情事の後、乱れた下着を整えている菊理にタカオが言った。
「ククリが、俺のお嫁さんになってくれたら、多分嵐は収まると思う」
 菊理は、信じられない様子でタカオを見たが、タカオは確信めいて窓の外を見た。
 台風の目の中に入ったのか、わずかに雨脚が弱まった隙をついて、タカオは菊理を連れて、竜神社へ行った。
 雨が弱まったといえど、風は強く、大粒の雨が傘の上で弾けている。
 タカオは、菊理をいたわるよう、雨と風からかばうように進む。
 不思議な事に、タカオの影にいると、本当に雨と風が驚くほど弱まったような気がしていた。
 海中の鳥居は、水位の上がった海の中で、荒波に晒されていたが、どっしりと立ち、揺らぐ様子は無かった。
 鳥居に向かう岬の先には、神社があった。
 赤江島という小さな島の割には規模の大きい神社で、社殿もかなり立派なものだったが、人の気配は無い。タカオが言うには、神職は常駐しては居ないのだそうだ。
 岬の先に立ったタカオが、鳥居に向かってすっくと立った。
 タカオの影から離れた菊理は、雨と風に驚き、吹き飛ばされる怖さから、傘を開かずに手に持ったまま、まるで祈りを捧げるように岬に立ちすくむタカオを見守った。
「ククリーーーーーーーーー!!!!」
 タカオが、菊理に向かって叫ぶ。
「約束、守れよなーーーーーー!!」
 既に至との約束を破る事が確定している菊理に、では、タカオとの約束ならば守れるのだろうかという気持ちはあった。菊理は、タカオの言葉に答えられなかった。
 けれど、自分に対して打算的な求めを一方的にしてきた至ではなくて、あくまでも菊理を欲しているタカオとの約束ならば、守れるような気がした。
 菊理は、声をはりあげながら、両手で大きく○を作った。
 タカオは、うれしそうに海に向かって、獣のように四つん這いになった。
 それは、多分人の声では無かった。
 唸るような、地鳴りのような、響きが辺りに共鳴する。
 音は、風になり、波になり、大きなうねりとなって、タカオを中心として、同心円状に広がっていった。
 菊理は、衝撃に備えるようにして、手にした傘にしがみついた。
 ……衝撃が行き過ぎると、雲が渦状になり、潮が引いていくように消えていった。
 目の前で起こる非現実的な出来事を前にして、菊理が呆然と見守っていると、ゆらり、と、タカオが心神喪失のような状態で菊理に近づいてきた。
 それは、菊理の知っているタカオでは無かった。
 瞳の色は銀色で、何か神懸かっているように、肌も所々燐光のようなものを放っていた。
「女……、海神の(つがい)となる女よ……」
 声も、どこか違っていた。
 屈託の無いタカオの様子とは異なる、人成らぬモノのような、恐れ、言葉を挟めない威圧感があった。
「誓え、水の側で我を拒んではならない、我を拒めば、我は水界へ帰るであろう、そして、他の男と通じたならば、我はお前の命を奪いに来るぞ」
 菊理は、膝まづいてこくこくと頷いて見せた。
 すると、タカオからすうっと光が消えて、銀色の瞳も、燐光も失われた。
「……俺、今、何を?」
 タカオがタカオに戻ったことで、不安で押しつぶされそうだった菊理は、すがりつくようにタカオに抱きついた。
「おい、ククリ、俺今……」
 タカオが何事かを言う前に、今度は菊理がタカオの唇を塞いだ。
 今、自分は誓ってしまったのだ。
 海の神に、タカオに、……そして、自分自身に。
 今度は自分の意志で選び、望まれて、選ばれた。
 タカオもそれ以上は言葉を必要とせずに、初夜の新床は、波の音を聞きながら、幾度も幾度も繰り返されたのだった。
 赤江島に嫁ぐにしろ、菊理は菊理で両親を説得する必要があった。もちろん、至との婚約も解消しなくてはならない。
 タカオの両親は事情を聞いて、慰謝料事になるようなら相談して欲しいと言ってくれた。
