私は湧き上がった疑念を解消するべく、おそるおそる訊ねた。
「あのさ、西河くん……それ、もしかして私が使うわけじゃないよね?」
「そうだよ。ほかに誰か使う人いる?」
「だって、泊まるわけじゃないでしょ?」
「んー、まあ念のためということで」
 いきなりお泊まりを示唆されて、私は警戒心よりも西河くんへの疑問が高まる。
 私たちはこんなに距離が近い間柄だったろうか。
 私の心中を推し量ったのかそうでないのか、西河くんはふいに口にした。
「そういえば、夢の中でなくしたっていう逆鱗だけど」
「うん」
 あくまでも夢の中の話なので私の妄想のようなものなのだけれど、西河くんは大事なことであるかのように蒸し返した。
「ちゃんとあるから、大丈夫」
「……え? 西河くんの逆鱗が?」
「いや。それじゃなくて。なくしたほうのやつな」
 呆けている私に、彼は驚くべきことを口にする。
「明日、見に行こう」
「は?」
「明日、見に行こう。土曜で学校休みだし」
「……」
 夢の中で紛失した逆鱗を、休みだから見に行こうと軽く言われてしまう。
 私は曖昧に頷いたり、首を捻ったりすることしかできなかった。
「俺の家、駅から近いんだ。こっちだよ」
 商店街を通り抜けて駅に入る。東口の階段を下りれば、ロータリーの前には学習塾などが入った雑居ビルが建ち並んでいる。直線道路をしばらく歩き、路地に入ればそこには閑静な住宅街が建ち並んでいた。
 西河くんはその一角にある、煉瓦風の外壁が彩る住宅の門を開いた。小さな庭には、数株の紫陽花が植えられていた。
 梅雨の頃には美しい色合いだったであろう紫陽花は、盛りを過ぎた今は色褪せて枯れてしまっている。
 小高い丘の上で、那岐と共に見た紫陽花が私の脳裏によみがえる。
 那岐が花で、私が葉。枯れてもいつまでも共にあると、那岐は言ってくれた。
 夢の産物のはずなのに、胸が切なく引き絞られる。
 枯れた紫陽花を見つめている私に、玄関の鍵を開けていた西河くんは声をかけた。
「時季が終わっても剪定しないで置いてるんだ。俺は枯れた紫陽花でも、ずっと見ていたいから」
 西河くんが世話をしているらしい。萎れて茶色に変色した花弁を眺めながら、私はぽつりと呟いた。 
「……紫陽花の花は、どうして散らないのかな?」
「散ってるよ」
「え? だって、ここに枯れたまま残ってるよね」
「花びらのように見える部分は萼(がく)といって、装飾花と呼ばれているんだ。中央の小さい花が紫陽花の真花だよ」
「そうだったの? 全然知らなかった……」
「俺も園芸を始めてから知ったんだ。萼に色がついていて、花びらのように見える花はたくさんあるんだよ。オシロイバナとかね」
 大きな菱形が連なり、手鞠型が形成されている紫陽花は、萼という名称の装飾花だった。中央に密集している細やかな部分が、紫陽花の本当の花弁だったのだ。
 実は紫陽花の花びらは散っていた。
 散らない花などない。
 おそらく那岐は萼のことを知らずに、散らない花と葉を私たちに喩えたのだろう。ふたりの関係はまやかしであると紫陽花に断罪されたようで、私はそっと落ち込んだ。
「どうぞ」
 玄関の扉を開いた西河くんに、招き入れられる。こぢんまりとした玄関は綺麗に片付いていた。
 靴が一足も置いてないので、むしろ生活感がなかった。西河くんのお母さんは相当な綺麗好きなのだろうか。
「お邪魔します……。御両親は、お仕事に行ってるの?」
「両親は海外赴任中なんだ。いつも日本にいないから、一人暮らしみたいなもんだね。でも別にやりたい放題やってるわけじゃないよ。ひとりだと質素で地味な暮らしになっちゃうもんでさ」
 靴を脱いで揃えると、西河くんは棚の奥からスリッパを取り出してくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。そっちがリビング兼台所、奥がトイレと風呂だから。俺の部屋はここ」
 なぜか西河くんは細やかに説明する。
 自室に入った西河くんのあとに続いて、私は初めて男の子の部屋に足を踏み入れた。
 部屋にはフィギュアだとかポスターの類いはなく、畳に文机が置かれているだけだった。本棚やテレビもない。物が溢れている私の部屋とは対照的で、あまりにも簡素な部屋に唖然とした。
「何もなくて、びっくりした?」
「うん……すごいね。ミニマリストなの?」
「物はあるんだけどね。押し入れや納戸に全部収納してるんだ。飲み物もってくる」
 文机の脇にふたり分の鞄を置いた西河くんは、向かいのリビングへ入っていった。
 私は借りてきた猫のように、正座して待つ。
 盆に麦茶の入ったグラスをふたつ乗せてきた西河くんは、文机に盆を置くと今度は押し入れの中を探っていた。押し入れには衣装ケースや背の低い本棚が収納されている。
「オセロやろう。勝ったほうが負けたほうの言うことをきく」 
またそんな条件をつけてくる西河くんを半眼で見やるけれど、彼はかまわずオセロ盤を広げた。
「俺が黒でいいかな」
「いいけど。じゃあ私、白ね。西河くんが先攻でいいよ」
 黒い石がパチリと置かれる。
 西河くんの指の形を間近から見た私は、息を呑んだ。
 節々が際立った那岐の指に、よく似ている。
 瞬きをしたとき、西河くんの手は盤から引かれてしまった。
「あ……」
「どうかした?」
「ううん。西河くんの手、綺麗だね」
「そうかな。相原さんの番だよ」
 気のせいかもしれない。
 そもそも那岐は西河くんに容貌が瓜二つだった。私の記憶が那岐という虚像を作り上げたのかもしれない。
 でも……西河くんの手に着目したのは初めてだった。
 那岐の手は何度も見て、触れていたから記憶に鮮明だ。
 夢は現実から得た情報の繰り返しのはず。
 現実のほうが、後になっているのはなぜなのか。
 私は首を傾げながら、白の石を盤面に乗せた。
 西河くんは全く容赦がなく、一切歯が立たなかった。勝負を終えて黒一色に塗られた盤上を眺めた私は肩を落とす。
「西河くん、強すぎ……」
「それじゃあ約束どおり、勝ったほうが負けたほうの言うことをきくを実行してもらおうかな」