恒例のクラス委員や他の委員会、教科担当を決める雑事は先週にまとめて行われたし、そろそろ目新しいこともなくなってくる頃だろう。早くも退屈が俺の高校生を染め始めている。
俺はぼんやりと頬杖をついて、風に揺れる桜の葉に視線を移した。
だが今日はそのタイミングで、あるプリントが配られた。前の生徒から順々に回ってきたそれを何かと思って受け取ると、紙面には大きくこう書かれていた。
部活動及び同好会所属申請用紙。
そうか。そういえば、これについてはまだ決めていなかったか。
表題に次いで下には、この学校における部活動と同好会について説明が書かれている。
どうやら規則として、新入生は入学したこの時期に、必ずどこかの部活動か同好会に所属する義務があるようだ。これは学校側が、勉学だけではなくスポーツや文化的な活動にも力を注ぐべきという校風を掲げているかららしい。
ただもちろん、選んだところが肌に合わなければ、あとから他に移ることもできるし、やめてしまうこともできる。大半の生徒は最初に選んだところに居着くそうだが、遊びや勉強のためにやめてしまったり、名前を残したまま幽霊部員になる生徒も少なくはないと耳にする。まあ、要は人それぞれなのだろう。
ご丁寧に、プリントには既に存在する部活動と同好会がリストアップされていた。
上から、オーケストラ部、声楽部、華道部、茶道部、書道部、演劇部、美術部、科学部など。
これらは全て文化系の選択肢だ。その下に、運動系のものが続く。
野球部、バスケットボール部、サッカー部、バレーボール部、テニス部、剣道部などなど。
種類は多い。同好会まで含めればかなりの数がある。リストは紙の裏まで続いていた。
一定の条件を満たせば、生徒の方から新しい部や会を立ち上げられるみたいだから、それも頷けるところであろう。
ただ、リストアップの順番からも何となく伺い知れるが、この学校は文化系の活動により注力している傾向がある。部員も圧倒的に文化部の方が多いし、培われた成績のために待遇も良い。対して運動部は、少しばかり肩身の狭い想いをしているようだった。
とまあ、そんなことを入学して数日でちらほら聞いたものだったが、正直なところ、俺にとっては別段関係のない話である。
申請用紙を受け取って一瞬だけ心臓の鼓動が速まったが、高校では部活動をやるつもりはなかった。ちらりとサッカー部なんて文字が目に入るも、当然、入部することなんて考えていない。
あの怪我からは、一年と少しが経った。しかし未だに左膝は負傷中で、思い切り走ったり、踏み込んだりすることはできないまま。体育の授業だって、満足にこなせないことがほとんどなのだ。それも今となっては受け入れたつもりでいるのだけれど、それでも……心の隅のかさぶたがわずかに疼く、ような気がする。
俺がプリントから目を離すと、同時に先生の話が終わりを迎えた。最後に「では、これで朝のホームルームを終わります」と告げてその姿が消えると、教室はにわかに落ち着きのなさを取り戻した。
新学期が始まってまだ日も浅い教室には、独特の空気が流れている。
早くも会話に花を咲かせている集団もあれば、ぎこちなく友人関係を結ぼうと試みている人もいる。
やがて彼らは教科書を抱え、時間に追われるようにして教室をあとにしていく。
時間割を確認すると、一限の科目は理科だった。理科の授業は理科室だ。移動の必要がある。
けれども、俺はそれを知ってなお、まだ席を立とうとは思えなかった。眠気はもう感じないけれど、少しばかり腰が重く、ついでに何だか気も重い。授業が始まるまでにはいくらか時間もあることだし、だから俺は、依然頬杖をついてじっとしていた。
しばらくの間そうしていると、ふと近くに声を感じる。
「よっ! 大江!」
自分の名前か呼ばれたので、少し驚きつつも声のした方へと振り向いた。すると、そこには二人の男子生徒が立っていた。
そのうち一人は、確か東山といったはずだ。やや長身で、スポーツマンらしい体躯をしている。
「あのさ、俺とこいつ、サッカー部に入ろうと思うんだ。大江って、確かサッカー上手いんだよな?」
彼は爽やかな笑顔を浮かべながら、隣にいるもう一人の生徒を指して言った。そっちの名前は……何だっけ。まだ覚えていない。
「なんつーか、やっぱ文化部は性に合わなくってさ。俺たちほとんど初心者だけど、たまたま気が合って。そんで、今日から仮入部もできるみたいだし、行ってみようってことになったんだ。よかったら大江も一緒に来ないか?」
「え、ああ……仮入部、ね」
困った。まさかこの時期に、初対面のクラスメイトからこんな誘いを受けるとは、露とも思っていなかった。
もしかしたらこの東山と隣の生徒は、非常に良い社交性をお持ちなのかもしれない。いや、俺だって、そんなに人と話すのが苦手というわけではないし、むしろ声をかけてもらって嬉しいという想いもあるが、しかしこの場合はまた別だった。
なにぶん、話題がよろしくない。
察するにこの二人は、サッカー選手としての俺の名を、どこかで耳にしたことがあるのだろう。それでこんな提案をしてきたのだと思う。
でも、おそらく俺の怪我については知らないのだ。俺が高校でも、当たり前のようにサッカー部に入ると考えている。俺がサッカーをできなくなったことを知らない。そういうことだ。
「えっと……」
だから俺は、苦笑いでそう呟く。
できれば、快く声をかけてくれたクラスメイトの誘いを断りたくはない。しかしだからといって、冷やかしで仮入部をするつもりも、毛頭なかった。なまじサッカー関連では名が通ってしまっている分、余計にそんなことはしたくない。またしかし、だからといって、ここで彼らに怪我のことを話すのも気が乗らなかった。
俺は曖昧な返答をしたまま、どうするべきか悩んでいた。
と、そんなときだ。
教室の前の方から、別の生徒が近づいてきた。
「おーい、東山君と日比野君!」
割に小柄で中性的な顔立ちをしているが、彼も男子生徒である。俺の前に立つ二人に向かって、飛びつくようにその肩を叩き、随分と親しげに声をかける。
「君たち二人は、理科の教科担当でしょー! 授業のときは、先に理科室に行って準備をしなきゃ!」
彼は二人の背中を押し、半ば強引に同行を促す。
東山と、もう一人は日比野というそうだが、とにかく二人はその勢いに飲まれて「え? あ、あぁ」などと零しながら、彼に連れられていってしまった。
そして去り際、突然現れた生徒は一瞬だけこちらへ視線を送り、へらっと笑顔を見せてから、俺を残して教室から出ていく。
「…………」
その笑顔の意味を、俺はよくよく理解することができた。
期せずして、俺は彼のおかげで気まずい状況から逃れられたように見えるが、実のところ、これはきっと偶然ではない。
東山と日比野を連れていった彼は、俺の親しい友人だった。
名前を、朝倉孝文という。
中学時代、孝文は俺と同じくサッカー部に所属していた。ゆえに俺の怪我の事情も知っているのだ。
彼はきっと、俺の内心を察して気を利かせてくれたのだろう。人当たりがよく、そういった配慮には長けている。
優しいやつだ。俺がサッカーをできなくなってからも関係を気まずくしたりせずに、適度に励ましながら明るく接してくれている。高校になってからも同じクラスになることができて、変わらずその間柄は保たれていた。
あいつはきっと、高校でもサッカー部に入るだろう。率直に言えば実力については及ばない部分が多く、中学校では卒業までずっと補欠だった。それでも本人はサッカーを好きでやっていたようで、練習で笑顔を絶やしたことはなかったと記憶している。そんな性格からか、部でのポジションは補欠もといムードメーカー。きっとそのうち上達するし、仮にそうでなくても上手くやっていけるだろう。
一方で、問題なのは自分の方だ。
もう教室にはほとんど人が残っていない。取り残され気味な俺はまた頬杖をつきながら、机上のプリントに目を落とした。
所属申請用紙。その中のリストに、残念ながら帰宅部は含まれていない。
新入生は最初、必ず一度は部もしくは会に所属するという決まりがある以上、この用紙は提出しなければならないのだろう。
しかし俺には、所属を希望する宛などまったくなかった。全力で気乗りしないというのが正直なところの気持ちである。許されるのならば積極的に遠慮したい。
仮入部も面倒といえば面倒だし、適当にどこかの同好会を書き殴って提出してしまおうかな、なんてことも思ったりするが……たとえば仮にそうしたとして、所属先に一度も顔を出さないというのはありなのだろうか。いや、これはこれで考えが姑息だろうか。
でも、でもなぁ……。
口からは無意識に溜息が漏れる。
瞬間、にわかに窓から入り込んだ隙間風が、手元のプリントをふわりとさらった。
「あ」
咄嗟に掴もうとしたが間に合わず、ひらひらと舞いながら音もなく床に着地する。
俺は仕方なく回収のために腰を浮かせたが、すると思いがけず、それを拾い上げる白い手が目に入った。
「はい、大江君。落としたわよ」
視線を上げると、優しいソプラノの声とともにプリントを差し出す女生徒が目の前に立っていた。
「あ、あぁ。わり、ありがと」
俺はすぐに礼を言って受け取る。
その女生徒には、見覚えがあった。まだ高校に入ってから出会った人の名前なんてろくに覚えていない俺だったが、しかし、彼女のことは知っていた。
彼女の名前は、鳴海玲奈。
先週、先生の推薦でクラスの委員長に就任した女の子だ。確か入学式では新入生代表の挨拶をしていたはずで、つまるところ入試トップの優等生。
腰まで伸びる長く綺麗な黒髪を光らせ、淑やかな物腰と人当たりの良さが何とも際立つ、理知的な顔立ちの美人である。クラスの男子が早くも彼女のことで話を膨らませている光景を、何度か見たことがあるくらいだ。
曰く、まるで天使か聖人のよう。
そんな鳴海は、誰に対してもにこりと笑顔で接している。非常に大人びた分け隔てのない振る舞いで、入学してからこっち覇気もなく黙って目立たない俺相手でも、それは寸分の狂いなく同様だ。
「大江君、ホームルームの間、ずっとボーッとしてたでしょう」
「えっ? ……えーと、まあ……」
意外なことを指摘されて、俺は少し戸惑った。委員長よろしく、不真面目な態度を注意しようということだろうか。その割には、随分と笑顔が眩しい気もするが。
「その申請用紙、書けたら私に提出してね。私がクラスのみんなの分をまとめて、先生に渡すことになっているから……って連絡を、ホームルームで言っていたんだけど、大江君、聞いてなさそうだなーって思って」
彼女はそう言って、ふふっと笑みを零して見せた。
「そ、そうなのか。うん、聞いてなかったよ。ごめん。それは委員長の仕事なのか?」
「そんなところね。特に期限はないけれど、でもたぶん、決めるのは早い方がいいわ。だいたいみんな、二週間くらいで決めるみたい。学校祭もあることだしね」
「……二週間、か」
提示された期間を、俺は声に出して呟いた。
実際、見学や仮入部が頻繁に行われるのも、それくらいの期間らしい。
ほとんどの生徒は四月いっぱいで所属先を決め、五月から正式なメンバーとして活動に参加する。というのも、六月の初めには学校祭が控えていて、どの部活や同好会も、そこで何かしらの出し物をするからだ。
学校祭とは、つまるところ文化祭であって、うちの高校では秋ではなく春に行われる。
五月の間、普段の活動と並行して行われる準備活動に、新たな仲間である一年生も参加するのだ。その時間を通して早々とコミュニティの雰囲気に慣れ、上級生や同級生との絆を深める。学校側としては、そうした意図があるのだろう。
