コウトくん
アキラくん
ユリさん
ナオキくん
ヒサコさん
僕以外の5人の話をたくさん聞いた。
その断片に、榊くんの心の真ん中にあるものを見つけられる気がして。
日毎に榊くんの調子の高低差、落差が増していく。
元気に笑っている姿さえ、痛々しく見えるほど。
僕以外の友だちが随分と榊くんの支えになっているようだった。
そして、榊くんにとって誰よりも大切な人。
この学校にいる、僕の知らない『 タチバナ トウカ 』という女子生徒。
どれだけ話を聞いても、僕自身の言葉で向き合おうとしても届かない部分に、彼女なら触れられるのではないかと、何度も探しに行こうとした。
助けてやってほしい、と。
僕にできないことだから、頼みたかったわけじゃない。
放っておいても、このままの状態でいても、夏哉くんがどこかへ行ってしまいそうで、僕の手と、それから他のトモダチ5人の手と、彼女の手で、暗い方へと歩いていく夏哉くんを止めたかった。
僕は、それをしなかったんだ。
夏哉くんと彼女の関係は、幼馴染み以上の名前がつくものではないけれど、決して点と点だけで結ばれたものではないと知ってしまったから。
「昔、冬華が言ってたんだ。夏哉と冬華って真反対だねって。俺、それがショックだったんだけど、あいつすっげえ笑顔でさ、そばにいたら暑くもないし寒くもなくて、いちばんいいねって。幼稚園児の戯言かもしれないけど、馬鹿みたいだけど、俺はその言葉にずっと救われてる。たった一言が、今の俺のそばにある。冬華が今、俺の隣にいなくても、あの言葉は消えない」
雪の降る寒い日。
榊くんはいつものようにマフラーに口元を埋めて、瞼を下ろして、戒めのように誓いのように言った。
◇
「これが、昨年末の最後に会った榊くんが言っていたことです」
ずいぶんと長く、朔間先生は話し続けた。
最初は等間隔で入れていた相槌も、途中から途切れてしまっていた。
「でも、夏哉が授業中にいなかったことなんてないですよ」
「体育、情報、選択授業。心当たりは?」
「あ……」
心当たりも何も、それらはすべて、夏哉とは別に受ける授業だ。
教室と、家の近くで顔を合わせてはいたけれど、以前のように見かけると駆け寄ってくることもなく、目が合うと軽く手を振られるだけであったことも思い出す。
「先生、どうして、止めなかったの」
違うでしょう。誰を責めることでもないでしょう。
「みんなのこと、知ってたなら! 手紙を託されたのなら、どういう意味なのかわかってたんでしょう?」
口から勝手に出ていく言葉たちを、止められない。
だって、最後に会ったわたしは何も気付くことすらできなかった。
止められたのは、朔間先生だけだったのに。
「僕は、榊くんの友だちにはなれませんでした」
取り乱したわたしの腕が朔間先生の肩に当たった。
けれど、そんなことは気にしていないようで、朔間先生は一度閉じた便箋を開く。
「榊くんの夢を見つける手伝いをする『先生』になれた。正解のマルはつかなくても、経験上嘘ではない『大人』としての意見を彼に与えられた。僕にできたのは、それだけです。『友だち』として、彼を止めることはできなかった」
くしゃり、と潰れた便箋。
朔間先生の目元が赤く色付いていく。
それは、苦しそうな、赤だった。
こんなときになって、ふと、夏哉は幸せだったのだろうか、という的外れな疑問が浮かんだ。
幸せか不幸せかどうかなんて関係ないのに、少なくとも、わたしが気にする範疇にない。
わたしは夏哉の死を止めることも、彼の抱えていたものに気付くことも、それどころか何かを抱えていることにすら、気付けなかった。
ずっと、夏哉に背中を押されて、その手に引かれていたから、どんな顔をしていたのかも、ぼんやりとしか思い出せない。
夏哉はどんな顔で笑っていたっけ。
いつも能天気でアホなことばかりをしていたけど、夏哉の笑い声は耳に残っていない。
残っているのは、わたしを呼ぶ、あの声だけ。
「……わたし、ずっと」
