まさか千種に二度も馬鹿認定を受けるなんて、いったいどういうことだ畜生。
 傷ついた。思いの外傷ついた。一人で盛り上がって先走った発言に対する見事なクリティカルカウンターだった。
 しかしまあ、それはともかく、日中に練習することに関しては千種も賛成してくれた。
 一応の処置として、俺は孝文に連絡をしておく。さすがにギターの練習をするから学校を休むなんて安易に言えたことではないし、だから先生には、彼の口から病欠とでも伝えてもらおうという腹積もりだ。これで家に連絡がいくのを、少しは先延ばしにできるだろう。
『え、何? 五月病でも発症したの?』
 ところが電話口の孝文は、俺の頼みを聞くなり笑いながらそう返した。如何せん付き合いが長いだけはある。おおよそサボリであることは見抜かれたらしい。
「お、おまっ……ちげーよ風邪だよ!」
『すごいねー! 時期ぴったりだねー!』
「いや、あの……孝文君? だから風邪……」
『ていうか、ぴったりすぎるよね。あんまりぴったりだと逆に疑わしいから、六月病とかにしとこうか?』
「聞けよ!」
 まあ確かに、新しい環境に適応できない鬱屈が出始めるのが基本的に五月くらい。だから人によっては六月とかでもいいわけだ。むしろその方がよりリアリティがある気がする。うるせーよ。
『あっははは。そもそもそんなに元気だと五月病すら疑わしいけど……ま、いいよ。口裏は合わせておく』
「だから五月病じゃな……」
『大丈夫大丈夫。僕、空より嘘は上手いつもりだから。じゃあ頑張ってね』
 聞き捨てならない台詞を最後に残すと、孝文は勝手に通話を切ってしまった。
 いまいちやりとりが噛み合ってない気もしたが、とりあえず根回しは完了した……のか? まあ、何もしないよりは幾分マシだろう。
 そして今日も、俺は千種の家を訪れる。
 インターホンを鳴らすと扉がわずかに開かれて、千種の顔だけが中からにゅっと現れた。
「……大江、来るの早すぎ」
 驚いたことに、目の前の彼女はまだパジャマ姿だった。薄手の可愛らしい部屋着が微妙にはだけて、髪の毛は若干ボサついている。
 こいつ、まさか……。
「……お前、さっきまで寝てたろ」
「だって、休みだし」
「休みではねぇよ」
 今日はれっきとした月曜日。紛れもない国民の平日だ。カレンダーにもそう書いてある。
「本当ならもう学校で机に座ってる時間なんだぞ」
 現在進行形で学校をサボっている俺が言っても説得力なんてないだろうが、しかし今の時刻は九時半である。確かに土日よりは早く来た。それでも特に早朝というわけではない。俺の早起き癖を差し引いても、さすがにもう起きていてほしい時間だろう。
「……眠い」
「頼む、しっかりしろ千種。だいたいお前、そんな格好で出てくるやつがあるかよ」
 話しているこの瞬間も、千種はふらついていて眠そうだ。あまりに無防備でパジャマの前のボタンが取れかかっているし、よく見たらズボンも地面にずっている。彼女の小さすぎる身体とか白い肌とか……おい、なんか危うく色々見え……。
「……眠い。勝手に入って練習して」
「ふ、ざ、け、ん、な!」
 俺はすんでのところで彼女の服装を襟元から直し、ズボンを捲ってやって中に入った。怠そうに丸まった背中を押してリビングへ向かう。
「お邪魔します!」
「邪魔だから帰って」
 そうはいくか。
「ほらほら、今日も楽しく練習だぜー」
「……大江の練習でしょ。一人でやってよ」
「い、いやいや、千種が教えてくれた方が、一千倍上手くなるんだよ」
「ゼロに千かけても万かけても同じだよ」
 んだとこのやろう! なんてこと言いやがる!
