祖父母の家は、いつ来ても落ち着く匂いがする。以前来たときは物置だったこの部屋には今、ぴかぴかに磨かれたベッドと棚、机以外には何もなかった。二人で仲良く、僕のために掃除してくれたらしい。
抱えていた段ボール二個と背中の重たいリュックを床に下ろす。小さく息を吐いてから、僕はクリーム色のカーテンを開いて窓を開けた。まだ慣れない香りがする潮風が僕の頬を撫でる。春の日差しが心地いい。
今日からここが僕の部屋だ。
窓に背を向けて、二つ重ねて置いた内の上の段ボールを開く。中には少しの衣服と昨日まで住んでいた町の高校の制服、リュックに入りきらなかった教科書とノート。その上に、年季の入った白いヒーローの人形が置かれていた。年齢がまだ片手で数え切れた頃、誕生日に両親にもらったものだ。
僕はそれを手にとって机の中央に置いた。幼い僕が付けたらしい小さな傷や黒いマーカーの汚れが彼を歴戦の戦士のような風貌にしている。
本当は、もっとこのヒーロー関連のおもちゃを持っている。DVDだって揃えたし、とにかく大好きだった。しかし僕はここにそれらを持ってこなかった。この人形だけだ。あとから送られてくるわけでもない。
これは未練のようなものだった。
窓から降り注ぐ光が彼を照らしている。とても眩しくて、かっこいいと思う。僕と大違いだ。
一階から階段を上がってくる音がする。振り向くと、開けなはした扉の前に祖母が立っていた。
「お昼にしましょう」
エプロンで手を拭きながら、祖母は僕に優しく言う。
うん、今行く。そう言おうとしたが、僕の口からは言葉が出てこなかった。代わりに出てきたのは情けない嗚咽。祖母は寂しそうな顔をして僕を抱きしめた。
何事かと祖父がやってきて、祖母と同じように僕を抱きしめる。眼鏡ごと押しつぶされて目の周りが痛かった。かっこわるい。最悪だ。
祖父母に縋り付く両腕の絆創膏が僕の惨めさを加速させている。ヒーローが画面の向こうで仲間に手当されたあともこんな見た目だったのにどうしてこうも違うんだろう。
嗚咽が収まった頃、祖父母は「昼、食べれそう?」と聞いた。僕は首を振った。腹は減っていたけれど、とてもではないが食べ物が喉を通ると思えなかった。
祖父母が心配そうに僕を見ながら一階へと下りていき、静かな部屋に取り残される。僕は部屋の扉を閉めて、新品のシーツに寝転んだ。
携帯電話のラジオアプリを立ち上げて、適当に有料でないものにチャンネルを合わせる。流れてきたのは、透き通るような美しい歌声だった。
君の人生は君が主役。
そう歌っている。
僕もそう思う。思うけれど。
机の上のヒーローはいつの間にか倒れていた。最後の未練が嘲笑われた気がして、僕は枕に顔を沈める。また眼鏡が邪魔をして鼻が痛かった。コンタクトに変えようか。
1
転校初日。僕は以前に通っていた高校の学ランを着てまだよそよそしい町を自転車で走る。新しい学校までの道は昨日覚えたばかりで不安は残るが、桜が咲いている見慣れない景色に心が躍った。
祖父母がこの町は悪夢の町と呼ばれているのだと教えてくれたが、そんな物騒な名前は似合わないのどかさだ。そういえば、恐ろしいものに出会ったら唱えるというおまじないも教えてくれた。なんだそれ、とは思ったが、いつになく真面目な表情に気圧されて、なんだそれ、とは言えなかった。
駅前にショッピングモールができたと聞いたがそのせいだろうか、シャッターが閉じている店ばかりの商店街を横目に住宅街を抜け、遊具が錆びている公園の前を通り過ぎる。高校へ近づくほど海がだんだんと遠くなる。新しく通う教室から海は見えないのだろうか、それは少し残念だ。そんなことを考えていると、見覚えのない道に入っていた。見慣れないではなく見覚えのない、だ。僕は早速道に迷ったらしい。
携帯電話を取り出して地図で現在地を確認する。田舎ではないが、以前住んでいたところと比べると目印になりそうなものが少ない。携帯電話がなければ初日から遅刻するところだった。道を頭の中にしっかりと入れてから携帯電話の電源を切る。外し忘れていたデフォルメされたヒーローのキーホルダーが僕を見上げていた。
憂鬱が頭を持ち上げる。
ため息をついて思考を払い落とすように頭を振る。しかしキーホルダーは外せない。こんな気持ちになるのに断ち切れないのは、まだ僕は心のどこかでヒーローを信じているからだろう。自分の諦めの悪さと幼さに辟易する。
「大丈夫、大丈夫」
言い聞かせて、再びペダルを踏み込んだ。
早めに家を出て良かった。道に迷ったというのに始業の一時間程度早くに着いた高校は、廊下に壁がない開放的な作りをしていた。中庭の桜の花びらが廊下に沢山落ちている。掃除が大変そうな学校だ。
全学年一クラス三十人前後で、AからDまでの四クラスだと、以前来たときに教頭に教えてもらった。体育館はつい最近新しくしたらしく、少しだけ浮いている。体育館の隣にある自転車置き場で自転車を駐め、鍵をかけて抜き取った。
同じように自転車を駐めている少年が珍しそうに僕を見ていた。学ランの見た目はこの高校のものとさして変わらないが、ボタンの色が大きく違うからだろう。僕のものは金色で、彼のものはねずみ色だった。ボタンだけこの高校のものを買った方がいいかもしれないなと思いながら駐輪場をあとにする。その後僕は教室には向かわずに、職員室に入って二年生の学年主任に挨拶をすると、僕が入るクラスの担任の机まで案内された。新しい担任は、僕と同じで今年からこの高校に来たのだという二十代半ばに見える男性だった。
「よろしく!」
担任はそう言ってとても爽快に笑う。舌を出した柴犬の写真がプラスチック製のシンプルな筆箱に貼られていて、悪い人ではなさそうだと思った。
「せっかく早めに来てくれたんだし、学校を回ってみる?まあ僕もつい最近ここに来たから、案内には自信がないんだけど」
担任はそう言いながら職員室を見回して、ある一人に目をとめる。黒一色のセーラー服がよく似合っている、生気のない肌をした少女だった。短く切られた髪を揺らしながら誰も座っていない机に一冊のノートを置いて、もう用はないとばかりに彼女はまっすぐ扉へ向かっていく。
「あの子、スリッパの色赤じゃない?一年が青、二年が緑で三年が赤だから、先輩だよ。案内してもらおうか」
担任は勢いよく椅子から立ち上がると、バタバタと走って先輩を呼び止め、何か話し始めた。職員室にいた全員がこちらを見ていて、僕はなんだかどこかに身を隠したいと思った。この担任は少し周りが見えていないのかもしれない。
僕は周りの先生方に頭を下げつつ音が出ないように小走りで彼らに近づくと、担任は僕にガッツポーズをして見せる。
「案内してくれるって!」
任務完了!とでも言いたげな爽やかな笑顔を残して、担任は自分の机に戻っていく。なんと話し始めたらいいのか分からずにいる僕を置いて、先輩は既に職員室を出ていた。僕は慌てて追いかける。
「よろしくお願いします」
先輩は僕を一瞥して「よろしく」と短く返事をした。案内してくれるらしい。
「ここが食堂」
「購買もあるんですね」
「その上が柔道場。仕切りの向こうに剣道場がある」
「結構広い」
「ここががフェンシング部の部室。駐輪場の上が卓球部の部室」
「あ、ここフェンシングが強いって聞いたことあります」
「ここが一年生の教室。渡り廊下を挟んで向こうが理科室と生物教室」
何を話しかけても返事は返ってこない。移動中は無言で、体育館周り、校舎の順で淡々と場所の説明をするだけだった。先輩は僕に転校の理由どころか名前すら聞かない。話したいことでもないので僕にとってそれはとてもありがたいことだったが、転校生とそれを案内している先輩が終始無言で歩いていると逆に興味を煽ってしまうらしく時折すれ違う生徒たちが向けてくる好奇の目が痛かった。
ここが最後といいながら案内されたのは図書室だった。先輩は腕時計を見る。始業まで二十分程度あった。せっかくだから中を見てみたいです、というと先輩は図書室の扉を開けてくれた。背筋が伸びた立ち振る舞いがどこか優雅で、いつか見た童話が原作の映画に出てきた王子様に似ている。隣を歩いていて気がついたが先輩は恐らく平均以上の身長を持っている。口数の少なさや動かない表情も相まって、かっこいい人だ、と思った。
図書室の入り口を入ってすぐの所に、この町の名前が大きく書かれた看板があった。この町に関する本のコーナーらしい。
「悪夢の町と呼ばれている理由は聞いた?」
それほど有名ではない割に本が多いな、と失礼なことを考えていた僕に、先輩が聞く。先輩が僕に話しかけることはないだろうと思っていた僕は驚きで小さく飛び跳ねた。恥ずかしい。僕に全く関心を寄せていないらしい先輩は全く気にしていなかったけれど。
「…何となくは、祖父と祖母に聞きました。でもあまり覚えていないです」
「そう。じゃあこれ読んで」
先輩はこの町のコーナーから一冊抜き取ると、僕に差し出した。それは絵本で、今から読んでも読み切れる厚さだった。内容はこうだ。
『昔、ある小さな町に、悪夢ばかり見る少女がいました。
少女は毎晩悪夢を見ました。
日によって内容は異なり、どれも血の気が引くほど恐ろしいものだったそうです。
少女は夜が訪れるのを恐れました。
眠るのを恐れ、睡魔がやってくる度に硬い石に頭を打ち付けたり、真冬に冷水に浸かったりしていました。
しかし限界があるもので、いつも少女は努力の末に眠ってしまい、叫びながら飛び起きました。
町の人々は少女を嫌いました。
悪夢を毎晩見ることも、それを防ぐための行動も、やつれた顔も酷い隈も、とても不気味だったからです。
少女は毎日町の人々に罵声や嘲笑を浴びせられました。
少女は町の人々を恨みました。
両親も例外ではありません。
少女は夢を恐れて死を選びました。その直前に、町に呪いをかけました。
「これからあなたたちが悪夢を見ると、夢から悪夢が抜け出して、あなたたちを殺し始めるわ。町の全員死んでしまえばいいのよ」
少女は満足そうに笑って、海に沈んで死んでいきました。
町は悪夢で溢れかえりました。
住人は無惨にも悪夢に殺されてゆきました。
地獄のようでした。
町の人々は命からがら町の中心にある神社の神様に願いました。
神様は町の人々の願いを聞いて、呪いを瓶に閉じ込めました。
神様は今でもその瓶を見張っているということです。
めでたしめでたし。』
「読みましたけど…」
「この話には続きがある。これが新しい本」
先輩はそう言いながら僕の手から先ほどまで読んでいた絵本を抜き取り、代わりに別の絵本を置いた。真っ白な正方形の真ん中に、続編、とだけ書かれている。
「これも読めばいいですか?でもそろそろ時間が…」
「借りてくる。君、まだ図書室の名簿にいないでしょう。返すときは図書室前に返却ポストがあるからそこに入れたらいい。とにかく、できるだけ早くに読んで。明るい内に。いい?」
「どうしてですか?」
先輩は僕と目を合わせた。先輩の瞳は黒くて、とても空っぽだった。どうしてそう思ったのか僕にも分からないが、この人には何もないと思った。空っぽで、何にも関心を持っていない目をしていた。きっと僕のことも、本当は見えていないんだと思う。
「最悪の場合、君が死ぬから」
それだけ言うと、先輩は本を司書の先生に頼んで貸し出しの手続きをしてもらい、僕にその本を渡した。
先輩は図書室から出て行く。僕は呆気に取られたまま、そこからしばらく動けなかった。司書の先生にあと三分だと言われてやっと我に返り、僕は慌てて教室に向かった。息を弾ませて教室に入ってきた僕に、担任は「初日から遅刻かと思ったよ!」と爽やかな笑顔を見せた。そこでようやく僕は、先輩にお礼を言っていないことに気がついたのだった。
「君、蜂谷先輩に学校案内されてたよね」
今日は午前中で全ての日程が終わる。始業式を終えて担任の話が終わると、僕は質問の嵐に見舞われた。それが収まる頃を見計らったように、ポニーテールを揺らしながら隣の席の少女が僕にそう聞いた。彼女の声は小さいものだったが、ほとんどの生徒が帰った後の教室ではよく響いた。
彼女の机を見ると、高校二年生が持つにはかなり上等そうなカメラが置いてある。写真部なんてこの学校にあっただろうか。
「あの先輩、蜂谷先輩って名前なんだ」
「うん。蜂谷静音先輩。綺麗だったでしょ?」
「うん。なんか、かっこよかった」
彼女は表情を明るくする。
「蜂谷先輩、笑ってた?」
「いや、笑うどころか、表情が全然動いてなかったよ」
「そっか。ううーん、難しいな…」
何が?と聞こうとしたところで、僕は思い出した。すっかり忘れていた、僕は読まなければいけない本があるのだ。
慌てて鞄から絵本を取り出すと、彼女が絵本を覗き込んできた。
「君これまだ読んでないの?」
信じられない、という顔で僕を見る。何なんだ、この町はそんなにこの昔話が好きなのか?続編が出るくらいに愛されているのは分かったが、正直に言うとどこに愛される要素があるのか分からない。強いて言えば挿絵が柔らかくて愛らしいからだろうか。
「早く読みなよ」
促されるままページをめくる。
最初の方は今朝読んだものと同じだ。めでたしめでたし、そのページの後に、まだ続きがある。白い紙一枚で区切られた、続きだった。
『めでたしめでたし。これで終わり。そのはずでした。
町の住人たちは壺から離れられず神社から出られない神様に少しでも楽しんでもらうため、神社で毎年、四季折々の行事を開催していました。
神様を見た。綿菓子を食べていた。そんな噂があちこちから流れていました。神様は人と関わることが好きなようでした。
神様は大切にされていました。されていたのに。神様はおかしくなりました。
冬。寒くて静かな夕暮れでした。
午後五時を知らせるメロディが突然揺れて消え、その代わりに町中のスピーカーから、幼い声が響きました。少女とも少年ともつかない、曖昧な声でした。
「壺を、割ります。悪夢が溢れます」
それだけでした。
その次の日から、かみさまの宣言通り悪夢は現れました。何度倒しても心臓がある限り復活するそれらに町中が怯えて、部屋の隅で縮こまっていました。
地獄のような一日でした。
悪夢が歩く町に飛び出すことは容易ではありませんでした。
そんな地獄を切り裂いたのは、白い仮面を被ったヒーローでした。
彼は突然現れて、全ての悪夢の心臓を壊し、町に再び平穏をもたらしました。
彼は「すねこすり」と名乗りました。
彼はどんなに小さな声でも、呼べばどこにだって駆けつけてくれました。
町の住人は、そんな彼のことを敬意を込めて「すねこすりさん」と呼びました。
彼を呼ぶ言葉は、こうです』
最後のページには、大きくその言葉が書いてあった。それは、祖父母に教えてもらったおまじないと同じ言葉だった。
「…助けて、」
言い終わらないうちに、彼女の手が僕の口を塞いだ。
「何にも用がないのに読み上げちゃだめだよ。ほらここ、書いてるじゃん。ちゃんと読んだ?」
「読んだけど…こんなことが現実にあったら今頃この町は取材されたりして観光客だらけじゃないの?」
「情報操作されてるから外には都市伝説程度にしか思われてないよ」
「…どうして?」
「いろんな人に呼ばれちゃ、すねこすりさんが大変でしょ。この言葉、悪夢に関係なくても呼べちゃうんだよ」
「信じられないや」
「夜、明かりが漏れないように外を見てごらん。嫌でも分かるよ、この話がほんとだって事。君、とんでもないところに転校してきたねえ」
僕はやることがあるのだと言う彼女と教室で別れ、読み終わった本を返却して、道を覚えながら帰った。
何だか変な感じだ。町全体が僕にどっきりでも仕掛けているような気持ち悪さがある。
「ただいま」
祖父母は帰りの遅い僕を、昼を先に食べずに待っていた。先に食べてて良かったのに、と言うと二人は僕と一緒が良かったのだと言う。なんだか気恥ずかしかった。
「学校、どうだった?」
「楽しかったよ」
祖母は安心したように微笑む。楽しかったというのは嘘で、言い伝えのようなものを愛しすぎている彼らに不気味さを感じた一日だったが、わざわざ不安にするようなことを言う必要はないだろう。
結局その日、僕は夜外を見ずに眠った。
嫌な夢を見た気がするが、内容は忘れてしまった。
僕の夢も外に出て行ったんだろうか。
2
数人の名前と顔を覚えて、どの教科の先生が怖いか、この高校で人気なものは何かなどをぼんやりとだが把握できるようになった、転校して数日経った頃。転校生の物珍しさは次第に薄れていって、僕は一クラスメートとして受け入れられていった。
「ねえねえ」
昼休みになるといつもどこかへ駆けていく隣の席の少女は、昼休み以外はとても暇らしく、僕の席の周りに誰かがいない時はいつも僕に話しかけてきた。僕が続きを促すと、彼女はカメラを弄りながら言った。
「悪夢、見た?」
彼女のいう悪魔は、化け物の方だ。
彼女は毎日、挨拶より先にそれを僕に聞いてくる。僕が首を振ると、彼女はため息をついた。
「寝る前に外は?」
「見たよ。海しかなかった」
「あー、そりゃ見えないよ。海に出たって話は聞いたことないもん。今度は違う窓から見てみなよ。海のない方ね」
