祖父母の家は、いつ来ても落ち着く匂いがする。以前来たときは物置だったこの部屋には今、ぴかぴかに磨かれたベッドと棚、机以外には何もなかった。二人で仲良く、僕のために掃除してくれたらしい。
 抱えていた段ボール二個と背中の重たいリュックを床に下ろす。小さく息を吐いてから、僕はクリーム色のカーテンを開いて窓を開けた。まだ慣れない香りがする潮風が僕の頬を撫でる。春の日差しが心地いい。
 今日からここが僕の部屋だ。
 窓に背を向けて、二つ重ねて置いた内の上の段ボールを開く。中には少しの衣服と昨日まで住んでいた町の高校の制服、リュックに入りきらなかった教科書とノート。その上に、年季の入った白いヒーローの人形が置かれていた。年齢がまだ片手で数え切れた頃、誕生日に両親にもらったものだ。
 僕はそれを手にとって机の中央に置いた。幼い僕が付けたらしい小さな傷や黒いマーカーの汚れが彼を歴戦の戦士のような風貌にしている。
 本当は、もっとこのヒーロー関連のおもちゃを持っている。DVDだって揃えたし、とにかく大好きだった。しかし僕はここにそれらを持ってこなかった。この人形だけだ。あとから送られてくるわけでもない。
 これは未練のようなものだった。
 窓から降り注ぐ光が彼を照らしている。とても眩しくて、かっこいいと思う。僕と大違いだ。
 一階から階段を上がってくる音がする。振り向くと、開けなはした扉の前に祖母が立っていた。
「お昼にしましょう」
 エプロンで手を拭きながら、祖母は僕に優しく言う。
 うん、今行く。そう言おうとしたが、僕の口からは言葉が出てこなかった。代わりに出てきたのは情けない嗚咽。祖母は寂しそうな顔をして僕を抱きしめた。
 何事かと祖父がやってきて、祖母と同じように僕を抱きしめる。眼鏡ごと押しつぶされて目の周りが痛かった。かっこわるい。最悪だ。
 祖父母に縋り付く両腕の絆創膏が僕の惨めさを加速させている。ヒーローが画面の向こうで仲間に手当されたあともこんな見た目だったのにどうしてこうも違うんだろう。
 嗚咽が収まった頃、祖父母は「昼、食べれそう?」と聞いた。僕は首を振った。腹は減っていたけれど、とてもではないが食べ物が喉を通ると思えなかった。
 祖父母が心配そうに僕を見ながら一階へと下りていき、静かな部屋に取り残される。僕は部屋の扉を閉めて、新品のシーツに寝転んだ。
 携帯電話のラジオアプリを立ち上げて、適当に有料でないものにチャンネルを合わせる。流れてきたのは、透き通るような美しい歌声だった。
 君の人生は君が主役。
 そう歌っている。
 僕もそう思う。思うけれど。
 机の上のヒーローはいつの間にか倒れていた。最後の未練が嘲笑われた気がして、僕は枕に顔を沈める。また眼鏡が邪魔をして鼻が痛かった。コンタクトに変えようか。

