「お前のおかげで、いい外出日になった。ありがとうな、忠之。できれば岡先生にも会ってお礼を言いたいんだが」
忠之が眼におびえを見せた。「親父に伝えるよ、お前が言ったこと」
「おれに万一のことがあったら、千鶴の相談に乗ってやってくれないか。洋子や修次のことも頼むな」
「わかった。わかったよ、良太」と応えた忠之の眼に涙がにじんだ。
良太は忠之の肩に手をおいた。「出雲に帰ったら皆に伝えてくれ、俺がいつも楽しそうにしていたことを」
「わかった、ちゃんと伝える。お前が千鶴さんと一緒にここに来てくれたこともな」忠之の声がふるえた。「お前がここで嬉しそうにしていたこともな」
「それじゃ、忠之。あとは頼むぞ」と言いおいて、良太は改札口を通った。
これで二度と忠之とは会えなくなった。そう思ったとたんに、忠之の前では抑えていた涙がにじみ出てきた。忠之には俺の分まで生きてもらいたい。千鶴のためにも洋子や修次のためにも、忠之には長生きをしてもらいたい。
階段のところでふり返ると、忠之が手をあげながら「りょうたー」と叫んだ。良太は忠之に向きなおり、帽子をかかげて永遠の別れをつげた。
千鶴と一緒に上りの電車に乗ると、上野での別れの時が強く意識され、良太はせかされるような気持になった。良太は千鶴によりそい、一夜を共にできたことの幸せと、千鶴に対する感謝の気持を、声を低くおさえて伝えた。
窓のむこうに広い焼け跡があらわれた。空襲によるそのような惨状は、各地の都市に見られるだけでなく、日を追うごとに増えてゆくはずだった。良太はあらためて強い疑念をいだいた。日本の敗北必至となったいま、政府や軍は何をしているのだろうか。戦争終結に努めなければ、この国はどこまでも荒廃してゆくばかりではないか。
千鶴が言った。「できたら一緒にあの家の跡を見たいけど、時間はないかしら」
たとえ焼け跡であろうと、あの書斎があった場所を見ておきたい。良太はあわただしく考えた。御茶ノ水で降りたなら、9時までにはあそこに着けるだろう。そこでしばらく過ごしても、上野駅の発車時刻に間にあうはずだ。
「いいことを考えてくれたな。時間があるから行ってみよう」と良太は言った。
二人は御茶ノ水駅で電車をおりて、浅井家の屋敷跡に向かった。
浅井家の大きな家は焼け落ちて、黒い柱だけが立っていた。書斎のあったあたりを見あげていると、書斎での千鶴とのことや、机の上のサザンカが思い出された。
サザンカが葉を茂らせていた場所には、数本の焼けた幹がならんでいた。その姿に引きよせられるようにして、良太は庭をよこぎった。
サザンカはすっかり焼けているように見えたが、根元のところに幾つかの芽がのびていた。
「なあ、千鶴。いつかまた、サザンカも芍薬もきれいに咲いてくれるんだ。戦争が終われば、家だって建てられるはずだよ」
千鶴が良太の肩に頭をつけた。
「ここに家を建てて、良太さんと一緒に暮したいわね」
良太は千鶴に腕をまわして、「生きて還ることができたなら、千鶴とここで暮らすことにするよ。あんな書斎のある家でな」と言った。
良太はあらためて屋敷の跡を眺めた。不意に悔しさがこみあげてきた。とうに終えるべき戦争を終えていたなら、この場所で千鶴との家庭を築けたものを。その千鶴に永遠の別れを告げて、俺は特攻隊で出撃しようとしている。
急いで上野駅に向かわねばならなかった。良太は千鶴をうながして屋敷跡を離れた。
道の曲がり角にさしかかったとき、良太は歩いてきた道をふり返ってみた。良太を見送りながら、千鶴が手をふっていた場所には、焼け焦げた木の幹だけが残っていた。上野駅へむかう道のあたりはすっかり焼けて、焼け野原がつづく景色は遠くまで見通せた。
駅につくと、良太は自分の切符とともに、千鶴のための切符を買った。三軒茶屋へ帰るための切符であった。改札を通ったふたりは常磐線のプラットホームへ向かった。
プラットホームで語り合ううちに、列車の発車時刻が近づいた。良太は千鶴の横によりそって、華奢な体に腕をまわした。
「千鶴、達者でな。お母さんたちに伝えてくれ、俺がこれまでのことに感謝して、お礼を言っていたとな」
千鶴の表情が変わった。「わかったわ、良太さん………」
「ありがとうな、千鶴。千鶴が居てくれてよかった」
千鶴が良太に向きなおり、眼をいっぱいに開いて言った。「私もよ、私は良太さんが居てくださるから幸せなの」
良太は笑顔を作り、「俺は千鶴の笑っている顔が好きだけどな」と言った。
「ごめんなさい、うっかりしてて」千鶴が笑顔をこしらえた。「良太さんに何度も言われてるのに」
