言えなかった、”〇〇〇〇〇”

 諸々と処理を終え、さぁいざ琢磨の生家へと赴かんと動き出した矢先。
 どうやって話をつけ、そも何を目的として訪ねるべきか、どれも何一つとして決まっていなかったことに、遅れて気が付いた二人。

 まぁ大丈夫だ、と曖昧な言い方をする琢磨に訝しげな表情を浮かべながらも、自分では案が出せないだけに、汐里は頷き、琢磨の出方を窺った。
 インターホンを押してしばらく、控えめに開かれた扉から覗く懐かしい顔に泣きそうになりながらも、内側から琢磨が指示した文言。

「え、と。宮下桃と申します。お兄さん……琢磨さんが、単身卒業旅行にと北海道へ発った折、現地で彼女を作った、なんて話は聞き覚え…?」

 瞬間。

(ちょ、何それ私も知らないんだけど…! 琢磨から入って来た記憶の中に、そんなものなかったわよ?)

『まぁ黙って見てろ』

 興奮気味に追い立てる汐里と、対称に溜息交じりな琢磨。
 なんだそれはと思いながらも、

「あぁ、兄さんの?」

 当の妹――茜は、あっさりとそれを信じてしまった。
 琢磨曰く。高校卒業後、貯めていたバイト代で北海道に単身赴いた琢磨が、現地で一人の女性と出会ったという話。それ自体は本当なもので。

 レンタルした自転車がパンクしてしまい、土地勘もなくどうしたものかと胡坐をかいていた琢磨を、丁度そこを通りかかった女性に助けてもらったのだとか。

 十個程上だったその女性は、素性知れぬ琢磨の身の上を軽く聞いた後、一食驕り、自宅ではあったが寝床まで提供してくれた。
 何でも、女性は観光系の仕事に携わっていたらしく、一目で道外の人だと分かってしまったようで、だだっ広い田舎道、どうにも放っておけなくて、つい助けてしまったのだと語ったらしい。が。

 汐里からしてみれば、思うところは別にあって。

(それでオーケーって、私って実年齢より十個も上に見えるってこと?)

『大人っぽくは見えるな。まぁもっとも、あの人が特別童顔だったってこともあるんだが……まぁそれ以前に、茜には事実だけ伝えて、歳なんかは言ってなかったからな。まぁ何とかなって良かったじゃないか』

(……あとで色々と聞かせて貰うから)

『へいへいっと』

 手をひらりと振って適当に流す姿が目に浮かぶ。
 そんな二人のやり取りや知る由の無い茜は、疑問符を浮かべたまま汐里の言葉を待つ。
 あ、と短く洩らした後、代弁するのはやはり琢磨だ。

「わざわざ北海道から?」

「知り合い伝手で、琢磨さんが亡くなったと聞いて……日も浅い私でしたが、一時とは言え恋人を名乗っていたものですから、一度は伺いたいなと思ってたの」

「――なんだ、こんなに素敵な女性だったんですね。兄さんの女って話だったから、どんなもの好きかと」

(言われてるわよ、兄さん?)

『……あとで説教だな、茜め』

 溜息交じり。
 茜の促しで、とりあえずは家の中へ――
――――と、そんなことがあっての今だ。

 お茶を一口含んで、汐里がふと気付いたことを問う。

「そう言えば、家の方は?」

「別居ですよ。義父母なんですけど、仕送りだけ頂いて、基本全て一人で。兄さんからはどこまで?」

「えと、こう言ったら悪いんだけど、大方の身の上話は。そんな中で琢磨さんまで亡くなって……妹さん、よく頑張ってるんだね」

「呼び捨てで構いませんよ、年下ですし。しかし――ええ、まぁ、何とかといったところでしょうか。両親のことはもうちゃんとしているつもりでしたが、兄さんまでいなくなってしまって、ちょっと滅入ってもいます。義父母のお二人はとてもよくしてくれてますが、何と言いましょうか、やっぱり本当の親ではないので……こう、遠慮しがちに」

 それは何となく分かる。汐里はそう直感した。
 何せ、同じく義母である渚が家にいるのだから。

「っと、お仏壇……お線香、供えてもいい?」

「勿論です。兄も喜ぶ筈です」

 頷く茜に軽く頭を下げて、居間の端にあった仏壇へと足を運ぶ。
 どこかもやりとしていた、琢磨という人間の像――経験や記憶こそ受け継いでいた汐里だったが、例えば鏡、あるいは誰か別の人間の記憶もないだけに、仲村琢磨という人間の人相までは、知り得なかった。

