今日に触れられますように。



「夏哉は? 夏生まれ予想だけど」


「夏くんはねー」
「夏哉は」


たぶん、『 夏 』の二言のどこかで差はあったけれど、ほとんど同時に声を発した。

今、アキラと話をしていたのはユリだ。

わたしがしゃしゃり出る場でないことはわかっていたはずなのに、反射的に答えてしまった。

同時だったことに怯んでわたしは口を噤んだけれど、ユリはそのまま続けた。


「夏くんは冬生まれ。12月7日」

「へえ。なんでまた。どういう意味なんだろうな」

「さあ? 聞いたことないからわかんない」


内側に巻いたくちびるを解いて、息を漏らす。

ユリは知らないんだ。

マウントのようで嫌だけれど、その意味は本当に特別なものだから、知っていてほしい。


「夏哉の、お母さんが好きだったからだよ」


夏哉のお母さんは体が弱くて、冬に夏哉を産んだあと、夏を迎えられるかわからなかったという。

けれど、夏哉とともに夏を迎えて、当たり前のように越えた夏が六度目に差し掛かる前に、亡くなった。


「……知らなかった」


ユリの呟きを区切りに、三人での会話は途切れた。

真正面の窓から射す明かりが、ふわふわとした埃をきらきらと照らした。

映画館で後ろの方の座席に座ったときに、ちょうど映写機の前を見上げたときのような、真昼の星空のような光景が目の前にある。

足元の暖房と陽光と、アキラに触れる肩のぬくもりが心地よくて、うとうとと船をこぐ。


短かったり、長かったり。

等間隔でない停車のアナウンスの度に瞼を押し開けては伏せてを繰り返す。


そのうち、アナウンスの音声が遠退いていって、聞こえなくなった。



「冬華、起きろ。ほら、おまえも」


陽の光の音の向こう側から、アキラの声が聞こえる。

ユリのことはおまえなのに、わたしのことは名前で呼んでくれた。

そんな小さなことが嬉しくて、口元が緩む。


「起きろっつってんだろ。着くぞ」

「いたっ!」


ビシッと容赦なく飛んできたデコピン。

ジンジンと後を引く痛みにぼやける視界の中、アキラの指の先端が映った。

短く切りそろえられた爪ではなく、かたく分厚い指先が当たっただけであの痛み。

指先ひとつとっても、男子と女子ではこんなに違う。


体感でゆっくりと減速していく電車。

アナウンスが停車駅を告げると同時に、ユリが身じろいだ。

図々しくもアキラの肩にもたれて眠っていたらしい。

わたしももしかしたら、俯いて眠っていたつもりがアキラの方へ傾いていたのかもしれない。


「ちょっと。冬華も寝てたの?」

「ユリこそ……連れてきた本人が寝てるって」


電車を降りたところで、悪態をついてくるユリに応戦する。

もういい加減にやめようよ、と思うのに、意固地になって自分からは引けない。


「喧嘩すんな」


どうどう、と長い腕をわたしとユリの間に割り入れて制するアキラを、ユリがじっとりと睨む。

それを見下ろすアキラも、さすがに気分を悪くしたのか、眉間にいくつかのシワを寄せ、黒目を白目の下に追いやる。


「中学生のくせに!」

「それ言える状況じゃなかったろ」


アキラの方が一枚上手だ。

余裕そうな笑みを浮かべて、ついでに言い終える頃にはちらりとわたしにも視線を寄越した。

肩を竦めて見せると、ふっと柔らかい笑みをこぼす。


「行こうぜ」


軽い足取りで先に改札を出るアキラを追いかけた。

ユリは面白くなさそうな顔をして、ついてくる。


無人駅を出ると、国道を挟んだ向こう側には海が広がっていた。

海はどこまでも続いているわけではなく、どんと構える大きな島が目に飛び込んできた。

距離がどれくらいあるのかはわからないけれど、向こう岸に浮かぶ船がいくつか見える。


「ここからどうするんだ?」


