「どの料理も美味しいですね」
「でしょう?」
向かいの席に座った榊さんがにっこりと笑ったあと、白ワインのグラスを手に取る。その姿を、俺はほわんとした気分で眺める。
今日の榊さんは柔らかい生地の、襟もとでリボンを結ぶブラウスを着ている。のどのところに見える銀色のチェーンのペンダントが、榊さんの唯一のアクセサリー。
彼女はピアスも指輪も身に着けない。ピアスは穴を開ける勇気がないし、指輪は邪魔なのだそうだ。そんな理由も、俺は榊さんらしいと思っている。
テーブルには真ん中にパエリア、その周りに魚や野菜料理の皿が3つほど。今日は、榊さんが友人から教えてもらったというスペイン料理の店に来た。
職場を出るのが予定よりも遅れて、一駅隣のここに着いたのは8時少し前。「混んでるかも」と心許ない様子だった榊さんの予想に反して、少し静かな通りにあるその店に着くと、すぐに席に案内してもらえた。
二人ともお腹が減っていたせいか注文する料理は素早く決まり、せっかくだからと食前酒で乾杯をした。手頃な値段のワインも一本頼んだ。“景気付け” だからということもあるけど、榊さんも酒は弱い方じゃない。
明るい店の雰囲気と美味しい料理で話が弾み、俺はすっかり楽しい気分。榊さんだって、きっと同じだと思う。
「ほら、紺野さん、もっと食べて」
空になっている俺の取り皿を見て、榊さんが鰯のグリル料理をすすめてくれる。
「あー、俺はこっちがいいんですけど」
俺だけのために微笑んでいる榊さんにこっそり見惚れながらパエリアを指差すと、榊さんがくすくす笑って頷いた。
「どうぞどうぞ。お皿にとってあげようか?」
「すみません」
「いいえ」
俺の取り皿に榊さんがパエリアを大きなスプーンで取り分けてくれる。ついでに、その周りの皿からも。
(幸せだなあ……)
俺のために料理を取り分けてくれる榊さん。その姿を頬杖をついて、ぼんやりと眺めてしまう。彼女は途中でちらりとこっちを見て、目が合うと、作業を続けながら下を向いてくすくす笑った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ふざけてお辞儀をして顔を上げると、榊さんがニヤッと笑ってワインのグラスを取った。それは最後の一口で……。
「……あれ?」
注いであげようと思って持ち上げたボトルは空だった。
「どうします? もう一本頼みますか?」
「うーん、あたしはグラスワインでもいいけど」
俺のグラスには半分くらい残っているけど……。
「まだ料理もありますから、もう一本行きましょう」
「そう? 紺野さん、大丈夫?」
「え?」
じっと見つめて尋ねられたけれど、その意味がよく分からない。榊さんは俺の顔を見つめたままにこにこして言った。
「ちょっと酔っ払ってるかなー、と、思って」
(酔っ払ってる?)
俺が?
榊さんの前で?
そんな、みっともないことを?
あるわけないけど。
「そう見えますか?」
「うん」
「普通ですけど」
「うーん……、なんか、いつもよりにこにこしてるよ?」
なるほど。
分かった。それはお酒のせいじゃない。榊さんのせいだ。そりゃあ、少しは酔いも手伝ってはいるだろうけど。
「にこにこしてるのは、楽しいからです」
さすがにいきなり告白なんてできない。……いや、酔ったふりでなら、失敗しても冗談にできるかも?
「大丈夫ですよ。2人でワイン2本なんて、今までだって何度もありますから」
「そう? じゃあいいよ」
一緒にワインリストを覗き込む。その時間も幸せでいっぱい!
