隣で榊さんがため息をついた。

(きた!)

これが目的だったのだ。

「ああ…、すみません。お詫びにお昼でもおごりますよ」
「え、いいよ、おごってくれなくても」
「でも、嫌な話を持ち出したのは俺ですから……」
「やだ、気にしないでよ。そんなことくらいでおごってたら、お金がいくらあっても足りないよ?」
「あ、ああ……、そうですね……」

残念。上手くいかなかった。

榊さんが相手では、俺の思惑どおりには行かないらしい。話もそれほど広がらなかったし。

けれど。

「紺野さん、紺野さん」

夕方、給湯室の前を通りかかったとき、中にいた榊さんに呼び止められた。

「はい?」

彼女のこっそりした様子に、少しだけ期待。その他の大部分は「期待するな」と戒め。

「ねえ、紺野さんは同窓会ってあった?」

同窓会の話だ。一気に気合いが入る。

「ええ、ありましたよ。2年くらいまえに、高校のときのが」

でも、その気合いを外に出してはいけない。落ち着いて、そして、余裕のある態度で!

「ねえ、そのときって、同級生の顔とか分かった? 特に女子」

(ああ、なるほど)

榊さんは、あのノート男のことを気にしてるんだ。そいつと会っても、相手が自分のことが分からないんじゃないかって。

「そうですね……」

でも、どっちだろう?

分かってほしいのか、分かってほしくないのか。

「女子は……、だいたい分かりましたよ。みんなお化粧して綺麗になってましたけど、たぶん、知り合いは全員分かりました」
「分かるんだ……」

榊さんはあきらかにがっかりしている。つまり、自分だって気付いてほしくないのだ。

「榊さん、高校のときと体型が変わったりしてますか?」
「え? ううん、ちょっと痩せただけ」
「髪型は?」
「高校生のころは、パーマはかけてなかったけど……」

パーマと言っても、彼女のは緩やかに裾にかけてあるだけだ。

「そのくらいの違いだったら、すぐに分かると思いますよ」
「ああ、そう……」

がっくりしている榊さんを前に、ここからどういう展開になるのか読めない。朝の経験で、自分できっかけを作っても、それが自分に都合良く進むわけじゃないことは分かっている。でも……、今はまず元気になってほしい。

「あの、ほとんどの女の子は綺麗になってましたから、」

少し焦りながら言ってみる。彼女は上目づかいに俺を見上げた。

「榊さんもきっと『見違えた』って……」

そこで失敗に気付いた。

「男が寄って……来たりして……、ええと、すみません」

榊さんの「言ってほしくなかった」という顔を見ながら、ものすごく後悔した。榊さんはモテたいひとではなかったんだった……。

やっぱり、榊さんが嫌がることを言うのは嫌だ。好きな人にはいつも楽しそうにしていてほしい。

「いいよ、気にしなくても」

ふっとため息をつきながら彼女が言った。

「あたしが気にし過ぎなんだもの。ほんの2時間くらいのことなのにね」
「ああ、いいえ……」

俺が慰められてどうするんだ!

気分がどんどん落ち込んで行く。

秘密を打ち明けられたからって、得意になったりして。しかも、それを利用しようとするなんて。

「や、やだ、ごめんね、紺野さん。紺野さんは何も悪くないのよ。ホントに」

その上、逆に謝られてしまっている。そんな自分が情けなくて、ますます落ち込む……。

「すみません……」
「え、違うってば。紺野さんは悪くないって言ってるのに」

そんなこと言われても、俺は本当は卑怯者で……。

「あ、ねえ、じゃあ、ご飯でも食べに行こうか?」
「え?」

パチン、と頭の中で電気が点いた。

「なんかさ、ほら、景気付けに美味しいものでも」
「景気付け?」
「そう」
「美味しいもの?」
「うん」
「行きます」

俺の即答に、彼女がにっこりと笑う。

ああ、幸せだ……。

「いつがいい?」

その問いに、仕事の都合を考えかけてハタと気付く。明日以降にしたら、ほかの誰かを誘うことになってしまうかも知れない。

「今日がいいです」

絶対、“二人で” に決まってる。

「今日?」
「ダメですか?」
「うーん…ちょっと仕事があるけど……」
「俺も少し残る予定がありますから、合わせます」

きっぱり言い切ると、榊さんはにっこり微笑んだ。

「うん、わかった。そうね、7時くらいかな」
「はい」

俺もにっこり微笑んだ。

最高に幸せだ!