何も無い平坦な地面に立っていると、蟻地獄のように足元が攫われていくような不安があった。
山間に向かって落ちていく太陽がまだいる間に、電車待ちで調べたヒサコさんの家に向かう。
いつも、アキラが帰っていく方向へ向かって歩いて行くと、新興住宅地とは違う既存住宅地のような場所に入っていった。
途切れ途切れに並ぶ塀の合間を通って、携帯から顔を上げる。
荘厳とした雰囲気の門構えに、わたしの胸元ほどの高さに揃えられた垣根。
決して広い敷地ではないけれど、横長の日本家屋は静まり返っていた。
インターホンはモニターのついていないボタンだけのもので、なんとなくそれを押していきなり人が出てくるのは緊張してしまうから、と垣根の上に首を伸ばして庭を覗く。
縁側の戸が空いているから、たぶん人はいるのだと思う。
野菜の植えられた小さな畑のような場所に目をやると、小さな青と赤の瞳がこちらを見つめていた。
「猫……?」
じい、と見つめ合うのは、しなやかな尻尾をくゆらせて髭を横にピンと伸ばした毛艶のいい白猫だ。
ちりめん柄のスカーフのようなものを首に巻いていて、左右でちがう瞳の色に吸い込まれてしまいそうになる。
目を逸らすタイミングがないまま、猫と見合って数分。
先に興味を無くしたのは猫の方だった。
こちらに向かってひと鳴きし、ここからでは見えなかった垣根の隙間から道路へ出てくると、わたしの足に頭を擦り付ける。
タイツに白い毛が絡むのを見下ろしていると、思いがけず飛び込んできた影がいた。
「とうかちゃんだー!」
「っ、え!?」
わたしの腰の辺りに手を伸ばして、猫のいる側とは反対からぴったりとくっつくのは、コウトくんだ。
「キョウちゃんもただいまー!」
にいーっと笑うコウトくんが猫の顔を覗いて言うと、猫も返事をする。
驚いて持ち上げたはいいけれど行き場をなくした手をどうしようも出来ずにいると、道の向こうから早歩きでやってくるコウトくんのお母さんが見えた。
ぺこり、と遠巻きに頭を下げると、わたしのことを覚えていたようでホッとしたような笑みをこぼしていた。
「そうかなっておもったらほんとうにそうだった!」
ぎゅうっと抱き着いてくるコウトくんの髪を撫で、こちらに来たコウトくんのお母さんと話をする。
突然走って行ったから驚いた、というから苦笑いを返した。
「あれ……でも、コウトくんってこの辺りに住んでるの?」
「そうだよ」
今度はわたしの周りをくるくると回り始めたコウトくんに説明を求めるのは難しくて、困惑しているとお母さんが教えてくれた。
コウトくんの保育園を探したときにあの幼稚園と併設のところしか受け入れてもらえず、そのまま通っているらしい。
わざわざ2駅も向こうの幼稚園に通うのは大変だろう。
園バスでこちらの駅まで送ってもらうこともあるらしいけれど、動きたがりで遊びたがりなコウトくんを連れて、あの公園に行くことも多い、と。
「キョウちゃん、かわいい」
毛並みを逆撫でされても大人しくしている白猫は、キョウ、というらしい。
「とうかちゃんもなでていいよ」
コウトくんの許可をもらってキョウに指先を差し出すと、鼻先で匂いを嗅いだあと、顔を擦り付けるようにされた。
ゴロゴロと喉を鳴らす様が可愛くて、夢中で撫でていると、コウトくんがパッと顔を上げる。
「おばーちゃん!」
「あら、こうちゃん、おかえり」
しゃがんでいたわたし達には気付かなかったのか、声をかけられて初めてこちらに人がいることを確認したらしい声が上から降ってくる。
顔を上げると、垣根の向こうからこちらを覗く老婦人がいた。
紫がかった短髪のパーマに、唇を強調するように指された紅、すらっと高い背丈は腰が曲がっていないこともあってわたしの背とさほど変わらないと思う。
「……ヒサコさん?」
「そうよ」