「わかった」
完全に信じるわけではないが、僕は変な意地を張らずに悪夢やすねこすりさんを居るものとして扱うことに決めた。その方が、町に馴染みやすいと思ったからだ。
「あ、そうだ。気になってたんだけど、蜂谷先輩にお礼言いに行った?」
「…あ」
「さては忘れてたんだね?今日昼休みに蜂谷先輩に会いに行くから、ついて来なよ」
「昼休み中いつも教室にいないのって、蜂谷先輩に会いに行ってるからなの?」
「そうそう」
チャイムが鳴って、担任がはつらつとした笑顔で教室に入ってくる。蜂谷先輩のからっぽな瞳を思い出して、僕は小さく身震いをした。
三分授業が長引いたりしながら迎えた昼休み、隣の少女が僕の肩を叩いた。右手にカメラを持っている。
「行こう、蜂谷先輩のとこ」
「今?食べてからでも間に合うと思うよ、僕弁当食べるのそこそこ早いし」
「いや、先輩すぐ居なくなっちゃうの。ほら早くして」
「わかった」
僕はパタパタと走る彼女の後ろを追いかけて、その勢いのまま一つ上の階の、三年C組の教室に入った。
「あ、蜂谷先輩」
カシャ。
春風にカーテンが揺れている。先輩は教室のいちばん隅の席に座っていた。丁度、教科書を机にしまっているところだった。相変わらず人形のような、生を感じない表情を浮かべている。
カシャ、カシャカシャ。
「…さっきから何撮ってるの?」
「蜂谷先輩に決まってるじゃん。あっ、許可は取ってるから安心して」
「そのカメラって蜂谷先輩を撮る用だったりする?」
「うん。蜂谷先輩の笑顔を撮りたくて」
「あの先輩笑うの?」
「一回しか見たことないけどね。ほんっとうに綺麗な笑顔なんだよ。ただどうして笑ってたのかが分からなくってさ、本人も理由が分からないみたいで難航してるんだよねえ。だから数打ちゃ当たる作戦で、毎日こうやって撮らせてもらってるの。真顔でも先輩は絵になるから飽きないよ」
「へ、へえ…」
「喋ってる場合じゃないでしょ、ほら」
背中を押されて、僕は立ち上がりかけていた先輩の眼前に飛び出してしまった。
「あ、あの…」
先輩は僕が眼中にないようでそのまま立ち上がり、椅子をしまって教室から出て行こうとする。
「蜂谷先輩」
そう声をかけると、先輩の瞳が僕を写した。やはりどこまでも空っぽで、空洞のようだった。少し恐怖を感じながらも頭を下げる。
「学校案内、ありがとうございました」
先輩は僕を見つめた後で、首を傾げた。
「誰?」
心が挫けそうだったが、思い出してもらおうと転校初日に出会ったときのことを話した。しかし先輩は表情をピクリとも動かさずに言い放った。
「思い出せない、ごめん」
心が挫けた。先輩は僕を通り過ぎて教室から出て行く。弁当も持たずにどこに行くんだろうか。
「首を傾げる蜂谷先輩が撮れちゃった!珍しいよ!ありがとう!」
教室に戻る途中、空腹を訴える腹をさすりながら、興奮したようにカメラの画面を見せてくる彼女に僕はげんなりした。
「先輩が僕のこと覚えてないって知ってたでしょ…」
「あは、ごめんごめん。ショックだった?蜂谷先輩ほとんど皆どうでも良いみたいだから多分誰が話しかけても誰?って聞かれるよ。だから気にしなくて良いと思う」
そういう話ではない、と突っ込む元気すらなくて、僕はやっとたどり着いた自分の席に伏せた。なんだかどっと疲れてしまった。早く昼を食べよう。
ここ数日僕を昼食に誘ってくれていた少年たちは既に食べ終えていて、僕はもそもそと一人で祖母が持たせてくれた弁当を口に運んだ。甘い卵焼きを食べるのは初めてだった。
彼女も隣で同じようにコンビニの袋から菓子パンを取り出し食べ始めた。
「…蜂谷先輩、毎日会う度にカメラ向けてる私を覚えてくれないのに三年D組の…名前は忘れちゃったけど、男子の先輩のことは名前も顔も覚えてるみたいなんだよ。確かに前髪で目がほとんど見えないし背が高いしちょっと目立つけどさ、でも私の方がインパクトあると思うんだよね」
独り言にしては大きい声だ。僕は白米を口に入れながら返事する。
「君が撮りたがってる蜂谷先輩の笑顔って、その先輩に向けたものじゃないの?」
「私もそう思ってその先輩を観察したことがあるんだけど、蜂谷先輩と同じくらい大人しいっていうか、クールっていうか…とにかく笑わせるような人ではないんだよ」
あまりに必死な彼女に若干の狂気を感じながら、僕は箸をケースにしまって弁当袋を鞄に詰める。
「なんだか、蜂谷先輩の笑顔に恋してるみたいだね」
「恋かあ。確かにそうかも。初めて見たときのあの感覚は、恋に似てるかもしれないよ」
彼女もパンを食べ終えると、午後の授業が始まる事を知らせるチャイムが鳴った。
「もし撮れたら、見せてあげる」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
見たいような、見たくないような、複雑な気持ちだった。
「君も電撃が走るくらい好きなものってないの?」
「いや、別に…」
「当ててあげるよ。ヒーローでしょ。初日に携帯電話についてるの見たよ。最近は外してるみたいだけど、なんで?」
息が止まる。
フラッシュバックするのはステージライトと、観衆の冷めきった目。吐き気がこみ上げて、思わず口をおさえる。葛藤の末に外したヒーローのストラップは、今は引き出しの奥深くにある。
「えっ?わ、顔色悪いよ、大丈夫?もしかして聞いたらまずかったかな」
「…いや、大丈夫。なんでもない」
彼女は困惑したような顔をしたが、先生が教室にやってきて授業が始まった。
少し疲れてしまった。早く放課後になってくれないかなと、僕は規則正しい時計を見上げた。もちろんその規則正しさが突然慌ただしくなる事なんてなく、僕は吐き気と戦いながら午後の授業を乗り越えた。
しかし、放課後がいつまで経っても始まらない。僕は周りにばれないようにため息をつく。「このクラスをどのようなクラスにしていきたいですか~」という、生徒数名による若い先生をからかいたいだけで特に意味のない質問を、担任は真面目に受け取ってしまったのだ。担任は一度話に熱が入ると止まらない人のようだ。熱意を語ってくれているが、手を変え品を変え何度も同じ内容を熱弁しているだけだった。
下校予定時刻が過ぎて、チャイムが鳴った。それでも担任の勢いは止まらない。背後のさして厚くない壁から微かに聞こえてくる騒がしさから察するに、隣のクラスは帰り支度を始めたらしい。もう一度ため息をついた、その時だった。
廊下の方から歌声が聞こえてきた。頭に思いついた言葉をそのまま歌詞にしているような、メロディーも滅茶苦茶で気持ちの悪い歌だ。
歌声ははゆっくりと廊下を進んでいるようで、だんだんと声が近づいてくる。
「なあ、もしかして、悪夢じゃないか?」
誰だか分からないが、クラスメートがそう言ったのが聞こえた。
「ドアと窓閉めて、カーテン閉じて!」
前の席の少女が焦ったように言う。
窓際の全員が音を立てないよう気をつけて立ち上がり、彼女の言うとおりに動いた。担任は話をやめ、硬い表情をする。騒がしかった隣のクラスが静まりかえっている。歌声に気がついたのだろう。
歌声が近づいてくる。この教室はAからDまである内のA組だ。つまり廊下のいちばん端にあり、歌声が最初に通り過ぎるのはこの教室だということだ。
誰も声を出さなかった。今はそれが賢明であるように思えた。
しばらくして、窓の外に影が見えた。顔がほとんど後ろを向いた、海老反りのような格好でその人影はゆっくりと歩いている。百八十センチは優に超えているような大きさだ。はやく通り過ぎてくれと心の中で唱えるが、その影は教室後ろの扉の前で止まる。
歩みを止めたままで、それは扉の前で歌い続けている。廊下側の窓際の、最前列に座っている少女が、緊張した面持ちで口を閉ざしている。
「居るでしょそこに、居るでしょ」
そいつは急に上半身を垂直にしたかと思うと、扉を激しく叩き始めた。普通の人ならば、自分の手が傷つくのを恐れてできないような激しさだった。僕は何が起こっているのか分からなくてただひたすら固まることしかできなかった。
「居るでしょ居るでしょ、居るでしょ」
最前列の彼女は震えている。扉が壊れるのも時間の問題だ。
「こえー…誰が呼ぶ?」
「転校生か先生でしょ。二人とも最近この町に来たじゃん。慣れといた方がいいって」
誰かがそう言ったのを聞いて我に返った担任は、情けなく声をひっくり返しながら小さく声を絞り出した。
「助けて、すねこすりさん」
あの絵本の最後のページ。
それはこの町の、ヒーローを呼ぶことができる言葉だった。
廊下側でない方の窓が、ガタ、と音を立てる。教室の全員が音を出した窓に視線を向けた。
僕は息をのんだ。
廊下の影とは正反対に、白い人影が、静かに窓枠にしゃがみ込んでいた。
白に黒いラインが入った、人体に即したヒーロースーツ。ツルッとしたフルフェイスのメットには猫の耳のような突起以外は何も付いていない。全体的に白で統一され、正午の光を反射してピカピカと光った。
眩しい。かっこいい。綺麗だ。
それは久しぶりの感情だった。
ヒーローを遠ざけていた僕の、心の底からのヒーローが大好きだという気持ちが溢れてくる。
「すねこすりさん…」
思わず呼ぶと、彼は僕に向かって首を傾けて見せた。
「悪夢か?」
ドアを破壊しようと暴れているその黒い影を見てそう呟くと、君は窓枠から飛び降りて、躊躇うことなく揺れる扉の前まで進む。
「皆は扉からできるだけ離れてくれ。今から扉を開けるけど、この教室には絶対に入れないから安心して欲しい。あと、見た目が怖いかもしれないから、見ないほうがいいと思う」
彼はそう言って生徒たちの方を一瞥した。
「開けるぞ」
全員が教室の隅に移動したことを確認してから、彼はカーテンを開けた。生徒の大半は目を閉じていたが、数人はその様子をまじまじと見ていた。僕もその一人だった。
扉の外にいたのは、真っ青な肌をした、骨と皮しかないような痩せこけた全裸の大男にも見える、頭髪のない、人のような何かだった。歯茎がむき出た口からは粘ついた液体が滴り、白目は血走っている。
見たことを後悔するような姿形をしていた。隣で目を開いていた少年が「うええ」と呻きながら目を閉じた。
僕はそれでも目を開いて、彼を見ていた。彼はガタガタと揺れる扉の鍵を開けて、引き手にその白くて頑丈そうなグローブに包まれた手を掛けた。ほんの一瞬だけ、その手が躊躇うように止まったことを、僕は見逃さなかった。
彼が勢いよく扉を開け放つと、そいつは長い腕を君に向け襲いかかった。彼は腰を低くすると、そいつの懐に飛び込み廊下へ押し出した。彼はそいつを蹴り飛ばし、手すりから落とす。そして彼も飛び降りる。
僕は担任の制止を振り切って、廊下に出て彼が落ちていった手すりから身を乗り出し地面を見下ろす。
「悪夢が現れました。校内にいる皆さんは直ちに教室に入り、鍵を掛け、物音を出さないようにしましょう」
校内放送だ。担任が僕を呼んでいる。それでも僕は、桜が数本囲うように植えられた、レンガが敷き詰められた中庭で繰り広げられている彼とそいつの攻防を見ていた。
隙を突いて、彼は白いナイフをそいつの胸に突き刺し、それによってできた傷に両手をかけて傷口をこじ開ける。そいつの中からは青い絵の具のような液体が溢れている。血だろうか。
呻いて暴れるそいつの腕をなんとか躱しながら彼はそいつの胸の中を探る。
そいつは彼の首根っこを掴むと、力一杯地面に叩き付ける。人体から出てはいけない音がしていた。俯せになった彼は、息を荒くしながらも素早く立ち上がり、そいつと距離をとる。手は青く染まっていた。
「ッゲホ、ゲホ。…お前、心臓そこじゃないのか」
彼は咳き込みながら心底驚いた!という声を上げた。僕は彼が絵本通りそいつの心臓を探している事に今気がついた。
背後から肩を掴まれた。隣の席の少女だ。
「教室、戻ろう」
彼女に引きずられるようにして教室へと戻る。まだ彼を見ていたかった。
「俺、あんな近くで悪夢見たの初めてだわ。皆もそうだろ?」
「悪夢って大体夜に出るもんね。こんな明るい内に出るの珍しくない?結構迫力あったなあ。あー怖かった」
「すねこすりさんやっぱかっけえな。悪夢と関係ないことでも呼んだら来てくれるんだろ?呼んでみようかな」
「迷惑に決まってるでしょ、馬鹿じゃないの」
「姉ちゃんが失恋したとき話聞いてもらったらしいよ。それからすねこすりさんと自分の恋愛漫画描いて俺に見せてきてうざい」
「私、自殺しようとしてた子がすねこすりさんに話を聞いてもらって思いとどまったって聞いたことある」
「すねこすりさんほんと何でもしてくれるんだなあ。課題とか手伝ってもらおうかな」
「それは私やったことある。優しく注意されちゃったよ。それは自分でやるべきだって」
教室が彼の話題で溢れている。僕はその間ずっと廊下を見つめていた。
「ヒーロー…」
小さく、ほとんど僕の中では禁句のようなその言葉を呟いた。吐き気はない。それどころか、心に暖かいものが灯ったような気がした。
「悪夢が消滅しました」
放送が流れると同時に、僕は廊下に飛び出して先ほどと同じように手すりから身を乗り出して彼を見下ろす。残っていたのは悪夢の残骸と、青い血だまり。それらはゆっくりと蒸発するように空気に溶けていった。
彼は既にそこにいなかった。
僕の口からは犬のようなみっともない吐息が漏れている。興奮が冷めない。よだれが垂れそうだ。
「君、すごい顔してるよ」
隣の席の少女が若干引きながら僕を見ている。
「どんな顔?」
「生きてて良かった!人生最高!みたいな顔」
「それで合ってるよ」
僕は走り出した。まだ終礼を聞いていないとか、荷物を教室に置いたままだとか、そんなことはどうでも良かった。まだ近くに彼はいるかもしれない。悪夢の恐ろしさなんて頭から吹き飛んでいった。
まずは中庭、次にその周辺を走り回った。周りの目も気にならなかった。頭の中ではヒーローを信じていた少年の僕が泣きながら喜んでいた。ヒーローは存在した。
そして食堂の裏に回った時、叫び出しそうになった。彼は仮面を被ったままで、眠っていた。心臓がバクバクと激しく血を全身に巡らせている。息が上がって、端から見れば僕はただの変態だ。
「初めまして、すねこすりさん。僕、ついこの間ここに越してきて、正直、今日までずっとあなたのこと架空の人物だって思ってたんです」
僕自身ですら聞き取りづらい小声でそう話しかけながら、一メートルくらい間を開けて、僕は彼の隣に座る。耳を澄ますと、穏やかな寝息は続いていた。
彼なら、彼なら僕のちっぽけな悩みを、嫌な顔をせずに聞いてくれるかもしれないと思った。だってヒーローだ。いつだって、誰にだって、優しく手を差し伸べてくれるかみさまのような存在だ。
「あなたはよく、町の住人の相談相手になっていると聞きました。起こしたりしませんから、少し話しても良いですか」
返事はない。当然だ。僕はそれに安堵し、深呼吸して、橙色に染まり始めた空を見上げる。
この大勢に愛されるヒーローなら、誰にも言えなかった、僕の、僕だけの人生を言ってもいいような気がした。
2
僕はヒーローが好きだった。画面の向こうで、誰よりも強く輝いて物語の中心に立つ、強く優しい彼らに憧れていた。歳を取るごとにただのおもちゃになっていく変身グッズに絶望しながらも、僕は信じていた。困っている人に手を差し伸べるヒーローは存在するのだと。昼休み中、誰かに話しかける勇気がなく好きでもない読書をしたり、既に昨日完成させた宿題の漢字ドリルをキャップが付いたままの鉛筆でなぞることくらいしかすることがないような僕には到底無理な話ではあったが、それでもいつか、彼らのように光り輝くことを夢見ていた。
だから僕は中学二年生の時、文化祭で行う劇の主役に立候補した。顔はきっと真っ赤だったし、手は震えていたと思う。それでもしっかりと、手を挙げた。
「大丈夫?いじめられてたりしない?」
先生が、眉を八の字にしながら僕にそう言った。僕はこのとき、昼休みは既に完成した予習を芯の出ていないシャープペンシルでただひたすらなぞっているような奴のままだった。先生がそんな風に考えたのも当然だと頷ける。
そこからはもう大変だった。僕は手を挙げているだけでかなり限界が近かった。だから先生の誤解を解くための説明ができなかったのだ。劇の話はいったん中止になり、僕をいじめている生徒を探す時間が始まってしまった。しかし見つからない。このクラスにいじめは存在していなかった。
そうした事件の後、いつの間にか照明係の欄に僕の名前が入れられていて、照明の機材の説明書を渡された。もちろん僕は何も言えず、照明係をした。不本意ではあったが失敗はできないと、昼休みを使って毎日説明書を読み込んだ結果、先生より照明の扱いがうまくなり、照明の神なんてあだ名が付いたりもした。
このままではいけないと、僕は人前で自分の意思を言葉にする練習をした。自分の部屋でも誰も居ないか周りを確認してから、ヒーローの人形に話しかけるところから初めて、中学を卒業する頃には散歩する近所のおばさんに挨拶をしたりした。結果、中学校生活が終わる頃には、よく行く本屋さんの店員さんに首を振るだけでなく声でカバーがいらないことを伝えることができるようになった。