 いや、いやいや、落ち着け俺。俺だって少しずつ上手くなっているんだから。
 こんな言い合いをしていてもまったく無駄なので、俺は無理矢理に話を逸らす。
「てか千種の親は?」
「……仕事」
「二人とも?」
 千種はぶすっとしつつも、少ししてこくんと頷いた。
 なるほど。土日も千種の両親は不在だったが、どうやら今日も彼女と二人きりらしい。
 さすがにあのパジャマ姿は俺の気が散って仕方がないので、説得して部屋で着替えてもらった。緩く光の射し込むリビングの窓際、二人してギターを抱え、フローリングの上にあぐらをかく。
「目、覚めたか?」
「……大江がうるさいからね」
 ……まあ、今はそれでもいっこうに構わない。
「んでさ千種、とりあえず譜面を見ながら順番に音を出していってみたんだけど……」
 そうやって、俺たちはこの日も練習を始めた。
 しかし、である。
 ここ数日で、俺には段々とわかってきたことがあった。千種との練習は、あまり平穏には進まないということだ。
 彼女の言うことはよくわからない。わからないということが、ようやく俺にはわかってきた。
 それはきっと、俺に音楽の素養がないとか、断じてそういう問題ではない。初歩的なことならいざ知らず、複雑なこととなると、彼女の説明はいよいよ意味不明の極地なのだ。
 教えるなんて絶対無理だと、自分で言っていただけのことはある。本当に予想以上だった。たぶん千種は、俺から見ても人に教えるのがものすごく下手だ。それはもう、超が付くほど滅茶苦茶下手だ。
 たとえば、複数の弦を指で押さえながら出す和音をコードというらしいが、演奏の中で素早くこれを切り替えてしっかりと音を出すのが難しい。何かコツみたいなものはないかと尋ねたら、こんな風に返ってくるのだ。
「そこはこうやるの。こう!」
 千種は実際にギターを弾いて、俺に指の動きを見せる。彼女の教え方は基本的に、見せて真似させるということだけ。それ以外にはほとんど有益な情報がないと言っても過言ではない。
「えーっと、こう?」
「そうじゃない! もっとこう、シュッて!」
「しゅって何だよ」
「シュッって言ったらシュッなんだよ! シュッてやるの!」
「手首か? 手首がポイントか?」
「いいから何回もやるんだよ! ほら! シュッ! シュッ! シュッ! シュッ!」
「頼むから俺と会話して!」
 何だろうこの、シュッに対する絶対的信頼は……。
 凄まじいまでの擬音語ユーザーだ。こういった人種が現実にいることは知っていたが、彼女はどうやら、それの最たる存在らしい。
 彼女は身振り手振りで何とか自分の感覚を伝えようとする。しかし当然、俺には微塵も理解できはしない。
「大江のはなんか、動きがヘだ~っとしてるんだよ」
「また新しいのが増えたな……へだ~って……」
「そんなにへだ~って指動かしたら変な音出るのは当たり前なの。シュッってやんないと」
 確かに、俺が弾いても鈍いおかしな音が混ざってしまうが、千種が弾くと憎たらしいくらい澄んだ素晴らしい音が響く。何がいったいどうなってやがるのか。何度繰り返しやらせても、彼女のギターは綺麗に鳴る。
「あーもうっ! しゅっもへだ~もわかんねぇよ! こうかちくしょうっ!」
「あ! そう、それ! それだよ!」
 俺がヤケになってもう一度弾くと、今度は千種が食いつくように反応する。なるほど、今はまさしくいい音が出た。
 いったいさっきと何が違うんだ……。
 謎は深まるばかりである。
 しかし感覚は覚えたぞ。
「よくわかんねぇけど、こうか! ならここの部分も、こうか!」
 そして俺は調子に乗って、別のコードの切り替えにも果敢に挑戦。
「ちがーう! そこはシュッ! じゃなくて、シャッ! ってやるんだよ!」
「おいっ! しゅっとしゃっはどうちげーんだよ!」
 シュッへの絶対的信頼はどこへいった。
 お願いだ千種。日本語で説明してくれ。ここは日本だ。千種国ではない。