言って、アキラは周りを見渡す。

目の前には海、振り向けば山。

民家が一軒も見当たらない。


国道だというのに、車は一台も通らないし。



「あっち」


まるでここへ来たことがあるような物言いと足取りで、ユリは道路を横切る。

その後を追いかけると、海へと続く階段があって、下りた先には船が一隻停泊していた。


「あれに乗る」

「乗るって……手漕ぎボートじゃあるまいし。動かせんの?」


わたしが何か言うと、どれもこれも火種になりかねないから、アキラが代弁してくれるのはすごく助かる。

ユリはアキラに対しても高圧的な物言いだけれど、わたしに話すときのようなトゲトゲしさはない。


後ろに船外機のついたボートは見たところ、大人数が乗れるような大きさではない。

海を見渡すとちょうど真正面に見える島に目を凝らすと、僚船らしき船がいくつか停泊している。

島に渡るための船、なのだろうけれど、操縦席にも船の周辺にも人の姿はない。

コンクリートでかためた乗り降りをするための足場はあるけれど、岩場が続くばかりで舟屋らしき建物もない。


ひとりなら途方に暮れていただろうけれど、行動派の人間がふたりもいるのは心強い。

耳を傾けて聞いた内容は、さすがに無断で船を動かすことはできないし、ここで待つか一人残して二人で周りを探してまわるか、という話だった。


さっきは足取りも軽く見えたけれど、ヒールを履いているユリに砂浜や岩場を歩かせるわけにはいかなくて、アキラと二手に分かれて、と話をしていたとき。


ふと、耳に届いた波以外の物音。


ユリとアキラも音に気付いたようで、船の向こう側の岩場を見遣る。

物音ではなく、人の声が岩場の裏から聞こえていた。


「フン、フフーン、フン、フフフーン」


音ではなく、声で、かつリズムを踏んでいて。

鼻歌だ、と気づいたとき、声は違う音に変わった。


「フッフフ……ふはっはっはっは」

「笑ってる? 気色悪いな」


はっきりと言ってのけたアキラに同調してユリが頷く。

気色が悪いとはいわないけれど、確かに突然笑い声が聞こえてきたら気味が悪い。


はー、と余韻を残して笑い止んだ声の主は、それきり黙り込んでしまった。


「誰が行く?」

「絶対変なやつじゃん、どっちか行って」


声を潜めるでもなく、波の音にいくらか遮られるとはいえ、話していることは鼻歌の人にも届いている。

こうして話しているうちに出てきてくれたら、と願っても一向にこちらへ来る気配がない。


船の裏を回ってアキラとともに岩場の陰を覗く。

ばちりとかち合ったふたつの眼がカッと見開かれて、ニッと白い歯を見せる男の人。

かたそうな岩に頭をのせて寝転んでいて、わたし達と目が合うと、開いていた雑誌を胸に置いた。


「変なやつって言ったのどっち? 女の子の声だったな?」

「わたしじゃないです!」


にこやかにしているけれど、内心とても腹を立てているかもしれない。

慌てて否定すると、一息で上半身どころか身体ごと起こして立ち上がった彼は軽々と岩場を越えて、船の向こうにいるユリを見つけた。



「言ってくれたな、お嬢さん?」


別の岩から船に飛び乗って、高いところからユリを見下ろす。

感じの悪い人には見えないけれど、変な人という認識はユリと相違なかったから、下手に庇えない。

それに、こういうときのユリに心配は無用だった。


「変なやつに変なやつって言ってなにか悪いの?」


年の差とか知らない人だとか関係なく、我を貫くのがユリだから。

それより、と用件を話そうとしたユリを遮るように、ガタンと船が揺れる。


「やべえ! いま何時?」

「9時48分」


さっと携帯で時計を確認したユリが答えると、その人は船の後方へと飛び降りて、船体を押した。