幼馴染みとしても、友達としても、それ以上、それ以外のなにかとしても、夏哉がくれた以上のものを返せなかった。
与えられるばかりで、それすらいらないと弾き飛ばして。
夏哉が傷付いているのがわかったから、その顔を見ないように背中を向けた。
隣にいるのが当たり前すぎて、夏哉とわたしがそれぞれに別の方向へ歩き出して行くのはまだずっと先の話だと思っていたのに、夏哉は違ったのだろう。
わたしの手を引きながら、肩を支えながら、背中を押しながら、わたしに見えないように辺りを見渡して、夏哉は別の道を選んだ。
いつから胸の内にこんな気持ちがあったのか、わからない。
幼馴染み以上の感情を、恋という一文字で呼びたくない。
ずっと、隣を寄り添うことはできなくても、夏哉の姿が見える場所にいたかった。
自分本位な願望ばかりで、本当にもう嫌になる。
「ずっと、思ってたことがあるんです」
夏哉がいた頃から、唯一変わらない気持ち。
ここにたどり着くまでに、夏哉のことをたくさん知った。
どんな風に過ごしてきたのか、どんな思いを抱えていたのか。
それでも、最後まで、夏哉が自殺した理由だけが、ふわふわと宙に浮いていた。
触れなければわからないのに、掴もうと、包もうとすると指の隙間を通り抜けていく。
「夏哉の抱えていたものは、死ぬことでしか下ろせなかったのかなって」
わたしと、みんなと生きていく未来を諦めてまで、ひとりで背負いきったものの正体を、きちんと形で見たい。
曖昧すぎる言葉たちだけでは納得ができなかった。
「夏哉はお母さんが亡くなってるから、命の重さは誰よりも知ってるはずなんです」
夏哉があれほど、自分の言葉を持っていたのに対して、わたしは人から借りた言葉しか吐き出せない。
もどかしかった。
なんだ、命の重さって。
命に重さがあるのなら、大きさは?長さは?高さは?形は?
「伸ばした手は引っ込めればいいのかもしれない。だけど、その手のひらに乗せて届けたかったものは、どこへ行けばいいんですか」
大切な人に届けるものだから、大切にしたかった。
何度も仕舞っては、やっぱり捨てられなくて、いっそ粉々に砕いてしまいたかったけれど、どんな形になってでも渡したかった。
渡せなかっただなんて、情けない、恥ずかしい、苦しい。
もういない夏哉に渡したいものがある、という言葉さえ、どこに吐き出せばいいのかわからない。
生きているうちに伝えなさいって。
生きているうちに聞いてあげなさいって。
人がそう言う理由が、ようやくわかった。
まだ、出来ることはあると自分に言い聞かせて、この旅の終わりを想像するのはやめようって思った。
けれど、もう、本当に終わってしまった。
あまりにも呆気なく、簡単に、手のひらに乗っていた見えない何かは吹き飛んで行った。
この手に残ったのは、たった一通の手紙。
わたしから始まって、わたしで終わるのか。
この旅の先に、もういない夏哉を求めていたわけではないけれど。
まさか、円を描くようにしてわたしに戻ってくるなんて思わなかった。
「まるで、水面に笹舟を浮かべるような夢です。乗せた夢と欲のせいで沈むのですから。秋晴れ以外すら掴めないのは、空があまりに高いからです。水面に映る空に笹舟を浮かべても、雲を掬うことはできません」
「は……え?」
「花があれほど美しいのは、人の心には花弁が舞わないからです」
「…………」
「なぜ命を尊ぶべきかはわかりますか?」
突然の問いかけに首を傾げるけれど、朔間先生はあくまでも回答を待つ気でいるようで、二の句を継がない。
「……ひとつしか、ないから?」
何かひとつの正解がある問いではないのだと思う。
先生のお眼鏡にかなう答えであった気もしなくて、情けなく眉を下げる。
「そうですね」
「何答えてもそうですね、って言うんでしょう」
「よくお分かりで」
ふふ、と笑う朔間先生の意図がわからない。
「助けられた命だから大切にしなきゃいけない」
自分の心の内が漏れだしたのかと思ったけれど、その声は確かに朔間先生のものだった。
驚いて、瞠目し、生唾を飲み込む。
