赤江島に嫁ぐにしろ、菊理は菊理で両親を説得する必要があった。もちろん、至との婚約も解消しなくてはならない。
タカオの両親は事情を聞いて、慰謝料事になるようなら相談して欲しいと言ってくれた。
だが、菊理が気になったのは慰謝料の事では無くて、至の名を出した時の、老夫妻の反応だった。カネダイタルというのはありふれた名前では無いが、かといって同姓同名が居ないかといえばそんな事は無い。
老夫婦は、どうも兼田という名字と至という名前を知っているように、菊理には思えた。
至の故郷は赤江島では少なくとも無いはずだ。行き先を告げた時、何の反応もしなかった。何かしらの縁があるのであれば、言葉にしたはずだろう。
菊理は、そんな疑問を尋ねる事なく、タカオをともなって東京に戻った。
長く居座った雨と風は、各地に生々しい爪痕を残していた。
菊理は、本当にあれはタカオの仕業なのか、と、改めて思い、嵐の夜の出来事を思い出して身震いした。
タカオは、島を出る事自体が初めての事らしく、子供のようにはしゃぎ、少しだけ菊理を困らせた。
長身で端正な顔立ちのタカオはどこにいても目立つ、声をかけられそうにもなったが、皆横に菊理の姿を見出して、近づく事を辞める。何度かそんなやりとりを経て、菊理がうんざりしてくると、タカオはそっと菊理の手をとって笑って見せるのだった。
それが、どれほど菊理を楽にして、気持ちを落ち着けてくれただろうか。
側にいる、自分だけを見ていてくれるタカオと共に在る事は、菊理にとっては初めての事で、コーヒーショップで少々騒ぎを起こした事も、自動改札で固まった事も、かわいらしさ、愛おしさとして菊理の目には写った。
慣れない土地で疲れたタカオだったが、引き払う寸前だった菊理の住まいに着くと、狭いが整頓の行き届いた居心地のよい場所で、旅の埃を洗い落としながらもすぐに菊理を求め、菊理もそれに応じた。
至に話があると告げて、先方から指定されたのは夜だったが、時間は決して多くは無い。けれど、そんな短い時間であっても、タカオは菊理の肌に触れる事を辞めなかった。
まるで遠ざかった海を懐かしみ、愛おしむように、タカオは菊理に沈み、潜っていった。
あらかじめ同伴者が居る事は至に伝えてあったので、菊理がタカオを連れて現れても、至はそれほどうろたえはしなかった。
会見場所に個室を選んだのも、何かを見越しての事だったとも思える。
さすが、若社長はあらゆる場面でソツが無い。
手配をした女性秘書が、至のプライベートルームに出入りしていても驚かないほどに、気の利いた差配だった。
「ふーん……」
至は、タカオの頭からつま先までを値踏みするように見た。ドレスコードの無いカジュアルな和会席の店ではあるが、白い綿シャツにオリーブカーキのチノパンではとりつくろいようがない。なにしろジャケットやタイを見繕う時間は無かった。
それでも、それなりに見えてしまうのは、タカオのスタイルの良さだろう。
「ちょっと意外だ、君はサピオセクシャルなタイプだと思っていたからね」
「さ……ピオ? って何だ? 絆創膏か?」
「うん、それは多分サビオだね、タカオ……」
タカオと菊理のやりとりに、至は毒気を抜かれたのか思わず吹き出し、そのまましばらく笑い転げていた。
「なんだこいつ、人の顔見て笑うなんてシツレーな奴だな」
ぽつりとタカオが言い、菊理もまったく同感だという様子で力強く頷いてみせた。
驚くべき事に、とてもなごやかな会食だった。
至の嫌味は冴えたが、タカオが天然で返すので、そのやりとりは滑稽で、出来の良い喜劇を見ているようなテンポの良さがあった。
菊理も捨て鉢になっているせいか、素のままで笑い、時に毒を吐いた。
もっと早くこんな風に時間がとれていれば、至に対してもう少しやさしい気持ちになれていたのではないかと思えるほどだった。
「驚くべき事だけど、君は彼と一緒にいるほうがずっとチャーミングだ」
食事を終えて、最後のコーヒーを飲みながら至が言った。