少しずつ砂浜をすべって動くけれど、男の人の方もサンダルが砂に飲まれていって上手く足が進まない。


「なあ、ちょっと、そこの少年。押すの手伝ってくれ」

「どうやんの」


さすがの判断力というか、順応力で腕まくりをしたアキラが隣に立つ。

ふたりが船に手を置いて押す前に、男の人の方がわたしとユリを交互に見た。


「乗ってくなら先に上がりな。すぐ動くから」


言われるままにコンクリートの足場から船に乗り込むと、掛け声に合わせて船がガタンと揺れた。

わたしとユリの体重がプラスされてもものともせず、男の人が肩をぶつけると船がふわりと軽くなった気がした。

砂浜を離れて海に浮いている状態なのだろう。

そして、波が引くたびに離れていく。


「悪いな。この船、錨を積んでいないしボラードもこの間壊れたもんだから、乗り上げとかないと動くんだよ」


コンクリートに飛び乗って船に移り飛ぶと、アキラにも手を貸して船に乗せてくれた。


アキラより、そして夏哉よりも高い背丈。

白いトレーナーは脇腹の辺りにペンキがこびりついていて、膝の辺りまで捲りあげたズボンはところどころ解れていた。

もとは藍色らしいスニーカーはくすみ、側面が裂けかけている。

茶色というよりは黒色に近く染まった肌は、どれほど日に当てられたらそうなるのかと問いたくなるほど、綺麗に焼けていた。


船の操縦ができるということは、少なくともわたし達よりは年上なのだと思う。

どの年齢に達すれば免許を取れるものなのかはよく知らないけれど、体格や背格好が高校生には見えない。


「うわ、もう50分なってるし。はよ乗れ。俺が怒られる」


男の人が操縦席に座ったあと、エンジンのかかる音がした。

ひらがなでふりがなの振られた注意書きの紙を見ていると、ユリが隣でしきりに足を気にしていた。


「どうしたの、ひねった?」

「ちがう」


さっきは急かしてしまったし、ヒールで足を挫いていてもおかしくない。

わたしが相手なら強がることは想定内で、ユリの足を見ようとしゃがんだ瞬間、避けるように離れていく。


「ねえ、接着剤ってある? なかったら、新品の靴」

「接着剤なら向こうについたらあるけど、靴はないな。俺の履き潰したのでよかったらその辺に……」

「さいっあく」


縦席の後ろから、舵を握る彼に話しかけるユリの足元をよく見ると、ブーツのヒールが片方折れかかっていた。



会話が聞こえてきただけで、ユリはわたしに相談をしようとしなかった。

見ず知らずの人に、言葉は丁寧とは言えないにしてもあれだけ躊躇なく話しかけられるのはユリの長所なのだろうけれど、まるきり頼られないわたしは何なのだろう。


身を乗り出しさせしなければ船の後方にいてもいいと注意書きに書いてあったから、船外機の音を聞きながら縁に腕をのせる。


勢いをつけて発進した船は、次第にスピードが緩やかになっていく。

船の周りに小波が白く泡立つ様に見入っていると、いつの間にかアキラが隣にいた。

わたしと同じように膝立ちで座って、縁に腕を置き、更に顎を重ねる。


「なあ」

「……ん?」


少しだけぼんやりとしていたせいで、返事が遅れた。

考えていたのは、風に晒されて冷たい手のことだ。

さっきユリの足に伸ばしかけた右手が、今もどこかに届きたがって、ふらりと船の外を揺れていた。


「さっきの、冬華は悪くねえよ」


さっきの、とはなんて、聞かなくてもわかる。

見ていたのだろう、わたしとユリのやり取りを。


無性に、泣きそうだった。

ただの純粋な心配さえ、蔑ろにされてしまう。

そこまで、わたしとユリの関係は歪んでいた。

そのことに気付かされた。


熱の集まる目元を腕に押し付ける。

もうずっと、わたしがいっぱいでいることを、アキラは知っている。