 1 

 転校初日。僕は以前に通っていた高校の学ランを着てまだよそよそしい町を自転車で走る。新しい学校までの道は昨日覚えたばかりで不安は残るが、桜が咲いている見慣れない景色に心が躍った。
 祖父母がこの町は悪夢の町と呼ばれているのだと教えてくれたが、そんな物騒な名前は似合わないのどかさだ。そういえば、恐ろしいものに出会ったら唱えるというおまじないも教えてくれた。なんだそれ、とは思ったが、いつになく真面目な表情に気圧されて、なんだそれ、とは言えなかった。
 駅前にショッピングモールができたと聞いたがそのせいだろうか、シャッターが閉じている店ばかりの商店街を横目に住宅街を抜け、遊具が錆びている公園の前を通り過ぎる。高校へ近づくほど海がだんだんと遠くなる。新しく通う教室から海は見えないのだろうか、それは少し残念だ。そんなことを考えていると、見覚えのない道に入っていた。見慣れないではなく見覚えのない、だ。僕は早速道に迷ったらしい。
 携帯電話を取り出して地図で現在地を確認する。田舎ではないが、以前住んでいたところと比べると目印になりそうなものが少ない。携帯電話がなければ初日から遅刻するところだった。道を頭の中にしっかりと入れてから携帯電話の電源を切る。外し忘れていたデフォルメされたヒーローのキーホルダーが僕を見上げていた。
 憂鬱が頭を持ち上げる。
 ため息をついて思考を払い落とすように頭を振る。しかしキーホルダーは外せない。こんな気持ちになるのに断ち切れないのは、まだ僕は心のどこかでヒーローを信じているからだろう。自分の諦めの悪さと幼さに辟易する。
「大丈夫、大丈夫」
 言い聞かせて、再びペダルを踏み込んだ。
 早めに家を出て良かった。道に迷ったというのに始業の一時間程度早くに着いた高校は、廊下に壁がない開放的な作りをしていた。中庭の桜の花びらが廊下に沢山落ちている。掃除が大変そうな学校だ。
 全学年一クラス三十人前後で、AからDまでの四クラスだと、以前来たときに教頭に教えてもらった。体育館はつい最近新しくしたらしく、少しだけ浮いている。体育館の隣にある自転車置き場で自転車を駐め、鍵をかけて抜き取った。
 同じように自転車を駐めている少年が珍しそうに僕を見ていた。学ランの見た目はこの高校のものとさして変わらないが、ボタンの色が大きく違うからだろう。僕のものは金色で、彼のものはねずみ色だった。ボタンだけこの高校のものを買った方がいいかもしれないなと思いながら駐輪場をあとにする。その後僕は教室には向かわずに、職員室に入って二年生の学年主任に挨拶をすると、僕が入るクラスの担任の机まで案内された。新しい担任は、僕と同じで今年からこの高校に来たのだという二十代半ばに見える男性だった。
「よろしく!」
 担任はそう言ってとても爽快に笑う。舌を出した柴犬の写真がプラスチック製のシンプルな筆箱に貼られていて、悪い人ではなさそうだと思った。
「せっかく早めに来てくれたんだし、学校を回ってみる?まあ僕もつい最近ここに来たから、案内には自信がないんだけど」
 担任はそう言いながら職員室を見回して、ある一人に目をとめる。黒一色のセーラー服がよく似合っている、生気のない肌をした少女だった。短く切られた髪を揺らしながら誰も座っていない机に一冊のノートを置いて、もう用はないとばかりに彼女はまっすぐ扉へ向かっていく。
「あの子、スリッパの色赤じゃない?一年が青、二年が緑で三年が赤だから、先輩だよ。案内してもらおうか」
 担任は勢いよく椅子から立ち上がると、バタバタと走って先輩を呼び止め、何か話し始めた。職員室にいた全員がこちらを見ていて、僕はなんだかどこかに身を隠したいと思った。この担任は少し周りが見えていないのかもしれない。
 僕は周りの先生方に頭を下げつつ音が出ないように小走りで彼らに近づくと、担任は僕にガッツポーズをして見せる。
「案内してくれるって!」
 任務完了!とでも言いたげな爽やかな笑顔を残して、担任は自分の机に戻っていく。なんと話し始めたらいいのか分からずにいる僕を置いて、先輩は既に職員室を出ていた。僕は慌てて追いかける。
「よろしくお願いします」
 先輩は僕を一瞥して「よろしく」と短く返事をした。案内してくれるらしい。
「ここが食堂」
「購買もあるんですね」
「その上が柔道場。仕切りの向こうに剣道場がある」
「結構広い」
「ここががフェンシング部の部室。駐輪場の上が卓球部の部室」
「あ、ここフェンシングが強いって聞いたことあります」
「ここが一年生の教室。渡り廊下を挟んで向こうが理科室と生物教室」
 何を話しかけても返事は返ってこない。移動中は無言で、体育館周り、校舎の順で淡々と場所の説明をするだけだった。先輩は僕に転校の理由どころか名前すら聞かない。話したいことでもないので僕にとってそれはとてもありがたいことだったが、転校生とそれを案内している先輩が終始無言で歩いていると逆に興味を煽ってしまうらしく時折すれ違う生徒たちが向けてくる好奇の目が痛かった。
 ここが最後といいながら案内されたのは図書室だった。先輩は腕時計を見る。始業まで二十分程度あった。せっかくだから中を見てみたいです、というと先輩は図書室の扉を開けてくれた。背筋が伸びた立ち振る舞いがどこか優雅で、いつか見た童話が原作の映画に出てきた王子様に似ている。隣を歩いていて気がついたが先輩は恐らく平均以上の身長を持っている。口数の少なさや動かない表情も相まって、かっこいい人だ、と思った。
 図書室の入り口を入ってすぐの所に、この町の名前が大きく書かれた看板があった。この町に関する本のコーナーらしい。
「悪夢の町と呼ばれている理由は聞いた?」
 それほど有名ではない割に本が多いな、と失礼なことを考えていた僕に、先輩が聞く。先輩が僕に話しかけることはないだろうと思っていた僕は驚きで小さく飛び跳ねた。恥ずかしい。僕に全く関心を寄せていないらしい先輩は全く気にしていなかったけれど。
「…何となくは、祖父と祖母に聞きました。でもあまり覚えていないです」
「そう。じゃあこれ読んで」
 先輩はこの町のコーナーから一冊抜き取ると、僕に差し出した。それは絵本で、今から読んでも読み切れる厚さだった。内容はこうだ。