どうして知ってるの? という顔をしながらも怪しむ様子を見せない。
かわいいおばあちゃん、とメモには書いてあったけれど、想像とはちがう髪色を初めとしたパワフルな印象に目を丸くする。
「上がっていらっしゃい。こうちゃんも」
よく家に上がるのかコウトくんのお母さんとはその場で別れて、斜め向かいの家に入っていった。
キョウが出てきた垣根の隙間をくぐって中に入るコウトくんにならうわけにはいかず、ヒサコさんに門を開けてもらう。
表に面して開け放たれた縁側から我が家のように慣れた様子で室内に上がったコウトくんにキョウがついていく。
「あの……」
ここへ来た理由を話さないといけない。
見ず知らずの人間を家に上げる不用心さを少し心配しながら、背筋をピンと伸ばして歩くヒサコさんの後を追いながら声をかける。
「アキラって知ってます?」
口をついて出たのが夏哉ではなくアキラであったことに自分で驚いていると、ヒサコさんはオシャレなフレアスカートの裾を翻してこちらを向いた。
「夏哉くんの話してた子かと思ったのだけれど……あきちゃんのお友達?」
「あ、はい。えと、夏哉のもわたしだと思うんですけど」
思わぬところで繋がっていた糸に、見事に引っかかってしまったわたしの頭の中はこんがらがっていた。
表札にあったヒサコさんの名字『荒木』にまさかと思い孫がいるかと尋ねると、ハルキと聞き覚えのありすぎる名前が飛び出してきた。
それなら、と口にしたアキラの名前に、予想通りの反応。
コウトくんは向かいに住んでいるだけでヒサコさんと血縁関係はないらしい。
どうして手紙を送る相手がここまで偏るのか、わからないけれど。
「ふふ、びっくりした?」
「え……?」
「あきちゃんとこうちゃん、夏哉くんと関わりがあるんでしょう。私も知らなかったのよ」
どういうことだろう。
縁側に座るように促されて、肌寒い風と麗らかな陽気に一旦急く心を落ち着かせる。
「夏哉くんは午前中にしかここへ来なかったから。一度あきちゃんが通りかかったとき、隠れてたのは見つかりたくない理由があったんでしょうね」
差し出されたお茶請けを手に載せて、見つめる。
部屋の奥から仏壇の鐘の音が聞こえたあと、コウトくんが慌ただしくこちらへ戻ってきて、わたしの背中に抱きつく。
「あきくんのはなししてるー!」
「そうよ。こうちゃんはあきちゃんが好きだものねえ」
「おばあちゃんもだいすき! とうかちゃんとー、なつくんとー、あきくんと、はるくんもすきだよ!」
矢継ぎ早に並べられた名前にわたしがいることに胸の辺りがほっと熱くなる。
これまで気付かなかったことに気付いたのも、同時だった。
「四季……」
春夏秋冬。
季節の文字ではない人もいるけれど、ぴったりと揃う名前に柄も知れぬ感動が浮かび上がる。
「なあに、しきって」
「はる、なつ、あき、ふゆって。」
「あー!ほんとだ!」
身振り手振りで伝えると、コウトくんも興奮してきゃーきゃーと騒ぎ始める。
こんな偶然があるんだ。
別に、だからって何もないけれど、すごい。
「仲がいいのねえ」
ふふ、と笑いながらわたし達を見ているヒサコさんの前で、年甲斐もなくはしゃいでしまったことが恥ずかしくて頬が熱くなった。
会うのはこれが2度目なんです、なんて余計な茶々は入れずに、肩口から顔を覗かせるコウトくんにほほ笑みかける。
「とうかちゃんわらってる」
「うん」
「たのしい?」
楽しいのか、嬉しいのか、おかしいのかわからないけれど。
心があたたかくて、笑いたくなる。
「コウトくんが面白いんだよ」
「えー! ぼくなの?」
子どもと触れ合うことなんてないからと会いに行く足は遠退いていたのに、いざ再会してコウトくんのペースに合わせると会話も弾む。
「ちょっと待っててね」
そんなわたしとコウトくんを置いて、ヒサコさんは部屋の奥へ行ってしまった。