良太はこわばったその笑顔にむかって、「やっぱり、笑っている千鶴がいいよ。それじゃ、行くからな」と言った。
忠之が眼におびえを見せた。「親父に伝えるよ、お前が言ったこと」
「おれに万一のことがあったら、千鶴の相談に乗ってやってくれないか。洋子や修次のことも頼むな」
「わかった。わかったよ、良太」と応えた忠之の眼に涙がにじんだ。
良太は忠之の肩に手をおいた。「出雲に帰ったら皆に伝えてくれ、俺がいつも楽しそうにしていたことを」
「わかった、ちゃんと伝える。お前が千鶴さんと一緒にここに来てくれたこともな」忠之の声がふるえた。「お前がここで嬉しそうにしていたこともな」
「それじゃ、忠之。あとは頼むぞ」と言いおいて、良太は改札口を通った。
これで二度と忠之とは会えなくなった。そう思ったとたんに、忠之の前では抑えていた涙がにじみ出てきた。忠之には俺の分まで生きてもらいたい。千鶴のためにも洋子や修次のためにも、忠之には長生きをしてもらいたい。
階段のところでふり返ると、忠之が手をあげながら「りょうたー」と叫んだ。良太は忠之に向きなおり、帽子をかかげて永遠の別れをつげた。
千鶴と一緒に上りの電車に乗ると、上野での別れの時が強く意識され、良太はせかされるような気持になった。良太は千鶴によりそい、一夜を共にできたことの幸せと、千鶴に対する感謝の気持を、声を低くおさえて伝えた。
窓のむこうに広い焼け跡があらわれた。空襲によるそのような惨状は、各地の都市に見られるだけでなく、日を追うごとに増えてゆくはずだった。良太はあらためて強い疑念をいだいた。日本の敗北必至となったいま、政府や軍は何をしているのだろうか。戦争終結に努めなければ、この国はどこまでも荒廃してゆくばかりではないか。
千鶴が言った。「できたら一緒にあの家の跡を見たいけど、時間はないかしら」
たとえ焼け跡であろうと、あの書斎があった場所を見ておきたい。良太はあわただしく考えた。御茶ノ水で降りたなら、9時までにはあそこに着けるだろう。そこでしばらく過ごしても、上野駅の発車時刻に間にあうはずだ。
「いいことを考えてくれたな。時間があるから行ってみよう」と良太は言った。
二人は御茶ノ水駅で電車をおりて、浅井家の屋敷跡に向かった。
浅井家の大きな家は焼け落ちて、黒い柱だけが立っていた。書斎のあったあたりを見あげていると、書斎での千鶴とのことや、机の上のサザンカが思い出された。
サザンカが葉を茂らせていた場所には、数本の焼けた幹がならんでいた。その姿に引きよせられるようにして、良太は庭をよこぎった。
サザンカはすっかり焼けているように見えたが、根元のところに幾つかの芽がのびていた。
「なあ、千鶴。いつかまた、サザンカも芍薬もきれいに咲いてくれるんだ。戦争が終われば、家だって建てられるはずだよ」
千鶴が良太の肩に頭をつけた。
「ここに家を建てて、良太さんと一緒に暮したいわね」
良太は千鶴に腕をまわして、「生きて還ることができたなら、千鶴とここで暮らすことにするよ。あんな書斎のある家でな」と言った。
良太はあらためて屋敷の跡を眺めた。不意に悔しさがこみあげてきた。とうに終えるべき戦争を終えていたなら、この場所で千鶴との家庭を築けたものを。その千鶴に永遠の別れを告げて、俺は特攻隊で出撃しようとしている。
急いで上野駅に向かわねばならなかった。良太は千鶴をうながして屋敷跡を離れた。
道の曲がり角にさしかかったとき、良太は歩いてきた道をふり返ってみた。良太を見送りながら、千鶴が手をふっていた場所には、焼け焦げた木の幹だけが残っていた。上野駅へむかう道のあたりはすっかり焼けて、焼け野原がつづく景色は遠くまで見通せた。
駅につくと、良太は自分の切符とともに、千鶴のための切符を買った。三軒茶屋へ帰るための切符であった。改札を通ったふたりは常磐線のプラットホームへ向かった。
プラットホームで語り合ううちに、列車の発車時刻が近づいた。良太は千鶴の横によりそって、華奢な体に腕をまわした。
「千鶴、達者でな。お母さんたちに伝えてくれ、俺がこれまでのことに感謝して、お礼を言っていたとな」
千鶴の表情が変わった。「わかったわ、良太さん………」
「ありがとうな、千鶴。千鶴が居てくれてよかった」
千鶴が良太に向きなおり、眼をいっぱいに開いて言った。「私もよ、私は良太さんが居てくださるから幸せなの」
良太は笑顔を作り、「俺は千鶴の笑っている顔が好きだけどな」と言った。
「ごめんなさい、うっかりしてて」千鶴が笑顔をこしらえた。「良太さんに何度も言われてるのに」
良太はこわばったその笑顔にむかって、「やっぱり、笑っている千鶴がいいよ。それじゃ、行くからな」と言った。