至と待ち合わせたのは、タカオ達一家が宿泊しているのとは別のホテルのラウンジだった。運河と橋が見える席に、至は一人でグラスを弄んでいた。
氷が溶けて、ウイスキーだろうか、琥珀色が少し薄まっている。
どれだけ一人でここに居たのか、今まで見たことの無いような虚ろな目線が気になった。
「……やあ」
至は、わずかに目線だけをあげて、再びカラコロと溶け残った氷をグラスの中で遊ばせていた。
これが、本当に至だろうか。
自信に満ち溢れ、何もかもが思い通りになるのだと言わんばかりの尊大さが、今は微塵も感じられなかった。
奨められるままに席に着き、アイリッシュ・ウィスキーを注文する。
「さっきは……その」
居心地の悪さから菊理の方から切り出すと、至に制された。
「君のせいじゃないよ」
「でも……」
菊理が続けようとしたところで注文していたグラスがテーブルに置かれる。至は、乾杯するようにグラスをあげ、菊理も反射的にそれを真似たが、果たして何に対しての乾杯なのだろうか。
菊理が口をつけた後も、至は無言で、つられて菊理も無言になる。
黙々とウィスキーを胃におさめてしまうと、待ち構えていたように至が『出ようか』と、言った。
よく考えてみたら、人が少ないといえど店内で語り合うべき内容の話では無かった、と、少し足早な至の後を菊理は追っていく。
結局、菊理は謝罪する事で楽になりたかっただけなのだ。
自分の過去を全否定されるかのような事実を、至は受け止めきれずにいるのかもしれない。
「こういうの、何て言うんだろうね、運命の皮肉? それとも……天罰かな」
運河を望む小さな公園には、ベンチが一つあるきりだった。
人影の無いところで、ようやく何かを語る気持ちになったのか、ベンチにはかけずに、車止めの黄色いアーチによりかかるようにして至はつぶやくように言った。
それは、菊理に対して話かけるというよりも、一人芝居の舞台にのっている役者のようでもあった。
「私が余計な事をしなければよかったんだよ」
「だが、君が動かずとも、遠からずタカオと僕が関わり続ける限りどこかで知ってしまう事だったんだよ、……いいや、知らずにいるよりはずっとよかった、今はそう思ってるよ」
そこで、初めて至は菊理の方を見た。
そこには、素の至がいた。
傷つき、弱った、ナイーブな青年。それが至の素顔だった。
「悪かったね、呼び出したりして……けど、今は、一人になりたくなかったんだ」
頭をかかえこむようにして下を向き、叫ぶように至が続ける。
「こんな時になって、俺は弱音を吐ける話相手が誰も居ないって事に気づかされたんだ……」
虚勢をはる必要が無いのは、今となっては菊理だけだと言いながらうなだれる至を、菊理は少し離れて見守る事しかできなかった。
できるならば、抱きしめて癒やしてやりたい。
不思議とそんな衝動が湧く。
けれど、それは、タカオの花嫁になる事を決めた菊理がするべき事では無いのだ。
運河を渡る風が、水面にさざなみを作る。何かが近づいてくるようなざわめき。
菊理は、このざわめきに覚えがあった。
あの、嵐の中の竜神社で、海中鳥居を望む岬で、同心円状に雲が切れていったあの、竜神来臨の時の空気を感じた。
その圧力のようなものは、今菊理と至のいる場所まですさまじい早さで近づいていた。
「ククリ……探したよ、黙っていなくなるんだもん、びっくりするじゃん」
現れたのはタカオだった。
どうしてこの場所がわかったのか、菊理は尋ねるのが怖かった。
「ごめん、タカオ、寝てたから……」
「起こしてくれればよかったのに、俺、別に怒ったりしないのに」
そう言っているタカオは、笑顔なのに、少しも瞬きをしないのだ。
まるで滑るように進み、もう菊理のすぐ近くまで来ていた。
既に至が居る事にも気づいている様子で、まるで牽制するかのように菊理を背後から抱きしめる。
「どうして至と? お酒も飲んでる? 俺に黙って至に会いに来たの?」
「違うんだ、タカオ、俺が無理を言って」
「至には聞いてない」