「と、橘さんが思っているのではないか、と言っていましたが、当たりでしょうか?」
「……当たりでしたね」
自分で答えておきながら、微妙に使い方を誤った言葉だと失笑する。
やっぱり、夏哉はとても鋭い。
アキラが春輝くんに向かって言っていたように、夏哉が大人になったのなら、とても面白いことをしてくれる人になっただろう。
イレギュラーじみたこともあったけれど、7通プラスアルファのリレーを完遂しきったのだ。
ランカーはわたしだけれど、導いてくれたのは、夏哉だ。
お互いに拍手をして称えたいくらい。
「橘さんにも関係のある話だから、聞いていいのかと何度も確認したのですが、榊くんが喋ってしまったので、申し訳ありませんが知ってしまったことがあります」
申し訳なさそうに頭を下げるから、わたしは軽く笑って見せる。
「わたしが死にかけたときのことでしょう? 勝手に話しちゃうなんて、あいつ本当に、ひどいなあ……」
誰にも言えなかったことが、誰にも話せなかったことが。
ユリですら、真相までは知らずにいることが。
夏哉の口で、わたしの知らなかった人に話されているだなんて。
「どこまで聞きました?」
「榊くんが知っている範囲のことは、おそらくすべて。彼の推測であったり、思うところが主に、でしたが」
「じゃあ、おそらくすべて合ってますね」
朔間先生の口調を真似してみる。
「答え合わせ、いりますか?」
夏哉が話してあることを、わたしが隠そうとは思わない。
あれは過去のことだと、割り切れている部分も大半だから。
「まだ、もう少し先にお願いします」
「ええ……せっかく今日来たのに」
それ以上の収穫があったというのに、ここに来た目的が何もなかったという風に言ってみると、朔間先生はからりと笑った。
流されないところがいいなあ。
若く見えるのに、かなり落ち着いている雰囲気。
「手紙は家で読みますか」
「はい。ごめんなさい。先生が預かってくれていたのに」
「いえ、気にせずに。橘さん宛のものですからね」
その言葉の裏側に、わたしは朔間先生宛の手紙の内容を聞いたじゃないか、と遠回しな嫌味が隠されていないかと疑ってみるけれど。
穏やかに笑みを浮かべる朔間先生からは何も感じ取られない。
「大丈夫ですか?」
ふと、細い目をきちんと黒目が球体であることを確認できる大きさまで開いた朔間先生が声を低くする。
わたしの過去の話を知っていたら、そりゃあ心配にもなるだろう。
けれど、わたしとしては、その助けられた命でもう4年も生きてきたんだ。
突然終わってしまうというのなら、黙って受け入れるほどの冷静さは残っているけれど、迷いの先に死を選ぶことは、しない。
それだけは、これまで辿ってきた手紙と人達に誓って言える。
「本当に?」
「くどいです、先生」
ここまで執拗にさせるほど、わたしは頼りないだろうか。
以前よりもずっと、心は強くなったと思うのに。
弱いときのわたしを知らなければ、まだ全然足りないという意味なのならば、人を心配させないわたしになるまでに、何年かかるかわからない。
もう一度、朔間先生は同じことを言ったから、わたしは頷いて見せるだけで、何も言わなかった。
準備室を出る間際に、朔間先生に背中を向けたまま、一度だけ立ち止まる。
ぐっと、くちびるを噛んで、つま先に力を込めて、しっかりと目を見開いて。
大丈夫だと言い聞かせた。
今、ここで振り向いてしまったら、朔間先生の心配がずっと続いてしまう。
ここにたどり着くまでに散々、アキラを主にたくさんの人に助けられてきた。
もう、旅は終わったんだ。
これからは、ひとりで、生きていかなきゃいけない。
すぐには無理かもしれないけれど、いずれはそうなれるように。
ドアに手をかけて、部屋を出ようとしたときだった。
「橘さん」
思いのほか背中に近く聞こえた声に、肩をはね上げる。
「後ろに片手を出してくれますか」
「え?」
「これを、あなたに」
言われるままに右手を後ろに差し出すと、小さく畳んだ紙のようなものを渡された。
