家族や千鶴が俺の境遇を知ったなら、死の恐怖におびえている俺を想像するにちがいない。俺はたしかに死を恐れているが、その恐怖心は想っていたほどには強くない。霊魂の実在を知っているからであろうか。それとも、俺は早々に諦めの境地に達したのだろうか。いずれにしても、このノートの中での俺は、苦悩することなく出撃しなければならない。このノートを読んだ者たちには、そのように受け取ってもらわねばならぬ。俺は日本の尊厳をかけて、そして自分の任務に誇りをもって、堂々と出撃しなければならない。このノートを通してそれが伝わるようにしなければならない。
日本の敗北で戦争が終わって、特攻隊員の戦死が無駄死だったとされたなら、残された家族たちには救いがないことになる。そのようなことにしてはならない。特攻隊員の戦死が無駄なものであろうはずがない。そのことをノートの中に明確に記して、遺された者たちの悲しみを和らげなくてはならない。
温習時間は間もなく終わろうとしていた。その夜は忠之に遺すノートに記すことにして、まだ新しいその紙面にペンをおろした。短い文章を記しただけで時間切れになったが、先ほど覚えた焦燥感は消えていた。いずれのノートにも、適切な言葉を遺すことができそうに思えた。
千鶴は日記をつけ終えると、書棚から芍薬と沈丁花の造花をとりだした。匂いをつけた造花を良太にわたす約束をしたので、空襲があろうと失ってはならない品物だった。千鶴は数本の造花をえらび、日記帳とともにリュックサックに入れた。
机のうえの水仙が、良太の振る舞いを思いおこさせた。良太は花瓶を引きよせると、手ざわりを確かめるかのように花瓶をなでていた。良太は会話の合間に書棚に近づいて、つぎつぎに書物を抜きだしては表紙をながめ、開くことなく棚にもどした。居間に移ろうとしたとき、良太はドアのところでふり返り、しばらく書斎を見まわしていた。
ふいに千鶴は不安になった。口付をしたあとの良太さんは、たしかにいつもと違っていた。あのとき、良太さんはやはり泣いていたような気がする。もういちど口付をしてもらい、どうにか安心できたけれども、きょうの良太さんには、どこかしらいつもと違うところがあった。良太さんたちが2階からおりてこられたとき、岡さんの様子が少しおかしかった。良太さんを駅で見送ったあと、岡さんはすっかり元気をなくされた。家に帰る途中で、岡さんは仕事のことで珍しくぐちをこぼされたが、元気をなくされたのは仕事のせいではなくて、良太さんのことが原因だったのではなかろうか。
千鶴は強い不安にせかされるまま、良太のノートをとりだした。このノートを見れば、きょうの良太さんがいつもと違っていた理由がわかるかもしれない。
千鶴は表紙に書かれた〈千鶴へ〉という文字を見つめた。千鶴はそのまましばらくノートを眺めていたが、開くことなくそれをリュックサックに戻した。良太との約束を破ることはできなかった。
千鶴は不安を胸にしたまま書斎をあとにした。
良太たちの訓練は続いて3月9日になった。その夜、良太が深い眠りに入っていると、東京の空が真っ赤に染まっているとの騒ぎ声があがった。
良太は仲間たちと士官舎を出て、すさまじい程に赤く染まった西の空をながめた。燃えさかっている東京の様が想われた。あの空の下には千鶴たちがいる。良太はひたすらに祈った。無事でいてくれ。生きのびてくれ。
B29が大挙して襲来したその夜、千鶴と母親は庭に作ってある防空壕に入った。ふたりがそれぞれ所持していたのは、リュックサックと風呂敷包がひとつづつだった。忠之には空襲に際しての役割があるため、トランクと鞄を防空壕に残して出かけていった。
やがて火の粉がしきりと舞うようになり、ついには近所まで火災がせまってくるに至った。ふたりが防空壕でおびえていると忠之が飛びこんできて、すぐにも避難すべき状況にあると伝えた。
3人は火勢に追われて逃げまどい、安全な場所を求めてひたすらに走った。どうやら助かったと思われたとき、風呂敷包はふたつとも消え、残ったのはふたつのリュックサックと忠之のトランク、そして忠之が大切にしていた鞄であった。
