翌週は四月の末にしては肌寒く、濁った曇り空だった。寒の戻りというやつだ。
 しかしながらそれとは逆に、鳴海の様子はまったく戻ってなどいない。寸分違わず相変わらずだ。
 ま、まあ大丈夫さ。別にこんなの、全然予想の範囲内だ。本当に大丈夫。別に俺は傷ついてなんかいない。そう、傷ついてなんか……。
 と、とにかく、学校で始業前に一度千種と顔を合わせ、鳴海に声をかけるのは昼休みということにした。
 もちろんだが社交性溢れる鳴海は、昼休みはいつも友人と食事をする。特にここ最近では、以前と違って一秒たりとも一人になることはなかった。人の目の多い教室か学食で、時間いっぱいまで過ごしている。
 今日は教室で弁当のようだ。
 俺はといえば、普段は孝文と学食か購買に行くところを、断って教室に残っている。弁当を持たない俺が誘いを断ったことに、孝文は少し首を傾げていた。まあ自然な反応だ。
 しかし今は飯など食っている場合ではない。
 これまでの俺は鳴海に対して、彼女が誰かと話していたり、用事のあるときは邪魔をしないようにしてきたものだが、もうそんな悠長なことは言っていられないのだ。週末を経てなお変化のない鳴海の態度を見るにつけ、もはやしばらくは会話の好機など訪れないだろうと容易に想像できるわけだし、ならば多少の強行突破はやむを得ない。
 俺は深呼吸をしてゆっくりと席を立ち、鳴海のところへと歩いていった。
 彼女は友人二人と、一つの机で食事をしている。近づくと鳴海と他二人の視線が俺へ集まり、それに伴い教室全体が少しだけ静まった。するとさらに、欲しくもない周りの注目まで浴びることになる。
 なるべく意識しないようにして、俺は言った。
「鳴海、ちょっといいか」
 声が震えなくて幸いだ。
 鳴海は少し驚いたように俺を見上げたが、すぐに答えた。
「え? ……ええ、いいけど」
「じゃあ、こっちに来てくれるか」
 俺が同行を促して教室の出口まで移動すると、遅れて彼女もついてくる。
 背中には、この場にいる大半の人の視線が刺さっているのを感じ取れた。昼食に水を差された鳴海の友人二人の「何、どうしたの?」「さぁ、わかんない」という会話がかすかに聞こえる。
 振り返る勇気など毛頭なかったし、一足先に教室を出た俺は、鳴海がついてくることだけを確認して廊下を進んだ。
 彼女は俺との間に絶妙な距離を保ちながら、きっちり縦に並んで歩く。
 少し教室から遠のき、やがて中庭に面する渡り廊下へやってきた。こんな天候だからだろう、辺りに人影は見られなかった。
「えっと……どうしたの?」
 彼女が尋ねる。
「話が、あるんだ」
「大江君にそう言われるの、これで何回目かしら。クラスであんな風に声をかけたら、みんなに誤解されちゃうんじゃない?」
「そう……かもな。ごめん」
 渡り廊下を歩いていると、冷涼で湿った風が吹きつけてくる。会話がない間は、俺と鳴海の足音がよく聞こえる。彼女の足音の方が、俺のと比べてわずかに多い。
「それで、何?」
「……頼みがある。鳴海のギターを、聴かせてほしい」
 俺がそう言うと、彼女は小さくため息をつき、困ったような口調で零した。
「……その話はもうしないでって、言ったのに」
「ああ、悪いと思ってるよ。でも、少しだけ話を、聞いてほしいんだ」
「大江君、あなたもいい加減、諦めてほしいのだけれど……」
 会話をしながら渡り廊下を抜け、反対の校舎までたどり着く。迫ってくる曲がり角を折れると、俺はそこで振り返った。
 少し遅れてついてきていた鳴海は、曲がった先で俺と相対したことに気づく。
「……っ!」
 そして俺の後ろにいる人影を見てハッとしたかと思うと、直後、フッと鳴海の表情は失われた。さきほどまでの落ち着いた声とはとはまったく違う、冷えた抑揚のない声が漏れ出す。
「大江君。あなたもいい加減、諦めが悪いわね。いったい何を聞けと言うの」
 能面のような鳴海の顔が、真っ直ぐ俺に向けられていた。静かに睨みつけられているのだと思った。
