すぐにでも辞めたいけど、辞める勇気がないのでいっそ潰れて欲しい。猫彦がそう思いながら勤める零細企業は、大不況にぎりぎり持ち堪えていた。

 今年還暦を迎える社長の道明寺。猫彦の上司の桃山。猫彦の同期の春菜。七つ下の後輩正太郎。彼らに猫彦を加えた五人が、小さな街の小さな会社で、毎日どうでもよい仕事をして、どうでもよい生活を送っていた。

 猫彦はこのメンバーのことを自らも含め、全員種類の違うアホ的な何かだと思っていた。会社は広告を生業としており、紐広告が主力の商品だった。紐広告とは紐型の広告のことである。うどんのような細長い紐に、びっしりと広告の文字を書き込んで、それを電車やタクシーの車内、電柱や街路樹、店舗の天井などからぶら下げて宣伝する。そんなもの誰が読むんだと思われるかもしれないが、意外なことに需要はそこそこあった。

 ある日、道明寺が新しい分野を開拓すると言って社員を一室に集めた。道明寺は上機嫌にこう切り出した。
「我が社の紐広告のノウハウを活かして、紐タウン誌をやりたいと思う」
 そして誇らしげな表情、いわゆるドヤ顔をした。数秒の沈黙の後、
「さすが社長、ナイスアイデアですね」
 と桃山がお世辞を言った。桃山は道明寺の前では調子を合わせるが、道明寺が見えなくなるとすぐにその悪口を言う。誰に対してもそうで、猫彦のいない時には「あいつは根暗だ」、春菜のいない時には「顔はいいけど性格がきつい」などと言っていた。桃山自身がそんななので、桃山は自分のいないところで陰口を叩かれていると思い込んでノイローゼの気配がある。

 それはともかく、紐タウン誌とはどういうことだ。猫彦は他のメンバーの反応を観察した。全員がぽかんとしていた。言い出した道明寺自身も、自分の言ったことを忘れたかのようにぽかんとしていた。

 外は春の陽気。
 ぶぅぅーーーーーーーーーん。
 車が一台近づいて来て、遠ざかっていく。

 猫彦はぼんやり考えた。紐のタウン誌ということは、つまりタウン情報を紐に書くということか。それは誌なのだろうか、タウン紐なのではないだろうか。いや、呼び方はどうでもよいが、紐に書き込める情報はかなり少ない。経験上、最大でも一四〇文字といったところだ。そんなことが可能なのだろうか。さっぱり分からない。社長、いよいよ呆け始めたか。

「ちょっと待ってください」
 静けさを破ったのは春菜だった。桃山にナイスアイデアと言われて得意になっていた道明寺が、水を差されたと思ったのかムッとした様子で、なんだと聞いた。
「タウン誌ってどういうことですか。もう少し詳しく教えて頂けないでしょうか」
「タウン誌はタウン誌だよ、この地域のイベントとか生活情報を掲載して発行するわけだよ」
「いえ、それを紐でやるということについてです。紐は媒体として不向きではないでしょうか」
「何を言いだすんだ。紙でできるんだから紐でもできるだろう。実際これまでそうやってきただろう」
「広告とタウン誌とでは情報量が全然違います」
「じゃあ紐の本数を増やせばいいだろう」
「そんなことをしたら縄暖簾みたいになってしまいます」
「おお、いいじゃないか。飲食店の入り口が広告スペースになるな」
 桃山は腕を組み目を閉じ、社長の言葉にいちいち深く頷いている。桃山は道明寺がいったん決めたことは絶対に変わらないと信じているので、荒波を立てずに同意することを理念としている。

 最近入社したばかりの正太郎は状況を掴めず、社長と春菜のやり取りを茫然と見ている。人間、変わらなくなったらおしまいだな。と猫彦は思いながら、手元のボールペンを分解したり組立てたりして暇を潰していた。道明寺と討論するのは、いつも春菜だった。
「紐のタウン誌なんて、私は」と春菜が意見を言いかけた時、うるさい! 道明寺が一方的に議論を断ち切ってしまった。部屋はぴりぴりとした雰囲気に包まれた。

 ぐるぐるぐると猫彦の腹が鳴った。
 猫彦が腕時計を見ると正午を過ぎていた。
 早く昼休みにしようよ。お腹すいたよ。
 と猫彦は思った。