苫屋の老夫婦は、タカオが消えた事で菊理を責めたりはしなかった。タカオは消えたのでは無く、海へ還ったのだと、至に会おうとしたから、海の神様は怒ったのだと納得したようだった。
 ……そして、菊理は。


 結婚式までの期間は短かった。あれほど嫌だと思っていたのに、菊理はウェディングドレスを纏って、式が始まるのを待っていた。
 身支度が終わり、ほんの一瞬、菊理は一人になっていた。
 もうすぐに、迎えが来る。
 窓に映ったドレス姿から、菊理は思わず視線を外した。
 特別、結婚や結婚式に強い憧れを持っていたわけでは無かったのだが、婚礼衣装は着物がいいと密かに思っていた。
 けれど、神前式を行う事に、菊理はためらいがあった。
 八百万の神々、いずれかの神社であっても、それは赤江島の竜神社の眷属では無いのだろうかという恐れがあった。
 菊理は、あの日から水を恐れるようになっていた。
 夜、暗い水面から、タカオが現れるのではないかと恐れる。
 あれほどすべてを委ね、自分を求めてくれた存在を、菊理は裏切り続けている。
「お時間です」
 迎えに来てくれたスタッフと共に、菊理の父が待っていた。
「やあ、きれいに仕上がったね」
 父は、娘が家の犠牲になる事に罪悪感を持っていたようだったが、それでも、花嫁姿を見て笑顔を見せてくれた。
 菊理もぎこちなく笑い、父と並ぶ。
 チャペルへの扉が開き、真っ直ぐ進むカーペットの先で、司祭と共に菊理を待っていたのは、