(もう、永久にこうやっていたい……)
もちろん、無理だって分かっているけど。
「紺野さん、やっぱり酔っ払ってる」
駅へ向かいながら、隣で榊さんが笑う。11月の夜の冷たい風が頬に気持ちいい。
「このくらい、普通です」
多少頭がぐるぐるするけれど、こんなのどうってことない。
「そう? でも、まっすぐ歩けてないよ?」
「そんなことありませんよ」
「そうなんだ……」
下を向いた榊さん。その顔を、隣から覗き込んでみる。
「……笑ってる。信じてないんだ」
俺が言うと、彼女は拳を口元に当てて、「ふふっ」と笑った。
「ほら、笑ってる」
「はいはい、その通りです」
そう言って、また「ふふっ」と。
「あ」
それを見て気付いた。
「え?」
「酔っ払ってるのは榊さんです」
「えぇ? あたし?」
「そうです。そんなにくすくす笑ったりして」
「ああ、うふふ」
「ほらね。だから俺が酔っ払ってるように見えるんです」
「そうかな?」
「そうです。間違いありません」
「そうですか。分かりました」
少しの間、無言で夜の中を歩く。のんびりした歩調は、もちろん榊さんと一緒の時間を引き延ばすため。しゃべり続けなくても、俺と榊さんの仲なら、何も気詰まりなことはない。
(そうですよね?)
そっと隣を見ると、榊さんはリラックスした表情で、少し微笑んでいた。バッグを両手で後ろに提げて、視線は前方の少し上。遠くの星をながめるように。吹いてきた風で乱れた髪を、そっと片方の耳にかける。
(いいなあ……)
和んでいたら、彼女が突然こちらを向いた。俺と目が合うと、またくすくすと笑う。
それを見たら楽しくなって、カバンを振り子みたいに振って、ぐるりと一回りしてみた。
「ああ、気持ちいい」
榊さんとふたりきりの夜の道。美味しい食事とお酒。温まった体に冷たい風。
「幸せだ~」
榊さんがまたくすくす笑った。
「酔っ払いじゃない紺野さん?」
「はい」
「あたしは酔っ払ってるみたいだから、タクシーで帰ろうかと思うんだけど?」
「あ、じゃあ、俺も一緒に乗って、送ります」
「うん。そうしてもらえると、心強いかな」
「はい!」
(榊さんに頼りにされてるよ~)
嬉しい。それに、もしかしたら……。
送ったついでに部屋に入れてくれるかも。そんなことになったらどうしよう!?
「でしょう?」
向かいの席に座った榊さんがにっこりと笑ったあと、白ワインのグラスを手に取る。その姿を、俺はほわんとした気分で眺める。
今日の榊さんは柔らかい生地の、襟もとでリボンを結ぶブラウスを着ている。のどのところに見える銀色のチェーンのペンダントが、榊さんの唯一のアクセサリー。
彼女はピアスも指輪も身に着けない。ピアスは穴を開ける勇気がないし、指輪は邪魔なのだそうだ。そんな理由も、俺は榊さんらしいと思っている。
テーブルには真ん中にパエリア、その周りに魚や野菜料理の皿が3つほど。今日は、榊さんが友人から教えてもらったというスペイン料理の店に来た。
職場を出るのが予定よりも遅れて、一駅隣のここに着いたのは8時少し前。「混んでるかも」と心許ない様子だった榊さんの予想に反して、少し静かな通りにあるその店に着くと、すぐに席に案内してもらえた。
二人ともお腹が減っていたせいか注文する料理は素早く決まり、せっかくだからと食前酒で乾杯をした。手頃な値段のワインも一本頼んだ。“景気付け” だからということもあるけど、榊さんも酒は弱い方じゃない。
明るい店の雰囲気と美味しい料理で話が弾み、俺はすっかり楽しい気分。榊さんだって、きっと同じだと思う。
「ほら、紺野さん、もっと食べて」
空になっている俺の取り皿を見て、榊さんが鰯のグリル料理をすすめてくれる。
「あー、俺はこっちがいいんですけど」
俺だけのために微笑んでいる榊さんにこっそり見惚れながらパエリアを指差すと、榊さんがくすくす笑って頷いた。
「どうぞどうぞ。お皿にとってあげようか?」
「すみません」
「いいえ」
俺の取り皿に榊さんがパエリアを大きなスプーンで取り分けてくれる。ついでに、その周りの皿からも。
(幸せだなあ……)
俺のために料理を取り分けてくれる榊さん。その姿を頬杖をついて、ぼんやりと眺めてしまう。彼女は途中でちらりとこっちを見て、目が合うと、作業を続けながら下を向いてくすくす笑った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ふざけてお辞儀をして顔を上げると、榊さんがニヤッと笑ってワインのグラスを取った。それは最後の一口で……。
「……あれ?」
注いであげようと思って持ち上げたボトルは空だった。
「どうします? もう一本頼みますか?」
「うーん、あたしはグラスワインでもいいけど」
俺のグラスには半分くらい残っているけど……。
「まだ料理もありますから、もう一本行きましょう」
「そう? 紺野さん、大丈夫?」
「え?」
じっと見つめて尋ねられたけれど、その意味がよく分からない。榊さんは俺の顔を見つめたままにこにこして言った。
「ちょっと酔っ払ってるかなー、と、思って」
(酔っ払ってる?)
