雨で冷え始めた空気の中、上気した頭では上手く身体を制御できず、ほぼ全力疾走で俺は駆けた。
 左膝が悲鳴を上げている。踏み込むたび、床を蹴るたびに嫌な感覚が身体に走る。痛いはずなのに、でも足が止まらない。速度を落とさず、とにかく前に進んでいく。
 特別教室棟の奥へと消えた千種の姿は、すぐ近くには見られなかった。だいぶショックの大きい顔をしていたし、闇雲に走っていってしまったのだろう。方向からして教室に戻ったとも思えない。どこかに一人でいるはずだ。
 もしかしたら……いや、もしかしなくても、泣いているかもしれない。
 まさか鳴海が、千種に対してあんなにも強く当たるなんて思ってもみなかった。二つ返事の承諾は無理でも、俺が一方的に頼むよりはいくらか揺れるだろうしマシだと思った。
 でも違った。大間違いだった。甘い目測で動いたのがこのザマだ。俺は鳴海にだけでなく、千種に対しても悪いことをした。ひどく軽率だったのだ。
 ただそれでも、今は千種を捜すのが先だ。弁明も後悔も、あとで好きなだけしたらいい。
 校舎一階の廊下と教室、どこを探しても千種はいない。ならば階段で上へ行ったのかもしれない。
 とっくに授業は始まっている。二階には使われている部屋もあるので、そこにいる教師や生徒に見つからないよう気を払いながら先を急ぐ。
 一階と同じく二階も、行けるところの全てを確認して千種がいないとわかると、俺は吹き出てきた汗と膝の痛みを無視して三階へ上がった。
「はぁ……はぁ……」
 真剣に走ったのなんて、思えばいつぶりなのだろう。随分と息切れが激しい。手すりや壁を伝いながら何とか進む。もはや体力は、サッカーをしていた頃と比べるべくもない。
 空いた部屋を調べながら廊下を進むと、角を曲がったところで千種の背中が視界に入った。壁に片手をかけながら、床にしゃがみ込んでいる。
「うっ……あぁ、うっ……っ」
 やはり泣いているようだ。
 俺は一回だけ深呼吸をしてゆっくりと近づく。驚かせないように、わざと足音を立てて。
「千種……その、ごめん……」
 千種はすぐには振り向かなかった。より深くその背中を曲げ、しゃがむというよりはうずくまるような格好でいる。
 不審に思ってやや駆け足で彼女のもとへ急ぐと、耳には不規則な掠れた息遣いが届いた。
「……れ、玲奈、ぁ……。あっ……う、ぁ……」
 浅い呼吸に混じってうわごとのような声を漏らし、辛そうに繰り返し喘いでいる。
 そこで俺は彼女の異常に気づく。
「ど、どうしたんだ!?」
 肩に手を添えて呼びかけるが、答えはない。かわりに倒れ込むようにして、彼女は俺にもたれかかってきた。
「はっ……う……れっあぁ……」
「お、おい! 千種!」
 ほとんど意識を失う寸前。上手く呼吸ができていない。
 これは……そう、過呼吸だ!
 やけに呼吸が速くなって息苦しく、胸が押さえつけられるように痛むあの症状。
 中学の部活の練習でチームメイトがなっているのを見たことがあるし、俺自身も一回だけ経験がある。目の前の千種は、まさにそれだ。
 彼女を抱き抱えながら、俺は混乱する頭でどうするべきか考える。過呼吸への対処法……当時、自分がどうしてもらったか。
 そして、ハッとして思い出すと、俺はすぐに自分の制服の上着を脱いだ。丸めて袋のようにして千種の口にあてがう。
「千種! とにかくこれ持て! 自分の吐いた息を吸うんだ! ゆっくりだぞ!」
 なぜだか知らないがこうするといいらしい。俺のときは紙袋でそうしてもらった。急場凌ぎくらいにはなるはずだ。
 彼女は覚束ない手で俺の上着を持つ。
 しばらくして状態が多少落ち着くと、俺は彼女を背負って保健室に連れていった。
 彼女はとても軽かった。幼い子供のような体躯に相応の質量のなさ。女性だからというよりは、放っておいたら空気に溶けて消えてしまいそうな儚さゆえに、それを感じた。
 背中から聞こえる細い泣き声は弱々しい。聞いていると、どうしようもない気持ちばかりがわいてきて、俺まで一緒に泣き出しそうになるのを、奥歯を噛みしめて我慢した。