 だが、菊理が気になったのは慰謝料の事では無くて、至の名を出した時の、老夫妻の反応だった。カネダイタルというのはありふれた名前では無いが、かといって同姓同名が居ないかといえばそんな事は無い。
 老夫婦は、どうも兼田という名字と至という名前を知っているように、菊理には思えた。
 至の故郷は赤江島では少なくとも無いはずだ。行き先を告げた時、何の反応もしなかった。何かしらの縁があるのであれば、言葉にしたはずだろう。
 菊理は、そんな疑問を尋ねる事なく、タカオをともなって東京に戻った。
 長く居座った雨と風は、各地に生々しい爪痕を残していた。
 菊理は、本当にあれはタカオの仕業なのか、と、改めて思い、嵐の夜の出来事を思い出して身震いした。
 タカオは、島を出る事自体が初めての事らしく、子供のようにはしゃぎ、少しだけ菊理を困らせた。
 長身で端正な顔立ちのタカオはどこにいても目立つ、声をかけられそうにもなったが、皆横に菊理の姿を見出して、近づく事を辞める。何度かそんなやりとりを経て、菊理がうんざりしてくると、タカオはそっと菊理の手をとって笑って見せるのだった。
 それが、どれほど菊理を楽にして、気持ちを落ち着けてくれただろうか。
 側にいる、自分だけを見ていてくれるタカオと共に在る事は、菊理にとっては初めての事で、コーヒーショップで少々騒ぎを起こした事も、自動改札で固まった事も、かわいらしさ、愛おしさとして菊理の目には写った。
 慣れない土地で疲れたタカオだったが、引き払う寸前だった菊理の住まいに着くと、狭いが整頓の行き届いた居心地のよい場所で、旅の埃を洗い落としながらもすぐに菊理を求め、菊理もそれに応じた。
 至に話があると告げて、先方から指定されたのは夜だったが、時間は決して多くは無い。けれど、そんな短い時間であっても、タカオは菊理の肌に触れる事を辞めなかった。
 まるで遠ざかった海を懐かしみ、愛おしむように、タカオは菊理に沈み、潜っていった。
 あらかじめ同伴者が居る事は至に伝えてあったので、菊理がタカオを連れて現れても、至はそれほどうろたえはしなかった。
 会見場所に個室を選んだのも、何かを見越しての事だったとも思える。
 さすが、若社長はあらゆる場面でソツが無い。
 手配をした女性秘書が、至のプライベートルームに出入りしていても驚かないほどに、気の利いた差配だった。
「ふーん……」
 至は、タカオの頭からつま先までを値踏みするように見た。ドレスコードの無いカジュアルな和会席の店ではあるが、白い綿シャツにオリーブカーキのチノパンではとりつくろいようがない。なにしろジャケットやタイを見繕う時間は無かった。
 それでも、それなりに見えてしまうのは、タカオのスタイルの良さだろう。
「ちょっと意外だ、君はサピオセクシャルなタイプだと思っていたからね」
「さ……ピオ? って何だ? 絆創膏か?」
「うん、それは多分サビオだね、タカオ……」
 タカオと菊理のやりとりに、至は毒気を抜かれたのか思わず吹き出し、そのまましばらく笑い転げていた。
「なんだこいつ、人の顔見て笑うなんてシツレーな奴だな」
 ぽつりとタカオが言い、菊理もまったく同感だという様子で力強く頷いてみせた。
 驚くべき事に、とてもなごやかな会食だった。
 至の嫌味は冴えたが、タカオが天然で返すので、そのやりとりは滑稽で、出来の良い喜劇を見ているようなテンポの良さがあった。
 菊理も捨て鉢になっているせいか、素のままで笑い、時に毒を吐いた。
 もっと早くこんな風に時間がとれていれば、至に対してもう少しやさしい気持ちになれていたのではないかと思えるほどだった。
「驚くべき事だけど、君は彼と一緒にいるほうがずっとチャーミングだ」
 食事を終えて、最後のコーヒーを飲みながら至が言った。