『昔、ある小さな町に、悪夢ばかり見る少女がいました。

 少女は毎晩悪夢を見ました。

 日によって内容は異なり、どれも血の気が引くほど恐ろしいものだったそうです。

 少女は夜が訪れるのを恐れました。

 眠るのを恐れ、睡魔がやってくる度に硬い石に頭を打ち付けたり、真冬に冷水に浸かったりしていました。

 しかし限界があるもので、いつも少女は努力の末に眠ってしまい、叫びながら飛び起きました。

 町の人々は少女を嫌いました。

 悪夢を毎晩見ることも、それを防ぐための行動も、やつれた顔も酷い隈も、とても不気味だったからです。

 少女は毎日町の人々に罵声や嘲笑を浴びせられました。

 少女は町の人々を恨みました。

 両親も例外ではありません。

 少女は夢を恐れて死を選びました。その直前に、町に呪いをかけました。

「これからあなたたちが悪夢を見ると、夢から悪夢が抜け出して、あなたたちを殺し始めるわ。町の全員死んでしまえばいいのよ」

 少女は満足そうに笑って、海に沈んで死んでいきました。

 町は悪夢で溢れかえりました。

 住人は無惨にも悪夢に殺されてゆきました。

 地獄のようでした。

 町の人々は命からがら町の中心にある神社の神様に願いました。

 神様は町の人々の願いを聞いて、呪いを瓶に閉じ込めました。

 神様は今でもその瓶を見張っているということです。

 めでたしめでたし。』

「読みましたけど…」
「この話には続きがある。これが新しい本」
 先輩はそう言いながら僕の手から先ほどまで読んでいた絵本を抜き取り、代わりに別の絵本を置いた。真っ白な正方形の真ん中に、続編、とだけ書かれている。
「これも読めばいいですか?でもそろそろ時間が…」
「借りてくる。君、まだ図書室の名簿にいないでしょう。返すときは図書室前に返却ポストがあるからそこに入れたらいい。とにかく、できるだけ早くに読んで。明るい内に。いい?」
「どうしてですか?」
 先輩は僕と目を合わせた。先輩の瞳は黒くて、とても空っぽだった。どうしてそう思ったのか僕にも分からないが、この人には何もないと思った。空っぽで、何にも関心を持っていない目をしていた。きっと僕のことも、本当は見えていないんだと思う。
「最悪の場合、君が死ぬから」
 それだけ言うと、先輩は本を司書の先生に頼んで貸し出しの手続きをしてもらい、僕にその本を渡した。
 先輩は図書室から出て行く。僕は呆気に取られたまま、そこからしばらく動けなかった。司書の先生にあと三分だと言われてやっと我に返り、僕は慌てて教室に向かった。息を弾ませて教室に入ってきた僕に、担任は「初日から遅刻かと思ったよ!」と爽やかな笑顔を見せた。そこでようやく僕は、先輩にお礼を言っていないことに気がついたのだった。