 保健室の先生は駆け込んできた俺を見て少し驚いたようだが、落ち着いて対処をしてくれた。薄化粧の顔が、闊達な表情を形作る。
 千種の症状はやはり過呼吸で、どうやら突発的なストレス性のものらしい。
 先生はベッドを用意し、そこに千種を横たえる。授業中だったにも関わらず事情を尋ねてこなかったのは、おそらく俺への配慮なのだろう。実際、こちらとしてはありがたかった。
「あとは私が処置しておくから、君は授業に戻りなさい」
 ベッドのカーテンをカシャっと閉め、先生は言う。
「あ、あの……でも、俺も何か……」
「服を脱がせて汗を拭くんだぞ? だとしても君は手伝うか?」
「あ、いえ……それは、ちょっと」
「だろう? 大丈夫さ。過呼吸で死ぬことはないし、もうかなり落ち着いている」
 先生の声は穏やかだった。
「そこのタオルを使っていいから、君も汗を拭いておくんだな。上着は……この子が手放しそうにないから、薄着で風邪を引かないように注意しなさい。放課後になったら、また様子を見に来ればいい」
「……はい」
 俺は言われた通り、大人しく授業に戻った。
 左膝に熱がこもって、身体中に疲労が充満していた。それに、大丈夫と言われはしたが、それでも千種のことは心配だ。教室にいたらいたで鳴海のことも気にかかるし、とても授業なんて頭に入ってこない。
 俺は結局、上の空で午後の授業を全部受け流し、放課後になってから再び保健室を訪れた。
「失礼します」と言って扉を開けたところで、出てくる先生とすれ違う。
「ああ、君か。ちょうどよかった。しばらく留守を頼まれてくれるかな」
「え? は、はぁ……先生は?」
「私はちょっと、燃料補給だ」
 そう言って先生は、唇に人差し指と中指を添える独特の仕草を見せた。
「……マジすか」
 煙草? それって煙草? もしかして煙草?
 養護教諭が勤務時間中に煙草?
 おいおい大丈夫なのかよ。燃料補給っていうか、むしろ燃料燃やしてるんですけど。
「すぐ戻るよ。私が留守のうちに、彼女と話しておいたらどうだい」
 俺の代わりに扉を閉め、先生はフラッとどこかへ消えた。
 ……まあ確かに、二人だけの方が千種と話はし易いけど。
「千種、開けるぞ」
 俺はベッドを囲むカーテンの前でそう告げる。だが、しばらく待っても返事がない。結局迷った末に、恐る恐るカーテンを開いた。
「もしかしてまだ寝て……いや、起きてたか」
 千種はベッドに仰向けになっていた。俺の制服を両手で握りしめて掛け布団代わりにしている。赤い目で俺の方を一瞥すると、もぞもぞと寝返りを打って背を向けた。
「玲奈が来てくれたのかと思った」
「……悪かったな、俺で」
 彼女は少し間をおいて、呟くように返事をする。
「……ううん。大江が、ここまで運んでくれたんだよね。ありがとね」
「あ、あぁ……」
 そして俺たちの間から、言葉が消えた。
 きっと言いたいこと、考えていることはいっぱいあって、千種の方もそうなんだと思う。でも、心の中がどうにもこうにも散らかっていて、何から口にしたらいいのかわからない。
 俺はその散らかった想いの中から最初に言わなくてはならないものを見つけ出し、おずおずと一言ずつ声にする。
「その、悪かったよ……色々とさ。大丈夫か」
「…………ううん」
 千種は首を横に振った。
「千種?」
「……ううん……大丈夫じゃ……ない。大丈夫、じゃ、ないよ。全然……大丈夫じゃない……」
 彼女の声はところどころ掠れていた。
「玲奈に……嫌いって言われた。大嫌いだって。玲奈、私のこと嫌いだって……ギターも、嫌いだって……」
 背中を丸めて小さくなり、震えながら嗚咽を漏らす。
「そうかもしれないって、わかってた。玲奈はもう、きっとギターをやめていて……それは私のせいなんだって。でも……でも……」
 そして堰を切ったかのように、彼女は泣いた。
「……ぅ、ぅわあぁぁん。玲奈、私のこと、嫌いだって……大嫌いだってぇ。やだよぉ! 玲奈に嫌われたくないよぉ! 前は、あんなに優しくしてくれて、二人で一緒に弾いてくれたのに! 私がギター始めたのは、玲奈と一緒にいるためなのに! なのにっ!」