「何でわかんないかなぁ……」
「んなもんわかるわけねぇだろ……どんだけ本能で生きてんだよ……」
「大江に言われたくないよ。いきなり駅にきてギター教えてくれって叫んだり、自分も学校休むとか言ったり……そっちも十分、脊髄反射で生きんじゃん」
「あ、あれは……なんかこう、うぉーってなったんだよ!」
「…………」
 あ、あれ? 伝わらないのか? 何言ってんだこいつみたいな目で見られたぞ。
 ま、まあ、ここは日本であって大江国でないのも確かである。
 こんな具合に、俺と千種のギター練習は困難を極めた。
 互いのコミュニケーションもさることながら、やはりこの楽器は俺にとってあまりに新感覚。サビだけというものの数十秒程度の演奏でも、なかなかどうしてそう簡単には上手くいかない。
 毎日とことんギターを弾いて、目覚めてから寝入るまで演奏のことを考え、千種と鳴海の作った曲を頭の中に流し続ける。それでも上達は一進一退、二進一退。楽譜や楽器といつもいつも睨めっこで、日々は消化されていく。
 曲がりなりにも金曜日には形にすることが目標なので、水曜あたりから千種と合わせての演奏も試し始めた。リードギターとリズムギターが重なって、やっと一つの曲になる。その感触を初めて自分の演奏で味わったときには、やはり心が踊ったものだ。
 しかし、今まで自分の出す音だけだったところに他の音まで混ざってくると、演奏の難易度が上がることも認識する。ただでさえ俺はまだコードを間違えるのに、さらに千種からは音の強弱やテンポのことまで口を出されて、いよいよ脳がパンクしそうだ。
 同時に演奏していても、俺は自分のことで手一杯。視線はずっと自分の手元で、千種の音を気にする余裕なんてほとんどない。
 一方、千種は練習中、ずっと俺の指の動きを見ていて、なのに自分の演奏は完璧だ。しっかりと俺の出す音まで聴き分けられているようで、上手になるとそんな芸当も可能なのだろうかと、内心感嘆してしまう。
 飛び出る指摘は相も変わらず奇々怪々で辛辣だが、何だかんだで木曜日を迎え、鳴海へのお披露目を明日に控えるまでに至る。
「大江、今の駄目。変な音出てた。迷って弾くからぼわっとした変な音になるんだよ。ちゃんと弦、抑えないと」
 練習の中で千種が言う。とりあえず千種語には何とか慣れた。
「お、おう。わかった。けどなぁ、指がいってーなぁ、これ」
「絆創膏貼ってるじゃん」
「それでも痛いもんは痛いんだよ。千種はよく平気だな」
 近頃、気づけば俺の指は弦に負けて切れ気味だ。どうやらこれも、初心者が一度は通る道らしい。
「私はもう、指の皮厚くなっちゃったし。いいから、ほら、もう一回いくよ」
「へぇーい」
 と、そんなときだった。
 バツンッ!
 俺が再び弦を弾くと、途端に激しい音が辺りに響いた。
「うおっ! 何だ!?」
 一瞬、何が起こったのかわからなかったが、手元を見ると異変に気づく。弾いていたギターの弦が切れたのだ。
 俺と千種は二人して同時に「あ」と零す。
「……ぅ、うお――! こ、ここ、壊れたぞっ! どうしよ千種!」
 立ち上がってあたふたと叫ぶ俺の横で、千種は煩わしそうに耳を塞ぐ。呆れた顔をして、やがてゆっくりと口を開いた。
「うるさいよ大江。別に大丈夫、壊れてないから」
「いや! でもっ! ほら、弦が! ギターって弦五本でも弾けるのか? 今からの練習……いや、明日は大丈夫なのか!?」
「落ち着いて。だから大丈夫なんだって。弦はたまに切れることがあるの。明日が大丈夫かどうかは、大江の出来次第だよ」
 千種は自分のギターを持って立ち上がると、おもむろに俺の袖口を掴んで歩き出す。そしてリビングを出て、階段を上った。
「お、おい。どこ行くんだよ」
「部屋」
「部屋って、もしかして千種の部屋か?」
 千種は振り返って「当たり前でしょ」とでも言いたげにこくんと頷いた。
 ……え? 何でいきなり千種の部屋?