数分とせずに戻ってきたヒサコさんが手に持っていたものを見て、え、と声が漏れる。
それまでコウトくんと揺らしていた体をぴたりと止めたから、コウトくんは不思議そうに首を傾げてわたしの視線の先を追う。
「なつくんのかばん」
もしかして、だとか。
まさか、だとか。
無駄だと知りながら遠回りをしかけた思考をコウトくんが遮る。
灰色のトートバッグ。
先を落としたまま付けっぱなしのキーチェーン。
持ち手と底の辺りが黒ずんで汚れたバックは間違いなく夏哉のものだ。
「どうして……」
それがここにあるんだ。
遺留品、というべきか、財布や携帯といったものは夏哉の部屋に置いてあって、持ち出さずに外に出たのだろうとナオキを経由して聞いた。
他に入っているものが思いつかないけれど、とにかくそのバック自体は夏哉のもの。
「預かってたのよ。忙しくてしばらく来られないからって。良かったらこれのこと、夏哉くんに伝えてくれないかしら」
「……それは」
できません、と素直に言うべきか、迷った。
今この場にはコウトくんもいる。
真実を話すより、そのバックを受け取って、二度と二人に会わないというのも手なのではないかと考えた。
黙ったまま両手を差し出すと、ヒサコさんは横たえたバッグを載せてくれた。
ぐっと首を伸ばして中を見ようとするコウトくんと一緒にバッグを開けると、そこには見覚えのある封筒と便箋がクリアファイルに挟んではいっていて、他には黒のボールペンが一本と液体のり。
夏哉がここで手紙を書いたということなら、ヒサコさんに渡さないわけにはいかない。
最後の手紙が残されている以上、早めに渡すに越したことはない。
「これを」
自分のカバンの中から取り出した5通目の手紙を差し出す。
「ぼくももらったやつ!」
「コウトくんのが最初だったんだよ」
「やった!ぼくいちばーん」
コウトくんの気を逸らしながら、隣に座り直したヒサコさんに手紙を渡す。
ヒサコさんは大切なものに触れるように封筒をなぞって、ナオキと同じく丁寧に封を開くと、頼んだわけでもないのに文章を読みあげようとするから、慌ててコウトくんの耳を塞ごうとして、やめた。
夏哉はこれまでの誰の手紙にも、自殺を仄めかすようなことを書いていなかった。
慌てる必要がないことを知って、コウトくんと共に耳を傾ける。
最初の当たり障りの文章から、段々とわたしの知らない夏哉の話になっていく。
けれど、その内容は突如として一変し、ヒサコさんは言葉を区切った。
「……え?」
聞き間違いかと思って、すがるようにヒサコさんを見るけれど、ヒサコさんは一心に文字を追いかける。
わたしは震える指先を擦って落ち着かせていると、読み終えたヒサコさんが手紙をわたしの膝に置いた。
読まない方がいい、と頭の中で警笛が鳴る。
さっき、ヒサコさんが読み上げかけた続きの部分が目に入って、全身がずくりと疼いた。
「冬華ちゃん」
辛いのなら読まなくてもいい、という意味で背中に添えられた手を払いはせず、ひとつ頷いて見せ、もう一度初めから読み直す。
───────────────────
ヒサコさんへ
ヒサコさんの家の庭にある桜は、もう咲きましたか。
初めて会った頃、梅と桜の違いもわからなかったことが、懐かしいです。
ヒサコさんにも手紙があるってこと、教えていなかったのはちょっとしたサプライズのつもりだったんだけど、もしかしたら、これ、書かない方がいいのかもしれない。
最後まで書き終えて、俺が嫌だと思ったらその旨も書きます。
もし、文末にそのようなことが書かれていたら、この手紙はあの桜の木の下で燃やしてください。
消えたいって、何度も弱音を吐いてごめんなさい。
というと、謝罪はやめなさいと言われそうなので、付き合ってくれてありがとうございました、と伝えます。