……至だった。
「ハネムーンの定番といえば、海だろうと思ったんだけどね」
 慌ただしい結婚式の後、二人が選んだ新婚旅行先は、山奥の温泉だった。
 ハワイやグアム、あるいはバリ島。兼田の跡取り息子である至の家の財力があれば、世界一周だってできただろう。
 けれど、若夫婦はそのどちらも選ばなかった。
「……ごめんなさい」
 しかも、運転しているのは至だ。都心から高速道路を使って三時間ほど。それでも、期間だけはたっぷりと一週間休みをとった。
「いや、湯治だと思ってのんびりするさ、何しろ君と一週間一緒にいられるわけだからね」
 唯一の救いは、形だけの夫婦になる予定だった相手に対して愛情らしいものを持てた事だろうか。
 愛情なのか、それとも、共に罪を背負ったゆえの共犯意識か。
 至は、菊理に溺れた。
 初めて虚勢をはらずにすむ相手だからか、弱みを見せる事のできる相手だからか。
 一人になりなくない、と、恐れる菊理に対して、急ぎ結婚式を、と、望んだのは至も同様だった。
 助手席の菊理に至が手を伸ばし、顎を掴んで軽く唇を重ねた。
「ちょっと……っ、こんな、外で……」
 菊理が赤面してうつむくと、至は愉快そうに笑った。
 もっと早く、至と打ち解けていたらよかったのだろうか。ふと、菊理は思う。
 至を厭い、逃げた先で会ったタカオに、溺愛されて、菊理も変わったのかもしれない。
 だが、時は戻らないのだ。
 至の運転する車の助手席から、紅葉した木々が流れるように後方に去っていく。
 途中、ダムや観光名所と言われているところにも立ち寄りながら、あと一息で宿に着くというところで、至がナビに従わず、直進した。
「まだチェックインには時間があるね、この先、滝があるんだって、ちょっと寄ってみようか」
 滝といえば水である。滝、と聞いて菊理が身をすくめた。
 菊理は至の提案に異を唱えはしなかったが、無言のままの菊理を気遣うように至が言った。
「ここは、海から何百キロも離れてるんだ、物理的な距離の隔たりは、いくら何でもゼロにはできないだろう?」
 確かに至の言う通りではある。
 だが、至は嵐の夜のタカオを知らない。神憑りの姿を知らない。
 けれど、忘れなくてはならないのだ。菊理は、心を決めたように笑顔を見せた。
「そうだね、言ってみようか」
 河床を割くように流れ落ちる渓谷は、ニキロほど続いているという。菊理は、滝と聞いてもっと落差のあるものを想像していたが、どちらかというとゆるやかに流れる河が、岩の裂け目に流れ落ちていくような様相のものだった。
 少し規模は小さいが、ナイアガラやイグアスの滝のように、ある程度の川幅を持った複数の滝が流れ落ちていく様子は見応えがあった。
 川べりは風が涼しく、車移動で少し汗をかいた後だったせいもあり、清々しさがあった。
 菊理は、思い切って来てみて良かった、そう思った。
 タオルを持ってきた至が、靴を脱いで足を川面に近づける。
「うわ、思ったより冷たっ!!」
 流れてくる川の水は、近くの連峰からの雪解け水らしい。
 確かに、海よりは山の領域に居る安心感があった。
「君もどう? 気持ちいいよ? どうせすぐにチェックインするし、少々濡れても大丈夫だろ?」
 至が入ったあたりは浅く、くるぶしあたりが濡れる程度だ。至も、パンツの裾を少したくしあげただけで、着ている物までは濡れていない。
 菊理も、靴下を脱いで足をつけてみる事にした。
 足の裏をわずかに濡らすと、ひんやりとした感触が背筋を登っていく。
 至の手をとり、川の中に入ると、大きな岩の上だという事もあって、足が痛む事もなかった。
「本当、気持ちいい」
 菊理が両足で川面に立った、その瞬間。
 菊理を中心に、波紋ができる。
 ふわり、と、広がり、すぐに水面は何事もなかったように静かになった。
 見ると、至は気づいて居ない様子で、菊理は、一人で幻覚を見たのだろうかと不安になった。
「……どうかした?」
 足元をしきりに気にしている菊理に、至が心配そうに尋ねたが、菊理は曖昧に微笑むだけで、湧き上がった不安を言葉にはしなかった。
 宿へ行き、チェックインをしても、菊理の気持ちは晴れなかった。
 平日であるせいか、宿は空いていて、新婚旅行という事もあり、最上級の部屋をとってくれたおかげで、部屋にも露天風呂も備え付けられてはいたが、菊理は宿の大浴場の方へ行ってみる事にした。
 運転で疲れたと、横になる至を部屋に残して一人大浴場へ行くと、まだ誰も居ない。
 広々とした大浴場で一人で居ると、不思議と赤江島の苫屋の事が思い出された。
 民宿である苫屋には露天風呂は無く、少し広めの家族風呂を一人で使っている時に、唐突に入ってきたタカオの事に考えが及ぶと、菊理は、胸の痛みと共に、暖められた体の内に、炎が灯るような錯覚に陥った。
 至とタカオ、二人の男は、思えば似ているところも多かった。
 貪欲に菊理を求めるところや、乱暴そうなのに、一つ一つの行動は優しく、いたわるように菊理に触れてくるところも。
 自分は、至の中にタカオと同じものを探しているのだろうか。
 苫屋の老夫婦が、手放した息子の面影をタカオに重ねたのと同じように。
 菊理は、自分に都合よくタカオを忘れていく事に罪悪感を覚えながらも、本当はタカオを欲しているのだろうかとも思った。
 至を身代わりにしようとしている?
 浴びるような愛に目がくらんで、考えまいとしていた思いが鎌首をもたげた。
 その時だった。