 それだけに、今になってようやく目にした遺影に、どうにも涙が止まらなくなってしまった。
 すんでのところで堪えようと目に力を入れるのだが、それはぎりぎり一滴、目元から零れて頬を伝った。

(……へえ。結構、かっこいいじゃん)

『やかましい。それで桃さん以外、後にも先にも相手がいなかったんだ、内外どっちかに欠陥があったってことだろう』

(そんな心配ないでしょ。琢磨、中身だっていい人だし)
『……うるさい』

 照れを隠している様子も、今となっては手に取るように伝わる。
 ほんの僅か、けれども確かに、体温の上昇を感じる。

「――本当に、兄の彼女さんだったんですね。そんな風に、涙を流してくれるなんて」

 茜が言う。
 語った境遇の全てが偽りだが、確かに二人の間には、全く異なろうが接点はあって。

 だからこそ、溢れて来た涙である。
 汐里は袖で目元を拭うと、さっさと火を点けて線香を備えた。
 可愛らしい小さなお鈴を鳴らして、手を合わせる。

『ねえ、琢磨。お墓参りに行くって言ったら、怒る?』

(何を怒ることがあるか。勝手にすればいいさ)

『ん、そうするね』

 琢磨の同意を以って、旅の目的を一つ、追加する。
 そうして茜へと向き直ると、その旨を告げた。

「三丁目外れの丘の上に、兄のお墓があります。けど……今から行くのですか?」

 時刻は既に夕刻四時半。
 重ねて、ここから歩いて一時間弱はかかることを茜から告げられる。
 いつかの琢磨のように土地勘のない汐里は、義父母さんを見習ってホテルでも借りるよと茜に言う。

 けれども何を思ったのか、茜は、

「そろそろ降ろそうと思っていた、冬用のお布団ならあります。よろしければ、泊まって行ってください」

「え、でも…」

「父母、そして義父母がいなくて、ある意味で言えば良かったです。素性知れぬ相手を家に上げるなんて、きっと反対するかも分かりませんから」

「……良いの?」

「ホテルって、結構高いんですよ? お墓参りをする為だけに高額払うのと、タダで寝床の確保が出来るの、どちらが良いと思いますか?」

 何のことはないように言い放つ茜。
 普通なら、断るところだが。

『基本は人見知りで、他人とは積極的に関わらん奴なんだが、まぁこういうわけだ。何となく、お前のことは気に入ったんだろうよ』

(ありがたいけど、良いのかな。嘘まで吐いてるのに)

『どうせ誰も知らん話だ。別に罰だって当たらんだろうさ』

 そんな琢磨の言い分を以って。
 汐里は茜の誘いを受けると、せめてもの感謝にと、諸々の準備や始末を手伝うよう申し出た。

 それにはなぜか恐縮する茜だったが、やがて飲み込むと、二人仲睦まじく作業を開始した。
 夕餉が澄み。夜も更け。

 何時かも分からない時間に目を覚ました汐里。
 借り受けていたコップを手に、自由に飲んで良いからと言われていたお茶でも飲もうかと台所へ足を運ぶ。

 瞬間、

――キーン――

 いつもの入れ替わりが起こった。
 もはや慣れ親しんだ感覚は、コップを落とすことなく、またふらつくこともなく。

(まぁ、何だゆっくりしててくれ)

『ん。ありがと』

 そんなやり取りを経て、今度は琢磨の方が、勝手知ったる家の中を進んで行く。
 扉を開け、そちらの方を見やるや、既に一つあった影が視界に入って来た。

「おー、茜。何してるんだ?」

 ふと、声を掛けた。
 本当に何とも無しに、いつも通り――けれどもそれは、琢磨であったらの話。

 今まで通り当たり前の言葉をかけたつもりだったのに。
 今の琢磨が言う“いつも通り”なら、それは汐里を演じている女口調に対してだ。
 見た目は赤の他人である女の子。声も口調も香りも、全てが琢磨の要素を備えてはいないのに。