ヒサコさんの前では不思議と、嘘がつけないんだよな。
隠していることも、ヒサコさんにはほとんど話していました。
俺が冗談めかして話しても、ヒサコさんには全部お見通しでした。
そんなわけないじゃん、と言った中のいくつかは、実は本当だったこともあります。
ヒサコさん。
人はどうして、人を傷付けることができるんだろう。
痛みを感じたことのない人間がいるはずがないのに
振り上げた手足を、吐かれたことのない言葉を、とても容易く、他人に振り下ろして浴びせられる人間がいるんだ。
怖くはないけれど、恐ろしいです。
普段の一面を知っているから、尚更。
表裏のない人間になるのは難しいけど、たとえばたくさん面を広げて展開してみたときに、誰かに隠さなければいけない一面があるような人間に、俺はなりたくないと願うのは、綺麗事でしょうか。
自分が、心までまっさらで綺麗な人間だとはいいません。
だけど、俺に手を振り上げて足で蹴り上げてくる人達よりは、ずっと綺麗な心を持っていると思うんだ。
それなのにどうして、俺より汚れた心を持ってる奴らの方が強いんだ。
なんて、そんな浅ましいことを考えてしまうから、いつまでも俺は、弱いのかもしれません。
この手紙を受け取る頃、俺がどうしているのかを、ヒサコさんだけはわかっているのかもしれないな。
耐えきれなかった弱いやつだと思ってくれて構いません。
大切な命を粗末にしたのだと解釈してくれて間違いありません。
それでも、俺は。
最後まで、綺麗な心でいられたのだと思います。
弱さは強さに敵い、優しさは怒りに勝る。
ヒサコさんの言葉の中で、これがいちばん頭に残っています。
最後に、やっぱり、この手紙は取っておいてください。
胸クソ悪いことばかりだけどヒサコさんに支えられていた部分は、とても大きいから、ずっと、形として残っていてほしいと願います。
最後の最後に、明るいことを書いておこう。
ヒサコさんの髪色、俺はすごく好きです。
あんまり、俺の周りにはいないタイプのばあちゃんだから、すごく新鮮で、すごく楽しくて、すごく面白かった。
ありがとうございました。
どうか、お元気で。
───────────────────
音が止んだように、何も聞こえなかった。
ひゅう、と口から吸い込んだ空気が喉を伝っていく。
「これ、なつくんがかいたの?」
コウトくん宛ての手紙とはまるで内容も書き方も違ったせいか、ピンと来ずに疑問符を浮かべている。
わたしは、手の甲に青筋が浮かぶほどつよく拳を握り締めて、潤む視界を晴らそうとするのに必死だった。
ぼた、と音を立てて落ちた雫が、スカートにシミを広がる。
赤裸々に、文体は落ち着いていながらも、歯止めを無くしたように激しい感情で書かれた文面に、込み上げるものを抑えられない。
「いじめられたの……?」
読めるところだけを抜き取った、悪意のないコウトくんの言葉が容赦なく耳をついて、叫び出しそうになる。
この手紙に書いてある通りのことが本当に起きていたのだとしたら。
考えただけで、背筋に悪寒が走る。
夏哉は、たったひとりで戦っていた。
カエデさんの言っていた足の怪我が、推測した通り故意的なものであったのだとしたら。
同等の暴力を一度と言わずに受けていた可能性がある。
「ねえ、なんて書いてあるのー?」
「っ……」
無邪気な声がカンに触った。
わからないのなら、読もうとするな、と叫びそうになるのを押さえてコウトくんから体ごと反らすと、ヒサコさんがコウトくんを連れてどこかへ行った。
荒くなった呼吸を整え終わる前にまた乱して、激しい頭痛に襲われる。
産まれたときから休まずに続けてきた呼吸の仕方を今更見失う。
ずっと、当たり前にしていたことだから、方法を知らないのも当然で、宇宙に放り出されたような心地になる。
