ゆっくりと瞼を持ち上げる。すると、茶色い机と外の景色が目に入った。
 窓の向こう、すぐ近くには桜の木々が何本か植えられている。満開の時期は少し前に過ぎ去ったようで、今はもうほとんどが葉桜だ。育った緑が梢の先まで薄く広がり、散った花びらは地面に薄紅色の絨毯を作っている。
 今年は桜の散り時が早い。四月の二週目にして既にこんな調子。どこぞのやんちゃな鳥たちがここら一帯の桜の花弁を落として回ったのではないかと思うほど。それくらいに目に見えて、駆け足で季節は移ろうとしている。
 卒業、別れ、高校受験、そして入学。大きな節目は早々と過去の出来事となり、順応性の高い人間から、段々と新しい生活にも慣れていく。
 そんな中、俺の生活も、まあぼちぼちだ。息を詰まらせながら身を切る想いでサッカーと決別し、くしくも地元の公立高校に入学した俺は、一年生として新しく振り分けられた教室の机で惰眠を貪る。
 サッカーの朝練が日課だったせいで、どうしても朝早く目覚める癖が残っている。そのため遅刻とは無縁なほどの早朝に、余裕の登校を済ませる日々。しかしそんなに早く学校へ来たところですることもなく、結局は自席で寝るしか選択肢を持たない。昔とは違って虚無感から夜の寝付きが悪くなったこともあり、どうにも無為な時間潰しをしているのだ。
 そうしてしばらく誰もいない教室で寝ていると、次第に人が集まりだして話し声も増え、ホームルームが始まったところで俺はいつも目を覚ます。
 たまに嫌な夢を見るので、決してこういうルーチンを好んでいるわけではないのだが、如何せん変えようにも身体がなかなかついてこないのだ。
 ホームルームでは、眠りはしないが机に寄りかかりつつ、ただただボーッとして終わるのを待つ。最後列の席ゆえに先生の注意も受けにくい。出席をとるに際して、未だに覚えきれないクラスメイトの名前が呼ばれていくのを何となしに聞き流していると、いつの間にか先生からの連絡事項へと移っていた。
 なにぶん意識が半覚醒なため、内容が記憶に残ることはほとんどない。恒例のクラス委員や他の委員会、教科担当を決める雑事は先週にまとめて行われたし、そろそろ目新しいこともなくなってくる頃だろう。早くも退屈が俺の高校生を染め始めている。
 俺はぼんやりと頬杖をついて、風に揺れる桜の葉に視線を移した。
 だが今日はそのタイミングで、あるプリントが配られた。前の生徒から順々に回ってきたそれを何かと思って受け取ると、紙面には大きくこう書かれていた。
 部活動及び同好会所属申請用紙。
 そうか。そういえば、これについてはまだ決めていなかったか。
 表題に次いで下には、この学校における部活動と同好会について説明が書かれている。
 どうやら規則として、新入生は入学したこの時期に、必ずどこかの部活動か同好会に所属する義務があるようだ。これは学校側が、勉学だけではなくスポーツや文化的な活動にも力を注ぐべきという校風を掲げているかららしい。
 ただもちろん、選んだところが肌に合わなければ、あとから他に移ることもできるし、やめてしまうこともできる。大半の生徒は最初に選んだところに居着くそうだが、遊びや勉強のためにやめてしまったり、名前を残したまま幽霊部員になる生徒も少なくはないと耳にする。まあ、要は人それぞれなのだろう。
 ご丁寧に、プリントには既に存在する部活動と同好会がリストアップされていた。
 上から、オーケストラ部、声楽部、華道部、茶道部、書道部、演劇部、美術部、科学部など。
 これらは全て文化系の選択肢だ。その下に、運動系のものが続く。
 野球部、バスケットボール部、サッカー部、バレーボール部、テニス部、剣道部などなど。
 種類は多い。同好会まで含めればかなりの数がある。リストは紙の裏まで続いていた。
