去年まで俺が担当していた業務で、難しくはないけれど面倒だ。それに、他人のパソコンは、保存してあるデータを見付けることに時間がかかることがある。

「ううん、大丈夫」

榊さんは笑顔で言った。

「紺野さんだって自分の仕事があるでしょう? 最終の締め切りは月曜日だから、なんとかなるよ」

そう言われたら、それ以上は言えない。それに、仕事のできる榊さんのことだから、本当に大丈夫なのだろう。

残念ではあるけれど、仕事のあとに軽くどこかに寄るくらいはできるかも知れない。望みをかけて、彼女の様子を見ながら、俺も残って仕事をすることにした。



「ちょっと地下倉庫に行ってきます」

そんな声が聞こえたのはもうすぐ9時になるという頃。

声の主は榊さん。庶務係でこの時間まで残っているのは、あとは係長だけ。

「あ、僕はそろそろ帰ろうと思ってたんだけど……」
「そうなんですか。わたしのことは気にしないで、どうぞお先に上がってください」
「そう……? 夜だけど、倉庫、一人で大丈夫?」

係長の言葉に俺の手が止まる。

(まさか一緒に行くつもりか……?)

庶務係長はいい人だけど、こんな時間に榊さんと二人だけで、地下倉庫なんかに行ってほしくない。節電で蛍光灯をあちこち抜いてある倉庫は、電気を点けても薄暗い。そんな場所でふたりきりなんて……。

警戒した俺の耳に聞こえてきたのは、榊さんの気楽な返事だった。

「はい、大丈夫です。もともと地下なんですから、昼も夜も変わりありませんよ。それに、ファイルを見付けたら持ってきて、ここで調べるつもりですから」
「そう?」
「はい。ですから、どうぞご遠慮なく帰ってください。じゃあ、行ってきます。お疲れさまでした」
「はい、気を付けて」

鍵箱から鍵を出し、なんとなく楽しげな足取りで榊さんがカウンターから出て行く。その姿をこっそりと目で追いながら、今度は彼女がひとりで行くのが危険な気がして、胸がざわざわしてしまった。

それから15分。

(帰って来ない……)

エレベーターの待ち時間を考えたら、これくらいで遅いとは言えないかも知れない。でも、時間はかからないって言ってたのに。

榊さんは、あの倉庫で資料を探すことには慣れている。それに普段から、書類や失せ物を見付け出すのが上手なひとだ。だから、倉庫に着いたら2、3分もあれば、目当てのものは見付けられるはずだと思う。

(どうしよう?)

庶務係長はさっき帰ってしまった。うちの課で残っているのは、俺ともう一人。彼女の心配をしているのは俺だけ。

心配し過ぎだろうか。

でも、昼間でもあまり人の来ない地下倉庫を思い浮かべたら、心配せずにはいられない。何かがあっても、誰も助けに来てくれそうもない。

(何かが……って……)

可能性のある災難が次々と頭に浮かんでくる。こんな状態では仕事に集中できない。

(あと1分待ってみよう)

もう戻るかも、今にもエレベーターが到着するかも、と、そわそわしながら廊下を気にしてる。1分が過ぎ、もう1分、もう1分……と時計の秒針を見つめて。

(やっぱり遅い。見に行こう)

彼女が席を立って20分が経過したところで決心した。斜向かいの席で仕事をしている六田さんに「地下倉庫に行ってきます」と言うと、不思議な顔をされた。

「地下倉庫? 今?」
「はい。さっき、榊さんが行ったきり、戻って来ないんです」
「え?」

六田さんが榊さんの席を振り返った。

「榊さん、地下倉庫に行ったの? 一人で?」
「はい」
「勇気あるなあ。こんな時間には、俺は無理だ~」
「え、そうですか?」
「だって、何か出そうじゃん?」

怖そうに声をひそめてそう言って、両腕をさする。そして、「早く見に行ってあげた方がいいよ」と言ってくれた。

六田さんの言葉と表情で、俺もなんだか気味が悪くなってしまった。だとしても、とにかく今、怖い場所にいるのは榊さんだ。

急いで鍵箱に行き、中を確認する。なくなっているのは3番だ。

念のためスペアキーを持ち、急ぎ足でエレベーターへ。やって来たエレベーターに乗り込みながら、行き違いになるならそれでもいいやと思う。行き違いになるってことは、彼女が無事だってことなんだから。



ポ――――ン……。

六田さんの話を聞いたせいか、エレベーターの到着音が、いつもよりも元気がないような気がした。

エレベーターから出ると、地下の廊下はひんやりと冷たい。ほぼ無音の細長い空間では、低い天井のむき出しの蛍光灯が、なんとなく悪意を持って人間を監視しているように感じられる。

(気持ち悪……)

今までも夜に来たことはあるけど、こんなに妙な気分になったことはなかった。この先の倉庫に、榊さんはひとりでいる……。

彼女がいるのは3番倉庫のはず。

倉庫は廊下の左側に、手前から1番から5番まで並んでいる。右側は機械室や空調室、清掃業者さん用の荷物置き場など、一般の社員にはほとんど無縁の場所。自分の足音が響くことさえ気味が悪くて、そうっと歩いて3番倉庫のドアに到着。

(まだいるのかな……)