「本当に、あなたのセリフってどこかのロマンス小説から切り抜いてきたみたいなんだけど、実は熱心な愛読者だったりするの?」
「ああ、そう、そういう指摘をもっと早くして欲しかったなあ、残念だけど、俺は別にそういったものを研究はしてないよ、ただ、より多くの女性を喜ばせようとしていると、必然的に型にはまっていくものでね」
そう言い放って両手を広げるポーズも、ロマンスの王子様そのものに見えた。
「何で多勢必要なんだ?」
ふいにタカオが言った。
「俺は、ククリがいればいい、ククリだけが欲しい、『他』も、『たくさん』もいらない」
「けどタカオ、世の中に女性はそれこそ星の数ほどいるんだぞ? もっと自分に似合う、ベストな相手がいるかもしれないじゃないか?」
至に言われて、タカオは少し考えたが、やはり答えは同じだった。
「なんで比べる必要がある? 別に比べてもいいけどさ、俺はククリに会って、欲しいと思った、今までそんな気持ちになった事は無いし、東京に来て多勢女の人も見たけど……、うん、やっぱりククリが一番だ」
にぱっと、微笑んだ音が聞こえてきそうなほどの素直な笑顔に、至は毒気を抜かれ、菊理はひたすら恐縮した。
「……これは、ごちそうさまと言うべきなのかな……、菊理、君はどうやら運命の相手って奴に会えたんだね」
珍しく、至がわずかに寂しそうな顔をした事に驚いて、菊理は皮肉では無くてこう言った。
「あなたにも、きっといる」
「……だといいけどね」
菊理は、初めて至の心の柔らかな部分に触れたような気がした。
菊理は驚いていた。当然修羅場になるものだと思っていたし、なじられ、軽蔑されると思っていたからだ。
けれど、逆に考えれば、至にとって菊理はあくまでも飾りの為の花嫁にすぎず、菊理でなくてはならない理由は一つも無いのだという事に気づいた。
少し前の菊理であれば、そんな事にすら傷ついて、自分の無価値さを嘆いただろうが、今は違っていた。
タカオが浴びせる菊理自身を求める言葉が、菊理を自分で思うよりもずっと強くしてくれていた。
タカオが人成らぬものであったとしても、タカオが菊理に注いでくれる溺愛と言ってもよい愛情からすれば、それは取るに足らぬ事だった。
「出資の件についてだけれどね」
「ええ、それはもちろん」
菊理の実家に対しての出資については、婚約が破談になる事で話としては消えるのだが……。
「君か君の両親の方から俺の両親に直接プレゼンをしてみるのはどうだろう? あの人達はあれでビジネスについては利に敏い、儲けを出す自信があるのならば、一度だけのチャンスではあるけれど、時間をとるくらいのことならばできるよ」
「兼田さん……」
「……はじめから、ビジネスとして話をすべきだったと後悔しているよ、だが、俺の父と母を納得できるかどうかは君達の問題だ」
もっと早くに、きちんと話をしておけばよかった。そう、この時点では、菊理はそう思っていたのだ。
けれど。
菊理とタカオが出会えた事も運命ならば、その運命の先が兼田至と繋がっていた事も含めて運命だったのかもしれない……。
「おや、至じゃないか」
声をかけて来たのは、壮年の夫婦だった。長身の男性は所々に白いものが混ざっているが、老けているというよりは彼をより渋く、貫禄と知性を際立たせていた。
婦人の方も上品で、仕立てのよい服はオーダーメイドなのか、着こなしに隙が無かった。
「ああ、ちょうどよかった、俺、婚約解消するから」
「そう、菊理は俺のお嫁さんになるから!」
「……すみません、はじめから説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
考えが飛躍しすぎている男二人に半ばあきれながら、菊理は至の両親になし崩しに説明する事になった。
結婚するつもりだったんだけど、やっぱり辞めた女性とその恋人。
そう紹介されると身も蓋も無いのだが、兼田夫妻は菊理にあきれるでなく、なじるでなく、息子の不義理を詫びてくれた。
そういう意味で、この両親は息子を正しく理解しているのだな、と、菊理は安心した。