ほんの少しの自信を持って、僕は高校生になった。中学では二年生が文化祭で劇を披露していたが、この高校は一年生と三年生が劇をするらしかった。
まだ人前で喋る練習が足りていない。今年はだめでも、三年生こそは!と意気込んで席に着いた。
「こんにちは、初めましてだね。君、なんて名前?」
前の席の少年が振り返って僕に微笑みかける。おお、と感嘆の声を上げそうになった。たぶん、テレビの向こう以外で、僕が今まで見た中でいちばんのかっこよさを彼は持っていた。全体的にすらりと長く、顔には切れ長の目が綺麗に並んでいた。第一ボタンまでしっかり留め、漫画に出てくるような、いかにも秀才という雰囲気を醸し出している。
どもりながらも返事をすると、彼も名乗って、笑みを深くした。どこか狐に似ているなと思った。
それから僕は毎日彼とともに行動するようになった。友達らしい友達がこれまで居なかった僕にとって、毎日が新鮮だった。帰り道に飲食店やコンビニに寄り道なんて高校生らしいことも体験した。
彼と過ごしていて分かったことは、第一印象が間違っていなかったということだ。苦手な教科なんてないんじゃないかと思うくらい全教科で学年上位に輝き、気さくで誰にでも好かれるような、友達と呼ぶのも恐縮してしまうような人間だった。
「喋るのが苦手?ふむ、じゃあさ、好きなものの話をしてよ。何だっていいよ、僕はずっと聞くよ」
そう言って彼は僕の会話の練習台にもなってくれた。最初はヒーローの話を少しだけ。それからどんどんと話す量が増えていって、他の話もできるようになった。昨日食べたおかずの事とかだ。タケノコの照り焼きがおいしかった。そして彼以外とも話せるようになった頃、聞き役に徹していた彼は、初めて僕に質問をした。
「夢はあるの?」
「夢?」
「そう。何でもいいよ、例えば、業務用のアイスをそのまま食べるとかでも」
僕はヒーローを信じている自分がいること、ヒーローに憧れていることを話した。僕は一度も舌を噛んだりどもったりしなかった。それを彼は楽しそうに聞いていた。僕は嬉しくて、彼のことをもっと知りたいと思った。僕ばかり話して、彼のことを僕はちっとも知らなかった。
「え、僕?僕はいいや。僕は人の話を聞くのが好きなんだ」
良い友人を持った。とても幸せだった。
そして僕の中での一大イベントがやってくる。文化祭の劇の役者決めだ。僕は緊張しながら主役やりたい人と呼びかけられるその時をじっと待っていた。
「主役やりたい人ー」
文化委員の言葉に、僕は勢いよく手を挙げた。
当然ではあるが、主役にはクラスの人気者が立候補する。僕は恐る恐る周りを見ると、僕の他に、三人手を挙げている人がいた。皆例に漏れず人気者だった。僕は肩を落とす。
そんなとき新たに手を挙げた人が居た。彼だった。
「僕、彼が主役になれば良いと思う」
彼はそう言って僕を指さす。彼はきっとこのクラスでいちばん人気だ。彼の言葉は、このクラスで大きな力を持っていた。
投票結果は彼の圧勝で、つまり僕だった。
「よかったね」
彼は僕に微笑んだ。かみさまに見えた。
その日から僕は毎日、休み時間中の全てを台本を読むことに使った。何度も練習をして、放課後は彼に練習の成果を見てもらったりもした。
本番があと二週間後というとき、練習はラストスパートを迎えていた。彼はスポットライト係で、主に僕を照らしていたためよく行動を共にしていた。そうでなくてももとよりよく一緒に居たのだけど。
そんなある日、廊下を移動しているとき、彼は蹌踉けた。僕はそれを受け止めて廊下に転がった。彼は僕のおかげで無傷で僕を見下ろしていた。
「あ、ごめんね、よく下を見てなかった。大丈夫かい?」
これを皮切りにして、うっかりしていることが多くなったように思う。彼がうっかりするとき僕は大体小さな怪我をいくつかして、腕や足に絆創膏や包帯が増えたがそれだけだし、いいかと気にとめていなかった。この時点で気づいていれば良かったのだ、彼の性癖のようなそれを。
本番当日、誰も居ない体育館裏に彼は僕を呼んだ。
「やあ」
彼は突然僕の胸ぐらを掴むと、口を掌で覆った。何か堅いものが大量に口に入り込んだかと思うと水の入ったペットボトルの口が押し込まれた。たまらず咽せて腕を叩いたが、それでも彼は僕の口から手を離さなかった。混乱していると鼻をつままれ、息が苦しくて僕はそれを飲み込むしかなかった。
咽が動くのを確認した後で、彼は僕から手を離す。僕はその場に尻餅をついた。
「な、何これ」
「薬。ああ、脱法のやつとかじゃないから安心してよ、僕が病院でもらってるやつなんだ。僕自身寝る前に一度にたくさん飲んだことがあるんだけどね、もう最悪だったよ。頭は痛いし吐き気はひどいし。あれは地獄だったね」
「なんで」
僕が話そうとすると、彼は被せるように話し出す。
「君の質問に、僕はほとんど答えてこなかったね。でも今日は、僕のこの世でいちばん大好きなこと教えてあげるよ」
彼は吊り上がりがちな目を限界まで開いて、僕を見下ろした。
「可哀想な人を、見ることなんだ」
劇の始まりのナレーションが体育館から聞こえた。僕を数人が探しに来て、急いでと僕の腕を引いた。訳が分からないまま舞台袖に立つ。カーテン越しに見たいつの間にかスポットライト係の位置についていた彼の顔は、暗くてよく見えなかった。
劇は順調にスタートした。僕は何度も読んだ台本の通りに、しっかりと動けていたはずだ。クライマックス、ヒーローが、凶悪な敵に立ち向かうシーン。僕は段ボールでできた剣を高く掲げた。
ぐらり、地面が揺れた。僕は思わずその場にへたり込む。
唾液が止まらない。頭がガンガンして、会以上全体が歪んで見えた。
「う、うぇ」
うぐ、げえぇ。
ビチャビチャと音を立てて、今朝食べたものが舞台上に落ちていく。
会場全体が響めいて、照明が落ちる。でもスポットライトは僕を照らしたままだった。「トラブルがあったようです」というアナウンスが入って、僕は駆けつけた先生に抱えられ、舞台を下りた。困惑や失望の目が僕に向けられていた。その中で、ひときわ目立つ顔立ちの彼が僕を見ていた。君はスポットライト係だろう、どうしてここに居るんだ、酸っぱい臭いに咽せて聞けなかった。
彼は笑っていた。今まで見たことがないほど嬉しくてたまらないという顔をして、僕を見ていた。暗闇に突然放り込まれたようで、涙も出なかった。
もちろん僕らのクラスの劇は最下位で、僕はクラスで腫れ物のように扱われることになった。一人でいることには慣れていると思っていたが、一度クラスに溶け込んでしまったことがある僕には冷たすぎて耐えられなかった。僕が無視をされる度に、彼は嬉しそうに笑っていた。彼が僕を吐かせたのだと言っていったい何人が信じるだろう。
誰も僕に手を差し伸べてはくれなかった。先生も気の毒そうに見るだけだった。
僕はそこでヒーローは存在しないのだと理解した。ヒーローという言葉を見ると、あの舞台の上で体験したような強烈な絶望が広がるようになった。
「それで、僕は逃げてきたわけです。あの白い目の中で生きていくのは、僕には難しそうだったので」
話し終える頃には、空は橙色を深くしていた。部活を楽しむ声があちこちから聞こえてくる。
「でも今日あなたを見て、まだヒーローはいたんだって、まだヒーローを好きでいて良いんだって思えたんです」
僕は彼に礼をして帰ろうと彼の方を向くと、僕の視界いっぱいに白色が映った。
彼はいつの間にか僕の隣で胡座をかいていた。僕は驚きで固まってしまった。
「い、いつから」
「うん?最初から聞いてたぞ」
彼は僕の頭に手を乗せて、そのまま髪の毛をかき混ぜた。
「頑張ったな」
心の中で幼い僕が息を吹き返す。嗚咽が止まらなくなって、僕は彼の腕に縋り付いた。
「もしまたそんな目に遭いそうになったときは、俺を呼んでくれ。絶対に行くから」
しばらく彼は腕を貸してくれていた。だんだんとヒーローとはいえ恐らく同い年くらいの初対面の少年に縋り付いていることへの羞恥が襲ってきて、鼻をすすりながらも涙を引っ込めると、彼も腕を元の位置に戻した。
「落ち着いたか?」
「はい。すみません、寝てたのに、いきなり喋り始めちゃって」
「良いよ。少しは楽になったか?」
「はい。…あの、どうしてここで寝てたんですか?」
彼は自分の胸の辺りを軽く叩いた。
「眠ったら怪我が治るんだ。さっき悪夢に肋骨折られてさ。治してた。…あ、君が来る頃には治ってたから気にしないでくれ」
彼はひょっとすると、僕のような人間よりも悪夢の方に近いのかも知れない。敵の力で戦うヒーローなんて王道中の王道だ。画面の向こうのヒーローがそのまま僕の隣に座っている。嬉しくて悶絶してしまいそうだ。
「僕、ヒーローが大好きなんですけど」
「ああ、言ってたな」
「あなたのことも知りたいです。少し質問とか、しても良いですか」
彼は楽しそうに笑いながら頷いた。
「ええっと、まず、あなたはどこから来たんですか?」
「それが、俺もよく分からないんだよな」
「どういうことです?」
「そのままだよ。分からない。悪夢がこの町に現れ始めた三年前からの記憶ははっきりしてるんだけど、それ以前は本当に朧げなんだ」
三年前、悪夢が現れた日。彼は夜の町にヒーロースーツを纏って佇んでいたらしい。それ以前の記憶がぼんやりとしていて、帰る場所も自分がどうしてここにいるのかも分からずに途方に暮れていたのだと彼は語る。その時叫び声が聞こえ、声のした方へと向かうと悪夢が人を襲っていたそうだ。何とかしないと、と腰に装着されていたナイフを取り出し、彼は悪夢を切り裂いた。そして体が無意識に悪魔の心臓を取り出し、握り潰した。彼はその時の自分の体がずいぶん昔からそうすることを知っていたように動いて気味が悪かったと言う。
そして悪夢が夜空へと消えていくのを見届けた直後、「助けて、すねこすりさん」と呼ばれたのだ。声の方へと向かうと、自分のことを知っていると言う同い年の少年に出会ったらしい。今はその彼の家の厄介になっているそうだ。
「自分の事なのに、こうしてまとめて口に出すとますます意味がわからないな」
「三年前以前の記憶は、かみさまがあなたをヒーローにする時、余計なものだったんですかね…」
「さあ…。俺が俺について知ってることって、町の人とあんまり変わらないんだ」
「そうなんですね…」
「ああ。…ちょっとしんみりしちゃったな、気を取り直して、他には何かあるか?」
「えっと…仲間は居るんですか?」
「ヒーローもので言うところの二号三号とかってことか?それはいないけど、友達は二人いるぞ。さっき言った1人と、あとは最近…って言っても1年前くらいだけど、友達になった1人がいる」
「仲良いですか?」
「ああ!顔を見てない日がないくらいだ」
「あとは…」
「ははは、こんなにインタビューされたのは三年前以来だ」
「三年前に?」
「どこから嗅ぎ付けたか知らないけど、町の外から雑誌記者が俺を何度も呼んでな。それを聞いた町の人たちが怒って大変だったんだ。どんな風に脅したか知らないけど、もう二度と来ませんって泣きながら帰って行ったのはびっくりした」
僕がその時この町に居れば、きっと同じ事をしていたと思う。だって彼が迷惑しているのだ、法を犯してだって追い払うべきだろう。
どうしよう、すごく楽しい。自分からはきっともう無くなっていると思っていた感情が、彼の光で目を覚ましていく。
もっと彼と話していたい。僕はこの出会ったばかりのヒーローに既に溺れてしまっていた。しかしそんな僕の気持ちは露知らず、彼は立ち上がって尻についた土を払うと、手を振った。
「呼ばれたからもう行くよ。暗くなる前に帰った方が良いぞ、転校生くん」
次に瞬きしたとき、彼はそこにいなかった。
「て、転校生、くん…!」
僕は歓喜した。制服のボタンを変えなくて良かったと心の底からそう思った。
3
絵本をこんなに熱心に読んだのはいつぶりだろう。何度も何度も読み返しては長い息を吐く。柔らかいタッチで描かれた白い人型の何かすら、すねこすりさんであると思うとたまらなくかっこいいのだ。
僕の部屋の無機質な白い光だけでなく月明かりにも照らしてみたくなって、僕は電気を消してカーテンを引く。そして本で月明かりを受け止める。
「うん、やっぱ綺麗」
口からするりと出たそれに自分で驚く。独り言なんてこれが生まれて初めてだと言えるほど経験の無いものだ。すねこすりさんに出会ってから僕はどこかおかしくなっているらしい。帰ってきたとき、祖父母が僕の顔を見るなり「学校、楽しかったんだねえ」と泣いて喜んでいた。比喩じゃなく、本当に涙を流していた。
熱が冷めない。頬が熱くて、僕は体験したことがないから断定はできないが、これが恋なのか、と思うほどに心臓は激しく脈打っていた。
自分が自分でないような、どこか浮ついている気持ちに戸惑っていると、小さく、声が聞こえた。
「お父さあん」
窓の外からだ。
窓から身を乗り出すと、僕の家の前を小学生くらいの少年が歩いていた。時刻は二十二時。父親を探しているようだが、辺りにそれらしい人影はない。すねこすりさんと話した後すぐすねこすりさんに関する本を読みあさった僕はこの町にある職場は二十一時を越えたら職場に泊まらなければならないという決まりがある事を知っている。その時間帯には確かにほとんどの店が閉じている。少年の父親は二十一時を越えてしまいきっと帰ってこれなかったのだろう。
僕は心配になって、既に眠っている祖父母を起こさないようこっそりとスニーカーを履いて玄関を出た。
少年はすぐに見つかった。僕が話しかけると小さく悲鳴を上げたが、僕がしゃがんで悪夢ではないことを告げるとほっとしたような顔をしてくれた。
「どこから来たの?」
少年はおずおずと来た道を指さす。堤防に沿って歩いてきたようだ。堤防近くに家があるのだろう。
「明日になればお父さん帰ってくるからさ、今日は帰ろう。送るよ」
少年は小さく頷いた。二人で少年が歩いてきたという道を歩く。大人しい子で良かった、と胸をなで下ろしていると、金属音が聞こえた。
トングが何本も束になって歩いているような奇妙な音だ。僕はそれが悪夢だと気づいたが隠れる場所がない。音が近い。僕はとっさに知らない家の庭に入ってブロック塀に身を隠した。
音はゆっくりと近づいている。
「おりませんかァ」
変に甘ったるい間延びした声だ。僕は少年に口の前で人差し指を立ててみせる。少年は震えながら同じように人差し指を立てて口につけた。
「子供が二人、おりませんでしたかァ」
コンコン、と足音とは違う堅い音がする。玄関の扉をノックしているのだ。まずい、僕たちが居るここはあまりにも玄関に近かった。しかし他に体を隠せそうな場所もない。
子供が二人というのは僕と少年のことだろう。僕たちは大きな声で話していないのに二人でいたことがばれてしまっているということは、この悪夢は耳が良いのだろうか。彼を呼ぶ声を聞いた悪夢が彼より早くこちらに向かってきたらと思うと声も出せない。
こんなとき彼ならどうするだろう。
恐怖も痛みも乗り越える強い彼なら。
僕は、音を立てないよう静かに立ち上がって、人差し指を唇に立てながら、少年にそのまま隠れているように身振り手振りで伝える。少年はコクコクと頷いた。
僕は意を決してブロック塀の外へ飛び出した。悪夢はもうすぐそこに迫っていた。
百八十センチはありそうな、髪を結った日本人形。緑色の肌、目は飛び出ていて、口は耳まで裂けている。着物の下から覗くものは足でもトングでもなく無数の刀だった。
「あらあらあららら」
僕は一目散に逃げる。
がしゃがしゃと乱暴な足音が追いかけてくる。早いわけではないが、体力測定でクラスの中の下である僕が捕まらないかと聞かれると微妙なところだ。
少年からできるだけ遠ざからなければ、と恐怖で泣きそうになりながら走っていると、だんだんと知らない景色に変わっていく。走っている間にメガネは落ちてしまって、背後でガラスが割れる音がした。
息を吸い込んで彼を呼ぼうとすると、目の前に狐の目が浮かぶ。ヒーローはいないと嘲笑っている。スポットライトが吐瀉物を照らして僕を惨めにした。
違う、違う。この町にはヒーローが、助けてくれるかみさまがここにはいる。
僕は思いきり叫んだ。
「助けてすねこすりさん!!」
足がもつれて僕はその場に転んでしまった。すぐに立ち上がって前に進む。後ろは振り返ったら絶対にいけないと思っていた。
息が上がって汗が滴る。もう体力が持たない、そう思ったとき、あの力強くて暖かくて、でも少年のような透明さを持った声が僕の耳に飛び込んできた。
「伏せろ!」
僕は慌てて地面に手をつき犬のような格好になる。その僕の頭上を、白い光が通った。
僕の背後で肉がかき混ぜられるような音や何かが割れる音がしばらく続き、悪夢の断末魔が上がる。
ゆっくりと振り返ると、悪夢の心臓を取り出した彼が、丁度それを握りつぶすところだった。体は暗くてよく見えないが、彼のツルッとしたメットが月明かりに輝いている。美しくて、このまま美術館に飾れそうだと思った。