それを握った手を胸元で開くと、裏紙を裂いたようなメモに携帯電話の番号とメールアドレスが書かれている。
「僕の私用の番号とアドレスです。僕からは連絡しません。橘さんがもし、今とても強がっていて、家に帰ってからやっぱり大丈夫ではないと思ったら、いつでもかけてきてください」
「そんなに心配ですか……?」
ただでさえ、もう震えかけてか細い声だ。
今肩を掴まれて振り向かされたら、表情ですべて察してしまわれる。
「心配ですよ。榊くんの大切な方ですから」
背中からゆっくりと、差し込まれていく優しさの切っ先が痛い。
聞こえているのか、届いているのかもわからないような声量でお礼を言って廊下に出ると、その場にへたりこんでしまう前に全速力で駆け出した。
『先生、その番号を振っていない手紙だけは特別な』
『特別とは?』
『冬華には渡さないで。もし、冬華から会いに来ることがあったら、そのときに渡してほしいんだ』
『ということは、これは橘さん宛ですか。二通も?』
『まあ、な。本当に、特別な手紙になったから』
【⠀七通目:君の心 】
◇
「……消えたいなあ」
もうずっと、頭にはそれしかなかった。
眼前に広がる景色には色が付いているけれど、淡く鈍色がかって、端々が錆び付いて見えるのだ。気のせいなのだけれど、でも以前のような色に見えないのは確かだった。
吹き曝しの渡り廊下の手摺りに組んだ腕を乗せ、その上に顎を置く。
「そっか。そうだよなあ」
間延びした声で同意を示されても、夏哉が同じことを考えいるとは思えなかった。教室を出て行くところを目敏く見つけて、夏哉はわたしについて回る。五人分の間隔を開けて手摺りに背を凭れる夏哉との距離を詰める気はない。夏哉も右に一歩近寄ればわたしが左に一歩逃げると知っていて、距離を保っている。
いま、わたしがこの手摺りを跨いだとしたら、夏哉の手は届くのだろうか。
そんな馬鹿な考えが頭に過ぎって、けれどそれを馬鹿なことだとは言い切れなくなったのは最近の話ではなかった。
希死念慮が寝ても覚めても渦巻いて、膨れて、いつ糸が切れてもおかしくないことを自覚していた。
悩みがないのに死にたい理由を知りたかった。知っている感情や経験だけでは言い表せず、飲み下すことも吐き出すこともできない何かを消したくて仕方がなかった。
夏哉が傍らにいると気が紛れるときもあったのに、隣に立つその姿さえ輪郭が霞んで見えてしまう。
「どうする? 戻る? サボる?」
そわそわと声を弾ませる夏哉を無視して、中庭の時計に目を凝らす。あと二分で授業が始まる。手摺りを強く押す反動でぐっと背筋を伸ばし、教室へと向かう。夏哉はぶつぶつと文句を垂れながら、わたしの後ろをついてきた。
教室に戻ると、クラスメイトの視線が一斉に集まり、すぐに散っていった。
廊下側の列の自分の席に座ると、真逆の席の夏哉がなぜか机のわきにしゃがみこむ。机の淵に顎をぶつけながら、じっとわたしを見上げてくる。
「戻りなよ。何してるの」
「んー? まだいいよ」
電波時計の秒針はあとななつ振れたら0に戻る位置にある。会話を続ける間もなくチャイムが鳴る。それでもゴンゴンと顎をぶつけて目だけはわたしに向ける夏哉の肩を手の甲で押す。
「ほら、戻らないと」
廊下の向こうに先生の姿が見えた。力ずくで押し返そうとするけれどびくともしない。わたしがムキになるのが面白いのか、夏哉はけらりと笑いながら自分では動こうとしなかったのに、先生がドアを開けると同時に自分の席へすっ飛んでいって、派手な音を立てて着席した。
授業中、わたしは終始下を向いていた。
テストのときに困らないように、ノートチェックのときに指摘されないように、しっかりと黒板の文字は写す。それさえ、顔を上げるのが嫌で、黒目を限界までつり上げて、黒板を睨みつけるようにして書き留めたものだ。
挙手制ではないから、いきなり当てられてしまうときがあって、それがすごく苦手だった。黒板にチョークで文字を書くのが嫌だ。黒板へと向かう姿を、文字を書く指先を、隠すことのできない背中を、みんなに見られるのが嫌だ。