俺が?
榊さんの前で?
そんな、みっともないことを?
あるわけないけど。
「そう見えますか?」
「うん」
「普通ですけど」
「うーん……、なんか、いつもよりにこにこしてるよ?」
なるほど。
分かった。それはお酒のせいじゃない。榊さんのせいだ。そりゃあ、少しは酔いも手伝ってはいるだろうけど。
「にこにこしてるのは、楽しいからです」
さすがにいきなり告白なんてできない。……いや、酔ったふりでなら、失敗しても冗談にできるかも?
「大丈夫ですよ。2人でワイン2本なんて、今までだって何度もありますから」
「そう? じゃあいいよ」
一緒にワインリストを覗き込む。その時間も幸せでいっぱい!
(もう、永久にこうやっていたい……)
もちろん、無理だって分かっているけど。
「紺野さん、やっぱり酔っ払ってる」
駅へ向かいながら、隣で榊さんが笑う。11月の夜の冷たい風が頬に気持ちいい。
「このくらい、普通です」
多少頭がぐるぐるするけれど、こんなのどうってことない。
「そう? でも、まっすぐ歩けてないよ?」
「そんなことありませんよ」
「そうなんだ……」
下を向いた榊さん。その顔を、隣から覗き込んでみる。
「……笑ってる。信じてないんだ」
俺が言うと、彼女は拳を口元に当てて、「ふふっ」と笑った。
「ほら、笑ってる」
「はいはい、その通りです」
そう言って、また「ふふっ」と。
「あ」
それを見て気付いた。
「え?」
「酔っ払ってるのは榊さんです」
「えぇ? あたし?」
「そうです。そんなにくすくす笑ったりして」
「ああ、うふふ」
「ほらね。だから俺が酔っ払ってるように見えるんです」
「そうかな?」
「そうです。間違いありません」
「そうですか。分かりました」
少しの間、無言で夜の中を歩く。のんびりした歩調は、もちろん榊さんと一緒の時間を引き延ばすため。しゃべり続けなくても、俺と榊さんの仲なら、何も気詰まりなことはない。
(そうですよね?)
そっと隣を見ると、榊さんはリラックスした表情で、少し微笑んでいた。バッグを両手で後ろに提げて、視線は前方の少し上。遠くの星をながめるように。吹いてきた風で乱れた髪を、そっと片方の耳にかける。
(いいなあ……)
和んでいたら、彼女が突然こちらを向いた。俺と目が合うと、またくすくすと笑う。
それを見たら楽しくなって、カバンを振り子みたいに振って、ぐるりと一回りしてみた。
「ああ、気持ちいい」
榊さんとふたりきりの夜の道。美味しい食事とお酒。温まった体に冷たい風。
「幸せだ~」
榊さんがまたくすくす笑った。
「酔っ払いじゃない紺野さん?」
「はい」
「あたしは酔っ払ってるみたいだから、タクシーで帰ろうかと思うんだけど?」
「あ、じゃあ、俺も一緒に乗って、送ります」
「うん。そうしてもらえると、心強いかな」
「はい!」
(榊さんに頼りにされてるよ~)
嬉しい。それに、もしかしたら……。
送ったついでに部屋に入れてくれるかも。そんなことになったらどうしよう!?