そのままずっと、落ち込んだ気分が続いた。隣の女性に冗談を言われたときも、昼食を同期の友人と食べたときも、心から笑うことができなかった。
仕事中は書類やデータに集中していることができるから気が楽だ。いつの間にか出口のない思考の中に入り込んでいても、誰にも気付かれないし。
近くを通った榊さんが、俺を見ていることには何度か気付いた。でも、俺は一度も彼女に視線を向けなかった。
だって、見られるわけがない。あんな失礼なことを言っておきながら。
それに、怖い。
もしも軽蔑の色が浮かんでいたりしたら。もしくは憐みの表情が。それらは俺の希望を完全に打ち砕くものだ。
その日、俺は給湯室やエレベーターでも榊さんと一緒にならないように、細心の注意を払った。翌日の金曜日も。
榊さんを避けても、胸の痛みがやわらぐことはなかった。逆に、今まで親しくしてくれていた彼女に対する罪悪感がつのるだけ。
さらに、このままでは二度と口を利けなくなってしまうかも知れないと気付いた。もしもそんなことになってしまったらどうしよう?
「榊と喧嘩したんだって?」
午後も半ばを過ぎたころ、廊下で会った槙瀬さんがニヤニヤしながら小声で話しかけてきた。
一方的に彼女を責めてしまった俺は、「喧嘩」という言葉には頷けなかった。それに、そのことを彼女が槙瀬さんに話したということにも複雑な気持ちになって。
俺の頑なな表情を見て、槙瀬さんは笑った。
「気にするなよ。榊もたまにはそういうことがあった方がいいんだから」
からかうようにそう言った槙瀬さんが恨めしくなる。まるで槙瀬さんだけが榊さんのことを理解していると言われているようで。
それに比べて、拗ねていることしかできない自分を思うと、情けなくて悲しくなってしまう。
(榊さんが悪いんだ)
夕方になり、こんなに悲しい気分で週末を迎えるのかと思ったら、思わず胸の中でつぶやいていた。
子どもの理屈だと分かってる。本当に悪いのは自分だって。
だけど、榊さんだって、あれから何も言ってくれない。あのときだって、……飲み過ぎたことだって、榊さんは怒らなかった。
俺のことなんかどうでもいいんだ。俺には最初から期待してないから。
(そうだよ)
だいたい、榊さんはおかしいんだ。誰に対しても怒ったりしないなんて。誰に対しても……。
誰に対しても……?
誰に対しても怒らないってことは、誰に対しても期待しないってことか? 最初から期待してないから腹も立たない……?
そうなのか?
そっと目を上げて、隣の島で仕事をしている榊さんを見た。彼女をちゃんと見るのは、きのうの朝以来初めてだ。
いつもどおりの柔らかい表情でパソコンに向かっている榊さん。そこにやって来た人事課の社員に書類を見せられて、指をさしながら何かを話し始めた。その親切で感じの良い態度は、彼女と知り合ってから毎日のように見てきた。誰に対しても親切で、何度も間違える相手にも怒ったりしないで。
(誰に対しても……)
急に、榊さんが孤独に思えた。
みんなに親しまれているのに、いつも笑顔でいるのに、榊さんが寄り掛かる誰かはいない――。
(まさか。そんなこと)
否定しようと思ってもできなかった。
3年間一緒に仕事をしながら、彼女が他人に頼らないことを見てきたから。手伝いを申し出ても、彼女一人ではどうしようもない場合以外は断られた。
(仕事以外でもそうだったんだ……)
あの日のことを思い出す。
同窓会のことで悩んでいたことを、俺が脅さなければ話してくれなかった。男が苦手だということも、女友達にさえ話したことがないと言っていた。
(そんな……)
榊さんには誰も頼る相手がいない? そんなことあるんだろうか?
――榊が自分自身でいられる男は、紺野と俺くらいだからな。
いつかの槙瀬さんの言葉が頭の中に聞こえた。
社内で榊さんが一番親しくしているのは、槙瀬さんと俺、そして里沢さんだろう。でも、里沢さんは結婚して係長になって、以前ほど一緒の時間が取れなくなった。槙瀬さんと親しいのは間違いないけど、プライベートな悩み事を相談することまではしていなかった。
もちろん、職場以外の友達もいるだろう。でも、俺は年に数回しか会わない学生時代の友人よりも、同期の友人や槙瀬さんの方が今では話しやすい。榊さんだって……。
(俺、榊さんに酷いことをしてるのかも……)
俺の失態を許してくれた榊さんに。
落ち込んだ俺を慰めようとしてくれた榊さんに。
(謝ろうかな……)
その方がいいような気がする。いや、そうしたい。このまま引き延ばしちゃダメだ。
(でも、どうやって……?)
ぐずぐず考えているうちに終業時間になり、めずらしく榊さんはすぐに帰ってしまった。