俺は早足で教室まで戻ってくると、そのまま荷物を持って学校を出た。
まあ、率直に言って逃げてきたことになるわけだが……でも、あんな状況で鳴海と向かい合う心の準備は、到底できていなかった。出会ってまだ二週間も経っていないが、これまでずっと笑顔の彼女しか見たことがなかった俺にとって、あの光景はいささか、いや、かなり衝撃的だったのだ。
光の中、淑やかにギターを弾く彼女。凄絶なまでに美しい姿。でもだからこそ、その苦い表情がより印象的に刻まれて、この頭から離れない。
歩いて高校の最寄り駅まで向かう間、俺はまだ半分くらい惚けたように、あの瞬間を思い起こしていた。
そしてその記憶は、やはり同時に耳にした音楽を伴っている。
初めは、どうして少し聴いただけで、そんなにも覚えていたのか疑問だった。けれども、考えながら駅に着き、ぼんやりと電車に揺られているとき、俺はふと思い出したのだ。
鳴海が準備室で弾いていたメロディ。それは俺のよく知る、ある曲とまるっきり重なった。俺は過去、あの旋律を聴いたことがある。
テンポと曲調はどう考えたって全然違うが、リズムと音階は確かに同じ。昔耳にした、都心の駅前でのストリートライブと同じだった。
そして、一度それを認識してしまうと、俺の思考回りは早かった。準備室で鳴海がギターを弾いていて、弾いていた曲がライブの曲と同じということは……かつて、あのとき、あの場所で、演奏していたフードのギタリストのうちの一人が、鳴海玲奈と同一人物。そういうことに、ならないだろうか?
ああ、そうだ。その可能性は、十分にある。もちろん百パーセントと断定できるはずはないが、何となく確率は高い気がした。
では、もし本当にそうだったら、いったいどうだというのだろう。
俺は、あのストリートライブで聴くギターが好きだった。中でも鳴海が準備室で弾いていたのは、ダントツで一番に好きな曲だ。それは、昔駅を走り抜けていた頃に俺の心を躍らせ続けていた曲で……今聴いても、変わらずこの心は高揚する。
そうだ。だからつまり、どうだというのだろう。
少しずつ心がざわつき出す中で、俺は答えを求めて自分に問う。
すると意外にも、結論は瞬時に弾き出された。
俺の心は訴える。
もう一度、あの曲を聴きたい。
最初から最後まで、全部通してちゃんと聴きたい。
あのギターを、あの旋律を、あの音を……俺はもう一度、聴いてみたい。
そんな風に。
そしてこの日の夜、俺は結局、ベッドに入っても波立つ心を抑えきれず、上手く眠れないまま横になっていたら、次の日の朝が来てしまった。
翌日、学校に来た俺は、機会を見て鳴海にギターの話を持ちかけてみようと考えていた。彼女が一人で暇そうにしているときにでも、何気なさ、さりげなさを装って、上手い具合に問いかけてみようと考えていた。
しかし、いざそうしようと横目で彼女を追っていると、一つ問題が発生した。
いつまでもその好機がやってこないのだ。
気にしてみて初めてわかったことなのだが、彼女は学校では、常に何かをしてばかりだった。
そう例えば、クラス委員の仕事をしているとか、本を読んだり授業の予復習をしているとか、友人や先輩、先生と会話をしているとか。
特に三つ目に関しては、正直、驚愕以外の感想が浮かばなかった。
まだ入学して間もないのに、まるで彼女には、学校中のありとあらゆるところに知人がいるような錯覚に囚われた。
彼女の社交性は極めて高い。その上、美人で聡明となれば、そりゃあまあ容易に知人も増えるのかもしれないが……。
何だろう。友達百人作るとか、学校にいる人間全員と話すゲームとか、そんなことでもしているのだろうか。もしかしたら、先日俺に声をかけたのも、その行為の一環だったのかもしれない。