「本当に、あなたのセリフってどこかのロマンス小説から切り抜いてきたみたいなんだけど、実は熱心な愛読者だったりするの?」
「ああ、そう、そういう指摘をもっと早くして欲しかったなあ、残念だけど、俺は別にそういったものを研究はしてないよ、ただ、より多くの女性を喜ばせようとしていると、必然的に型にはまっていくものでね」
 そう言い放って両手を広げるポーズも、ロマンスの王子様そのものに見えた。
「何で多勢必要なんだ?」
 ふいにタカオが言った。
「俺は、ククリがいればいい、ククリだけが欲しい、『他』も、『たくさん』もいらない」
「けどタカオ、世の中に女性はそれこそ星の数ほどいるんだぞ? もっと自分に似合う、ベストな相手がいるかもしれないじゃないか?」
 至に言われて、タカオは少し考えたが、やはり答えは同じだった。
「なんで比べる必要がある? 別に比べてもいいけどさ、俺はククリに会って、欲しいと思った、今までそんな気持ちになった事は無いし、東京に来て多勢女の人も見たけど……、うん、やっぱりククリが一番だ」
 にぱっと、微笑んだ音が聞こえてきそうなほどの素直な笑顔に、至は毒気を抜かれ、菊理はひたすら恐縮した。
「……これは、ごちそうさまと言うべきなのかな……、菊理、君はどうやら運命の相手って奴に会えたんだね」
 珍しく、至がわずかに寂しそうな顔をした事に驚いて、菊理は皮肉では無くてこう言った。
「あなたにも、きっといる」
「……だといいけどね」
 菊理は、初めて至の心の柔らかな部分に触れたような気がした。
 菊理は驚いていた。当然修羅場になるものだと思っていたし、なじられ、軽蔑されると思っていたからだ。
 けれど、逆に考えれば、至にとって菊理はあくまでも飾りの為の花嫁にすぎず、菊理でなくてはならない理由は一つも無いのだという事に気づいた。
 少し前の菊理であれば、そんな事にすら傷ついて、自分の無価値さを嘆いただろうが、今は違っていた。
 タカオが浴びせる菊理自身を求める言葉が、菊理を自分で思うよりもずっと強くしてくれていた。
 タカオが人成らぬものであったとしても、タカオが菊理に注いでくれる溺愛と言ってもよい愛情からすれば、それは取るに足らぬ事だった。
「出資の件についてだけれどね」
「ええ、それはもちろん」
 菊理の実家に対しての出資については、婚約が破談になる事で話としては消えるのだが……。
「君か君の両親の方から俺の両親に直接プレゼンをしてみるのはどうだろう? あの人達はあれでビジネスについては利に敏い、儲けを出す自信があるのならば、一度だけのチャンスではあるけれど、時間をとるくらいのことならばできるよ」
「兼田さん……」
「……はじめから、ビジネスとして話をすべきだったと後悔しているよ、だが、俺の父と母を納得できるかどうかは君達の問題だ」
 もっと早くに、きちんと話をしておけばよかった。そう、この時点では、菊理はそう思っていたのだ。
 けれど。
 菊理とタカオが出会えた事も運命ならば、その運命の先が兼田至と繋がっていた事も含めて運命だったのかもしれない……。
「おや、至じゃないか」
 声をかけて来たのは、壮年の夫婦だった。長身の男性は所々に白いものが混ざっているが、老けているというよりは彼をより渋く、貫禄と知性を際立たせていた。
 婦人の方も上品で、仕立てのよい服はオーダーメイドなのか、着こなしに隙が無かった。
「ああ、ちょうどよかった、俺、婚約解消するから」
「そう、菊理は俺のお嫁さんになるから!」
「……すみません、はじめから説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
 考えが飛躍しすぎている男二人に半ばあきれながら、菊理は至の両親になし崩しに説明する事になった。
 結婚するつもりだったんだけど、やっぱり辞めた女性とその恋人。