バキバキ、と音を立てて崩れ落ちていく心臓が、風に混ざって消えていく。
心臓をまじまじと見た。読んだ本の中ではプラスチックでできたような硬さで、掌を目一杯広げたくらいの大きさの、星形のもの、と説明されていたが、その通りの形をしている。
彼は手を太腿あたりに叩きつけて手についていた心臓の粉を落とすと、僕にその手を差し出す。
差し伸べられた手を掴んで立ち上がると、足がふらつき彼の方へと体を傾けてしまった。彼は僕の肩を掴んで支えてくれた。三十センチより近い位置で見る彼は高くはない僕より少し低いくらいの背丈で、思ったよりも小柄であることに驚く。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「家の前を小学生くらいの男の子が歩いてて…あ、もう大丈夫だよって言いに行かないと」
タッタッ、と軽い足音が聞こえる。彼はすぐに僕を庇うように臨戦体勢をとったが、そこに居たのはさっきの少年だった。少年は彼を見るなり嬉しそうに破顔する。
「すねこすりさんだ!」
「うおっ」
少年は彼の腰に突進するように抱きついて、にこにこしながら跳ねる。この町の住人ならば、幼くても彼のことを愛しているらしい。
「お父さん探してたら、お兄さんが来て、僕、悪夢が来て、お兄さんシーって。そしたら怖いのと一緒に…」
たどたどしく少年が説明するのを彼は熱心に聞いていた。少年とヒーローって何だか微笑ましくていいな、と思っていると、話を聞き終えた彼が僕に振り返る。
「めちゃくちゃかっこいいな!」
彼は僕の背中をバシッと叩いた。
「この子は俺が家まで送り届ける。君も早く家に帰ってくれ。じゃあ、おやすみ、転校生くん!」
少年を抱えて去って行く彼を見つめながら、僕は荒い呼吸を繰り返した。叩かれた辺りから僕は息さえ忘れていたのだ。
「すねこすりさん…!」
自室に戻った僕は、久しぶりに幸せな気持ちで夢の中へと落ちていった。
「何それ」
「えへへ」
「うわっ、君そんな風に笑う子だっけ?っていうか、メガネは?コンタクトにしたの?」
隣の席の彼女に若干気味悪がられながらも僕の机の上に置かれたすねこすりさんの人形を撫でる。机には今日返却する予定の、すねこすりさんに関する本が数冊積まれている。朝日に輝くそれは僕には何か神聖なものに見える。
「それどうしたの?」
「ヒーローの人形に耳を付けたり塗り替えたりして作ったんだ。なかなか似てるでしょ?」
「すっかりこの町の住人だね。すねこすりさんのファンをこじらせて特に用がないのに呼んだりしないでよ?」
「しないよそんなこと」
「時々いるんだよ、そういう奴」
「最っ低だね。息の根を止めてやりたいくらいだよ」
僕はすっかり彼の虜になっていた。
「ねえ、すねこすりさんのこと、もっと教えて欲しいんだけど」
「ええ?いいけど…、もう君の方が私より詳しいんじゃない?」
「この本に載ってないような、町の人だからこそ知ってる日常でのこととか、噂とかが聞きたいんだ」
「うーん、そうだねえ…。町で上映されるホラー映画とか、町で販売されるホラー小説とか漫画を見て、お化けとかそういう、悪夢になりそうなものをまとめた資料をすねこすりさんに渡すっていう仕事が町にあるとか…」
「それはこの本に書いてあったよ」
「じゃあ、悪夢は大体人を襲うけど、悪魔による死人は今のところいないってこととかは?」
「それも知ってるよ、この町で死人が出たいちばん最近の事件って、すねこすりさんが現れる前の連続殺人でしょ、五人だったよね?酷い事件だよ。すねこすりさんがその時いたらなあ…」
「私より知ってるじゃん、知らなかったよ、それ」
「そうなの?」
「うう、もう面倒くさくなってきたな…。あ、そうだ、仲間が二人いるって噂がある。すねこすりさんを背負った黒い狼の仮面の男と、その後ろをついていく狐面の女の子を見たって人が時々出てくるんだよね」
「それは知らないや、ありがとう!」
きっと、すねこすりさんが言っていた友達二人のことだろう。仲間ではなく友達だと訂正しようと思ったが、彼との会話は僕だけの思い出にしたくて、僕は口をつぐんだ。
「あ、仲間になりたいとかって言い出す奴らもいるんだけど、すねこすりさん困るだろうから言っちゃだめだよ」
「仲間?とんでもないよ。僕はもう分かったんだ。全部分かったんだ!」
「何が?」
チャイムが鳴って、彼女と僕は話をやめた。担任が教室に入ってきたのと同時に、クラスの誰かが呟く。
「あ、すねこすりさんだ」
窓の外を見ると、確かに白い人影があった。それは窓を優雅に飛び跳ねていく。
「なんだか生きた光みたいだよね」
隣の彼女がカメラを弄りながらため息をついた。先輩の笑顔はまだデータにできていないらしい。
僕はそのカメラを見て、ふと思い浮かんだことがあった。僕はまだチャイムが鳴っていない廊下に飛び出して一つ上の階に上がる。
チャイムと同時に入った上級生の教室は、まだ先生が片付けをしている最中で、いきなり入ってきた僕はとても目立っていた。
お構いなしに教室の隅へと進む。
頭の隅で、いつか聞いたラジオの歌声が響く。
君の人生は君が主役。そんなことを、歌っていた歌手がいたっけ。
でももう僕は分かってしまった。気付いてしまった。そしてそれを、喜んで受け入れた。
「蜂谷先輩」
先輩は遠くに消えていく白い影を眺め続けている。声が届いているかは分からないが、僕は続けた。
「世界の中心にいるのは、誰だと思いますか」
先輩は振り返った。
先輩は笑っていた。瞳の中にあの空洞はない。純度の高い黒という感じだ。生に満ちている。
ああ、可哀想だ。彼女が蜂谷先輩のこの顔をカメラに納める日はきっと来ないだろう。
「すねこすりさん」
「ですよね」
こうして、脇役のプロローグは幕を下ろしたのだった。
薄暗い、極彩色の体育館。
私の呼吸の音しか聞こえない。気味が悪いほどの静けさだ。
ぐらぐらしていて安定しない。私は少しも動いていないのに、視界が何度もバグを起こして気持ちが悪い。
窓の外には何もなく、ただ暗闇が広がっている。宇宙か深海に体育館ごと放り投げられているようで、言いようのない心細さが辺りを漂っていた。
この場所で唯一明るい舞台上には、人ほどの大きさを持つぬいぐるみがずらりと並んで、足を垂れ下げて腰掛けている。
様々な色をしたそれぞれに愛嬌のある彼らは、店で買い手を待っているようにじっと、どこか遠いところを、そのビーズの瞳で眺め続けている。
そんな彼らと同じように並んで、舞台側から見ていちばん左端に座っているのが私だった。身体には綿ではなく骨や肉が詰まった、人間の私。
これは夢だ。何度この夢を見たか、もう忘れてしまった。
小さくため息をつくと、舞台の照明が点滅して、バツン、という音と共に全てが暗転した。そして数秒の内に、再び舞台上が明るくなる。その眩しさに目を瞬いていると、やけに間延びした、猫なで声が体育館に響いた。
「かわいい」
何度も聞いたその声に吐き気がした。何度聞いても、この声には慣れない。
舞台の下、体育館の中央にいつの間にか現れた、一脚だけのパイプ椅子の上。ウェーブのかかった髪を揺らして、母はぬいぐるみ達を眺めている。何度同じ展開を経ても、やはりこの瞬間は気が重たい。
母は椅子から立ち上がると、肘を伸ばして、私からいちばん遠くに座っている兎のぬいぐるみを指さした。
「かわいい」
次に、その隣の熊のぬいぐるみを指す。
それを繰り返し、最後。私の番だ。
「かわいくなくなった」
母がそう言った瞬間に全ての窓ガラスが割れ、大量の水が流れ込んできた。母は微笑みながら濁流の中へと消えていく。
あっという間に舞台の下は暗い湖へと姿を変えていった。
全てのぬいぐるみ達が、私に顔を向けている。彼らに動く口はついていないが、嘲笑っているように見えた。
私は身体を前のめりに傾けて、躊躇わずに水の中へと落ちた。
どう足掻こうがこの水中からは抜け出せないことを知っている私は、目を閉じ全身の力を抜いて暗い底へと沈んでいく。
どこかで少女のすすり泣く声がして、やがて止んだ。
水中で瞼を薄く開くと、子供向けの音が出たり引っ張って遊べたりするおもちゃやベビーカー、幼稚園の制服に、小さな靴、愛くるしいぬいぐるみたちが私を囲んでいる。口から気泡を出しながら、私は再び目を閉じる。
虚しくなるのはここまでだ。これから、強い光が降ってくる。期待に胸を弾ませて、私は暗闇に身を委ねた。
しばらくそうして水中を漂っていると、突然、腕が勢いよく水中に飛び込んできた。そして私の手を掴み、強い力で私を水面へと引き上げた。
「生きてるか…?」
水面に浮かぶ私に降るその声は、不安に揺れている。死んでいないこと伝えるために、ゆっくりと目を開くと、安心したような表情の君と視線がぶつかる。
私と君を取り囲む背景は、体育館ではなく夜の海だった。いつ変わったのだろう、何度も同じ夢を見たはずなのにその瞬間を目にしたことはない。私は浅瀬に仰向けに寝転がり、膝をついて私を覗き込む君を見上げている。
綺麗。綺麗だ、本当に。
見た目が優れているとか、心に汚れがない、という意味の綺麗ではない。勿論君の見た目も心の底から素晴らしいと思っているが、それは私の「綺麗」とは違う。私の「綺麗」は、恋だとか愛だとかを飛び越えていく激情だ。
絶対的で尊い、信仰心のような、忠誠心に近いもの。愛しい、愛している。それ以上に、私は君のことを綺麗だと思う。
「綺麗」
私がそう言うと、君は「ありがとう?」と首を傾げた。
波の音が心地よくて、夢の中でも眠れるのだろうか、と思いながら再び目を閉じる。
君が焦ったように私の肩を揺する。
君の居る世界なら生きてもいいと、そう思う。
君は、私のかみさまだった。
1
朝起きて、まず視界に入るのは不快な淡い桃色。小学四年生の頃からほとんど変わっていない机やベッド、タンス、本棚もパステルカラーで包まれていて、壁に掛けられた黒い制服が異質なものに感じられる。私はその異質な黒で体を包んで、窓を開いた。潮風とともに部屋に流れ込む朝日は白い。君の色だ。
携帯電話から充電コードを抜き取ると、画面に君が浮かび上がる。照れたような笑顔と、控えめなVサインが眩しい。時刻は六時。私は学生鞄に昨日片付けた課題と予習のノート、辞書と体育着を入れる。机の引き出しから愛らしい猫のイラストが描かれた封筒を取り出して、中から今日一日分の食費を抜き取り財布に入れて、私は部屋を後にした。
廊下に出ると、廊下の突き当たりにあるリビングから複数人の声がする。テレビの声だろう。音を立てないよう洗面所に入って、歯を磨いて短い髪を櫛でとかし、身なりを整える。
「行ってきます」
リビングには届かない声をリビングに投げて外に出た。
マンションのエレベーターを下りながら目を閉じる。母がどんな顔で、どんな声だったか、私はもう忘れてしまった。喋ったのはいつが最後だったか。
自転車で早朝の町を走る。途中のコンビニで牛乳とサンドイッチを買った。私の住むマンションから学校は近く、自転車なら十分程度で到着する。コンビニに寄ってもまだ六時半で、今から行っても教室には誰も居ないだろう。
私は学校の前を通り過ぎて、寂れた商店街を抜ける。波の音に向かって進んでいくと、木造の古い建物が並んだ、車一台分程度の幅の道がある。この町でいちばん海に近いところにある住宅街だ。
その一角に、「喫茶同前」はある。喫茶同前は名前の通り同前という名字の店主が営んでいる喫茶店だ。二階建てで、二階は住居になっている。
扉には準備中の札が垂れ下がっているが、私は構わずノックをして店に入った。
「こんにちは」
来客を知らせる鈴の音と私の声が店に響く。ふわりとコーヒーのいい香りがして、私は思わずほう、と息をついた。
穏やかな音楽が流れている。テーブル席が二、カウンター席が四。そして奥にひっそりとソファが置かれた店内は、広いとは言えないが狭いわけではない、丁度良いを具現化したような心地よさだ。
カウンター席で私と同じ高校の制服を着た少年が一人、静かに座って黙々と絵を描いている。一つ開けて隣に座ってスケッチブックを覗き込むと、そこには君が描かれていた。毎日一人ずつ君が増えていく彼のスケッチブックは、写真では分からない君の神聖さのようなものが溢れている。実際の君は太陽そのもののようだが、彼の描く君はどこか憂いを持っていて、どちらかというと月のようだ。君の新しい一面のようなそれを見るのが私はとても好きだった。
キッチンの奥から足音がする。白い暖簾を潜って顔を出したのは、私の世界で唯一色を持った人間だ。窓から入り込む穏やかな日差しを反射して、所々跳ねている君の栗色の髪が黄金に光っている。私を目にとめると、君のその髪と同じ色の睫が弧を描き、形の良い唇からは白い歯が覗いた。自分の頬が緩むのを感じる。黒いスウェットが君が纏う白を際立たせていた。
「おはよう」
「おはよう!飲み物どうする?」
「コーヒーお願い」
「ブラックだったよな?」
「うん」
君はトースターから焼き上がったパンを三枚取り、サラダが盛り付けられたプレートに乗せる。喫茶同前とプリントされた臙脂色のエプロンがよく似合っている。
しばらくして、君が私と彼、そしてその間の誰も座っていない席に、綺麗に料理が並べられたプレートを置いた。良い匂いが私たち三人を包み込んでいる。
「正太郎は?」
「紅茶」
「了解。砂糖は二本までな」
「……分かった」
正太郎、と呼ばれた彼の名字は同前。同前正太郎。前髪で目がほとんど隠れている、不健康そうな青白さを持つ背の高い少年だ。君に言われたとおりシュガースティックは二本に留めて紅茶を混ぜている。初めてここで朝食を取った日、君が目を離している隙に彼がココアにシロップをドバドバと躊躇うことなく入れていたのを思いだし、私はブラックコーヒーをすすった。
パンにバターを塗っていると、キッチンから出てきた君が隣に座った。
「月子さん今日来ないって」
私からバターナイフを受け取って、パンにバターを塗りながら君はひとり言のようにそう言った。彼はあくびを噛み殺しながら、君からバターナイフを受け取る。
「どこに行くかは言ってたか?」
「隣町の水族館。鮫見に行くんだってさ。晩は寿司買ってくるって言ってた」
「水族館に行った後寿司…」
「月子さんらしいよな」
月子さんというのは同前の祖母でありこの店の店主である人のことだ。彼女のことを一言で表すならば「謎」だろう。作家だと聞いたことがあるが、それ以外はよく分かっていない。どこに住んでいるか、どうしてこの店を開いたのか、孫である彼ですら知らないらしい。
この店の定休日は水曜日と日曜日だが、月子さんの気分や都合次第で水曜日にも開店していたり、月曜日に休みになったりしている。学校に通わず店の二階に住み込みでここで働いている君は、早朝に今日は店があるかどうかをメールで聞くというのが日課らしい。今日はドアに「CLAUSE」と書かれた看板がぶら下がるだろう。月子さんのケーキが今日は食べられないことを残念に思った。
「おいしい」
「ほんとか!そのオムレツ、昨日、月子さんに作り方教わったんだ。うまくできてて良かった」
オムレツだけじゃなくこの皿の上のもの全てという意味だったが、君が喜んでいるからよしとしよう。
三人のプレートから食べ物が消えていく。食事とは他の命を奪い自分を生かす行為で、それ以外には何の意味もないのだと思っていた以前の私が今の私を見たらきっと驚くだろう。料理上手な君が作っているからというのも勿論あるが、君の隣で食べるものは何もかもがおいしくって、食事に幸福を見いだせる。君の隣なら、たとえ得体の知れない肉塊でも私は喜んで食べることができる。
「今日は抹茶ケーキの作り方を教えてもらうつもりだったんだけど…。急に暇になっちゃったなあ。正太郎、また教科書とワーク借りても良いか?」
「どれでも好きに使えばい。去年のは本棚の下の段ボールの中だ」
「ありがとう。同前の部屋の本棚といえば、俺教科書よりスケッチブックの方が多くて面白いからあの本棚見るの好きなんだ」
「全ページお前だ」
「そう聞くとなんかちょっと怖いな」
三人で、和やかな話をする。まだ重たかった私の頭は、この時間にゆっくりと覚醒していく。君は私と彼の空になったプレートとマグカップを見ると、席を立って、それらを回収してキッチンのシンクに置いた。
「洗うよ」
「いいよ、ありがとう。それより二人ともそろそろ学校じゃないか?」
時計を見ると、七時半。
まだ君を見ていたいが、君が言うとおりそろそろ学校に向かわなければいけない時間だった。朝食代を渡して、学生鞄を肩にかける。彼も同じように席を立って、すたすたと扉に向かっていく。
「あ、正太郎、弁当ちゃんと持ったか」
「持った。行ってくる」
「おう」
どういう経緯でそうなってるのか私は知らないが、彼と君は店の二階で二人で住んでいる。彼が君から弁当を受け取っているのはそのためだ。