そしてもちろん、これは部活や同好会だけでなくクラスでも同様である。各クラスでも学校祭の出し物を準備するし、そのための時間も設けられ、クラスメイトとも親しくなる。
ゆえに何にしても、五月に入れば新入生とはいえ忙しくなるのは避けられない。だから、自分の居場所はできる限り早く決めておくに越したことはない。鳴海の言う「期限はないけど早い方がいい」というのはそういうことだ。
今からの二週間は、高校生活における最初の大きな選択の時間。長いようで、俺にとっては少し短い気がしてしまう。
「じっくり考えないとね。薔薇色の高校生活の、第一歩だもの」
鳴海は穏やかにそう言うと、くるりときびすを返して歩き出す。そして自分の席に立ち寄り、教科書と筆記用具を胸に抱えてから教室の出口に立った。
「じゃあ、私、一限の前に職員室に用があるから、もう行くわね。大江君も、早く理科室に向かわないと授業に遅れちゃうわよ」
黒髪が艶やかな残り香を散らして舞い、鳴海の姿は消えていく。
彼女が去ってしまったあと、教室を見るとついに俺は一人だけになっていた。
俺は喉元にくすぶっていた二つ目の溜息を今更のように口から吐くと、机の中にプリントを押し込み、代わりに理科の教科書を引っ張り出して教室から出た。
午前中の授業という授業を全て頬杖任せの惰眠によってやり過ごすと、あっという間に昼休みにとなった。
一緒に昼食をとる予定だった孝文がすぐに俺の机までやってきて、学食に行こうと提案する。普段彼は弁当を持参しているが、今日は学食で食べたくて、わざわざ持ってこなかったそうだ。
俺は購買ばかり利用していて、実のところ学食についてはまだ見たこともなかったのだが、孝文の話ではとても充実しているらしい。
それを聞いて興味も湧き、快諾して二人で向かう。
訪れてみると、確かに彼の言葉通りだった。比較的大きくて設備も新しいこの高校に似つかわしい、スペースからメニューまで行き届いた学食だ。掃除がしっかりされていて、観葉植物なんか置かれており、景観への気遣いが感じられる。さらに新学期であることも手伝っているのか、隅から隅まで非常に盛況。
メニューを選ぶ間、レジに並ぶ間、席を探す間、絶え間なく周りの生徒の話し声が耳に届いた。授業がどうだとか、部活がどうだとか、お気に入りのミュージシャンが最近不調だとか、駅前にできた新しい洋服の店が結構いいだとか。
俺たちもそんな中で、テーブルに座り食事をしながら、他愛のない話をした。こういう場面では、いつも孝文は率先して話題を振ってくれるのだ。彼はとても色々なことを知っているので、雑談をするには事欠かない。俺に気を遣って、本来しやすいはずのサッカーの話題を持ち出さないようにしているのに、それでもネタは尽きないらしい。
周りの話を聞いたためか、その日、彼が持ち出してきたのはこんな話だった。
「そういえば、ねえ知ってる? 唯花、新曲出すのやめちゃったんだってね」
「ああ、そういや、そんな噂聞いたな」
唯花というのは、つい去年ばかりに登場し、瞬く間に流行した女性ミュージシャンの名前である。
ソロでアコースティックギターを弾きながら歌うというスタイルの曲をいくつか出している。その中でも感傷的な雰囲気のバラードには出色の出来が多い。今をときめく注目の的だ。
彼女の宣伝文句は、なんと「稀代の天才美少女ギタリスト」。そして実際に、その肩書きに相違ないギターの実力と美しい容姿を併せ持っている。聞くところによると、どうやら俺たちと同世代らしい。
デビュー当初、名が広まる前は、若くして掲げられた広告があまりに大仰かつ安直なため、誰もが苦笑いを浮かべたものだったが、しかし、そんな印象はメディアに出始めて数日で払拭された。
彼女の奏でる音は、明らかに他の音楽とは別格だったのだ。緻密で繊細な楽器捌き、そのスキルには天性の才能を感じずにはいられない。アコースティックギター一本で、無限にも近いほど多彩な音を響かせる。彼女の曲は、まさしく彼女にしか再現し得ない完成度を誇っていた。
そして一方で、容姿は可愛らしくも儚げで、それがいっそう聴衆を魅了し幻惑する。華奢な体つきに淡い金に染めたショートヘアという、まるで妖精のような姿をしているところも人気を博した要因の一つだった。
その音で、その姿で、彼女が悲恋を語れば聞き手は涙し、声援を送れば立ち上がる元気をもらう。そういう存在として、幅広い世代の人々から愛されている。
しかし、そんな唯花はデビュー一周年を目前に控え、新曲のリリースをやめるらしいとの噂だった。これは今、世間ではかなりホットなニュースである。
「でもそれ、ちょっと前から言われてただろ?」
「改めて正式発表があったんだよ。最近、あんまり調子よくないみたいだし……スランプなのかな? なんか、一部では引退の噂まであるらしいんだけど」
「それはまた……本当なら随分と騒がれそうだな」
「だよねー。空もさ、唯花好きでしょ? 僕はちょっと心配かなー」
「まあ、確かに好きだけど」
俺は目の前のAランチをパクパクと口に運びながら返答する。このペースだとすぐに胃の中に収まりそうだ。
孝文のやつは味わっているのか、ゆっくりとだらだら食べている。
「……だけど、あの人の曲聞くと、どうしてもな」
ただ、唯花の話をすると、俺の中には必ずと言っていいほど浮かんでしまう記憶があった。
「あー、えっと、あれでしょ。昔、駅前でやってた二人組の……だよね?」
そう。俺が夜の駅前を夢追いながら走っていた頃、よく耳にしていたストリートライブ。フードを被った二人組のギタリストで、演奏が始まるとちょっとしたイベントみたいに人が足を止めて集まっていた、あのストリートライブだ。
唯花とその二人組は、楽器の種類が同じこともあってか、本質的に曲の雰囲気が似ているのだ。だからこそ比べずにはいられない。そして俺個人としては、しおらしくて穏やかな唯花の曲より、凛々しくエネルギッシュなあの二人組の曲の方が好みだった。
俺が頷いて見せると、孝文は微笑む。
「そうだね。それ、僕も少し聞いたことがあるよ。まあ、確かに空はあっちのが好きかもねー」
ちなみにそのストリートライブは、最近ではもう行われていない。
俺が中二の冬に膝を怪我して、しばらく駅前に行くことがない間に、いつしか終わってしまったらしい。明確に二人の解散を聞いたわけではないが、あるときパッタリと現れなくなったのだと、風の噂に耳にした。
孝文はそのことには触れなかったが、でもおそらくは知っているだろう。彼がそこで話題を転換したので、何となくだがそう思えた。
そうして雑談混じりの食事を終え、俺たちは初めての食堂に満足して教室へ戻った。
午後の授業が終わり放課後になると、俺は校舎の中をさまよっていた。何となしにふらふらと歩いて、校舎三階の音楽室へとたどり着く。
本来、この音楽室はオーケストラ部が練習をする場所だが、あの部はかなり大所帯であるため、週に何回かは体育館を使って活動するそうだ。ゆえにここは、彼らのテリトリーでありながら、放課後にはこうしてもぬけの殻になることが多い。誰もこの部屋を訪れない空白の時間。俺はそんな時間を狙って、音楽室に踏み入っていた。
なぜ、音楽室なのか。
答えは、窓際に立って外を見下ろすとそこにある。
眼下に広がっているのはグラウンドだ。この音楽室の大きな窓から、綺麗に一望できるグラウンド。そこではサッカー部の練習が行われていた。
赤い陽の光を横薙ぎに受けながら、俺は窓ガラス越しに、白黒のボールと人の影を目で追いかける。
少人数だが和気藹々としていて楽しそうだ。一年生の仮入部者も何人かいて、中には孝文の姿も見受けられる。どうやら、今朝俺を誘った東山や日比野と一緒らしい。
しばらくの間、俺は無言でその光景を眺めていた。
「…………」
俺が音楽室にやってきたのは、サッカー部の練習風景を見るためだった。
自分がもうサッカーをできないことは既に受け入れたつもりでいるが、それでもたまに、こうして旧懐の想いに浸りたくなることがあるのだ。もしかしたら昼休みに孝文と話した中で、中学時代の記憶に触れたのが、きっかけになったのかもしれない。
音楽室は静かだった。その寂々たる空気は、窓の外から聞こえる活気付いた掛け声を、よりいっそう意識させる。夕焼けの中で音に溢れるグラウンドと、海の底のように音のないこの音楽室は、窓ガラス一枚を隔ててまるで別の世界みたいに思えた。
「……今更、何をしてるんだろうな。俺は」
口からそんな言葉が零れたのは、あまりの静けさに耐えられなかったからだろう。同時に左膝が、少しだけ疼く。
現実を受け入れて、半ば諦めてしまった俺はもう、あのグラウンドに立つことはないのかもしれない。無音を貫くこの世界は、あの賑やかな世界から弾き出されて空っぽになってしまった俺の心と、同調しているように思われてならなかった。
「いつまでもこんなんじゃ……駄目だよな」
サッカーとはもう決別した。苦しみも乗り越えて、前を向いたつもりでいる。
でも、懐かしさに捕らわれて前へ歩き出せないままでは、新たに何かを得ることはできないだろう。あの頃のように、夢中になって心躍ることには、もう二度と出会えない。
伏し目がちになり、踵を返す。単なる気晴らし目的の散歩のはずが、部屋の柱にかけられた時計を見やると、かなり時間が経過していた。
俺はそろそろ帰ろうと思い、部屋の出口に向かって歩く。
しかし、そのときだ。
ひたすら静寂だった空気の中に、何やら微かな音が流れていることに気づいた。耳を澄ますと、それは隣の部屋から聞こえてくる。隣は音楽準備室だ。
ゆっくりと一つ一つ確かめるような速度で、音が奏でられている。そうして連なるメロディに、俺は不思議な親しみを覚えた。
何だろう。俺がここへ来たときには、そんなもの聞こえていなかったはずだけれど。
そう思うと、足先は自然と音の方へ向かってしまう。この部屋と準備室を繋ぐ扉は施錠されておらず、ノブを捻るとすんなり開いた。
わずかに隙間を作って、そっと向こう側の様子を伺う。
瞬間、クリアになった音が耳に入り、埃の匂いが鼻をついた。そして俺がこの目に捉えたのは、逆光の中でギターの弦を弾く女の子の姿だった。
狭い部屋で一人だからか、短い制服のスカートなのに座って足を組んでいる。すらっとしていて、音を鳴らす度に長い髪先が優雅に揺れる。目を細めて見定めると、その容姿には見覚えがあった。
鳴海玲奈だ。
燃えるように赤く染まった部屋の真ん中で、鳴海は俯き気味に、大きなアコースティックギターを弾いていた。
彼女はどうやら、俺の存在に気づいていないようだった。音が乱れることはなく、ゆっくりと深く、リズムを刻む。
そんな彼女に、俺は魅入ってしまっていた。知らず知らずのうちに意識を吸い込まれ、光の中の彼女に、ただ釘付けになっていたのだ。
なぜならそれは、彼女のギターがあまりに繊麗で美しかったから。そして彼女の表情が、その凛とした音と相反するくらい、苦しくて辛そうだったから。
少しすると、やがて彼女は手を休め、消え入るような声で呟く。
「……今更、何だっていうのよ……」
まるで冬空の下で寒さに耐えるかのように身を縮め、彼女はギターを抱きしめた。唇はきつく閉じられて、長いまつげが瞳を覆う。埃が光を散らしただけかもしれないが、目元はわずかに、きらりと濡れているようにも見えた。
完成された名画のような光景だと思った。
俺はその光景を目の前にして、間違いなく陶酔し、深く深く飲み込まれた。神経伝達が完全に麻痺して、身体の制御を忘れていたのだ。
だから、意識を取り戻したときには、少しばかり遅かった。
不意にもたれかかっていた扉がギイッと鳴って、時の止まった空間に割り込んでしまった。
あっ……やべ!