「君、蜂谷先輩に学校案内されてたよね」
 今日は午前中で全ての日程が終わる。始業式を終えて担任の話が終わると、僕は質問の嵐に見舞われた。それが収まる頃を見計らったように、ポニーテールを揺らしながら隣の席の少女が僕にそう聞いた。彼女の声は小さいものだったが、ほとんどの生徒が帰った後の教室ではよく響いた。
 彼女の机を見ると、高校二年生が持つにはかなり上等そうなカメラが置いてある。写真部なんてこの学校にあっただろうか。
「あの先輩、蜂谷先輩って名前なんだ」
「うん。蜂谷静音先輩。綺麗だったでしょ?」
「うん。なんか、かっこよかった」
 彼女は表情を明るくする。
「蜂谷先輩、笑ってた?」
「いや、笑うどころか、表情が全然動いてなかったよ」
「そっか。ううーん、難しいな…」
 何が?と聞こうとしたところで、僕は思い出した。すっかり忘れていた、僕は読まなければいけない本があるのだ。
 慌てて鞄から絵本を取り出すと、彼女が絵本を覗き込んできた。
「君これまだ読んでないの?」
 信じられない、という顔で僕を見る。何なんだ、この町はそんなにこの昔話が好きなのか?続編が出るくらいに愛されているのは分かったが、正直に言うとどこに愛される要素があるのか分からない。強いて言えば挿絵が柔らかくて愛らしいからだろうか。
「早く読みなよ」
 促されるままページをめくる。
 最初の方は今朝読んだものと同じだ。めでたしめでたし、そのページの後に、まだ続きがある。白い紙一枚で区切られた、続きだった。

『めでたしめでたし。これで終わり。そのはずでした。

 町の住人たちは壺から離れられず神社から出られない神様に少しでも楽しんでもらうため、神社で毎年、四季折々の行事を開催していました。

 神様を見た。綿菓子を食べていた。そんな噂があちこちから流れていました。神様は人と関わることが好きなようでした。

 神様は大切にされていました。されていたのに。神様はおかしくなりました。

 冬。寒くて静かな夕暮れでした。

 午後五時を知らせるメロディが突然揺れて消え、その代わりに町中のスピーカーから、幼い声が響きました。少女とも少年ともつかない、曖昧な声でした。

「壺を、割ります。悪夢が溢れます」

 それだけでした。

 その次の日から、かみさまの宣言通り悪夢は現れました。何度倒しても心臓がある限り復活するそれらに町中が怯えて、部屋の隅で縮こまっていました。

 地獄のような一日でした。

 悪夢が歩く町に飛び出すことは容易ではありませんでした。

 そんな地獄を切り裂いたのは、白い仮面を被ったヒーローでした。

 彼は突然現れて、全ての悪夢の心臓を壊し、町に再び平穏をもたらしました。

 彼は「すねこすり」と名乗りました。

 彼はどんなに小さな声でも、呼べばどこにだって駆けつけてくれました。

 町の住人は、そんな彼のことを敬意を込めて「すねこすりさん」と呼びました。

 彼を呼ぶ言葉は、こうです』

 最後のページには、大きくその言葉が書いてあった。それは、祖父母に教えてもらったおまじないと同じ言葉だった。
「…助けて、」
 言い終わらないうちに、彼女の手が僕の口を塞いだ。
「何にも用がないのに読み上げちゃだめだよ。ほらここ、書いてるじゃん。ちゃんと読んだ?」
「読んだけど…こんなことが現実にあったら今頃この町は取材されたりして観光客だらけじゃないの?」
「情報操作されてるから外には都市伝説程度にしか思われてないよ」
「…どうして?」
「いろんな人に呼ばれちゃ、すねこすりさんが大変でしょ。この言葉、悪夢に関係なくても呼べちゃうんだよ」
「信じられないや」
「夜、明かりが漏れないように外を見てごらん。嫌でも分かるよ、この話がほんとだって事。君、とんでもないところに転校してきたねえ」
 僕はやることがあるのだと言う彼女と教室で別れ、読み終わった本を返却して、道を覚えながら帰った。
 何だか変な感じだ。町全体が僕にどっきりでも仕掛けているような気持ち悪さがある。
「ただいま」
 祖父母は帰りの遅い僕を、昼を先に食べずに待っていた。先に食べてて良かったのに、と言うと二人は僕と一緒が良かったのだと言う。なんだか気恥ずかしかった。
「学校、どうだった?」
「楽しかったよ」
 祖母は安心したように微笑む。楽しかったというのは嘘で、言い伝えのようなものを愛しすぎている彼らに不気味さを感じた一日だったが、わざわざ不安にするようなことを言う必要はないだろう。
 結局その日、僕は夜外を見ずに眠った。
 嫌な夢を見た気がするが、内容は忘れてしまった。
 僕の夢も外に出て行ったんだろうか。