 そう紹介されると身も蓋も無いのだが、兼田夫妻は菊理にあきれるでなく、なじるでなく、息子の不義理を詫びてくれた。
 そういう意味で、この両親は息子を正しく理解しているのだな、と、菊理は安心した。
 しかし、予想外のところで会話に波が立った。

苫屋(とまや)さんって……赤江島の?」

 兼田夫人は説明の為にあたらしく予約をした個室で角砂糖をカップでは無くソーサーの方にスプーンごと取り落とした。
 それは、菊理がほんの一瞬嫁候補だったはずが他に相手ができてしまった事を説明した時よりよほど動揺しているように見えた。
「あれ? 母さん、赤江島に行った事あったっけ?」
 そう言う至はまだ行ったことは無いのだという。タカオがしきりに誘うので、それじゃあ言ってみようかな、などと軽口を叩いたほどだった。
「……ダメよ。 行ってはダメ」
 見れば、ついさっきまでにこやかに談笑をしていた兼田夫人は青ざめて震えていた。
「あなた、タカオって……本当にタカオとおっしゃるの?」
「ああ、そうだ、タカオがイタルになったから、タカオがいるんだって、母ちゃんが言ってたな、……イタル、……至? ああ! 同じ名前だった、そういえば!!」
 そう言うタカオにはひとかけらの悪意も無さそうで、無邪気にタカオがイタルと言い出す様子に、何か人を傷つけたり害そうという様子は微塵も感じられないのだが、兼田夫妻にとって、それはまるで過去を糾弾するかのような重みを持って、その場の空気すら変えてしまったのだった。
「そんな……苫屋さんはだって、確かに……」
 青ざめて震える夫人を支えるように、兼田氏は静かに言った。
「菊理さん、今日は家内の気分が優れないようなので、これで失礼させてもらいます、出資の件については前向きに検討させてもらいますが……」
 そう言い置いて兼田氏は至に一度視線を送ってから逃げるように言い捨てた。
「今日、ここであった事は他言なさらぬように……」
 そう言って、夫人を伴って立ち去った。

 至も、両親の不穏な様子が気にかかるようで、その場はそれでお開きになった。菊理は、解決しなくてはならない問題の一つがクリアになったと思う反面、何か別の、……そして、もっとより多くの人を傷つけてしまうような別の問題が発生してしまったのではないかと恐れた。
 タカオは、菊理に尋ねられて、素直にすべてを語った。何故そんな事を聞かれるのか、タカオはわかっていない様子だったが、その事実は菊理を打ちのめすものだった。

 つまり、こういう事だ。

 かつて、兼田夫妻は、赤江島に来ていた。
 そして、その時に苫屋に宿を求めた。
 夫妻は、男の子の赤子を連れていた。名をイタルといった。
 苫屋にも男の子の赤子が居た。名をタカオといった。
 事故が起きて、イタルが居なくなった。
 けれど、タカオがイタルになった。
 苫屋の夫妻は嘆き悲しんだが、その後、海の神から赤子を預かった。

 それは、海のあやかしの子だった。
 その赤子は、新しいタカオになった。

「……じゃあ、至は、本当は赤江島の、苫屋夫妻に生まれた子供……タカオ……って事?」
「違う、タカオは俺だ」
 タカオが怒って不貞腐れた。
 タカオが誰にどのように説明されたかはわからない。
 けれど、……たとえば赤子ならば、実の両親がそうだと言いいはれば、入れ替わってしまった事には気づかれない。
 二つの夫婦で起きた取り替え子に、海の神が混ざった。
 死んだ赤子に成り代わったのは今、菊理の目の前にいるタカオ。
 ……そして、至も、おそらくは島を出るまでは、タカオ『だった』。
 けれど、『至』として島を出た。

 何が起きたかはわからない。失われた子供と、入れ替わった子供。
 そこにまつわる経緯については、二つの夫婦から話を聞かない限りわからないが、至は恐らく、自分が赤江島の民宿を営む老夫婦の子供であるという事実を知らなかったのだろう。
 島を出る時の、苫屋の夫妻の様子、『兼田至』という名前を聞いた時の複雑そうな表情は、『これ』を意味していたのか。

 何と言う皮肉。
 何と言う運命。

「……菊理?」
 知ってしまった事実を、菊理は受け止めきれずにいた。
 自分が、全く別の場所で生まれて、見知らぬ両親の手によって育ったという事実を『至』が知った時、彼はどうなるだろう。
 彼らしくシニカルに笑ってみせるだろうか。