いけないと思って、俺は咄嗟にノブを引く。できるだけ静かに扉を閉め、そしてひとまず、そこに背中を預けて座り込んだ。
一秒、二秒、息を止め――。
やがてせり上がってきた焦りを押し込め、溜息をつく暇もなく、すぐに腰を上げてそそくさと音楽室から立ち去った。
俺は早足で教室まで戻ってくると、そのまま荷物を持って学校を出た。
まあ、率直に言って逃げてきたことになるわけだが……でも、あんな状況で鳴海と向かい合う心の準備は、到底できていなかった。出会ってまだ二週間も経っていないが、これまでずっと笑顔の彼女しか見たことがなかった俺にとって、あの光景はいささか、いや、かなり衝撃的だったのだ。
光の中、淑やかにギターを弾く彼女。凄絶なまでに美しい姿。でもだからこそ、その苦い表情がより印象的に刻まれて、この頭から離れない。
歩いて高校の最寄り駅まで向かう間、俺はまだ半分くらい惚けたように、あの瞬間を思い起こしていた。
そしてその記憶は、やはり同時に耳にした音楽を伴っている。
初めは、どうして少し聴いただけで、そんなにも覚えていたのか疑問だった。けれども、考えながら駅に着き、ぼんやりと電車に揺られているとき、俺はふと思い出したのだ。
鳴海が準備室で弾いていたメロディ。それは俺のよく知る、ある曲とまるっきり重なった。俺は過去、あの旋律を聴いたことがある。
テンポと曲調はどう考えたって全然違うが、リズムと音階は確かに同じ。昔耳にした、都心の駅前でのストリートライブと同じだった。
そして、一度それを認識してしまうと、俺の思考回りは早かった。準備室で鳴海がギターを弾いていて、弾いていた曲がライブの曲と同じということは……かつて、あのとき、あの場所で、演奏していたフードのギタリストのうちの一人が、鳴海玲奈と同一人物。そういうことに、ならないだろうか?
ああ、そうだ。その可能性は、十分にある。もちろん百パーセントと断定できるはずはないが、何となく確率は高い気がした。
では、もし本当にそうだったら、いったいどうだというのだろう。
俺は、あのストリートライブで聴くギターが好きだった。中でも鳴海が準備室で弾いていたのは、ダントツで一番に好きな曲だ。それは、昔駅を走り抜けていた頃に俺の心を躍らせ続けていた曲で……今聴いても、変わらずこの心は高揚する。
そうだ。だからつまり、どうだというのだろう。
少しずつ心がざわつき出す中で、俺は答えを求めて自分に問う。
すると意外にも、結論は瞬時に弾き出された。
俺の心は訴える。
もう一度、あの曲を聴きたい。
最初から最後まで、全部通してちゃんと聴きたい。
あのギターを、あの旋律を、あの音を……俺はもう一度、聴いてみたい。
そんな風に。
そしてこの日の夜、俺は結局、ベッドに入っても波立つ心を抑えきれず、上手く眠れないまま横になっていたら、次の日の朝が来てしまった。
翌日、学校に来た俺は、機会を見て鳴海にギターの話を持ちかけてみようと考えていた。彼女が一人で暇そうにしているときにでも、何気なさ、さりげなさを装って、上手い具合に問いかけてみようと考えていた。
しかし、いざそうしようと横目で彼女を追っていると、一つ問題が発生した。
いつまでもその好機がやってこないのだ。
気にしてみて初めてわかったことなのだが、彼女は学校では、常に何かをしてばかりだった。
そう例えば、クラス委員の仕事をしているとか、本を読んだり授業の予復習をしているとか、友人や先輩、先生と会話をしているとか。
特に三つ目に関しては、正直、驚愕以外の感想が浮かばなかった。
まだ入学して間もないのに、まるで彼女には、学校中のありとあらゆるところに知人がいるような錯覚に囚われた。
彼女の社交性は極めて高い。その上、美人で聡明となれば、そりゃあまあ容易に知人も増えるのかもしれないが……。
何だろう。友達百人作るとか、学校にいる人間全員と話すゲームとか、そんなことでもしているのだろうか。もしかしたら、先日俺に声をかけたのも、その行為の一環だったのかもしれない。
そういうわけで、とにもかくにも、鳴海は俺のように頬杖をついて外の景色をぼーっと眺めたり、何となくふらふらと校舎を歩き回ったりはしないらしいのだ。考えてみれば当たり前なのかもしれないが、俺にとって、それはかなり意外だった。
これでは話を持ち出しにくい。
それに、そうやって鳴海のことを気にしていて、俺はまた一つ、新たな問題を発見してしまった。
やはりというか何というか、鳴海は学校で何をするときも始終、人当たりの良さそうな表情を浮かべていたのだ。一人のときは穏やかそうに、人と話しているときは楽しそうに振る舞っている。一つ一つの挙動に余裕があって、まるでどこにも隙がない。三百六十度上下左右、どこから見ても、そこに綻びはあろうはずもなかった。
しかしそれゆえ、俺はそんな彼女に疑問を抱くことになる。
普段の彼女は、つまるところ完璧だ。あまりに隙がなさすぎる。容姿端麗、品行方正、非常に聡明で人望も厚く、いつも明るくて頼りになる。それが今の彼女に対する、俺を含めた周囲の人間の評価である。
では、それならば……先日の音楽準備室にいた鳴海玲奈は、いったい何だったのだろう。
夕陽の中でギターを抱き、何かに耐えているように苦しがっていた鳴海。見ていると、胸がぎゅっと締め付けられるような表情をしていた鳴海。涙を零していたようにさえ見えた鳴海。
彼女に伴う二つの印象は、比べてもまるで別人のそれでしかなく、イメージの乖離が極めて激しく、俺は迷わざるをえなかった。もしかしたら彼女の中には、二人の鳴海玲奈がいるのかもしれない。そんな風にさえ、思えてしまう。
だからだろうか、とてもではないがギターのこと、準備室でのことは、ふらりと尋ねてはいけないような気になってくる。
こうして俺は、とうとうその日は鳴海と言葉を交わすことなく家に帰った。帰宅の前に駄目元で音楽準備室まで足を運び、あまつさえ都心の駅に寄り道までしてみたが、何も得られるものはなかった。胸の中のもやもやした感覚は、何一つ解消されなかった。
そして結論から言えば、次の日もその次の日も、俺は彼女に話を切り出すことができなかった。
気になる気持ちはどんどん膨らんでいくのに、彼女を目の前にすると、どうしても身体が動かない。場合によっては向こうから話しかけてきてくれるなんてこともあったけれども、それでも話題を上手くギターの話に繋げられない始末だった。
日常の中で俺に接する彼女は、底抜けに明るく、眩しい笑顔を咲かせている。
「おはよう、大江君」
朝早く、教室でそう挨拶をされたときは
「お、おう……えっと、おはよう」
とだけ返し、次の言葉を探している間に、彼女はどこかへ行ってしまった。そのときは、教室の後ろにいつも飾られている花の水を入れ替えていたようだった。
また、昼休みに孝文と訪れた食堂で会ったときは
「あ、大江君。ここ、もうすぐ空くから、次どうぞ」
と言って、席を探す俺たちに場所を提供してくれたが、俺は
「お、おう……えっと、ありがと」
と返すだけで、友人と一緒に去っていく彼女を呼び止めることはできなかった。
まったく。俺って意外とシャイだったのかな。いや、この場合はヘタレっていうのか……。
思わずそんな感想を抱いて、自分で自分が情けなくなってしまうほどだ。
でも、冗談抜きで真面目に思案したとしても、やはり安易な気持ちでこちらから切り出せるような話ではない。それも明らかなのだ。
いつ何時も、彼女と同じ空間にあるときはチャンスを狙ったつもりでいるが、そのたびに俺の視界にダブる光景が邪魔をした。赤々とした夕陽の中、絶世の美しさを湛えてギターを奏でていたあの姿が、俺に、彼女には触れてはならないと脅しをかける。
だって彼女のその姿は、もし不用意に触れようものなら、途端に壊れてしまいそうなほど脆く、深く傷ついているように見えたから。大きな苦悩と悲壮を抱え、でも必死にそれを押し隠し、ギリギリのバランスの上に危うく成り立っているような存在。そんな風にさえ、思えたから。
金曜日になった。ついに週末目前である。
ただ依然として、俺が鳴海と言葉を交わしたのは数回だけだった。まともに話をする機会など持てていない。
それは、彼女がとてもとても人気者で周囲と状況がそれを許さない……というのもないわけではないが、どちらかと言えば俺が意気地を出せずに尻込みしているということの方が、原因として大きかった。
身体と意思を動かさなければ、日々は変化がないままにただ過ぎ去ってゆくものだ。
しかし、この日は少しだけ、学校全体の雰囲気が違っていた。
情けなくも俺がまったく行動を起こせずにいたから、何かが痺れを切らして勝手に動き始めてしまったのだろうか。だとすればそれは僥倖か、あるいは奇禍か。どちらにしても、僭越ながら俺も世界の歯車の一部を担っているわけであるからして、その影響をまったく受けないというのも難しい。
早朝に教室で惰眠を貪っていたときは静かだったのに、ホームルーム前に目を覚ましてみると、何やら周りが騒々しかった。初め、俺はそのことに気づきすらしなかったが、次第に噂話が流れてきて、何かが起こっていることを知る。そして心の片隅で、その噂に対する興味をかき立てられた。
やがて昼休みになると、そわそわしていた孝文に連れられて、騒動の渦中へと足を踏み入れることになる。その渦中とは、まさに噂のど真ん中。人の渦に他ならなかった。
「うーん……」
高身長とはいえない孝文が、背伸びをしながら唸っている。
俺はと言えば、隣で人に揉まれながら辟易しつつも、せめて流されないように現在位置を保持していた。
「……ねぇ、そっちはどう? 空の身長なら、見えたりしないかな?」
俺たちは今、自分たちの教室の四つほど隣に位置する、別の一年生の教室前にやって来ている。噂の内容が、今日になってそのクラスに編入生が現れたというものだったからだ。こんな時期に編入生というのは若干妙な話なので、そこそこ野次馬をしたくなる気持ちも、まあ当然と言えば当然か。
しかし今回、やたらと騒動が大きく、教室の前がこんなにも人で溢れかえっている所以は他にもあった。その編入生は、なんとあの天才美少女ギタリストと名高い唯花に似ているらしいのだ。
「……見えるぞ。大量の人の頭がな」
ただし結果はこのザマである。
俺の身長は平均よりも幾分高めだから、人に埋もれて前が見えないことはない。だが、状況はそれ以前の問題だった。想像以上に野次馬の生徒が多すぎて、編入生を拝むどころか、教室に近づくことすらできないのだ。今や全国民が知る有名人の集客力は凄まじいものだ。
こりゃあ……駄目だな。
連綿と続く人間の川をげんなり眺めてそう思い、俺は回れ右をして引き返す。
「あ、ちょっと空ー」
孝文がすぐに小走りで追いかけてくる。
「帰っちゃうの?」
「だってな。近づけもしねーんじゃ、意味ないし」
たぶんこの調子だと、昼休みが終わるまでここで押しくら饅頭に興じる羽目になるだろう。そんなのはごめんだ。
「うーん……まあねぇ。ちぇ……僕も見たかったなぁ。生唯花」
「……生って。外見が似てるだけなんだろ?」
「いーやー、本人だっていう噂だよ」
「嘘つけよ。そりゃ、いくらなんでも無理があるぞ」
なんと。俺が今朝から耳にしている噂とは内容が異なっている。いつから唯花本人が編入してきたことになっているのだろう。随分と尾ひれが付いている。いやむしろ尾ひれが本体みたいな規模の噂になってるじゃねーか。
「千種さんっていうらしいよ。千種一華さん。可愛い名前だよね。やっぱり、髪はブロンドなのかな?」
「まさか。学校に来るなら黒に染めるんじゃないか」