しかし、予想外のところで会話に波が立った。
「苫屋さんって……赤江島の?」
兼田夫人は説明の為にあたらしく予約をした個室で角砂糖をカップでは無くソーサーの方にスプーンごと取り落とした。
それは、菊理がほんの一瞬嫁候補だったはずが他に相手ができてしまった事を説明した時よりよほど動揺しているように見えた。
「あれ? 母さん、赤江島に行った事あったっけ?」
そう言う至はまだ行ったことは無いのだという。タカオがしきりに誘うので、それじゃあ言ってみようかな、などと軽口を叩いたほどだった。
「……ダメよ。 行ってはダメ」
見れば、ついさっきまでにこやかに談笑をしていた兼田夫人は青ざめて震えていた。
「あなた、タカオって……本当にタカオとおっしゃるの?」
「ああ、そうだ、タカオがイタルになったから、タカオがいるんだって、母ちゃんが言ってたな、……イタル、……至? ああ! 同じ名前だった、そういえば!!」
そう言うタカオにはひとかけらの悪意も無さそうで、無邪気にタカオがイタルと言い出す様子に、何か人を傷つけたり害そうという様子は微塵も感じられないのだが、兼田夫妻にとって、それはまるで過去を糾弾するかのような重みを持って、その場の空気すら変えてしまったのだった。
「そんな……苫屋さんはだって、確かに……」
青ざめて震える夫人を支えるように、兼田氏は静かに言った。
「菊理さん、今日は家内の気分が優れないようなので、これで失礼させてもらいます、出資の件については前向きに検討させてもらいますが……」
そう言い置いて兼田氏は至に一度視線を送ってから逃げるように言い捨てた。
「今日、ここであった事は他言なさらぬように……」
そう言って、夫人を伴って立ち去った。
至も、両親の不穏な様子が気にかかるようで、その場はそれでお開きになった。菊理は、解決しなくてはならない問題の一つがクリアになったと思う反面、何か別の、……そして、もっとより多くの人を傷つけてしまうような別の問題が発生してしまったのではないかと恐れた。
タカオは、菊理に尋ねられて、素直にすべてを語った。何故そんな事を聞かれるのか、タカオはわかっていない様子だったが、その事実は菊理を打ちのめすものだった。
つまり、こういう事だ。
かつて、兼田夫妻は、赤江島に来ていた。
そして、その時に苫屋に宿を求めた。
夫妻は、男の子の赤子を連れていた。名をイタルといった。
苫屋にも男の子の赤子が居た。名をタカオといった。
事故が起きて、イタルが居なくなった。
けれど、タカオがイタルになった。
苫屋の夫妻は嘆き悲しんだが、その後、海の神から赤子を預かった。
それは、海のあやかしの子だった。
その赤子は、新しいタカオになった。
「……じゃあ、至は、本当は赤江島の、苫屋夫妻に生まれた子供……タカオ……って事?」
「違う、タカオは俺だ」
タカオが怒って不貞腐れた。
タカオが誰にどのように説明されたかはわからない。
けれど、……たとえば赤子ならば、実の両親がそうだと言いいはれば、入れ替わってしまった事には気づかれない。
二つの夫婦で起きた取り替え子に、海の神が混ざった。
死んだ赤子に成り代わったのは今、菊理の目の前にいるタカオ。
……そして、至も、おそらくは島を出るまでは、タカオ『だった』。
けれど、『至』として島を出た。
何が起きたかはわからない。失われた子供と、入れ替わった子供。
そこにまつわる経緯については、二つの夫婦から話を聞かない限りわからないが、至は恐らく、自分が赤江島の民宿を営む老夫婦の子供であるという事実を知らなかったのだろう。
島を出る時の、苫屋の夫妻の様子、『兼田至』という名前を聞いた時の複雑そうな表情は、『これ』を意味していたのか。
何と言う皮肉。
何と言う運命。
「……菊理?」
知ってしまった事実を、菊理は受け止めきれずにいた。
自分が、全く別の場所で生まれて、見知らぬ両親の手によって育ったという事実を『至』が知った時、彼はどうなるだろう。
彼らしくシニカルに笑ってみせるだろうか。
……それとも。