この喫茶店はご近所さんや少ない常連さん以外はあまり訪れない。月子さんはその少人数のお客さんとの会話や静かな店内を楽しんでいるようで、店のことを積極的に宣伝しているようなところを見たことがない。でも君はそれが退屈らしく、お客さんがいないときはキッチンで月子さんに貰ったらしい大量のレシピ本を見ながら弁当に入れるものを黙々と作っているのだと聞いたことがある。だからか、いつも彼の弁当はとてもおいしそうだ。弁当を受け取る彼を羨ましく思う。
彼を見送った後で、荷物をまとめていた私に猫又くんは駆け寄った。君がこちらに向かってくるとき、私はいつも心臓を痛めている。この世でいちばん綺麗な光が私に近づいてきているのだ、仕方がないだろう。
君は何か言いたそうにしたが、私の手元に目をとめると口を噤んでしまった。どうしたのだろうかと目線を追うと、辞書と体育着で鞄の空きスペースが埋められてしまい、いつもは外に出していない昼食が入ったビニール袋がそこにはあった。
「…どうかした?」
努めて優しい声を出す。
「いつも蜂谷はコンビニで昼買ってるだろ?余計なお世話だとは思ったんだけど、気になってさ。蜂谷の分も弁当作ってみたんだ。でも、悪い、もう買った後だったな」
キッチンを見ると、赤い布で包まれた弁当箱らしきものが静かに存在を主張している。私は思わず君の肩を掴んだ。
「いる。欲しい」
鬼気迫る私の勢いに君は数回瞬きをした後で照れたように笑った。
「いくら払えば良い?今日の昼代はもう使ってしまったから、明日になるけれど」
「これは俺が趣味で作ってるんだ。口に合うかは分からないが受け取ってくれ」
「…分かった。ありがとう」
それ以上何も言わずに受け取った。対価のない幸福は少しだけ恐ろしいものだが、私は君の頼みを断るという選択肢を持っていなかった。それを知っている君は、申し訳なさそうな顔をした。
かくして赤い包みを手に入れた私には今、世界の全てが眩しく見えていた。元々君がいるだけで世界は美しく輝いているが、今はそれがより一層強く感じる。
扉に手をかけて振り返ると、君がひらりと手を振った。
「じゃあまた後でな、蜂谷」
君が口にすると、私を表す記号が何か特別なものに思えてくる。じんわりと心に暖かいものが広がって、君がこの灰色の世界でよりいっそう輝いていく。
「うん、猫又くん」
この世でいちばん綺麗な名前。猫又創助。それが君の名前だ。私は君に背を向けて、店を出た。
扉が閉まる、直前。
「ゴホッ、あ、うわ」
咳と、君の困惑したような声が聞こえた。私はすぐに店内に戻って背中を向けている君の手を掴んだ。
君の足元に、赤色が落ちている。
ぎょっとして床から視線をあげると、君の栗色の髪も健康的な肌色もなくなっていて、そこにはツルッとした白があった。パキパキと卵の殻が剥がれ落ちるような音を立てながら、君の体が白いヒーロースーツに包まれていく。見る見るうちに、君が消えて「すねこすりさん」が完成していく。ついには、掴んでいた手も白で包まれてしまった。
「メット、外して」
「…嫌だ」
君が嫌だというなら、私はそれ以上強くは言えない。私は手を引いて、キッチンの奥へと進む。「大丈夫だから」「学校遅れるぞ」他にも声をかけられたがそれら全てを無視して二階に上がる。
階段を上りきると、君は「ついて行くから、手、離してくれ」と言った。観念したようなその言い方に私は手を離したが、君はメットを外さなかった。それを不満に感じながら、君がついてきていることを確認しつつ短い廊下を通る。薄暗い廊下を挟む両方の壁に二つずつ扉がある。階段から見て、右手前が水回り、右奥が物置、左手前が彼の部屋で、右奥が君の部屋だ。廊下の突き当たりにも扉があり、店の裏の階段に出ることができる。
君は君の部屋に入ると、扉をほんの少しだけ開いて顔を覗かせた。メットは外れていて、君の綺麗な瞳がこちらを向いていた。口元を手で隠していることに、私は気づかないふりをする。
「寝て」
きっぱりと言い放つと、君はすごすご、という音が聞こえてきそうな様子で扉を閉める。少しだけさみしさを感じたが、私は時計を見て、小走りで階段へと向かった。
「行ってきます」
階段に片足を乗せたところで、私は呟く。君の部屋には届かないだろうと思った。するとすぐに、君の少しだけ高い少年の声が帰ってきた。
「行ってらっしゃい」
幸せが体中を駆け巡って、泣き出してしまいそうだった。
嫌いな教科はないが、好きな教科も特にない。怒鳴り散らす英語教師は苦手だが基本的にはどの教師も嫌いなわけではない。
唯一楽しみにしているのは、現代文教師の雑談だ。大学生ほどにも見える彼女は君のファンであり、時間が余れば君の話をしている。君が賞賛されているところを見るのはとても気分が良い。
今日は四限に現代文があった。時間が余ると、やはり彼女は君の話を始めた。一年ほど前、彼女はどうしても終わらせなければならない仕事のため遅くまで学校に残ってしまい、帰る際に悪夢に襲われかけたそうだ。その時君に助けられて、君のことが大好きになったのだと鼻息を荒くしながら彼女は語る。
彼女の話を心で頷きながら楽しんでいると、いつの間にか昼の授業は終わっていた。
待ちに待った昼休み、私は弁当を早く開けたくて、ノートや教科書を机に広げたまま席を立つ。すると近くから「ぎゃあっ」と悲鳴が聞こえた。
「びっくりしたあ…!」
二年生のスリッパを履いた少女が、私の背後で胸のあたりを押さえている。私が突然立ち上がったことに驚いたのだろう。
「あ、蜂谷先輩、私のことはいつも通り気にしないでくださいね!」
ああ、この子か。と、彼女が手に持っているカメラを見ながら思う。
人間というものは、どうも興味関心の無いものを覚えておくことが困難らしい。君と出会ってから、君と君に関する人物以外の価値を失ってしまった私は、人の顔や名前を覚えることができなくなった。クラスメートは皆輪郭がぼやけて、風景と一体になっている。不自由は特にないから、気にしてはいないけれど。
しかし、君と何の関係もないがこの目の前の彼女だけは覚えている。毎日昼休みになるとカメラを向けてくるような人物は珍しいにも程があるため、覚えざるを得なかったのだ。…覚えていると言っても、顔は他と同じくぼやけているためきっとすれ違ったとしても分からないし、声なんて聞いた側から忘れる。カメラを私に向ける物好きの少女という存在があることを覚えているだけだが、それでも私の中では珍しい少女だ。
「あ、そのサンドイッチ美味しいですよねえ。私好きです」
カメラのシャッター音が止んで、少女は私の机にかけられたビニール袋を指さした。
「…いる?」
少女は飛んだ。三十センチ以上飛んだ。
「ええっ!蜂谷先輩私のこと見えてたんですか!じゃなくて、もらって良いんですか!」
「弁当があるから」
なぜか涙を流している少女の横を通り過ぎて、私は教室を出た。勿論、赤い包みを持って。
体重を思いきりかけながら、力一杯扉を持ち上げ浮かせつつノブを捻ると、立ち入り禁止の屋上の扉は簡単に開く。そこには青空が広がっていた。快晴とまではいかないが、とても良い天気だ。風は肌寒いが、柔らかい日差しと混ざって心地良い。春がやって来たという感じがする。
アニメでよく見るような高さはない柵にもたれて、同前がスケッチブックを広げて座っている。私は一人分の間を空けて隣に座って、ぼんやりと遠くの景色を眺めた。
扉を壊したのは彼だ。鍵がなくても屋上に出れることを彼と私以外は誰も知らない。だからあり得ないが、もしここに事情を知らない人が訪れたら、無言で弁当に手もつけずじっと動かない私たちを気味悪がるだろう。君という繋がり以外何もない私と彼は、二人でいるとき、君以外の話題では話さない。必要が無いし、お互いに興味も無いからだ。
背後でトンと音がして、振り返ると、太陽を背にした白い仮面が柵の上から私を見下ろしていた。
「悪い、遅れた」
よいしょ、と君は私と彼の間に座る。喫茶同前が休みの日は、ここで昼食を三人で食べている。私が来る前から二人はここで昼食を食べていたらしい。私と君が出会って数日経った頃、昼食を持って屋上へ向かう彼を見かけて、気になり後を追った時に知ったことだ。「私も一緒に食べて良い?」という私の言葉に嬉しそうに何度も頷いた君の隣で、無表情を崩していないのにも関わらず皮膚が焼けそうな程の殺気を彼は放っていたが、今では許したのか諦めたのか命の危機を感じる瞬間は少なくなった。多少安堵している。彼のことに興味は無いが、殺意を向けられることは居心地の良いものではない。
「もう十五分過ぎてるんだから、二人とも先に食べてて良かったのに」
君がメットを外すと、ヒーロースーツが剥がれ落ち、君が手を離すと、メットも跡形もなく消えていった。
「君と食べたいから」
「嬉しいけど、それだともし俺が来なかったら昼食べ損ねるだろ」
「ここに来ないとき、何をしているの?」
「人助けとかだな。呼ばれたら放っておけない」
「頭に響くんだっけ」
「ああ。助けてすねこすりさん、って声が響くんだ。場所も何となく分かる。…昼間に俺を呼ぶ人の大半は悩み相談だから、俺が役に立てるかは分からないんだけどな」
「君は、悪夢以外のことで呼ばれて迷惑じゃないの?」
「…考えたこともなかった」
言われてみれば確かに、悩み相談は悪夢と違って俺じゃなくても良いよな。と感心したような顔をする。しかしそれでも、君はこれからも呼ばれたら飛んでいくのだろう。君はそういう人だ。
「俺も呼べば良いのか」
突然、低い声が空気を切り裂く。声の主である彼は、突然君の両肩を掴んだ。長い前髪から見え隠れしている瞳がぞっとするほど冷たい色に光っている。
「俺も呼べば、お前はここに留まるのか」
「正太郎?どうしたんだ?なんか…怒ってないか?」
彼は君に腕を捕まれると、はっとして肩から手を離し、何事もなかったかのように弁当の包みを広げ始めた。君はそれに言及することもなく、持ってきていた白いリュックから弁当を取り出す。私は君が何も言わないなら気にしなくても良いかと同じように弁当を広げた。
甘辛く味付けされたアスパラの肉巻き、プチトマト、春雨のサラダ、卵焼き。包みから落ちてきた小さな袋はふりかけだ。カラフルなヒーローがプリントされたそれは、日曜日に必ずヒーロー番組を見ている君が選んだもので間違いないだろう。君が作った弁当を私は受け取ったのだという実感が一層強く感じられて、誰かに自慢したくなる。同前に自慢するように弁当を見せると、対抗するように弁当を見せてきた。2人とも中身は同じなのに何をしているんだろうと自分でも思う。君はそんな私と彼を不思議そうに見ていた。
「正太郎の本棚から古文のワーク借りたんだけど、結構いい点だった。この間2人に教えてもらったところが出てさ」
「…猫又くん、君、私が学校に行った後、ちゃんと寝た?」
「寝たぞ。そこまで深い傷じゃなかったから、案外早く回復しただけだ」
「血を吐いてたのに?」
聞くと、君が何か言う前に彼が音を立てて箸を置いた。
「血を吐いた?」
いつもより低く響いたその声に、君は苦笑いをする。
「あー…、あはは…。悪夢に腹を貫かれたときの怪我のせいだな。表面は綺麗だったから今朝血を吐くまでは治ったと思ってたんだよ。でも内臓がまだだったみたいで、蜂谷の前で血を吐いちゃったんだ。今はもう大丈夫だから。気にしないでくれ」
彼は無表情を崩さないため何を考えているかは分からないが、君をじっと見つめていた。私はその笑顔の中に嘘がないことをじっくり眺めた上で判断し「分かった」と返事して卵焼きを租借する。ふわりと甘さが広がった。母が小さな鞄に入れてくれた弁当の卵焼きは甘かっただろうか、と君に出会う前の記憶を探ってみるが、そのどれもが何か分からないほどさび付いていて、思い出すことはできなかった。
「昼を食べ終わったら、君は何をするの?」
「友達に会いに行こうかな」
「誰?」
「小学生くらいの男の子だよ。最近知り合ったんだ。体が弱いらしくて、あんまり学校に行けなくて退屈だって言ってたから、時々会いに行く約束をしたんだ。毎週ヒーローの番組見てるのはその子の影響」
「その子とはどうやって出会ったの?」
「呼ばれた。助けてすねこすりさんって。親が出かけてて、家に一人だけで寂しかったらしい。まさか本当に来ると思ってなかったって泣いて謝られたんだけどな」
「でも今は友達なんだね」
「部屋にヒーローの変身グッズが飾られてたから、ヒーロー好きなのかって聞いたら泣き止んで、好きな必殺技を聞いてそれを再現したりして仲良くなった」
「君らしい」
「そうだ、蜂谷も会ってみるか?俺の友達に会ってみたいって言ってたから喜ばれると思う」
君に友達と呼ばれるのは幸せだが申し訳なさを感じる。君にとっての私は友達だが、私にとっての君はかみさまだ。友達なんてとんでもない。私は君の光を浴びて救われている信者だ。
「君はどうしたらいいと思う?」
私は君の意思で動きたい。
「俺は来てくれた方が嬉しい」
「じゃあ、行くよ」
「よし!決まりだな。後で地図送るからメール見てくれ」
「分かった」
私と君とで会話をして、昼休みがそろそろ終わりを告げようとしていた頃、黙りこくっていた彼は口を開いた。
「……悪い」
君の肩を掴んだ事への謝罪だろう。
「いいよ。慣れた」
君はさらっとそう返す。彼があんな風に感情的になることが慣れるほどあったのかと私は表情を崩さずに驚いた。
「…疲れてるのかもしれない」
「何かあったのか?」
彼は頷く。
「悪夢を見るんだ、毎日。結構、堪える」
「内容はいつも同じなのか?」
「ああ」
「どんな悪夢なんだ?」
「そうだな…怖くはないけど、最悪な気分になる」
「そうか…。何かできたら良いんだけど、さすがに夢の中には入れないからなあ…」
うんうんと唸る君に、彼は不器用な微笑みを浮かべた。口角が上がっただけで屈託のない君の笑顔とは天と地の差があるが、無表情よりは人間味がある。…風邪を引いてマスクでもしたら彼はいよいよ「無」になるのではないだろうか。君が黙ってしまったことで少しだけ温度を下げた空気に君が気づいて慌てて笑顔を作ってしまう前に、私は小声でそう君に言うと、君は爆発したような音を出しながら吹き出し、震えながら腹を抱えてしまった。君の笑いのツボが分からない。
無表情に戻った彼が、君が吹き出したときに君の手から飛び出した弁当箱を片手でキャッチし、私を一瞥して「無にはならないだろ」と言いながら君の弁当箱を床に置いた。聞かれていたようだ。
「そうだ、さっきの話なんだけど、同前も行くか?」
「……ああ、うん」
彼が悩むそぶりを見せたのが意外で驚いた。君の行動を随一確認したがるような彼は当然即答すると思っていたのだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。君はすぐに立ち上がって、三人分の空の弁当箱をリュックサックに入れると、目を閉じた。その顔はメットに包まれていき、この町のヒーローが作り上げられていく。神聖な光景だといつも思う。天使が羽を広げる瞬間を目の当たりにしたようだ。
「また後でな」
「うん」
君は柵を軽々と飛び越えて、向こう側へと落ちていった。いつの間にか雲はどこかへ消えて、空には青がどこまでも続いていた。君は雲すら散らして晴天を連れて町を明るく照らす力を持っている。少なくとも私の世界ではそうだ。君の隣にいることが許された私は、間違いなく世界でいちばん幸せだ。
放課後になると、私は掃除を早々に切り上げてチャイムが鳴るのと同時に自転車で校門を抜け、六限目の間に携帯電話が受け取ったメールに添付されていた地図の場所へと急ぐ。
息を切らしながら踏み込んだ学校近くのスーパーマーケットの裏側、従業員用の駐車場で、君は野良猫と戯れていた。野良猫になりたいと思った。
「蜂谷!見てくれ、こいつすごく可愛い」
人懐こく擦り寄る三毛猫の頭を撫でながら、君はメットで覆われていないとびきりの笑顔を見せる。
「懐かれてるね」
「ふふん、良いだろ?」
「うん。羨ましいよ、猫が」
「猫が?」
突然、咽を鳴らして君の腕に収まっていたその猫が、悲鳴のような声をあげて一目散に逃げ出していった。私のせいだろうかと慌てて君を見ると、君は私の居ない方へ顔を向けていた。
「あはは、また逃げられてる」
「…何もしてないんだが」
「他はそうでもないのに、なぜかいつも猫には逃げられてるよな」
「呪いだ」
「そんな馬鹿な」
君の隣に、いつの間にか同前が立っていた。彼は相変わらずの無表情を保っている。
「ここから近いんだ。行く前に、お面被ってくれるか」
君は白いリュックからお面を2枚取り出して、私と彼それぞれに1枚ずつ渡す。彼が狼で、私が狐。これを私は数回被ったことがある。すねこすりとして行動する君の隣にいる時は、私と同前は仮面を被る。私と彼を経由して君の正体が暴かれてしまわないようにするための物だ。3人並ぶとサーカスの宣伝でもしに来たかのような滑稽な見た目になるが、君の隣に特別に居られる喜びが少しの羞恥を上回っている。
「ところで、その少年の名前を教えてほしいな」
面を被り終えて、私はそう聞いた。
「そうだ、忘れてた。ツカサだよ。苗字は…聞いたことないな。表札も見たことないや。まあいいか。ツカサは大人しくて人見知りするけど、慣れたらよく笑うやつなんだ。2人が来ることは昼飯後に伝えといたから、きっと今頃そわそわしながら待ってると思う」