 それなのに――

「えっ…?」

 しまった、と琢磨が思うより早く、茜が弾かれたように振り向いた。
 そうして目が合うと、一瞬間驚いたような表情こそ見せたものの、直ぐに「何だ」と大きく息を吐いた。

「ど、どうしたの…?」

 慌てて戻した汐里の口調で、恐る恐る、尋ねる。

「ううん、ごめんなさい。兄さんの影が、見えた気がして。全く同じ風に尋ねてきたから、ビックリしちゃったんです」

 琢磨はふと、目頭が熱くなるのを感じた。
 今の自分は、陸上汐里でもなければ、内に眠る仲村琢磨でもない。
 全くの第三者、宮下桃であるというのに。

 桃のことすらあまりよくは知らない茜。勿論、陸上汐里なんていう人物については、どう考えても知らない筈。
 仮に万が一知っていたとして、しかしその中に兄である琢磨の人格が潜んでいるなんて、聞いたところで信じられない話だ。

 それは全て、知る筈がないことなのに。

「茜、ちゃん…」

「ごめんなさい…ちょっと、思い出しちゃった。兄さんのこと」

 小さく震える、小さな肩。
 触れただけで倒れてしまいそうな身体に、手を伸ばす。

「私――」

 口を開いた、その時。

――キーン――

 随分と短い内に、また入れ替わりが起こった。
 伸ばしていた手は引き、それは叶わない。

 代わりに、

「……私の知らない、茜ちゃんだけが知ってる琢磨さんのこと――良かったら聞かせてもらいたいな」

 汐里の言葉に、茜は少しばかり驚いた様子。
 けれども直ぐに顔を上げると、困ったような笑みを浮かべて頷いた。
 床に就いてしばらく。
 琢磨が使っていた布団を引っ張り出してきて並べて、二人して天井を見上げて。

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 時計の針の進む音だけが木霊する中、茜が訥々と語り始めた。

「兄さんは……琢磨は、とってもかっこいい人でした。私の、尊敬する人間でもありました」

「琢磨さんが?」

「ええ」

 茜が天井向かって、真っ直ぐ手を伸ばす。
 そこに今でもあるようで、けれども触れられない――そんな風に。

「両親が死んでから、兄は夢だった“小説家”を諦めました。文才こそとてもあったのに、きっぱりと止めて、諦めて、直接人を助けられる看護師を目指そうと。もし同じように事故現場とか大変な人を見てしまったとして、その時、手遅れにならない、自分がいたから救える命もあったんだって思えるように、兄は勉強に明け暮れるようになりました」

「そう、だったんだ……私の知ってる琢磨さんは、そんな感じじゃなかったのに」

「隠してたんだと思いますよ。あの人、そういうところ、とても上手だったから。自分がどれだけ苦労してたって、しんどくたって、忙しくたって、私にすらそれを悟らせないで、毎朝『いってきまーす』って明るく言うの…それに、どれだけ救われたか…」

「茜ちゃん…」

 茜の語るそれはまさしく、茜だけが抱く、琢磨本人すら知り得ない話で。
 上手いこと誤魔化せていたつもりが、その実結局は見破られていた事実。そして、他でもない一番護りたかった茜の、琢磨に対する評価だった。

「晴れて専門学校に入学して――高卒だったけど、看護師は国家資格だから、地位だってお給金だって確かなもので。これで茜を満足させられる、これで茜を護ってやれるって、そればっかり言ってたんですよ、もう。ふふふ、変な兄でしょう?」

「ううん。とっても、素敵なお兄さん」

「はい……誰に自慢したって恥ずかしくない、そんな兄でした。そんな…兄、だったのに…」

 震える肩を、汐里がそっと抱き寄せる。

「茜ちゃん…今は大変だろうけど、琢磨さんのくれたものは、絶対に無駄にはならないわ。だって、たったの少ししか居なかった私だって、こんなに幸せなんだもん…」

「桃、さん…」

「不幸なことだったけれど、琢磨さんはちゃんと、茜ちゃんの下に残してるものがある……それがある限り、茜ちゃんは一人じゃないわ」

「……はい…はい…!」

 もう、大人になったと思っていた。思っていたんだ。
 もう茜も結構な年になっていて、だからこそ、もう安心しても良いと思っていた。
 けれどもそれは、間違いだった。大いに、間違った考えだった。

 琢磨がそうであったように、両親を失って、唯一の救いだった兄で失って、無事でいられるわけはない。
 溜め込んで溜め込んで、溜め込んだ末の涙——だからこんなに温かくて、だからこんなに寂しくて。

 だから、こんなに止まらない。
 茜の気なんか、まったく分かってなかったんだ。
 茜は強い子だが、我慢できるような子ではなかったんだ。

(……はぁ。まったく、俺は)