 俺は疑問に思ったが、とりあえず引っ張られて歩いていく。二階の端にある一室がどうやら彼女の部屋のようで、躊躇なく扉を開ける彼女に続いて俺も中に踏み入った。
 この千種の性格だ。自室なんてそりゃあもう、いったいどんな秘境魔境なのだろうかと想像したが、結論から言うと、案外印象は普通だった。
 四角い間取りに南向きの窓。無地のカーテン、ベッド、テーブル。普通というか、むしろ女の子の部屋としてはかなり質素な方だろう。
 部屋を眺める俺をよそに、千種は真っ先に壁のクローゼットを開けて俺を呼びつける。
「こっち」
 初めて部屋を訪れた異性相手に、入室十秒でクローゼット大解放。ものすごくアグレッシブなアピールだなとは思ったが、その中身を見て、俺はようやくここに連れてこられた意味を理解した。
「お、ギターがある」
 ハンガーにかけて収納された衣類の下、様々な棚や箱と一緒に、ギターやピック、ケースやスタンドといったものが見受けられる。ギターは二つで、両方とも色は黒だった。
 彼女はそのうち一つを手にとって外に出した。さらにいくつか小物を取り出し、俺の手に握らせてくる。
「弦は、張り替えれば問題ない。でも、それはちょっと時間かかるから、また今度にする。とりあえず今は切れた弦だけ取り外して」
 渡されたものは布とニッパー。これを使えということだろうか。
 それから千種はクローゼットを閉めると、テーブルを隅に寄せて床に座り込んだ。自分の持っていたギターは横に置いて、さきほどクローゼットから取り出した方のギターを抱えている。
「これ、貸す。ちょっと古いやつだけど、大江が弦の処理してる間に、チューニングしてみるから」
 千種は自分の座った前の床をぽんぽんと叩いて俺を促す。指示通り彼女に向かい合うようにして座ると、目の前ではもう素知らぬ顔で作業が開始されていた。楽器の先のねじのような部分――ペグを回しながら、音の調整をしているようだ。へぇ、チューニングってそうやるのか。
 一方俺は、ギターを傷つけないよう丁寧に切れた弦を取り外す。しかし、少しすると俺の作業は終わってしまって、千種のチューニングをただ凝視する姿勢に落ち着いた。まあ、たった一本の弦を取り外すだけよりも、チューニングの方がよほど繊細な作業なのだろう。
 弦を弾いては響く音を確認し、ペグを回してはまた弦を弾く。張り具合を調節して、意図した音程が出るようにしているらしい。たまにコードなんかを奏でたりして、千種の白くて小さな手が緩やかに動き回り、一定の間隔で澄んだ音を鳴らすその様子は、見ていて何だか心地が良かった。
 しばらく無言の時間が続き、揺れる弦の残像を無意識に目で追っていた。
 そんな中、ふと俺は彼女に尋ねてみたくなる。
「なあ、千種のギターって、全部同じ黒色だよな。何かこだわりでもあったりすんのか?」
「…………」
「アコースティックギターって、普通茶色だろ? 学校においてあるやつは全部そうだし、雑誌やテレビで見るのも、だいたいさ」
 実はこれは、少し前から気になっていたことだ。俺が今まで見たことのあるアコースティックギターというものは、茶色か、あるいは肌色などの暖色系が多かった。まあ正確には、昨今取り上げられている唯花関連の話でなければ、なのだけれど。
 とにかく、なぜ千種のギターはこうも全部が黒なのだろう?
 記憶を遡れば、俺が魅かれた千種と鳴海のストリートライブは、黒と白のギターがよく映えていたものだ。
 とすると、鳴海は白のギターを所持していることになる。でもだからって、千種みたいにこんなに一途に、白のギターばかり持っているのか?
 俺の質問に、やや間をおいて、彼女は答えた。
「……私が初めてギターを買ったときは、玲奈と一緒だったの。二人でお揃いを買ったんだ。そのとき黒いのを選んでから、私はずっと同じ色」
「お揃い?」
「うん、モデルがね。だから私は、ずっと同じシリーズを使ってるんだ。まあ、もともとかなり売れてるモデルだったし、持ってる人も結構いるとは思うけど」
「そういうもんなのか。でも黒と白で同じモデルなんて、なんかペアルックみたいだな」
 この場合はペアギターとでも呼ぶべきだろうか。
 過去、彼女たちのやっていた駅前のストリートライブにおいて、印象的なモノクロのギターは傑出した演奏と合わせて通行人の目をよく集める要因の一つだった。しかし、彼女たちにとっては、そんなものただの副産物に過ぎなかったのかもしれない。