先生に指名されたとき、首を横に振って拒否をする人なんて誰もいない。わからないと正直に吐く人はいるけれど、わたしと同じ理由を並べる人はいない。誰もしていないことを、わたしができるわけがない。
校則に従って結んだ髪だって、本当は解きたい。
スカート丈は短くしたくないからちょうどいい。
五十分間、俯き続けて、首の後ろの張るような痛みにも慣れてしまった。
授業の合間に渡り廊下に出ることは、わたしにとって呼吸をするようなものだった。
バスケ部の練習を見に行くと、色んな人に声をかけられるのが嫌だ。マネージャーに勧誘されるのも、何度断ってきたのかを数えるのも。段々と体育館から足が遠のいて、夏哉に誘われたときだけしか行かなくなった。
休み時間になると必ずわたしを追いかけてくる夏哉が嫌だ。
クラスメイトに、付き合っているのか、と何度否定しても聞かれるのが嫌だ。
友だちは作るものじゃない、できるものだ、なんて鼻を高くしていたわけではないけれど、誰一人として友人と呼べる人はいない。
最初の内は話しかけてくれる子もいたけれど、ずっと一緒にいる、ということに耐えきれなくて、ひとりでいる時間も欲しい、と直接伝えたら呆気なく離れていってしまった。
こんなことを自分本位で協調性がないと言われてしまうのなら、もう何も言わない代わりに誰とも付き合いたくないというのが本音だった。
人と一緒にいることが、友だちと騒ぐことが、好きなことで話すだけが、楽しみであるなんて思わないでほしい。孤立するのが嫌だなんて一言も言った覚えはない。ついていけない話題に適当な相槌を打つのも、答えたくないことをそう思っていると悟られないように躱すのも、もう全部、嫌だ。
ようやく中学1年生の課程が終わり、束の間の春休みが明けると、わたしはまた夏哉と同じクラスになった。
それが嫌だったわけじゃない。もう、諦めていた。
休み時間のたびにどこかへ行くわたしと、わたしを追いかける夏哉。妙な噂の立ち始めは、わたしたちの預かり知らない場所で起きていて、今更根っこを叩いたって仕方がない。蔓延る噂は素知らぬフリをしていれば、興味はすぐに他に逸れていった。
新入生として入学してきたユリと登校することもあったし、誘われて何度かバスケ部の練習を観に行った。ユリが相手なら気兼ねなく話せる。
一人にしてほしいと言えば、理由は聞かずにそうしてくれた。けれど何度も重なれば理由が気になるのは当たり前で、何かあるなら相談に乗ると言われたって、誰にも言えなかったことをユリには吐き出せるというわけもなく、不満は募っていっていた。
自分の胸に巣食うものに飲まれないように、溢さないように、そればかりに夢中になっていたせいか、ユリの気持ちを蔑ろにしてきた。そのうち、ユリと登校することも、夏哉を観に行こうと誘われることもなくなった。
何一つ、絡まった糸を解けないままでいることには、目を瞑り続けた。
思えば、夏哉だけがずっと目を逸らさずにいてくれたのかもしれない。
今日を乗り越えても明日はやってくる。
昨日も、今日も、明日も、毎日塗り変わって止まらない。
夜は眠れない、朝は起きられない。
少しずつ、日々が変わっていった。
そして、あの日、決定的に壊れてしまった何かがあった。
その衝動は、心が軋んで、体に助けを求めていたのに、それさえ無視をしたことへの報復のようなもの。
週の真ん中を迎えるはずの夜中に目を覚ましたわたしは、家を出て自転車に跨り、まだ朝を迎える前の暗い空へ、無灯火で飛び出した。
このまま、夜に、暗い方に向かえばいつか戻れなくなると思うと、ぎゅうぎゅうに膨れていた心にようやく風穴を通せた気がした。
川沿いには隠れる場所がないから、と下流へ向かい海にたどり着いた。
葦の群れの中に自転車を放り捨て、潮の香りに誘われて歩く。
月を見上げると動かなくなってしまいそうで、下を向いていた。
いつの間にか、教室の外でも、顔を上げられなくなっていた。