あれほど、菊理を、形だけの婚約者、お飾りの妻だと言い募っていた『至』自身が『偽物』だったという事を、真っ直ぐ受け入れる事ができるのだろうか。
受け入れられればいい、と、菊理は願った。
彼にいる幾人もの恋人達が、至自身を愛しているのだと信じたかった。
それぞれが、それぞれに、誰かを思っているというのに、どうして思いは空転して、行き過ぎてしまうのか。
赤江島から、タカオの両親が上京して来た。
表向きは、菊理の両親へ挨拶がしたいという事だったが、案の定申し出があった。
「兼田至に会いたい……そうおっしゃるんですね」
菊理は、苫屋の老夫婦の為にホテルをとった。さすがに菊理の家に、夫婦と菊理、タカオが泊まるのは不可能だった。
タカオは父を連れて物見遊山に出ていた。聞けば、タカオの父は東京で修行をしていた事があったのだという。
土地勘の無いタカオと二人では不安もあったが、そういう事であればと、二人を送り出し、菊理は、老婦人と共にホテルに残っていた。
もしかしたら、婦人の方がそう望んで仕向けたのかもしれなかった。
彼女にとって、兼田至は腹を痛めて生んだ子でもある。ひと目でもいいから、姿を見たいと言い出すのは無理も無い事だ。
しかし、至は自分が兼田夫妻の実の子供では無かったという事実を消化仕切れているのか、タカオが出現した時の兼田夫妻の様子を考えるに、老婦人が至に接触する事を許してもらえるとは到底思えなかったのだ。
「遠くからひと目見るだけでもいいんです、元気な姿を見たら、私達は島に帰ります、もう会えないと思っていましたし、会ってはならないとも思っていました、でも、知ってしまった以上、……忘れる事はできないんです」
ホテルの一室で泣き崩れる老婦人の姿を見てしまっては、とても断る事はできない。
菊理は、遠くから見るだけならば、と、老婦人に言い含め、至に会いに行く事にした。
目的は直接会って礼を言うだけ。という事にした。
メッセージに対して、至は律儀な人だね、君も、と、いつもの調子で返して来た。
昼休みに、コーヒーを一杯だけ。
至のオフィスにほど近いカフェで待ち合わせ、遠くから老婦人がその様子を見守るという算段になった。
だが、初手から目論見がはずれた。
カフェに、至は兼田夫人を連れて現れた。
「先日は失礼したからね、改めてと思って」
そう言う至は引き合わされる相手が菊理だとは思っていなかったらしい。
品のある口元が、わずかに歪むのが見ていて辛い。
できればすぐにでも話を終わらせて、この場を立ち去りたかった。
着席し、注文を終えたところで、ふいに兼田夫人が立ち上がった。
「あ……あなた、なんて事を……」
わなわなと震えながら、兼田夫人が指差した先には……老婦人が立っていた。
「どうして、何故あなたがここに居るの?! もう二度と会わない、そういうお約束だったわよね?!」
取り乱す兼田夫人に、至も何かがおかしいと気づいたようだった。
さらに悪い事に、今日は兼田氏が居ないのだ。
「帰ってちょうだい! 私の前に二度と顔を見せないで!!」
ヒステリーを起こして叫ぶ兼田夫人に、老婦人は打ちのめされていた。
「申し訳ありません!! 奥様!!」
しかし、老婦人は黙って立ち去りはしなかった。菊理達のテーブルまでやって来て、至を一瞥した。
泣きそうな、叫び出しそうな顔に、至もただならぬ何かを感じていた。
「ああ……、タカオ……」
思わずつぶやいてしまった老婦人は、あわてて取り繕うように深く頭を下げて、逃げるように立ち去った。
「あ!! 一人では!!」
土地勘の無い老婦人を一人にする事はできないと、菊理もあわててお辞儀をして立ち去った。
取り残された至が、どうしていいかわからない様子で戸惑っているのは視界のはしにかかったが、菊理は振り切って老婦人を追いかけた。
泣きながら逃げていった老婦人を捕まえて、ホテルまで案内する。菊理は、何も言わなかった。
「……ごめんなさいね、菊理さん……」
ひとしきり泣いた老婦人にお茶を入れて渡すと、ようやくひとごこちついたのか、老婦人はつぶやいた。