「じゃあ千種が白いピックを使ってて、鳴海が黒いピックを使ってたのは……」
「あぁ、玲奈のピック、見たんだ。あれはね……昔、交換したんだよ」
 始めた頃からお揃いだった互いのギター。そしてピック。
 ただのお遊びでも陳腐な戯れでも、それは彼女たちにとって目に見える確かな繋がり。きっと様々な記憶が、感情が、願いが込められているのだろう。
 思えば鳴海は、俺にギターを聴かせてくれたとき、生徒手帳から黒いピックを取り出していた。肌身離さず宝物のように持っていたそのピックは、どう考えたって千種のものだ。
 千種だって、今まさに目の前で、白い鳴海のピックを使っている。
 彼女たちは、今もまだ繋がっている。
「千種と鳴海が知り合ったのは、千種の母さんがやってるヴァイオリン教室なんだってな。もしかしてギターとヴァイオリンの二刀流だったのか?」
「……二刀流って、別に同時に弾くわけじゃないけどね。玲奈のお母さんのヴァイオリン教室は、近くの公民館を借りてやってるんだ。公民館には色んな楽器がおいてあって、そこで私は初めてギターに触った。レッスンの待ち時間の、お遊戯みたいなもので……玲奈が誘ってくれたの」
「お遊戯って、それ、いつの話だ?」
「幼稚園の頃かな、年中さんの」
 幼稚園の年中……となると十年以上前の話か。幼馴染みだとは聞いていたが、実際に数字が出ると具体性が増すものだ。随分と長い付き合いらしい。
 加えて今の情報によると、鳴海もこの辺に住んでいると考えるのが普通である。
「私と玲奈、同じ幼稚園だったんだ。中でも玲奈のお母さんのヴァイオリン教室に通ってる子は結構いて、私もその一人だったんだよ。玲奈はみんなと仲がよかったから、私に声をかけてくれたのも、たぶん特に意図はなかったんだろうけど……何て言うの、平等精神的な」
 平等精神、ねぇ……。まあ確かに、今の鳴海を見る限りでは、そういった博愛主義的な行動も想像できる。自ら猫を被っているなんて言っていたものだが、意図的であろうとそうでなかろうと、彼女が人付き合いに長けているのは事実だろう。幼い頃から対人関係に気が回る性格だったと言われても無理はない。
 いや、しかし……平等精神なんて、幼稚園児が考えることだろうか? いくら何でもませすぎだろ。
「でも、私は嬉しかったんだ。私、あの頃から友達いなかったし……玲奈が初めてだった。今も、玲奈以外いないけど……」
「友達……作らなかったのか?」
「作れなかったの! 私は、玲奈みたく誰ともすぐ笑顔で話すなんて、できないもん。あんなに優しく綺麗に完璧に、他人に対して振る舞えない。玲奈みたいな人気者になんて、逆立ちしたってなれないんだよ。大江も、人と話すの得意でしょ。どうせ大江にだってわかんないよ、こんな気持ち」
「いや、別に俺は……得意ってほどじゃ」
 俺の言葉に千種は唇を尖らせる。
 鳴海みたいに……か。
 言わずもがな、鳴海はどんなコミュニティにおいても、その中心に立つことのできる人間だろう。現に今、入学したての高校においても既に結構な人望を集めている。
 対して千種があまり人付き合いを得意としないのは、ここまで一緒にいて、だいたいわかっていた。
 皮肉なことに、そんな千種は歌手として全国的に有名で、おそらく知らない人を数えた方が手っ取り早いくらいの人気者だというのは事実だが……千種が気にしているのはそういう話ではないのだろう。
「でも、いいんだ。私は玲奈だけでいい。玲奈さえいればそれでいいって思ってたし……今でも、そう思ってる」
 ……ものすごく極端な思考だとは思うが今は何も言うまい。
「鳴海とギターを弾くようになったのは、色々楽器を触ってるうちに、ヴァイオリンからギターに比重が移った……みたいな感じか」
「うん。たぶん理由は色々あってさ。テレビで見た人に憧れたとか、二人で一緒に弾くのが楽しかったとか……。最初は玲奈も楽しそうに弾いてくれてたんだよ。玲奈は丁寧に教えてくれたし、あの頃の私は、玲奈と一緒にいたくてギターをやっていたんだと思う」
「……夢っていうのは?」
「二人で真剣に弾くようになって、曲も作って、駅で弾いてみたりもして……そうやって、いつか二人で弾くギターがみんなに認められたらいいねって、玲奈は言ってた。スカウトされてプロになった人も、今までにたくさんいるから」
 なるほど。それが以前に鳴海が言っていた夢、か。
 確かに地方で活動していたバンドグループがスカウトされてメジャーデビューなんて話は、そんなに聞かない話でもない。