それでも、苦しい、と唇から零せば空気は簡単に滑り込んでくるし、肺はその空気を受け入れて、促すように逆流してきた。
「冬華ちゃん」
ひとりで戻ってきたヒサコさんが力強くわたしの肩を抱き寄せる。
前につんのめるようにして、ヒサコさんの肩口に顔を押し当てる。
遠慮がない代わりに痛いくらいにわたしの肩を抱くヒサコさんに、わたしも力いっぱいしがみついた。
何かにしがみついていないと、どこかへ落ちてしまいそうだった。
頭が真っ黒になって、真っ白になって、その繰り返し。
「……っ」
零れないように強く瞑った瞼から、涙が滲み出していく。
あれほど、もう二度と泣けないかもしれないと虚勢を張っていたのが嘘のように、ボタボタと滴っていく。
夏哉の姿を目にしても泣かなかったのは、心が追いついていなかったからだ。
死んだ、ということをきちんと認識してはいたけれど、その理由がまるでわからなかったから。
ずっと、わからないままでいた理由の片鱗が一気に目の前を飛散したから、こんなにも涙が溢れて止まらない。
骨、筋、血管が一緒くたに浮き出ていて、皮の余った細い腕のどこにそんな力があるのだろう。
何かを止めようとするとき、人は見かけよりもずっと強い力を宿す。行かせてはいけないと、意地でも留めておかねばいけないと察知する能力が、大人の方が優れている。
かぶりを振って涙の粒を払い飛ばすと、俯いた視界に夏哉のバッグが映る。
もがくようにしてそのバッグに手を伸ばし、中のクリアファイルを引っ張り出す。
何も知らないのは嫌だ、と謙虚な望みを吐いていたくせに、今はもうぜんぶ知りたいって思ってる。
白紙の便箋が歪むのも構わずにぐしゃぐしゃに捲っていくと、真ん中にメモが挟まれていた。
コピー用紙の紙質のちがいなんてわかりもしないけれど、たぶん、手紙に入っているメモと一緒のものだ。
ひっくり返すと、そこには携帯の電話番号が書かれていた。
番号で覚えている連絡先は、自宅と自分のものくらいだ。
両親の番号も夏哉の番号も、覚えていない。
番号のメモを手に、ヒサコさんの体をそっと押す。
腕を解こうとしても離れてくれなかったのに、片手を添えるようにして押した体は簡単に離れていった。
ヒサコさんへの手紙の中に、最後の行き先へのメモが入っているはずだけれど、その前にしなければならないことがある。
このメモに書かれている番号が、わたしの想像通りの人に繋がったとして、何ができるかなんてわからないけれど。
真実は裏付けるべきだと思うから。
たとえその真実が、どれほど切っ先のするどい槍だとしても。
「あとで、戻ってきます」
「冬華ちゃん、どこに行くの? 私も一緒に行くわ」
「大丈夫です」
わたしは意志の強い人間ではないから、会って一時間も経っていない間柄であっても、本質は見抜かれてしまうのだと思う。
それでも、この旅が始まった頃に比べたら、わたしも随分変わった。
瞳に瞳を映すことで、この言葉が嘘にならないことが伝わればいいと願いながら、自分の携帯とメモを片手に立ち上がる。
ヒサコさんの家の敷地を出て、ちらりとコウトくんの家を見遣ると、玄関の前でお母さんの後ろに隠れ、こちらを伺う男の子の姿。
怯えたような、眉を下げて泣きだしそうな顔をしているから、安心させるように微笑んで見せる。
笑うことも、まだ少しぎこちない気はするけれど、できるようになった。
少し離れた電柱のそばに立ち止まって、ダイヤルに番号を打ち込む。
指の震えはもう止まっていて、心は凪いでいた。
ワンコール、ツーコール。
コール音がずっと続いて、やがて途切れた。
知らない番号は非通知にでもしているのか、それとも見知らぬ人からの電話は出ないようにしているのか、電話を取れないのか。
色んな理由が浮かんだけれど、出るまで戻らないと決めて、もう一度かけ直す。