行こうか、とすねこすりに姿を変えた君が歩き始める。RPGのように、私と同前は1列になってその後ろを歩いた。
スーパーマーケットから徒歩五分のところにある住宅街、海は見えない殺風景な場所の、落ち着いたダークブラウンの家の前で私たちは足を止める。
君はお邪魔しますと呟いてから駐車場を抜けて、花壇に白い花が咲いた小さな庭に回り込み、二階の開いた窓に手を振った。
「おーい、ツカサ〜!友達連れてきたぞ!」
窓から、ひょこりと頭が飛び出す。
短く切られた髪がぴょこぴょこと跳ねた幼い少年は、君を見るなり嬉しそうに破顔して、手を振り返す。君は上機嫌に壁に手をかけた。
「すねこすり、待て。俺は登れない」
確かにそうだ。君にとっては日常かもしれないが、私と彼には壁をすいすいと登れるような力はない。
「そうだった!どうしよう…」
すっかり失念していた様子の君は壁から手を離し、ストンと軽い音と共に地面に戻る。
「今日は調子がいいから庭くらいなら出れるよ、ちょっと待ってて!」
ツカサ少年はそう言って窓から消えると、トタトタと可愛らしい足音を立てながら庭に出てきた。そして君を見て嬉しそうに笑い、私と同前を見上げ、君の背中に隠れる。
「ツカサ、この2人がいつも言ってる友達だ。挨拶できるか?」
君に促され、少年はおずおずと君の後ろから出てくる。微笑ましいな、と思った。
「ツカサです、初めまして」
少し上ずっているが、はっきりとした挨拶だ。私は彼と目線を合わせて、なるべく広角を上げる。
「初めまして。私は…ええと…。…狐。狐って呼んで」
面を被った状態での自己紹介は初めてで、危うく本名を言うところだった。狐面だから狐。これ以上ないほど安直な名前だが、まあ、名前なんてどうでも良いだろう。少年は安心したように微笑む。
「…狼」
彼はそれだけ言うと黙り込んでしまった。その寡黙さと無愛想さは小学生にも向けられるのだなとほんの少しだけ感心してしまうような冷たさだ。さっきまで微笑んでいた少年の顔が真っ青になっている。君も予想外だったらしく、「ごめんな、こいつも人見知りなんだ」と彼のフォローを始めた。私は彼を睨んだが、お面越しでは伝わらなかった。
「どうぜ、違う、狼!怖がっちゃっただろ!」
「悪気は無いんだ。さっきから吐き気が酷くて。風邪かもしれない。悪い。…先に帰る」
「えっ…そうだったのか。1人で帰れるか?お前1人くらい担いで帰れるけど」
「いやいい」
そのまま彼は帰って行った。少年はポカンとしながらそれを見送っている。
「狼さん、具合悪かったの?」
「そうみたいだ。ごめんな、怖かったな」
「ううん。狼さん、お薬いるかな。持ってきてあげようかな」
「君が飲んでるやつか?それは駄目だぞ。君が飲まなきゃ意味が無い。でもありがとな」
少年はまだ心配そうな顔だったが、分かった、と頷いた。心優しい子なのだろう。
「よし、気を取り直して。ツカサ、今日はなにして遊ぼうか?」
少年はぱっと表情を明るくして、何をしたいかを考え始めた。あれもしたいこれもしたい、でもこれはできない。少年の口からたくさんの言葉が溢れている。君はそれをニコニコしながら見守っている。
「…いつもは、2人で何してるの?」
努めて優しく聞くと、えっとね、と話初める。恥ずかしいのかこちらは向いてくれなかった。
「外にはあんまり出ちゃいけないから、トランプとか…。あとは宿題教えてもらったり、一緒にヒーロー番組見たりしてる…ます」
「楽な話し方でいいよ。気にしないで」
「背中に乗せてもらって、屋根の上をぴょんぴょん飛び回ったこともある。僕、あれ大好き」
「楽しそうだね」
「うん!でもその後はしゃぎすぎて吐いちゃって、しばらくすねこすりさんを呼ぶの禁止にされちゃった」
「今親はどこに?」
「仕事でいないよ」
警戒心を徐々に解いていく少年は、それに合わせて君の背中から出てきた。面白いな、とそれを見ていると君が突然少年を抱き上げる。
「会話に混ぜてくれ!寂しい!」
「ぎゃーっ!苦しい!」
きゃいきゃいとはしゃぎ始めた彼らに、いつか下校中に見た子猫二匹の戯れを思い出す。思わずふふ、と笑うと少年が恥ずかしそうに君の腕から抜け出した。君は残念そうで、笑わなければよかったと思った。
「2人は、いつも何して遊んでるの?」
遊びたいことが絞れないのだろう。私と君は顔を見合わせた。どちらも仮面に顔は覆われているけれど、目があった感覚があった。
「…いっしょにご飯食べたり、今日あったことを話したり」
「遊んでるかと言われたら微妙だけど、俺は狼と狐に勉強教えてもらったりしてるな。あとは…、3人で昼寝したりとかか?」
少年はぱちぱちと目を瞬かせ、不思議そうな顔をした。
「僕、あんまり外に出られないから知らないんだけど、友達と遊ぶのって、どこかに出かけたり公園に行ったりするんじゃないの?この間見たアニメではそうだったんだけど…」
別にそれが全てではないと思うが、私と君の「遊ぶ」は少年の「遊ぶ」のイメージから外れていたようだ。
「そういえば俺たち、ほぼ毎日一緒にいるから3人でどこかに行こうとか考えたことないな」
「そうだね」
君が隣にいるだけで幸福を感じている私には、今が満たされすぎていて君と遊びに行く為だけに出かけるという考えすらなかった。
「狐さんと狼さんはすねこすりさんと毎日一緒にいるの?」
そう聞く少年の顔には羨ましいとはっきり浮かび上がっている。そうだろう、私も少年の立場ならそんな顔をする。同情していると、一台の車が車庫に入ってきた。
「あ、母さん帰ってきた」
残念そうな顔をする。
「早く部屋に戻らなくちゃ。今日はまだ体調が良い方だけど、外に勝手に出てたら怒られそう」
「俺が二階まで届けようか?」
「ほんと?!」
少年は元気よく君が広げた腕の中に収まる。そして君はしっかりと少年を抱えると、勢いよく飛び上がり、二階の窓枠に着地して少年を室内に下ろした。
「じゃあまたな!」
「うん!狐さんも、ばいばい」
手を振る少年に私も手を振り返す。短い時間だったが非常に和んだ。
「人1人抱えてジャンプできるなんてすごいね」
ただの感想だった。他意はなかったのだ。
「蜂谷ももちろん運べるぞ!」
君は嬉々として、先ほどと同じように両腕を広げた。私は、思わずその両腕に収まってしまった。
ぐらぐらする。内臓がミキサーにでもかけられたようだ。見ている分には楽しそうだが、実際はそうではなかった。
月子さんにおつかいを頼まれた物と夕食の食材を買うために、君は私を抱えたまま、再び学校近くのスーパーに着地した。重力を感じて、ぶわりと汗が吹き出る。
「やっぱ誰かと一緒だとなんでも楽しいなあ。帰りもするか?」
眩しい笑顔でいう君に、私は微笑んで、君の言葉に初めて首を横に振った。
「二人とも、午後出かけないか?」
「今日は店があるだろ」
「いや、水族館気に入っちゃったみたいで、また行くらしい。ここ最近ずっと店が休みなのは月子さんが水族館に入り浸ってるからだぞ」
受験生になって、休日が潰れることが多くなった。テストで午前中が潰れる予定の土曜日朝、君はハムとチーズのホットサンドを頬張る。
「買い出し?」
聞くと、君は首を横に振る。買い出し以外で出かけようと言われたのは初めてだ。休日は大抵、君がいつ呼び出されてもいいようにどこかへ出かけて遊ぶようなことをあまりしない。喫茶同前で課題をしたりテレビを見たり、君のすねこすりとして出会った人々の話を聞いたり、ボードゲームをしてみたり、君を挟んで川の字になり三人で昼寝したりと、穏やかに過ごしている。
「珍しい。いいけど、どうしたの?」
「昨日、ツカサに言われてそういえば友達っぽい事してないなと思って。呼ばれたらすぐに行けるように遠出は出来ないけどな。正太郎はどうする?」
空になったプレートを洗いながら、彼は君の言葉に「行く」と短く返事した。
「どこに行くかは決めているの?」
「実は何も決めてないんだ」
「どこでもいいよ、君がいればそれで」
「天文博物館とかどうだ?中央の山登ったらあるやつ。プラネタリウムがあるって聞いたことある」
「うん。いいね、行こう」
「決まりだな、いったん帰って昼飯食べてから行くか?それとも、俺が弁当もって高校まで行こうか」
「君が楽な方で」
「うーん…。あ、そうだ」
君は何か思いついたようにぱっと顔を上げて、いたずらっ子のような笑顔を見せる。私の心臓が跳ねた。
「俺が高校まで行く方で。いいか?」
「う、うん」
いつの間にかスケッチブックを開いて君を描いている彼は君の思いつきが何か分かったらしく「ああ…」と納得したような声をもらした。そして彼は「行ってくる」と言い残して店から出て行く。君は「行ってらっしゃい」と快活な笑顔でそれを見送った。
私はそれを横目に皿を洗って、私は鞄を背負っていつものように扉に手をかける。
「また後で」
「テスト頑張ってな」
「ありがとう」
外は曇りだったが、気分が陰ることはない。やってくる午後を楽しみに、まだ桜がちらほらと残っている町で深呼吸して、私は高校へと自転車を走らせた。
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試験中に誰かの携帯電話が鳴ったり、教師が時間を誤ったりと細々とした支障はあったが、特に何事もなく回答欄を埋めることが出来た。私は終礼と同時に席を立ち、廊下に出る。するとそこに同前が立っていて、ついてこいと言うように歩き始めた。
「何?」
「…」
無言のまま連れてこられたのは図書室だった。最近来た気がするが、思い出せなくて諦める。彼に続いて図書室に入ると、隅の方に置かれた椅子に座って本を読んでいる生徒がいた。栗色の髪に、幼さが抜けない顔立ちの少年は、どう見ても制服を着た君だった。
「お!お疲れ。見てくれよこれ。同前の制服借りたんだ。似合うか?」
私と彼に気づいて上機嫌そうに立ち上がり一回転してみせる君を、私は瞬きせず瞳に焼き付ける。
「誰よりも似合うよ」
「ありがとう!へへへ、放課後に友達と寄り道って何だかわくわくしないか?ちょっと夢だったんだよな」
写真を撮らせて欲しいと頼むと、君は照れながらも了承してくれた。数枚撮って確認しようと写真フォルダを開く。
「俺しかいないな」
君は私の携帯電話を覗き込む。
「君以外、撮る意味が無いから」
「そうなのか?」
「私の中ではそうだよ」
図書室を出て、三人並んで校門を出る。もう少し学校にいる君を見ていたかったが、意気揚々と歩みを進める君を引き留めることなど私には出来なかった。
「正太郎、今日は体調大丈夫か?」
「一晩寝たら良くなった」
「良かった」
私たちは学校近くのスーパーマーケット前のバス停で十数分待ってバスに乗る。席の順は私、君、彼で縦に並んだ。君を真ん中にしなければいけないという決まりを作ったわけではないが、いつも自然とこうなるのだ。「これ俺が押していいか?」と「とまります」と書かれたボタンに指を乗せる君に和みながら、心地よいバスの揺れに身を任せていた。
「お前はバス乗らないよな」
「走った方が速いからなあ。自転車通学だし、正太郎もあんまり乗らないだろ?」
「そうだな」
山の麓でバスは止まる。天文博物館はこの山の頂上にあるらしい。君が「登るぞ~!」と楽しそうに片手を突き上げた。私は同じポーズをとる。私と君に見つめられて、彼は数秒遅れて片手を空に突き上げた。
歩き始めて二十分程度経った頃、スニーカーを履いてきたら良かったと速度を緩めながら少し後悔していると、君が私の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「ローファーだったこと忘れてた、悪い。乗るか?」
足の皮がズルズルになるのは嫌だから、という免罪符を握りしめて、私はその申し出に首を縦に振る。見た目に反した身体能力を持つ君は、君と同じくらいかそれより上の身長の私を乗せてひょいと立ち上がった。
「あ、正太郎疲れてないか?二人くらいなら余裕だぞ。どっちも米俵みたいな運び方になると思うけど」
「…遠慮しておく。俺は歩ける」
そんな会話をしながら到着した天文博物館に入ると、受付の老人が私たちに「いらっしゃい」と微笑んだ。入場券を高校生料金で買って、プラネタリウムへと進む。藍色に染められたプラネタリウムの入り口に、本日の上映時間と書かれた紙が貼り付けられていた。
「まだ一時間あるね」
「昼持ってきたからそろそろ食べないか?」
君から赤い包みを受け取って中身を取り出した。今日は生ハムとレタス、ゆで卵に甘酸っぱいソースがかけられた具材を挟んだ、食べやすいサイズに切られたフランスパンと、デザートの苺だ。三人で飲食可能の休憩スペースでそれを食べる。
「君が作る物はどれも美味しいね」
「ありがとう。ふふん、喫茶同前住み込みアルバイト歴三年は伊達じゃないぞ」
食べる量があまり変わらない私たちは、三人ほとんど同時に食べ終わって、三人で手を合わせた。
時計を見ると、まだ数十分の余裕がある。三人で人工衛生の模型や宇宙で活躍する機器のレプリカなどが展示されているスペースへと移動して、各々興味を引かれる物を見た。
星や宇宙にそれほど関心が無い私は君について行くことにした。君は一通りこの部屋の展示物を見終えて、別の部屋へと移動していく。私はそれを追いかけたが、途中で足が止まった。同前が「星の一生」というパネルを、じっと眺めていた。
その姿が、何故だか可哀想だと思った。いつもの無口無表情からは考えられないほどの悲哀を、彼は全身に纏っている。話しかけてはいけない気がして、私は足を再び動かしてそっと部屋を後にした。
プラネタリウムが開始される五分前に集合した私たちは、やはり君を挟んで座席に座る。三人以外には誰も居なかった。独特な落ち着きをもたらす薄暗さに小さなあくびをかみ殺すと、隣から「はふ」と微かなあくびが聞こえた。
「前半は星座の紹介、後半は星の一生についての映像をご覧いただきます」
アナウンスがそう言ってから自己紹介を終えると、気が遠くなるような年月を重ねた光が作る夜空の物語を語り始めた。
「北斗七星の柄を伸ばして、弓のようなカーブを描きます」
「カーブの中に、一等星が二つあるのが分かりますか」
「上のオレンジ色がアルクトゥルス。下の白色がスピカ」
「その白くまばゆい輝きから、日本では真珠星と呼ばれています」
星座の話が一通り終わると、星の誕生と死が大きなスクリーンに映し出されて私たちを飲み込む。耳障りにならない程度の音量で壮大に語られるそれらをぼんやりと見ていると、体が宙に浮くような気がした。星だけが美しく見える暗闇に放り出されたみたいだ。
私の一生が塵にもなれない壮大な世界を短くまとめた映像を私が見ているというのは妙なものだと思う。でもその違和感が、プラネタリウムの醍醐味なのかもしれない。星にあまり関心を寄せたことのない私でも星が好きになれるような空間だ。君のおかげで軽傷で済んだが、足の皮を犠牲にした甲斐が十二分にある場所だ。
やがてエンドロールが流れて、プラネタリウム全体がオレンジ色の柔らかい光に変化する。
「綺麗だったな!」
君は先ほどまで見ていた星々に負けないくらいの輝きを瞳に乗せて、スキップするような勢いで扉から出る。
「私もそう思う」
同前は無言で頷き肯定している。
「…悪い、呼ばれたから行ってくる」
君は白に包まれながらそう言った。
「プラネタリウム見てる間に呼ばれなくてよかったな」
「そうだけど…、蜂谷、足大丈夫か?二人抱えて下れるぞ?」
それは、あの内臓がスクランブルエッグになるような空中浮遊のことを言っているのだろうか。
「いや、いい。早く行ってあげて」
意識して笑顔を作ると、君は首を傾げながらも「分かった。正太郎は?」と聞く。彼もすぐに首を横に振った。彼もスクランブルエッグになったことがあるようだった。
バス停に着いた頃には、日が傾きかけていた。夕暮れに染まった雲を見て、星の誕生についての映像に出てきた写真たちを思い出す。あの色がついた湯気のように見えるものが私の遙か頭上に浮いている。
「…星の一生のパネル観たか」
「観た」
「どうだった」
「綺麗だと思ったよ」
「…そうか」
それで会話は終わりだ。
誕生、あまり好きではない言葉だった。何の書類だったかは忘れたが、誕生日を記入しているところを見られ、今日だったの?おめでとう!と言われたとき、あのクラスメートに悪気はなかったのに酷く渋い顔をして怖がらせてしまったことがある。それくらいには聞きたくない言葉だった。
しかし今は違う。今までの誕生日が紛い物であると理解したからだ。私の本当の誕生日は、きっと一年前。君に出会ったあの日、私は冷たい海と君の中から、蜂谷静音として生まれたのだ。
母はかわいいものが好きな人だ。マンションの一室、私の家は、二頭身のパステルカラーのぬいぐるみたちで溢れかえっている。母にとって、私もその一つでしかなかった。
幼い頃は私もぬいぐるみのように愛されていた。ふわふわとした愛らしい服を着て、母の膝の上で頭を撫でられ喜んでいた。幸せだったと思う、その時は。