 2

 数人の名前と顔を覚えて、どの教科の先生が怖いか、この高校で人気なものは何かなどをぼんやりとだが把握できるようになった、転校して数日経った頃。転校生の物珍しさは次第に薄れていって、僕は一クラスメートとして受け入れられていった。
「ねえねえ」
 昼休みになるといつもどこかへ駆けていく隣の席の少女は、昼休み以外はとても暇らしく、僕の席の周りに誰かがいない時はいつも僕に話しかけてきた。僕が続きを促すと、彼女はカメラを弄りながら言った。
「悪夢、見た?」
 彼女のいう悪魔は、化け物の方だ。
 彼女は毎日、挨拶より先にそれを僕に聞いてくる。僕が首を振ると、彼女はため息をついた。
「寝る前に外は?」
「見たよ。海しかなかった」
「あー、そりゃ見えないよ。海に出たって話は聞いたことないもん。今度は違う窓から見てみなよ。海のない方ね」
「わかった」
 完全に信じるわけではないが、僕は変な意地を張らずに悪夢やすねこすりさんを居るものとして扱うことに決めた。その方が、町に馴染みやすいと思ったからだ。
「あ、そうだ。気になってたんだけど、蜂谷先輩にお礼言いに行った?」
「…あ」
「さては忘れてたんだね?今日昼休みに蜂谷先輩に会いに行くから、ついて来なよ」
「昼休み中いつも教室にいないのって、蜂谷先輩に会いに行ってるからなの?」
「そうそう」
 チャイムが鳴って、担任がはつらつとした笑顔で教室に入ってくる。蜂谷先輩のからっぽな瞳を思い出して、僕は小さく身震いをした。
 三分授業が長引いたりしながら迎えた昼休み、隣の少女が僕の肩を叩いた。右手にカメラを持っている。
「行こう、蜂谷先輩のとこ」
「今?食べてからでも間に合うと思うよ、僕弁当食べるのそこそこ早いし」
「いや、先輩すぐ居なくなっちゃうの。ほら早くして」
「わかった」
 僕はパタパタと走る彼女の後ろを追いかけて、その勢いのまま一つ上の階の、三年C組の教室に入った。
「あ、蜂谷先輩」
 カシャ。
 春風にカーテンが揺れている。先輩は教室のいちばん隅の席に座っていた。丁度、教科書を机にしまっているところだった。相変わらず人形のような、生を感じない表情を浮かべている。
 カシャ、カシャカシャ。
「…さっきから何撮ってるの?」
「蜂谷先輩に決まってるじゃん。あっ、許可は取ってるから安心して」
「そのカメラって蜂谷先輩を撮る用だったりする?」
「うん。蜂谷先輩の笑顔を撮りたくて」
「あの先輩笑うの?」
「一回しか見たことないけどね。ほんっとうに綺麗な笑顔なんだよ。ただどうして笑ってたのかが分からなくってさ、本人も理由が分からないみたいで難航してるんだよねえ。だから数打ちゃ当たる作戦で、毎日こうやって撮らせてもらってるの。真顔でも先輩は絵になるから飽きないよ」
「へ、へえ…」
「喋ってる場合じゃないでしょ、ほら」
 背中を押されて、僕は立ち上がりかけていた先輩の眼前に飛び出してしまった。
「あ、あの…」
 先輩は僕が眼中にないようでそのまま立ち上がり、椅子をしまって教室から出て行こうとする。
「蜂谷先輩」
 そう声をかけると、先輩の瞳が僕を写した。やはりどこまでも空っぽで、空洞のようだった。少し恐怖を感じながらも頭を下げる。
「学校案内、ありがとうございました」
 先輩は僕を見つめた後で、首を傾げた。