 無感情な声音に背筋が震える。しかし当然、ここで逃げ出すわけにもいかない。
「千種の話を、聞いてほしい」
 そう、だって今、俺の後ろには千種がいるのだ。俺を間に挟んで鳴海から数メートルほど離れた位置に、千種一華が立っている。両手を緩く正面で組み、俯きながら身体を丸めて、弱々しく縮こまっている。
 俺が軽く視線を送ると、千種はおずおずと口を開いた。
「あの……玲奈……」
「どうして戻ってきたの」
「っ!」
 対して鳴海は、すぐに視線を千種に移し、睥睨しながらぴしゃりと言い放った。尋ねているというよりは、咎めているような語調だった。
 千種の肩が、怯えたようにビクッと跳ねる。
 鳴海は続けた。
「あなた、どうしてこんなところにいるの? 稀代の天才美少女ギタリストなんでしょう? 上手くいっているように見えたけど?」
「……ご、ごめんなさい。でも、私、寂しくて……一人でギターを弾くのは、寂しかったから……だから」
「何よそれ。そんな理由で逃げ帰ってきたの?」
「玲奈と一緒に弾けないのが、耐えられなかった。私、もう一度玲奈と一緒に弾きたくて……」
 鳴海は大きな溜息とともに、吐き捨てるように言葉を返す。
「呆れた。せっかくあなたの音楽が認められて、あなたの演奏をたくさんの人が聴いてくれていたのに。たくさんの人が、あなたを認め始めていたのに。それなのに、全部台無しにして逃げてきたのね」
 そのただならぬ物言いに、俺は驚きを通り越して呆然とし、動くことができなかった。本来なら口を挟むべきだったのかもしれない。しかし、以前に教室で話したときよりもいっそう冷え切った鳴海の様子に、この手も足も、そして口さえも、氷漬けにされた気分だった。
「だって……私にはやっぱり、無理だったんだよ。私一人じゃだめなんだ。玲奈と一緒じゃないと……昔みたいに、玲奈が隣にいてくれないとさ……」
「今更、何を言っているの。馬鹿じゃないの。私があなたの隣にいたことなんて、ただの一度もなかったわ。一華、あなたは初めから一人だった。あなたは一人で、この街を出ていったの。そのくせみっともなく逃げ帰ってきて、挙げ句の果てに、また私とギターをやろうだなんて……それはいくらなんでも、都合良すぎるんじゃない?」
 千種はさらに小さく縮こまってしまう。その儚げな声が、だんだんと震え出す。
「……ごめんなさい。逃げ帰ってきて、ごめんなさい。わがまま言って、ごめんなさい。でも……それでも私、どうしても玲奈と……玲奈ともう一度、ギターが弾きたいんだ。玲奈に教えてもらって、二人で上手になっていくのが楽しかったあの頃みたいに……二人で夢を追っていたあの頃みたいに……もう一度……」
「……夢、ね。その夢を、あなたは一人で掴み取ったわけだけどね」
 鳴海は千種を見据えながら、わずかに一瞬だけ、虚ろな目を切なげに細めた。しかしすぐに元の無表情に戻って淡々と答えた。
「私は一緒にやりたくないわ。もう二度と、あなたと二人で弾くつもりはない。だって私は、もうギターなんてやめたんだから」
 千種はそこで顔を上げる。
「やめ、た……? でも……でも私、大江に聞いたよ。大江の前で弾いたんでしょ? 大江にギターを聴かせてあげたんでしょ?」
「だったら何?」
「だ、だから……玲奈はギターをやめてないはずだって……」
「……やめてないはずだって、大江君が?」
 鳴海の顔がこちらに向けられた。その鋭い視線に突然晒され、俺はたじろぐ。
「あんなのただの気紛れじゃない。ねぇ大江君。私、あなたに言ったわよね? ギターはもうやめたって、言ったはずよね? 一華に伝えないならまだしも、嘘を伝えるなんて、どうかしてるわ」
 どうかしている。確かに、俺はどうかしていると思う。
 だがそれを言うのなら、今の鳴海も、十分どうかしているに違いない。清楚で穏やかな、暖かな普段の彼女の面影はどこにもなく、同じ容姿を被った別人にしか思えない。
「私はもう、ギターはやめたの。そんなものもうやめたのよ。音楽なんて、とっくの昔にやめたんだから」
