心臓が胸をたたく音が榊さんにも聞こえているのではないかという気がする。それともこれは、榊さんの心臓の音……?
ガチャ。
すうっとドアが開いた。その細い隙間に黒っぽい人影が。
(来た)
「あれ?」
悪意の感じられない、不思議そうな声が。
「誰かいますかー?」
のんきささえ感じる問いかけ。状況がよく分からないながらも、肩にこもっていた力が抜ける。
少し顔を出してドアの方を見ると、廊下の明るい光を背負って、黒っぽい制服と制帽の人影が立っている。
「寺下さん……?」
「え?」
後ろで榊さんの声がして、背中の横から彼女が顔を出した。
「あれ? 紺野さん……と、榊さん?」
「はい」
倉庫に入って来た小柄な年配の制服姿は、間違いなく守衛の寺下さんだった。庶務係は守衛さんとの連絡も多いので、俺も榊さんも顔馴染みだ。
「いやあ、びっくりさせちゃったかなあ、あはははは」
俺たちが棚の陰から出て行くと、寺下さんは人の良さそうな顔で笑った。
「泥棒かと思って……」
榊さんはまだ笑えないでいる。
「ああ、巡回ですよ。鍵がちゃんと掛かってるか確認しながら」
言われてみると何でもないことだ。それに、よく考えたら、泥棒があんなに音を出して行動するはずがない。
でも、あの薄暗い中であんな音を聞いたら、誰だって怖い方に考えが突き進んでしまうと思う。
「まだここにいますか? だったら後でまた――」
「い、いいえ、もう終わりました。すぐ出ます。一緒に出ます」
寺下さんの言葉に榊さんが慌てて答えた。2度も怖い思いをした榊さんは、もうここにはいたくないんだと思う。
大急ぎでさっきの棚をチェックして、電気を消しながら、3人一緒に廊下に出た。
「本当に怖かった……」
鍵を掛けながら榊さんがつぶやく。
「すみませんでしたねぇ」
寺下さんは謝りながらも可笑しそうだった。それから、鍵が掛かっていることを確認するために、ドアノブを握ってガチャガチャやった。
「はい、OKですね」
寺下さんの笑顔につられて、俺たちもほっとしてうなずく。
「じゃあ」とあいさつを交わしてエレベーターの方に歩き出した俺たちに、後ろからからかうような声が。
「こんな所で逢い引きなんかしない方がいいですよ」
「え!?」
「逢い引き!?」
予想しなかったセリフに、榊さんも俺も、盛大に驚いて振り返る。そんな俺たちを、寺下さんが豪快に笑った。
「あはははは! 冗談ですよ、冗談!」
言葉を失ったままの俺たちをまた笑い、寺下さんは4番倉庫へと向かって行く。その背中がまだ笑っているような気がする。
榊さんと俺は、そうっと顔を見合わせて………いることができなくて、俺はすぐに視線をはずしてしまった。かと言って、黙っているのも気詰まりだ。
「ええと、じゃ、戻りましょっか」
「そうね。あ、鍵は……ちゃんと持ってるね、うん」
歩き出してからも黙っていられなくて、思い付くままに口に出す。
「あ、俺、スペアキーを持って来たんだっけ。ええと……」
「あ、じゃあ、あたしが一緒に片付けておくから、ちょうだい」
「ああ、はい」
ポケットから鍵を出している間に榊さんがエレベーターのボタンを押した。すぐに扉が開いて、順番に乗り込む。
「これ、スペアキーです」
「はい」
手のひらを差し出されて、そこにスペアキーをぽとんと落とす。彼女の指に触れないように。触れたらどうなるんだろう、と思いながら。
倉庫で重なった彼女の指。温かくて、優しくて……。
(でも、榊さんにとっては、あれは何でもなかったんだ……)
手が触れたことよりも、廊下の音に反応した。俺に心を乱されたりしなかったんだ。
今だって……。
狭いエレベーターの中に二人きり。なのに、落ち着いて階数表示の光を追っている。寺下さんの冗談も、もう忘れているみたいだ。
「ふぅ……」
壁に寄り掛かって榊さんの背中に向かって、こっそりとため息をつく。
ポ――――ン。
榊さんに促されて、がっかりした気分を隠しながら先にエレベーターから出た。そのまま行こうとすると、「あ、紺野さん」と小さく呼ぶ声がした。
「はい?」
笑顔を作って振り向くと、彼女は閉まる扉の前で立ち止まった。
彼女が言いたいことは察しがついている。心配して見に行ったお礼だ。
「あの、心配してくれてありがとう」
「いいえ」
(ほらね)
「あと、あの……ごめんね」
そんなに謝るほどのことではないと思う。でも、榊さんの今の様子に違和感がある。
「え……?」
「あの、しがみついちゃって」
その言葉を聞いた途端、背中と腕に彼女につかまれたときの感覚がよみがえった。背中に伝わってきた彼女の体温も。そして、分かった。
榊さんが恥ずかしがっている!
もじもじと手の中の鍵を触りながら、困ったような表情で俺を見る彼女。それはたぶん、間違いなく……。
「い、いいえ。あのくらいのこと」
信じられない気分だ。
榊さんが!
俺に!