「誰?」
 心が挫けそうだったが、思い出してもらおうと転校初日に出会ったときのことを話した。しかし先輩は表情をピクリとも動かさずに言い放った。
「思い出せない、ごめん」
 心が挫けた。先輩は僕を通り過ぎて教室から出て行く。弁当も持たずにどこに行くんだろうか。
「首を傾げる蜂谷先輩が撮れちゃった!珍しいよ!ありがとう!」
 教室に戻る途中、空腹を訴える腹をさすりながら、興奮したようにカメラの画面を見せてくる彼女に僕はげんなりした。
「先輩が僕のこと覚えてないって知ってたでしょ…」
「あは、ごめんごめん。ショックだった?蜂谷先輩ほとんど皆どうでも良いみたいだから多分誰が話しかけても誰?って聞かれるよ。だから気にしなくて良いと思う」
 そういう話ではない、と突っ込む元気すらなくて、僕はやっとたどり着いた自分の席に伏せた。なんだかどっと疲れてしまった。早く昼を食べよう。
 ここ数日僕を昼食に誘ってくれていた少年たちは既に食べ終えていて、僕はもそもそと一人で祖母が持たせてくれた弁当を口に運んだ。甘い卵焼きを食べるのは初めてだった。
 彼女も隣で同じようにコンビニの袋から菓子パンを取り出し食べ始めた。
「…蜂谷先輩、毎日会う度にカメラ向けてる私を覚えてくれないのに三年D組の…名前は忘れちゃったけど、男子の先輩のことは名前も顔も覚えてるみたいなんだよ。確かに前髪で目がほとんど見えないし背が高いしちょっと目立つけどさ、でも私の方がインパクトあると思うんだよね」
 独り言にしては大きい声だ。僕は白米を口に入れながら返事する。
「君が撮りたがってる蜂谷先輩の笑顔って、その先輩に向けたものじゃないの?」
「私もそう思ってその先輩を観察したことがあるんだけど、蜂谷先輩と同じくらい大人しいっていうか、クールっていうか…とにかく笑わせるような人ではないんだよ」
 あまりに必死な彼女に若干の狂気を感じながら、僕は箸をケースにしまって弁当袋を鞄に詰める。
「なんだか、蜂谷先輩の笑顔に恋してるみたいだね」
「恋かあ。確かにそうかも。初めて見たときのあの感覚は、恋に似てるかもしれないよ」
 彼女もパンを食べ終えると、午後の授業が始まる事を知らせるチャイムが鳴った。
「もし撮れたら、見せてあげる」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 見たいような、見たくないような、複雑な気持ちだった。
「君も電撃が走るくらい好きなものってないの?」
「いや、別に…」
「当ててあげるよ。ヒーローでしょ。初日に携帯電話についてるの見たよ。最近は外してるみたいだけど、なんで?」
 息が止まる。
 フラッシュバックするのはステージライトと、観衆の冷めきった目。吐き気がこみ上げて、思わず口をおさえる。葛藤の末に外したヒーローのストラップは、今は引き出しの奥深くにある。
「えっ?わ、顔色悪いよ、大丈夫?もしかして聞いたらまずかったかな」
「…いや、大丈夫。なんでもない」
 彼女は困惑したような顔をしたが、先生が教室にやってきて授業が始まった。
 少し疲れてしまった。早く放課後になってくれないかなと、僕は規則正しい時計を見上げた。もちろんその規則正しさが突然慌ただしくなる事なんてなく、僕は吐き気と戦いながら午後の授業を乗り越えた。