 一定の条件を満たせば、生徒の方から新しい部や会を立ち上げられるみたいだから、それも頷けるところであろう。
 ただ、リストアップの順番からも何となく伺い知れるが、この学校は文化系の活動により注力している傾向がある。部員も圧倒的に文化部の方が多いし、培われた成績のために待遇も良い。対して運動部は、少しばかり肩身の狭い想いをしているようだった。
 とまあ、そんなことを入学して数日でちらほら聞いたものだったが、正直なところ、俺にとっては別段関係のない話である。
 申請用紙を受け取って一瞬だけ心臓の鼓動が速まったが、高校では部活動をやるつもりはなかった。ちらりとサッカー部なんて文字が目に入るも、当然、入部することなんて考えていない。
 あの怪我からは、一年と少しが経った。しかし未だに左膝は負傷中で、思い切り走ったり、踏み込んだりすることはできないまま。体育の授業だって、満足にこなせないことがほとんどなのだ。それも今となっては受け入れたつもりでいるのだけれど、それでも……心の隅のかさぶたがわずかに疼く、ような気がする。
 俺がプリントから目を離すと、同時に先生の話が終わりを迎えた。最後に「では、これで朝のホームルームを終わります」と告げてその姿が消えると、教室はにわかに落ち着きのなさを取り戻した。
 新学期が始まってまだ日も浅い教室には、独特の空気が流れている。
 早くも会話に花を咲かせている集団もあれば、ぎこちなく友人関係を結ぼうと試みている人もいる。
 やがて彼らは教科書を抱え、時間に追われるようにして教室をあとにしていく。
 時間割を確認すると、一限の科目は理科だった。理科の授業は理科室だ。移動の必要がある。
 けれども、俺はそれを知ってなお、まだ席を立とうとは思えなかった。眠気はもう感じないけれど、少しばかり腰が重く、ついでに何だか気も重い。授業が始まるまでにはいくらか時間もあることだし、だから俺は、依然頬杖をついてじっとしていた。
 しばらくの間そうしていると、ふと近くに声を感じる。
「よっ! 大江!」
 自分の名前か呼ばれたので、少し驚きつつも声のした方へと振り向いた。すると、そこには二人の男子生徒が立っていた。
 そのうち一人は、確か東山といったはずだ。やや長身で、スポーツマンらしい体躯をしている。
「あのさ、俺とこいつ、サッカー部に入ろうと思うんだ。大江って、確かサッカー上手いんだよな?」
 彼は爽やかな笑顔を浮かべながら、隣にいるもう一人の生徒を指して言った。そっちの名前は……何だっけ。まだ覚えていない。
「なんつーか、やっぱ文化部は性に合わなくってさ。俺たちほとんど初心者だけど、たまたま気が合って。そんで、今日から仮入部もできるみたいだし、行ってみようってことになったんだ。よかったら大江も一緒に来ないか?」
「え、ああ……仮入部、ね」
 困った。まさかこの時期に、初対面のクラスメイトからこんな誘いを受けるとは、露とも思っていなかった。
 もしかしたらこの東山と隣の生徒は、非常に良い社交性をお持ちなのかもしれない。いや、俺だって、そんなに人と話すのが苦手というわけではないし、むしろ声をかけてもらって嬉しいという想いもあるが、しかしこの場合はまた別だった。
 なにぶん、話題がよろしくない。
 察するにこの二人は、サッカー選手としての俺の名を、どこかで耳にしたことがあるのだろう。それでこんな提案をしてきたのだと思う。
 でも、おそらく俺の怪我については知らないのだ。俺が高校でも、当たり前のようにサッカー部に入ると考えている。俺がサッカーをできなくなったことを知らない。そういうことだ。
「えっと……」
 だから俺は、苦笑いでそう呟く。