しかし年齢が上がるにつれ母は私に興味を向けなくなった。
母が私を見なくなったのは、私が小学四年生の頃だった。授業参観の日、母は無邪気な笑顔で雑談を楽しむクラスメートに混じった、表情の作り方を忘れてしまった私を知って、私をかわいいものとして見れなくなったのだろう。母は、赤子のような、幼いかわいいを愛していた。
それからずっと私は母に見られていない。食費や学校で必要な費用、印鑑や本人のサインが必要な書類があったときや、どうしても欲しいものがあるときは紙に書いてリビングの机に置いておく。するとそれらのためのお金が紙袋に入れられて、私がそうするのと同じようにリビングの机の上に置かれていた。母と私の繋がりはもはやそれだけだった。
私の世界からは少しずつ色が抜け落ちていった。友人もそれなりにいたが、それを上回ってしまった心のどこかの薄暗さが、視界に写るもの全てを乾かせていった。
去年の夏。
私は海のすぐ側にある駅前のベンチに座って、学校も行かずにぼんやりと空を眺めていた。
死のう、と思ったのだ。
きっかけは些細なことで、ただリビングで鉢合わせた母に、視線を逸らされた、それだけだった。それだけなのに、私は「ああ、今日死のう」と思った。今まで心に蓄積されてきた黒いものが溢れ出てしまった。
時々やってくる電車から降りてくる人たちに顔はなかった。人は心の底から興味を失えば、何も見えなくなるらしい。
動いていないのに汗は勝手に顎から滴り落ちて、地面に小さな模様を作っている。
気がつけば辺りは薄暗くなっていて、私は立ち上がり、海へと歩き出した。軽い脱水を起こしているのか、体が重くて意識がぼんやりとしていた。
2年前にこの町で暴れ始めた悪夢たちに食べられるのもいいとは思ったが、すねこすりというよくわからないヒーローに邪魔されるかもしれない。それは嫌だった。
制服のままで、靴も脱がずに海へとまっすぐ歩いて行く。どんどんと海水に浸かっていって、足を滑らせ、私は仰向けに転倒した。スカートが重くなって、ゆっくりと沈んでいく。私は目を閉じて、母の顔を思い浮かべようとしたが、最後に記憶に残っているのは、今朝一瞬だけ見えたそれで、残念な気持ちになった。
それももう終わりなのだ。だんだんと苦しくなっていく。意識が朦朧としてきて、我慢できずに手足をばたつかせたが、じんわりと感覚が抜けていった。
さよなら母さん、水中でそう呟いた時、私の手を強い力が引っ張って、私は海面へと上がっていく。
かみさまの類いは信じていないが、これはいわゆるお迎えなのだろうかと、そう思って私は全身の力を抜いた。このまま連れて行ってもらおうと思った。その先がどこであろうと。
「なあ、おい、死んでるのか…?」
降り注いだその声は可哀想なくらいに震えていた。
砂浜まで引き上げられた私は息を吹き返すように、大きく息を吸い込んだ。海水が体のおかしな所に入り込んで、痛くて仕方がなかった。
「救急車呼ばないと、げっ、充電切れてる。どうしよう、住宅街に電話借りに…。いやでもここに置いていっていいのか?落ち着け、俺しか今ここにいないんだ」
お迎えではないことにようやく気がついた私は、ついてないな、と目を開く。
美しい白色があった。
白い服を着ていたわけではないし、羽が生えているわけでもなかったが、私はその人を白いと思った。
「綺麗」
微かな声で思わずそう零すと、その人は戸惑ったような顔をしてから、「ありがとう?」と首をかしげた。
「救急車は、いい。誰も呼ばないで」
「ええっ、でも…」
「じゃないと今すぐもう一度海に潜る」
「…分かったよ。で、こんな時間に、海で溺れるなんて一体何してたんだ?」
それに応えようとして、私は酷く咳き込んだ。涙が滲む。濡れた顔では分からないが。
「海水浴」
「制服のまま?」
「…」
「…立てるか?」
支えられながら海岸を歩いて、休憩、と堤防に並んで座った。この少年が去った後で、もう一度海底を目指そうとそう心の中で呟いた。こんなに綺麗な人を私は初めて見たのだ。最後の景色として最高ではないか。
「これ、飲んでくれ。さっき買ったばっかりだから、まだ冷たいと思う」
目の前にペットボトルが差し出される。スポーツ飲料水だ。私は少し迷ってから、受け取った。
「何があったかとか、聞いてもいいか?」
私の機嫌を伺うような声色で彼は言った。
最後くらい、何を言っても許されたいと私は母と私の奇妙な距離の話をした。
一度も口を挟むことなく口べたな私の拙い話を聞いていた少年は、私の話が終わった後、少しの間海の向こうを見て、それから私に向き直った。
「母さんにどうしてほしかったんだ?」
聞かれて、私は考えた。頭に浮かぶのは母に抱きかかえられて頭を撫でられるウサギのぬいぐるみ。
「撫でてほしかったのかもしれない」
あの愛しさを乗せた視線が私に向いていたらどうだろう、と思う。きっと擽ったくて、幸せな気分になるんじゃないか。幸せがどういう感情なのか私にはよく分からないけれど、きっとそうに違いない。
「こんな感じか」
ぽす、と間抜けな音を立てて、私の頭の上に暖かい塊が置かれた。それが手だと理解するのに、五秒はかかってしまった。
全身に電流が走ったようだった。
隣の少年、君が、かみさまに見えた。
自分の小さな世界の中心が、母から君へと塗り替えられていく。
固まった私を見て、君は慌てて手を離そうとする。私はそれを捕まえて、もう一度私の頭に乗せた。
「このまま」
「気持ち悪くないか?」
頷くと、君は慎重な面持ちで手の動きを再開した。
私の気が済んだのはそれから随分後で、辺りは夜の闇に沈んでいた。海水に濡れた体が冷たかったが、そんなことはどうでも良かった。
「君の名前を教えて欲しい」
「名前?猫又創助。動物の猫に、又聞きの又。創るの創に、助けるの助」
猫又創助、猫又創助、と何度も君の名前を口の中で転がして、飲み込んだ。
「名前、俺も聞いて良いか?」
「蜂谷静音。猫又くん、私の生きる意味になってほしい。君を中心にした世界なら、きっと私は大丈夫だから」
私は立ち上がって、海のない方へ堤防から飛び降りる。そして君の手を取って、祈るように握った。
「よく分からないけど、分かった。それで蜂谷が救われるなら」
君は手を握り返して、きっぱりと言い放った。その潔さに面食らって、途端に君のそのまっすぐさが心配になった。
「自分で言っといてなんだけど、安請け合い過ぎないかな。私の話したこと全部嘘だったらどうするの」
「嘘なのか?」
「嘘じゃないけど」
「じゃあ何も問題ない。それに、万一嘘でも、海に制服のまま沈むくらいの事情があったんだろ?」
「まあ、そうだね」
堤防から降りてふらつく私を支える君の体に、沢山の傷があることに気がついて、私はそれを指差す。
「私より、君は自分の心配した方がいいんじゃないの」
「ああ、これは一晩寝たら治るんだ」
「さすがに無理だと思うけど」
「俺も不思議で仕方ないよ」
その時、町から獣のような声が響いた。悪夢だ。あまり部屋の外に出ない私はその姿を見たことはないが、大半が凶悪な見た目をしていて、行動もその見た目に見合ったものだと聞いたことがある。逃げなければ、せっかく君に会えたのに、もう終わりなんて早すぎる。
「うわあ、まだ寝るにはまだ早くないか?昼寝か居眠りかな…。ちょっと待っててくれ」
どういうこと、と聞こうとして、私は絶句した。君が隣にいなかった。代わりに、すねこすり、いやすねこすりさんがいた。悪魔と同様その姿を見たことはなかったが、私は君がすねこすりさんであると理解した。
「あっ、すねこすりは正体不明だから俺のこと内緒な!」
君はそう言って、悪夢の声の方へと走って行った。
これが、君と私が出会った日のことだ。その後君に喫茶同前へと案内され、同前には邪険にされつつも月子さんに迎え入れられて、今のこの関係になっている。幸せだ、君と出会ったあの日からずっと、世界が白く光っている。このまま、一生いられたら、どんなにいいだろう。
喫茶同前で課題を済ませながら君を待ったが、その日、君は帰ってこなかった。君は人助けに奔走して帰りが遅い日が時々ある。だから私は特に気にせず家に帰った。呑気に明日はどんな話をしようかと考えながら。
夜空に響いたはずのその絶叫は、私の耳には届かなかった。
楽しかった土曜日を越えてしまった日曜日。いつものように朝を迎えて、私は平日と同じ時間に喫茶同前の扉を開く。今日も午前中はテストだ。
「おはよう」
店内は静かだ。カウンター席に同前はいないし、いつもふわりと香るコーヒーの匂いも、穏やかなBGMもない。
こんな日は初めてじゃない。記憶が正しければ今回で4回目だが、この全身の血の気が引いていくような無音には慣れそうにない。
君の太陽のような眩しさがどこにも見当たらない店内で、私は学校に「体調が悪いので休む」と連絡を入れた。私は学校で真面目な部類に入るため、仮病を疑われることもなくすんなりと了承された。
しばらくして、二階から重い足音が下りてくる。同前はキッチンの奥からするりと出てくると、私を一瞥して、黒い袋を投げて寄越した。中には狐面が入っている。
「猫又が帰ってこない」
狼の面を被りながら、彼が言う。制服は着ていない。学校に連絡を入れた後なのだろう。
「携帯電話は」
返すと、頭を振る。
「繋がらない。壊れてるか、電源を入れてないかだ」
「手分けしよう」
「蜂谷は海沿いを頼む」
「分かった」
短い会話を終わらせて、狼と狐は店を飛び出す。私は彼に言われたとおり曇り空の下、海沿いを自転車で走る。朝の町は静かだ。君の声が聞こえないかと耳を澄ますが、聞こえてくるのは波の音だけだった。
花開いたばかりの桜が風に吹かれて雨のように散っている。君と1年前に出会ったのもこんなふうにどんよりとした春だったことを思い出し、唇を強く噛んだ。
自転車を路肩に停めて、堤防に登り、辺りを見渡すが、特に変わった様子はない。携帯電話の画面は暗く、同前からの連絡も君からの連絡もまだない。私は再び自転車に乗って、堤防の終わりを目指した。堤防の終わりには白く塗られた駅がある。もう使われていないそれは、普段は近所の子どもたちの遊び場になっているが、早朝である今は誰もいなかった。
海沿いには居ないと判断し、私は来た道を戻ろうとペダルに足をかけた。
「ヒュ、ゔっ、ゲホッ、おぇっ…」
微かに、誰かのうめき声と咳が聞こえた。声は駅の中からしている。私は慌てて自転車をその場に倒して、駅のホームへと駆け込んだ。
広くはないホームの白いベンチに、君はぐったりと横たわっていた。全身ずぶ濡れで、黒い服を着ているので分かりにくいがその腹からはだくだくと血が流れている。
「猫又くん」
呼びかけると、君は弱々しい瞳で私を見上げた。
「は…ぁ、」
私の名前すら呼べずに君は腹を抑えて悶絶する。正体を隠している君に救急車は呼べないし、私では君を運べない。持ち上げることはきっとできるが、安定しないだろう。私は君のすぐ側に座って、同前に君を見つけたとメールを送る。こういう時の私の役目は、君を見つけたら同然に報告するというものだ。それ以外に、何もできない。
すぐにこちらに向かうと返事が返ってきて、私は君に着ていたパーカーを布団のようにそっとかけた。ないよりはマシなはずだ。
君は時々、こんな風に大怪我を負って自力では帰って来られない時がある。外での浅い眠りでは完治できない深すぎる傷を君が負ってしまったとき、私と同前は君を探しに行く。放っておいても君が死ぬことはまずないが、喫茶同前の裏で道端で血を流して意識を失っている君を大型の野良犬が囲っていたところを見た日からずっとそうしているのだと彼は言っていた。
同前がこちらに向かっていることを君に伝えると、君はその瞳に安堵の色を浮かべる。苦しそうに短く息をしながら、君は目を閉じる。しかしすぐに呻きながら目を開いて、私に縋るような目を向けた。
「…眠れないの?」
聞くと、君は頷く。眠ろうとする度に痛みに目を覚ましてしまうようだ。君が目の前で苦しんでいるのに何もできない自分に嫌気がさす。
「いたい…」
君は腹の傷を抑えながらとうとう泣き出してしまった。こんな風に泣いている君を見るのは初めてで、私はいよいよパニックになってその場に固まってしまった。死なないと知っているのに、いや、正しく言えば死んでもすぐに息を吹き返すと知っているのに、何度もその瞬間を見てきたのに、君が死んでしまうと思った。君の死体を初めて見た時もその日は何も口にできなかったほど衝撃的だったが、死にゆく君を見るのはそれ以上に恐ろしい。一年前に出会った私は君の死顔を三回見ている。三回とも、同前が見つけて君の部屋に運ばれた後の君だった。血がついても目立たないようにと黒で染められた部屋のベッドに沈んだ君は異常に白くて、何か別の世界のものに見えた。しかし今死にかけている君はどうしたって生きている君で、息が上がっていく。体が震えて、意思とは関係なく涙が目に溜まっていく。
「…蜂谷」
蚊の鳴くような声だ。私ははっとして、君の傷から君の顔に視線を移す。君が感じている恐怖はきっと私の比ではない。
「ごめん…」
泣かないでほしい。時間をかけてそう言って、君は涙を目から垂れ流したまま私を安心させるように微笑む。腹に添えられたその他は傍目から見てもわかるほど震えているのに、君は。
君の体が体温を失っていく。息も弱くなって、目は虚に揺れた。死に向かっている君に、私はどうしたらいいのか分からず、ただずっと手を握っていた。この震えはどちらのものだろう。君の恐怖を少しでも和らげるために何をしたらいいだろう。
私の長くはない人生の中でいちばん、他人にされて安心したこと。一つだけ思い当たって、私は君に同じことをしようと右手だけ君の手から抜き取る。そしてその海水に濡れた栗色に乗せて、ゆっくりと撫でた。君の口角が少しだけ上がる。
「猫又くん」
思わず呼びかけたが、君の呼吸はそこで止まった。
「運ぶ」
だからそこを退けと無愛想な声が私の頬を叩いて現実に引き戻すように飛んできた。見上げると、狼の面が私を見下ろしていた。手には雑巾が握られている。いつの間にこんなに近くにいたのだろう。君に意識を向けすぎて全く気づかなかった。
「掃除頼む」
彼はそれだけ言うと、君を背負ってゆっくりと歩き始めた。私はそれを見送って、ベンチの血を彼から受け取った雑巾で拭いた。ベンチの裏にも血がついているかを確認しようと覗き込むと、ベンチの下に何か白いものが落ちていることに気がついた。
赤いヒーローの人形だ。幼い子供が遊んでも危なくないような柔らかい素材で作られたそれは、人目から逃げるようにベンチの影に隠れていた。
私はそれを掴んだが、つるりと地面に落としてしまった。驚いて手を見ると、べっとりと赤色に染められていた。雑巾を手にかぶせてもう一度それを掴んでベンチの下から取り出すと、それは太陽の光を浴びてつやつやと光った。この人形は君が持っていたのだろうか。あとで、聞いてみよう。私はそれを雑巾に丁寧に包んで立ち上がり、君の眠る喫茶同前へと自転車を走らせた。
店の裏に回って、階段を登って君の部屋へと急ぐ。
部屋の扉を開くと、鉄の匂いが廊下に溢れた。素早く部屋に入り扉を閉めると、より一層その匂いは強くなる。
足元でカサカサ、と乾いた音がする。血で汚れた際に掃除しやすいからという理由で君の部屋には白いビニールシート敷かれている。机も椅子も使うとき以外は透明なシートに覆われていて、とても人が住んでいるとは思えないような部屋だ。
私は音をなるべく立てないように歩きながら、部屋の隅に設置されたベッドの、黒いマットレスに寝かされた君に近づいた。ベッドの脇では同前が体育座りをしている。
「息は」
「…まだ無い」
そこに眠っているのは君の抜け殻だ。君の死体を目の当たりにするたびに、このとき君はどこに行っているのだろうと考える。一度聞いたことがあるが、そのときは「何にもないよ、寝てるのと同じ」と返された。
もしかすると、真っ暗な宇宙にでも放り投げられているのではないか、と思う。体から抜け出さなければいけないほどに弱った「君」は、太陽の光を浴びて、「君」を修復させて戻ってくるのではないかと。
君が死んでいる。今、私の目の前で。
同前はゆっくりと立ち上がり、君の服を少しだけ引っ張って、腹を外気にさらした。痛々しい穴があるが、血は止まっていた。
彼はゆっくりと君を抱きしめた。この光景も何度か見たことがある。息をしていない君に縋るような彼のその行動の理由を聞いたことはないが、彼にとって大切なことなのだと思う。いつもの暗くて重い空気を、彼は今だけ持っていない。君が死んでいる間だけ、彼は同い年の少年に見えた。
数分後、彼はパッと体を離して、何事もなかったかのようにまた同じ場所で体育座りをする。君の腹のあたりから、湿った肉が床を這っているような、ズルズルという音が聞こえ始めた。君の体が元どおりになっていく音だ。私は安堵して、床に飛び散った血をベッドのすぐそばに沢山積まれた雑巾で拭いた。同前も同じようにビニールシートの床を擦る。
