「兵学校や士官学校などで鍛えられた奴は、植えつけられた価値観と、教えこまれた知識の範囲でしか考えることができないからだろうな。俺が聞いた話がほんとなら」
「そんな連中が国まで動かすようになって、あげくの果てがこのありさまだ」
「今となっては軍人に任せるしかないから、東条の後をついだのも軍人の小磯國昭だ。軍人が政治に口を出し始めたときに抑えなかったから、いま頃付けが回ってきたんだよ」
「オニカンノンみたいなひとはいくらでも居たはずだし、その意見に賛同する者だってずいぶん居たはずなのに、そういう人は非国民呼ばわりされたんだからな」
「国を護る専門家の軍人が、専門外の政治をにぎって、ほんとに日本のことを考えるべき人間は、出番が無くなったということだよ」
「残念ながら、まともな政治家の出番が無い国だよな、この国は」
「さらに言うなら、国民にも責任があるわけだよ。軍部の思うままに引きずられて、ここまで来たんだからな。戦争にはならんだろうと思っているうちに戦争になり、今ではこのていたらくだ」
「軍部に引きずられたと言うけど、くやしいことに、軍を支持した日本人も多かったじゃないか。オニカンノンみたいなひとを責めていた連中は、今ごろどんな気持ちだろうな」
 千鶴の声が聞こえた。「お食事の用意ができましたけど、お話はまだかしら」
 その声に応じて、良太と忠之は下の部屋に移った。千鶴と母親が心をこめて用意したものとはいえ、戦時下のわびしい昼食だった。
 日曜日にもかかわらず、忠之には大学での打ち合せに出席する予定があり、食事がおわると間もなく出かけることになった。
「真空管の試作が議題だけど、俺はまだ連絡係みたいなもんだよ」と忠之が言った。
 大学へでかける忠之を見送ってから、良太は千鶴といっしょに書斎に移り、並んで腰をおろした。
 千鶴は机のうえから良太の帽子をとりあげ、その内側を見ながら言った。「こんなふうに付けたのね、この造花」
「造花にはかわいそうだけど、そんなには傷まないだろ、そこに付けると」
 千鶴が帽子を顔に近づけて、「この帽子、良太さんの匂いがする」と言った。
 千鶴に腕をまわすと、千鶴は帽子を机に戻してもたれかかってきた。良太は千鶴の髪をかきあげて、眼を閉じている顔をながめた。千鶴は痩せたようだ。乏しい食料に耐えながら、千鶴は動員先の会社でがんばっているのだ。すべての老幼男女が歯をくいしばり、空腹に耐えながらがんばっている。それが今の日本の姿だ。
 千鶴が眼を閉じたまま、つぶやくように「良太さん」と言った。良太は千鶴の顔を見ながら抱きよせた。
 書斎でのひとときを過ごしたふたりは、いっしょに家を出て上野駅に向かった。
 不忍池を通り過ぎてしばらく進むと、道の曲がり角で千鶴が立ちどまり、歩いてきた道をふり返った。
「ここだわね、良太さんがふり返って手をふったのは。私はあの樹のところから、良太さんが見えなくなるまで見送ったんだわ」
 良太は千鶴の笑顔を見て、もう少し先まで千鶴といっしょに歩こうと思った。ふたりでいるところを、仲間に見せたくはなかったのだが、それよりむしろ、千鶴の気持を重んじたかった。
 空襲に備えた建物疎開が街並を変えていたけれども、その街では多くの庶民が日々の生活を営んでいた。行き交う人と家並を見ていると、空襲時の有り様が思いやられた。
 この辺りで千鶴と別れようと思っていると声が聞こえた。「よお、森山少尉」
 いつのまに現れたのか、道のむこうがわに佐山がいた。
「ちょっとあいつと話してくる」と言いおいて、良太は佐山に近づいた。
「メッチェンと並んでいる軍服が、どうやら貴様らしいと思ったから、安藤たちと離れて来てみたんだが、やっぱりだな、貴様にはメッチェンがいたじゃないか」と佐山が言った。
「俺が下宿していた家のひとだ。話題にされたくないから他の者には黙っていてくれ」
「心配するな。発車時刻を確認してきてやるから、あのひとと、この辺りで待ってろ」
 佐山が千鶴に声をかけた。「森山少尉の友人で佐山といいます。よろしく」
 千鶴は声をださないまま、ていねいに頭をさげた。
 足早に去って行く佐山を見送ってから、良太は千鶴のそばにもどった。
「海軍で俺がいちばん信頼している男なんだ。発車時刻が予定通りかどうか、駅で調べてきてくれるから、このまま、ここで待っていよう」
「もしも列車が遅れたら、どうなるかしら」
「空襲や故障で少しくらい遅れても大丈夫だよ。千鶴と会うときにも、そのための余裕を見てあるから」
 しばらく待つと佐山がもどってきて、列車が支障なく運行されていることを伝えた。時間にゆとりができたので、ふたりは不忍池のあたりを散策することにした。