次の日、良太は浅井家に引っ越すための準備をした。家具がないので部屋をかたづけるのは容易だったが、ふだんの掃除をきちんとしていなかったことを思い、道具を借りて大掃除をした。そのあとで、出雲までの切符を買いにでかけた。徴兵検査のための帰省ということで、入手が難しくなっている長距離切符とはいえ、すぐに買うことができた。
その翌日、良太は下宿で借りたリヤカーを引いて浅井家に向かった。ふとんと代用机の他に荷物と呼べるものはないので、途中に長い坂があっても苦にはならなかった。
それまで沢田が暮らしていた部屋は、書斎に隣接する8畳の畳部屋だった。下宿の3畳半にくらべると、8畳の部屋はずいぶん広かった。
浅井家で用意された昼食をすませてから、良太は庭の畑で麦の種蒔をした。麦畑と呼ぶには狭かったけれども、浅井家に貴重な食糧をもたらすはずだった。
種蒔きを終えるとすぐに、良太は千鶴といっしょに書斎に入った。机の花瓶には菊の花が活けられていた。
「いいじゃないか、この菊。俺は好きだな、この色あいも花の形も」
「庭に咲く菊ではこれが一番好きなの。良かったわ、良太さんにも気にいってもらえて」
良太は椅子に腰をおろすと、ほとんど言葉を交わすことなく千鶴を抱きよせた。
ふたりは互いに舌を求めた。九月の夜に成りゆきでそれを経験して以来、その口付がふたりの習慣になっていた。
良太は姿勢を変えて千鶴をささえた。まだ喘いでいる千鶴のほてった身体を抱きしめたまま、良太は千鶴の匂いを求めて首すじに顔を近づけた。
その夕方、良太は夜行列車で出雲に向かった。
混雑する列車内の通路で、良太は本をかざすようにしながら読んだ。眼を休めるために顔をまわすと、少し離れた先に学生服姿があった。良太は思った。徴兵検査のために帰郷する学生だろうが、俺と違って東京に戻らないまま出征することだろう。俺は千鶴と俺自身のために一旦は東京に戻らねばならない。それからの限られた日々を、可能なかぎり有意義に過ごさねばならない。千鶴と一緒にどこかに出かけるのも良さそうだ。千鶴や忠之とのあいだに貴重な思い出を残したい。ふたりとも喜んで賛成してくれるに違いない。
良太は読書を続けることにして、本を眼の前にかざした。
帰郷してまもなく良太は徴兵検査を受けて、その日のうちに結果を言いわたされた。予想通りに甲種合格だった。
合格を告げられた時点で、良太は徴兵官に対して、海軍志望の意志を表明しておいた。
友人たちとの間では、陸軍兵営内での陰湿なしきたりがしばしば話題になった。そのような陸軍に対して、今でも軍隊内で英語が使われているという海軍には、多少なりとも知的な雰囲気がありそうに思われた。
良太が海軍を志望することに対して、両親はむしろ反対だった。龍一の戦死が海軍の危険性を強く印象づけていた。それでもなお、良太は自分の意志を通して海軍を志望した。アッツ島などでの玉砕を思えば、陸軍の方が海軍よりも安全だとは思えなかった。陸軍であろうと海軍であろうと、生還を期すことはできない状況にあった。
徴兵検査が終わってからも、良太は家族と生活を共にしながら、親戚や旧友さらには恩師を訪ねて語りあった。その間に千鶴と忠之には手紙を書いて、徴兵検査の結果と海軍を志望したことを知らせた。
生還できない場合のことを考えて、不要と思えるものはすべて処分した。龍一の遺書のことが思い出されたが、戦場にでてゆくまでには日数がありそうだったので、遺書を書くのは先送りにした。
その翌日、良太は下宿で借りたリヤカーを引いて浅井家に向かった。ふとんと代用机の他に荷物と呼べるものはないので、途中に長い坂があっても苦にはならなかった。
それまで沢田が暮らしていた部屋は、書斎に隣接する8畳の畳部屋だった。下宿の3畳半にくらべると、8畳の部屋はずいぶん広かった。
浅井家で用意された昼食をすませてから、良太は庭の畑で麦の種蒔をした。麦畑と呼ぶには狭かったけれども、浅井家に貴重な食糧をもたらすはずだった。
種蒔きを終えるとすぐに、良太は千鶴といっしょに書斎に入った。机の花瓶には菊の花が活けられていた。
「いいじゃないか、この菊。俺は好きだな、この色あいも花の形も」
「庭に咲く菊ではこれが一番好きなの。良かったわ、良太さんにも気にいってもらえて」
良太は椅子に腰をおろすと、ほとんど言葉を交わすことなく千鶴を抱きよせた。
ふたりは互いに舌を求めた。九月の夜に成りゆきでそれを経験して以来、その口付がふたりの習慣になっていた。
良太は姿勢を変えて千鶴をささえた。まだ喘いでいる千鶴のほてった身体を抱きしめたまま、良太は千鶴の匂いを求めて首すじに顔を近づけた。
その夕方、良太は夜行列車で出雲に向かった。
混雑する列車内の通路で、良太は本をかざすようにしながら読んだ。眼を休めるために顔をまわすと、少し離れた先に学生服姿があった。良太は思った。徴兵検査のために帰郷する学生だろうが、俺と違って東京に戻らないまま出征することだろう。俺は千鶴と俺自身のために一旦は東京に戻らねばならない。それからの限られた日々を、可能なかぎり有意義に過ごさねばならない。千鶴と一緒にどこかに出かけるのも良さそうだ。千鶴や忠之とのあいだに貴重な思い出を残したい。ふたりとも喜んで賛成してくれるに違いない。
良太は読書を続けることにして、本を眼の前にかざした。
帰郷してまもなく良太は徴兵検査を受けて、その日のうちに結果を言いわたされた。予想通りに甲種合格だった。
合格を告げられた時点で、良太は徴兵官に対して、海軍志望の意志を表明しておいた。
友人たちとの間では、陸軍兵営内での陰湿なしきたりがしばしば話題になった。そのような陸軍に対して、今でも軍隊内で英語が使われているという海軍には、多少なりとも知的な雰囲気がありそうに思われた。
良太が海軍を志望することに対して、両親はむしろ反対だった。龍一の戦死が海軍の危険性を強く印象づけていた。それでもなお、良太は自分の意志を通して海軍を志望した。アッツ島などでの玉砕を思えば、陸軍の方が海軍よりも安全だとは思えなかった。陸軍であろうと海軍であろうと、生還を期すことはできない状況にあった。
徴兵検査が終わってからも、良太は家族と生活を共にしながら、親戚や旧友さらには恩師を訪ねて語りあった。その間に千鶴と忠之には手紙を書いて、徴兵検査の結果と海軍を志望したことを知らせた。
生還できない場合のことを考えて、不要と思えるものはすべて処分した。龍一の遺書のことが思い出されたが、戦場にでてゆくまでには日数がありそうだったので、遺書を書くのは先送りにした。