まさか、兼田夫人も同伴するとは思っていなかった菊理は、老婦人に詫びた。事はもっと簡単に、かつ、静かに行われるはずであったのに。
「いえ、私が考えなしだったんです」
気を張っていた菊理だったが、老婦人が落ち着いたところで力なくカーペットの上にへたりこんだ。
カタカタと体が震えていた。至と兼田夫人だけでなく、老婦人すらも傷つけてしまった事に、菊理は戻る事ができるなら時を戻したい気持ちになっていた。
自分の軽率さ、考えの足り無さを呪いたい気持ちになった。
タカオと老主人が戻り、事情を説明すると、老主人は静かにそうか、とだけ言った。菊理を責める事も、老婦人を責める事もせずに、後は任せるよう言われて、菊理はタカオと共に隣室に戻った。
落ち込み、うなだれる菊理をタカオは励ましてはくれたものの、そもそものきっかけがタカオであった事を思い出すと、今はその天真爛漫さが菊理には恨めしかった。
「ククリ? ククリーーーー」
じゃれてくるタカオに、そういう気持ちになれないと断ったが、タカオは聞き入れてくれず、ひとしきり相手をすると、疲れたのかタカオは早々に眠ってしまった。
安らかな寝息をたてるタカオを愛おしいと思いながら、菊理は恨めしい気持ちにもなった。
真っ直ぐに自分を愛してくれる事を喜ばしいと思っていた。……それなのに。
至からメッセージが届いたのは、そんな折だった。
ホテルの近くまで来ているという至は、そっけないメッセージで『話をしたい』とだけあった。
その『話』が、どれだけ重く、相手を選ぶものなのか。
己の出自にまつわるデリケートな話題を、おいそれと誰かに話すわけにはいかない。今、至の話をただ黙って聞くことができるのは、菊理だけだった。
シャワーを浴びて、身を清める。
タカオに愛された痕跡をまとったまま、至に会う事はできなかった。
『少し出かけてきます』
と、書き置きを残して、菊理はタカオを残し、至の元へ向かった。
至と待ち合わせたのは、タカオ達一家が宿泊しているのとは別のホテルのラウンジだった。運河と橋が見える席に、至は一人でグラスを弄んでいた。
氷が溶けて、ウイスキーだろうか、琥珀色が少し薄まっている。
どれだけ一人でここに居たのか、今まで見たことの無いような虚ろな目線が気になった。
「……やあ」
至は、わずかに目線だけをあげて、再びカラコロと溶け残った氷をグラスの中で遊ばせていた。
これが、本当に至だろうか。
自信に満ち溢れ、何もかもが思い通りになるのだと言わんばかりの尊大さが、今は微塵も感じられなかった。
奨められるままに席に着き、アイリッシュ・ウィスキーを注文する。
「さっきは……その」
居心地の悪さから菊理の方から切り出すと、至に制された。
「君のせいじゃないよ」
「でも……」
菊理が続けようとしたところで注文していたグラスがテーブルに置かれる。至は、乾杯するようにグラスをあげ、菊理も反射的にそれを真似たが、果たして何に対しての乾杯なのだろうか。
菊理が口をつけた後も、至は無言で、つられて菊理も無言になる。
黙々とウィスキーを胃におさめてしまうと、待ち構えていたように至が『出ようか』と、言った。
よく考えてみたら、人が少ないといえど店内で語り合うべき内容の話では無かった、と、少し足早な至の後を菊理は追っていく。
結局、菊理は謝罪する事で楽になりたかっただけなのだ。
自分の過去を全否定されるかのような事実を、至は受け止めきれずにいるのかもしれない。
「こういうの、何て言うんだろうね、運命の皮肉? それとも……天罰かな」
運河を望む小さな公園には、ベンチが一つあるきりだった。
人影の無いところで、ようやく何かを語る気持ちになったのか、ベンチにはかけずに、車止めの黄色いアーチによりかかるようにして至はつぶやくように言った。
それは、菊理に対して話かけるというよりも、一人芝居の舞台にのっている役者のようでもあった。
「私が余計な事をしなければよかったんだよ」