コール音が続き、そろそろ切れるかと、耳につけた液晶を離そうとしたとき、プツ、とこれまでとは違う音が聞こえた。
『……はい』
声だけでもわかる、こちらを訝しむ様子に、ごくんと生唾を飲み込む。
この音、もしかしたらマイクが拾ったのかもしれない。
「もしもし。あの、わたし、橘です」
『橘……って、橘さん?』
わたしの名前までは覚えていないのか、絞り出すような声のあとに名字を復唱する。
アカツキくんの中で、電話の相手が橘冬華であることが結び付けば、わたしの名前を覚えているかどうかなんて関係がない。
「話があるの。夏哉のことで」
『……今? いいけど、思い出話とか得意じゃないんだよ、俺』
「思い出話じゃないよ。アカツキくん、この電話が嫌でしょう。その、嫌な理由のことを話したい」
受話器の向こう側で、アカツキくんが息を飲む音が聞こえた。
核心を突けばいいのに、この通話が一方的に切られてしまうことを恐れて、わざと回りくどい言い方にした。
『どこにいるの?』
「高校の最寄りのひとつ先」
アカツキくんがどこに住んでいるのかは知らないけれど、主要駅から見て、わたし達の高校がある最寄りのひとつ先といえばわかるだろう。
『わかった。すぐ行く』
わたしの返事も待たずに、ぶつ、と通話を切られた。
駅までは戻らなければいけなくて、時間的に夕方になってしまうかもしれないから、とヒサコさんの家に戻ることも考えたけれど、どれほど遅くなっても構わない、と勝手に終着した。
待合室と簡素な改札しかない駅の外で壁に凭れていると、キキッと自転車のブレーキ音がした。
「橘さん」
アカツキくんは上着を羽織らずトレーナー一枚で、手荷物は何も持っていない。
ピッタリとしたスキニーのポケットもぺたんこで、携帯さえ持っていないのではないかと思う。
「場所、変える?」
これから話そうとしていること、聞かれるであろうことをもう薄々気付いているはずなのに、アカツキくんはここへ来ること自体がとても億劫であったというような目をしている。
表情ひとつ変えずに、どこを見ているのかわからない瞳を向けられて、尻すぼみしてしまいそうになったけれど、アカツキくんに向かって足を踏み出す。
夏哉と並ぶ背丈のアカツキくんを見上げると、お互いに逸らそうとしない瞳を追いかけるように、見下げられる。
逆光で、アカツキくんの無表情がとても恐ろしく見えた。
「ここでいい」
せめて端に移動しようだとか、そんな提案はしない。
周りからわたしとアカツキくんがどう見えているのかはわからないけれど、至近距離で見つめ合いながら、先に口を開いたのはアカツキくんだった。
「あんたがどこで何見て、何を知ったんだとしても、あいつは自殺だ」
「……なんとも思わないの?」
「思わないな」
おちょくるような声でも、ふざけている様子でもない。
ただ淡々と答えていくアカツキくんに、頬が紅潮していくのがわかる。
怒っているんだ、わたしは。
けれど、怒りのままに泣き喚いたり人に当たることが許されるような年ではないから、考えなければいけない。
やっぱり、当事者でもなければ見ていたわけでもないわたしに、確かなことなんて何も言えなくて。
アカツキくんを責めることはできない。
ここにアカツキくんを呼んでどうするのか、考えてもどこにもたどり着かない。
黙り込むわたしに、アカツキくんは均衡を保っていた瞳を呆気なく他所へとやってしまう。
居心地が悪くなって逃げたんじゃないだろう。
どうでもよくなったんだ、きっと。
「橘はチームバランスって考えたことある?」
さっき、あんたって呼ばれたことには多少驚いたけれど、橘と呼び捨てにされてももう何も思わなかった。
わたしの知っているアカツキくんと違うことへの戸惑いは先に全部取り払って、言葉だけに集中する。
緩く首を横に振ると、アカツキくんはピースサインをわたしに向けた。