 しかし、放課後がいつまで経っても始まらない。僕は周りにばれないようにため息をつく。「このクラスをどのようなクラスにしていきたいですか~」という、生徒数名による若い先生をからかいたいだけで特に意味のない質問を、担任は真面目に受け取ってしまったのだ。担任は一度話に熱が入ると止まらない人のようだ。熱意を語ってくれているが、手を変え品を変え何度も同じ内容を熱弁しているだけだった。
 下校予定時刻が過ぎて、チャイムが鳴った。それでも担任の勢いは止まらない。背後のさして厚くない壁から微かに聞こえてくる騒がしさから察するに、隣のクラスは帰り支度を始めたらしい。もう一度ため息をついた、その時だった。
 廊下の方から歌声が聞こえてきた。頭に思いついた言葉をそのまま歌詞にしているような、メロディーも滅茶苦茶で気持ちの悪い歌だ。
 歌声ははゆっくりと廊下を進んでいるようで、だんだんと声が近づいてくる。
「なあ、もしかして、悪夢じゃないか?」
 誰だか分からないが、クラスメートがそう言ったのが聞こえた。
「ドアと窓閉めて、カーテン閉じて!」
 前の席の少女が焦ったように言う。
 窓際の全員が音を立てないよう気をつけて立ち上がり、彼女の言うとおりに動いた。担任は話をやめ、硬い表情をする。騒がしかった隣のクラスが静まりかえっている。歌声に気がついたのだろう。
 歌声が近づいてくる。この教室はAからDまである内のA組だ。つまり廊下のいちばん端にあり、歌声が最初に通り過ぎるのはこの教室だということだ。
 誰も声を出さなかった。今はそれが賢明であるように思えた。
 しばらくして、窓の外に影が見えた。顔がほとんど後ろを向いた、海老反りのような格好でその人影はゆっくりと歩いている。百八十センチは優に超えているような大きさだ。はやく通り過ぎてくれと心の中で唱えるが、その影は教室後ろの扉の前で止まる。
 歩みを止めたままで、それは扉の前で歌い続けている。廊下側の窓際の、最前列に座っている少女が、緊張した面持ちで口を閉ざしている。
「居るでしょそこに、居るでしょ」
 そいつは急に上半身を垂直にしたかと思うと、扉を激しく叩き始めた。普通の人ならば、自分の手が傷つくのを恐れてできないような激しさだった。僕は何が起こっているのか分からなくてただひたすら固まることしかできなかった。
「居るでしょ居るでしょ、居るでしょ」
 最前列の彼女は震えている。扉が壊れるのも時間の問題だ。
「こえー…誰が呼ぶ?」
「転校生か先生でしょ。二人とも最近この町に来たじゃん。慣れといた方がいいって」
 誰かがそう言ったのを聞いて我に返った担任は、情けなく声をひっくり返しながら小さく声を絞り出した。
「助けて、すねこすりさん」
 あの絵本の最後のページ。
 それはこの町の、ヒーローを呼ぶことができる言葉だった。
 廊下側でない方の窓が、ガタ、と音を立てる。教室の全員が音を出した窓に視線を向けた。
 僕は息をのんだ。
 廊下の影とは正反対に、白い人影が、静かに窓枠にしゃがみ込んでいた。
 白に黒いラインが入った、人体に即したヒーロースーツ。ツルッとしたフルフェイスのメットには猫の耳のような突起以外は何も付いていない。全体的に白で統一され、正午の光を反射してピカピカと光った。
 眩しい。かっこいい。綺麗だ。
 それは久しぶりの感情だった。
 ヒーローを遠ざけていた僕の、心の底からのヒーローが大好きだという気持ちが溢れてくる。
「すねこすりさん…」
 思わず呼ぶと、彼は僕に向かって首を傾けて見せた。
「悪夢か?」
 ドアを破壊しようと暴れているその黒い影を見てそう呟くと、君は窓枠から飛び降りて、躊躇うことなく揺れる扉の前まで進む。
「皆は扉からできるだけ離れてくれ。今から扉を開けるけど、この教室には絶対に入れないから安心して欲しい。あと、見た目が怖いかもしれないから、見ないほうがいいと思う」
 彼はそう言って生徒たちの方を一瞥した。
「開けるぞ」
 全員が教室の隅に移動したことを確認してから、彼はカーテンを開けた。生徒の大半は目を閉じていたが、数人はその様子をまじまじと見ていた。僕もその一人だった。
 扉の外にいたのは、真っ青な肌をした、骨と皮しかないような痩せこけた全裸の大男にも見える、頭髪のない、人のような何かだった。歯茎がむき出た口からは粘ついた液体が滴り、白目は血走っている。
 見たことを後悔するような姿形をしていた。隣で目を開いていた少年が「うええ」と呻きながら目を閉じた。
 僕はそれでも目を開いて、彼を見ていた。彼はガタガタと揺れる扉の鍵を開けて、引き手にその白くて頑丈そうなグローブに包まれた手を掛けた。ほんの一瞬だけ、その手が躊躇うように止まったことを、僕は見逃さなかった。