なにかひとつを零したら、大切なものまで流れてしまいそうで、こわくて、なにも零せないでいることを。


大きな手のひらが、後頭部を包むように押し付けられる。

顔を上げられない理由を作ってくれているみたいに。


潮の匂いが鼻をついて、もう、色んな刺激が涙腺をつつくけれど、結局涙は一粒も零れなかった。


島のそばに近付くと、岸の辺りに子どもたちが集まっているのが見えた。

島の船着き場は船との高低差があって、ユリがスカートであることを考慮して用意してくれた木箱を借りて、順に降りていく。


岸に集まっていた子どもたちが一斉にこちらへと向かってきた。


「尚樹、おせーよ!」

「電車間に合わねーじゃん」

「誰だよこの人たち!」


わらわらと集まってきて、船に乗り込むと操縦席に座る彼の周りを囲んで言いたい放題。

はいはい、と軽くあしらって子どもたちを散らしていた。


「ナオキ……」


子どもたちの高い声の合間に、ユリがぽつりと呟く。

顔見知りではないのだろうけれど、名前を聞いてこの反応を見せるということは、もしかしなくても、4通目の送り先は彼なのかもしれない。


岸にいた子どもたちが全員船に乗ったところで、ナオキ、と呼ばれた人が首を伸ばして声を張り上げた。


「ちょっくらこいつら送ってくる! そこの家に入って待ってろ!」


再び船を出したナオキが船着き場から離れたところで綺麗にターンをして向こう岸へ向かう。

わたし達を乗せたときよりも、かなり速いスピードで。



そこ、とナオキが示した家に行くまでのあいだ、防波堤は高く細く続いていて、わたしとユリは下の歩道を歩いた。

折れかかったヒールを気にしながら歩くユリに手を貸すべきか迷っていると、視線に気付いたのかきつく睨まれる。

悠々と鼻歌混じりにテンポよく防波堤の上を歩いていくアキラを見上げると、その向こう側にある太陽が、彼の表情を隠した。


「あ、今すげえデカい魚がいた」


不意に立ち止まって海の中を覗き見るから、ちょうど間にあった階段を上り、海を覗く。

いくつかのテトラポットの向こう側に、確かに魚影は見えるけれど、アキラのいうデカい魚というのはわからない。


フジツボと藻だらけのテトラポットの隙間を、フナムシが駆け回っている。

首を伸ばして覗こうとしたユリは、それを見て、ゲッと顔を顰める。


「きもい!」


言うと思った。それを皮切りに、海風で髪がべたつくだとか、肌が乾燥するだとか、もともと抑えていた不満らしきものを遠慮なく爆発させる。


宥めるように、受け流すようにアキラが生返事で相手をしてくれている間、わたしはテトラポットの隙間を眺めていた。


昼前の今でさえ、深くまでは光が入らない。

夏哉は、月明かりさえ届かないような夜の先に、わたしをここから見つけてくれた。


ぞわりと背筋に走った悪寒は、恐怖やトラウマなんてものではない。

あれはわたしの意思だったし、わたしが望んだことだった。


いつの間にか、ユリの声もアキラの声も聞こえなくなっていた。

波が打ち付ける音、テトラポットの僅かな隙間に入り込んだ水が揺れる音、少し遠いところで、船のエンジン音が聞こえた。


「……見ないでよ」


小さな声が風に吹かれて耳に入り込む。

ユリの声だ。

優しくて柔らかい、いつものようなトゲはない。


振り向くと、なぜか泣きそうに目を潤ませながらも、かたく強ばらせた表情で、ユリがわたしを見つめていた。

どうしたの、と首を傾げられる状況でないことは、わたしがいちばんよくわかっている。

横からはアキラの視線を感じたけれど、今はユリから目を逸らせない。


落ちた沈黙の間を走るのは、単なる無言の時間ではなくて、言葉を探す時間だった。


どう、なにを答えたら、ユリのその表情を変えられるだろう。


「もう、忘れたよ」