2本、目の前に立てられた指を掴んで振り落とせたら、わたしは少しでも気を晴らせるのだろうか。
たった、それだけのことで晴れるのなら、試してみてやろうと思ったけれど、その前にアカツキくんは指を引っ込めた。
「ひとつは、凡人しかいないチーム。これがいちばんの理想だよ。ふたつめは、全員がエース並のチーム。これは均衡してるようで頭ひとつ抜きん出たやつがそのうち生まれるから、俺は嫌い」
「何が言いたいの」
「凡人しかいないチームにエースはいらないんだ」
アカツキくんの言う、エースは夏哉のことだ。
けれど、それは褒めるようなものではなくて、侮辱するような、侮蔑的な意味で吐かれたものだった。
「せっかく先輩たちの暴力に耐えて、後輩はそこそこ出来るやつが入ってきて、キャプテンになれるかもってときまで我慢してたのに結局辞めちまうなんて、あいつは馬鹿だ」
「…………」
「他人か自分を傷付けないと自分を守れないとき、他人を選べないやつは優しいけど、弱いんだよ」
何も言えずにいるわたしに、アカツキくんが畳み掛けてくる。
話だけを聞いていたら、アカツキくんは間違ったことを言っていないと思う。
優しさは強さに変わるかもしれない。
けれど、人を傷付けられない弱さは、悪意に勝てない。
人を傷付けられないのならせめて、自分の身は守らないといけないのに、夏哉はそれが出来なかったのだろう。
わたしの命を救ってくれたように。
わたしの日々のいくつかを彩ってくれたように。
人のために笑って泣くことができるほどの人が、踏み切れなかった理由なんて、ひとつしかない。
わたしのためだ。
わたしのせいだ。
自惚れだったら恥ずかしい、だなんて勘違いも自意識過剰も起こさない。
紛れもなく、間違いなく、わたしのためだ。
血の気の引いていく顔を、アカツキくんの指先が辿って、反射的に手を振り上げる。
ぱしん、と乾いた音を立てて、アカツキくんの手の甲を弾く。
「俺はあいつに何もしてないよ」
「でも、助けなかったんでしょう」
「俺は、自分を守れる。傷付きたくないから、夏哉じゃなくて自分を選んだんだ」
ひどいよ、と罵りたい。
やるせなさでいっぱいになって、アカツキくんの肩を拳で叩く。
人のために傷付きたくない。
それは、わたしだって思ってる。
加担はしていない、というアカツキくんの言葉を鵜呑みにできるほど、彼を信じてはいないけれど、感情を理解することはできた。
「先輩がいなくなってからは、俺だってあいつとの仲、修復しようとしたんだ」
けれど、無理だったのだろう。
以前のように戻ることは。
「悪かったと思ってる。でもあいつは一度だって俺に助けを求めたりしなかった」
「求められないからしなかったの?」
「……伸ばされてもいない手を掴めるやつなんか、そうそういねえよ」
苦虫を噛み潰したような、複雑な顔で吐き捨てる。
「もういいだろ。あいつは死んだ。俺にできることは卒業式でしたつもりなんだけど」
卒業証書を受け取ったとき、誰よりも先に頭を下げたのはアカツキくんだった。
周りがみんな頭を下げる中、わたしだけは顔を前に向けていた。
だから、知っている。
いちばん最後まで頭を下げていたのもアカツキくんだということを。
「さよなら、橘さん。もう、会わないだろうな」
もう一度、アカツキくんの指先が頬に触れて、横髪を一房持ち上げると、毛先までそうっと滑らせていく。
髪に触覚はないはずなのに、背中やうなじの辺りがぞわぞわと粟立つ。
それは決して、頬が熱くなるようなそれではなくて、腹の底から冷えていくような嫌悪感。
ぱさ、と鎖骨の辺りに落ちた毛先を名残惜しむように宙を漂っていたアカツキくんの手が離れていく。
アカツキくんは自転車のスタンドを上げると、わたしを一瞥もせずに跨って去って行った。