意外なその言葉を良太は嬉しく聞いた。
「そう言われても、ちょっと気がひけるな」
「千鶴さんはお前のことを、これからは良太さんと呼ぶそうだぞ。お前が遠慮したら、かえっておかしいじゃないか」
「そうですよね、そのほうが呼びやすくていいわね」と千鶴が言った「岡さんは、忠之さんと呼ぶより岡さんの方が呼びやすいから、今までと同じにしましょうか」
「わかっただろ、良太。手順と方法が正しければ、何事もうまくゆく、というわけだ」
 口を開きかけた良太をさえぎるように、忠之が「あのな、良太、ここにはトーマス・マンやロマン・ロランもあれば、ヘーゲルだってあるんだ。お前が読みたいような本もあると思うぞ」と言った。
「大学の図書館を利用できるんだから、遠慮しておくよ」
「遠慮なさらないで。よかったら書斎に案内しますけど。隣の部屋の隣ですから」
 良太の知るかぎりでは、書斎のある家はなかった。書斎というものを見物できる、得がたい機会がいきなり訪れた。
 案内された書斎は、8畳ほどの広さで板敷だった。部屋の北側は一面の書棚になっており、個人の蔵書と思えないほどの書籍があった。その部屋は千鶴と妹の勉強部屋として使われているということで、東側の窓際に机がふたつ置かれていた。
「この通りだよ、良太。相当なもんだろう」と忠之が言った。
「父が集めたんですよ、これをみんな。私と妹があまり読まないものだから、この本たちが、読んでほしい読んでほしいと言ってるみたいです。岡さんや森山さんが・・・・良太さんが読んでくださったら本が喜びますよ、きっと」
 書棚にはさまざまな分野の書物があった。忠之が黙って指を触れた書物には、資本論という文字が見られた。
 書棚をひととおり眺めてから、良太は資本論に関わる書物をぬきだした。マルクス主義は国から敵視され、弾圧されていたけれども、一部の人たちからは強く支持されているらしかった。そのことに高校時代から興味を抱いていた良太は、好奇心にかられるままに、その書物を借りることにした。

 良太は忠之の下宿を頻繁に訪ねた。忠之が不在で会えないこともあったが、むしろそのほうが良かった。読書を名目に訪れていながら、それにましての楽しみは、書斎で過ごす千鶴とのひとときだった。ときには千鶴に求められるまま、良太は生れ育った出雲の風物や暮らしぶりを語った。千鶴から故郷のことを聞かれるたびに、良太は喜びを感じた。
 年末が近づいた日の夕方、ふたりが書斎にいると、外出していた忠之が戻ってきた。
「お邪魔してもいいだろ」と忠之が言った。「嫌われるようなことはしたくないけど」
「勘ちがいするなよ、忠之。俺たちはそんな仲じゃないぞ」
「岡さんにはそんなふうに見えるらしいですけど」千鶴が良太に笑顔を向けた。「良太さんには迷惑かしら」
 その声と笑顔を嬉しく思いながら、良太は「迷惑どころか光栄だよ」と言った。
「光栄だなんて・・・・はずかしいけど嬉しいわ、そんなふうに言われると」
 良太が胸を躍らせながら言葉を探していると、おどけた口調で忠之が言った。「嬉しいじゃないかよ、良太さん。俺の予感があたったじゃないか」
「いいかげんにしないか」良太は苦笑しながらも強い口調で言った。「飲んでいるようだな。どうしたんだ」
「じつはな」と忠之が話し始めた。