 どんな、愚か者だろうか。
 心の中でそんなことを考えながら、

「ゆっくりお休み、茜」

 汐里に一言代弁してもらって、琢磨は汐里と共に眠りに就いた。
 翌朝。

 なるべく早めの時間――まだ、陽が昇りきる前の時間だ。

「もう、行くんですね」

 早朝も早朝、まだ誰も動いていないだろうという時間から、玄関口にて、汐里は靴を履いていた。

「うん。部外者の私があんまり長居するのも、おかしな話でしょ?」

 そう言いながら、汐里は扉を開けた。

「そんなことは……あ、そうだ、桃さん」

 呼び止め、茜は取り出したスマホの画面をスクロールしていく。
 そうして何やら表示した画面を向けて来る。
 そこには、茜と、見知らぬ女性が――

(お、い……待て待て、これって…)

 琢磨の顔色が変わる。

「ふた月くらい前、かな。桃さんって人が、ここを尋ねて来たの。その時に撮ったもの」

「え、と…」

 訳が分からない汐里、

『悪い、こいつは本物の桃だ』

 事を知っている琢磨。

(ちょ、そんなことって……どうするのよ、これ…!)

『と、とりあえずは茜の話だ…! 怒ってはいない様子だが…』

 そんな琢磨の予想は、当たってはいたが、当たっているだけだった。

「証拠も十分に示して、家に上げた。けど、お線香をあげたら、すぐに帰っちゃいました。あぁ、そんな人なんだなって、思ってたんですけど……何があったのか、何を知っているのかは知りませんけれど、貴女がこうして“桃”として訪ねて来たのには、きっと深い訳があるんです。ですが、私は敢えてそれについては詮索しません。しませんから――」

 溜めて。
 溜めて。
 淡く微笑んで、



「兄のこと……よろしくお願いいたしますね」



 そんな一言だけ残して、扉が閉められた。

「え、と…まさか、知ってたってことは、ないよね…?」

『さ、さぁ…』

 真相は、茜本人以外が知り得ない事実。
 けれどもそれを調べることこそ、野暮というもので。
 こんな状況であの笑顔は、そう簡単には作れるものじゃない。

 きっと――
 骨は両親と同じ墓に入っている、と茜が言っていた。
 それだけに、何も迷うことなく辿り着くことは出来た。
 出来たのだが。

『……『仲村家之墓』って、書いてある』

 汐里が独り言のように呟く。
 初めて見る――いや、普通なら一度たりとも見ることは叶わない、自身の墓。
 恐らく、世界中の誰一人として体験したことのない感情に、琢磨は一時、言葉を失って固まった。

 本当に、自分の墓。
 本当に、自分は死んでしまっているのだ。

 改めて実感して、触れて、どう言葉にしたものか分からない。
 琢磨は思わず唾を飲んだ。
 汐里は、自分からは声を掛けない。

 手に持った花は、両親が愛してやまなかったオキザリス。
 今の人格は、琢磨だ。

「母さん、父さん…」

 眼前にあるのは、自身の墓である。しかし同時に、自身の墓“でも”ある。
 元は両親が眠っている墓石。生前、幾度となく訪れた、見慣れた筈の墓石だ。
 琢磨にとってそれは、自身の死に触れる実感以上に、大切な想いや思い出を詰め込んだ、何より耐え難い両親の生きた証なのだ。

「後追いするつもりなんか無かったんだけどな。茜もいるし、色々やりたいこともあったから。でも――」

 座り込んで花を供えながら、琢磨が言う。

「追い付いちゃったな、二人に」

 涙は、無い。

「さっきまで、茜に会ってたんだよ。すげぇしっかりしてた。まだまだ子どもだから、きっと無理とか我慢とか、色々あるとは思うけどさ。おじさん達、俺は昔から世話になってたから言えるけど、優しいし、しっかりしてるから。時間は必要だろうけど、大丈夫だよ。心配しないで」

 線香を灯して。

「何か変な感じだったよ、死んでから。勉強勉強って、茜の為だけに頑張って来たから、高校ってぶっちゃけ何も謳歌してなかったんだわ。友達って呼べるような相手だって、数える必要なんかないくらいしかいなかったし。だから、全部全部終わった後だったのに、新鮮な感じだよ」

 そして、手を合わせる。
 目を瞑って、数秒。

「もうすぐ、そっちに行くからさ。紹介したい、一番新しい友達も一緒に、さ」

『琢磨……』

 受付で借り受けて来た手桶から水を引き上げる。
 極度の寒がりだった二人の為に、少しばかりの湯を足したものだ。
 墓石の天辺から優しくかけ流す。
 たらりと伝う水が、乾ききった墓石を潤していく。