「服が皺になっちゃったかも。あのときは怖くて……」
ガチャ。
すうっとドアが開いた。その細い隙間に黒っぽい人影が。
(来た)
「あれ?」
悪意の感じられない、不思議そうな声が。
「誰かいますかー?」
のんきささえ感じる問いかけ。状況がよく分からないながらも、肩にこもっていた力が抜ける。
少し顔を出してドアの方を見ると、廊下の明るい光を背負って、黒っぽい制服と制帽の人影が立っている。
「寺下さん……?」
「え?」
後ろで榊さんの声がして、背中の横から彼女が顔を出した。
「あれ? 紺野さん……と、榊さん?」
「はい」
倉庫に入って来た小柄な年配の制服姿は、間違いなく守衛の寺下さんだった。庶務係は守衛さんとの連絡も多いので、俺も榊さんも顔馴染みだ。
「いやあ、びっくりさせちゃったかなあ、あはははは」
俺たちが棚の陰から出て行くと、寺下さんは人の良さそうな顔で笑った。
「泥棒かと思って……」
榊さんはまだ笑えないでいる。
「ああ、巡回ですよ。鍵がちゃんと掛かってるか確認しながら」
言われてみると何でもないことだ。それに、よく考えたら、泥棒があんなに音を出して行動するはずがない。
でも、あの薄暗い中であんな音を聞いたら、誰だって怖い方に考えが突き進んでしまうと思う。
「まだここにいますか? だったら後でまた――」
「い、いいえ、もう終わりました。すぐ出ます。一緒に出ます」
寺下さんの言葉に榊さんが慌てて答えた。2度も怖い思いをした榊さんは、もうここにはいたくないんだと思う。
大急ぎでさっきの棚をチェックして、電気を消しながら、3人一緒に廊下に出た。
「本当に怖かった……」
鍵を掛けながら榊さんがつぶやく。
「すみませんでしたねぇ」
寺下さんは謝りながらも可笑しそうだった。それから、鍵が掛かっていることを確認するために、ドアノブを握ってガチャガチャやった。
「はい、OKですね」
寺下さんの笑顔につられて、俺たちもほっとしてうなずく。
「じゃあ」とあいさつを交わしてエレベーターの方に歩き出した俺たちに、後ろからからかうような声が。
「こんな所で逢い引きなんかしない方がいいですよ」
「え!?」
「逢い引き!?」
予想しなかったセリフに、榊さんも俺も、盛大に驚いて振り返る。そんな俺たちを、寺下さんが豪快に笑った。
「あはははは! 冗談ですよ、冗談!」
言葉を失ったままの俺たちをまた笑い、寺下さんは4番倉庫へと向かって行く。その背中がまだ笑っているような気がする。
榊さんと俺は、そうっと顔を見合わせて………いることができなくて、俺はすぐに視線をはずしてしまった。かと言って、黙っているのも気詰まりだ。
「ええと、じゃ、戻りましょっか」
「そうね。あ、鍵は……ちゃんと持ってるね、うん」
歩き出してからも黙っていられなくて、思い付くままに口に出す。
「あ、俺、スペアキーを持って来たんだっけ。ええと……」
「あ、じゃあ、あたしが一緒に片付けておくから、ちょうだい」
「ああ、はい」
ポケットから鍵を出している間に榊さんがエレベーターのボタンを押した。すぐに扉が開いて、順番に乗り込む。
「これ、スペアキーです」
「はい」
手のひらを差し出されて、そこにスペアキーをぽとんと落とす。彼女の指に触れないように。触れたらどうなるんだろう、と思いながら。
倉庫で重なった彼女の指。温かくて、優しくて……。
(でも、榊さんにとっては、あれは何でもなかったんだ……)
手が触れたことよりも、廊下の音に反応した。俺に心を乱されたりしなかったんだ。
今だって……。
狭いエレベーターの中に二人きり。なのに、落ち着いて階数表示の光を追っている。寺下さんの冗談も、もう忘れているみたいだ。
「ふぅ……」
壁に寄り掛かって榊さんの背中に向かって、こっそりとため息をつく。
ポ――――ン。
榊さんに促されて、がっかりした気分を隠しながら先にエレベーターから出た。そのまま行こうとすると、「あ、紺野さん」と小さく呼ぶ声がした。
「はい?」
笑顔を作って振り向くと、彼女は閉まる扉の前で立ち止まった。
彼女が言いたいことは察しがついている。心配して見に行ったお礼だ。
「あの、心配してくれてありがとう」
「いいえ」
(ほらね)
「あと、あの……ごめんね」
そんなに謝るほどのことではないと思う。でも、榊さんの今の様子に違和感がある。
「え……?」
「あの、しがみついちゃって」
その言葉を聞いた途端、背中と腕に彼女につかまれたときの感覚がよみがえった。背中に伝わってきた彼女の体温も。そして、分かった。
榊さんが恥ずかしがっている!
もじもじと手の中の鍵を触りながら、困ったような表情で俺を見る彼女。それはたぶん、間違いなく……。
「い、いいえ。あのくらいのこと」
信じられない気分だ。
榊さんが!
俺に!
「服が皺になっちゃったかも。あのときは怖くて……」