「えー、染めちゃうのー? 黒髪の唯花って、僕、想像つかないなー」
「いやまあ、俺だってそうだけどさ。つっても、ここは芸能人学校とかでもないわけだし……やっぱ金髪は校則に引っかかるだろ」
「校則かぁ……でも、校則で唯花のビジュアルが変わったら、全国的にファンが泣くと思うんだよね。唯花の黒髪ってなんか逆にコスプレみたいだし、いっそ校則を変えた方がいいんじゃない?」
「お前、なかなかすごいこと言うな」
「でしょー。すごくごもっともでしょ」
「すごく無茶苦茶だよ」
国民的アーティストの編入は、よもや校則まで覆すのか。だとすると将来的に生徒手帳にはこう書かれる。
『生徒心得。頭髪は整髪、清潔に留意し、高校生らしい身なりに心がけること。ただし金髪は可。』
ありえん。
「いくら唯花でも、制服に金髪は似合わないだろ。むしろその方がコスプレだ」
「んー、そうかなー。まあ、確かにそうかもねぇ」
孝文は俺の隣で首を捻り、名残惜しそうに後ろ歩きをしてみせる。
「あー。どっちにしても、早くこの目で見てみたいなー。何たって、稀代の天才美少女ギタリストだもんなー」
「本人かどうかはともかく、編入してきたのならそのうち顔くらい見られるだろ」
今日は編入初日らしいが、何もこれからずっと、あんなに人が集り続けることはないはずだ。じきに騒動も収まるだろうし、一度と言わず、すぐに二度も三度も見られるようになる。同じ学校なのだから、他クラスといえど話す機会もあるかもしれない。
「でもさ、本当に本人だったら、これってすごいことだよねー。是非、生であのギターを聞いてみたいよ」
本人だったら、ねぇ……。果たして、そんなことがあるだろうか。
唯花は既に、俺たちとは違う世界の人間だ。テレビの向こう、ラジオの向こう、インターネットの向こう側。いくつものメディアを挟んだ反対側に生きていて、俺たちの世界には、その音楽だけが届いてくる。そういう存在だ。少なくとも俺はそう感じている。
そんな彼女が、ある日突然、この学校に? そんなのまるで……まるで唯花が、俺たちと同じように登校して、授業を受けて、昼食を食べて、部活をして……そんな生活をするかのように、思えるではないか。
ああ、いや、でも……もしかしたら、それはそれで当たり前なのかもしれないな。彼女もあくまで、歳は俺たちと同世代。立場はどうあれ年齢的には、一人の女子高生であることに変わりはない、はずなのだから。
そんなことを考えてしまったからだろうか。俺はふと、編入生が唯花本人だと信じてもいないのに、こんなことを口にしていた。
「……もし、唯花みたいな有名人でも、こうやって俺たちみたく学校に通うんなら……例えば、部活とかやったりもすんのかな」
きっとそれは、俺が心の片隅で部活動の選択に悩んでいたことも関係がある。
編入生も一年生だから、基本的に一度は部活動に参加することになるだろう。別にそれは、彼女が唯花本人であっても、そうでなくても同じである。
だが、しかしだ。
「え? 部活?」
「ああ。もし本当に編入生が唯花だったとして、それでも、この学校には軽音部がないだろう?」
そうなのだ。現在、この学校には軽音部、もしくはそれに類する部は存在しない。
だからといって俺には、ギターを手にせず別のことをしている唯花など、想像することができなかった。それは、俺自身がサッカー以外のことをしている自分を想像することができないのと、似たような思考回路なのかもしれなかった。
もしも唯花がこの学校で部活動を選ぶのだとしたら、いったいどんな選択をするのだろう。もしかしたらとても迷うのではないだろうか。そう思えてならなかった。
「確かに、そうだね。うちにある音楽関連の部活で入るとするなら……声楽部、いや、それよりはオーケストラ部かな? どっちみち、ギターは関係ない分野だけど」
「ギターのピックをヴァイオリンの弓に持ち替えるとか、そういう展開になりそうだな」
「び、微妙だね、それは……」
「微妙っつーか、無理だろうな。いっそピックでヴァイオリン弾けばいいんじゃねーか」
「うわー、空も相当無茶苦茶言うね」
まあ極端な話、部活動でなければギターが弾けないわけでもない。もしそうやって悩む事態になったとしても、とりあえず幽霊部員としてどこかに所属し、学校の外で音楽活動をすることも可能なわけだ。そういう点で、俺とは状況が違うとも言える。
いや、別に俺が気にすることでもないか。そもそも根本からして、編入生が唯花なわけがないのだし。こんな、もしもの中のもしも話をしても仕方がない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、やがて俺は自分の教室に到着した。
室内はほとんどもぬけの殻だ。とっくに昼食も済んだ時間だし、いつも賑やかに雑談している生徒は皆、編入生の野次馬に向かったのだろう。
室内に入ろうとしたところで、しかし一つだけ人影が目に入った。長い髪の流れる背中がぴんと伸び、前を向いて座っている。どうやら読書をしているようだ。
「あ、鳴海さんだね」
隣で孝文がぽつりと呟く。
「クラス中が野次馬に行ったってのに、真面目だな」
思うに、鳴海だって間違いなく友人から誘われたことだろう。それなのに一人でここにいるということは、誘いを断りでもしたのだろうか。珍しいこともあるものだ。確かに鳴海は、編入生の物見遊山を面白がるような性格には見えないけれど。
俺が教室の入り口で立ち止まっていると、孝文がさきほどの続きとばかりに話を続ける。
「そういえばオーケストラ部で思い出したんだけど、鳴海さんって言えば、彼女も割と有名だよね」
「有名? 顔が広いっていう意味でか?」
「いや、それとはまた別で。何でも、オーケストラ部の先生が入れ込んでるらしいよ。部活に入らないかって何度も誘っているみたい」
「鳴海を?」
「うん。彼女の家、ヴァイオリン教室みたいなんだ。詳しくは知らないけど、彼女もヴァイオリンが弾けるのかな」
「……ふぅん」
孝文のその話は、俺には少し意外だった。
正直、俺は彼女のことを何も知らないので、家がヴァイオリン教室でも、実績あるオーケストラ部から逆指名を受けていても、珠玉のヴァイオリン名手でも、それを疑う道理はない。
しかし俺は一度、彼女がギターを弾く姿を見ているのだ。あれはヴァイオリンではなく、確かにアコースティックギターだった。
もしかして彼女は、ギターとヴァイオリンの両方を弾くことができるのだろうか。ピックと弓の二刀流か? それはそれで、本当なら随分な才能人だと言わざるを得ない。そりゃあ世の中には、そういう人もいくらかいるのかもしれないけれど。
背後から眺めている俺たちの視線に、彼女は気づいていないのか、はたまたまったく意に介していないのか。振り向く様子はなく黙々と読書を続けている。
邪魔するのは気が引けた俺は、彼女から目を離し、ゆっくりと足音をたてずに自席に戻った。
ふっと一息つくのと同時に、昼休み終了を知らせるチャイムが鳴った。
しまった! もしかすると、さっきのは鳴海に話しかける絶好のチャンスだったのではないだろうか。いや、もしかしなくてもきっとそうだ!
そのことに、俺は放課後を迎えてからやっと気づいた。
昼休み、鳴海は教室に一人だったのだ。妙な編入生のおかげで辺りに人はいなかったし、話をするにはまたとない絶好の環境だった。これほどまでに十分な機会に恵まれたのは、間違いなく今回が初めてだ。
いや、まあ、そりゃあ、たとえ向こうが一人でも俺は孝文と二人だったし、欲を言えば一対一で話せた方がいいかもしれないけれど……。そりゃあ、あの時間から話し始めても、結果的にはすぐに授業が始まっていたけれど……。そりゃあ、俺だって予期せぬ好機に心の準備なんてできていなかったけれど……。
でも待て。そんなことを延々とぐちぐち言っていたら、いつまで経っても鳴海とギターの話なんてできやしないではないか。一体全体、俺はさっきの昼休み以上の、どんな状況で鳴海と話そうというのだろう。果たして、俺が望む一番理想的な彼女との会話の形は何だろう。
それを考えたとき、真っ先に俺の頭に浮かんだのは、数日前に彼女のギターを聴いたあの部屋――音楽準備室だった。
紛れもなく一対一。かつ周りに人の気配はなく、放課後ならばほぼ時間の制約もないに等しい。そしてある程度偶然を装いつつも俺は心の準備ができ、ギターの話にも繋げやすい。
つまるところ俺にとって、もう一度準備室で鳴海に会う以上に歓迎すべき状況はないということだ。そう結論できる。
こうして俺は、この日の授業が終わってしばらく教室でぼんやりと時間を潰すと、いよいよ陽が赤くなる頃になって席を立った。向かう先は、もちろん音楽準備室だ。
二度目の邂逅を狙った訪問はこれが初めてではないし、そもそも鳴海が再びあそこに現れる保証もないが、可能性を追うだけでも構わなかった。もう一度、あの美しい光の中の彼女を見てみたいという想いも、おそらくこの胸にはあったことだろう。
ゆっくりと歩き、校舎を移し、階段を上る。最上階まで上り詰め、隅の方にある音楽室まで足を延ばす。
部屋に入ると、窓からは既に知った通りグラウンドが見渡せる。けれど今日は、そこで足を止めることはせず、照る太陽から逃れるように目元を手で覆いながら、準備室に通じる扉へ向かった。
――どうせ鳴海はいるわけがない。
――いや、もしかしたら今日はいるかもしれない。
二つの想いがきっかり平等に混ざり合わさり、まるで天秤のようにゆらゆらと揺れる。足の歩みに同調して、左右に忙しなく繰り返し。
だがそれも、いざ扉の前までやってくると、瞬間的に一方に傾いた。
ノブに手をかけようとしたとき、気づいたのだ。扉は、開いている。
この場合、開いているというのは施錠されていないということではなく、文字通り明確に開いているという意味だ。わずかに隙間が存在していて、二つの部屋の空気が繋がっていた。
人がいる。俺よりも先にここへ来た誰かがいる。物音はせず静かだったが、隣の部屋には確実に人の気配が感じられた。
そうか、今日は――いや今日も――今日こそまた――ここに鳴海がいるのだ。
それがわかると、トクン、と小さく、だが鋭く、一度だけ心臓が跳ねた。
俺はゆっくりと長く一呼吸おき、今度こそ思惑通りに事を運ぶよう丁寧に心境を整えて扉を開いた。
「あの、鳴海――」
直後、俺の視界は先客をとらえた。
視線と視線が交差して、相手も俺も、互いを見つめる。
しかし結論から言えば、その先客は鳴海ではなかった。
そこにいたのは――そこにいて目の前にあるアコースティックギターにいざ手を伸ばそうとしていたのは、見たことのない女の子だった。
随分と小柄で可愛らしく、制服から覗く手足は、触れれば折れてしまいそうなほどに細くて白い。少しだけ色の薄い黒のショートヘアが、大きな目の上で切り揃えられている。強い光の中に浮かぶ彼女は、陽の赤にうっすら染まりきっていて、異様な透明感を思わせる儚さを放っていた。
「…………」
俺は驚いたまま沈黙する。てっきりそこにいるのは鳴海だと思っていた予想が外れて、身体が硬直してしまっていた。
目の前の少女の、こちらを見つめる大きな瞳に意識を吸い込まれそうになりながら、しかし思考と神経を何とか動かすように努める。
すると、彼女の容姿には何となく見覚えがあるように思われた。その覚束ない雰囲気のある、幼さを残した妖精のような外見に、重なる記憶があったのだ。
それはちょうど、昼間に孝文と話題にしていた彼女――そう、唯花だ。目の前の少女は、あの唯花にそっくりだった。
ということは、この子が例の編入生か?