 ずずっ……。
 ずずっ……。

 何か、大きな生き物が這いずるような物音が聞こえて、驚いて菊理が周囲を見回す。
 すりガラスの向こうは大浴場になっている。
 今いる露天風呂は、岩風呂で、屋根は無いが、川のせせらぎが聞こえている。
 ここは、川に近かったのか。
 あわてて菊理は風呂から立ち上がったが、壁の向こうは恐らくは外で、露天風呂から出るには、一度大浴場に戻らなくてはならない。
 すりガラスの向こうに、影がかかる。
 もう、そのガラス戸から、菊理は目を離す事ができなかった。
 ガチャリ、と、ガラス戸が開くと、……そこには、タカオが立っていた。
「クク……リ……」
 タカオは、神憑りした姿では無かった。銀色の瞳でも無い、かつての、民宿の気の良い青年然としたタカオのままだった。
 けれど、その顔はとても悲しそうだった。
「どうして……至と一緒にいるの?」
 タカオが、露天風呂の中にざぶざぶと入ってくる。
 何も身につけて居ない姿も、あの時と一緒なのに、屈託なく笑っていたタカオは、もうどこにも居なかった。
 あと少し、もう少し……。
 菊理は、身動きせずに、タカオを待った。
 タカオの手が、腕が、菊理を捕らえようとした、その時。
「……ああ、熱い、火の山の水の中には、これ以上はいられない……」
 そう言って、タカオは岩風呂から逃げるように背を向けた。
「待って!! タカオ……、私……私は……」
「ククリは、俺を裏切った、俺は、掟に従ってククリを殺さなくちゃいけない……」
 背を向けながら、振り返り、絞り出すような声でタカオが言う。
「それが、掟だから」
「殺して? 私を……タカオっ!!」
 思わず、菊理はそう叫んでいたが、タカオはそのまま背を向けて去って行った。
 すりガラスの向こうで、タカオの影の形が歪み、異形のようになった事にも気づきながら、菊理は、殺して と、叫んだ事を悔いてはいなかった。
「あの滝は、竜宮に繋がっている伝説があるんですね」
 菊理は、しばらく身動きができず、露天風呂からあがり、タカオの姿を探したが、すでにその姿は残ってはいなかった。
 けれど、大浴場から脱衣場にかけて、潮の匂いが漂っていた。
 海からこんなに遠いのに、そう思いながら、菊理は宿の浴衣を着て、部屋へ戻る途中、宿に来る前に立ち寄った滝にまつわる伝説について書かれたポスターに目を留めた。
 仲居だろうか、作務衣姿の女性に尋ねると、宿の女性がさらに詳しく説明してくれた。
 何でも、滝壺は竜宮に通じており、温泉街のある集落は滝壺に願うと、膳や食器を借り受けていたのだそうだ。
 ある時、借りた膳を戻さなかった為、それ以降、滝壺から竜宮への願いは届かなくなったのだという。
「そう……ですか」
 菊理は、諦観したように微笑んで見せた。
 至は、うたた寝をしていた事に驚いて、菊理の姿を探した。
 そして、古風にも書き置きが残されている事に気がついた。
 あわててフロントへ行くと、連れは滝に忘れ物をしたと言って、タクシーを呼んだのだという。
 既に陽は傾き、夕暮れの頃。
 至はあわてて預けておいた車のキーを戻し、滝へ向かった。
 もう既に、手遅れかもしれないが、追いかけずにはいられなかった。
 夕暮れ近く、駐車場には車も無い、土産物屋も閉店していて、人の気配は無いのだが、確信めいて滝までの道を急ぐ。
 ……はたして、菊理は川面に居た。
 そして、もう一人。
「菊理っ!!」
 至が叫ぶと、二人が川岸にいる至を見た。
 もう一人は、タカオだった。
「至、悪いけど、ククリは俺のだ、返してもらうよ」
 タカオが菊理を引き寄せた。
「ごめんなさい、……ごめんなさい」
 菊理は、至に詫びながら、タカオに身を委ねた。
 タカオが、菊理を抱き寄せて、唇を奪う。
 長い、長い口づけの後に、菊理の体が力を失った。
「タカオっ!!」
 川に今にも飛び込みそうな至が叫んだが、タカオの神憑った姿に驚いて、気圧されてしまい、身動きができなくなる。
「来るな!!」
 菊理を抱きかかえたタカオが叫んだ。
「俺には、お前は殺せない、……だが、約定により、花嫁は連れて行く」
 水柱が立ち上がり、タカオと菊理の姿を隠した。
 至は、その場に崩れ落ちるようにして、菊理を抱いたタカオが水面に消えていくのを黙って見守ることしかできなかった。
 陽の光の届かない、夕闇に迫った闇へ消えていく姿を、至は無言で見送っていた。
 菊理は、遠ざかっていく意識の中で、自分がゆらゆらとゆらめきながら、暗い水底へ落ちていくのを感じていた。

 わずかに上の方にあった明かりも、今はもう見えない。

 変わりに、タカオと自分が燐光につつまれて、あたりをほの明るく照らしているのがわかった。

 とりまく水は昏く、どこまでも続いている暗闇の淵があるばかりだった。



 タカオに抱かれながら、深く、深く、暗く、光も届かない深い水底へ。
 鮫に捕食された魚のように、血煙が靄のようになり……菊理は、堕ちていった。

(終)

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