 彼が勢いよく扉を開け放つと、そいつは長い腕を君に向け襲いかかった。彼は腰を低くすると、そいつの懐に飛び込み廊下へ押し出した。彼はそいつを蹴り飛ばし、手すりから落とす。そして彼も飛び降りる。
 僕は担任の制止を振り切って、廊下に出て彼が落ちていった手すりから身を乗り出し地面を見下ろす。
「悪夢が現れました。校内にいる皆さんは直ちに教室に入り、鍵を掛け、物音を出さないようにしましょう」
 校内放送だ。担任が僕を呼んでいる。それでも僕は、桜が数本囲うように植えられた、レンガが敷き詰められた中庭で繰り広げられている彼とそいつの攻防を見ていた。
 隙を突いて、彼は白いナイフをそいつの胸に突き刺し、それによってできた傷に両手をかけて傷口をこじ開ける。そいつの中からは青い絵の具のような液体が溢れている。血だろうか。
 呻いて暴れるそいつの腕をなんとか躱しながら彼はそいつの胸の中を探る。
 そいつは彼の首根っこを掴むと、力一杯地面に叩き付ける。人体から出てはいけない音がしていた。俯せになった彼は、息を荒くしながらも素早く立ち上がり、そいつと距離をとる。手は青く染まっていた。
「ッゲホ、ゲホ。…お前、心臓そこじゃないのか」
 彼は咳き込みながら心底驚いた!という声を上げた。僕は彼が絵本通りそいつの心臓を探している事に今気がついた。
 背後から肩を掴まれた。隣の席の少女だ。
「教室、戻ろう」
 彼女に引きずられるようにして教室へと戻る。まだ彼を見ていたかった。
「俺、あんな近くで悪夢見たの初めてだわ。皆もそうだろ?」
「悪夢って大体夜に出るもんね。こんな明るい内に出るの珍しくない?結構迫力あったなあ。あー怖かった」
「すねこすりさんやっぱかっけえな。悪夢と関係ないことでも呼んだら来てくれるんだろ?呼んでみようかな」
「迷惑に決まってるでしょ、馬鹿じゃないの」
「姉ちゃんが失恋したとき話聞いてもらったらしいよ。それからすねこすりさんと自分の恋愛漫画描いて俺に見せてきてうざい」
「私、自殺しようとしてた子がすねこすりさんに話を聞いてもらって思いとどまったって聞いたことある」
「すねこすりさんほんと何でもしてくれるんだなあ。課題とか手伝ってもらおうかな」
「それは私やったことある。優しく注意されちゃったよ。それは自分でやるべきだって」
 教室が彼の話題で溢れている。僕はその間ずっと廊下を見つめていた。
「ヒーロー…」
 小さく、ほとんど僕の中では禁句のようなその言葉を呟いた。吐き気はない。それどころか、心に暖かいものが灯ったような気がした。
「悪夢が消滅しました」
 放送が流れると同時に、僕は廊下に飛び出して先ほどと同じように手すりから身を乗り出して彼を見下ろす。残っていたのは悪夢の残骸と、青い血だまり。それらはゆっくりと蒸発するように空気に溶けていった。
 彼は既にそこにいなかった。
 僕の口からは犬のようなみっともない吐息が漏れている。興奮が冷めない。よだれが垂れそうだ。
「君、すごい顔してるよ」
 隣の席の少女が若干引きながら僕を見ている。
「どんな顔?」
「生きてて良かった!人生最高!みたいな顔」
「それで合ってるよ」
 僕は走り出した。まだ終礼を聞いていないとか、荷物を教室に置いたままだとか、そんなことはどうでも良かった。まだ近くに彼はいるかもしれない。悪夢の恐ろしさなんて頭から吹き飛んでいった。
 まずは中庭、次にその周辺を走り回った。周りの目も気にならなかった。頭の中ではヒーローを信じていた少年の僕が泣きながら喜んでいた。ヒーローは存在した。
 そして食堂の裏に回った時、叫び出しそうになった。彼は仮面を被ったままで、眠っていた。心臓がバクバクと激しく血を全身に巡らせている。息が上がって、端から見れば僕はただの変態だ。
「初めまして、すねこすりさん。僕、ついこの間ここに越してきて、正直、今日までずっとあなたのこと架空の人物だって思ってたんです」
 僕自身ですら聞き取りづらい小声でそう話しかけながら、一メートルくらい間を開けて、僕は彼の隣に座る。耳を澄ますと、穏やかな寝息は続いていた。
 彼なら、彼なら僕のちっぽけな悩みを、嫌な顔をせずに聞いてくれるかもしれないと思った。だってヒーローだ。いつだって、誰にだって、優しく手を差し伸べてくれるかみさまのような存在だ。
「あなたはよく、町の住人の相談相手になっていると聞きました。起こしたりしませんから、少し話しても良いですか」
 返事はない。当然だ。僕はそれに安堵し、深呼吸して、橙色に染まり始めた空を見上げる。
 この大勢に愛されるヒーローなら、誰にも言えなかった、僕の、僕だけの人生を言ってもいいような気がした。