そういうわけで、とにもかくにも、鳴海は俺のように頬杖をついて外の景色をぼーっと眺めたり、何となくふらふらと校舎を歩き回ったりはしないらしいのだ。考えてみれば当たり前なのかもしれないが、俺にとって、それはかなり意外だった。
これでは話を持ち出しにくい。
それに、そうやって鳴海のことを気にしていて、俺はまた一つ、新たな問題を発見してしまった。
やはりというか何というか、鳴海は学校で何をするときも始終、人当たりの良さそうな表情を浮かべていたのだ。一人のときは穏やかそうに、人と話しているときは楽しそうに振る舞っている。一つ一つの挙動に余裕があって、まるでどこにも隙がない。三百六十度上下左右、どこから見ても、そこに綻びはあろうはずもなかった。
しかしそれゆえ、俺はそんな彼女に疑問を抱くことになる。
普段の彼女は、つまるところ完璧だ。あまりに隙がなさすぎる。容姿端麗、品行方正、非常に聡明で人望も厚く、いつも明るくて頼りになる。それが今の彼女に対する、俺を含めた周囲の人間の評価である。
では、それならば……先日の音楽準備室にいた鳴海玲奈は、いったい何だったのだろう。
夕陽の中でギターを抱き、何かに耐えているように苦しがっていた鳴海。見ていると、胸がぎゅっと締め付けられるような表情をしていた鳴海。涙を零していたようにさえ見えた鳴海。
彼女に伴う二つの印象は、比べてもまるで別人のそれでしかなく、イメージの乖離が極めて激しく、俺は迷わざるをえなかった。もしかしたら彼女の中には、二人の鳴海玲奈がいるのかもしれない。そんな風にさえ、思えてしまう。
だからだろうか、とてもではないがギターのこと、準備室でのことは、ふらりと尋ねてはいけないような気になってくる。
こうして俺は、とうとうその日は鳴海と言葉を交わすことなく家に帰った。帰宅の前に駄目元で音楽準備室まで足を運び、あまつさえ都心の駅に寄り道までしてみたが、何も得られるものはなかった。胸の中のもやもやした感覚は、何一つ解消されなかった。
そして結論から言えば、次の日もその次の日も、俺は彼女に話を切り出すことができなかった。
気になる気持ちはどんどん膨らんでいくのに、彼女を目の前にすると、どうしても身体が動かない。場合によっては向こうから話しかけてきてくれるなんてこともあったけれども、それでも話題を上手くギターの話に繋げられない始末だった。
日常の中で俺に接する彼女は、底抜けに明るく、眩しい笑顔を咲かせている。
「おはよう、大江君」
朝早く、教室でそう挨拶をされたときは
「お、おう……えっと、おはよう」
とだけ返し、次の言葉を探している間に、彼女はどこかへ行ってしまった。そのときは、教室の後ろにいつも飾られている花の水を入れ替えていたようだった。
また、昼休みに孝文と訪れた食堂で会ったときは
「あ、大江君。ここ、もうすぐ空くから、次どうぞ」
と言って、席を探す俺たちに場所を提供してくれたが、俺は
「お、おう……えっと、ありがと」
と返すだけで、友人と一緒に去っていく彼女を呼び止めることはできなかった。
まったく。俺って意外とシャイだったのかな。いや、この場合はヘタレっていうのか……。
思わずそんな感想を抱いて、自分で自分が情けなくなってしまうほどだ。
でも、冗談抜きで真面目に思案したとしても、やはり安易な気持ちでこちらから切り出せるような話ではない。それも明らかなのだ。
いつ何時も、彼女と同じ空間にあるときはチャンスを狙ったつもりでいるが、そのたびに俺の視界にダブる光景が邪魔をした。赤々とした夕陽の中、絶世の美しさを湛えてギターを奏でていたあの姿が、俺に、彼女には触れてはならないと脅しをかける。
だって彼女のその姿は、もし不用意に触れようものなら、途端に壊れてしまいそうなほど脆く、深く傷ついているように見えたから。大きな苦悩と悲壮を抱え、でも必死にそれを押し隠し、ギリギリのバランスの上に危うく成り立っているような存在。そんな風にさえ、思えたから。