 平坦に、でも強くはっきりと鳴海が断じる。
 千種の口からは、縋りつくような声が漏れた。
「そんな……お願い、玲奈。やめたなんて、言わないで。玲奈は、私にギターを教えてくれたのに……あんなに上手なのに……玲奈はギターが、好きなはずなのに……どうして」
「……何ですって」
 そして、そのときだ。
 ずっと単調だった鳴海の言動に、明らかな変化が訪れた。今の今まで、感情の浮かんでいなかった鳴海の顔。そこに、まるで何かが染み出すかのようにして、じわりと表情が現れていた。
「よく言うわ、一華。あなたに私の何がわかるの。私がギターを好き? 私のギターが上手?」
 その“何か”とは、何だったのか。おそらくそれは、怒りだった。憎悪だった。俺の直感が、拒絶するほどの負の感情だ。
「そんなこともわからないから、だからあなたは昔から、いつまでたっても一人なのよ」
 けれども、目の前の鳴海は笑っている。綺麗な花を握り潰したかのような、涼しく凄惨な笑みを浮かべている。
「私はギターなんて嫌い。音楽なんて、嫌い。大嫌いなの」
 ゾクッとして、反射的に一歩引いた。こんな笑い方をする人間がいるなんて、俺には信じられなかった。
 鳴海がその胸に何を抱いているのかわからない。渦巻く暗闇が恐怖を掻き立て、その先を見てはいけないと警告する。
 鳴海の言葉は次第に威圧的な迫力を増し、ひどく濁った感情を乗せ、千種に向かって告げられた。
「ねぇ、一華。私はね、あなたのことだって……大嫌いよ」
 千種は瞬間、蒼白した顔で大きくその目を見開いた。やがて潤んだ瞳を隠すように伏せ、踵を返して走り去る。そのまま校舎の奥へと続く曲がり角に消えて見えなくなった。
 俺と鳴海が残されたあとには、居心地の悪い沈黙が落ちる。静かに雨の降り始める音が耳に届いた。
「お、おい鳴海……今のはちょっと」
 俺がふらふらと口を開くと、千種の走り去ったあとを鋭く見つめる鳴海が、その瞳だけを動かして俺を睨む。
「それと大江君。あなたは、私相手なら頼み倒せば何とかなると思っていたのかもしれないけれど、残念ながら見当違いよ。あんまりしつこいと私、怒るから」
 鳴海の綺麗な色白の顔に、真っ黒い絵の具を塗りつけたような影が落ちていた。
「まあ、面倒だからあなたには言っておくわね。私、普段は猫被ってるだけで、本当はあんなに穏やかでも、優しくもないのよ。だからいい加減、もう私に関わらないで。我慢にだって限度がある。これ以上は、何をするかわからないわ」
「でも、でもさ鳴海。俺も思うんだ。鳴海はギターが上手なのに、やめるなんてもったいないじゃないか。千種も真剣に言ってるんだし、何もあそこまで……」
 俺が言うと、鳴海はまた大きく溜息をついた。こめかみに指をあてがい、呆れたように彼女は答える。
「はぁ……あなたも一華に負けず劣らず、本当に人の神経を逆撫でするのが上手いのね。もしかして、あなたもあの子と同じ人種なのかしら」
「お、同じ……?」
「ああ、そうね。そうかもしれないわね。だってあなたも少し前までは、天才サッカー少年だったんだものね」
「ど、どういう意味だよ」
「どうもこうも……わからない?」
 投げかけられたその問いには、いくらかの苛立ちが含まれている。
 俺が答えず黙っていると、彼女は続けた。
「私の音楽とあの子の音楽。その間には、誰もが認める明確な差があるわ。あなたはそういうものには鈍いようだけれど、でも、比べてちゃんと聴けばすぐにわかる。わかっていないのは、それこそあの子くらいのものよ。あの子の才能は、唯一無二の本物で……代わりのない、他を寄せ付けない絶対的なもの。たった一年の間に、途方もない数の人を魅了する力がある。私なんかとは、全然違う」
「た、確かに千種はすごいやつだ。でも、違うかどうかわかんないだろ。鳴海だって――」
「わかるわよ」
 鳴海は俺の言葉を阻んだ。強くなり出した雨音の中で、冷たく乾いた声を響かせる。
「みんなわかっていることよ、初めから」