 ……というか。
「千種だってそうだったんだろ?」
「……」
 千種だってこの街からスカウトされて、唯花となった。だからこそ鳴海は、夢は千種が一人で叶えたと、そう言ったのだろう。
「本当は二人でデビューするはずだったんだけどな……」
 そのあたりの経緯は、鳴海からも少し聞いた。これに関しても、たぶん理由は色々あったのだと思う。俺は鳴海と千種、双方の心境を想像して口を噤んだ。
 二人の音楽に対する気持ちは、決して軽々しいものではない。互いに身を削るほどの強い想いを抱いている。ゆえに譲れないことも、許せないこともあるはずだ。
 部屋にはまた沈黙が降りて、ギターの音だけが単調に響く。
 しばらくすると、今度は千種の方から口を開いた。チューニングを続けながら、彼女は俯き気味に力なく零す。
「ねぇ大江……こんなことして、本当に意味あんの?」
「こんなことって?」
「大江がわざわざ学校休んでうちまできて、ギターの練習なんかして、玲奈に聴かせて……そんなことして、本当にもう一度、玲奈と弾けるのかな。今のこの行為って、本当に意味のあることなのかな」
 俺は小さく溜息をついた。
 本当ならこの質問は、もっと早くにされていてもおかしくなかった。もしかしたら、千種はこれまで、尋ねるのを躊躇っていたのかもしれない。
 もちろん俺は未来予知ができるわけでもないし、自分で言い出しておいて情けないが、不安もある。
 それでも、俺は静かに強く、言葉を返した。
「……意味はある」
 彼女は気休めを求めているわけではないだろう。俺だってそんなつもりは微塵もない。
 だから答える。繰り返し俺は答えるのだ。
 ただ、信じて。
「意味はある。俺は別に、惰性でやってるわけじゃないんだ。ちゃんと鳴海を引き戻すために……そのためにやってる」
 鳴海はあんなにも激しく真剣に、本気になって憤った。だから――だからこそ、まだあいつを音楽に引き戻すことは、できるはずだ。鳴海はまだ、その気になれば戻ってくることができる。もうサッカーに戻れない俺とは違って、まだ夢を追うことを、許されている。
「あのさ、千種。鳴海の心の中には、まだちゃんと、ギターと千種が住んでるよ。きっと揺るがないほどに大きく、鳴海の心を占めている。大丈夫。何も心配しなくていい」
「どうして、大江がそんなこと……」
「わかるよ」
 そう、俺にはわかる。一度でも大好きなものから離れたことがあるのなら、その苦しみを知っているのならば――そして、戻りたいと思う心を押し殺したことがあるのならば、わかるはずだ。
「明日、俺が証明してみせる。千種だって、曲がりなりにも俺のことを信じたから、ギターを教えてくれたんだろ? 俺、頑張るからさ」
 明日、俺は千種と二人でギターを弾く。それを鳴海に見せつける。
 彼女は音楽なんてもう嫌いだと言っていたけれど、本当のところはどうだろう? 俺たちを見て、どう思うだろう? かつて自分のいた千種の横で、自分の作った曲を弾く俺の姿を見て、どう思うだろう?
 ああ、きっと、たまらない気持ちを抱くはずだ。憎くて羨ましくて懐かしくて、痛いくらいに胸躍る。悔しくて惹かれて嫉ましくて、いても立ってもいられなくなるはずだ。
 自分が心の底から懸けていたものを不意に目の前にしたら、想いは理性の枷を振り払って奔流する。
 そうしたら今度こそ、鳴海の本当の気持ちが聞けるのだと思う。俺はそう思う。
 千種は俺の言葉に静かに頷くと、ぎこちなく、けれど穏やかに微笑んだ。優しくて儚げで、不器用な印象を与えるその笑顔。俺の知る初めての、千種の笑顔だった。
 やがて彼女はおずおずと、チューニングを終えたらしき黒いギターを差し出した。
 そして、そのときだ。俺は目の前にあるそれを受け取って、咄嗟にあることを思いついた。
 いや、思いついてしまった、と言った方があるいは適切かもしれない。これはそれくらいに、意地の悪い思いつき。
 でも間違いなく、鳴海をいっそうかき立てるのに一役買うだろう、ジャストアイディア。明日の鳴海への演奏をより効果的にするための、趣向を凝らしたスパイスだ。
 気づくと手に持った黒いギターの艶めいた表面に、自分の顔が映っていた。漏れ出る邪な笑みが抑えきれずに、口元の引き上がった俺の顔。その目と見つめ合ってから、俺はポケットの携帯に手を伸ばした。
 不思議そうな表情をする千種を前に、はやる想いでコールする。