乾いた舌が上顎に張り付いて、声が掠れた。

言い終えて、防波堤から飛び降りる。

そうして、ユリにだけ聞こえるように囁く。


「ごめんね」


見ないでよ、なんて言葉だけで、その意図を読み取れる人間はわたししかいない。

あのときのことをユリが忘れられていないのなら、きっかけも含めてすべて、わたしのせいだ。

謝罪はまちがっていない。

それなのに、ユリはかたくくちびるを結んで、怒りのこもった目でわたしを見ていた。



「あんたのそういうところ、本当に嫌い」


そうやって、顔を歪めさせてしまうことも。

聞きたくない言葉を引き出してしまうことも。

突き飛ばさないように握り締められた手も。


全部、わかっていたのに。

変わらないといけないのはユリではなくて、わたしなのだということも。


「先に行く」


折れかけたヒールで駆け出したユリの背中はとても小さい。

わたしと同じように、ユリだってきっと自分のことで精一杯のはずだ。

溢れださないように押し込めているつもりのものが溢れ出て、ユリの足下まで浸すというのなら、わたしはやっぱり、誰かのそばにいるべきではないと思う。


「アキラ、ユリのそばにいてあげて」

「はあ?」


なんで俺が、と。

そう言いたいのだろうけれど、もう一度頼むとわたしの目を覗いて、それから頭に手をのせた。

アキラの手が何度かわたしの頭の上を行き来する。


「わかった」


アキラはわたしの脇に飛び降りて、風のように駆けていった。


一緒に行こう、と強引にでも手を引かないところが、アキラの優しさなのだろう。

夏哉だったら、わたしが頼む前に、わたしの手を引いてユリを追いかける。


ここに留まっていたかったけれど、ざわついて小波立った心の縁が撫でても摩っても凪にならず、貧乏揺すりの果てに動きたがる足を踏み出した。


アキラとユリの歩いていった方向とは逆に向かっていく。

潮の香りをなるべく吸わないように、息を止めるけれど、そのうち大きく吸い込んでしまうから、鼻も喉も海を覚えてしまう。


右足を前に出して、左足がそれを少し追い越して、また右足が左足との距離を開いて。

立ち止まらなければ並ぶことのない攻防が、人の歩みのように思えて、ずっと止まることが出来なかった。


やがて、真っ直ぐだったはずの道が下り坂になっていく。

時間と距離的に、そろそろ引き返した方がいいことはわかっていたけれど、そのまま道沿いに歩いていく。


アスファルトを踏む感触が土を踏む感触に変わって、それからすぐに砂を踏むものに変わった。

本土の砂よりもキメが細かく、スニーカーの底の形がすぐに埋まる。

陽光を反射して煌めく海面と同じくらい、砂浜も輝いていた。


ぶつかるものがない分、波の押し引きも緩やかで、心落ち着くリズムを刻んでいく。

ぺたり、と膝から砂に埋めるようにして、全身の力を抜く。


「夏哉」


何度か口を開いた。

何も、声にならなくて。

手当たり次第に頭に浮かんだ言葉を舌に乗せようとして、ようやく空気に紛れたのは、どうしたって届くことの無い人の名前。



「冷えるぞ、こんなところに座ってたら」


背後から影が伸びて、縮こまったわたしの体はすっぽりと覆われる。

覚えたばかりの声を辿って顔を真上に向けると、わたしとは反対に頭上から真下を覗く人がいた。


「……船頭さん」

「え? センドー? ああ、船頭な。よくそんな言葉知ってんなあ」


焼けた肌に茶色みがかった唇。

笑うと覗く白い歯のコントラストが綺麗で、人の顔面だというのについまじまじと見つめてしまう。


「名前でいいよ」

「……ナオキ、さん?」

「呼び捨てでいい」


不意に懐かしむように目を細めて手を伸ばしてきたかと思うと、がっしりとボールを掴むみたいに、髪を掻き回される。

