恋する金曜日のおつまみごはん~心ときめく三色餃子~

「はぁ~……」

 いつもだったら一週間で一番仕事に気合いの入る金曜日。私はまだ先週のショックを引きずっていた。

「日向先輩、どうしたんですか。今週ずっと様子が変でしたよ。夏バテですか?」

 デスクでため息をついていると、同じ企画部で仲の良い後輩、久保田がピンクブラウンに染めたボブヘアを揺らして声をかけてくる。

 入社二年目の久保田はまだ心もお肌もぴちぴちだ。薄付きのファンデーションはまったく化粧崩れしていないし、冷房の効いたオフィスでもノースリーブ一枚で平気な顔をしている。

「夏バテというか……、心がバテているというか」

 今だけそのぴちぴちの若さをよこせ、とうらめしく思いながらつぶやくと、久保田は目を見開いて大げさに驚いた。

「ええっ! 仕事の鬼の日向先輩がですか!?」
「鬼って、ひどい」
「だって、私が入社してきてから、先輩が弱ったところなんて一度も見たことありませんもん。男性社員の目が死ぬようなハードな時期でも、常にパワフルでやる気に満ちあふれているのが先輩じゃないですか!」
「うん……、そうなんだけどね……。そうだったんだけどね……」
「本当に、なにがあったんですか?」

 久保田は眉根を寄せて、顔を近付けてくる。これは本気で心配してくれているみたいだ。でもなんとなく、会社の人には自分の趣味が居酒屋でのひとり飲みだってこと、言いたくなかった。
「……頼りにしてたビタミン剤が、手に入らなくなっちゃって」

 ギリギリで嘘とは言えないようなごまかし方をすると、久保田ははりきった表情で「それならいいのがありますよ! 私が愛用しているサプリなんですけど……」とスマホ画面を見せてくれ、そのうえ、「今日は早く帰ったほうがいいですよ。これ買って帰って、土日はゆっくり休んでください」と優しい言葉までかけてくれた。

「いい後輩を持ったなあ……」

 結局、残った仕事は久保田に任せて退社することにした。
 日が伸びた初夏のオフィス街は、六時台でもまだ明るくて昼間のけだるさが残っている。

 どこか、別の店に入ってみようか。

 駅に向かいながらそんなことも考えてみたけれど、結局足を止めることなく電車に乗る。新しい店を開拓するだけのパワーが、今の私にはなかった。あれだけ豪快にぶん投げたというのに、あのおじさんたちに言われた言葉は投げ捨てられずに、胸の底に(おり)として残っているってことだ。鋼の仮面をつけていても、心まで鋼になったわけじゃないから。
 こんなとき、男として生まれていればもっと楽だったのかなあ、なんて思ってしまう。歳を取ってあんなふうになるのだけは、絶対に嫌だけど。

 仕方ない、コンビニでビールとホットスナックでも買って帰ろう。

「なんで、ホットスナックも売り切れなのよ……」

 家から一番近いコンビニに寄ってみると、おつまみになりそうな唐揚げやフランクフルトは総じて品切れだった。頼みの綱が切れて、思わず小声でぼやいてしまう。

 ここはお惣菜で妥協するべきか。ポテトサラダ、冷凍餃子。ビールのつまみになりそうなものは揃っている。

 でもなぁ……。大将の手間暇かけたおつまみに慣れた身としては、人のぬくもりが感じられないおつまみは物足りないというか、さびしいというか。

 カゴにビール缶を入れたままうろうろしていると、油揚げのパックが目に入った。

 そうだ、確か、油揚げを焼くだけでもおつまみになるって、テレビで見た。
 焼くだけって言っても、いちおう自分で手間をかけるわけだし、レンジでチンよりはむなしい気分にならないはず!

 これは名案を思い付いたぞ~と、少しテンションの上がった弾んだ足取りで、私は帰路についた。
 アパートに帰ると、まずはメイクを落として楽な格好になるのが毎日のルーティン。今日もそうしたところで、油揚げの調理にかかった。
 パックに入っていた二枚を、魚焼きグリルに並べる。

「この網って油を塗るんだっけ? ……まあいいか」

 コンロを点火して、準備完了。あとは小皿に醤油と七味を用意しておくだけだ。世の中にこんなに簡単なおつまみがあるなんて。発明してくれた人ありがとう。

「じゃあ、ビールでも開けて待ってますか」

 リビングのクッションに座り、プシュッと缶ビールのプルタブを開け、テレビの電源を入れる。

 へえ、この時間帯、けっこうおもしろい番組やってるんだな。おいしいおつまみさえあれば、宅飲みも悪くないかも……?

 そんなことを考えてテレビとビールに夢中になっていたら、コンロに置き去りの油揚げのことなんてすっかり忘れていた。

「……ん? なんか、焦げくさい?」

 異臭が鼻をかすめ、リビングと続きになっているカウンターキッチンに目をやる。
 すると、なんで今まで気づかなかったんだってくらい、白い煙が充満していた。
「あわわ、大変!」

 ゲホッゲホッと咳き込みながら、コンロの火をあわてて止める。引き出してみると、待ち焦がれた油揚げは黒コゲになっていた。

「ああ~……」

 煙が目に染みて涙目になりながら、がっくりと肩を落とす。そのとき、ドンドンドン、と玄関のドアが勢いよくノックされた。

 まずい、苦情だろうか。おおかた、ほかの部屋にも煙が入り込んでいたのだろう。
 注意されることを予想して、おそるおそる玄関に近づくと。

「日向先輩、大丈夫ですか!?」

 切羽詰まった、若い男性の声が聞こえてきた。

 なんで私の名前、知ってるの? それに『先輩』って呼ぶってことは、もしかして同じ会社の人?