なるほど確かに、本人と言われても納得できるほどに、とても似ている。突然こんな子がクラスに来ようものならば、唯花当人だと思ってしまっても無理はないだろう。メディアに露出している唯花はブロンドで、目の前の少女は黒髪だが、それでもこれほど瓜二つの存在には驚きを隠せないものだった。
「えっと……」
数秒して、俺は無意識に呟いていた。その呟きには戸惑いの他に、感嘆の想いもわずかに混じっていたことだろう。想像していたほど黒髪と制服に違和感はない。むしろこれはこれで、作り込まれた人形のような調和を感じる。
けれども俺の硬直が解けて発した言葉を聞いて、彼女はぴくんと肩を弾ませ、一気に我に返ったらしい。伸ばしかけた手を素早く引っ込め、その両眼で俺を鋭く射抜いたかと思いきや、途端、翻って部屋から飛び出していってしまった。俺が来た方とは反対側にある、準備室から直接廊下へと繋がる扉を勢いよく開け放って、一目散に姿を消す。
一人とり残された俺はまたしばらく固まって、彼女の去っていった方を見つめていた。何とか形にしようとしていた言葉の先は、実際にはほとんど音になることはなく、萎んだ溜息となって口から漏れた。
静かに金色に輝く埃だけが、虚しく辺りに舞っている。
なかなか希有な場面に出くわしたものだ。しかもタイミング的にかなりタイムリーである。
何しろさきほどの少女は、おそらく本日この学校にやってきた編入生、千種一華さんその人なのだろうから。
あの天才美少女ギタリスト唯花に似ていると噂だから、まあ、ほぼほぼ間違いないだろう。よもやあれほど似ている容姿の人間は他にいまい。世の中にはとても似た人間が三人いるという噂があるが、あんなものは真っ赤な嘘だ。あれほどそっくりとなると、他人かどうかもいよいよ怪しい。もしかしたら、本当に本当に、唯花本人なのかもしれない。
一度件の編入生を目にしてしまった俺は、いつの間にかそんなことを思うようになっていた。孝文に聞いたばかりのときはほとんど疑ってかかっていたが、あれはなかなか、呆れ顔で頭ごなしの否定も言えなくなる。
しかも俺が準備室で目撃したとき、彼女はいったい何をしていた? アコースティックギターに手を触れようとしてはいなかっただろうか?
あの容姿で肩からギターを提げようものなら……ああ、もしや……これはいよいよ、ひょっとすると、いよいよである。
できることなら声も聞いてみたかったと思うけれど……しかし相手には脱兎のごとき勢いで逃げられたので、今更無理な相談だ。
きっと彼女が逃げたのは、今日一日中、他人からの奇異の視線に晒されてうんざりしていたからだろう。準備室でやっとこさ一人だと思っていたら、そこに突然俺が現れたので、話しかけられる前に逃げたのだ。
その辺りは、今日という編入初日に、彼女がどんな空気の中にいたかを考えれば想像に難くない。あの編入生、もとい千種さんは、今や学校中の注目の的。一年生だけでなく二年生や三年生までその姿を一目見ようと彼女の教室を訪れているらしいのだから、そりゃあもういい加減、放課後くらい一人になりたくもなるだろう。
俺はあれからしばらくボーっとしていたが、ぽつりと残された準備室に長々と居座る用もなく、さっさと立ち去ろうとした。しかしその際、開けっ放しの扉と、それから彼女が飛び出していった拍子に崩れたらしい楽譜の山を見て見ぬ振りすることも憚られ、元通りに整理するという過程を経て今に至る。準備室を出る頃には太陽もすっかり地平線に沈んでしまって、空の雲は残光だけを弱くぼんやりと跳ね返していた。グラウンドで行われている部活動は、軒並み整理運動に入っている。
そうしてようやく帰路に就こうと、とっくにもぬけの殻と化した教室に寄り、荷物を持って昇降口へ向かう道すがら、そもそも何で彼女が準備室にいたのだろうかという疑問を抱いたのは、当然の流れのように思えた。
彼女があの部屋にいた理由、それはいったい何だろう。放課後にもたもた教室にいてはまた見せ物のようになると考え、とりあえず人に会わなくてすみそうなところを探した、なんてところだろうか。でも、それならわざわざ学校には残らず、すぐに下校すればいい。放課後に部活や委員会なんかがなければ、普通の生徒は帰るものだ。まさか編入生に、俺のような放浪癖があるわけでもないだろうに。
とすればやはり、ギターが目当てか? あるいはオーケストラ部に用があったとか。いや、それなら練習が行われている体育館に向かうはずか。
うーん……まあ、今ここで俺が考えたって、すぐにわかるわけがないか。
そういえば結局、鳴海に会うこともできなかったし、なんだかなぁ。どうにも腑に落ちない気分になる。
そんなことを思いながら、昇降口に繋がる職員室前の廊下を通り過ぎようとしていたときだった。
「いい加減にしてください!」
室内から突然、わずかに感情的な、張りのある声が耳に届いた。
俺は思わず足を止め、磨り硝子の窓が隔てる向こう側に目を向ける。いくつか物音や話し声がしていた職員室は、途端に静まり返っていた。
「……その話は、もう何度もお断りしたではありませんか。せっかくのお誘いを、申し訳ないとは思いますが……私はオーケストラ部に入るつもりはありません」
しばらくすると、荒げた声をおずおずと引っ込めるような、丁寧な断りの文句が聞こえてくる。その声音には、何だか聞き覚えがあるように思われた。
対しては、凛々しく大人びた雰囲気の、女性の声が返される。
「……ごめんなさい。しつこく思ったのなら謝るわ。でも、あなたのヴァイオリンには技術があるし、それに……顧問の私が言うのも変かもしれないけれど、うちのオーケストラ部は活気があって、あなたが高校三年間を過ごす環境としても最適だと思うの。だからせめて、是非一度仮入部に」
「ヴァイオリンは、もう随分前にやめました。先生は、私を買い被り過ぎだと思います」
「そんなことないわ。だってあなたは……」
「先生。私はオーケストラ部には入りません。仮入部も、遠慮させてください」
「…………」
室内の声は途切れて、また静かになる。余りに静かで、今俺が歩き出したら、その足音が中まで聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだった。窓越しの緊張した空気が伝わってきて、俺は一歩も動くことができない。
「お騒がせしてすみません。失礼しました」
やがてそんな言葉が聞こえ、傍にある扉がゆっくりと開かれた。必然的に俺は、中から出てきたその人物と目が合うことになる。既に何となく予想はついていたが、現れたのは鳴海だった。
「あ……」
ほとんど吐息そのもののような反応だ。いつも彼女が見せる笑顔はそこにはなく、消沈の雰囲気が漂っている。
「よ、よう」
空気が気まずくなるのを避けようと、俺はあえて何でもなさそうに声をかけた。まるで、あたかも今し方、たまたまここを通りかかったような感じで気軽な挨拶を……いや、さすがにそれは無理だとしても、とにかく自分は何も聞いていない。そんな体を装いたかった。
盗み聞きというのは、一般的には故意でなくともそれに該当するのだろうか。決してそんなつもりはなかったし、実際にはほとんど最後の方しか聞いていないから、できればセーフ判定をもらいたいところだ。誰に対してというわけでもなく、俺は心の中でそんな言い訳を訴えた。
「……大江君。帰るの、随分遅いのね。もう、外も暗くなるのに」
鳴海は踵を返し、俺に背を向けながらそう言った。表情は長い髪に隠れて見えなくなる。
「ああ、まあな。鳴海は……」
「私は、ちょっと……」
ちょっと、か。
気になるかどうかで言えば、当然、気になる。とはいえ、ここで下手に尋ねてしまっては、わかりやすい露骨な墓穴を掘るだけだ。迂闊な質問をしてはいけない。
俺がそうやって発言をためらっていると、彼女は早々とまた口を開いた。
「あ、そうだ……私、まだ教室に荷物置きっぱなしなの。もうすぐ最終下校時刻だから、大江君も急いで帰った方がいいわね。門、閉められちゃうから」
そしてそのまま、彼女はこちらを振り向くことなく「じゃあね」と残して走り去る。別れ際に振られた白い手を何となく目で追っていると、すぐにその姿は廊下の曲がり角に消えてしまった。
「…………」
俺は一人、わずかに音を取り戻した職員室前の廊下で立ち尽くす。生徒の下校を促すチャイムが校舎に響く中、胸にはよりいっそう、鳴海のことを気にする感情が巡っていた。
彼女は音楽準備室で寂しそうにギターを弾いていた。彼女はオーケストラ部に誘われている。彼女はヴァイオリンが上手だが、もうやめてしまったらしい。他にも色々、彼女に関することがいくつか、頭に浮かんでは消えていく。
ただ、このとき俺が一番に気になったのは、もっと単純なことだった。それがチャイムの鳴り終わる余韻に混じって、無意識に口から零れ落ちる。
「…………教室、そっちじゃないんだけどな……」
鳴海の向かった先は、俺たちの教室とは正反対だ。教室に向かうのなら、俺とすれ違って、俺の来た道を逆に辿る必要がある。だって俺は、今まさにそこから歩いて来たのだし、他のルートではかなり遠回りだ。
それに、さきほど俺が立ち寄った際、教室にはもう誰もおらず、誰の荷物も残っていなかった。だから、鳴海がそこに荷物を取りに戻るというのは、いささかおかしな発言でもある。
となると、さっきの鳴海は少し様子がおかしかったし、やはり俺と顔を合わせたのが気まずかったのかもしれない。
でもそれにしたって、あんな見え透いたその場しのぎの嘘を残して立ち去るなんて、あまり彼女らしくない。少なくとも、俺がこれまでに抱いた彼女の印象と比べると、どうしても違和感を覚えずにはいられなかった。
完璧に見えたはずの彼女の中に、ぽつりぽつりと、見え隠れする小さな違和感。
そう、それは違和感だ。今の俺では、その気持ちを別の言葉で表すことも、もっと詳しく表すことも、できはしない。ただ何となく、鳴海の様子が明らかにいつもと違っていたことだけが、如実に胸に引っかかった。
外の景色は朱色から藍色に移り変わっていて、その変化はきっと、好奇心や猜疑心、興味や不安が入り交じるほどに色を変えていく俺の感情と似ている気がした。太陽が消えて温度の下がった外界から入り込む風が、ひやりと俺の心を撫でた。
土曜日、俺はほとんど自分の部屋から出ることなしに一日を終えた。究極の暇人の成せる技であることを否定しない。それくらいに、俺の肉体活動は最小限に抑えられていた。
しかし何も別に、これは珍しいことではなかった。左膝を怪我してからというもの、俺は基本的に安静にすることを義務づけられているのだ。昔から馬鹿の一つ覚えみたいにやっていたリフティングも、シュートやパスの練習も、ランニングさえももうできない。その上、特に勉学に興味もなければ、俺が取り立てて休みにすることなんて皆無と言っても過言ではなかった。
新しく通い始めた高校でできた友人は数人いるが、悲しきかな、今の彼らには俺と休日を謳歌している暇はないだろう。高校というコミュニティで新たな居場所を得るために、せっせと仮入部員として部活動に参加中だ。
思い返せば、中学の頃の俺もそうだった。平日も休日も関係なく、サッカーばかりやっていた。きっとあの頃は、サッカーボールが俺の生活を導いてくれていたのだろう。土で薄く汚れた白黒の玉を追いかけているだけで、何をするべきか全部わかったし、迷うことなんて考えられなかったのだ。
でも今、もう俺はそのボールを追うことができない。自慢だった人生の羅針盤を失ってしまって、日々の過ごし方がわからないままに生きている。
そんなわけで無為に過ごしてばかりいるからこそ、どうしても身体のエネルギーが行き場をなくして、余計なことばかり頭に浮かぶ。これは本当にどうしようもなく、至極当然と言ってよかった。
この日、俺がまったく身体を動かさない代わりに終日をかけて考えていたのは、二年前の都心駅のライブ、フードのギタリストによるストリートライブについてだった。
まあ、そりゃ、そうなのだ。
鳴海のギターを聴いてから、俺はほとんどずっと、そのことばかり考えている。つまるところ、俺はこの日、ひたすらに鳴海のことを考えていたのだ。