 両手で必死に自分の身体を掻い抱いて、涙を抑え、声を抑え、それでも抑えきれずに溢れ出る想いが彼女の瞼の裏を焼き、その喉をすり減らしていく。
「私は、れっ、玲奈のこと、大好きなのに……なのに玲奈は、私の目の前で、私のこと嫌いだって……あんな、に、怖い目で、冷た、い声で、きら、嫌いだってぇ。やだよぉ。玲奈と一緒に、いられるなら、私、何でもする、するから……だから、お願いだから、玲奈と一緒にいさせてよ。じゃ、じゃないと、私、生きて、ひっ、けない。玲奈に捨て、捨てられたら、私、生きて、生きてけない、よ。一人で弾いてなんて、いけるわけないんだ! そんなんじゃ私、し、死んじゃうもん! ぅ、うわあぁぁ――ぁ、あぁぁ――!」
 まるで火がついたような激しい泣きように、俺は慌てた。痛々しくて見ていられない。
 でも、かける言葉なんて俺は一つも持っていなかった。ただ傍に立っていることしかできなかった。
 だって俺は、わかっていたのだ。彼女の悲涙を、拭ってやれるのは俺ではない。
「お、落ち着け千種! あんまり泣くとまた……」
 落ちる雫が次々とシーツに吸い込まれ、薄い染みとなって儚く消えていく。
 俺がベッドの周りであたふたしていると、横から場違いな冷やかしが飛んだ。
「あーあ、まったく君は。また泣かせてー」
「ぅお! せ、先生。いつの間に」
 知らないうちに先生が戻ってきていた。ベッド脇の壁にもたれて俺を見ている。
「ちょっと。またって何ですか、またって。別に俺は初めから、千種を泣かせたわけじゃ……」
 ただそこで、ふと思う。実際のところ、どうなのだろう。俺は反射的に言い返そうとしたものの、やがて言葉を失った。
 確かに俺は、直接的に千種を泣かせたわけではない。でも、だからといって責任がないというわけでは、決してないのだ。彼女の涙の原因に、少なからず俺は含まれている。
「いや……俺が泣かせた……のかも、しれません、けど……」
 ベッドで泣き続ける千種を前にして、俺は力なく呟いた。
「…………ふぅ。まあ、私は事情を知らないし、特に首を突っ込むつもりもないが……」
 俺が気落ちしたのを見てからかう気が失せたのか、先生は軽い溜息とともに机に戻った。保健室の窓際にある、養護教諭の特等席。そこに片肘をひっかけ、流し目を送りながら脱力して言う。
「ただ、その子を一人で帰らせるのは、ちょっとどうかと思っていてな。私が車で送ってやってもいいんだが、それだとまだかなり待ってもらうことになるし……だから、君が送って行きなさい」
「俺が……ですか」
「責任を感じているのなら、それくらいしてやってもよかろう? その子の荷物は、ここに持ってきてあるしな」
 先生はどこからともなく鞄を取り出し「ほら」と持ち上げてこちらに示した。それは千種の鞄のようで、さきほど席を外したときにとってきたらしい。
「……わかりました」
 俺は先生の提案を承諾した。
 確かに、全部先生の言う通りなのだ。今の千種を一人で帰らせるのは極めて心配だし、俺は大きく責任を感じている。
 昼から降り始めた雨は依然として弱まることなく、一向に止む気配を見せなかった。
 俺も千種も傘を持っていなかったので、先生から大きめのものを借り受けた。
 千種の状態が落ち着くのを待ってから、二人で学校をあとにする。
「ちゃんとそこの子が玄関をくぐるまで見届けるんだぞ。わかったな」
「はい」
 帰りがけ、千種の家の住所と、先生の携帯のメールアドレスが書かれた紙を渡された。無事に送り届けて、俺も自宅に着いたら、連絡をせよとのことだった。
 雨の中、オレンジ色をした花柄の傘を片手に持ち、もう一方の手は千種と繋いで、俺が先導しながら歩く。肩には自分と千種の二人分の鞄。教えてもらった住所をもとに、携帯で行き方を調べながらゆっくり進む。
 千種の家は、どうやら学校からかなり離れているようだった。地下鉄などの在来線を三回ほど乗り換え、都心から外れた小さな駅で降りるらしい。俺の家とは真逆の方向だ。
 何でこんなにも遠くからあの学校に通っているのかと思ったが、しかし理由は既に聞いている。千種は鳴海と同じ学校がよかったからだ。