「いい加減、そのきったない鼻水の音、何とかしてくれないか?」

『う、うるさい…!』

 内側で、汐里が叫ぶ。

「お前が泣くなっての。うちの墓だぞ?」

『さっきから苦しくなるぐらい我慢してる琢磨の代わりだって……感覚、伝わるって、もう忘れたの…?』

「――そう、だったな。悪い。なら、存分に頼むわ。昔、両親の前じゃ絶対に泣かないって、勝手に決めちゃったからさ」

『…………ん』

 応えると同時、内側で熱かったものが、その熱を増した。
 感情のまま、感じ取ったまま、汐里は心の代弁者だ。
 一通りの掃除も済ませると、ようやく陽が昇り始めた。
 鋭い斜めから差し込む朝日は、思わず目を覆いたくなる程に眩しい。

 遠くに見えるビルが、もう少し横にずれていたらな、なんて、くだらないことを思いながら。
 琢磨は、手桶を返してから、また墓石の方へと戻った。

 込み上げる感情の波に、泣きそうになるのを耐えて、無理矢理笑っていると、

「こほっ、げほっ…!」

 むせた。いや――

『た、たくま…!』

 思わず声を上げる汐里の目にも、それはうつっていた
 すぐ眼下。足元で、朝日に照らされキラリと光る、ダイヤの結晶。

「いったいな、これ……お前、よくこれ堪えて来たな」

 結晶を吐き出す刹那、琢磨は確かに痛みを覚えた。
 吐き出す喉だけでなく、おそらくはそれが生成されたであろう体内のどこか、どこもかしこもが、痛んだ。

「ただ安らかにって訳にも、いかんらし――」

 刹那。

――キーン――

「――っとと、ふぅ。私なら全然耐えられるから、もう慣れちゃったし。丁度良かった、戻ってくれて」

『凄いな、お前』

「琢磨がヤワなんじゃないの? 男の子なのに情けない」

『女は男よりも頑丈って聞くが?』

「感じ方の問題よ。眉唾だなぁ、私それ。男は女のこと分からないし、女は男のことなんか分からないんだよ? どうやって結論付けたんだろ、それ。学者とかって無責任だよねって思うなぁ、ほんと」

『一種の線引きは必要なんだろうさ』

「物は言いようってだけよ」

 互い、ひねくれた返しを何度かしたところで。
 ようやく一息ついた汐里は、転がるダイヤを拾って、琢磨の許可の元、墓石の横に座り込んだ。

 朝日にダイヤを掲げる。
 荒っぽい面から透けて乱反射する光は、しかし不思議と目に痛くない。

「これも、私が生きた証。まだ死んではないから墓石もないし」

『あったらたまったもんじゃないだろ』

「どうだろ。もう準備されてたりして。何せ、本来私はもうここに居ない筈なんだもん。絶対だよ」

『事例こそ少ないが、まぁ例外なく寿命が決まってるらしいからな』

 決まっているのなら、準備も容易い。

「ごほっ…!」

 コロン。

『あんま無理すんなよって言えないのが、歯痒いな。無理でもしない限り、あの痛みな訳だし』

「琢磨が表にいるより、よっぽどマシだって。味わわなくてもいいこと、わざわざ肩代わりさせる訳にはいかないでしょ? こほっ」

 コロン。

『まぁ、何だ。その、悪い気はしないぞ。確かに痛かったけど、ようやくお前とも分かり合えたって感じがしたからさ』

「物好きって言うか、変わってるよね、ほんと。そんなこと言って笑ってられるの、琢磨くらいじゃない?」

『せっかく身体借りてる上、こと感情だったり記憶だったりっていう面に関して言えば、お前の方がよくよく引き継いでるんだろ? アンフェアだなって、思ってたところなんだよ』

「えー、ここに来て天秤の話になるの? 何か残念なんだけど――ごほっ、けほっ、こほっ…!」

 コロ、コロ、コロリ。

『――案外、早く来たな』
 琢磨が呟いた。
 汐里が頷く。

「せっかくだから、このままどこかに出かけたかったのに」

『どこかって?』

「さぁ。琢磨とデート出来るなら、どこでも」

『――ずっと一緒にいただろ』

「行くってことに意味があるんじゃん、分かってないなぁ、女心ってやつがさ」

『知らん。桃さんとだって、別にそんなことはしなかったし。深い仲にはならなかったんだよ』

「ふぅん」

『あん時はなんつーか……飢えてたって言ったら良いのか分からないけど、初めて茜の元も離れて一人で出かけて、茜も、両親も、誰も居ないって思ったら、不思議と何かが恋しくなってな。誰かに親切にされたことも無かったから』