堤防によじ登って、真下を見下ろすとそこにはテトラポットが並んでいて、わたしはそのいちばん深いところまで潜り込んだ。
体を小さく畳んで、擦れた皮膚が熱くても声を上げず、膝を抱える。段々と足元が冷たくなっていった。潮の香りがすっかりまとわりついて、海の一部にでもなったような気分だ。
爪先から浸されていって、そのうちお尻、腰、腹、と水位が上がってくる。打ち付ける波の勢いも増して、テトラポットに当たって弾けた水の粒が顔にもかかる。
自分の体の表面から温もりがなくなって、芯だけがまだ微かにあたたかい。
あまり眠れていないせいか、目蓋が重い。
流されてきたビニール袋やペットボトルが体に当たり、引っ付く。そんなことはもう気にならなかった。目を閉じて自分の呼吸だけを感じる。
胸元辺りで潮が止まったのか、それ以上海水が押し上がってくることはなく、つま先がずっと水中に揺れる。
意識を失った経験なんてないけれど、ふっと体が軽くなる瞬間があった。
それでもまだ、わたしはここにいて、冷たいとさえ感じなくなった水に全身を包まれていた。
「冬華!」
頭の上から降ってきた、わたしの名前。
ほとんど無意識に視線を上向けると、いつの間にか白んでいた空の真ん中に、夏哉がいた。わずかな隙間からたしかに目が合った。
太陽だ。
夏哉は地上の太陽だ。
こんなにも、近くにある。
本当に、届いてしまいそうなほど、近くに。
手を持ち上げられるほどの体力は残っていなくて、わたしの名前を呼び続ける夏哉の声だけが聞こえていた。
眠ったのか、意識を失ったのかわからないまま、目が覚めたときに見たのは白い天井。
揺れるカーテンの隙間から窓の外を見遣る。たぶん、まだ、朝なのだと思う。
瞬きをしながら、ぼんやりと空を探すけれど、太陽は見つからない。
体が熱くて、寒くて、重くて。
もう一度、眠ってしまった。
次に目が覚めたとき、傍らには両親がいた。泣きじゃくる母親に握られた手の感覚はまだあまりなくて、鼓膜を劈く父親の怒声は耳に綿が詰まったように遠い。
馬鹿なことを、と言われても。
どうして、と問われても。
何があったのか、と聞かれても。
答えられることはひとつもなかった。
わたしを見つけたのは夏哉で間違いないと両親に聞かされた。どうやって見つけたのか、居場所がわかったのかは知らない。夏哉は教えてくれなかった。
体調が戻り次第退院して、いつも通りの日常に戻るかと言われると、そうではなかった。
わたし自身の心がまだ不安定で、ユリの前で携帯を壊したり、授業中に気分を悪くすることが増えた。
わたしが勝手に出ていかないように、両親はわたしの部屋を玄関からいちばん遠い場所にして、窓には柵をつけ、万が一抜け出しても気付けるように、と自分たちの寝室のドアを開け放して眠るようになった。
取り返しがつかないほどのところまで、行けなかった。
相変わらず渡り廊下に出るにもついてくるし、保健室で眠るにもそばにいるし、学校に行きたくないと部屋に篭っていれば夏哉も行かないと言い始める始末。
夏哉はわたしを止めてくれると知ってしまったから。声どころか姿も見えないように眩ました行方を見つけられてしまったから。逃れられないと諦めて、消えたいときは消えたいと、死にたいときは死にたいと口にするようになれば、夏哉は決まって『そっかそっか』と頷いてわたしの手を握ってくれた。
浮いては沈み、また浮かぶ。そんな日々が続いて、あるとき、夏哉が言った。もう疲れたとでも言われるのではないかと身構えるわたしを真正面から見つめて、声が放たれる。心に流れるように、雪崩れるように。
『生きていよう』
『頑張らなくていいから、人の言うことなんてたまに聞いていればいいから、泣けなくても、笑えなくてもいいから、生きていよう』
『大丈夫、冬華』
消えてしまおうと誘うことも、生きてと言って聞かせることもなかった夏哉がはじめて、わたしに『生きていよう』と伝えてくれた。
大丈夫の意味は、夏哉がくれた言葉というだけで、じゅうぶんだった。