ぴしゃり、と、跳ね除けるようなもの言いだった。
そこに、いつもの天真爛漫で無邪気なタカオは居なかった。
至と打ち解けて、談笑していた時のタカオと、どうしてここまで違うのか。
「……だって、タカオが悪いんだよ?!」
ふいに、タカオに背後から抱きつかれていた菊理が叫んだ。
自分を閉じ込めるようにしていたタカオの腕を払い、逃げるようにして至の方へ近寄る。
「タカオが、あんな無神経な事を言うから、だから、秘密にしてたのに、兼田さん達も、タカオのお母さん達も、タカオが言わなければ、至はずっと知らずにすんだし、今まで通りだったのに!!」
菊理は、心ではダメだ、と、強く思ったけれど、一度決壊した心の堰から、とめどなく激情が、言葉が、溢れ出してしまう。
「至が、本当だったら赤江島にいたはずだったんだって!! でも、兼田さん達の子供が死んでしまったから!! だからッ……」
「もういい、辞めてくれ、菊理ッ!!」
止めたのは、至だった。
至が、菊理の腕を掴む。
菊理は、肩で息をしながら、涙をぼろぼろと流していた。
「最初に至が死んだのは、俺のせいじゃない」
タカオが言った。
銀色の瞳。
嵐の夜のタカオの姿が菊理の脳裏に蘇る。
「タカオが、最初の至を殺したわけじゃない……」
ゆらり、と、タカオが後ずさる。
「タカオが居なくなって、母ちゃんと父ちゃんは悲しんでた。その悲しみが、海まで伝わって来るほどだった、だから俺は来た、新しいタカオとして、何で菊理は俺を責めるんだ、子供を取り替えたのは、至の親じゃないか!!!」
そう言うと、タカオは運河に飛び降りた。背中から、そのまま。
「タカオっ!!」
菊理が、運河を覗き込んだが、タカオが浮いて来ない。
菊理は、かまわず運河に飛び込んだが、夜の運河は暗く、水中の中を見る事はできない。
溺れそうになりながら、タカオの名を呼び続けても、タカオが菊理の呼びかけに答える事は無かった。
『水の側で我を拒んではならない、我を拒めば、我は水界へ帰るであろう』
嵐の中、竜神社の岬で聞いた言葉が、こだまのように菊理を責め、さいなんだ。
氷が溶けて、ウイスキーだろうか、琥珀色が少し薄まっている。
どれだけ一人でここに居たのか、今まで見たことの無いような虚ろな目線が気になった。
「……やあ」
至は、わずかに目線だけをあげて、再びカラコロと溶け残った氷をグラスの中で遊ばせていた。
これが、本当に至だろうか。
自信に満ち溢れ、何もかもが思い通りになるのだと言わんばかりの尊大さが、今は微塵も感じられなかった。
奨められるままに席に着き、アイリッシュ・ウィスキーを注文する。
「さっきは……その」
居心地の悪さから菊理の方から切り出すと、至に制された。
「君のせいじゃないよ」
「でも……」
菊理が続けようとしたところで注文していたグラスがテーブルに置かれる。至は、乾杯するようにグラスをあげ、菊理も反射的にそれを真似たが、果たして何に対しての乾杯なのだろうか。
菊理が口をつけた後も、至は無言で、つられて菊理も無言になる。
黙々とウィスキーを胃におさめてしまうと、待ち構えていたように至が『出ようか』と、言った。
よく考えてみたら、人が少ないといえど店内で語り合うべき内容の話では無かった、と、少し足早な至の後を菊理は追っていく。
結局、菊理は謝罪する事で楽になりたかっただけなのだ。
自分の過去を全否定されるかのような事実を、至は受け止めきれずにいるのかもしれない。
「こういうの、何て言うんだろうね、運命の皮肉? それとも……天罰かな」
運河を望む小さな公園には、ベンチが一つあるきりだった。
人影の無いところで、ようやく何かを語る気持ちになったのか、ベンチにはかけずに、車止めの黄色いアーチによりかかるようにして至はつぶやくように言った。
それは、菊理に対して話かけるというよりも、一人芝居の舞台にのっている役者のようでもあった。
「私が余計な事をしなければよかったんだよ」