 できれば、快く声をかけてくれたクラスメイトの誘いを断りたくはない。しかしだからといって、冷やかしで仮入部をするつもりも、毛頭なかった。なまじサッカー関連では名が通ってしまっている分、余計にそんなことはしたくない。またしかし、だからといって、ここで彼らに怪我のことを話すのも気が乗らなかった。
 俺は曖昧な返答をしたまま、どうするべきか悩んでいた。
 と、そんなときだ。
 教室の前の方から、別の生徒が近づいてきた。
「おーい、東山君と日比野君!」
 割に小柄で中性的な顔立ちをしているが、彼も男子生徒である。俺の前に立つ二人に向かって、飛びつくようにその肩を叩き、随分と親しげに声をかける。
「君たち二人は、理科の教科担当でしょー! 授業のときは、先に理科室に行って準備をしなきゃ!」
 彼は二人の背中を押し、半ば強引に同行を促す。
 東山と、もう一人は日比野というそうだが、とにかく二人はその勢いに飲まれて「え? あ、あぁ」などと零しながら、彼に連れられていってしまった。
 そして去り際、突然現れた生徒は一瞬だけこちらへ視線を送り、へらっと笑顔を見せてから、俺を残して教室から出ていく。
「…………」
 その笑顔の意味を、俺はよくよく理解することができた。
 期せずして、俺は彼のおかげで気まずい状況から逃れられたように見えるが、実のところ、これはきっと偶然ではない。
 東山と日比野を連れていった彼は、俺の親しい友人だった。
 名前を、朝倉孝文という。
 中学時代、孝文は俺と同じくサッカー部に所属していた。ゆえに俺の怪我の事情も知っているのだ。
 彼はきっと、俺の内心を察して気を利かせてくれたのだろう。人当たりがよく、そういった配慮には長けている。
 優しいやつだ。俺がサッカーをできなくなってからも関係を気まずくしたりせずに、適度に励ましながら明るく接してくれている。高校になってからも同じクラスになることができて、変わらずその間柄は保たれていた。
 あいつはきっと、高校でもサッカー部に入るだろう。率直に言えば実力については及ばない部分が多く、中学校では卒業までずっと補欠だった。それでも本人はサッカーを好きでやっていたようで、練習で笑顔を絶やしたことはなかったと記憶している。そんな性格からか、部でのポジションは補欠もといムードメーカー。きっとそのうち上達するし、仮にそうでなくても上手くやっていけるだろう。
 一方で、問題なのは自分の方だ。
 もう教室にはほとんど人が残っていない。取り残され気味な俺はまた頬杖をつきながら、机上のプリントに目を落とした。
 所属申請用紙。その中のリストに、残念ながら帰宅部は含まれていない。
 新入生は最初、必ず一度は部もしくは会に所属するという決まりがある以上、この用紙は提出しなければならないのだろう。
 しかし俺には、所属を希望する宛などまったくなかった。全力で気乗りしないというのが正直なところの気持ちである。許されるのならば積極的に遠慮したい。
 仮入部も面倒といえば面倒だし、適当にどこかの同好会を書き殴って提出してしまおうかな、なんてことも思ったりするが……たとえば仮にそうしたとして、所属先に一度も顔を出さないというのはありなのだろうか。いや、これはこれで考えが姑息だろうか。
 でも、でもなぁ……。
 口からは無意識に溜息が漏れる。
 瞬間、にわかに窓から入り込んだ隙間風が、手元のプリントをふわりとさらった。
「あ」
 咄嗟に掴もうとしたが間に合わず、ひらひらと舞いながら音もなく床に着地する。
 俺は仕方なく回収のために腰を浮かせたが、すると思いがけず、それを拾い上げる白い手が目に入った。
「はい、大江君。落としたわよ」
 視線を上げると、優しいソプラノの声とともにプリントを差し出す女生徒が目の前に立っていた。
「あ、あぁ。わり、ありがと」
