忠之はバッグを持ちなおすと、千鶴をうながして拝殿に向かった。
「ご主人は千鶴さんよりも、たしか十歳くらい歳上だったよな」
「九歳。亡くなったときは88。歳をとりましたわね、私たちも」
 良太が生きていたなら、俺と同じ82になっている、と忠之は思った。22歳だった良太が特攻隊で出撃してから、すでに60年が経っているのだ。
「岡さんは若い頃と変わりませんね、話の途中でいきなり考えこまれるところ」
「あれこれと考えこむことが多かったからな、俺たちの世代は」
「あんな戦争があったばかりに、つらくて悲しい思いをたっぷりと味わった世代ですものね」と千鶴が言った。
 忠之は千鶴の心のうちを想った。千鶴さんは良太の戦死によって、悲しみのどん底に落とされたが、そこからはいあがって幸せな人生をつかんだ。千鶴さんの心のなかに、あの悲しみはどのような痕跡を残しているのだろうか。
「そんな俺たちは、心の底から戦争を憎んでいるわけだが、将来の日本人どころか、今の若い連中にとっても、あの戦争は歴史上のできごとなんだ。ずいぶん遅くなったが、俺たちがまだ生きているうちに」と忠之は言った。「良太が願った大きな墓標を作らなくちゃな。将来の日本人がいつまでも、反戦と平和を願い続けるうえでの象徴になるわけだから」
「それを眼にするだけで、日本があんな戦争をしたことを思い起こさせますからね。それに」と千鶴が言った。「二度と戦争をしてはいけないという私たちの気持ちを、将来の日本人に伝えてくれますからね。そのように願って作るんですもの」
「いまの憲法には、俺たちのそんな気持ちがこめられていると思うが、憲法がいつか改正されるようなことがあっても、戦争を憎む気持が伝わるようなものにしてほしいよな」
「いつまでも伝えたいわね、戦争を禁止する憲法が公布されたときに感じた、私たちのあの気持を。戦争というものが無くなるようにと祈った、私たちのあの気持を」
 ふたりは拝殿の前についた。忠之は千鶴とならんで立つと、足元にバッグをおいた。
忠之はかるく眼をとじ、心の内の良太に告げた。今日は千鶴さんといっしょに、大きな墓標の建立を願ってここにきた。お前が願ったそれを実現するためにも、ここを訪ねる者の姿を通して知らせたいのだ、戦争がもたらした悲しみが、今なお強く留まっていることを。この数十年、ひたすら前を見て走り続けてきた日本人に、あの戦争を振り返り、考えてもらいたいのだ。お前がノートに書き遺し、その建立を願った大きな墓標は、戦没者だけに限ることなく、戦争で犠牲になった者のすべてを追悼するためのものだが、それはまた、将来の日本人があの戦争について考え、戦争のない平和な世界を願い続けるうえで、大きな役割をはたすはずだ。千鶴さんがあらためてその気になったのだから、俺も諦めることなく、いっしょに頑張ってゆこうと思う。良太よ見守っていてくれ。
 拝殿の前を離れたふたりは、境内をしばらく散策することにした。
「良太さんと初めて会った日のこと、私は今でもよく覚えていますよ。あれから六十年あまりが経ちましたけど」と千鶴が言った。
「どういうわけか、あの日のことは俺もよく覚えてるんだ」
それは良太が忠之の下宿を訪れた日だった。忠之の脳裏にその日の情景がうかんだ。
「千鶴さんがお茶を持ってきたら、緊張した良太がいつもと違うしゃべり方をした。今となれば懐かしいよな、そんなことも」
「若かったわね、私たち。岡さんと良太さんが19歳で、薬専の一年生だった私がまだ18のときでしたもの」
「千鶴さんが部屋を出たあと、良太に千鶴さんの印象を聞いたら、良太はたったひと言、感じのいい人だと言った。そんな良太が、すぐに千鶴さんに夢中になったんだよな」
「もとはと言えば、岡さんが私の家に下宿してくださったからですよ。そうでなかったなら、良太さんと私が出会うこともなかったでしょうから」
「俺たちは同じ時代に生まれて、あんなふうに関わり合うという縁があったんだよ」
「そうかも知れないわね」桜を見あげて千鶴が言った。「私たちはあのような時代に生れ合わせて、あのように関わり合いながら生きたんですよね」
 いつのまにかふたりは歩みをとめて、桜の前に佇んでいた。千鶴の視線に誘われるまま、忠之は桜の梢に眼をやった。風が吹きぬけたのか、梢のあたりがいきなり揺れた。
 揺らめく若葉を眺めていると、良太の歌が思い出された。
   時じくの嵐に若葉散り敷くも桜な枯れそ大和島根に
 その歌は、良太が遺したノートに記されていた。その歌を詠んで間もなく、良太は沖縄の海をめざして出撃したのだった。

 千鶴が口にした「あのような時代」とは、昭和20年の敗戦に至る戦争の時代であり、荒廃した祖国を復興すべく苦闘した時代である。
治安維持法なる一法律が、思想と言論の自由をこの国から失わせることになった。政治への関与を強めはじめていた軍部が、いつのまにか政治そのものを動かすに至った。きな臭い匂いに気づきながらも、戦争が起こることなどよもやあるまいと思っていた国民は、巨大な渦に引きこまれるようにして戦争へ導かれ、ついにはその濁流にのまれた。
人々は激浪に翻弄されながらも懸命に生きようとした。森山良太と浅井千鶴そして岡忠之は、そのような時代に青春の日々を過ごした。