まあ、率直に言って逃げてきたことになるわけだが……でも、あんな状況で鳴海と向かい合う心の準備は、到底できていなかった。出会ってまだ二週間も経っていないが、これまでずっと笑顔の彼女しか見たことがなかった俺にとって、あの光景はいささか、いや、かなり衝撃的だったのだ。
光の中、淑やかにギターを弾く彼女。凄絶なまでに美しい姿。でもだからこそ、その苦い表情がより印象的に刻まれて、この頭から離れない。
歩いて高校の最寄り駅まで向かう間、俺はまだ半分くらい惚けたように、あの瞬間を思い起こしていた。
そしてその記憶は、やはり同時に耳にした音楽を伴っている。
初めは、どうして少し聴いただけで、そんなにも覚えていたのか疑問だった。けれども、考えながら駅に着き、ぼんやりと電車に揺られているとき、俺はふと思い出したのだ。
鳴海が準備室で弾いていたメロディ。それは俺のよく知る、ある曲とまるっきり重なった。俺は過去、あの旋律を聴いたことがある。
テンポと曲調はどう考えたって全然違うが、リズムと音階は確かに同じ。昔耳にした、都心の駅前でのストリートライブと同じだった。
そして、一度それを認識してしまうと、俺の思考回りは早かった。準備室で鳴海がギターを弾いていて、弾いていた曲がライブの曲と同じということは……かつて、あのとき、あの場所で、演奏していたフードのギタリストのうちの一人が、鳴海玲奈と同一人物。そういうことに、ならないだろうか?
ああ、そうだ。その可能性は、十分にある。もちろん百パーセントと断定できるはずはないが、何となく確率は高い気がした。
では、もし本当にそうだったら、いったいどうだというのだろう。
俺は、あのストリートライブで聴くギターが好きだった。中でも鳴海が準備室で弾いていたのは、ダントツで一番に好きな曲だ。それは、昔駅を走り抜けていた頃に俺の心を躍らせ続けていた曲で……今聴いても、変わらずこの心は高揚する。
そうだ。だからつまり、どうだというのだろう。
少しずつ心がざわつき出す中で、俺は答えを求めて自分に問う。
すると意外にも、結論は瞬時に弾き出された。
俺の心は訴える。
もう一度、あの曲を聴きたい。
最初から最後まで、全部通してちゃんと聴きたい。
あのギターを、あの旋律を、あの音を……俺はもう一度、聴いてみたい。
そんな風に。
そしてこの日の夜、俺は結局、ベッドに入っても波立つ心を抑えきれず、上手く眠れないまま横になっていたら、次の日の朝が来てしまった。
翌日、学校に来た俺は、機会を見て鳴海にギターの話を持ちかけてみようと考えていた。彼女が一人で暇そうにしているときにでも、何気なさ、さりげなさを装って、上手い具合に問いかけてみようと考えていた。
しかし、いざそうしようと横目で彼女を追っていると、一つ問題が発生した。
いつまでもその好機がやってこないのだ。
気にしてみて初めてわかったことなのだが、彼女は学校では、常に何かをしてばかりだった。
そう例えば、クラス委員の仕事をしているとか、本を読んだり授業の予復習をしているとか、友人や先輩、先生と会話をしているとか。
特に三つ目に関しては、正直、驚愕以外の感想が浮かばなかった。
まだ入学して間もないのに、まるで彼女には、学校中のありとあらゆるところに知人がいるような錯覚に囚われた。
彼女の社交性は極めて高い。その上、美人で聡明となれば、そりゃあまあ容易に知人も増えるのかもしれないが……。
何だろう。友達百人作るとか、学校にいる人間全員と話すゲームとか、そんなことでもしているのだろうか。もしかしたら、先日俺に声をかけたのも、その行為の一環だったのかもしれない。
そういうわけで、とにもかくにも、鳴海は俺のように頬杖をついて外の景色をぼーっと眺めたり、何となくふらふらと校舎を歩き回ったりはしないらしいのだ。考えてみれば当たり前なのかもしれないが、俺にとって、それはかなり意外だった。