 鳴海の瞳に、小さくなった俺の姿が映っている。まるで縫いつけられたかのように、俺は彼女から目を逸らすことができなかった。
「私と一華が出会ったのは、母のやっていたヴァイオリン教室だったわ。幼い頃、私とあの子はヴァイオリンを弾いていて、きっとそのときから、あの子は才の片鱗を見せていたの。母ももちろんそれに気づいていたんでしょう。いつも私の演奏を褒めてくれはしたけれど、ふとしたときに、よく寂しげな表情をしていたわ。無意識に私と一華を比べていたのだと思う。隠し事には、向かない人だったから」
 彼女の声は平坦なまま、しかしわずかな綻びが、震えとなって見え隠れする。
「そのうち私はギターを始めて、一華も真似してついてきて、二人で弾くようになって、よくわかった。あの子の持つ天賦の才が、私との違いが、価値の差が……よくわかった。私は、あの子には到底及ばなかった。初めから、一緒になんて弾けるわけがなかったのよ。あの子は一人で、ずっと先を歩き続けている。私には手の届かない、ずっと先を」
 鳴海は流すように、窓の外へと視線を移した。その先の中庭は白雨で煙っている。
「だから、駅でレコード会社の人に声をかけられたときも、嬉しいなんて思わなかった。目当ては当然のように一華みたいだったし……二人でデビューなんて言われたって、私は断るに決まってるじゃない。だって所詮、凡才の私はあの子のおまけでしかなくて……それどころか、邪魔ですらあったのかもしれなくて……私の音楽に、一切価値などないのだもの」
 冷たい怒りを溶かした表情に、今度は嫌悪と、諦めの色が浮かび上がる。鳴海の目に、涙はない。でも泣いているように、俺には思えた。
 やがて気怠げに踵を返し、俺の方へ背を向ける。
「あなたや一華みたいに、選ばれた人間にはわからないのかもしれないけれど、この世界には、たくさんの平凡な人がいるの。大した才能のない、とるに足らない人がいっぱいいるの。選ばれなかった人たちがね。そして私もその一人。だから私は、そんな自分に正しく見合う選択をしたのよ。一華とは違って才能を持たない凡庸な私は、もっと普通の選択をしたの。ギター片手に夢なんて追わない。ありきたりでいい。ありふれていていい。普通にちゃんと勉強をして、普通にちゃんと社会に溶け込んで……たとえ逃げたと罵られたとしても、割り切って笑顔を返すように努める。それでいいじゃない。そうすることに、どこにも罪なんてないのだもの」
 鳴海は自分を守るために、言葉の刃を振るっている。俺へ向けて、俺を退けようとして、とにかく斬りつけ、吐き出している。けれどもその実、振るった刃は鳴海自身を最も深く傷つけているのではないか。
 語る彼女の背は痛々しく、見ていられないとすら感じてしまった。漂う悲壮が、彼女の抱える闇をいっそう濃く塗り重ねる。
「ねぇ、あなただって、もうサッカーはやめたんでしょう? それと似たようなものじゃない。私はヴァイオリンから逃げて、ギターだってもうやめたけれど、別に口を出されるいわれはないわ。やめる理由なんて、人それぞれあるものよ。昔聴いた私と一華の演奏に、あなたは何を求めているの? 懐かしさや、あるいは慰めでも求めているの? もしそうなら、そんなのはただのわがままよ。迷惑だから、本気でやめて。私はもう二度と、音楽に戻るつもりはないわ」
 彼女の圧力に、俺は何も言えず立ち尽くしていた。ただただ彼女の深淵が恐ろしく、その失意と慟哭に、味わったことのない苦しみを見た。
 やがて彼女は歩き出して、来た道を引き返そうとする。千種が消えたのとは反対の方向へ進もうとする。
 同時に校舎にはチャイムが響いた。昼休みの終了を告げる合図だ。
 俺はその音に意識を取り戻し、咄嗟に足を動かした。鳴海を追うつもりで前へ踏み出したが、しかし彼女は首だけで振り返って、突き放すように言う。
「追いかけるなら私じゃなくて、一華を追ったらどうかしら。あなたが連れてきたんでしょう? あのまま放っておいていいの?」
 俺は結局、数秒迷い、歩き去る鳴海の背を見つめながら唇を噛む想いで引き返して走った。