「猫又くんの目が覚めたら、まずは朝ご飯かな。作れないから、買ってこないと」
「昨日の残りがあったから、それでいいだろ」
「…猫又くんは、必ず目を覚ますんだよね」
「でないと困る」
不安を紛らわすために、彼に向かって頭に浮かんだ言葉をすぐに口に出した。彼は短く、しかしちゃんと応えてくれる。彼は君が死んでいる時だけ私に同情の目を向ける。何かを懐かしんでいるようにも見えるその目に写っているのは、もしかすると、私が居なかった頃、君の死体を1人きりで見ていた彼自身なのかもしれない。
「く、ぅ、ふはっ」
君が一度大きく跳ねた。
彼は雑巾を放り投げて、君の顔を覗き込む。君はそんな彼を落ち着かせるように頭を軽く叩いて、ゆっくりと起き上がった
「気分はどうだ」
「ん?んー…微妙。中の方がまだ治ってない気もする」
「まだ寝てろ」
「いや朝ごはん…」
「勝手に食うから気にするな」
「そうか?じゃあもう一眠り…あ、蜂谷」
君は寝ぼけたような瞳を部屋に漂わせ、私をそこに写すと、にこりと微笑んだ。
「蜂谷おはよう!って、2人とも、今日もテストって言ってなかったか?学校に行かずに俺のこと探しに来てくれたのか。ごめん…」
「気にしないで。明日放課後に受けることもできるから」
「月子さんに、具合が悪そうだから今日のバイトは休みにしてやってくれって頼んでおいた」
「うう…ありがとう」
君は腹に手を滑らせて、表面は治ったなと呟く。
「今回の悪夢はどんなやつだったの?」
聞くと、君の動きが止まった。
「えーと……。あれ?思い出せないな」
不思議そうに首を傾げて、私の目を見る。そして、みるみるうちに目を見開いて、一気に顔の色を青く染め、絶望的な表情をした。
「あ………」
君は自身の口元を抑える。ガタガタと震え始め、目に薄い涙の膜が張っていく。
「どうしたんだ」
「傷が痛む?もう一度眠ろう」
君を横たわらせようと肩を掴むと、君は私の腕をとって、強く握った。引きちぎれそうに痛かったが気にしていられない。
「猫又くん、」
「う、うわあ、あああああ、あああああああ!」
私の腕を放して、ベッドにうつ伏せになり、君は突然叫んだ。
「ね、猫又くん?」
「大事なことを忘れてる!大事なことを忘れたんだ俺は!最低だ!忘れてる!何もないんだ」
大粒の涙が君の頬を濡らしていく。いったいどうしたのだろう、私はただ君の背中に手を当てることしかできない。
「教えてくれ、今お前に何が起こってる?」
同前に肩を掴まれびくりと飛び跳ねた君は、泣きじゃくりながら首を振った。
「わからない、けど、絶対に忘れちゃいけないことを俺は忘れてるみたいなんだ」
彼は慌てることなく「そうか」と頷くと、私に顔を向け、扉に向かって指を指した。
「今はそっとしておいた方がいい。明日には元に戻る。だから今日はもう帰れ。明日まで来るな。わかったな」
彼の言葉に切実さを感じ、私は何が何だかわからないままで頷き部屋の外に出た。部屋の中から、再び叫び声がして、ドタドタと暴れるような音がした。パニックを起こしているのだろうか。
「…帰ろう」
私より2年多く君と一緒にいる彼の言うことはきっと正しいだろう。彼が帰れ、とはっきりと言うのだから、私にできることは無いのだ。
自転車を力なくこいで、どこか重力のない気分のまま家の扉の前まできて、私は鞄に入れておいた血塗れの人形を思い出す。明日、渡そう。
次の日、月曜日。君はいつもと変わらない様子でキッチンに立っていた。
「おはよう、蜂谷!」
「おはよう。大丈夫だった?」
「傷か?治ったぞ」
「それはよかった。あとそれと…」
「目玉焼きもう少しで焼けるから、ちょっと待っててくれ」
勿論怪我の具合も気になっていたが、そうではなくて。君の心の話だ。そう言い直そうとすると、しぃ。空気が漏れるような音。君は付かずに目玉焼きの出来を確かめている。
スケッチブックの上を滑る鉛筆の音が消えていた。見ると、彼が口に人差し指を当てている。その話題には触れるな、ということだろうか。納得できないが、仕方が無い。私は黙っていつも通りの席に座る。
彼は再びスケッチブックに向き直る。今日描かれているのは君の後ろ姿だ。
「その話は、もう無しだ」
「どうして?」
「辛いことは思い出したくないだろ」
なんだか彼に似合わない言葉だなと思いながら、それもそうかと口を閉ざす。
君が完成させたプレートの上からキャラメル色に焼けたトーストを手に取り齧ると、さくっと心地よい音がした。美味しい。
「正太郎!ほんと早死するぞお前!」
「その時は看取ってくれ」
「まずそのシュガースティック握った手をおろせ。あーあー…それもう紅茶じゃなくて砂糖水だろ」
隣が騒がしくなる。彼がまた常軌を逸したシュガースティックの使い方をしているようだ。
そこで、私は鞄の中のタオルの存在を思い出す。ヒーローの人形が包まれているものだ。自分が死んだことなど思い出したくはないだろう。しかしもしこれが大切なものだったら君が困るかもしれない。君がため息を付きながら食事に向き直ったタイミングで私はそれを取り出して、君に差し出す。拾ったその日に洗った。血慣れではない。
「落ちてた。君の?」
君はぱちくりとそれを見た後で、「あ」と声をもらす。心当たりがありそうだ。君の?と聞こうと前を向くと、君の様子がおかしいことに気づく。
真っ青だ。小さく震え始め、春の終わりだというのに真冬のような顔をしている。
君は人形を掴むと、椅子からガタッと乱暴に立ち上がって扉へと駆け出した。
「猫又くん?」
「ツ、ツカサが、ツカサが!!」
叫んで、君は出て行ってしまった。
同然は無言で立ち上がりその後に続く。呆気にとられていた私は、扉が閉まりきってから2人の後を追い始める。外に出ると、君と同前の姿はなかった。君はツカサが!と叫んでいたのだから、きっとツカサ少年の家に向かったはずだ。私は自転車に跨る。
息を弾ませながらツカサ少年の家の前に到着した私は、路肩に停められている同前の自転車を見つけた。家の庭の方から声がする。私は足音を立てないように慎重に庭へとまわる。
昨日君と来たそこには、すねこすりさんの姿の君と狼の面を被った彼、それから知らない大人が2人いた。夫婦なのだろう。2人は、君を責めるように声を荒げていた。
「役立たず」
「どうして間に合わなかった」
「お前がもっと早く来ればツカサは!」
恨みの込もった瞳が君を貫くように鋭く光っている。君はヒーロースーツ越しでもわかるほど震えている。隣で、狼はどこかに連絡をとっていた。
君に向ってなんて口を聞いているんだと飛び出しそうになったが、今私は狐の面を持っていない。すねこすりである君の側にはあれがないといけないという約束を破るわけにはいかず、私は歯軋りをして怒りをやり過ごす。
しばらくその状態が続いたが、二台の車の音でその言葉たちは遮られた。家の前に停まったその車からはスーツを着た大人が五人出てきて、君のいる庭へと足を向ける。私は慌てて物陰に隠れようとしたが見つかってしまった。せめて、と顔を隠す。この人たちは一体何だ。彼が呼んだのだろうか。
「君、どうしてこんな所にいるんだ」
うち1人の女性に問われて、何と答えていいかわからず、私は小さく返事をする。
「狐です」
すると彼女はああ、と納得したように頷く。
「狐さんでしたか。では我々は今からすねこすりさんの保護を行いますので」
「保護?」
「ご存知ありませんか?」
女性以外のスーツの大人たちが、ツカサ少年の両親らしき二人を君から引き剥がし、車へと連れて行く。女性はそれを見ると私に頭を下げ、車へと向かって行った。嫌がる二人を押し込んで、車はどこかへ走り去る。
「あ、あの人たち誰だよ!」
君が叫ぶ。
「この町の、お前を守る会みたいな物だ」
「守る…?」
「テレビや新聞にお前が出ないのは、あの人たちが止めてるからだ。二人を連れて行ったのは、的外れなお前への恨みをリークしないように釘を刺しておくためだよ。ファンクラブみたいなもんだと思えばいい」
「何だよそれ…初めて聞いたぞ」
「言ったことないからな。…帰ろう、創助」
彼が面を外しながら言う。
「俺…俺は…」
すねこすりさんのメットを外した君の顔はぐしゃぐしゃに濡れていた。嗚咽を漏らし、私に縋るような目を向ける。
「思い出した、俺、夜中にツカサに呼ばれてここに来たんだ。そしたら、ツカサ、悪夢に半分食われてて、それで……」
ツカサが暴れてた。泣き喚いて、俺に助けを求めてた。悪夢は大きな口の黒い鬼みたいだった。家と同じくらいの大きさで、ツカサの部屋の窓を破壊して、ツカサを取り出して食べてたんだ。この悪夢は僕の夢から出てきたんだって、叫んでた。あちこちから血が出てた。
「動揺しすぎて着地に失敗した。そうしたら後ろから地面に押し付けるみたいに俺の腹を鋭い爪で刺してきたんだ。抵抗したけど、抜けなかった。ヒーローの人形が落ちてたから痛みを耐えるために握りしめてたんだ。血が出過ぎてフラフラした。そのあと何回か刺されて、意識がぼんやりしてきて。目を閉じる前に、見たんだ。悪夢がツカサを飲み込むところ。その後で悪夢が消えたんだ。悪夢は悪夢を見た人が生き絶えた時に連動して消えるんだってそこで気づいて、絶望した。でも助けてって声と悪夢の声が町からするからそこに留まっておくわけにもいかなくて。人形だけ持ってその場を離れた」
激痛と絶望に震える体を抑えて、君は悪夢を倒し続けた。
「何体か倒した後で、現実についていけてなかった感情が追いついてきてさ、もうどうしたらいいか分からなくなって、泣きながら町を歩いたんだ。涙が拭けなくて前が見えなかったからメットを外したらタイミング悪く別の悪夢が出てきて、海に突き落とされた。何とか這い出てそいつを倒して、駅のホームで横になって」
そこからは、二人が知ってる通りで…と、君は彼の肩を掴んで涙を流したまま弱々しい声を出す。
「…なんで俺、いまの今までこんな大切なこと忘れてたんだ…?」
「…帰るぞ」
「でも…」
「死んだ人間は戻ってこない。悩んでいても仕方がない。それにどう考えたって食った悪夢の方が悪いんだ、お前は気にしなくていい」
彼の言葉にショックを受けた顔をしたが、君は表情に暗い影を落として「…帰る」と項垂れた。
帰りは、君のとぼとぼとした歩みに合わせて自転車を押して帰った。君は時折何かを耐えるように黒いシャツの裾を握りしめていたが何と声をかけるべきか分からず、私は無言でいることしかできなかった。
「どうして忘れてたんだろう…今朝は本当に何にも覚えてなかったんだ…」
すっかり覚めてしまった朝食に手をつけず、君はカウンター席に伏している。彼は何も言わない。ただ黙々と、冷めたパンを齧っていた。私は君に作ってもらった食事を残すなんて勿体無いことはできないが、傷心している君の隣で食事に手をつけていいものかと悩んだ。悩んで、私はフォークを手に取った。冷めた卵焼きを咀嚼して飲み込む。今日はなぜだか味がしなかった。
時刻を見ると、もう8時半をすぎている。学校から家に電話が来る前に連絡を入れると、担任が心配そうに体調を気遣ってくれた。大丈夫だと伝えて電話を切ると、君は伏せたままで「ごめん…」と謝った。
しばらく無言が続いた。いつも会話の中心である君が口を閉ざすと必然的に私たちは沈黙を作ってしまうが、こんなに重苦しいそれは初めてだ。私は空になったプレートをキッチンに運び、洗剤とスポンジを借りて洗った。
「あ…、呼ばれた」
君は力なく立ち上がって、ふらふらと再び扉に手をかける。
「たまには、行かなくてもいいんじゃないかな」
言うと、君は首を僅かに振る。
「いや、もしかしたら俺が見逃した悪夢に襲われてるのかもしれないし…、俺を呼ぶってことは大なり小なり困ってるんだ。放っておけない」
「猫又くん」
「行ってきます」
君が行ってしまった後で、彼が君の朝食にラップをかけた。
「もう二度とツカサの話はするな。いいか」
抑揚のない声だ。
「…分かった」
同前は赤いヒーローの人形の腕を弄って、飽きたように置き、キッチンから黒い袋を取り出してきてそれを中に入れた。そして、それをゴミ箱に落とす。
「何してるの」
「こんな物あったって、あいつが辛いだけだろ」
もう要はないとばかりに彼は二階へ上がっていく。私はゴミ箱から袋を取り出して開けて、ヒーローの人形を救出する。中にゴミ箱に元々入っていた野菜の包装を入れて中身があるような外見にしてから、私は黒い袋をゴミ箱に落とした。君が捨てていいと言っていないのにツカサ少年の物だったこれを捨てるのはどうかと思ったのだ。勿論、もう突然渡すことなどしない。君がこの人形を探していたら差し出せるように、私が持っておく。君が守ったこの町が、今日はやけに冷たく見えた。
月曜日の放課後。今日は喫茶同前が営業中のため君は昼に屋上に来ない日だ。居残りで同前と試験を受けて、教師に解答用紙が回収されたところで、私の携帯電話が鳴った。同前はさっさと居なくなり私だけの空き教室でそれを鞄から取り出すと、君の名前が浮かび上がっている。通話をタップして耳に当てると、心地良い、しかし切羽詰まった声が飛び出してきた。
「蜂谷、今どこにいる?」
「まだ学校だよ」
「屋上に行ってくれないか?頼む…」
声が震えている。私は「すぐに行く」とカメラを持った少女の横を通り抜ける。「走るなよー」と副担任の気の抜けた声が聞こえたが、聞こえないふりをしてそのまま屋上へと走った。
いつも昼にしているように扉を開くと、そこにはメットを被っていない君がいた。座り込んで、自分の体を温めるように抱えている。
「蜂谷、蜂谷」
「ここにいるよ、落ち着いて、息を吸って」
君は深呼吸をして、私の目を見た。そんな場合ではないのに、ああ綺麗だな、と思った。
「今朝は気のせいだと思って言わなかったんだけど、俺、眠ると辛いことを忘れるみたいなんだ。眠って起きたらあんなにあった喪失感がどこにもなくて。本当に何も無いんだ。悲しくない。涙が出ない。それが怖い。俺、どうしちゃったんだろう。このまま何度も寝てたらいつかツカサが俺の中から居なくなるかもしれない。怖い、怖いんだ」
いつもの頼れるヒーローの顔は形を潜めて、そこにあるのは恐怖に歪んだ少年の顔だった。私は正面に座って、大丈夫?と聞く。あんまり大丈夫じゃない、と返された。
「蜂谷、お願いがあるんだ。…お前は出会ったあの日から俺の言うことを全部聞いてしまうって知ってる上でお願いなんてするのは最低だと思うんだけど、これだけは頼まれて欲しい」
「君のためにこの命は使うって決めてるの。だから何でも言ってよ、死んでもやり遂げるから」
「いや、命に関わる事は普通に断ってくれ。じゃなくて。ええと、俺が忘れたくないこと、覚えてて欲しいんだ」
「分かった」
「もしかしたら、俺が忘れてるだけで、俺が助けられなかった人って他にも居るのかもしれないと思うと…。どうして俺は今まで自分の記憶がおかしいことに気づかなかったんだ…?」
「同前くんが、君からその辛い記憶に関係あるものを遠ざけたんだよ。きっと」
「正太郎が?」
「君が辛い思いをしないようにってヒーローの人形を捨ててたよ。私が回収したけど」
「ってことは、正太郎は知ってるってことか?」
「そうなるね」
「携帯電話は正太郎に毎日見られてるからメールはよくないかもしれないな。紙も見つかると捨てられるかもしれない」
「構わないけど、君、携帯電話毎日見られてるの?」
「うん。あれ?言われてみれば、何だかおかしいな。メールと電話くらいしかできないように設定されてるし、登録してる電話番号なんて月子さんと正太郎と蜂谷くらいなのに」
「…同前くんは何をそんなに恐れていて、何を知ってるんだろう」
「…蜂谷、もう一つ頼まれてくれないか?」
「もちろん。何?」
「俺が誰なのか、何なのか、調べてほしい。俺はきっと正太郎に阻止されるから」
「わかった。でも、どう調べたらいいかわからないから時間がかかるかもしれない。それでもいい?」
「ああ。…ありがとう、ごめん」
君は柔らかく微笑む。久々に見た、安堵の表情だ。何が何でも役に立とうと心に決めてその顔をまぶたに焼き付けていると、君は俯く。
「…蜂谷と出会った日から、何だかおかしいんだ」
「おかしい?」
「うん。今まで自分がどこから来たかとか、なんですねこすりになれるのかとか、そもそもすねこすりって何だとか考えたこともなかったんだけど、蜂谷といると時々思うことがあるんだ。それも眠て朝蜂谷と会うまで消えてるんだけどな。あとは、悪夢が怖いと思うことが増えた。今まで何とも思わなかったのに、見た目は凶悪だし、攻撃は痛いし、死にたくないし…いや、蜂谷と出会った日からおかしくなったんじゃなくて、出会う前がおかしかったんだな」
「それは、君にとって良い変化?」
「正直、わからない」
「そう」
君が苦しむ記憶を、私はなぜだか思い出させることができるらしい。君がそれで辛いと言えばすぐにでも君から距離を取ろうと考えながら、私は君の隣に移動して、空を見上げた。雨雲がもうすぐそこまで迫ってきている。
「君に優しい世界ならいいのに」
呟いて、私は君と出会ったあの日のことを、繰り返し繰り返し思い出していた。