彼女の弾いていたあの曲を、なぜだか無性にもう一度聴きたい。彼女が当時のギタリスト本人なのかどうか知りたい。そして彼女に伴うわずかな違和感に、ほんの少しだけ、惹かれている。
ただ、それを解決する方法は初めから既にわかっていて、鳴海に直接聞けばよい。一見簡単なお話で、けれどなかなかどうして難しい。何とも歯がゆいことである。ついに週末になってしまったし、いよいよ気になるばかりでどうすることもできずに耐えるしかなく……そうして一日晴れぬ想いを抱えたまま、俺は悶々と土曜を過ごすしかなかった。
しかしてその反動か、日曜日には、俺は外出を試みた。収束しえぬ疑問に半日くらい体内時計をずらされて、夕方になってからずるずると自室を這い出した。
特に目的があったわけではない。ただの散歩のつもりだった。要するに気分転換だ。
けれど、それなのに俺の身体は思考から無自覚に指図を受け、陽が落ちた頃に気づいてみたら、都心の駅にたどり着いていた。
溜息とともに、やはりどうしても自分は、自分から逃げられないらしいと知る。何を隠そう、俺は現実逃避が苦手なのだ。
俺は潔く気分転換を諦めて、慣れた足取りで迷路のような地下街を出たあと、そのまま駅前の大通りへと向かった。
絶え間のない人や車の波。高くそびえ立つオフィスビル。見慣れてもなお視線を向けてしまうおかしな形のモニュメント。二年前からほとんど変わらない賑やかな街並みと往来が、そこにはある。俺の記憶に色濃く残る、ストリートライブの会場だ。
昔と違うのは、ここを走り抜ける力が俺にないこと。そしてライブの人集りが見られないこと。
俺の夢はもう潰えたし、夢を抱かせるあの音楽も、もう一切聴こえてはこない。
「……」
ああ、俺は本当に、いったいどうしてここへ来たのだろう。何をしにここへ来たのだろう。ここはもう、疑問の答えが見つかる場所でもなければ、思い出の光景を眺められる場所でもない。得られるものがないことは、初めからわかりきっていたはずなのに、いったいなぜ……。
ふと冷静になってそう思うと、途端に自分に嫌気がさした。目を細めて、せり上がってきた二つ目の溜息を無理矢理に飲み込む。
そうして、もう考えるのはやめようと、さっさと帰って寝てしまおうと踵を返したとき、偶然にも視界の端に映ったものに、俺の意識は強く吸い寄せられたのだった。
無機質なくすんだ景色の中、そこにあったのは、シックな黒い輝きを放つ一つのアコースティックギターだった。
瞬間、俺は跳ね上がるくらいに、ひどく驚く。
しかもよく見るとそのギターは、目立たない灰色のフード付きコートを着た人物の肩に提げられている。その人物は今まさに、俺が注目している目の前で、ゆっくりと構えて弾き出そうとしていたのだ。色白の指先によく馴染む白いピックが、黒のギターの上で踊り出す。
この広く騒がしい大通りで、ギターの音は余りに小さく、ただ雑踏に混じる喧噪の一つでしかない。しかし俺は、弦が弾かれ音楽が紡がれたその瞬間、確かな音色を耳にすることができた。
知らず知らずのうちに、足はもう前へと進んでいた。周りに歩いている人をかき分け、音のする方へと近づいてゆく。
近くで見れば見るほど、そのフードのギタリストは、俺の記憶の中の姿とぴったり綺麗に重なった。
全身を覆う控えめな服装。わずかに毛先だけ覗く金の髪。ピックを使って弾くギタースタイル。
間違いない。間違いなく本人だ。俺はそう確信し、高揚する気持ちを抑えながらも、周りが見えなくなっている自分に気づけないでいた。
夢中で歩み寄った俺は、勢いよくその人物の正面に出る。無理に動かすと痛む左膝を庇いながら急いだので、発汗して脳を巡る血流が増し、若干ボーッとした心地で口を開く。
「……鳴海」
すると、ぴたりと演奏が止み、目の前にあるフードの中から訝しげな視線が向けられた。
細身で長身のすらっとした姿。今日一日考えていたこともあってか、このときの俺には、眼前のギタリストが鳴海に思えて仕方がなかった。
「鳴海?」
けれども、帰ってきたのは疑問詞を伴っただけの同じワード。しかもそれを伝えるのが、思い描いていた穏やかでふわりとした優しげな声――俺の知る鳴海の声ではなく、儚げで細いガラスのように透き通ったものであることに、上気した俺の頭は冷やされた。声の調子から女性であることは間違いないが、あまりに鳴海のそれとはかけ離れている。
「あっ、いや……す、すみません!」
俺は咄嗟に正気を取り戻し、大変な居心地の悪さを感じて、慌ててその場を立ち去ろうとする。振り返って歩き出そうとしたところで、しかし意外にも、フードの彼女に呼び止められた。
「待って。鳴海って……鳴海玲奈のこと?」
「……え?」
思わぬことを尋ねられ、俺はきょとんとして彼女を見る。
彼女は深々と被った灰色のフードをおもむろに取り払った。
同時に俺は声を上げる。
「あっ……君は……」
そこにいたのは、先日学校の音楽準備室で見たあの女の子――透明で華奢な体躯をした編入生の少女だった。
今は前と違って制服ではなくコートを着ていて、黒いショートヘアの毛先だけが、うっすらと金色に染まっている。しかもなぜだか少し背丈が高い。
髪の方は、おそらく色のついた整髪料だろう。さらによく見ると足下は底の厚いウェッジソールで、その分だけ身長が伸びて見えるのだと、遅れて気づいた。
――唯花がいる。
俺はそう思った。外見がいくらかカジュアルになっており、さらにギターを提げているせいか、もうまるっきり本人にしか見えない。
直後には、脊髄反射でただ呟いていた。
「唯、花……」
質問にすらほど遠い俺のそんな言葉に対し、目の前の彼女は素っ気なく答える。
「……そうだよ。学校でも会ったね」
そうだよって……いや、マジかよ。
それって、今ここにいるこの子が、あの稀代の天才美少女ギタリストとして全国的に有名な唯花本人だと――学校で聞いた噂は本当に本当だったと、つまりはそういうことなのか?
ま、まあ確かに、俺も半分くらいは信じ始めていたけれど……孝文の噂に、学校に漂う雰囲気に、彼女の容姿に飲まれて信じ始めていたけれど……でもいざ事実として固まると、また驚きも一味違う。そういえば、少し前から唯花の活動休止が騒がれていたっけ。それも一応、彼女がここにいることを否定させない要素の一つにはなる。
別世界の人間だと思っていた存在が、今まさに自分の眼前にいると知り、情けなくも俺の脳内処理は盛大にパンク。事実の認識を思いっきり投げ出して、正常な活動を怠り始めていた。
動揺から上手く声を出せないでいると、彼女が再び口を開く。
「ねぇ、それでさ。私も聞いてるんだけど、鳴海って鳴海玲奈のこと?」
「え……あ、ああ……そうだけど……」
俺は半分くらい無意識のまま反応し、結果として、しどろもどろになる。
可愛らしい外見をしている割に、彼女の言葉はかなりぶっきらぼうだった。その視線には、他人と初めて会話をするときに持ち得る負の感情――不安や警戒心といったものがいくらか見られる。俺という他人との間に、薄い壁を一枚と言わず二枚も三枚も作っている。彼女と話していることに対して妙に実感が持てない俺は、ふとそんな客観的認識を抱いていた。
「どうして君は、鳴海のことを知っているんだ?」
俺が尋ねると、彼女は少し迷うような仕草を見せたが、やがて俯きながら返答する。
「……昔、ここで一緒に……やってたから」
それが、自分の投げかけた疑問への答えであることに、俺はすぐに気づけなかった。少しだけ考えて、彼女の言葉に足りていない部分を想像で補う。
「やってたって……ひょっとして、ストリートライブをか?」
彼女はこちらを見据えたまま、こくんと頷いた。
こくんって……いや、マジかよ。って、あれ? おいこれ二回目だぞ。
しかし、二回目だろうと二十回目だろうと、これが驚かずにいられるだろうか。いやいや無理だ。大ニュースだ。唯花の正体に続き、またも衝撃の事実を明かされて、俺の鼓動はワンテンポ遅れながら徐々に早回しになっていく。あんまり日に何度も驚きすぎると、心臓が跳ねまくった挙げ句に血流過多でどうにかなってしまいそうだ。
さきほどから一向に落ち着かない頭の中で、俺は状況を理解しようと奔走する。脈拍を下げ、絡まり乱れる神経信号を丁寧に解きほぐし、事実を飲み込もうと努力する。
「じ、じゃあ……その黒いギターってやっぱり、ここでよく弾いてた二人組の……?」
「うん」
「ってことは、もう一人の白いギターを弾いてたのが、あの鳴海……?」
「うん」
心の奥底には、もしかしたら、なんて想いもあった。だがこれもまた、いざ事実として固まると一味違う驚愕である。
何せ、あの鳴海だ。あの淑やかで清楚な優等生であるところの鳴海玲奈が、まさか駅前でギターのストリートライブ……自分で想像しておきながら、これほどミスマッチな組み合わせもなかなかない。
ただ、目の前のこの子が嘘を言っているようにも見えないし、疑うよりは受け入れる方が、状況証拠からしても正しいような気がしてくる。
つまりこの子と鳴海がその昔――今から遡ると約二年前、この駅前でストリートライブをしていたギタリストの正体だということだ。
季節も天気も関係なくフード付きのコートで身を隠し、当時ここらではちょっとした有名人だった彼女たち。鮮やかな手捌きと白黒のギターで聴衆を魅了し、生き生きとした快活な、夢に満ち溢れた音楽を響かせていた彼女たち。まるで世界の秘密と希望を、そのまま映し出したかのようにすら見えた彼女たち――。
それは、俺がこれまで生きてきた中で最も幸せだったと思える頃――ひたすらサッカーにのめり込んでいた中学時代に形作られた記である。だから、どうしても彼女たちの音楽は、俺の中でサッカーに繋がっている。毎日自分の輝かしい未来を想い描きながら生きる幸福を、心の中に蘇らせてくれる。
しかしそんな彼女たちは、あるときを境にぱったりと、突然現れなくなってしまった。今思えば、あれはまるで予兆のようで、俺の方もそのあとすぐ、駅前に通うことはなくなったのだ。
驚きのさなか、そして回顧のさなかで俺が黙り込んでいると、彼女は小声でぼそっと呟く。
「もう……解散しちゃったけどね」
解散。
チームを解消したということ。
どこからともなく流れてきた風の噂で、そういう話を耳にしたことはあった。きっとそれが、あの頃何の前触れもなく、二人がここに現れなくなった理由なのだろう。
「……あれか? よく言う、音楽性の違いってやつ」
「音楽性? 何それ、違うよ。よくわかんないけど……たぶん、色々、あったんだよ」
色々……か。一度組んで、それなりに長く続いていたペアを解消するくらいだから、まあ事情は様々あるんだろうけれど……でも、目の前の彼女はあからさまに、放つ雰囲気でそれを聞くなと物語っている。
正直なところ知りたい気持ちは否めなかったが、俺が逡巡しているうちに、いつの間にか彼女はフードを被り直していた。質問から逃れるためなのか、あるいはまた別の理由か。
そしてふと周りを見渡すと、いくらかこちらを見ている人たちがいることに、俺は気づく。彼女の唯花としての容姿が、知らず知らずのうちに人目を集めていたのかもしれない。
「ちょっと、あのさ。さっきから私ばっかり質問されてる。ずるだよこれ。いいから早く、そっちはなんで玲奈のこと知ってるのか教えなよ。玲奈とはどういう関係なの」
彼女は浅めにフードを被ると、相変わらずの刺のあるトーンで俺に尋ねた。
「え、うーん……なんでって言われてもな……。鳴海は学校じゃあ有名人だ。超優等生だし、名前くらいはみんな知ってる。俺はクラスメイトだから、少し話したことがある程度かな」
「クラスメイト……? それだけ……?」
「それだけ、だけど」
彼女の両眼が鋭く俺を射抜く。
「……本当?」
「う、嘘ついてどうする」
「ふぅん……」
俺は思わず、気圧されて一歩後ずさった。
彼女はフードの影の中から異様に尖った視線を向けてくる。それはさきほどの、知らない人間に対してちょっと不信心を抱いている、なんて生易しいものではない。まるで割れたガラスの先でも突き立てるかのように、冷ややかな敵意を感じさせる。
何だ……? やたらとしつこく問い詰めてくると思ったら、突然思いっきり睨んできて……何かあるのか?