 千種はとぼとぼと、焦点の定まらない目で俺の後ろをついてきていた。泣き疲れたようで、異様に静かな半覚醒。常に気にしてやらないと傘からはみ出て濡れてしまうし、転んでしまうかもしれなかった。
 端から見たら、俺たちはどんな二人に見えるだろう。妙に明るい傘を差し、暗い顔で会話なく歩く様子は、喧嘩をした兄妹のようにも見えるのだろうか。
 もやもやした想いを胸に抱え、気の利いた話などできるわけもなく、止まぬ雨やおかしな趣味の傘を渡した先生にいくつか文句を言いたくもなり……でもそれはただの八つ当たりで、本当に文句を言いたい相手は自分なのだと、俺は気づいた。
 傘を打つ雨粒の音は、不気味なほどに大きく響く。道を行く車の音も、周りの賑やかな店の音も聞こえやしない。
 その代わり俺の頭に繰り返し浮かんでいたのは、無性に聴きたいギターの音と、学校で聞いた胸を抉るような千種の泣き声と、そして……。
 ――私はもう二度と、音楽に戻るつもりはないわ
 そんな鳴海の言葉だった。
 駅に着くと、ちょうど乗るべき電車の出発の時刻だった。
 千種と緩く手を繋いだまま、俺は電車に揺られながら深い思考の海を巡る。鳴海の言葉の意味を、その言葉の裏に隠された感情を、彼女の想いを考える。
 なぜ彼女は音楽を遠ざけるのか。なぜあんなにも、必死で見て見ぬ振りをして音楽を嫌うのか。自分の音楽に価値などないと言った彼女は、どんな想いでその言葉を口にしたのか。
 やはり俺には、あれが彼女の本心だなんて思えなかった。
 だって、きっと……いや絶対、彼女はギターをやめてない。俺はそう信じているから。俺にはわからないことばかりだけれど、それだけは確かに、わかる気がするから。
 彼女のギターを、俺は本当に上手いと感じた。生き生きとした美しい音だと、心底から心地良い音だと感じたのだ。あの演奏は、音楽を嫌う人間にできるようなものではないはずだ。
 そして俺も、本当に好きだからこそ、鳴海と千種のギターを聴きたいのだ。こんなにも聴きたいと思うことに、それ以上の理由が必要だろうか。少なくとも鳴海が言うような身勝手な慰めなんかでは、決してないはずなのに……。
 俺は雨に煙る外界を見ながら、ただぼんやりと考える。
 やがて、ついに一つの言葉のやりとりもないまま、俺たちは目的の駅までたどり着いた。こじんまりとした綺麗な駅で、ほどほどのペデストリアンデッキらしきものが設けられている。見たこともない場所ゆえ土地勘もなかったが、千種に道を聞くことはせず、携帯で地図を見て先に進んだ。
 辺りはもう暗い。まばらな街灯が住宅街への道を照らす。雨音がうるさい。
 次第に人影も見なくなって、足音は俺と千種のものだけになった。まるでずっと雨の止まない世界の中に、二人だけ取り残されてしまったような気分だった。
 相変わらず千種は、人形のように表情を変えない。ガラス玉の目でただただ俺についてきている。そして、ようやく彼女の自宅が見えようかというときになって、口を開いた。
「……玲奈、もう私と一緒に、弾いてくれないのかな……。私と一緒に、いてくれないのかな……」
 その声は切れ切れだったが、俺には全て、しっかり聞こえた。
「もし玲奈が嫌だって言うなら……私、ギター弾くの、やめるから……何だってするから……だから、昔みたいに、私と一緒にいてほしいな……」
 俺は奥歯を噛みしめて、口から出そうな曖昧な言葉の数々を飲み込んだ。千種が今欲しがっているのは、俺の無責任な慰めなどではないはずだった。やり場のない悔しさが身体の内側に潜っていく。
 彼女はみたび、悲しく零す。
「一人で上手くなったって、しょうがないよ。一人でいるのは、ずっと毎日、苦しかった。息をするごとに、苦しかった。きっと私、そのうち一人じゃ、息もできないようになっちゃうよ……」
 雨でかじかんだ指先が冷たい。もう千種の手をちゃんと握っているのかすらも、よくわからない。
 俺は寒さと、そして情けなさから走り出したい気持ちになったがそれもかなわず、無言で千種を送り届けて家に帰った。
 一人になると思ったよりもいっそう寂しくて、身体に広がる疲労と倦怠に耐えきれず、夕飯も食べずにすぐに眠った。