「誰でも良かった?」

『多分、その時は。でも、茜だって言ってただろ、素っ気なかったって。その程度のもんだったんだよ』

「それはどうかな。何とも思ってない相手の家、噂で聞いたからってわざわざ行く?」

『…………今となっちゃあ、確かめようも無いけどな』

「あはは、確かに」

 ふと、感じる。

『足、もう動かねえんだろ』

「分かる? うん、もう全然。多分、関節の内側がダイヤになってる」

『どんなメルヘンだそれ。おとぎの国にでも迷い込んで、悪い魔女に魔法でもかけられたのか?』

「それなら、まだ楽しめたかもね。なら、魔法を解くカギは王子様のキスだ。私、したことないんだよね。琢磨、やってよ。愛してるからさ」

『うーわ棒読み。愛してるよりも、好きだって言われた方がグッとくるな』

「えー、治してよー」

『それで治るんならいくらでも。何なら、もっと恋人らしいことでもしてみるか? 俺が王子様だってんなら、結婚して新しい王子様も作らなきゃだろ?』

「え、それは下ネタ。セクハラだよ」

『下ネタとか分かんのな』

「そりゃあ年頃だし? 女子のそういう話って、結構えぐいんだよ? もうね、ほんとやばいから」

『聞いてないって。勝手に盛り上がるな』

「盛り上がってませんー、セクハラやめてくださーい」

『うーわガキっぽい煽り方だなぁ、さては成熟してないな?』

「ふーん、琢磨よりかは大人な自信あるけどねー」

 二人して、

「ぷっ…」

『はは…』

 思わず、笑ってしまった。
 朝早い近所の迷惑など気にもかける様子すらなく、笑いたいままに笑った。
 声を上げて、笑った。

 これほどまでに清々しいのは、いつぶりだろうか。
 それくらい、笑って、笑って、笑った。

 そして、

「…………怖い、なぁ」

 本音を吐いた。
「怖い……怖いよ…死ぬのって、こんなに怖いんだ……ちゃんと、話してきたつもりだったのに……お別れ、言ったつもりだったのに…全部全部、納得いくまで頑張ったって、そんなつもりだったのに……怖い、怖いよ…たくまぁ…」

『――そうだな。ちゃんと最後まで……最期まで、ずっと一緒にいるから。向こうで会えたら、そっからもずっと、ずっと一緒にいるから。だから……だから、泣くなよ…』

 隣に居たら。
 もし、内側じゃなく、隣にいたら。
 こうしてダイレクトに感情を感じられなくとも、隣に居て、身体さえあったなら。
 頭でも撫でて、優しく抱き寄せて、涙の一つでも拭っていたことだろう。

 それが出来ない、この上ない歯痒さ。
 汐里の中にいる特別よりも、隣に立つ当たり前が欲しいと、初めて願った。

「もっと話したかった……もっと色んなとこ行きたかった……もっともっと、琢磨と一緒にも居たかった…」

『それは俺だって同じだ。同じなんだ』

 同じだ。
 だって。これほどまでに――

『誰かをちゃんと好きになったの、お前くらいだから……離れるのも死ぬのも、全部全部、俺だって怖い……怖いよ』

「うぅ……たくまぁ…」

 パキ、パキと音を立てる身体。
 膝を抱き寄せて、顔を埋めて。

「いかないで……一緒にいてよ……好きなら、ちゃんと傍にいてよ…」

『あぁ、いる、いるよ……ここに、ちゃんといる…!』

 抱き締めたくても、出来ない。
 ただ眺めて、内側から声を掛けるだけ。
 それだけしか、今の琢磨には出来ない。

 もう、目も視えていないのかも知れない。
もう何分か前からずっと、視線は定まっていなかった。

 ギュッと抱き寄せた膝――それを支える腕も、もう動いていない。
 その証拠だとでも言わんばかりに、動かなくなったところから、順に結晶化していっている。

「たくま……たくまぁ…!」

 最後に残った口元も、

「私だって…! 私だって、あんたに負けないくらい、だいす――」

 響かぬ声を置き去りにして、宝石へと成り果てた。