 俺はすぐに礼を言って受け取る。
 その女生徒には、見覚えがあった。まだ高校に入ってから出会った人の名前なんてろくに覚えていない俺だったが、しかし、彼女のことは知っていた。
 彼女の名前は、鳴海玲奈。
 先週、先生の推薦でクラスの委員長に就任した女の子だ。確か入学式では新入生代表の挨拶をしていたはずで、つまるところ入試トップの優等生。
 腰まで伸びる長く綺麗な黒髪を光らせ、淑やかな物腰と人当たりの良さが何とも際立つ、理知的な顔立ちの美人である。クラスの男子が早くも彼女のことで話を膨らませている光景を、何度か見たことがあるくらいだ。
 曰く、まるで天使か聖人のよう。
 そんな鳴海は、誰に対してもにこりと笑顔で接している。非常に大人びた分け隔てのない振る舞いで、入学してからこっち覇気もなく黙って目立たない俺相手でも、それは寸分の狂いなく同様だ。
「大江君、ホームルームの間、ずっとボーッとしてたでしょう」
「えっ? ……えーと、まあ……」
 意外なことを指摘されて、俺は少し戸惑った。委員長よろしく、不真面目な態度を注意しようということだろうか。その割には、随分と笑顔が眩しい気もするが。
「その申請用紙、書けたら私に提出してね。私がクラスのみんなの分をまとめて、先生に渡すことになっているから……って連絡を、ホームルームで言っていたんだけど、大江君、聞いてなさそうだなーって思って」
 彼女はそう言って、ふふっと笑みを零して見せた。
「そ、そうなのか。うん、聞いてなかったよ。ごめん。それは委員長の仕事なのか?」
「そんなところね。特に期限はないけれど、でもたぶん、決めるのは早い方がいいわ。だいたいみんな、二週間くらいで決めるみたい。学校祭もあることだしね」
「……二週間、か」
 提示された期間を、俺は声に出して呟いた。
 実際、見学や仮入部が頻繁に行われるのも、それくらいの期間らしい。
 ほとんどの生徒は四月いっぱいで所属先を決め、五月から正式なメンバーとして活動に参加する。というのも、六月の初めには学校祭が控えていて、どの部活や同好会も、そこで何かしらの出し物をするからだ。
 学校祭とは、つまるところ文化祭であって、うちの高校では秋ではなく春に行われる。
 五月の間、普段の活動と並行して行われる準備活動に、新たな仲間である一年生も参加するのだ。その時間を通して早々とコミュニティの雰囲気に慣れ、上級生や同級生との絆を深める。学校側としては、そうした意図があるのだろう。
 そしてもちろん、これは部活や同好会だけでなくクラスでも同様である。各クラスでも学校祭の出し物を準備するし、そのための時間も設けられ、クラスメイトとも親しくなる。
 ゆえに何にしても、五月に入れば新入生とはいえ忙しくなるのは避けられない。だから、自分の居場所はできる限り早く決めておくに越したことはない。鳴海の言う「期限はないけど早い方がいい」というのはそういうことだ。
 今からの二週間は、高校生活における最初の大きな選択の時間。長いようで、俺にとっては少し短い気がしてしまう。
「じっくり考えないとね。薔薇色の高校生活の、第一歩だもの」
 鳴海は穏やかにそう言うと、くるりときびすを返して歩き出す。そして自分の席に立ち寄り、教科書と筆記用具を胸に抱えてから教室の出口に立った。
「じゃあ、私、一限の前に職員室に用があるから、もう行くわね。大江君も、早く理科室に向かわないと授業に遅れちゃうわよ」
 黒髪が艶やかな残り香を散らして舞い、鳴海の姿は消えていく。
 彼女が去ってしまったあと、教室を見るとついに俺は一人だけになっていた。
 俺は喉元にくすぶっていた二つ目の溜息を今更のように口から吐くと、机の中にプリントを押し込み、代わりに理科の教科書を引っ張り出して教室から出た。