足が縺れて転んでしまう。縄を引く村人は止まってくれないので、地面に体が引き摺られる。私は着物と顔を泥に塗れさせながら起き上がり、足を必死に前へ動かした。   
 やがて村の一角にある古びた蔵の前で、村人たちは止まる。
 そこは村長の屋敷に近いためか、村長と数名の村人が待っていた。
 引き摺られて汚れた私をちらりと見た村長は、縄を持った村人に問いかけた。
「茂蔵は? 龍神の社か?」
「へえ。手はずどおりいきました」
 村長は視線を斜め上へ向けて唇を歪ませる。
 どうやら、この計画は茂蔵を主導としているので、村長は納得いっていないらしい。
 私は跪いて村長に懇願した。
「お願いです、村長さん。那岐を助けてください。私はどうなってもかまいません」
 涙ながらに訴える私を、村長と共に待っていた村人は気の毒そうに見やった。彼らは村長の屋敷で働く下男で、私も見知っていた。
 そのうちのひとりの、五平という老齢の下男が村長におそるおそる申し出る。
「旦那様……こんなことして、大丈夫じゃろうか。龍神様の祟りが起こったらどうなさる」
 祟りという言葉に、下男たちは怯えた表情を見せた。
 嘆息した村長は苦々しく口を開く。
「祟りなど迷信だ。龍神というのは、実は神ではない。龍という人外の一族が特殊な力を持っていたので、我らの祖先が神として祀ったのだ。そのことは村に伝わる書物に記されている」
「だども、龍神様が今まで村に雨を恵んでくださったことには変わりなかろうに。あの御方を失ったら、来年から困ってしまうじゃろう。茂蔵のやることは、ひどすぎる」
 五平のように、那岐を大事に思ってくれる村人もいるのだ。
 私は希望を見出したが、村長は面倒そうに手を振った。
「もういい。何度も話し合った結果だ。困ったときは祈祷師に頼めばよいということに決まったのだ。茂蔵は若い者を纏めているから、儂でも強く言えん。もう年寄りの出る幕ではないと言われれば、敵わんだろう」
 五平を始めとした下男たちは肩を落とした。もう、どうしようもないという諦めの空気がそこには漂っていた。
 私の縄が引かれ、頑丈な蔵の扉が開けられる。
「生贄はそこに閉じ込めておけ。見張りを立てておけよ。儂は社の様子を見に行ってくる」
 村長に、茂蔵の暴挙を止めてもらえないだろうか。那岐が鎖で縛られている姿を見れば、きっと心を動かしてくれるはずだ。
「村長さん、お願いです……!」
 蔵の中に入れられた私の目の前で、重々しい音を立てた扉が閉められる。
 途端に黴臭い匂いが鼻をついた。
 昼なのに薄暗い蔵は、遙か上方に格子のついた小さな窓がひとつあるだけだ。そこから漏れた陽が射し込み、舞い上がる埃を浮かび上がらせている。
 鉄の扉に耳をつけて外の様子を窺うと、村人たちが去って行くわずかな足音が聞こえた。村長は龍神の社へ向かうようだ。
 どうか、村長さんが那岐を解放してくれますように。
 私は祈りながら、硬い扉から離れた。後ろ手に縛られたままの状態で、蔵の中を見回す。
 長い間使われていない蔵のようで、寂れている。収納されている物はなく、隅に藁屑が散らばっているだけだった。冷たい石床には埃が積もっている。
 まるで棺のような何もない空洞に、私はただ佇む。
 暗い、四角い、箱の中に。
 
 やがて日が暮れ、辺りは闇に包まれる。
 月のない晩で、格子窓から光が射さない。一寸先も見えない闇しかない。足が痺れたので、私は冷たい床の上に座り込んだ。
 何の音も聞こえない。不気味な静寂だけが耳を突く。自らの鼓動だけが時を刻んでいた。
 そうして一睡もできずにいると、次第に闇は薄れる。
 朝を迎えたらしい。
 格子からは雀の鳴く声が降りてきた。そのさえずりに幾分かの安堵を覚える。
 縛られた腕が強張り、縄が食い込んでひどく痛む。身じろぎしながら、那岐も同じ痛みに耐えているのかと思うと、また嗚咽が込み上げるようだった。
 せめて体の戒めは解いてほしい。龍神の社ではどうなったのだろうか。村長の説得により、那岐は解放されたのだろうか。ここからでは何もわからないので、ただ吉報を待つよりほかない。
 そのとき、扉が軋んだ。
 外からの光が射し込み、私は眩しさに目を細める。
 誰か来た。
 開かれた扉の向こうには、膳を持った五平が立っていた。傍には三叉を手にした門番らしき村人が、注意深く五平と私を窺っている。
「朝餉じゃ。食べなされ」
「五平さん……ありがとうございます」
 私の前に膳が置かれる。けれど腕が縛られたままなので、手を使って食べることができない。五平は門番を振り返った。
「縄は解いてもいいじゃろう。娘ひとりに何もできん」
 門番は黙って頷いた。五平の手により、私の体を縛り上げていた縄が手早く解かれる。
 解放された腕が、じんと痛んだ。手首には青黒い痣がついている。
「五平さん……那岐は、無事ですか? 昨日、村長さんはなんと仰ってましたか?」
 ちらりと門番に目を配った五平は、その場に膝をついた。
 彼も門番に監視されている立場のようだ。私も膳の前に跪く。
「わしらが龍神様の社に行ったときには、恐ろしいことになっておった……。社の蛟様方はみな、茂蔵たちの手により殺されていたよ。龍神様はたいそうお怒りになられた」
「そんな。蛟さんたちが……?」
 親切にしてくれた蛟たちが殺害されたと聞いて、私は絶望の淵に沈んだ。
 まさか、そんなことをするなんて。
 物の怪として悪者扱いされる蛟だけれど、龍神の社にいる蛟たちは人間に何の害も及ぼさなかったはずだ。
 那岐が大事にしていた眷属は死に絶えてしまったのか。
 私は茂蔵を始めとした村人の良心を信じていた。
 けれど、彼らはどこまでも利己的だったのだ。
 龍神の嘆きにより雨が降るという伝承があると茂蔵は語っていた。那岐の大切なものを奪い去ることにより、雨を降らせるという手段に出たのかもしれない。
 項垂れた五平は話を続ける。
「村長様は、状況を見守ると言っていた。茂蔵に任せるつもりらしい。ひどいことじゃ。だがわしらが異を唱えようものなら、鍬で叩かれる。どうすることもできん」
「じゃあ、那岐は木に縛られたままなんですか⁉」
「うむ……。なんと恩知らずで恐ろしいことじゃ。この村は龍神様に見放されてしまうじゃろう」
 状況は変わらないどころか悪化している。
 茂蔵たちは蛟を皆殺しにして、反対する村人にまで暴力を振るっているのだ。
 見れば、五平の手の甲は赤く腫れていた。茂蔵の一派に暴行されたのだろうか。その手を返して、五平は膳を勧める。
「さあ、食べなされ。わしの嫁が作ったんじゃ。菓子もついとる」
 膳には大盛りの白米に菜の汁物、それから沢庵。和紙に乗せられた練り菓子もあった。
「このお菓子……キヨノさんにもらったのと同じものですね」
 白い粉の塗された細い練り菓子には見覚えがある。母屋に上がり、サヤに冷たくされて落ち込んだとき、キヨノに持たせてもらった菓子だ。