「大丈夫ですよ」
追加で頼んだビールを注ぎながら榊さんに言う。
彼女が悩みを話してくれたことで、俺はなんとなく彼女より上の立場にいるような気分になっている。しかも、その悩みというのが予想していたほど深刻ではなかったことで、心が軽くなっていた。まあ、本人にとっては深刻であることは間違いないけれど。
「集まる半分は女性ですよね? 男に近付かなくてもいいじゃないですか」
「だけど……」
「なんですか?」
「会いたくない人がいる」
「あ、例の……?」
榊さんがコクンと頷いた。それから両手でグラスをゆっくりと回し始めた。
(最初に言ってた人か……)
どんな相手なんだろう? 彼氏じゃないって言っていたけど。
「近付かないで、無視しちゃえばいいじゃないですか」
「それはそうなんだけど……」
「顔を見たくないほど嫌いとか?」
「そうじゃなくて……」
「好きだったんですか?」
軽い気持ちでそう口にした途端、ひどく傷付いた顔をされた。
(しまった……)
調子に乗り過ぎたらしい。余計なことを言ってしまった。
「すみません……」
俺が謝ると、榊さんはふっと息を吐いた。それから淋しそうに微笑んだ。
「好きだったかどうか分からない。今も」
「そうですか……」
無言になると悲しくなるような気がして、少し気軽に尋ねてみる。
「その人のことは怖くなかったんですか?」
「え? ああ……、平気っていうわけじゃなかったけど、その人が話しかけてくれたから」
「話す用事があったから?」
「うん。雑談をしたわけじゃなくて、なんか……、いつもノートを借りに来て」
榊さんのことを好きだったんじゃないのか? ――という疑問は口に出さなくてよかった。
「その人、彼女がいたのにさあ、ノートを借りに来るのはあたしのところだったんだよね……」
「そうなんですか……」
彼女がいたのなら、また事情は違う。
「チャラいヤツだったんですか?」
「え? ううん、全然。大きな声ではしゃいだりしないし、真面目で、どっちかって言うとおとなしい人」
「へえ……」
まあ、だから榊さんがこんなに悩んでいるのかも知れない。
「一度、テスト前に貸したノートを返してもらえなくてね」
「え?」
「でも、その人のところに行って、『返して』って言うことができなくて……」
(男が苦手だからか……)
相手が用事で話しかけてくるのは平気でも、自分の用事で話しかけることはできなかったってことらしい。
心の中に、紺色のブレザーとスカートの制服(俺の高校の制服だ)を着た榊さんが、言おうかどうしようかと迷っている姿が浮かぶ。そんな彼女の気持ちを思ったら、俺も胸が痛いような気がした。
「テスト前日に、急いで参考書を買いに行っちゃった……」
「榊さん……」
(話しかけるよりも、参考書を買う方が楽だったなんて……)
それほど男が苦手だったのだ。
どう言ってあげたらいいのか分からなくて黙っていると、彼女は当時の思い出をゆっくりと話してくれた。
「修学旅行の班行動のときにね、その人の彼女がいつも集合に遅れて来てね」
「ええ」
「そのことをね、あたしに『どうしてそのくらいのことができないんだろうな?』って言うんだよ」
「なんで……?」
「わからない。あたしには言い易かったのかな……と思って……」
自分で彼女に言えばいいのに……と思うのは俺だけか?
「一度席が近くなったときに、よく話しかけられて……。英語の予習とか、消しゴム貸してほしいとか……、勉強に関係ないこともちょっとだけ」
「ええ」
「誰とでも話しているのかと思っていたんだけど、隣にいた女の子にはそうでもなかったらしくて、その子にちょっと嫌味言われたり……」
「榊さんからその人に話しかけてたわけじゃないのに?」
「うん……。だから……、普通の女子よりはお友達なのかなあって……」
なんだろう、それって? なんだか腹が立つ。
榊さんの話だと、高校生のときの彼女は、たぶん目立たない部類の女の子だったんだと思う。だから、特別扱いされる謂われはなかった。……と、本人は思っている。
なのにその男は榊さんに近付いた。ほかの女子が気付くほどだから、その接近の度合いは明らかだったんだと思う。でも、そいつには彼女がいた。
たぶん榊さんは、おとなしくても勉強はできたに違いない。そして、やっぱり今と同じように親切だったんだと思う。俺には、そんな榊さんを、その男が単に便利に利用しただけに思えてしまう。
「あたしさあ……、」
「あ、はい」
「その人と普通におしゃべりができたら楽しいんじゃないかなあ、って…思ってたんだ……」
「普通に……ですか?」