「そういうわけじゃないよ。どれでもいいよ」
 どれでもいいのだろうか。沙耶に聞きたいけれど、西河くんを目の前にして沙耶に訊ねるわけにもいかない。 
「じゃあ……古典で」
「わかった。これから情報総合部に行くよね? 一緒に行こう。行きながら渡すよ」
「うん」
 私は首肯する。了承するしかなかった。
 彼のノートを受け取るには、部室まで一緒に行かなければならないことになってしまった。
 私と西河くんは共に、総合情報部という部活動に所属している。
 総合情報部とは、身近なテーマを掘り下げて調査し、その調査内容を地域へ向けて情報発信するというのが主な活動内容である。新聞部と近いものがあるけれど、記事の発表は紙媒体とは限らず、ホームページにも載せている。
 私がこの部活動に入部するに至った理由は、もちろん自分の希望ではない。
 西河くんが総合情報部に入部するという情報を掴んだ沙耶によって、一緒に入ろうと誘われたからだった。特にやりたい部活動などなかった私は、ただ頷いた。
 鞄を持った沙耶は当然のごとく私を引っ張り、教室の出口で西河くんを出迎える。
「お待たせ。じゃあ、行こうか」
 部室に行きながら渡すと話した西河くんの手に、ノートはない。おそらく鞄の中に入っているのだろう。
 早く渡してほしい。むしろ沙耶に直接手渡してくれたほうが助かる。
 沙耶はとびきりの笑顔を浮かべて、西河くんの隣に寄り添った。
「ねえ、西河くんは伊勢物語を読んだことあるの? あたし、今日西河くんが読んだところ好きなんだよね」
「ああ、そうそう」
 伊勢物語の話題で思い出したらしい西河くんは、鞄の中を探り出した。
 ふたりの後ろから少し離れて歩いていた私に、彼はノートを差し出す。
「これ。古典のノート」
「あ……ありがとう。借りるね」
 私はありがたく両手で受け取る。帰るときに、こっそり沙耶に渡そう。
 けれど私の目論見はいとも容易く粉砕される。
「そのノートの中に暗号があるから、明日までに解読しておいて」
 突然投げかけられた言葉に瞠目する。なぜ、そんなミッションを与えられなければならないのだろう。
「……えっ? 暗号?」
 ぱらぱらとノートを捲ってみるけれど、至ってふつうの古文とその解説が書き写されているだけだ。字がとても美しい。
「じっくり見ないとわからないよ。解読できなかったときのペナルティはどうしようかな」
「……ペナルティあるの?」
「もちろん。当たり前だけど、誰かに手伝ってもらうってのは、なし」
「……はあ」
 沙耶と目を合わせる。お互い、気まずそうに視線を伏せた。
 西河くんが出した理不尽なミッションとペナルティのおかげで、沙耶にノートを渡すという選択肢はなくなった。

 総合情報部は華やかな部活動ではない。地味ともいえる文化部の部員は、六名。
 二年の西河くんと沙耶、私。それから三年生で部長の峯岸さん。それに元柔道部だったという道後くん。一年生で眼鏡をかけた小池くん。
 峯岸さんは女性なので、ちょうど女子が三名、男子が三名と綺麗に分かれている。少人数なので厳しい上下関係などもなく、和気藹々とした雰囲気だ。
 教室とは反対の棟にある部室へ入ると、すでに峯岸さんが来ていた。彼女は捲っていたプリントから顔を上げる。
「いらっしゃい。三角関係の面々」
 きつい冗談に私の頬が引き攣る。二年生の私たちは全員同じクラスだから、峯岸さんに少々誤解されている。西河くんを挟んでの恋愛関係などではないのに。
 西河くんは朗らかに笑った。
「あはは。俺たち定規みたいだね」
「私は分度器で。沙耶は?」
 西河くんの躱しに、私も乗っておく。冗談として話を逸らすに限る。
 沙耶は冗談がわからなかったのか、それとも別のことを考えていたのか、目を瞬かせた。
「え?」
「じゃあ沙耶は、コンパスにしますね、部長」
 引き攣った笑みを峯岸さんに向けると、彼女はもう自らの放った悪い冗談のことなど忘れたかのように、プリントに目線を落としていた。
「今回のテーマはどうしようかしらね。前回は未来工学についてだったから、次は過去の事件を掘り下げたほうがいいかなと私としては思うのよね」
 部室には二台の長机が並べられ、数個のパイプ椅子が置かれている。私たちは峯岸さんの周りに腰を下ろした。沙耶はもちろん、西河くんの隣に座る。
 みんなで決めたテーマに添って取材をして、調べたことを記事に上げるので、始めのテーマ選びは重要になる。大抵はみんなの意見をもとにして峯岸さんがまとめ、そのときのテーマを決めている。
 前回は小池くんの強い推しにより、未来工学をテーマにした。小池くんはロボットにとても興味を持っているようで、生き生きとして取り組んでいたのが印象的だった。
 そのとき部室の扉が開いて、小柄な小池くんと大きな道後くんが入室してきた。
「遅れて申し訳ありません。ホームルームが長引きました」
「ウッス」
 道後くんは思い切り椅子を引いて、峯岸さんの隣に腰を下ろす。大柄なのでパイプ椅子が軋んだ。さすが元柔道部という体格だ。彼は怪我がもとで柔道部を退部したという。
 小池くんはわざわざ椅子を運んで、私たちの背後に座る。全員の定位置がいつのまにか定まっていた。
 峯岸さんは、ちらりと小池くんに視線を向けた。
「小池くん。あなたが入部して数ヶ月が経つわね。たったひとりの一年生ということで、とても感謝しているわ」
「恐縮です。峯岸部長」
「それでね、いつまでも遠慮することないのよ? もっと前に来たらいいんじゃないかしら」
 一年生なので先輩に遠慮しているのか、小池くんは常に周囲と距離を取っている。峯岸さんは、小池くんが部に馴染めていないのではないかと心配しているのだ。
 小池くんは若干猫背のようで、背を丸めながら眼鏡のブリッジを押し上げた。
「いえ、自分はここで結構です。このほうが落ち着きます。遠慮は一切していませんのであしからず」
「そう。それならいいんだけど」
 道後くんが豪快に笑い飛ばした。
「小池はこの間のロボットのときは熱かったもんな。ロボット終わったから、もうネジが切れたんだろ?」
 小池くんは一年生なのに主導的に資料を調べたり取材を進めて、たくさんの記事を上げてくれたのだった。テーマを推奨した人が主導するというのが暗黙の了解になっているのだけれど、特に小池くんは未来工学について熱心に取り組んでいた。
「道後先輩、ロボットという名称は適切ではありません。ロボットやネジなどといいますと、ブリキの玩具を連想させます。人工知能の未来はですね……」
「ストップ、小池くん。あなたの話は放っておいたら一時間が経過するから、今日の本題に入っていいかしら?」