「だが、君が動かずとも、遠からずタカオと僕が関わり続ける限りどこかで知ってしまう事だったんだよ、……いいや、知らずにいるよりはずっとよかった、今はそう思ってるよ」
そこで、初めて至は菊理の方を見た。
そこには、素の至がいた。
傷つき、弱った、ナイーブな青年。それが至の素顔だった。
「悪かったね、呼び出したりして……けど、今は、一人になりたくなかったんだ」
頭をかかえこむようにして下を向き、叫ぶように至が続ける。
「こんな時になって、俺は弱音を吐ける話相手が誰も居ないって事に気づかされたんだ……」
虚勢をはる必要が無いのは、今となっては菊理だけだと言いながらうなだれる至を、菊理は少し離れて見守る事しかできなかった。
できるならば、抱きしめて癒やしてやりたい。
不思議とそんな衝動が湧く。
けれど、それは、タカオの花嫁になる事を決めた菊理がするべき事では無いのだ。
運河を渡る風が、水面にさざなみを作る。何かが近づいてくるようなざわめき。
菊理は、このざわめきに覚えがあった。
あの、嵐の中の竜神社で、海中鳥居を望む岬で、同心円状に雲が切れていったあの、竜神来臨の時の空気を感じた。
その圧力のようなものは、今菊理と至のいる場所まですさまじい早さで近づいていた。
「ククリ……探したよ、黙っていなくなるんだもん、びっくりするじゃん」
現れたのはタカオだった。
どうしてこの場所がわかったのか、菊理は尋ねるのが怖かった。
「ごめん、タカオ、寝てたから……」
「起こしてくれればよかったのに、俺、別に怒ったりしないのに」
そう言っているタカオは、笑顔なのに、少しも瞬きをしないのだ。
まるで滑るように進み、もう菊理のすぐ近くまで来ていた。
既に至が居る事にも気づいている様子で、まるで牽制するかのように菊理を背後から抱きしめる。
「どうして至と? お酒も飲んでる? 俺に黙って至に会いに来たの?」
「違うんだ、タカオ、俺が無理を言って」
「至には聞いてない」
ぴしゃり、と、跳ね除けるようなもの言いだった。
そこに、いつもの天真爛漫で無邪気なタカオは居なかった。
至と打ち解けて、談笑していた時のタカオと、どうしてここまで違うのか。
「……だって、タカオが悪いんだよ?!」
ふいに、タカオに背後から抱きつかれていた菊理が叫んだ。
自分を閉じ込めるようにしていたタカオの腕を払い、逃げるようにして至の方へ近寄る。
「タカオが、あんな無神経な事を言うから、だから、秘密にしてたのに、兼田さん達も、タカオのお母さん達も、タカオが言わなければ、至はずっと知らずにすんだし、今まで通りだったのに!!」
菊理は、心ではダメだ、と、強く思ったけれど、一度決壊した心の堰から、とめどなく激情が、言葉が、溢れ出してしまう。
「至が、本当だったら赤江島にいたはずだったんだって!! でも、兼田さん達の子供が死んでしまったから!! だからッ……」
「もういい、辞めてくれ、菊理ッ!!」
止めたのは、至だった。
至が、菊理の腕を掴む。
菊理は、肩で息をしながら、涙をぼろぼろと流していた。
「最初に至が死んだのは、俺のせいじゃない」
タカオが言った。
銀色の瞳。
嵐の夜のタカオの姿が菊理の脳裏に蘇る。
「タカオが、最初の至を殺したわけじゃない……」
ゆらり、と、タカオが後ずさる。
「タカオが居なくなって、母ちゃんと父ちゃんは悲しんでた。その悲しみが、海まで伝わって来るほどだった、だから俺は来た、新しいタカオとして、何で菊理は俺を責めるんだ、子供を取り替えたのは、至の親じゃないか!!!」
そう言うと、タカオは運河に飛び降りた。背中から、そのまま。
「タカオっ!!」
菊理が、運河を覗き込んだが、タカオが浮いて来ない。
菊理は、かまわず運河に飛び込んだが、夜の運河は暗く、水中の中を見る事はできない。
溺れそうになりながら、タカオの名を呼び続けても、タカオが菊理の呼びかけに答える事は無かった。
『水の側で我を拒んではならない、我を拒めば、我は水界へ帰るであろう』
嵐の中、竜神社の岬で聞いた言葉が、こだまのように菊理を責め、さいなんだ。