「火事ですか!? ドア、開けられますか?」

 連続して叩かれるノックの音と呼びかけ。ほかの部屋の人に注目されるのを恐れて、ついついドアを開けてしまった。

 そこに立っていたのは、爽やかな水色ストライプのシャツ、青系のネクタイとグレーのスラックスに身を包んだ、見覚えのない男の子。

 細身でほどよく高めの身長、長すぎないさらさらの黒髪。控えめだけど整った顔のパーツがいかにも塩顔イケメン男子だ。こんな子、うちの会社にいたっけ。
「ああ、無事でよかった。驚きましたよ、帰宅したら廊下が煙で充満していたから……。いったい、どうしたんです?」

 男の子は、私が無事なことを確かめてホッとしたあと、改めて私の全身に視線を移した。そして少し戸惑った顔で、こう尋ねる。

「……日向先輩、ですよね?」

 その瞬間、私はこのドアを開けてしまったことを後悔した。
 彼が戸惑うのも無理はない。だって、今の私はすっぴん眼鏡、スエット上下にひっつめ髪と、『干物女』と呼ぶにふさわしい格好をしていたのだから――。

 知り合いには隠し通しているオフの姿を見られるなんて、穴があったら入りたい。会社での私の姿を知っている人だったら、『うわあ、マジで?』とドン引きするに決まっている。

「そうです、私が日向充希です……」

 真っ赤になった顏を隠しながらつぶやくと、彼は「知ってます」とさらっと答えた。

「それで、火事ではないんですね? この煙はどうしたんですか?」

 最初は血相を変えていた彼も、だいぶ冷静になったみたいだった。まあ、火事だったらこんなのんきな姿で出てこないし。
「油揚げをグリルで焼いていたらこうなったの」

 正直に答えると、彼は目を丸くした。信じられない、とでも言いたげなリアクションにむっとする。

「えっ、油揚げを? 本当にそれだけで?」
「しょうがないじゃない。料理なんてふだんまったくしないんだもの。油揚げを焼いただけのおつまみがせいいっぱいだったのよ」
「……そうなんですか」

 気の毒そうな瞳に憐みが含まれていると感じるのは、被害妄想だろうか。

「あ~あ。でも、その油揚げも黒コゲになっちゃったし。家で飲もうと思ってたのに、本当についてない……」

 思わずため息をつきながら肩を落とす。名前の知らない男の子は思案気な顔でうつむくと、ぱっと顏を上げた。

「だったら、うちで飲みませんか? おいしいおつまみ、作れますよ」

 予想外のセリフに、今度は私が目を丸くする。こんな醜態をさらしたあとなのに、宅飲みに誘われるなんて。しかも……。

「えっ、うち……って」
「隣の部屋なんです、僕の家」

 同じ階に住んでいることには薄々勘付いていたが、まさか隣だったとは。
「そうなの!? ……でも、そもそも私、あなたのこと知らないし」
「あ、そうですよね。自己紹介が遅れてすみません」

 彼は仕事用の鞄から名刺入れを取り出すと、スマートな動作で私に名刺を差し出した。

「営業部の塩見(しおみ)優翔(ひろと)です。入社二年目です」

 ということは、今年二十四歳か。私の四つ年下だ。顔立ちは確かに若いけれど、雰囲気や話し方は同世代よりぐっと落ち着いているかも。

「あ、ありがとう。えっと、塩見くんはなんで私のことを?」
「そりゃあ、日向先輩は有名人ですから。美人で仕事もできるすごい先輩がいるって、新人のころに教えてもらいました。社内で先輩を知らない人はいないんじゃないですか?」
「そうだったの?」

 初対面の後輩にまで名前と顔を知られているとは思わなかったけれど、褒められて悪い気はしない。
「引っ越してしばらくして、隣が日向先輩だってことはわかったんですけど。同じ会社の男が隣に住んでるっていうのも気分が悪いかなと思って、今までご挨拶できなくて」
「別にそんなこと……」

 気にしないのに、と言いかけて口をつぐむ。隣に塩見くんがいたら、ベランダに干す洗濯物とか、すっぴんでゴミ出しとか、いちいち気にするかもしれない。まあ、こんな姿を見られてしまったら、なにを気をつけようが今さら遅いけれど。

「それで、どうします? 料理だけは得意なんです、僕」

 気を抜いた姿を見られたショックとおいしいおつまみを天秤にかける。いや、そもそも、会社の同僚だからって初対面の男性の部屋にほいほい上がっていいものなのだろうか。

 ちらっと塩見くんを見上げると、人畜無害そうな微笑みを浮かべて私の返事を待っていた。

 私はなんだか、目の前の男の子に惨敗したような気持ちになって、口を開く。

「……ごちそうになります」

 とことんついていない金曜日。手作り感のあるおいしいおつまみに飢えた私がこの選択をするのは、どうやっても避けられないことだった――。たぶん。