夏哉もアキラも手は大きいけれど、バスケットボールを片手で掴むことはできなかった。

この人なら、できるんじゃないかな。

体を捩って避けたあと、宙に置き去りになった手と、頭に描いたバスケットボールを重ね合わせる。


「ああ……」


じりじりと近付き、手のひらを見て落胆する。

この人、手がすごく乾燥してる。

これだとたぶん、するんと滑ってしまうんだろうな。

湿り気のある手ならもしかしたら、出来たかもしれないのに。


「え、なに?」

「なんでもない」


自分の手を頭上にかざして裏返したり表を向けたり。

見たってわからないでしょう。なんのことなのかも。


太陽に重なった手のひらに、流れる血潮を見ながら、わたしも同じように手のひらを空へと伸ばす。


「榊夏哉って知ってる?」


世間話のように、誰でも知ってるニュースをとりあえず確認するみたいに、訊ねてみた。


「……は?」


ユリの反応からして、ナオキが四通目の手紙を受け取る人なんだろうなということはわかっていた。

たぶん、それは間違ってなんていなくて。

瞬きすら忘れて呆然とこちらを見遣るナオキの声音は、夏哉という人間を知った上で、困惑しているようなものだった。



「さかき……?」

「うん。榊、夏哉……」


もしかしたら、名字は知らなかったのかもしれない。

それにしては、顔面が蒼白しかかっている。


「なあ、夏哉の父親ってさ」

「……はい?」


父親? どうして、夏哉の父親の話になるのだろう。

想像もしていなかった切り返しに戸惑いながらも続く言葉を待つ。


「大学講師とかだったり……する?」


確かに、夏哉のお父さんは大学の講師をしている。

わたしの地元にある大学に所属しているのだけれど、別の大学へ講義をしに行くときもあるのだと、夏哉に聞いたことがある。

ほぼ県境に位置するこの島に一番近い大学がどこなのかはわからないけれど、もしそこにナオキが通っているのだとしたら、講義を受けたことがあるのかもしれない。


「でも、よく……」


よくわかったね、と言いかけて、言葉が出なかった。

ぽたん、と一粒の雫が砂浜に落ちる。

それは見間違いではなくて、確かに、小さなクレーターを作った。


「……どうしたの?」


冬場だから汗をかかない、なんてことはない。

ナオキはこの短時間に船を往復させたわけだし。

手漕ぎではないにしても、体力や神経を使う作業だったりするのだろうか。


「嘘だろ。だって、榊先生の息子って」


顔面蒼白のナオキは、棒立ちのまま、指が白くなるほど強くぎゅっと拳を握る。

見開かれた瞳の真ん中にわたしを閉じ込めて、どこにも行けなくなった。


知っていたんだ。

点と点だったものが、夏哉の名字をきいて、ナオキのなかで繋がった。


「夏哉は……」


人がひとり死んだということを、この口で告げることは、とても重い。

コウトくんとユリが例外だっただけで、夏哉の話をするには毎回この過程を踏まなくてはいけない。


「亡くなりました。1月4日に」


どうしても、声のトーンが落ちてしまう。

わざと明るく振る舞う必要はないけれど、伝えたあとの沈黙と空気の重さが肌にひしひしと伝わって、落ち着かなくなる。


「……年明けていちばん最初の講義、休みだったんだよ」


年明け、という時期に重なるものはもう、ひとつしかなくて。


「急だったから、休校の知らせも出てなくて、時間になってから知らせに来た事務の先生が言ってたんだ。たぶん、本当は生徒に漏らしちゃいけなかったんだろうけど……息子さんが亡くなったからって」


どこを見ているのかわからなくなった瞳は、海の方を向いてさまよう。

その向こう側に夏哉を見ているのでは、と追いかけるけれど、本土の山と道路が遠くに見えただけだった。