3人は夜が明けてから家の焼け跡に来て、煙をあげている残骸を茫然とながめた。
3人は焼け跡で食事をとった。良太から渡されていた菓子と水筒の水だけの朝食であったが、3人はどうにか元気を取りもどし、千鶴の祖父母がいる三軒茶屋を目指して焼け跡を離れた。
日本の敗北で戦争が終わって、特攻隊員の戦死が無駄死だったとされたなら、残された家族たちには救いがないことになる。そのようなことにしてはならない。特攻隊員の戦死が無駄なものであろうはずがない。そのことをノートの中に明確に記して、遺された者たちの悲しみを和らげなくてはならない。
温習時間は間もなく終わろうとしていた。その夜は忠之に遺すノートに記すことにして、まだ新しいその紙面にペンをおろした。短い文章を記しただけで時間切れになったが、先ほど覚えた焦燥感は消えていた。いずれのノートにも、適切な言葉を遺すことができそうに思えた。
千鶴は日記をつけ終えると、書棚から芍薬と沈丁花の造花をとりだした。匂いをつけた造花を良太にわたす約束をしたので、空襲があろうと失ってはならない品物だった。千鶴は数本の造花をえらび、日記帳とともにリュックサックに入れた。
机のうえの水仙が、良太の振る舞いを思いおこさせた。良太は花瓶を引きよせると、手ざわりを確かめるかのように花瓶をなでていた。良太は会話の合間に書棚に近づいて、つぎつぎに書物を抜きだしては表紙をながめ、開くことなく棚にもどした。居間に移ろうとしたとき、良太はドアのところでふり返り、しばらく書斎を見まわしていた。
ふいに千鶴は不安になった。口付をしたあとの良太さんは、たしかにいつもと違っていた。あのとき、良太さんはやはり泣いていたような気がする。もういちど口付をしてもらい、どうにか安心できたけれども、きょうの良太さんには、どこかしらいつもと違うところがあった。良太さんたちが2階からおりてこられたとき、岡さんの様子が少しおかしかった。良太さんを駅で見送ったあと、岡さんはすっかり元気をなくされた。家に帰る途中で、岡さんは仕事のことで珍しくぐちをこぼされたが、元気をなくされたのは仕事のせいではなくて、良太さんのことが原因だったのではなかろうか。
千鶴は強い不安にせかされるまま、良太のノートをとりだした。このノートを見れば、きょうの良太さんがいつもと違っていた理由がわかるかもしれない。
千鶴は表紙に書かれた〈千鶴へ〉という文字を見つめた。千鶴はそのまましばらくノートを眺めていたが、開くことなくそれをリュックサックに戻した。良太との約束を破ることはできなかった。
千鶴は不安を胸にしたまま書斎をあとにした。
良太たちの訓練は続いて3月9日になった。その夜、良太が深い眠りに入っていると、東京の空が真っ赤に染まっているとの騒ぎ声があがった。
良太は仲間たちと士官舎を出て、すさまじい程に赤く染まった西の空をながめた。燃えさかっている東京の様が想われた。あの空の下には千鶴たちがいる。良太はひたすらに祈った。無事でいてくれ。生きのびてくれ。
B29が大挙して襲来したその夜、千鶴と母親は庭に作ってある防空壕に入った。ふたりがそれぞれ所持していたのは、リュックサックと風呂敷包がひとつづつだった。忠之には空襲に際しての役割があるため、トランクと鞄を防空壕に残して出かけていった。
やがて火の粉がしきりと舞うようになり、ついには近所まで火災がせまってくるに至った。ふたりが防空壕でおびえていると忠之が飛びこんできて、すぐにも避難すべき状況にあると伝えた。
3人は火勢に追われて逃げまどい、安全な場所を求めてひたすらに走った。どうやら助かったと思われたとき、風呂敷包はふたつとも消え、残ったのはふたつのリュックサックと忠之のトランク、そして忠之が大切にしていた鞄であった。
3人は夜が明けてから家の焼け跡に来て、煙をあげている残骸を茫然とながめた。
3人は焼け跡で食事をとった。良太から渡されていた菓子と水筒の水だけの朝食であったが、3人はどうにか元気を取りもどし、千鶴の祖父母がいる三軒茶屋を目指して焼け跡を離れた。