「クラスメイト、ね……」
彼女はもう一度、単語の意味を確かめるように低く、そして深く独りごちた。それを最後に口を閉ざし、やがてくるりと回って俺に背を向ける。慣れた動作でギターを外し、足下にあったケースにしまい込む。
「あ、あの……」
俺が言葉に迷っていると、彼女は大きなギターケースを背負って言った。
「今日は……もういいや。私、そろそろ帰るよ」
彼女が歩き去ろうとするのを見て、俺は今更のように慌て出す。何か……何か言わないといけない気がする。
そうだ。よく考えたら、俺は今ここでやっと、最近ずっと自分を悩ませ続けていた疑問の答えに出会ったんじゃないか。もう今更、何も得るものはないと、既に過去の場所でしかないと思っていたこの駅前で、彼女たちのライブの会場だった、この場所で――。
しかもその答えは、明かされた事実は、俺の想像を具現化したものに極めて近い。自分すら半信半疑だった俺の理想に、まるで現実の方が吸い寄せられたようにさえ感じるくらいに。
ああ、だったら俺は、もっとその先に手を伸ばしたい。彼女たち二人の演奏を、俺の大好きだったサッカーと繋がるあの曲を、もう一度聴いてみたい。強く、心の底から強く、俺はそう思う。
「あっ……あのさっ!」
思いの外張ってしまい裏返る寸前だった俺の声に、彼女はゆっくりと立ち止まった。しかし振り返ることはない。こちらに背中を、向けたまま。
「その、俺……昔ここで聴いた曲、すごく好きだったんだ。い、いや、今でも好きなんだ。一番よく弾いてた曲だよ。だから……よかったら、是非もう一度聴かせてくれないか」
「……だめ」
「え……ど、どうして」
「一人じゃ、弾けないから」
彼女の言葉が、一連の音となって頭の中で反芻される。その短い音階から意図を見極めようと、俺は草の根を分ける想いで神経を巡らせる。
「あの曲は、二人じゃないと弾けない。玲奈とじゃないと、弾けないんだよ」
二人じゃないと……ああ、そういうことか。例えば、ピアノで言う連弾みたいな……いや、少し違うか。けどまあ、とにかく、譜面上二人の奏者が必要であるということは考えられる。そりゃあそうか。もともと二人で弾いていたんだもんな。
「じゃあさ、鳴海にも頼んでみるから。そしたら……」
俺は咄嗟に提案をし、何とか食い下がろうとする。
けれども彼女は、抑揚のない細い声で、あっさりとそれを切り捨てた。
「玲奈はやってくれないよ」
一言だけ言うと、しばらくしてまたゆっくりと彼女は歩き出す。もはや口から吐き出す言葉を持たない俺を置き去って、ここから離れていってしまう。
そうして雑踏に紛れる寸前、まるで溶け消える刹那の雪のように淡い声色で、儚く零す。
「……玲奈は、もう私とは一緒に弾いてくれない」
本来なら、俺がそれを耳にできるはずはなかっただろう。周りは依然、溢れる人のざわめきで満たされている。
けれども、このとき俺は、彼女の言葉を確かに聞くことができたのだ。彼女の背に、声に、まとう空気に、聞き過ごすことなどできない何かを感じたのだ。
その何かを、俺は一人残されたあとになって、ようやくぼんやりと理解する。
俺が彼女の言葉に感じたのは、その胸に滲む、冷たい悲愴の切れ端だったのだと。
「さて、じゃあ、始めるわよー」
ここは誰もいない放課後の音楽準備室。隣では、包み込む夕陽のように柔らかい声で、鳴海が快活に宣言する。
「お、おー」
俺もつられて、どぎまぎしながらノリを合わせた。
なぜ俺はこんな状況にいるのだろうか。いや、より正確に言うのなら、なぜ俺はこんな状況にいられるのだろうか、だ。
先週までは鳴海と話をするためにあれこれ滑稽なまでに奔走していたこの俺が、あろうことか今、放課後に音楽準備室で鳴海と二人きり。
その答えは、遡ること数分前に存在する。
週明けの月曜日、俺は駅前で知ったことを鳴海に聞いて確かめようと、そしてあわよくば彼女にギターの演奏を頼もうと、一日会話の機会を伺っていた。そんな折、またいつもの放浪癖で校舎の中をうろついていると、偶然にも廊下の曲がり角でばったり彼女と出くわしたのだ。
「あら、大江君。こんにちは」
「うおっ! な、鳴海!」
思いもよらないことだったから、俺は飛び跳ねるくらいに驚いた。
あはは、そんなに驚かなくてもいいのに、と鳴海。
「まだ学校に残っていたのね」
「あ、ああ。まあな。そう言う鳴海の方こそ」
「私は、ちょっと用があって」
「あ……そうなのか。部活の見学とかか?」
「ううん。来週から、選択授業が始まるでしょう? だから、それに使う備品の確認をしに行くの。先生に頼まれちゃって」
「今から?」
「ええ、今から。音楽準備室で」
それを聞いて、俺はほとんど条件反射で口を開いた。
「じゃあそれ、俺も手伝うよ!」
「え?」
「……だ、だめ、かな」
「あ、いえ、だめではないけど。でも、そんなの大江君に悪いわよ」
「いいんだ。手伝わせてくれ。選択授業なら、俺にだって関係ある」
鳴海は少し不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑顔で頷いた。
「そう? じゃあ、そうね、お願いしようかしら」
うちの学校では、選択授業として美術と音楽が開かれており、美術ではカンバスやイーゼルを、音楽では数種の楽器を使用する。これから行うのは、音楽で使う楽器の状態確認だ。ちなみに美術の方は彼女が昼にやったらしい。教室でも学食でも見かけないと思ったが、なるほど、それもそのはずだ。
うっすらと埃の匂いを吸い込みながら、俺は準備室内の楽器を見渡す。驚いたことに、楽器にはなかなかの数と種類があった。
「へぇー、いっぱいあるな」
「ええ。出しっぱなしのものもあるし、間違って棚に入っているものもあるわね。一度取り出して状態を確認してから、数えて正しく棚に戻しましょう。使えないものは横によけてね」
「うぃーっす」
両腕の袖をまくりながら俺は答える。
横の鳴海は制服から取り出したヘアゴムで髪をまとめ、ポニーテールを結い上げている。長くしっとりとした黒髪が、まるで猫の尻尾のようになって揺れた。
作業としては、まずは部屋にある楽器を俺が並べ、鳴海が状態を確認するという形を取ることにした。重い楽器もあるから力仕事は俺の方がいいし、そもそも俺は、楽器が楽器としてしっかり機能するのかどうかを判断することができないからだ。
対して彼女は、それぞれの楽器の使い方をちゃんと知っていて、出る音に大きな問題がないかをチェックすることができるようだった。何というか、やはり流石は超優等生。まったく、感心してしまう。
運びながら、並べながら、俺は様々な楽器に触れていった。軽音楽系のギター、ベース、ドラム、キーボードといったものから、オーケストラ系のトランペットやホルン、フルート……あとは、ティンパニ? ハープなんてものまである。こんなの誰が使えるんだ。ていうか重い。さすがにちょっと膝にくる。
なにぶん文化系の活動に特化した学校だけあって、備品の取り揃えはすこぶる良いようだ。サッカーばかりをやってきた俺にとっては、そのどれもが初めて出会うものばかり。小学校や中学校の授業では、こんなにたくさんの楽器は使わなかった。
しばらくすると、作業は弦楽器の確認をする段階に移った。コントラバス、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンと、大きいものから順に鳴海の元へ運んでいく。最後にヴァイオリンを手渡すときになって、俺はふと思い出したことが、あり口を開いた。
「そういや、鳴海ってオーケストラ部に誘われてるのか?」
彼女は一つ一つ楽器を見て、確かめながら穏やかに答える。
「んー? ええ、誘われてるわよー。なんかそれ、みんな知ってるみたいなのよねー」
慣れた回答だ。おそらく俺以外にも、たくさんの人に聞かれたことがあるのだろう。
「ああ、でも、大江君は前に職員室の廊下で、直接聞いたんだったわね。そんなこと聞いてどうするの? もしかして、あの先生の回し者、とか?」
冗談交じりに、若干の苦笑いで鳴海は言う。
あの先生というのは、オーケストラ部の顧問の先生のことだろう。以前に職員室で鳴海と話していた……というか少し揉めていた先生である。
「違う違う。そんなんじゃないよ。単純にすごいなと思って。この学校のオーケストラ部って、色んなところで賞とか取ってて、人数も多いし、部活では一番の花形なんだよな。そんなところにわざわざ誘われるなんてさ」
「わざわざ、ねぇ……」
素直に褒めたつもりだし、お世辞でもなく本心だったが、しかし彼女はあまり嬉しくなさそうだ。
「その様子だと、もしかしたら知ってるのかもしれないけど……私の家って、ヴァイオリン教室なのよ。母が開いている教室でね。昔は楽団にも所属していたみたいだから、知られている人には知られていて……それで、部の先生とも面識があるのよ」
作業を中断することもなく、彼女は話す。これもまた、口にするのは何度目だろうかというくらい、答え古した言葉なのかもしれない。そんな様子が伝わってくる。
「へぇ、だから鳴海を誘うのか。それって、鳴海のヴァイオリンが上手いからってことだよな?」
「上手くはないわよ。私は別に、ただ弾けるだけだもの。小さい頃に教えてもらったけど、今はもう、随分と弾いてないわ」
彼女は受け流すように控えめな苦笑いを続ける。確認を終えたのか、手元のヴァイオリンを床に並べて、ただ見つめていた。
「それに、なんていうか私、あの先生って苦手なのよね。いわゆる熱血系みたいな感じで、努力すれば誰でも必ず上手くなる! だからみんなで頑張ろー、的なノリが……ちょっと、合わないなかなーって」
「ふぅん。みんなでわいわいやるのとか、好きそうなのに」
「そんなことないわよ。地味子ちゃんだもの」
地味子ちゃんって……またすごいことを言うものだ。
何がすごいかって、本来なら誰が聞いても嫌味なくらいの発言なのに、彼女が言うと和やかな冗談に聞こえるところがすごいのだ。彼女はまったく地味などではない。可憐な容姿に明るい性格。大抵のことはそつなくこなし、常に人の輪の中心となる人徳まで備えている。どんなに謙遜したとしても、その謙遜すら彼女の非凡を際立たせる。
しかも、それでなおかつヴァイオリンまで弾けるとなれば、当然オーケストラ部の先生の目にも留まるだろう。
察するに彼女はオーケストラ部に入るつもりはないようだが、希望するしないに関わらず様々な声がかかるのは、目立つゆえの宿命といったところか。