 ……それとも。

 あれほど、菊理を、形だけの婚約者、お飾りの妻だと言い募っていた『至』自身が『偽物』だったという事を、真っ直ぐ受け入れる事ができるのだろうか。

 受け入れられればいい、と、菊理は願った。
 彼にいる幾人もの恋人達が、至自身を愛しているのだと信じたかった。
 それぞれが、それぞれに、誰かを思っているというのに、どうして思いは空転して、行き過ぎてしまうのか。
 赤江島から、タカオの両親が上京して来た。
 表向きは、菊理の両親へ挨拶がしたいという事だったが、案の定申し出があった。
「兼田至に会いたい……そうおっしゃるんですね」
 菊理は、苫屋の老夫婦の為にホテルをとった。さすがに菊理の家に、夫婦と菊理、タカオが泊まるのは不可能だった。
 タカオは父を連れて物見遊山に出ていた。聞けば、タカオの父は東京で修行をしていた事があったのだという。
 土地勘の無いタカオと二人では不安もあったが、そういう事であればと、二人を送り出し、菊理は、老婦人と共にホテルに残っていた。
 もしかしたら、婦人の方がそう望んで仕向けたのかもしれなかった。
 彼女にとって、兼田至は腹を痛めて生んだ子でもある。ひと目でもいいから、姿を見たいと言い出すのは無理も無い事だ。
 しかし、至は自分が兼田夫妻の実の子供では無かったという事実を消化仕切れているのか、タカオが出現した時の兼田夫妻の様子を考えるに、老婦人が至に接触する事を許してもらえるとは到底思えなかったのだ。
「遠くからひと目見るだけでもいいんです、元気な姿を見たら、私達は島に帰ります、もう会えないと思っていましたし、会ってはならないとも思っていました、でも、知ってしまった以上、……忘れる事はできないんです」
 ホテルの一室で泣き崩れる老婦人の姿を見てしまっては、とても断る事はできない。
 菊理は、遠くから見るだけならば、と、老婦人に言い含め、至に会いに行く事にした。
 目的は直接会って礼を言うだけ。という事にした。
 メッセージに対して、至は律儀な人だね、君も、と、いつもの調子で返して来た。
 昼休みに、コーヒーを一杯だけ。
 至のオフィスにほど近いカフェで待ち合わせ、遠くから老婦人がその様子を見守るという算段になった。
 だが、初手から目論見がはずれた。
 カフェに、至は兼田夫人を連れて現れた。
「先日は失礼したからね、改めてと思って」
 そう言う至は引き合わされる相手が菊理だとは思っていなかったらしい。
 品のある口元が、わずかに歪むのが見ていて辛い。
 できればすぐにでも話を終わらせて、この場を立ち去りたかった。
 着席し、注文を終えたところで、ふいに兼田夫人が立ち上がった。
「あ……あなた、なんて事を……」
 わなわなと震えながら、兼田夫人が指差した先には……老婦人が立っていた。
「どうして、何故あなたがここに居るの?! もう二度と会わない、そういうお約束だったわよね?!」
 取り乱す兼田夫人に、至も何かがおかしいと気づいたようだった。
 さらに悪い事に、今日は兼田氏が居ないのだ。
「帰ってちょうだい! 私の前に二度と顔を見せないで!!」
 ヒステリーを起こして叫ぶ兼田夫人に、老婦人は打ちのめされていた。
「申し訳ありません!! 奥様!!」
 しかし、老婦人は黙って立ち去りはしなかった。菊理達のテーブルまでやって来て、至を一瞥した。
 泣きそうな、叫び出しそうな顔に、至もただならぬ何かを感じていた。
「ああ……、タカオ……」
 思わずつぶやいてしまった老婦人は、あわてて取り繕うように深く頭を下げて、逃げるように立ち去った。
「あ!! 一人では!!」
 土地勘の無い老婦人を一人にする事はできないと、菊理もあわててお辞儀をして立ち去った。
 取り残された至が、どうしていいかわからない様子で戸惑っているのは視界のはしにかかったが、菊理は振り切って老婦人を追いかけた。