「だが、君が動かずとも、遠からずタカオと僕が関わり続ける限りどこかで知ってしまう事だったんだよ、……いいや、知らずにいるよりはずっとよかった、今はそう思ってるよ」
そこで、初めて至は菊理の方を見た。
そこには、素の至がいた。
傷つき、弱った、ナイーブな青年。それが至の素顔だった。
「悪かったね、呼び出したりして……けど、今は、一人になりたくなかったんだ」
頭をかかえこむようにして下を向き、叫ぶように至が続ける。
「こんな時になって、俺は弱音を吐ける話相手が誰も居ないって事に気づかされたんだ……」
虚勢をはる必要が無いのは、今となっては菊理だけだと言いながらうなだれる至を、菊理は少し離れて見守る事しかできなかった。
できるならば、抱きしめて癒やしてやりたい。
不思議とそんな衝動が湧く。
けれど、それは、タカオの花嫁になる事を決めた菊理がするべき事では無いのだ。
運河を渡る風が、水面にさざなみを作る。何かが近づいてくるようなざわめき。
菊理は、このざわめきに覚えがあった。
あの、嵐の中の竜神社で、海中鳥居を望む岬で、同心円状に雲が切れていったあの、竜神来臨の時の空気を感じた。
その圧力のようなものは、今菊理と至のいる場所まですさまじい早さで近づいていた。
「ククリ……探したよ、黙っていなくなるんだもん、びっくりするじゃん」
現れたのはタカオだった。
どうしてこの場所がわかったのか、菊理は尋ねるのが怖かった。
「ごめん、タカオ、寝てたから……」
「起こしてくれればよかったのに、俺、別に怒ったりしないのに」
そう言っているタカオは、笑顔なのに、少しも瞬きをしないのだ。
まるで滑るように進み、もう菊理のすぐ近くまで来ていた。
既に至が居る事にも気づいている様子で、まるで牽制するかのように菊理を背後から抱きしめる。
「どうして至と? お酒も飲んでる? 俺に黙って至に会いに来たの?」
「違うんだ、タカオ、俺が無理を言って」
「至には聞いてない」
ぴしゃり、と、跳ね除けるようなもの言いだった。
そこに、いつもの天真爛漫で無邪気なタカオは居なかった。
至と打ち解けて、談笑していた時のタカオと、どうしてここまで違うのか。
「……だって、タカオが悪いんだよ?!」
ふいに、タカオに背後から抱きつかれていた菊理が叫んだ。
自分を閉じ込めるようにしていたタカオの腕を払い、逃げるようにして至の方へ近寄る。
「タカオが、あんな無神経な事を言うから、だから、秘密にしてたのに、兼田さん達も、タカオのお母さん達も、タカオが言わなければ、至はずっと知らずにすんだし、今まで通りだったのに!!」
菊理は、心ではダメだ、と、強く思ったけれど、一度決壊した心の堰から、とめどなく激情が、言葉が、溢れ出してしまう。
「至が、本当だったら赤江島にいたはずだったんだって!! でも、兼田さん達の子供が死んでしまったから!! だからッ……」
「もういい、辞めてくれ、菊理ッ!!」
止めたのは、至だった。
至が、菊理の腕を掴む。
菊理は、肩で息をしながら、涙をぼろぼろと流していた。
「最初に至が死んだのは、俺のせいじゃない」
タカオが言った。
銀色の瞳。
嵐の夜のタカオの姿が菊理の脳裏に蘇る。
「タカオが、最初の至を殺したわけじゃない……」
ゆらり、と、タカオが後ずさる。
「タカオが居なくなって、母ちゃんと父ちゃんは悲しんでた。その悲しみが、海まで伝わって来るほどだった、だから俺は来た、新しいタカオとして、何で菊理は俺を責めるんだ、子供を取り替えたのは、至の親じゃないか!!!」
そう言うと、タカオは運河に飛び降りた。背中から、そのまま。
「タカオっ!!」
菊理が、運河を覗き込んだが、タカオが浮いて来ない。
菊理は、かまわず運河に飛び込んだが、夜の運河は暗く、水中の中を見る事はできない。
溺れそうになりながら、タカオの名を呼び続けても、タカオが菊理の呼びかけに答える事は無かった。
『水の側で我を拒んではならない、我を拒めば、我は水界へ帰るであろう』
嵐の中、竜神社の岬で聞いた言葉が、こだまのように菊理を責め、さいなんだ。