これでは話を持ち出しにくい。
それに、そうやって鳴海のことを気にしていて、俺はまた一つ、新たな問題を発見してしまった。
やはりというか何というか、鳴海は学校で何をするときも始終、人当たりの良さそうな表情を浮かべていたのだ。一人のときは穏やかそうに、人と話しているときは楽しそうに振る舞っている。一つ一つの挙動に余裕があって、まるでどこにも隙がない。三百六十度上下左右、どこから見ても、そこに綻びはあろうはずもなかった。
しかしそれゆえ、俺はそんな彼女に疑問を抱くことになる。
普段の彼女は、つまるところ完璧だ。あまりに隙がなさすぎる。容姿端麗、品行方正、非常に聡明で人望も厚く、いつも明るくて頼りになる。それが今の彼女に対する、俺を含めた周囲の人間の評価である。
では、それならば……先日の音楽準備室にいた鳴海玲奈は、いったい何だったのだろう。
夕陽の中でギターを抱き、何かに耐えているように苦しがっていた鳴海。見ていると、胸がぎゅっと締め付けられるような表情をしていた鳴海。涙を零していたようにさえ見えた鳴海。
彼女に伴う二つの印象は、比べてもまるで別人のそれでしかなく、イメージの乖離が極めて激しく、俺は迷わざるをえなかった。もしかしたら彼女の中には、二人の鳴海玲奈がいるのかもしれない。そんな風にさえ、思えてしまう。
だからだろうか、とてもではないがギターのこと、準備室でのことは、ふらりと尋ねてはいけないような気になってくる。
こうして俺は、とうとうその日は鳴海と言葉を交わすことなく家に帰った。帰宅の前に駄目元で音楽準備室まで足を運び、あまつさえ都心の駅に寄り道までしてみたが、何も得られるものはなかった。胸の中のもやもやした感覚は、何一つ解消されなかった。
そして結論から言えば、次の日もその次の日も、俺は彼女に話を切り出すことができなかった。
気になる気持ちはどんどん膨らんでいくのに、彼女を目の前にすると、どうしても身体が動かない。場合によっては向こうから話しかけてきてくれるなんてこともあったけれども、それでも話題を上手くギターの話に繋げられない始末だった。
日常の中で俺に接する彼女は、底抜けに明るく、眩しい笑顔を咲かせている。
「おはよう、大江君」
朝早く、教室でそう挨拶をされたときは
「お、おう……えっと、おはよう」
とだけ返し、次の言葉を探している間に、彼女はどこかへ行ってしまった。そのときは、教室の後ろにいつも飾られている花の水を入れ替えていたようだった。
また、昼休みに孝文と訪れた食堂で会ったときは
「あ、大江君。ここ、もうすぐ空くから、次どうぞ」
と言って、席を探す俺たちに場所を提供してくれたが、俺は
「お、おう……えっと、ありがと」
と返すだけで、友人と一緒に去っていく彼女を呼び止めることはできなかった。
まったく。俺って意外とシャイだったのかな。いや、この場合はヘタレっていうのか……。
思わずそんな感想を抱いて、自分で自分が情けなくなってしまうほどだ。
でも、冗談抜きで真面目に思案したとしても、やはり安易な気持ちでこちらから切り出せるような話ではない。それも明らかなのだ。
いつ何時も、彼女と同じ空間にあるときはチャンスを狙ったつもりでいるが、そのたびに俺の視界にダブる光景が邪魔をした。赤々とした夕陽の中、絶世の美しさを湛えてギターを奏でていたあの姿が、俺に、彼女には触れてはならないと脅しをかける。
だって彼女のその姿は、もし不用意に触れようものなら、途端に壊れてしまいそうなほど脆く、深く傷ついているように見えたから。大きな苦悩と悲壮を抱え、でも必死にそれを押し隠し、ギリギリのバランスの上に危うく成り立っているような存在。そんな風にさえ、思えたから。