「さて、全部確認し終わったわね。じゃあ次は棚に戻すから、手伝ってくれるかしら?」
しばらくすると、彼女は俺の方へ向いて朗らかに微笑み、声をかけた。
「ああ、わかった」
今度は二人がかりで、整然と並んだ楽器たちを片づけていく。低い棚から順番に埋めていって、高い棚に仕舞うには脚立を使った。鳴海が上に登り、下で支える俺の方から楽器を手渡す。
「えっと……できればあんまり、上、見ないでね」
彼女が恥ずかしそうに言うので、俺は意識的に視線を下方へと向ける。まあ、そこはあれだ。彼女は制服ゆえにスカートであるからして、致し方ない。俺だって先に釘を差されてなお、堂々と覗く度胸はない。
再び楽器を扱うにあたり、俺はさきほど見た鳴海のやり方を参考にした。彼女の所作はとても丁寧で、極めて繊細であろう楽器たちに対し、大きな気遣いを感じさせるものがあった。
きっと彼女には、音楽についての豊富な知識が備わっているのだと、俺は思った。手つきには妙な親近感を覚える。それはもしかしたら、楽器を扱う彼女の姿が、サッカーの備品を扱っていた自分と重なって見えるからなのかもしれない。彼女の音楽に対する好意が感じられるような光景だった。
しかし、彼女はもう、ヴァイオリンは長く弾いていないと言う。それを聞いた上で、俺が彼女について知っていること――以前にこの部屋で、夕陽に包まれてギターを抱きしめていたことや、駅前でストリートライブをしていたことを考えると、自然と言葉が口をついた。
俺は同時に楽器を持ち上げて彼女に渡す。折しも、その楽器はアコースティックギターだった。
「今はヴァイオリンじゃなくて、ギターをやっているのか?」
「えっ……? ――あっ!」
すると突然、脚立の上から驚いたような声がしたかと思うと、いきなり手渡したばかりのアコースティックギターが降ってきた。俺は咄嗟に右手を伸ばす。ネックの部分を少し荒めに握ってしまったが、何とか落下は免れた。
けれど今度は、左手で支える脚立の方が大きくぐらつく。上に乗る鳴海がギターを落とした拍子に身体のバランスを崩したようで、俺が見上げたときにはもう、既に手遅れ。完全に身体は空中へと乗り出していて、立て直せる姿勢ではなかった。
「あっ! きゃ!」
「おわっ! 鳴海! 危なっ!」
脚立は鳴海が乗り出した方向と反対に傾いていく。俺は無意識に彼女を受け止めるため手を広げていて、舞い上がる埃とともに、俺と彼女は二人で床へと倒れ込んだ。
やがて傍らでは、ガシャンと脚立の倒れる音が虚しく響く。
「いっつつ……」
思わず目をつむってしまった俺は、ゆっくりと瞼を開きながら呟いた。
「あ、あの……大丈夫? ごめんなさい。驚いて手が滑っちゃったわ」
そんな声が、吐息と一緒に感じられる。気づくと彼女の顔は、鼻先が触れ合うくらい近くにあった。
心拍数と体温が急速に上がっていく。俺はそれを表に出さないよう、目を逸らしつつ平静を装う。
「足の方も、滑ってたようだけどな。そっちこそ、大丈夫か?」
「ええ、落ちるギターに手を伸ばそうとしたら、私まで一緒に落っこちちゃった。大丈夫よ。受け止めてくれてありがとう」
「……そうか。よかった」
冷静な振りをしているだけの俺に対し、彼女は本当に落ち着いているように見えた。まつげの本数が数えられそうなほど目の前に顔を合わせていても、変わらず穏やかに笑っている。
密着する彼女の身体が思考を阻み、俺は沈黙することしかできない。伝わる柔らかな感触が、俺の緊張を高めてやまない。そのまま無言の硬直状態が、数十秒くらい続く。
「あ、あの……ところで、そろそろ退いてくれないか」
下敷きになっている俺は、たまらず彼女にそう頼んだ。
整った桃色の唇を動かし、彼女は答える。
「ええ、もちろん退いてあげたいのだけれど……でも、随分きつく抱きしめられているみたいで、このままだと私、動けないのよね」
「えっ!?」
彼女に言われて、ようやく気づいた。どうやら俺は、下敷きになりながらも彼女のことを強く抱きしめたままでいたらしい。自分の身体にとても力が入っていたことも、今更のように自覚した。
「わ、わりっ!」
俺が力を抜いて両腕を開くと、彼女はゆっくり立ち上がって、服装と髪を整える。身だしなみが崩れたのは俺のせいではないはずだけど……なぜか罪悪感が拭いきれない。乱れた髪や服から覗く肌色に、なぜか胸がドキドキして……いや、何を考えているんだ俺。
「いいえ。大怪我していたかもしれないし、助かったわ」
そんな俺の心境などつゆ知らず、彼女はこちらの手元に視線を向ける。
俺の右手は、まだギターを握り締めていた。
「でも、ほんとにびっくりしちゃった。大江君ったら、いきなりあんなこと言うんだもの。私、大江君にギターの話なんて、したことあったかしら」
「いや、その……前にここで、鳴海がギターを弾いているのを、聴いたから……」
彼女に続いて、立ち上がりながら俺は答える。
すると、彼女の表情は一瞬だけ驚きを呈したあと、やがて伏し目がちの、切なげなものに変わった。
「そう……前のあれは、大江君だったの……」
彼女はそのときのことを思い出しているのか、部屋の入り口に目を向ける。
「ごめん。覗き見するつもりはなかった……って、わけでもないけど。たまたま音楽室に来てみたら、隣のこの部屋から演奏が聞こえてきて……すげー上手だなって思ったから、つい気になって」
「……お世辞が上手ね」
「そんなんじゃないよ。本当に上手だったよ」
俺が慌てて答えても、彼女は浮かない表情のまま。窓から照らす夕焼けが、横顔を悲しげに染め上げる。
部屋の中から言葉が消える。
俺はその静寂に耐えられなくて、何でもいいから喋ろうと思って口を開く。
「あ、あのさ。よかったら、もう一度聴かせてくれないか。ほら、楽器の整理も、もうほとんど終わったしさ」
「でも……」
「頼むよ。もう一度聴きたいんだ」
俺は手に握るギターを、鳴海の前にゆっくりと差し出した。
鳴海はそれに視線を落とすと、逡巡する様子を見せつつもしばらくして言った。
「じゃあ、弾くから……そしたら大江君、私がここでギターを弾いてたこと、他の人には内緒にしておいてくれる……?」
不安げな声音が印象的だった。
俺は、もともと誰にも言うつもりなどなかったけれど、肯定の意味を込めて強く頷く。
すると彼女は「仕方ないなぁ」とでも言いたげな淡い苦笑いを浮かべてギターを受け取った。胸ポケットの生徒手帳から黒いピックを取り出すと、近くの椅子に座って構える。
「そうね……せっかくだから、大江君の知ってそうな曲にしようかしら。もし歌えたら、是非、歌って」
一息つき、慣れた手つきで軽やかに演奏を始めた。曲のイントロを少し弾いたところで一度手を止め、俺を見上げながら表情で尋ねてくる。「知ってる?」と。
俺は、その曲を知っていた。というか、ほとんどの人が知っているはずの曲だとも思った。
鳴海が弾いたのは、あの唯花の曲だったのだ。確か、唯花のセカンドシングル。ゆったりとした儚げな印象のバラードであり、歌い手の雰囲気とも相まって、当時唯花の人気を全国的なものにした名曲である。
駅前で聴いた千種一華の演奏が無意識に脳裏をよぎったが、似ているようで、比べると少しだけ印象が違った。
「うん、知ってる」
何度か聴いたことがあるし、歌うこと自体は、たぶんできる。でも……。
「知ってるけど……それ結構、音程高いし、ちょっとなぁ」
「あ、そうだったわね。男の子だと辛いかしら。なら、低く歌ってくれていいから、頑張って」
え、低くって、キーを下げて歌うってことか? 元が儚げなバラードなのにそんなことして俺が歌ったって、雰囲気は似ても似つかないんじゃ……。
しかし、せっかく俺の頼みで弾いてくれる彼女の言うことだし、あまり無下にするわけにもいかない。俺は若干どころかかなり恥ずかしい想いで小さく咳払いをし、やがておずおずと歌い出す。
まあ、要はカラオケみたいなものだと思えばいいわけだ。ギターの音がある分、アカペラよりはかなり歌い易いではないか。
鳴海の演奏は、俺の声を追うようにしてすぐに再開した。
そして俺は、そこで大いに驚くことになる。
どうしたことだろう。鳴海の奏でる音が、さっきまでとはまるで別物のように違ったのだ。しっとりとした柔らかい音ではなく、快活で軽快な小気味良い音になっている。心なしかテンポも速い。
俺は戸惑いながら、追いかけてきたはずのギターにつられるようにして、曲の歌詞を口にしていった。
ただ、それは急かされるといった感じではなく、不思議ととても、心地がよかった。歌っているうちに自然とリズムに合わせることができて、奏でられる音に乗っていると、まるで身体が勝手に踊り出すような気分になった。
ふと鳴海の方に視線を向ければ、彼女も気づいて俺を見上げる。少し前まで浮かない表情だった彼女は、今はほんの少しだけ、微笑んでいた。
しばらくそうして、鳴海は弾き、俺は歌う。やがて二度目のサビに入り、曲一番の盛り上がりを見せる山場に続いていく。
俺は今、久しく忘れた興奮の中にいると感じていた。その興奮からエネルギーをもらい、心臓が、心が脈打つ。溢れ出る感情が、抑え切れなくなっていく。
こみ上げる想いを抱えながら、俺は再び鳴海の方を見やる。すると彼女はすぐ隣で、真摯にギターに向かいながら、生き生きとした表情で弾いていた。
俺は思った。その表情こそ、彼女が本来、ギターを弾いているときに見せるものなのだと。
ところが、次の瞬間、異変は起こった。
何の前触れもなく、華僑を迎える寸前で、パタリと演奏が止まったのだ。目の前で、まるで金縛りにでもあったかのように、鳴海の指が硬直する。同時に、その顔にはもはや笑顔はなく、能面のような無表情が張り付いていた。
「……鳴海……?」
俺は歌うのを止め、彼女に声をかける。
それでも彼女の口からは、何の言葉も出てこない。
少しの間、不気味なほどの静寂が続き、やがて彼女は勢いよく立ち上がった。
「……大江君……ごめんなさい、私……」
消え入るような震えた声だった。
彼女は俺に、押しつけるようにしてギターを渡す。そしてそのまま、音楽準備室から飛び出していった。
「…………」
残された俺は一人、沈みかけの赤黒い夕陽に照らされて、混乱ばかりを胸に抱いた。
楽しい演奏会から真っ逆さま。突然の出来事を上手く飲み込むことができず、どうしようもなく立ち尽くした。ただただ呆然として、いったい何が起こったのかもわからないまま、彼女の置き去っていったギターに、かすかな温度を感じながら。